先日の全日本インカレをもちまして引退となりました、スナイプクルーの神田陸人です。
LBの皆さま、監督、コーチ、家族、保護者の皆さま、そして、同期、後輩たち… たくさんの方々との日々の関わりの積み重ねのおかげで、無事に4年間のヨット部での活動を終えることができました。本当にありがとうございました。
東大ヨット部という部活動の中でヨットに乗らせてもらい、試合に出させてもらうということ、それは自分にとって、このようなたくさんの人々の思いを背負って戦うということでした。だから、負けていいレースなんてないし、達成しなくていい目標なんてないと思っていたし、最後の1年間はヨットが楽しいということよりもみんなの期待に応えることが自分の原動力になっていたのかもしれません。
そのような中迎えた全日本インカレは、470級17位、スナイプ級9位、総合12位と目標としていた総合入賞には遠く及ばない不甲斐ない結果でした。
レースが終わり、これまで支えてくれたみんなに申し訳ない気持ちと、自分は4年間で何を残せたのか、その答えを模索する自分がいました。
それでも、最後の円陣ミーティングの後、たくさんの後輩たちが駆け寄ってきて涙ながらに直接かけてくれた温かい言葉やアルバムの一人一人のメッセージの数々に本当に励まされ、自分がやってきたことは間違いじゃなかったと初めて4年間が報われた気がしました。
成績ももちろん大切だけど、部活として後輩たちに想いを託すことができ、この先もずっと続いていくチームだからこそ、これまでの日常の中で残すことができるものがある、そんなことを気づかせてくれて4年間に意味を与えてくれたみんなには本当に感謝しています。
普段から合宿をして、先輩後輩関わらず仲の良い東大ヨット部だからこそ、大会のような特別な時間だけでなく、何気ない日常にも花があり、ヨット部で過ごした全てがかけがえのない時間でした。
かなり長くなりますが、そんな4年間を振り返らせていただきます。
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2021年4月。
受験期もずっと筋トレを続けていたので、大学に入学してからも体を動かしたいと色々な部活の新歓に行っていました。高校の時にやっていたボート部の新歓は3月から行っていたし、レスリングとかまでも参加していました。それはそれで楽しかったけど、4年間を捧げる決断はなかなかできずにいました。
そんな中、4月の後半に出会ったのがヨット部でした。ヨットに乗れるのは一生に一度だという単純な興味で参加した試乗会。酔いやすかった自分にはヨットに乗ることはあまり楽しめなかったけど、どこまでも広がる葉山の海、そこで迎えてくれた海の似合うかっこいい先輩方、そして、なにより部のあたたかすぎる雰囲気に圧倒されました。家に帰ってから色々考えて、本気で4年間をヨット部で過ごしたいと思えました。ピンと来たら迷わず突き進むタイプなので、そこから入部まではスムーズだったと思います。
これが僕のヨット部人生の始まりです。
最初に同期が揃ったのは春インカレでした。まだ春インカレがどんな大会かもよく分かっていませんでしたが、新港のみん部屋でたまやをやりつつ、合間にはみんなで自己紹介とかをしていました。たまやの改造が少しずつ始まったのもこの時だったかな…
そして、いよいよ始まった練習。
八景島でホッパー練、たまに小網代でクルーザーにも乗りました。
この頃はなんといっても船酔いとの戦いでした。人一倍酔いやすかったので、ヨットでもレスキューでもすぐ酔って、その顔をみんなに笑われ、ハーバーバックを繰り返す日々でした。
特にクルーザーは、毎回10分くらい乗っただけでギブアップになってしまい先輩方には大変ご迷惑をおかけしました。
そんなこんなでクルーザー班からは声がかからなかった僕はディンギー班でスナイプクルーとなるわけです。
スナイプを選んだ理由は、ブームが高かったからです。スキッパーとクルーはそんなに深く考えていませんでしたが、ずっとみんなにスナイプクルーの体型だと言われていたり、新歓の時の担当が当時主将でエーススナイプクルーだった長岡さんだったりとそうなる運命だったのかもしれません。
初めての夏合宿。
といっても、まだこの頃はコロナが流行しており、合宿所には泊まることができませんでした。
一年生はシフト制だったので、週2~3日行って、ホッパーに乗ったり、スナイプに乗ったりしていました。
八景島から埼玉の家まで夜遅くに帰ってきて、また次の日の朝早くに家を出る、今考えたらハードすぎる日々です。
この時はコロナ禍でホテルが1泊3000円とかだったので、たまに近くのホテルに泊まることもありました。
それでも、毎日新しいことを吸収しながら、だんだんとヨットが上達していく日々は単純に楽しかったし、八景島の夜まで陸シミができる環境はクルーワーク上達にはとても役立ちました。
合宿半ばには、今は無き八景島→葉山の引っ越しがありました。
引っ越しは何回か経験しましたが、八景島シーパラダイスの中を洗濯機とか鍋を乗っけた台車とともに歩いたり、クラブハウスの土地の大量の草をむしったり、お菓子をたくさん食べながら城ヶ島を通って葉山までレスキューを回航したり…ヨット部に入っていなかったら経験できない思い出もたくさんできました。
そして、だいたい引っ越しの時には居眠りクラッシュとか蜂の巣詐欺とか(どっちも同じ人!?)いろんなハプニングが起きてバタバタしていたのも懐かしいです。
引っ越しは丸々2日間かかってその間練習ができなかったので、クラブハウスができて葉山でずっと練習ができることがどれだけ幸せか、改めて実感します。
