軍における国家革新運動

2015年12月28日 | 歴史を尋ねる
 軍における最初の革新組織は一夕会であった。その発足は大正10年(1921)春、ドイツのバーデンバーデンでスイス駐在武官永田鉄山、ソ連へ赴任途中の小畑敏四郎、欧米派遣中の岡村寧次が交わした密約(藩閥中心の陸軍人事刷新を基本目標)に遡る。藩閥という「大磐石を打破するには、少壮将校が団結して、上の方に突進する以外はない」と考えた彼らは、ヨーロッパから帰国後同志の獲得に努めることになった。昭和3,4年には、これを例会と会員を持つ一つの組織にまで発展させた。メンバーが紹介されているので、主要な人物を拾っておきたい。陸軍士官学校卒年次:14期小川恒三郎、15期河本大作ほか1名、16期永田鉄山、小幡敏四郎、岡本寧次、板垣征四郎、土肥原賢二ほか3名、17期東条英機ほか4名、18期山下奉文ほか2名、20期3名、21期石原莞爾ほか1名、22期鈴木貞一ほか4名、23期根本博ほか3名、24期5名、25期武藤章ほか2名。一夕会は中堅将校層の横断的な結合で、彼らの多くは満州事変勃発の際には、すでに重要な地位を占めており、陸軍省では永田軍務課長、配下に鈴木貞一、岡村は補任課長、参謀本部には東条が編成動員課長、根本は支那班長の要職、特に関東軍には板垣と石原が参謀、土肥原は奉天特務機関長として活躍していた。一夕会はその後永田と小畑との対立から分裂したが、有力な中堅将校が革新を目標として結合したことは、少壮将校が同じように組織化へ進むのを奨励する結果になった。

 一夕会と前後して天剣党と桜会が結成された。何れも非合法手段を用いて国家改造を実行しようとする秘密結社であり、一夕会とは性格を異にした。天剣党は昭和2年西田税が陸軍青年将校のうち革新分子を糾合して結成を計ったが、直ちに憲兵の知るところとなり弾圧され、正式結成に至らないで終わった。西田は在学中に満川亀太郎、北一輝らを知り、特に北の「日本改造法案大綱」に深く共鳴して大正14年軍職を退き、大川の行地社に入って革新運動に専念した。大正15年には北の下に走り、自宅に士林荘という会をつくって尉官級青年将校の間に急進的革新思想を普及することに努めた。彼らが経典として信奉した北の「大綱」を青年将校に与え、さらに八千部を配布したといわれている。西田の影響下にあった青年将校は陸軍部内で最も急進的な分子を構成し、後に五・一五事件に連座した海軍士官の首謀、藤井斉、二・二六事件の主要メンバー村中孝次を含んでいた。天剣党の主たる関心は国家改造で、現存指導層の破壊であり、彼らは革命後建設される新国家よりも革命行為そのものに情熱を傾けた。
 桜会も国家改造の実現を目的に昭和5年に結成されたが、天剣党ほど破壊一本槍ではなく、会員中には改造後の建設を主目標と考え準備に努めるものはあったことは既述済みである。桜会は百人を超える少壮将校を会員に持っていたといわれ、分裂解体する短い期間中二度のクーデターを試みるほどの隆盛を示した。陸軍内に桜会が成長を遂げた第一の理由は、国内政治の現状に不満を持ち、差し迫る軍縮に反発して何等かの行動に移りたいとする少壮将校の心情を代弁したこと、第二に桜会の意図を容認、支持した人々が上層部ならびに中堅将校の間にあったことであろうと、緒方氏。桜会趣意書では、まず国勢の衰運を嘆じた後、その原因を論じて、政治家、国民、軍指導者の責任を追及し、直接国政に参画することを目的としており、それを実現するため、昭和6年3月および10月にクーデターを計画することになった。彼らがここまで大胆な行為にまで至らしめたのは、軍務局長小磯国昭、参謀次長二宮治重、参謀本部第二部長建川美次は積極的に桜会を支持し、運動費も与えていたといわれている。さらに桜会を勇気づけたのは陸軍大臣宇垣一成の政治的野心であった。

 宇垣はかねてから政党政治の現状に痛憤し、政党を評して「政治を標牌とする株式会社みたいなもの」とし、「かくの如き朦朧会社は打ち壊して更に清新なるものを建造することが邦家前途の為に必要である。余はこの主義の下に進まんとす」と決心していた。宇垣の言動は革新将校にとって好意的と受け取れた。彼の変心は、宇垣が民政党総裁として迎えられる公算が大となり、政治権力が把握できる見通しが立ったからだといわれている。永田、岡村、鈴木貞一らは、クーデター計画の内容が明らかになるにつれて、三月事件後は非合法手段を用いることを廃し、むしろ陸軍の主導下に漸次国家改造を実現させようと努力することになった。特に満州事変中軍部の政治力が著しく強化され、クーデターを用いる必要がなくなるにつれ、彼らは部内において急進的革新運動を抑えて統制を確立した上、高度国防国家を建設し、対外発展に備えることを主張するようになった。一方、桜会の急進派は中堅将校に依存する戦術を改め、運動の重点を地方の尉官級将校へ移し、益々過激化に走り二・二六事件に繋がった。

 ここで当時の革新運動陣営を概括しておこう。まず組織力、行動力において、革新陣営の主力が陸軍にあった。陸軍部内には、北・西田の影響下にあった青年将校を底辺にして、その上に中佐以下の少壮将校を網羅する桜会があり、さらにその上には一夕会を中心とする中堅幕僚層が存在し、しかも上層部には、部内の革新運動を積極的に推進させようとする同調者も少なくなかった。
 海軍が革新陣営内で占めた地位は大きくなかったが、急進分子を擁していた。藤井斉を中心とする国家改造を目標として結成された王師会は、陸軍青年将校や民間右翼とも連絡して、遂に五・一五事件を引き起こした。その後ロンドン条約問題で海軍部内に不満が最高潮に達し、条約派と艦隊派に二分されたが、海軍には陸軍に見られた大規模な横断的結合が成立せず、五・一五事件が突発するや峻厳な態度で被告に臨み、急進的な士官を予備役に編入するなどの措置に出たため、結局海軍は革新運動に大きな役割を果たすことなく終わった。
 民間においては、大川周明、北一輝、西田税がそれぞれ軍部内の革新運動に強い影響を与えていたのは既述済みであるが、昭和6年頃には、従来分散的であった右翼が大同団結の動きを見せ、資本主義の打倒を標榜し、「労働権の確立」や「耕作権の確立」をうたって大衆の支持獲得に努めようとする傾向を示した。このような動きは、全日本愛国者共同闘争協議会と大日本生産党を実現した。前者は玄洋社系であり、後者は黒龍会系であった。更に左翼からも国家社会主義へ転向するものが出現した。軍を中心とする革新運動は労働者政党にも浸透し始めた。
 民間運動のいま一つの流れとして農本主義的革新運動も無視できない。農村の窮乏が青年将校を国家改造へ駆り立てたのと同様、農本主義者権藤成卿や橘孝三郎も、恐慌下の農村の状態に刺激されて国内改革を実現するため行動するようになった。農本主義者とは定義し難いが、橘と密接な関係にあった井上日召もまた農村の困窮状態を見て国家改造の決心を固めたといわれている。
 昭和6年8月26日、日本青年会館において、革新を目指す陸海軍青年将校ならびに西田税、井上日召、橘孝三郎ら民間側革新運動家による全国会議が開催された。日本青年会館の会合は、その後の出席者の連座した事件(血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件など)を考えると、まさに急進的革新勢力の勢揃いともいえる画期的な会合であった。

