こんにちは、こんばんは。クルーザー班、3年、落合輝です。
近年テーマの壮大化が著しいこのリレーブログ。
今回、文学部でインド哲学および仏教学を学ぶ私に課せられたお題は、「人生の意味」。はて、これは本当にヨット部のブログなのか。そもそもこんな事をブログのテーマとして回すことは、いくら先輩が印哲とはいえ、無茶振りすぎないか(萩原くん?)
しかし、社会の積極的な共感が、不安の軽減ではなく苦しみの増大をもたらすような状況を見事に言い得た、彼の傑作ブログを読んでしまったからには、この遠大なテーマに対して、精一杯の答えを返すほかはない。誰も読みきれないほど長くなっても、質問が質問であるだけに責められはしないと信じています。
、、ところで入寮三年目にして初めて使ったエアコンからまるで蹲(つくばい)のようにポタポタと水が垂れるようになって既に1週間も経つのですがどうすればいいのでしょうか。(次回のブログのテーマかな、、)
「人生の意味は何か」
この問いを発する者は何を問うているのでしょうか。この問いの前で悩む者は、正にこの問いを立てたが故に悩むのではないでしょうか。実はこれは、意味の分からない問いです。
「人はなぜ存在するのか」
このように問い直したらどうでしょう。問いはより深遠になったようですが、まだ分かる問いです。これなら応答しようがある。なぜ存在するかという問いは、存在の根源的な原因に向けられたもので、これに答えるには、さらにその存在のあり方が問われねばなりません。
「人はどのようなあり方で存在するのか」
この問いに対しては誰しも何かしらの答えを返せるはずです。ものを食べて栄養を摂取して肉体を維持することで存在するとか、より単純で見たままに言うとすれば、人は歩いて眠って食べて考えて言葉を使い人と話し集団を作り子をもうけ…。どれもひとまずは正確と言えるでしょう。ではこれらのどこに根源的なものが存するのか。こう考えるとき、おそらく知的な人、知性のある人は、これらの様々な「事実」を意味のある体系として再構築することを試みるでしょう。結果としてあるものと、理由としてあるものを順序立て、より根本的な原因を探究します。
さて、このような方法による問いへの応答、探究はどこかで成就するのでしょうか。終わりはあるのでしょうか。
ある、と即答することは、思慮深い人にはできないでしょう。
ない、と断言するのも、しかし、むしろ安直かもしれません。
ここで注意すべき点は、人がこのように存在の仕方、実態を認識しようとするときに、観察し、観察された事物・現象に対して名前を与え、その上でその名辞同士の関係性を体系化し、分析・解釈するという段階を踏んでいることです。
名付けるという行いに、まずひとつ、迷いの種があるように思われます。名付けることは切り取ることです。所謂、分節化です。
人は言葉によって世界を切り分け、それとこれとの違いを論じ、違うものとして見るほどに強調される個々の事柄の関連性の分析へと踏み入りますーーー果てしない解釈の歩みを始めてしまうわけです。
全てのものは相互に影響を与えあい、お互いの存在に寄りかかることで初めてそのようにしてあることができていると仏教では考えられています。何一つとして独立した存在としてはあり得ないのです。しかし名付けという行いは、この真相に反する方向へ人を導いてしまいます。確かに「雲が浮いている」という言語表現は、ただ見たものを見たままに言ったに過ぎず、人にその状況その光景を伝えるにはそのように言うしかないのです。だからこのように表現すること自体に正しいも正しくないもなく、良い悪いもありません。問題なのは、ここに与えられた「雲」という言語表現、そこに内在する切り分ける意識が、言い表された対象から(世界において実際には有しているはずの)相互依存性を認識の上で失わせてしまうこと、別の言い方をすれば、それが独立して存在するかのように思い込ませ、あらゆるものとの関係性の中に埋もれていること(もはや「物と物との関係性」などと言い表すことも誤りであるような渾然一体の状態にあること)を忘れさせてしまうことです。観察して見えたままの姿あり様を表現するために、仮に当てられたに過ぎぬ言葉が、独立した実体を持つ存在を代表するものとして受け取られ、その前提で「世界を写した言葉」による世界の再構築と解釈が行われるのです。あるがままに見たものを表現しようとして発せられる言葉と、「実体を持ちそれ自体として存在するもの」を代表しているかのように誤解されて使われる言葉とを峻別すること。これが、言語的認識に依拠せざるを得ない人間が、自ら作り上げた迷宮に閉じ込められないために肝心なことだと考えられます。
このように見ていると、自分は「言語の分節化する働き(仏教用語では分別智)がつくりなした世界」を生きているに過ぎないのかと思い、全てが嘘もののように、つまらなく感じられるかもしれません。
ところが、よくよく考えれば、これもまた実際とは食い違う思い込みだと気づくはずです。私たちは日々食べものを食べて生命を保っていますが、何故食べ物によって生命が保たれるのか、消化されエネルギーが取り出されていると言いますが、それが本当のところどういうことになっているのか。日々細胞は生まれ変わっており、六年経つと身体中の構成要素が入れ替わるというが、一体何がどうなっているのか。更に、私たちは歩こうとか食べようとか思って歩いたり食べたりし、眠たいとか辛いとか感じて休んだりするが、「私」という意識はどこから来るのか。最も分からないのは、こんなにも本当のところはその出所の分からないものだらけの存在が、何故一定のまとまりを持って現にこのようにあり、そこに「私」という意識が備わっているか、という点です。