葉山に移動したら、基本はレスキューでのサポートでした。
そして、あっという間に秋インカレ。
スナイプチームは苦しい展開が続き、4年生は引退してしまいました。
1年生の自分達が入り込める空気でもなく、先輩方の悔しい思いを横目で見ながら、インカレという舞台の大きさを初めて肌で感じました。
470チームは全日本に進んだので、最後の2日間は蒲郡に応援に行きました。
でも、行った2日間とも風が吹かずノーレース。
陸上で出艇と着艇を見守るくらいしかできませんでしたが、全国からたくさんの大学のたくさんの艇が集まり、あのインカレにしかない空気感を生で味わえたのは良い刺激だったし、そんな中出艇していく先輩方は単純にかっこよく、自分も将来この舞台で戦いたい、そんな憧れを抱きました。
代替わり後はとにかく動作練習をしていました。
八景島で午前中は丸々タックとジャイブ練習。自分は落水にビビって慎重派だったので、なかなか強風の飛びタックとかはできなかったけど、先輩たちは何回も丁寧に基礎練習に付き合ってくれました。
この頃は結構大吾さんと乗る機会が多かったです。
2個学年が離れたペアでしたが、なんかたまに小さな言い合いとかしつつも、走る時は走って個人的には結構いいペアだったと思います。
ところが、大吾さんがサポートに回るということで解散になりました…
年が明けて春合宿。
気づけば同期は5人くらい減っていました。そして、この代のスナイプクルーは自分一人に。
負けず嫌いな僕にとって、ライバルの存在は良い刺激でした。それがいなくなってしまい、自分との戦い。なかなか成長を感じることができず、苦しいことも多かったです。それでも、スナイプクルー不足だったので、1年生の中で自分だけ週5日、6日の合宿にフル参加、レスキューに乗る機会もなかったので、悩んでいる暇もなくとにかく海に出て練習をしていました。今考えるとこの時期にたくさん海に出させてもらえたのは幸せだったし、確実にスナイプクルーとしての土台を築くことができました。でもやっぱり、1日早く帰る同期を見送って、自分だけ寒い中もう1日練習があると考えるのはしんどかったなぁ笑。
春合宿の後半からはペアが固定になり、ほとんど千田さんと一緒に乗っていました。
この頃は今振り返ると結構反省していて、お互い自分のことに精一杯で、2人で上手くなる、艇を走らせるということにあまり向き合えていなかった気がします。
上3艇がどんどん成長していく中、自分達はそれについていけずどんどん離されていく感じがしました。それに、他のペアは4年生が就活などで抜けて配艇が変わっていることも多い中、僕と千田さんは全く休むことがなかったので、常に固定。課題は解決されないまま新しい課題が積み重なる日々でした。
迷惑をかけてばかりでも文句ひとつ言わずに未熟な僕と一緒に乗り続けてくれた千田さんには本当に感謝しているし、毎日違ったお菓子を持ち寄って気持ちの切り替えに食べたり、いろんな話で盛り上がったり、苦しい中に楽しいこともたくさんありました。
春合宿も終わり、新歓がスタート。
テント列に行き、試乗会をして、その合間を縫って練習をしていました。
そして、六大戦。
この日は僕は新歓をする予定でしたが、Qちゃんが体調不良になって、前日に大野さんから電話が入りました。
明日出ることになりそうだから覚悟しておけ、みたいな内容だったと思います。
結局1日目のレースに出ることになり、大野さんと初めてのレースです。
なんやかんやそこそこ前は走っていたと思います。あとはみんな知っている通りです…
この時は自分が弱かったと反省しています。自分と大野さんが思っていたより事は大きくなり、たくさんの皆さんに迷惑をかけてしまいました。
真摯に向き合ってくださった当時の4年生はじめ、大野さんごめんなさい。
ただ、それまで存在すら知らなかったバーバーホーラー(もう今は東大にはないです…)の使い方が分からず爆発したのだけはまだ納得いってません笑。
そんなこんなで迎えた春インカレ。スナイプチームは予選からの参加です。
3番艇スキッパーの不在により、千田さんと出場することになりました。
予選はまずまずの結果で、そのまま決勝1日目も出場することに。
初めて東大のビブスを着て臨む公式戦、かなり緊張しました。
セールのシバーする音が響き渡るD旗掲揚までの時間は本当に落ち着かなかったですが、同期がずっとそばにいてくれて、先輩方も優しい言葉をかけてくれました。
3レースやってどれも20~30番台。関東インカレとはいえ、まだまだ高い壁でした。
そんな状況を見て、次の日の朝大野さんが颯爽とやってきて復活しました。
悔しい思いを託し、2日目はサポートに回りましたが、みんな最終的には得点をまとめてくれて助かりました。
春インでレースに出ないと分からなかったこともたくさんあったし、2年生のうちから海でレースの緊張感を味わうことができたのは本当に恵まれていました。
春インが終わるとフリートや関個があり、あっという間に時間が過ぎていきました。
初めて後輩を持ち、八景島での新入生練習を見にいくこともありました。
僕が新入生練習に行った時は、レスキューが僕一人と1年生、そこには新しく入ったマネージャーも何人か乗っていました。
そんな中で激しい雷雨に。近くで雷が落ちまくり、風が入ってきて、雨で視界が悪くなる…レスキューの1年生には大丈夫とか言いつつも、これまで経験したことのない状況に内心はかなり焦っていました。いろいろ騒ぎながらホッパーを曳航して無事に着艇。
2年生入部したひろなりがスナイプクルーになり、そして新入生も加わりスナイプチームも賑やかになりました。