革新運動の担い手

2015年12月26日 | 歴史を尋ねる
 革新運動の担い手と目された軍部は、如何にして革新運動に参加することとなったか、緒方氏の説を聴くこととしたい。軍部内における革新の要求は、北や大川が影響を及ぼす以前から存在し、主として技術および指導者選定方法で軍の近代化を求めていた。第一次大戦に参加した軍人が得た最大の教訓は、欧州諸国と比較して日本の軍備、戦略が非常に立ち遅れていたことであった。フランス駐在の陸軍武官砲兵大佐小林順一郎はパノラマ式眼鏡の採用を求めたが、昔ながらの戦争観に固執して許可されず、小林は軍籍を辞して「日本陸軍改造論」を公表し、その後国家主義運動に投じて近代化による国防の確立を説いた。軍の近代化を阻む最大の要因は、藩閥の跋扈にあった。日本の憲政史は明治以来緩慢ではあるが着実に藩閥勢力が交代したが、陸海軍において長州および薩摩の出身者が依然として強力な支配を保ち続け、特に陸軍は山県有朋を筆頭に長州の勢力は牢固として、長州出身者のみが将官を約束されているが如くで、大戦を通じて近代戦に処するには、藩閥出身の上層部は無能であることが明らかとなり、反長州ないし非長州の不満は結集され、次第に一つの勢力として動き始めた。

 軍を近代化しようとする試みが広く支持されたのは、大戦後多くの少壮将校が民主主義および社会主義思想に影響され、軍の既存体制に批判的となっていたからでもあった。平等原理に基づくこれらの西洋思想は、軍隊内で絶対視されていた上下関係の基礎を揺るがすものであった。従来ならば疑意を差し挟む余地のなかった上官の命令に服従するにも、新しい理由付けが必要となった。北一輝が「兵営又は軍艦内において階級的表章以外の物質的生活の階級を廃止す」ることを唱えれば、荒木貞夫は軍隊における階級と社会における階級の相違について、軍の統制を民主主義理念と関連させた上で、「聊かも我が軍隊の階級は、統制上必要なる体系であって、社会における階級とは全く別個の存在である。・・・明治五年の兵制改革によって、国民皆兵の実を挙げ、封建時代の弊風は一掃され、将校が一般国民より自由に選抜任用され、その社会的出身において兵士と異なるところがない。従って軍隊の階級は軍構成上よりくる秩序の上に立つもので、社会上の階級と何らの関係がないのである」 荒木がこの様な説明を試みたことは、民主主義思想が軍の統制に及ぼした特異な影響を示すものだ。大戦後の軍は、内部的には明らかに分裂化の方向へ動いていた、と緒方氏。ここまで軍の内部を掘り下げて分析する見解に余所ではあまり出会はないが、当時の青年将校・兵士に人気があったという荒木の素顔が感じ取れる。

 第一次大戦後の日本はベルサイユ体制を謳歌し、世間一般も民主主義と平和とを賞賛する有様であったので、健軍以来初めて軍は日陰者の不運を経験することとなった。守勢にあった軍を政党政治に反対する方向に傾けたのは軍縮問題でった。大正11年(1922)与野党は相次いで軍備縮小と軍部大臣の任用に関する建議案を議会に提出し、一斉に軍部を攻撃した。その結果建議案は衆議院のほとんど総意によって可決され、政党政治の意気を示した。しかし軍部は実行困難を理由に反対を続けたが、その後年々繰り返される軍縮決議案に接し、軍部は政党政治から圧迫を受け、嫌悪の情も芽生えて来た。政党が軍縮を厳しく迫ったのは、次第に深刻になった行った不況の中で軍事費を節減し、ここで得た財源を生産的な支出へ切り替える必要があるからでもあった。経済界は将来の国際競争は、もはや軍備ではなく、総合的な生産力によって決定されると考え、企業の合理化と生産力の向上に邁進する気構えであった。更に一般大衆は日常生活の圧迫を少しでも緩和するものとして軍縮を望んだ。
 昭和5年(1930)、ロンドン海軍軍備縮小条約の締結をめぐって、軍部対政府・議会の対立は頂点に達した。かねてから海軍は対米七割を主張していたが、浜口内閣は国際協調の立場からこれを譲歩し、軍令部の強硬な反対を押し切って条約を成立させた。国防用兵の責任者である軍令部の意見を無視して国際条約を取り決めたのは統帥権の干犯であるとし、さらに軍令部長加藤寛治は、条約で規定された兵力を以て完全な国防計画を確立出来ないという理由で辞任した。その後海軍部内では、加藤を中心とする艦隊派と海軍省を中心とする条約派との対立が続き、大きなしこりを残すことになった。

 財政緊縮と国際協調とを基本政策としていた浜口内閣にとって、ロンドン条約を締結し得たことは大きな成功であったが、軍令部の反対を強引に押切って条約を成立させたため、政府は海軍部内のみならず、陸軍部内ならびに民間国家革新論者を著しく刺激する結果になった。その上、昭和5年夏から秋にかけて農村に波及した世界恐慌は、これらの革新論者を一層急進的な反政府の方向に駆り立てた。特に軍の場合、国家改造運動を推進していた少壮将校の多くは中産階級または中小地主層の出身であり、彼らが兵営生活で接触する兵士たちの多数は農民階級に属していた。政党内閣の下で、満州において日本の権益は脅かされ、世界恐慌下において中小企業が没落し、農民階級が深刻な窮乏に陥って行き、そして軍縮が軍の存立を圧迫するのを見て、彼らは断固として国内政治を刷新するため行動しなければならないと決心した。軍内部に国家革新を目標とする組織が次々と結成されたのは、以上のような第一次大戦後の情勢を背景としていた。

国家社会主義

2015年12月24日 | 歴史を尋ねる
 第一次大戦が戦後景気をもたらしたのも束の間、国民は好景気の恩恵に浴することもなく、最初は物価上昇、次いで大正9年後は殆ど慢性的な恐慌に喘いだ。昭和4年に始まった世界恐慌は日本にも波及、中小企業の没落、失業者の激増、ストライキの頻発となって、深刻な社会不安が生じた。最も打撃を受けたのは農民だった。台湾や朝鮮からの低廉な米の輸入並びに農産物価格の暴落は、農民を窮乏に追いやった。小作争議は頻発し、従来保守的であった農民の間に左翼勢力の浸透を見るに至った。全国組織を持つ最初の小作組合であった日本農民組合はマルキシズムの強い影響の下にあった。大正14年(1925)12月、農民労働党が結成されたが、共産主義者が牛耳っているとの理由で政府は即日これを解散させた。
 他方、都市労働者の困窮も農民と匹敵するものがあり、失業者の激増は、単に不況のみのよったのではなく当時進行中の企業の合理化によっても促進された。労働争議の内容も好景気にあった戦時中とは逆に賃金引下げ反対、首切り反対に焦点が置かれ、各地に失業者を中心とする騒擾も広がり、争議は暴力化の傾向を示した。しかも労働運動が、サンディカリズムおよびマルキシズムの影響下に発展していたため、政府は弾圧を以てのぞみ、また政党指導者、有産階級ならびに一般国民は労働者階級の台頭を不安と恐怖を以て見守ることとなった。しかも昭和3年(1928)2月の総選挙で度々弾圧された共産党が再建され、公然と選挙に活躍したことや、3月15日共産党を始め労農党、日本労働組合全国評議会、無産青年同盟等の左翼関係者が千数百名検挙されたことなどは、労働者階級の急進性を物語るものと世間一般に受け取られた。

 左翼勢力が台頭するのを見て憂憤の情を禁じ得なかったのが国会主義者であった。大正7,8年頃までの国家主義団体は政治的社会的プログラムを有することもなく、ストライキ破り等直接暴力を以て左翼労働農民組合に対決しようとするに過ぎなかった。しかし大正8年(1919)8月に猶存社が結成された後の国家主義運動は、対内的にも対外的にも急進的な現状打破を標榜し、資本主義と政党政治とを否定する方向で日本の再建を計ろうとして動き始めた。猶存社の指導には満川亀太郎、大川周明、北一輝があたったが、特に大川と北とは軍を中心とする国家改造運動の理論的指導者として重要な役割を果たした。北一輝は若くして中国に渡り、上海、武昌、南京等の各地において革命達成のために奔走した革命家であったが、大川の招きで帰国し、国家改造運動に専念することとなった。彼の著「日本改造法案大綱」は改造運動の経典として多くの青年将校ならびに民間革新家によって愛読された。大川周明は東大哲学科を卒業し、満鉄東亜経済調査局に在籍中近世植民政策の研究により法学博士を授与され、後に財団法人東亜経済調査局理事長の要職にあった思想家であった。大川は青年将校ならびに軍上層部と親密な関係を有し、彼らを通じて革新思想は軍内部にひろく浸透していった。