「自分」と言いながら、全く自らの分別智によっては明らかにされない存在として我々はある訳です。そして、そうである自己を「自分」と言って平然と受け入れて、私たちは日々生きているのです。
ブラックボックスという言葉があります。その意味するところを一言で述べれば、「中の仕組みはわからないけれど、すごい働きをしているもの」となります。その働きの結果は我々に認知されるが、それを成しているはずの主体が見えない場合、これを名付けてブラックボックスというのです。言葉とは面白いもので、対象を分節化して把握するものといったのに、同時に、或る機能の現れから遡って、分節化し得ないけれども存在するだろう何ものか、ただ「ある」としか言えないところに対しても、このように名を与えてしまうのです。ブラックボックスとは「何かわからないけど(ただ)あるもの」の別名です。
突き詰めていくと、世の中はブラックボックスだらけで、それは現代の正しさの基準である科学においても同様です。そしてブラックボックスの最たるものは「自分」です。こんなにも「分からない」存在。ブラックボックスが開かれ、その仕組みが解明されたかと思いきや、単により小さなブラックボックスが出てくるだけ。人間の分別智による探究はその繰り返しであるように思われます。どこまで分析しても「根元的な何か」は説明されないまま。しかしそれもそのはずです。世界には元々何の区切りもなく、全てが関連しており、一個として取り出して成り立つ存在などどこにも無いからです。一切は相互依存的で、まるで一枚の布のようなもの。固有の実体を持つものと想定してこの世の根源を探し求めても、どこにもありはしません。
ようやく、少しずつ、当初の問題に還ることにしましょう。もし言語的認識に依拠せざるを得ない人間が、無分別な(言語表現によっては把握されない)世界のあり方を「分かろう」としたら、どうすれば良いのでしょう。(いえ、ここまで来たら従来の意味で「分かり」はしないと、結論が出ているのですが。)現在のように、観察された対象に与えられた名辞を、真実ある世界に対応するピースと考えて再構成するやり方では不可能でしょう。本当のところは、直接「観る」しかないのではないでしょうか。まだ名付けていないものを観察して、ただそのように「ある」と知るように。
「観る」は「分かる」に先立ちます。
では人間の目の視覚が及ばない存在、物として固有の形を持たないような存在を「観る」にはどうすればいいのでしょうか。可能な方法は、私の考えるところでは、「自分の中に備わっているものとして気づく」ことです。或いは「繰り返し気づき続け、深いところに気づくことで、更に根源的なものを観る眼(気づく力)を養う」こととも言えるでしょう。正に「体得する」ということです。ここで気づかれ、体得されるものは、何度も言うように、分析的に知ることのできるものではなく、また人の物理的な目の視覚が捉えられるものでもありません。
いよいよ分かるということが分からなくなってきたでしょう。「分かる」ということの虚構性を問題にしているのです。「分かる」という錯覚を錯覚だと自覚するために、「観る」という次元から始めようと言う訳です。
自分の中に備わっているものとして気づいた今、「自分」が生きていることが、そのまま、その存在(概念や現象をも含む)がそのようなものとして「ある」ことでもあると知っています。「自分」がーーーたとえそれ自身が独立した実体を持つものではないとしてもーーーこのように存在すると認める(見・留める)ことができるならば、その存在もそれとして(ただ)ある、と認められるでしょう。これが直接「観る」ということです。そしてそのようにして「見えた」ものを、あるがままに言葉で表したならば、確かにそれは仮の表現には違いありませんが、単に虚構であると断じるべきものにはならないでしょう。
「人生の意味は何か」という問いを、私は「人はどのようなあり方で存在するのか」という問いに仕立て直しました。そしてこれに対する応答は、ここまで長々と述べてきた話によれば、ひとまず「何とも(言葉で示しては)答えようがない」または「そういうもの」となるでしょう。本当のところどうなっているのかは、生きること、純粋に、ただ生きることを通して観察し、自分の中に発見するのみです。各々が気づき、体得して初めて、明らかになるはずです。
宋の時代、ある禅僧に、師は問いました。
「軒先の水滴の音が聞こえるか」
禅僧はそれを聞いた途端、悟り、声にならない声をあげました。その理解したところを尋ねられた禅僧は、次のように答えました。
「簷頭水滴 分明瀝瀝 打破乾坤 當下心息」
簷頭(えんとう・軒先)に落ちる水滴の音が聞こえてくる。その音を聞いている自分自身にはたと気づいた時、天地を貫くようにして悟りの境地が明々白々に開かれ、不安だったことが払拭された。
禅の語録に伝わるこの話は、真理を知識として探し回っていてもだめで、自分自身の中に真理はすでにあるものだと気づいた時に、悟りが開かれる、という含意があると考えられます。(詳しくは駒沢大学の小川隆先生による『臨済録ー禅の語録のことばと思想』をご参照ください。)
私の状況で言えば、「房隅水滴」 分明瀝瀝 打破乾坤 當下心息、となるでしょうか。不穏で不安な世相ではありますが、ひたすらに、ただ生きることの尊さをかみしめて暮らしたいと思います。
次回は、沖縄育ちの2年マネージャー、仲田洋子さんに、これからクーラーで体が冷えて体調を崩しやすくなることを考え、
「暑さへの健康的な対処と、食欲がないときに身体を目覚めさせる方法」
を教えていただきたいです。よろしくお願いします。
3年 落合輝