そして、中静とかいまぽとかの同期スキッパーと乗る機会もたまにありました。
いまぽと乗った回数はあまり多くなかったけど、コース練で一上をいい順位で回った記憶があります。
この頃でもレースになると熱くなっちゃう僕はその日もいろいろうるさくていまぽと配艇NGになりかけました…
でも同期と試行錯誤しながら一緒にヨットに乗れるのは楽しかったです。ありがとう。
初めての七大戦。
東北大学の主管だったので、仙台に行きました。
海には出られなかったけど、陸でいろんな交流ができました。
七大戦の後はしばらくのオフを挟み、今は当たり前となったマネ感とファミリーデーのイベントがありました。
この時、ファミリーデーはコロナ明け久しぶりの開催で、部員が誰も経験したことがなく一から作り上げる必要がありました。
なぜか2年生が主導することになり、僕と成相、中静、友成で必死に考えたのを覚えています。
八景島での開催でしたが、たくさんの家族が実際に足を運んでくれて、改めて家族のサポートを実感しました。
そして、ここで築いたファミリーデーが年々受け継がれ、たくさんの人が参加してくれる恒例行事となったのも嬉しい限りです。
2年目の夏合宿。
最初は育成期間ということで、西尾さんとか普段あまり乗ってこなかった人と乗らせてもらいました。
でも、山中寮事件により、その機会も一瞬にして奪われることになります。
山中寮事件については、くだらな過ぎてあまり真相を話してきませんでしたが戒めとしてこのブログに残すことにします。
ヨット部員は毎年1年生が東大の山中寮のスタッフとして派遣されます。
コロナ禍で前年の派遣がなかったので、2年生の僕たちもこの年に順番に行くことになりました。
山中寮には手漕ぎのボートやヨットがあり、山中湖で遊ぶことができます。
そこで、高校時代ボート部だった僕は調子に乗り、その場に一緒にいたゆうた、市毛、五熊に手漕ぎボートでの勝負を挑みます。
一人ずつボートに乗って、スタートからゴールまでのタイムを競うタイムアタック形式。
絶対に負けられない戦いだったので、自分は立ち漕ぎで思いっきり漕いでスタートをしました。
ところが、スタートをして割と早い段階でコケて、手を変な風についたのか右手中指に違和感を抱え、ゴールすることなく途中棄権となりました。
その時は捻挫したくらいに思っていたのですが、次の日の朝に痛みが増していたので、部屋の掃除の仕事をサボって、自転車で50分くらいのところにある病院に行きました。結果、剥離骨折。早くて全治1ヶ月くらいと言われ、右手の中指はガチガチに固定されてしまいました。
当時は金髪で、右手の中指が包帯ぐるぐるで固定されている様子はかなり異様だったので、会うたびにみんなにどうしたのか聞かれましたが、こんなことを言えるはずがないので、部活で怪我をしたということにしていました。本当にバカでした。ごめんなさい。
そこからは、基本的にレスキューで練習のサポートをしていました。
サポートに回った大吾さんと一緒に乗っていましたが、ここでも小さな言い合いをしていた気がします。
マークの打ち方とか、どっちが運転をするかとか…笑。でもやっぱりなんやかんやいいペアでした。
ヨットに乗ることなく夏合宿が終わり、秋イン。レースには出られなかったけど久しぶりの両クラス全日本が決まり、一安心しました。この時は記念パンフレットの作成を依頼され、レースメンバーの紹介とかが載ったパンフとクリアファイルを作りました。この経験は後のこだわり詰まった新歓パンフレットにだいぶ生きました。
怪我もほぼ治ってようやくヨットに乗れるようになり、すぐに迎えた全日本インカレ。大会の1週間前くらいから前入りしました。
基本レスキューでサポート。プレレースのフリートには1レースだけ出た気がします。これが初めての他水域でのセーリングでした。
全日本インカレはレースに出ることなく終了。ただ、みんなが前を走る姿をレスキューの上で見させていただきました。スナイプは5位入賞。シンプルにかっこよかったです。
4年生が引退され、代替わり。
1週間後には琵琶湖に再び戻って、スナイプチームはミックスジュニアに出ました。
3日間あってまさかの1レース。その1レースもかなりの微風の中、大野さんと久しぶりに乗りました。
レースはほとんどできなかったけど、みんなでエアビに泊まって楽しい思い出です。
その後は八景島で練習。
この期間から天野と遠藤と乗ることが多かったような気がします。
天野と出た懐かしの八景レースもこのとき。レイラインでもずっとマークを見るな、テルテールを見ろって言っていた気がします笑。そのおかげか10番くらいでフィニッシュできました。
その次の日かなんかには北風爆風で天野と10回近く沈しながら帰ってきました。4年間で海がいちばん怖かったのはこの時かもしれません。
春合宿になり、ペア固定が始まったら中静とひたすら乗っていました。
この時は中静は常に戦友という感じで、いい意味でお互い干渉しすぎず、2人で探り探りながらものびのび成長させてもらいました。
京大留学にも一緒に行きました。
終わったあと1日大阪に延泊してお花見しながら昼飲みをしていたのはここだけの話。
そして、新歓、春インが終わり関個。
この時の関個はかなりの思いがありました。代の始まりの大野さんとの面談でも中静と同期未経験ペアで全個に行くと話していた気がします。4年生同士になったら一緒に乗れないというのはある程度分かっていたし、3年のこの時がラストチャンスのつもりで挑みました。
2日目のレースは正直微妙でした。