 北・大川らの国家改造運動の最終目標は、積極的に対外発展に乗り出す事の出来る強力な国家を確立することであった。資本主義は階級闘争をもたらし、政党政治は政争に明け暮れ、西洋思想は日本精神を弱めたと考えた彼らは、日本を再建するために天皇を政治的中心とした一種の民主制の実現を主張した。天皇と国民を直結し、国民の間の権利の平等を強調した。国民間の平等関係は、経済組織上の諸制限によって保障される。「日本改造法案大綱」は次の制限を提唱している。
1、日本国民一家の所有する財産限度は壱百万円。超過額は無償で国家に納付。
2、日本国民一家の所有する私有地限度は時価拾万円。超過地は無償で国家に納付。
3、私生産業の限度を資本壱千万円。超過する生産業は国家に集中し国家の統一的経営とする。
 北や大川が計画していた国家改造は国家社会主義的原則に基づいた。彼らは左翼の人と同じように、国民の社会経済正義の名において資本主義と政党政治を激しく批判した。しかし、対外面における左右の主張はかなり異なった。左翼が国家を超越した階級的連繋に現状を打破する行動源を求めたのに対し、右翼は国家的団結を重視した。国家主義者であった北や大川が国家権力の強化・発展を主張したが、社会主義者でもあった彼らは、資源の恵まれない日本を国際社会におけるプロレタリアと考え、日本の対外発展を国際社会の富の不均衡を是正する正当な行為であると説明した。北は著書の中で、「国家の発達の結果不法に大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対し戦争を開始する権利を有す。英国は全世界に跨る大富豪で露国は北半の大地主なり。・・・国内の無産階級の闘争を認容しつつ国際的無産者の戦争を侵略主義、軍国主義と考える欧米社会主義者は根本思想の自己矛盾である。・・・国内の分配より国際間の分配を決しなければ日本の社会問題は永遠無窮に解決できない」と、対外活動を起す事こそ日本の活路であると主張した。
 
 さらに北・大川らは、日本が国際的不平等を是正するために起こす戦争は、白人の支配下にあるアジア諸民族のための解放戦争であるとした。日本は「人類解放戦の旋風的渦心」として指導的役割を演ずるよう運命づけられており、中国に対する政策も西洋諸国の勢力をここから駆逐することにある。大アジア主義を標榜しながら、彼らは日本がアジア大陸に膨張することを否定しなかった。むしろ彼らは日本が大陸の一部を領有することにより、アジアの保全が確立出来ると説き、特に南満州は帝政ロシアから獲得したものであって、日中親善の建前からも返還する必要がないと主張した。以上の事実を総括して、緒方氏は次のように云う。「北・大川ら国家社会主義者の帝国主義は、国家主義、社会主義ならびに大アジア主義の融和統合されたものであり、その特徴としては、第一に国内の社会主義の実現は対外膨張と不可分であること、第二に膨張の結果生ずる利益の恩恵に国民大衆は浴する権利があること、第三に日本の膨張をアジア民族の解放と同一視したことである。事実、猶存社の結成後誕生した多くの国家主義団体は、対外膨張と国民の利益の二重目標を掲げている」

 北や大川が国家革新運動の発展に大きく貢献したのは、彼らの思想が対内的な経済危機と対外的な行詰まりに激しい不満を抱き、現状打破を願う人々に強く訴えたからで、同時に行動面においても革新運動を強力に展開させる構想を有していたからであった。歴史上の変革は常に高度に組織化された少数の精鋭によって達成されたと判断した北や大川は、革新運動の担い手を軍部に求めた。北は国家改造そのものを重視し、対外発展に乗り出す以前或いは同時にこれを完成しなければならないと考えたが、大川は対外危機によって国民感情を高揚させた上で国内改造を実現することを主張した。この相違によって革新運動を二分することになった。かくて大正12年猶存社は解散し、その後大川は大学寮、さらに行地社を中心に活躍をつづけ、北も一派をなし、革新陣営の中に相敵対する大川派・北派の二潮流が生じた。

紛争の遠因

2015年12月21日 | 歴史を尋ねる
 日本が満州に進出するにあたって、対内的にも対外的にも多くの問題があった。対内的にみると、日露戦争中満州の軍事占領に主要な役割を果たした陸軍が、対満政策の樹立に対して決定的な地位を獲得した。租借地と鉄道付属地とを管轄するために設置された関東都督府は、戦争後占領行政にあたっていた軍政機関を引き継いだもので、その後十年以上関東都督には部隊を指揮する陸軍大将又は中将が就任した。第一次世界大戦後の大正8年〈1919〉、政府は漸く統治機構を民政機関に改めると共に、新たに関東軍司令部を設置、部隊の統率と関東州、鉄道線路の保護に当たらせた。彼らはその根底に満州を清国領土と認めず我が勢力下に在る一種特別の地域として対応するが如きであったと、緒方氏。一方、満州の経済発展を重視する人々は、半官半民である南満州鉄道を通じて日本の政治的、経済的権益の拡大を計ろうと努めた。こうして、満州の開発という国家目的に対し、急進的な武断政策と漸進的な経済中心政策との対立は、日本が満州に進出した時から存在し、両政策を推進する人々の力関係によって大きく左右された。

 対外的には、特に米国の「機会均等」「門戸開放」政策と真っ向から対立した。ハリマンによる南満州鉄道買収申入れ、国務長官ノックスの鉄道中立化計画案、開発に関わる四国借款団組織など、米国の満州への経済的浸透を試みたが、日本は米国の経済的進出を恐れるロシアと中国外交に関して提携した。もう一つは中国の政治的混乱であった。当時日本の指導者は、清朝を支持した山県有朋も、革命派を援助した犬養毅も、中国との協力が日本の満州発展のための不可欠な条件と考えていた。袁世凱は大総統に就任するや、米国および欧州諸国の財政的援助を受け入れ、満州権益に不安を感じた日本は「対華21カ条の要求」を提出、租借期限を99年に延長すると共に、日本人は南満州で、自由に居住往来し、各種の商工業に従事し、建物の建設又は農業の経営のために土地を借りる権利が保障された。この結果、満州における勢力を強化する目的は達したが、反面中国に反日感情を呼び起こし、ヴェルサイユ平和会議時、いわゆる五・四運動といわれる熾烈な排日運動に繋がった。以後、日本の帝国主義的発展は中国ナショナリズムの激しい抵抗に対処しつつ進められ、中国と協力しつつ満州の開発にあたるという従来の方針を踏襲することは、もはや不可能ではないかと考えられるに至った。

 ワシントン会議後の約10年間、日本の大陸政策は幣原喜重郎によって代表されるいわゆる「軟弱外交」と田中義一の主唱するいわゆる「強硬外交」との一見対照的な二つの理念により推進された。しかしこの硬軟二様の外交政策は、中国並びに満州における日本の権益を、次第に高まる中国の反日的民族運動と列国の監視の中で保持し発展するという基本方針は一致していた。ワシントン会議当時駐米大使であった幣原は、日本の将来は「門戸開放」と「領土保全」とを尊重する国際協定の範囲内で中国における権益を保持し発展する外はないとし、中国に対する進出は経済進出であること、また中国の内乱には不干渉主義をもってのぞむ二大原則とした。幣原の不干渉主義の狙いは、中国を政治的変動に左右されない輸出市場として確保することであった、と。幣原の描いた未来図は、工業化された日本が中国および極東を輸出市場として確保することであった。満州は彼にとって日本が擁護すべき多くの権益を所有していた中国の一部であり、満州権益の処遇を巡って日中関係が悪化する事態は起こしてはならなかった。そういう意味では「中国第一主義者」であった、と。そして幣原外交が効果を発揮するためには、蒋介石一派が中国の覇権を握ることが必要であり、共産党の勝利は致命的な結果をもたらすと考えた。幣原が南京事件の際、蒋介石一派を苦境に追い込むことを防いだ事例だった。