自分たちは全個にいけないと思っていたので、もう1レースなんとかやって挽回したいと思っていましたが、始まったレースはノーレースに。
2人で落ち込んでいました。
ところが、バーバーバックをしているとレスキューが近寄ってきてニヤニヤしながら全個に行けるといわれ、2人で喜びました。もっと早く言ってくれれば…
7月には東大主管の七大学戦がありました。僕と中静はレースに出ることなく、東大と京大スナイプの優勝争いを観戦していました。最終的には見事に勝利しましたが、同じレスキューに京大がいたせいであまり喜べませんでした。
ファミリーデー、マネ感が終わり、3度目の夏合宿。
ここでも基本中静と乗っていました。
途中に新クラブハウスへの引越しとかもしつつ、あっという間に全個へ。
3艇で行けたので、みんないて賑やかで楽しかったです。
そして何より、最終的には色々あって3位にはなったものの、中静と1上2上1位という最高の景色を見れたことは鮮明に記憶に残っています。
その後はとにかく練習の記憶しかないけど、秋インカレでスナイプは準優勝。
燃えました。ただ、両クラスで全日本に行けなかった。総合で戦うことの難しさを実感しました。
全日本インカレは福岡の小戸。
11月とは思えないほどとにかく暑く、風がありませんでした。
3艇ともなかなかスタートが出れず、パッとしない展開が続き、最終的に14位。
もっともっといい結果で4年生を送り出したかった、それに尽きます。
全日本に向けて1年間挑んできてもこんなにあっけなく終わってしまうものなんだ、当たり前だけどそんな現実を突きつけられた気がします。でもここでの悔しさは今年秋インが終わり全日本を迎えるにあたって、確実に意味のあるものになりました。
前半飛ばしすぎたのか、段々と内容が薄くなってきてしまったような気もします…
ここから最後の1年間。気合い入れていきます。
代替わり後は例のごとくミーティングが続く日々。話せば話すほど、考えれば考えるほど方向が定まらなくなり、やっぱり4年生は大変でした。
そして、技術的にもスナイプは中静以外のスキッパーがレースにほとんど出たことがないのはもちろん、まともにセーリングができない状態。とにかくボトムアップが必要でした。
そんな状況で、もちろん中静神田は解散し、それぞれ別々に下級生と乗り続ける日々が始まりました。
4年生クルーとして後輩スキッパーと乗って練習すること、自分の想像していたほど簡単なことではありませんでした。
思うように艇が走らず、コース練でも後ろばかり走る日々。悔しさと4年生としてなんとしても走らせなければいけないというプレッシャーを強く感じる時もありました。
ヨットに乗ったらとにかく自分の感じていること、気づいたこと、船のパワー感、セールシェイプ、風…どんなことでも常にスキッパーに伝え続けることを意識していました。なかなか前を走れない焦りととにかくスキッパーに上手くなってもらいたい、その強い思いから細かいことを言いすぎて頭をパンクさせてしまったり、厳しいことを言いすぎてしまったりすることもありました。
その度に小松さんの「何度でも優しく丁寧に」という言葉が胸を突き刺さり、反省。
当たり前だけど、4年間で怒って船が早くなることはありませんでした。
課題が多ければ多いほど時間が経つのはあっという間で、春合宿も一番短く感じました。
春合宿の間には葉山で東北大戦がありました。
北風のそこそこ強い風で天野と出場。
良いところを走っていると思ったら最後の下マーク前で沈をしたり、上マーク回航後のベアで沈をしたり…
それまで少しずつ練習で実力がついてきたと思っていましたが、まだまだだと現実を突きつけられました。
その後も天野と練習を続け、春合宿があっという間に終わると、最後の新歓に。
でも、部員が増えたおかげでありがたいことに裏でほとんど練習をさせてもらいました。
下級生が積極的に新歓を進めてくれて、たくさんの部員を入部させてくれると同時に、自分たちは春の一番大事な時期を練習に集中できる、こんな恵まれた環境を作ってくれたみんなには本当に感謝しています。
でもたまに新歓に行くと、新入生の初めてヨットに乗った表情を見て、ヨットを楽しむということを忘れていた自分に気づき、何か大切なことを少し取り戻せたような気がして…それはそれでいい刺激でした。
迎えた春インカレ。
2日間とも爆風予報でした。
あの東北大戦が蘇り、天野とのスターティングは正直不安でした。
でも、1日目海に出てみると思っていたよりも風がなく、これならいけると思いました。
走りは天野に任せ、自分は天野の走りやすいコース展開を意識。
そして、いまスピードいいよーと褒める時は褒めて伸ばす笑。
1レース目は10位でした。そのまま天野と2レース目も出て12位。3番艇としては十分すぎる結果でした。
ここで宮川さん采配により、天野は一旦休憩で遠藤と乗ることに。
風が少し上がっていたので、体重が重くなり安心感がありました。
1上は15番くらいだったけど、レイラインで慶應2艇に挟まれ、プロテストされました。
2回転して、フィニッシュは30番くらい。レースで前を走ることは絶対スキッパー1人1人の今後にとって重要な経験になると思っていたし、ケースで順位を落としてしまって遠藤を走らせられなかったことに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
3レース目が終わるころにはかなり風も吹き上がっていて、これはもう一度遠藤とリベンジするチャンスだと思っていたところ、まさかの天野と交代。
心の中では、おーまじかと思っていました。でも、もうレースはすぐ始まるのでやるしかない。