 これに対し田中の「強硬外交」は、軍事手段の行使と権益の積極的な開発を中心とした大陸発展を試みた。田中内閣の下で三度の山東出兵を行ったが、その公式の目標は北伐が同地にある日本人の生命財産を保護するとされるが、究極の目標は、日本の権益の集中している満州に中国の内乱が及ぶのを阻止することにあった。満州を中国本土から切り離し、対満政策を対中政策とは別個のものと考えた。満州との関係を優先的に考慮した点で、「満州第一主義」であった。まず経済面で、満州における日本権益の開発の方が、貿易拡大より安全でかつ望ましい経済発展の道と考えた。その代表的な例が、山本条太郎と張作霖とで、満蒙で新たな五鉄道の建設権を獲得したことであった。軍事的には、ロシアの南下政策に対し満州・朝鮮・シベリア沿海州に一大緩衝地帯を設ける事を夢見ていた。また、共産主義の恐怖が、田中の満州第一主義の思想的原因をなしていた。幣原と同様、田中も中国国民党の穏健派による中国支配を期待したが、共産党勢力を中国から駆逐することを強く決意した田中は、蒋介石との会談で、中国共産党を討伐して、揚子江以南の中国統一を計るのであれば、日本は援助を惜しむものではないと約した。しかし、中国が国民党穏健派によって統治される確証が得られるまでは、満州への国民党の勢力が波及することは阻止されねばならないと考えた。

 田中の満州分離政策は、国民党に対して満州を含む中国全土の統一を意図しないことを求め、張作霖に対しては満州にとどまって中国本土征服の野望を断念することを要請した。国民党に対する要求は、三度にわたる山東出兵において示され、また田中・蒋介石会談の際に田中によって明らかに伝えられた。しかし張作霖に対する要請は複雑な経過を辿った。遂に張作霖が日本の圧力に屈し、漸く掌中に収めた北京を退こうと決した時、田中の「強硬外交」は成功の絶頂に達した。満州を中国から分離させ、張作霖には満州を、蒋介石には中国本土を統治させようという田中構想は、まさに実現されようとしているかにみられた。そこに張作霖の爆殺事件が起った。田中構想が敗退した真因は、田中政策の内部に存在した矛盾であった、と緒方氏。

 張作霖爆死事件は、その数年後に起るべき事態を予告するものだった。満州における日本の直接統治を確立するためには、謀略的手段を行使し、中央の政策決定を敢て無視しようとする強硬論がここの片鱗を示した。関東軍高級参謀河本大作を直接行動に駆り立てた原因は、5月18日以来張作霖軍の武装解除を行うべく出勤せんと万全を整え、一日千秋の思いで奉勅命令を待っていたが、参謀総長の訓令は日本軍の介入を禁止するものであったからだ。爆死計画が事前に関東軍司令官村岡長太郎、参謀長斉藤恒の承認のもとに進められた証拠はないが、日本が満州を支配するためには張作霖は追放されねばならず、その軍隊も武装解除されねばならぬと強く信じた村岡、斎藤は、軍中央部に対し繰り返し出勤命令を求めており、張作霖の不慮の死はまさに望むところであった。昭和3年(1928)頃の関東軍首脳部は、日本が満州の統治に積極的に乗り出すことを希望し、中国本土から分離された満蒙に、自治連省(連省自治:各省ごとに憲法を制定して自治を実行し,聯省会議を基礎とする聯省自治政府を樹立するとの構想)を日本の援助で設立することすら考案していた。張作霖軍対北伐国民党軍の動乱が満州に波及する場合は、「満州治安維持の為適当且つ有効な措置を執ることもある」とする日本政府の張作霖宛5月18日付通告について、関東軍首脳部は、彼らと同一の目標を持った強硬政策を内容とするものと解したのだった。田中首相が最後の瞬間に至って、米国からの意思表示により出勤命令を撤回したと伝え聞いた彼らは、憤懣やる方なく、田中の優柔不断を責めた。

満州事変 緒方貞子 2

2015年12月16日 | 歴史を尋ねる
 国際連盟において、満州における日本の軍事行動が重要な課題となり、国内政治と外交との複雑なプロセスを解明することが必要となった、と。(緒方氏は外務省の外交文書室を訪ね、「日支事件に関する交渉経過(連盟及び対米関係)」の閲覧と分析に専念した)
 連盟理事会の激しい討議にあって、政府は一方で関東軍に軍事行動の停止を要求しつつも、他方で列国に対して、満州に於いて直面する市民の安全、権利の保護等の共通の利益と関心に理解を得るよう努めた。特に政府としては、戦線がハルピンまで拡大することを防ぐことによって、連盟からの介入を阻止しようと考えた。当初においては、列国は日本が速やかに鉄道付属地内に撤退することを要請しながらも、期限を規定するものではなく、馬賊その他満州に於ける無法分子の行動に対し、軍事的措置をとる権利を認めるという妥協的な対応に留めた。これは日中間における軍事的取決めを禁止するものでもなかった。(緒方氏は政府代表を務めていた祖父の芳沢謙吉に当時の状況を聞いている)
 当初、連盟は期限を定めて日本軍の撤退を求めることも考えたが、欧米列国においては必ずしも強硬手段に出るまでの用意はなかった。外務省が連盟に対して正式に調査団の派遣を提案したことは、軍の反発を避けつつ、満州事変の処理に時間的猶予を得るという成果をもたらした。

 この時、関東軍は満州各地において独立のための活動を拡大し、新国家の建設を急いでいた。新国家樹立のための諸案は「民族協和」を基本とするもので、満蒙の支配のために独立国を建設するという関東軍の国家論は、日本政府の構想と一致するものではなかった。政府は満州問題について、総理大臣監督の下に満州事務委員会を設ける意図であったが、関東軍は、自ら絶対的な支配権を確保しようと決意し、満州における新国家建設を貫こうとした。関東軍は、新国家建設の構想を進め、昭和7年(1932)の初頭には具体的な統治案を立て、満州各地の有力者との交渉を進めていた。特に復位を求めていた宣統帝を国家の主席とする満州国の独立計画は、政府および軍中枢部と明らかに異なるものであった。関東軍は、満蒙の領有を目標としていたが、政府中央の反対と列国の反発から、むしろ次善策として独立を企図した。

 満州の軍事活動が急速に拡大する中で、戦線の拡大も、満州国の独立も阻止できなかった内閣は退陣し、犬養毅を首相に政友会内閣が成立した。組閣にあたって、天皇は西園寺ら重臣に対し、軍部を統制し、事態の収拾にあたることを求めた。犬養自身は、長年、中国問題に関心を持ち、日中関係の改善を重視していただけに、個人的な経路を通じて中国要人と交渉を進めようとし、また、列国に対しても新国家の承認を遅らせようと図った。しかし、日本国内では、国際連盟の調査団報告も満州国の承認を示唆するものであるとし、また、満州における日本軍の行動は日本の権益を守るものであるとして強硬論が高まり、犬養は総理官邸において、海軍将校に暗殺された。暗殺者は、海軍の尉官青年将校を中心とし、陸軍士官学校生等、国家改造運動等に連なる運動家であったが、軍の上層部には、政党政治を廃し、国内の革新を進め、満州と中国大陸における権益を最大限に確保しようとする志向も見られた。

 犬養内閣後、政府は、満州国の樹立と開発に重点をおいた大陸政策を展開することとなった。満州国の開発、独立と承認を進めるなかで、日本は、国際連盟の調査団が「リットン報告」として提案した解決方法を日本の利益を否定するものであるとして強く反対し、国際連盟からの脱退を決定した。特に問題になったのは、報告書が満州を中国の主権の下に置き、日本軍の鉄道付属地外から撤退を求めたことであった。国際連盟からの脱退は、日本が過去数十年にわたって守って来た国際協力政策を打ち切るものであり、また、意図して日本の国際協調外交を完全に断ち切るものとなった。満州事変を出発点として日本が辿った政治過程は、着実に「太平洋戦争への道」に向って歩みを進めた、と。

 緒方氏の史観は簡潔で明快である。そして満州事変当時の政策決定過程を逐一検討することにより、事変中如何に政治権力構造が変化し、またその変化の結果が政策、特に外交政策に如何なる影響を及ぼしたかを究明するのが、この著書のテーマである。この変化は対立する諸勢力間の争いの結果であるが、軍部対文官の対立ということで説明できるような単純なものではなかった。それは佐官級並びに尉官級陸軍将校が対外発展と国内改革とを断行するため、既存の軍指導層および政党並びに政府の指導者に対し挑戦したという、三つ巴の権力争いとして特色づけられる、と分析する。