スタートしてみれば、天野はメイントリムを頑張ってくれて、自分はハイクアウトとコースに集中して、意外とスピードも悪くない。
強風の中でも、いつも通り、そして何より2人で楽しくヨットレースができました。
ランニングではとにかく沈をしないように、めちゃくちゃ後ろに乗っていました。最後のリーチングでもラフコースで1艇抜いて、結果は13位。
今までだったら沈ばかりでまともに走れていなかったであろうコンディションでしっかりと走れたこと、天野にとっても自分にとっても大きな自信になりました。
出艇の時には地獄のような顔をしていた天野もハーバーバックの時には緊張から解放されたのか、すごく嬉しそうに喜んでくれて僕も嬉しかったです。
レース2日目は遠藤と組むことに。
少々攻めのスターティングだったと思うし、今後のチームのためにも遠藤を走らせてほしいという雰囲気をコーチ陣からも感じていました。
そして何より落ち込んでいた遠藤のためにも必ず走らせないといけない、そんな使命感でレースに挑みました。
重量級の僕らにはありがたいことになかなかの強風の中、フィニッシュ8位。それまで関東の舞台でシングルすらほとんど取ったことがなかったのに、この春インで遠藤と8位でフィニッシュ出来たのは本当に嬉しかったです。
次のレースはさらに風が上がり、スナイプは限界の風。クローズではみんなメインシバーしているし、ランニングでは前の船がどんどん沈をしていなくなる…自分たちはとにかく安全に落ち着いてレースをして、19位でフィニッシュでした。
2日間強風の中6レース、スナイプチームで自分だけフル出場しました。正直しんどくてレスキューが来る度にやっと交代かと思っていましたが、変わるのはスキッパーだけでした。それでも、そのしんどさが報われるくらいみんなが頑張ってくれました。天野と遠藤は初めての大舞台での緊張、4年生を乗せるプレッシャー…いろんな思いがあったと思うけど全力を出し切ってくれて本当にありがとう。
ゼロからみんなで積上げてきたからこそ、6位入賞は大きな宝物です。
春インが終わると個人戦。
最後の全個を目指して、ここでも天野と組むことに。
ビッグフリートでの戦い方は難しかった。
スタートで埋もれてしまいなかなか前に出てこられない苦しい展開が続き、真ん中の同じような順位を取り続けて、ボーダーには遠く届かず終わりました。
天野と2人で江ノ島からの帰り道いろんな話をしました。自分としてはこの時の2人の実力は出し切ったと思います。単純に全個はまだまだ遠かった。だから、そんな責任を背負わないで、来年この悔しさを爆発させてね。
そして、蒲郡での七大学戦。
ここでも天野と出ましたが、インカレとはまた違ったタクティクス重視の戦いに翻弄され、チーム全体的にそんなはずじゃない苦しい展開に。スナイプチームは最下位の7位になることもあり、1レグだけで1位から7位がごちゃ混ぜになるような稀に見る接戦。
そんな中2日目は陸上でのサポートでスタート。ハイエースの中で応援していたところ急に電話がかかってきて、突如レースに出る流れになりました。
どっかに遊びに行きそうになっていた天野を引き戻して海に出てレースに参加。
470チームの安定感におんぶ抱っこでしたがとにかく迷惑をかけないようストラテジーを大切に1艇ずつ着実に上げることを意識しました。
結果、長年達成出来ていなかった総合優勝。本当に470のみんなに救われました。同時に、総合で戦うことの素晴らしさ、喜びを心から感じることができました。1年生の時の全日本で早稲田が優勝した時に写真を撮っていた覇者の階段でみんなで写真が撮れたのもいい思い出。
最後のマネ感、ファミリーデー、そして、今年は初めての応援部試乗会がありました。
前日に相川と土壇場で準備した結果、良問の並ぶクイズ大会が完成し盛り上がりました。
遠藤とはレスキューに乗って、ひたすらジャングルクルーズごっこをしていました。
応援部のみんなに感謝を伝えることができ、楽しんでもらえた様子だったので良かったです。
夏合宿も天野、遠藤を中心にひたすら後輩たちと練習していました。
そして、枠が降りてきた全日本スナイプに天野神田、はんとひろなりの4人で出場するために、鳥取遠征にも行きました。
風が安定せず、風待ちの時間が多く、天野とDuetというゲームでずっと小競り合いをしていました。
レース自体は風の振れの大きく、ブロー差も激しい非常に難しい海面で、走りもコースもなかなかうまくいかず、あまり冴えない結果となりました。
天野と久しぶりのレースで、レース海面からハーバーまで結構長い時間あったので、言いたいことが溢れていた気がします。
シンプルに楽しもうと思っていたんだけど、やっぱり熱が入っちゃいました…
葉山に戻って、再び練習。
ここで山中寮事件以来の事件が勃発しました。
天野とのコース練で、下マークを回った直後ハイクアウトをしようとしたところ、ベルトに足がかかっておらず、落水。
その時にふくらはぎを打って違和感を覚えました。
小松さんと早稲田の人たちが目の前で見ていたので恥ずかしかったですが、レース中だったのでとりあえずすぐ乗って再開。
ハイクアウトしていても片足がおかしい感じがしたので、帰って病院に行ったら肉離れでした。
またしょうもない怪我をしました。ごめんなさい。
そういうことで、2週間弱レスキューで練習を見て、秋インには余裕を持って復帰できました。
秋六大は遠藤と出ました。
上レグで戦えても下レグで落としていき、なかなかスタートから前に出ていけない展開で想像していたよりも難しいレースとなりました。