 ワシントン条約後大陸への膨張を阻まれた日本(緒方氏はワシントン条約を明快に解説する。この条約は、四国条約、九国条約および主力艦に関する海軍軍備縮小条約を取り決めたが、これらの条約により、米国は国際条約を通じて日本が中国大陸へと発展するのを阻止しようと試みたものであった、これ等の締結は、米国外交の一大勝利として特筆されなけらばならない、と)は、世界恐慌の余波を受けて経済的にも社会的にも不安な状態にあった。さらに中国ナショナリズムの台頭とソヴィエト共産主義の出現とは、日本の在満権益に対する重大な脅威と考えられた。現状打破を願う気分は世間一般に漂っていたが、革新将校はこのような事態に対し何らの措置を講じようともしない既存指導層にあきたらず、自ら主導権をとり、日本のためにより輝かしい将来を獲得しようとして行動を開始した。彼らは強力な国家社会主義政府を樹立し、強硬な満州政策をもって中国の挑戦に対処し、さらに軍部並びに文官指導層を革新して、日本の強化を計ることを目標としていた、と緒方氏。
 確かに当時の事態を辿っていると、どうしてももやもや感が吹っ切れないが、緒方氏のこの見方を取り入れてみると、当時がクリアに見えてくる。この見解をさらに追いかけたい。

満州事変 緒方貞子 1

2015年12月14日 | 歴史を尋ねる
 1920年代の中国大陸は、欧米列国による権益拡大競争と中国の諸軍閥間の内乱が続く状況にあった。日清・日露戦争によって既に満州に鉄道を始めとする諸権益を得ていた日本は、その一層の発展を図ることを基本的な対外政策としていた。特に関東州及び南満州にある鉄道の保護を任務としていた関東軍は、より積極的な保護と発展の機会を求める在満日本人の要求にも応え、次第に積極的な戦略論を展開するに至った。
 当時、日本政府の進路として、国際協定遵守の範囲内で大陸に発展する「幣原外交」と、軍事手段の行使と積極的な経済開発を進める「田中外交」とが競合していた。満州の治安と開発を重視する関東軍は、日本が満州の拡張に積極的に乗り出すことを希望し、中国本土からの分離政策の推進を図った。この関東軍の動向は、ひとつには在満日本人の心情を代弁するものであった。満鉄青年社員と青年実業家で構成された満州青年連盟は、中国ナショナリズムの高揚や軍閥の脅威から身を守り、権益を失わないために、日本政府に強硬な対応を求め、圧力をかけていた。

 他方、日本国内においては、不況、特に農村の疲弊は、農村出身者が多勢を占める軍内部に革新運動を引き起こした。彼らは、国内政治の改革と強硬な大陸政策の推進を求めた。民間における革新思想の高揚、若年軍人における革新陣営の拡大は、関東軍の中堅将校の思想と行動にも影響を与えるものであった。満州の状況が悪化した1931年に板垣征四郎参謀は、満州が戦略的に重要であるのみならず、国民大衆の生存にとっても貴重な役割を果たすと強調し、領土も資源も貧弱である日本にとっては、「満州を領有してはじめて日本は資源の供給地と製品の市場とを確保し、工業国としての発展を期待することが出来る」と述べている。満州の領有は、日本の無産階級にとっても重要である。この主張は、当時の関東軍の思想とも共通点が多く、関東軍の共感を得るものだった、と緒方氏。

 関東軍の軍事行動突入は、南満州鉄道で爆破事件が発生し、日本の守備隊と中国軍との戦闘が始まり、関東軍が奉天を占領したことを契機とした。(当時事変の詳細な推移は、片倉衷関東軍参謀による「満州事変機密政略日誌」で跡付けている) 関東軍が吉林、長春等南満州各地の占領を続けるが、内閣からの強い反対で北満を含む満州全域の領有計画が厳しく受け止められたことに対し、関東軍の不満は強く、陸軍大臣はなぜ政府とやり合わないのか、今や「断」の一字しか時局を収拾する方法はないと強い反発を記している。政府としてはハルピンまで拡大することを防いだものの、天津における暴動の影響を受けて、事態悪化が続き、関東軍が錦州攻略に乗出したことによって戦線が拡大すると、国際連盟では日本に対する厳しい討議が繰り返された。
 連盟理事会は、日本と中国に対し、事態の悪化を防ぐために必要なあらゆる措置を取るよう要求し、期限を設けて日本軍の撤退を求めた。それに対し、参謀総長は、天皇に拝謁して錦州に出動した部隊を奉天に引き戻すという奉勅命令を出す強硬措置に踏み切ることにした。連盟においては、正式に現地に調査団を派遣することが提案された。

 この間、関東軍は満蒙における自治体の発達を目指して、新たな指導対策の準備を開始した。関東軍は既に「満州占領地行政の研究」を作成していたが、自治体の発達を統一した原則のもとに指導し、監督するために「自治指導部」を設置し、部長には著名な政治家で長老の于冲漢の就任を図った。また、在満の日本人団体の指導者層もリーダー格で加わることになり、この「自治指導部」のもとで地方政府としての機能を整え、中国政府からの分離を宣言させるに至った。独立政府の頭首としては、既に宣統帝が待機していた。

緒方貞子の著書「満州事変 政策の形成過程」

2015年12月14日 | 歴史を尋ねる
 著者の緒方貞子氏は、1991年から2000年まで国際連合難民高等弁務官を務め、さまざまな地域紛争・民族紛争によってもたらされた難民の支援活動に心血を注いだ。緒方氏の出発点は、戦前期を対象とした日本外交史研究家であった。昭和2年生まれの著者にとって、満州事変に始まる戦争と軍部支配の時代は、物心がついて見聞きした同時代の出来事だった。更に五・一五事件で凶弾に斃れた犬養毅を曾祖父に、時の外務大臣芳沢謙吉を祖父に持つ著者にとって、満州事変の経緯を研究することは、家族が被った受難の意味を問い直す作業でもあった。

 岩波現代文庫から再出版する時解説した日本政治外交史が専門の酒井哲也東大教授は次のように語る。本書が当初出版された時、昭和30年に出版されたマルクス主義史学の立場に基づく遠山茂樹・今井清一・藤原明『昭和史』が空前のベストセラーになり、他方それは人間不在に歴史だと批判がなされ、これを機に「昭和史論争」が展開され、激しい党派対立の嵐が吹き荒れていた。しかし著者は戦後日本のイデオロギー対立から自由な環境で研究出来た。日本政治外交史を講じていた岡義武に師事したことで、実証的政治外交史の手法を身につけ、カルフォルニア大で日本政治研究の第一人者であったロバート・スラピノの助手を務め乍ら、博士論文(昭和39年)を完成・出版した。本書は英文の博士論文に加筆しながら翻訳したものである。実証的な歴史研究を行う研究スタイルは今日では一般的なものとなっているが、昭和30年代半ばの日本の学界では、少数の人々がそのような方法に基づく研究を始めたばかりだった、と云う。緒方氏の研究手法は、戦争を経験した日本人の熱い問題意識に基づきながら、戦後日本のイデオロギー的文脈から離れたアメリカ社会科学の理論装置を軸とする姿勢が、本書を息の長い書物たらしめていると、酒井氏。

 昭和41年初版出版時、緒方氏はあとがきで次のように述懐している。「未曾有の敗戦を経験して以来、日本は自己を破滅に導くような膨張政策を何故とらねばならなかったかということが、私の絶えざる疑問であった。しかし戦後の十数年間、この疑問に満足な答を与えてくれるものはなかった。いわゆる「昭和史」的な批判は、過去の指導者層を徹底的に糾弾するばかりで、その時代に生きた人々が与件として受け入れなければならなかった対内的及び対外的諸条件を無視し、かつ彼らの意図を曲解しているように思えた。「極東軍事裁判」的な解釈は、戦勝国による敗戦国の審判に過ぎず、日本の膨張を侵略的一大陰謀に起因するものという前提は、これまた到底納得出来るものではなかった。とはいえ、日本の対外政策の失敗は明白な事実であり、過去の指導者の責任も無論看過することは出来ない。本書は、このような年来の疑問に、私ながらの解答を試みたものである。ここから引き出されたいくつかの結論は、決して満足のいくものでも無ければ、また最終的なものでもなく、むしろ私にとって更に多くの疑問を産み出したのであったが、ここで読者の批判を受けることにより、自分の研究がさらに進めることが出来れば幸甚であると考え、あえて出版に踏切った次第である。」