秋インまでわずかで少しの不安も残りましたが、予選裏の限られた時間で課題を一つずつ潰すしかありませんでした。
迎えた秋インカレ。
1レース目はレスキューでスタート。
久しぶりのレスキューでの出艇だったので、レースを外から見るのは楽しく、あまり緊張しませんでした。
スナイプチームは1レース目からだいぶ苦しいレースとなってしまい、2レース目から出ることになりました。そして、まさかのはんととでした。
これまでほとんど一緒に乗ったことが無くて、あまり想定してなかったですが、2人でコースプランとかをたくさん話しながら乗りました。
2レース目14位、3レース目8位。まずまずの結果でした。
迎えた2日目。
いろいろあって配艇がゴタゴタ変わった末、結局天野神田でスターティング。
あまりレースの内容は覚えていないけど、4レース目を26位でフィニッシュ。もう少し前に行きたかった、いや、天野とならいけたはず。
多少の悔しさは残りつつも、天野はこの後三上と同期ペアで走ってくれたので良かったです。
5レース目はようやく正規ペアの遠藤と。
遠藤の初めての秋インカレのレースをなんとしてでも走らせる必要がありました。でも、変なことを考えずいつも通りに、走りは遠藤に任せて自分のやるべきことに集中します。
1上2位、2上でも確実に2位をキープし、フィニッシュ3位。すごく嬉しかった。六大での悔しさも晴らすことができました。
6レース目も遠藤と出て、14位。十分に役割を全うしてくれました。
この日の審問で、エントリーミスにより1日目の市毛の2レース分がDSQに。
いろいろ思うところはあったけど、とりあえず最終日のレースで取り返すしかない。
しかも、最終日はその市毛と乗ることになったので、夜市毛に喝を入れて、気持ちを落ち着かせて就寝しました。
思えば春インでも秋インでも、絶対に走らせないといけない場面で自分にパスが回ってくる、みんな簡単なように配艇を組んでいたけど、自分の責任はあまりに重かったし、プレッシャーもありました。でも、自分はそのプレッシャーのおかげで走ることができていたのかもしれません笑。
市毛ともほとんど一緒に乗ってこなかったけど、お互いの役割をそれぞれ全うし、7レース目4位、8レース目9位。
2レースともシングルでまとめることができました。
春イン同様、他の大学ではありえないくらい配艇をゴロゴロ変えたスタイルで、スナイプは4位入賞。
サポート含めてみんなで掴み取った4位。それでも悔しさは残りましたが、その悔しさはここで終わりではなく、全日本に向けて気合いを入れるきっかけになったのである意味良かったと思います。
個人的には、はんと、遠藤、市毛の3人とシングルを取れたこと、そして、春インは6レースでて平均が15.8点だったのに対し、秋インでは7レースでて平均11.1点とここまでの練習の成果が数字に現れ、チームに貢献できたので嬉しかったです。
何回か葉山、そして江ノ島で練習した後、プレレースがあり、全日本インカレの開幕まではあっという間でした。
レース1日目。
市毛とスターティングで出艇。
風が弱く非常に不安定でした。
それでもレースは始まり、スタートから埋もれてしまい、風も後ろの方には入ってこずどんどん前と離される展開に。
2上とかはもう止まっているんじゃないかというくらい、船を走らせるのに一苦労でした。
それでもレースは進み続け、先頭が2下に近づいたところでようやくノーレースに。
救われました。ただ、470はレースが成立してしまい3艇DNF。最後の全日本インカレなのに、風はこんなにもいじわるなのかとなかなか受け止められませんでした。
そのあとは風待ちをした後、結局レースはできずに終了。総合入賞を目指す東大ヨット部にとって、非常に苦しいスタートになりました。
その日は、自分はまだレースすらしていないのに、いきなりインカレの壁を突きつけられた気がしてあまりの無情さになかなか落ち着かずにいました。
それでも、合宿所に戻ればみんなが元気ないつもと変わらぬ日常があって…いろんな気持ちが複雑に交差しながら就寝しました。
レース2日目。
この日はそこそこの風で朝からレース日和でした。
ただまだ気持ちを切り替えきれず、少々ピリピリしていました。総合入賞への思いから背負わなくていいものまで背負いすぎていました。でもあっという間に出艇してレースが始まり、後ろの方でフィニッシュになりました。内容は良くなかった。何より、自分のやるべきことに向き合えていないのがよく分かっていたし、それでもどうにもならずしんどかったです。
気持ちの整理のため、一旦自分から交代をお願いして、レスキューに乗りました。
急に乗ってもらうことになったいろは、そして一緒に乗ってくれていたのに不甲斐ない形で終わってしまった市毛には申し訳なかった。
レスキューに乗ったら、自分の情けなさと戦いつつ、次のレースまでには切り替えようとレースを見ながら我を取り戻していました。
そんな中、いまぽが西尾さんが事前にいろんなメッセージを書いていたキットカットから一つ選んで渡してくれました。「目の前のことに集中」みたいなことが書いてあったと思います。
その通りすぎて、少々笑みがこぼれて励まされました。ありがとう。
3レース目から復活し、結局天野神田になりました。
スタートから苦しく、その後少しずつ上げたもののパッとしない真ん中くらいの順位。
この日はこれでレースが終わりました。
次の日は、市毛と再チャレンジ。
いろんな人がたくさん応援に来てくれていたので、気持ちも切り替えられいつも通り出艇を迎えられました。