 本ブログも昭和初期をあちこち彷徨ったが、緒方氏の著書は俯瞰的でかつ明快な見方で整理されているので、緒方氏の著書を参考に、満州事変を整理しておきたい。

ちょっと道草 日本の大企業の誕生 トヨタ、ブリジストン、帝人

2015年12月12日 | 歴史を尋ねる
 偶々、三社の企業情報が手元にあるので、日本の歴史に中でどんな関わりを以て、日本を代表する企業になったのか、特に戦前の姿を記録しておきたい。

 まずトヨタ。高橋亀吉が昭和8年の太平洋会議で、豊田式紡織機でイギリスの十倍の能率を発揮して、日本の技能の優秀性を挙げたのは既述済みであるが、その紡績機は豊田佐吉によって大正13年(1924)に完成した。佐吉は豊田式木鉄混製力織機(豊田式汽力織機)、無停止杼換式自動織機(G型自動織機)をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をした。佐吉は小学校を卒業した後、父について大工の修業を始めた。だが18歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な手機織機の改良を始めたと、社史で云う。佐吉の長男喜一郎は、豊田紡織に入社して間もなく、欧米に視察旅行に出かけ、英国では繊維機械メーカーでの研修を受けた。帰国後、佐吉が発明した「G型自動織機」に開発に携わり、完成させたのは喜一郎であった。また特許の申請も喜一郎が行った。佐吉が職人的な勘と努力で造り上げてきた自動織機の最後の問題点を、喜一郎が科学的な知識を使い完成させたのだった。(大正15年、「自動織機」を製造するため、愛知県碧海郡刈谷町 (現刈谷市)に株式会社豊田自動織機製作所 〈現株式会社豊田自動織機〉を設立。昭和4年イギリスのプラット社と、自動織機の特許権譲渡契約を締結。) その特許を売るため、喜一郎は欧米を訪問したが、この時米国で、自動車が人々の足となって日常生活に入り込んでいることを知り、日本にも自動車の時代が来ると喜一郎は確信したという。
 帰国後、喜一郎は織機の特許を売って得た資金を元に、昭和8年、豊田自動織機製作所内に自動車部を新設。昭和10年、トヨダG1型トラックの開発に成功、翌昭和11年にはトヨダAA型乗用車を造った。自動車製造に手ごたえを感じた喜一郎は、昭和12年自動織機から独立して、トヨタ自動車工業を設立した。日中戦争が始まると、馬から次第に自動車を使用するようになり、昭和13年今の豊田市の本社工場で、軍事用のトラックなどを生産するようになった。その頃は、日本の陸軍だけでなく、多くの国から注文を受けて、軍事用トラックや乗用車を造った。

 続いてブリジストン。石橋家の家業は、福岡県久留米市で着物や襦袢を縫う仕立屋だった。明治39年久留米商業学校卒業後、病気療養中の父の希望で、兄の重太郎とともに家業を継ぐ。しかし、すぐに兄が徴兵されてしまい、実質的に正二郎が一人で家業を切り盛りすることとなった。仕立屋はそれなりに儲かっていたが、ライバルも多く、成長が望めないと判断した正二郎は、需要が高かった足袋の生産と販売に専念することを選んだ。それまで手作りだった足袋の生産方法をミシンなどを用いた方法に切り替え、大量生産に成功した。そして、種類によってばらばらだった足袋の価格を、均一にする思い切った販売方法を取り入れた。この販売方法は大好評で、無名だった志まやの足袋は、飛ぶように売れた。この成功をきっかけに、商品名を「アサヒ足袋」とした。販売面についても、それまで文数(サイズ)ごとに細かな価格設定がされていた足袋の小売価格を、分かりやすい一律価格に改定している。。 正二郎が最初に手がけたのが、従業員の待遇改善であった。丁稚制度をやめて、従業員に給料と休日を決めたいとする正二郎の意見に、父は大反対であったが、最後は「人を大切にして人を生かすことが商売の利益につながる」という意見を受け入れた。また正二郎は商品売り上げ金額から原材料や人件費、広告費などを除いた利益の割合を、売り上げ全体の一割と決めた。当時、足袋の場合では利益を2割見込むのが常識だったので、革新的な事であった。後に正二郎は「17歳から24歳までの8年間は苦闘の連続であった。しかし、その体験が今日に役立っている」と記している。従業員の待遇改善や売り上げ利益を一割に決めて、価格を下げ、顧客を満足させようとする姿勢は、その年齢、経験値を考慮すると驚くべき判断で、早くから経営者の才覚が備わっていた、という事か。
  正二郎が自動車を初めて見たのは明治44年、東京に出張した22歳の時だった。当時全国で自家用車が354台、タクシ―、トラック、軍用車が190台ほどしかなく、九州では自動車は1台も走ってなかった。自動車に沢山の見物人が集まるのを目撃した正二郎は、自動車の購入を決意、自動車に「志まや」の屋号をつけて久留米の街を走らせた。「志まや」の名前はあっという間に知れ渡り、足袋の売り上げも伸び、この時正二郎は「やがて自動車の時代が来る」という確信が芽生えた。大正11年、外人のテニスシューズを見て、これをヒントに地下足袋を開発した。これは履きものの常識を覆す革命となって、瞬く間に販売が広がった。この地下足袋製造でゴムの可能性を知った正二郎は、タイヤの生産に乗り出す決心をした。」本社のそばの倉庫を改造して、高価な製造機器を買入れ、昭和5年タイヤの開発を始め、その2カ月後第1号タイヤが完成した。タイヤの発売から2年後の昭和7年、フォードやGMのメーカーにタイヤ性能が認められ、輸出し納入出来るようになった。当初から積極的に海外市場を目指した。

 最後に、帝人。帝人は、久村清太、秦逸三、金子直吉によって生み出された。明治37年、東京帝国大学で化学を学んだ久村は、在学中に小さな町工場でレーヨンの研究を開始した。当時天然の絹は高価だったので、絹のような手触りを持つレーヨンが人気だった。しかし、当時日本国内では生産されておらず、輸入品で、製造法も秘密だった。レーヨン製造技術の実用化に取り組む中で、山形県米沢高等工業学校の講師だった秦がかかわった。レーヨンの試作に成功した二人に、その将来性を見込んで支援したのが、鈴木商店の大番頭金子だった。金子が、学生の研究に資金を提供して会社を創業させたことは、現在のベンチャービジネスの先駆けといえる。金子はその後二人を欧米にそれぞれ1年ほど留学させ、最先端技術を習得させると同時に、後年の帝人のグローバリゼーションの道も開いた。大正4年、日本初のレーヨン工場を米沢に設立、大正7年株式会社に成長、会社設備は1台に5個の鍾(糸を巻き乍ら撚りをかける道具)がついた木製の紡糸機に、作業員が200人ほどの小規模なものだった。第一次大戦後、ヨーロッパからレーヨン製造技術をどんどん吸収し、独自の技術も開発して、生産拡大、工場建設を進めた。大正10年には広島工場に英国からエンジニアを招聘、技術指導を受け、紡糸機を最新のものに交換したりして生産量を増やし、大正13年には工場拡張の行った。
 昭和2年に岩国工場、昭和9年に三原工場を立ち上げ、長繊維・短繊維のレーヨンも生産を開始、昭和13年には世界に誇るレーヨンの一流企業となった。

 参考までに直近での三社のグローバル度を挙げておきたい。
 トヨタ自動車:全販売台数の海外比率76%
 ブリジストン:市場別売上高(海外)81%
 帝   人 :顧客所在地別売上高(海外)41%

イソップ物語(狼来る)