ただ、いざ出艇となると爆風。非常に危ない出艇となってしまい、私服の1年生が肩くらいまで海に浸かって助けてくれました。
着替えもなかったのに文句一つ言わず一目散に海に入ってきてくれて本当にありがとう。
頑張って出艇してレース海面に向かっていたところ5分くらいした後にAPH。一旦帰着しました。
その後はしばらく風待ちをして、風が落ちた後に再出艇をしました。
始まった4レース目はスタートはそこそこ決まったものの、反対海面が伸びて上マークでは真ん中くらいまで落ち込んでフィニッシュ。
レース後にはスタート後のケースでDSQをつけてしまいました。
もう何をしても宮川さんは優しい言葉しかかけてくれません。引退が迫っていることを実感しました。
そんなこんなで、次のレースは中静神田の4年ペアで挑むことに。
去年はあんなに一緒にいたのに、今年は初めてのレースです。
スタートはかなり置いていかれたものの、二人でブローを見ながらしっかり伸ばす展開でどんどん追い上げて、フィニッシュは14位。
4年生ペアとして意地の追い上げでした。レース中もそんなに緊張感なく2人で話しながら笑顔で楽しめました。
3年生の時よりはお互いの信頼感も増していたかな。
そして、いよいよ最終日。
もうここまで来たら1点でも少なく、1つでも上の順位を目指してやり切ることしかありません。でも風がなかった。
南風を待つということで、陸での風待ちスタート。
リミットが近づく中、レースをやるかギリギリの状況でしたが、運良く徐々に南が入ってきたので出艇。
最後の1レースも中静と乗らせてもらいました。
軽風の中スタートしましたが、早稲田にプロテストされ、初っ端から二回転でのスタート。
最後の最後までケースに翻弄されました。
その後ビリくらいの見た目になったものの、とりあえず前を向いて走ることしかできず、少しずつ上げたとはいえ引退レースは40番くらい、なんともいえない結果になってしまいました。
それでも、最後の1年間お互い別々の道で成長してきた中静と最後に一緒に乗って締めくくることができたのは幸せでした。
最終的な結果は、470級17位、スナイプ級9位、総合12位。
ブログの最初に述べたように、目標には遠く及びませんでした。
とにかく悔しかった。
ケースがなかったらとか、これまでの実力が出せたらとか言われることもありましたが、全日本という舞台でケースを起こしてしまうのも、いつものようなストラテジーの戦い方ができないのも含めて実力不足。
これまでも、今回の大会もまだまだ全日本の壁は高いものでした。
でも、僕らにはこの壁を越えようと一緒に挑んできたたくさんの後輩たちがいます。
これまで以上に多くのみんなが実際にレースに出たり、海でのサポートをしたり、より近くで全日本の厳しさを感じることができたはずです。
その経験を糧に、来年こそはこの高い壁を超えてくれることを切に願います。
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4年間、濃すぎて本当に長くなってしまいました。
ここからはまとめに入ります。
まずはクルーとして。
自分はこれまであまりクルーという存在について触れてこなかったし、みんなには順風満帆なクルー人生に見えていたかもしれません。
でも決してそんなことはなくて、動作がなかなかうまくいかないこともあれば、クルーとして自分がどう船に貢献できているのか、なんのためにヨットに乗っているか分からなくなることだってあったし、前を走っても褒められるのは基本スキッパーで、誰がクルーとして乗っても変わらないんじゃないかと思うこともありました。
ヨットの上ではやっぱり主人公はスキッパーだし、クルーはいつだって脇役でした。
でも、4年間クルーをやって、それでいいんだ、それこそがクルーの魅力なんだと思えました。
主人公がいるからこそ脇役にも華があるし、脇役がいるからこそ主人公は輝くことができる。脇役が変われば、主人公が変わる。
そういう風にして主人公と脇役が支え合いあながら物語が進行するように船が進んでいくんだと思います。
それに気づくと、船が走ってスキッパーが喜んでくれることが、自分にとってはクルーとしての大きなやりがいでした。
もう一つ。
僕はクルーは引き出し職人だと思っています。
練習では、2人でいろいろなことを試して、こういう時はこういうセールセットにしようとか、こういう風ならこういうコース展開がいいとかたくさんの引き出しを作っておく。
そして、レースでは、練習で用意したたくさんの引き出しの中から、今必要なものをどんどん選んで取り出してスキッパーに渡してあげる。
これがすごく重要だと思います。
レースで2人の引き出しにない新しいことをしても、うまくいかないことがほとんどです。だから、今持っている引き出しからうまく引き出してあげるのが大事だし、その引き出しをできるだけ増やしておくことに練習の意義があると思います。
僕はクルーとして、初めは先輩と、そしてその次に同期の中静と、最後は後輩と乗り徐々にステップアップしていく恵まれた環境にいました。
それでも4年生になって初めて気づくこともたくさんあったし、今振り返ると先輩や同期と乗っていた頃から自分がもっと主体的になっていればよかったと後悔の念もあります。
だから後輩クルーたちには、初めは難しいかもしれないけど、遠慮せず主体的にヨットに乗ってほしい。そうして初めて見えてくるクルーとしての楽しさがきっとあるはずです。
自分の4年間のクルーの経験から少しでも多くのみんなにとってクルーのイメージが変わり、2人で船を走らせる楽しさが伝わっていれば嬉しい限りです。
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思えば最後の1年間はチームの中でも僕は脇役だったかもしれません。
主将の成相、470リーダーのやまこー、スナイプリーダーの中静は本当によく頑張ってくれました。みんなの前では常にかっこいいリーダーでしたが、その見えないところでは一選手ながらたくさんのことを考え、苦しみ、もがきながら常にヨット部のことを思う熱い気持ちがあったと思います。本当にありがとう。
そんな同期たちに甘えてばっかりだったけど自分にできたことは、それぞれの作りたいチームをまずは尊重し一緒に頑張ること、少し苦しい時に手を差し伸べること、間違っているときには違うと伝え軌道修正をすること、このような脇役としてチームを支えることでした。
入部してからどんどん人数が増えてきた東大ヨット部。強くなると同時に、組織の質も上がってきました。
それは、目には見えない一人一人の小さな気遣いが日々積み重なってきた証だと思います。
一方で、組織が大きくなれば大きくなるほど、強いチームを作り維持していくことは本当に大変です。
一人の何気ない身勝手な行動や言動は瞬く間に組織全体に広がり、チームは崩れていく。
もっと具体的にいえば、一人でも「誰かがやってくれるからいいや」という人がいれば、やってくれる人が損をしてやらない人が得をし、そして、誰もやらなくなる。
だからこそ、みんなには決して目立たないことだとしても、チームが良くなると思ったことはどんどん実行してほしいし、そういう小さな気遣いに気づけるような人になってほしい。
部活として戦うからこそ、自分自身では輝くことができなくても、チームを輝かせ、他人の輝きに気づくことができるし、そして、いつか自分が輝ける日が来たらそれはきっと自分だけでなくチームに関わるたくさんの脇役たちがいたからだと自信を持って答えられるはずです。
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最後に一つだけ。
部活の良いところは悔しい思いをバトンに載せて後輩たちに託すことができるということ。だから、みんなにはその思いを背負って強くなり続けてほしい。
最後のMTGでも伝えたことです。
僕たちも先輩方の悔しい思いをたくさん見てきたし、その思いをバトンとして受け継いでこの1年間活動をしてきました。
そして、今度は後輩たちにそのバトンを託す時が来ました。
もちろんどんなチームを作りたいかはそれぞれの代で違っていいと思います。でも、やっぱり今の部活があるのはこれまでのたくさんの先輩方が東大ヨット部の長い歴史を1日ずつ積み上げてきてくれたからにほかなりません。その思いを背負って戦わせてもらう以上、どんな形であれ少しずつ前に、強い方向に進んでいくことがバトンを繋いでいくこと、そして、東大ヨット部の歴史を、文化を、紡いでいくことなのだと思います。
それでも、たくさんの思いが詰まった重たいバトンを握って前に進んでいくことは決して簡単なことではありません。
先が見えない不安や限られた時間の中で無数の選択が立ちはだかり、立ち止まったり逃げたくなったりすることもあるでしょう。
一選手としてなかなか思うようにはいかず周りと比べてしまい苦しいことだってあると思います。
自分だってそうでした。
なかなかうまくいかず部活を辞めたい時だってありました。でも辞めようとは決して思わなかった。
それは、ヨット部という選択を自分で選んだ以上、それを正解にするのは自分自身のこれからだという信念があったからです。
苦しいことが続いているときこそ、自分のヨット部との向き合い方を何か少しでも変えて、前に進み続けないといけない。
うまくいかないときこそ、目の前の課題と向き合って自分を磨き続けなければいけない。
どんな過去の選択もこれから先の自分次第で最高のものになると信じることは自分にとって大きな励みでした。
これから先小さなことでも大きなことでもいろんな選択をしないといけない場面がたくさんあると思います。
ある程度悩んだ選択なら、きっとどれも間違いではありません。それを正解にしていくのはその先の自分です。
だから、辛い時こそ、ゆっくりでいいから一歩ずつ進み続ける勇気を大切にしてほしい。
その小さな勇気が集まれば、やがてチームを動かし、強くする大きな原動力になるはずです。
1年生の時、ヨット部に入る選択は正しかったか?
今の自分なら大きな自信を持って「はい」と答えられます。
この「はい」というたった2文字の答えこそ、僕が4年間で見つけたこの上ない宝物なのです。
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ふと顔をあげれば、どこまでも広く青く美しい海が広がっていて、そこをヨットで駆け抜けていくこと。
レースで前を走ってフィニッシュして2人で交わしたハイタッチ。
美味しい海飯を食べながらくだらない話をしていたお昼休み。
強風の中帰ってきて穏やかなハーバーに入った時の少し強くなった気がするあの達成感。
笑顔の耐えない合宿所でのみんなとの時間…
4年間当たり前だったかかけがえのない時間が突然なくなるのはやっぱり寂しいものです。
でも、これだけワクワクしたバトンを後輩たちに託すことができるということ、こんなにも幸せなことはありません。
ゆっくりでもいい。
でも、少しずつ東大ヨット部が強くなり続けることを願って。
4年間ありがとうございました。
2024年度 東京大学運動会ヨット部
副将 / スナイプクルー
神田陸人
リレーは続く、どこまでも。
〜完〜