2015年12月08日 | 歴史を尋ねる
 昭和7~10年期の繊維工業の発展は、関連産業の発展を促し、両者相まって、優秀な近代装備を自給的に最も低廉に建設し得るに至った。例えば、紡績機械の自給化によって最新設備が他国に比して有利に可能となった。トヨタ自動織機などの高能率織機が発明され普及した。この間国民の教育は向上し、職工の技術水準が向上した。企業経営の合理化が著しく向上した。しかし、日本のライバルであったイギリス・ランカシャーは従来の独占にあぐらをかき、伝統に安住して、立ち遅れた。高橋が注目するのは、工業がある点まで発達すると、関連産業の発達を促し、両者相まって、これまで夢想もされなかったような高成長力を持つという事である。戦後日本の重化学工業の発達が、昭和30年に起り、それまで想像されていなかった飛躍的発展を可能にしたことと一脈通じると、高橋。まあ、これは日本的美質かもしれない。
 昭和7~10年期の日本経済の飛躍は、その他に重化学工業の長足の発達があった。それは、世界のブロック経済体制と軍部の軍需工業育成の要求とが相合して、強力な保護育成政策が採られた。輸入制限、高関税、軍の高価買入れ、企業の合同合併の誘導、カルテルその他統制の強化、所要資金の政策的供給など。功罪、批判もあるが、昭和30年代の重工業、化学工業発達の強力な種がまかれる結果となった。政府のやり様一つで、産業の発達がある程度まで可能のことを実証している、と。

 日本経済の発展と併行して、当時少なからぬ公債発行政策が連年続き、それが経済発展を容易にした。それは、日本の農業は破滅の危機に瀕していた(米、生糸などの暴落)のでこれを救済するため大規模な公債政策が採られた。その他に、満州事変が進展して、満州国の建国とその開発費などに巨額を支出した。その上、軍部は軍拡を主張して、財政支出も著増した。金本位制の尺度からは、インフレ危機が声高く叫ばれ、大蔵省・日銀方面からしきりに発せられた。しかし、当時世界は、生産の一大過剰と物価の崩落、設備の過剰問題、大量の失業者に悩んでいた。この大危機を克服する方途は、財政金融政策を通じて、大規模の消費を喚起する(一大インフレ政策の断行)ほかなく、世界は現に、リフレーション政策を実行しつつあった。ケインズ教授が「蓄積は罪悪、消費は美徳」という警句を吐いた時代であった。日本においてもそうした頭の切り替えが必要だった。高橋たち民間エコノミストが金再禁止を主張した根本は、そうした、リフレーション政策を実行するためであった。しかし、当時の日本は、リフレーション政策が、経済再建目的の下に意図的、計画的に実行されず、軍部の強大な軍事財政支出という形で、軍部に引きずられて結果的に進行した。軍事予算の公債政策が、結果においてリフレーション政策の役割を果たした。この事は、軍部に、軍事予算的公債発行政策の本質を誤解させ、公債政策が無限に国民経済の発展と両立しうるかに錯覚させ、他日に無軌道な軍事公債政策に走らす重要な因子となった、と。

 軍事的公債政策が、間接的ながら結果においてリフレーション的作用をしている限り、巨額の公債発行にも拘わらず、インフレ現象は起らなかった。大蔵・日銀両当局はインフレ激成の危険があると絶叫し続けたのであったが、この見解は金本位的尺度でものを見ていた。この時点での公債発行は、これまで過度に欠乏していた現金通貨を豊富に供給(日銀引受の公債発行)し、金利水準を引下げることを可能とし、しかもインフレが起らなかった。それは、当時多大の物資と設備、労力との過剰遊休があったからだ。この範囲ならば、公債発行や金融緩和政策は、リフレーション作用を及ぼすのみで、インフレ作用を起こさず、逆に、経済の繁栄を招いた。しかし、昭和10年前半の頃には、軍事公債予算のリフレーション作用は、すでに限界に来ていた。というのは物資、設備、労力の過剰は一巡してすでになくなり、かつ、世界の日貨排撃の中で輸出は不利となり、国際収支の黒字は消滅していた。巨額の軍事予算を賄うためには、新たに巨額の設備投資を必要とし、国民消費の増大も輸入増につながった。従って、この段階での軍事公債発行は、インフレを誘発する恐れがあった。この期においては、大倉当局は文字通り必死に、インフレの危険を叫び、その防遏に努めた。これが二・二六事件で高橋蔵相暗殺となった、と。これはどういうことか。高橋はかく言う。「昭和7~9年期において当局の繰り返し叫んだインフレ警告が、実際はインフレにならず、逆に国民経済の繁栄を伴ったという事実のため、軍部は11年予算期の大蔵当局の真の警告も、従来の脅しと同視してこれに従わなかった。私(高橋)は、これを、イソップ物語の狼来るの寓話そのままだと、当時批判してきた。慎重の名において早くから大きく警告しておれば間違いない、という単純な考え方は、大失敗に陥る大きな危険のあることをしみじみと考える。父親が常に口やかましく言っていては、スワ大事の時の叱責も、軽く見られ無視される危険があるのと同じだ」

 この重大な時期に、昭和11年2月、二・二六事件が起った。これを境に日本の政治は実質上軍部独裁となり、経済は準戦時経済体制に一変した。資本主義的自由経済を否定する全体主義に、急速に突入した。この過程で、自由経済的立場から、企業側から各種の抵抗があり、軍部も紆余曲折を余儀なくされたが、大筋には二・二六事件を画期にして、経済のあり方、運営の仕方は一変した。昭和12年7月の支那事変勃発には、名実ともに、戦時統制経済に突入した。

世界経済(貿易)の変化と日英米の対処

2015年12月05日 | 歴史を尋ねる
 昭和11年8月、アメリカ・ヨセミテ国立公園で第六回太平洋会議が開催された。今度のプログラムはアメリカのニュー・ディールが中心課題であった。ところがふたを開けてみると、どの問題の場合にも、結局日本が問題の中心になって、日本に対する空気はかってない程悪かった、と。うーむ、さしずめ現在に当てはめれば、台頭する中国の感じかな。同年2月、二・二六事件以降の軍部ファッショが露骨になったことが根本であった。高橋は両会議とも出席したが、大会参加を通じて、二つの事を深く考えさせられたと記している。第一は、欧米のモノの考え方は、欧米(白人)中心のものであること、第二に、日本人のモノの考え方は、日本の地位が著しく向上して、その一挙手一投足が世界に少なからぬ影響力を及ぼすに至ったにも拘わらず、昔の小国時代にのみ許される自己中心主義を依然続け、国際的影響を考慮することに少なからず掛けていたこと、この二つの歪みが絡み合って、日本の立場が国際場裡において非常に不利になっている。当時の世界的日貨排撃の裏に、そうした根本の問題が潜んでいることを痛感した、と。

 「昭和7,8年以降突如として、日本の経済動向が世界の形勢を積極的に動かし出してきた。これが、世界が最近日本問題を中心議題として日程に上げるに至った理由である。・・・日本人自らは、日本の力が世界に少なからず影響力を及ぼすように大きくなったことを未だ自覚せず、小国時代の我が儘な身勝手なやり方をしている。これが愈々問題を大きくしている。吾々は深く戒めて大国としての教養、襟度、抱負、責任を持たねばならない。」 対外関係だけでなく国内にも同じ性格のものが起った。昭和2年の金融恐慌と世界恐慌を通じて、三井・三菱・住友などの大財閥は、威力を発揮しずば抜けた存在になった。それにも拘わらず、群小業者を犠牲にして自己の利益の伸長をはかる自由経済を当然視していたことに対し、社会的非難が起った。大財閥がその地位を自覚し、大財閥らしい考え方に進化したのはこの頃からであった。では、政治家についてはどうか。国際的地位の急上昇に対する心構えについて、この自覚が起れていたエピソードを高橋は披歴している。
 次代の政友会総裁候補だった床次竹二郎が高橋を招いて、「日本丸という船をどこにつけたらよいか、目的地がはっきりしておった。地図がちゃんと備わっていた。ところが、現在は船をどこに着けるのか、目的地がまるっきり見当がつかなくなった。文字通り五里霧中で憂慮に耐えない。日本を何処に持って行けばよいか、その話を聞きたい。」 高橋の答えは次の通り。地図があったのは、日本がずっと後進国で、後について行けばよい時代だった。自分(高橋)は歴史を書こうと思って、その材料探しに農林省や商工省の文庫とか大蔵省の文庫とかを調べたことがあるが、各省とも、日本自身に属する参考書は極めて僅少で、大部分は外国の参考書がずらりと並んでいる状態であった。例えば農商務省には自身の統計そのものが、第一回から続いたものがない。欠けて補ってない。各省が委員会を開いているが、その資料が主管省に揃っていない、散逸している。日本政府は、自身の資料を揃えていない。僕らが何か新しい説を立てると、一体その原書は何ですかと聞く人がよくいた。何か新しい政策を実施しようとすると、容易に同意を得難いが、外国ではこうして実行していると説明すれば、すぐに通るという状態であった、と。明治、大正のある時期までは、先進国の先例を探せば間に合ったが、昭和の十年代に近くなると、日本に新しい問題は向こうにも新しい問題で、日本自身、その進路を自ら開拓していかなければならない新段階に到達した。にも拘らず、自覚も訓練も出来ていなかった。もっとも、その後においては日本も外国に学ぶものはないと云う風に、行き過ぎてうぬぼれた人も随分あるようになり、そのに無謀の大戦を起した禍根が培われた。結局、自分自身でものを考えるという訓練が出来ていなかった。そこに、後日、軍部に乗ぜられるに至った隙の根本があった、と。高橋の結論は、必ずそこに行きつく。うーむ。

 もう一つ、高橋の欧米視察旅行で得た考えを披露している。昭和8年第五回太平洋会議後、武藤山治の依頼でロンドンで開かれる綿業会議に側面から支援するため英国に向った。この機会に欧州各国を回り、再度米国に渡って、ルーズベルト大統領のニュー・ディールを、ニューヨーク、ワシントン中心に研究し、テキサスのヒューストンなど米国南部の各地を回っている。そして著書「世界資本主義の前途と日本」を出版した。
 「世界経済の動向は三つの大きな流れがある。①欧州経済の世界優位の転落と、世界的経済均衡の破綻、②日米経済を先頭とする非欧州諸国の台頭と、それに関連する国際経済上の摩擦、③資本主義的生産過剰に処する新規の施策とその影響。①と②とが始まって、一方には輸入割当制度の普及(次第にブロック経済体制に進展した)、一方には、満州問題以上に世界に耳目を集めている、日貨進出の白熱化であった。加えて、資本主義的生産過剰問題が浮上、米国ではニュー・ディールとドルの平価切下げ政策となって、世界経済に影響を及ぼしていた。」 
 当時日本では、世界経済のこうした変革を、世界恐慌を克服するための一時的対策と見なす見解が依然強く、オーソドックスな自由貿易原則や金本位制原則を固執して、対外・対内政策を論ずる風潮がなお一般的であった。高橋は欧米の視察から、これを世界経済の根本的変革とみて、対外、対内政策を新事態に即応させることを訴えるため、上記著書を出版したという。その時のエピソードを紹介している。ロンドン滞在中、英国元蔵相、現ミッドランド銀行総裁マケナンに取材した。高橋の質問に対するマケナンの回答は英国自身の不況対策であった。高橋は、英国の対策ではなく世界不況に対する対策であると再質問したら、「ポンドブロックの英国経済は世界経済の大部分の領域を支配している。従って、英国経済がよくなることは、世界経済がよくなることであって、英国の不況対策は同時に世界の不況対策である」と。英国が自国の利益を、世界の利益の名において常に主張する(例えば日貨排撃)習性の根底に触れたと記している。第一次大戦後、米国、日本などの急激な台頭で、英国の支配力が衰退しているにも拘らず、依然昔の考え方から脱却していない、そこに英国と世界の悲劇があることを発見した、と。
 一方、大戦後米国の世界経済支配力は俄かに強大となったが、アメリカ人はこれを充分理解、自覚せず、依然昔の西欧支配から独立することを眼目としたモンロー主義の殻に閉じこもった思想や行動を続けていた。これが世界恐慌を、ああまで激化拡大させた要因であった、と。それは、世界恐慌収拾の主役を、イギリスに代って、或いはイギリスと共同して、引受けることを、実力者となったアメリカは拒んでいたからと高橋。これはまた、第二次大戦後、世界のまとめ役を買って出たアメリカの思考と行動とを対比すると一層明確になると、記している(「私の実践経済学はいかにして生まれたか」)。

世界的日貨排撃に対する論戦

2015年12月03日 | 歴史を尋ねる
 昭和7年後半から8年にかけて、日本品の飛躍的進出は英国を中心とする世界的日貨排撃の圧力となり、当時対外政治経済上の中心的課題となった。太平洋調査会会議は政府に関係のない民間の有力者が三カ年毎に会合して、時の国際的重大問題を討論し、相互に理解を深めることを目的としたもので、参加国は日本、支那、英国、米国、カナダ、豪州など太平洋岸の十カ国で、各国とも有力者を送っていた。初代理事長は渋澤栄一であったが、当時は新渡戸稲造博士。特に昭和8年の第五回会議は、当時日本は国際連盟を脱退していて、国際会議に顔を出す機会を失っていたので、この太平洋会議は特別に重視された。日本委員の選定は、語学に秀でた人が従来のしきたりであったが、新渡戸はこの際重視されているのは適格な専門家である、通訳は鶴見祐輔が引き受けるからと、高橋亀吉が日貨排撃問題の担当として出席した。

 当時の状況を鶴見祐輔は次のように語っている。「今度の太平洋会議の眼目は、英国を政治的に考えると、もう満州問題ではない、日本の経済的発展工業的発展という事がそれ以上の大問題である。特に英国の綿糸綿布の製品が、全世界において日本の商品に駆逐されるという事が大問題である。それで日本の工業品進出の出鼻を挫き、世界の学者に日本が悪いという事を、納得させようとした。英国に陣立は、委員長に国民内閣の内務大臣として辞任したばかりの自由党総裁サー・ハーバート・サミュエル、その周辺には、保守党・労働党の上院議員、自由貿易論者の学者が揃っていた。花形はロンドン大学のグレゴリー教授を連れてきて、インドへの日本の綿糸の進出は日本が悪いという結論を付けさせようと見られた。その横にはマンチェスター商業会議所の前の議長らも同席した。グレゴリーが正面から理屈を言うと実務家がそれを補足する、第四番目の円卓会議で、日英は火の出るような論戦となった」と。高橋の出席した第四円卓会議は日本品の世界的進出が不公平競争か否かに対する論戦で終始した。その時の論戦の模様が詳細に鶴見祐輔の報告演説で紹介されているので、ここに要旨を引用する。

 「日本品が全世界に出て来たのは日本の賃金が安いから、低き生活程度の日本は勢い賃金が安いから、英国や米国のように高い賃金で製造した品よりは値段が安い。故に安い賃金で造った品物で高い賃金で造った品物と競争するのは不正競争である。それだけでなく、直接の原因は、日本の金本位離脱で故意に為替相場を下げた。日本は為替相場を下げ、安い円で造った品物を高いポンド高いドルの国へ売り出している。これは為替ダンピングである。言い換えれば日本品の海外進出は不正競争である」これがグレゴリー教授の論旨であった。さらに実務家が補足してマンチェスターの事情を述べ、五十万人いる紡績工の大部分は失職した、と。
 太平洋会議を刺激した大議論は生活程度というテーマだった。高橋がその会議の為に前日書き上げた論文は次の通り。生活程度とは何か。あなた方はドルとポンドを標準に生活程度を議論されるが、その購買力とドルやポンドの購買力を考えていない。また社会習慣も考慮されていない。そして物質的に多くの金を使っているのが、何故生活程度が高いと云えるのか。更に論を進め、物の値段が定まるのは、①原材料の値段、②資本の利子、③賃金である。日本は賃金が安いかもしれないが日本には原料がない、日本は最近の資本主義国であるから利子が高い。日本はやむを得ず安い賃金でこれを調整している。マンチェスターの労働者は不器用な男工である。日本の労働者は7割8割が女工である。日本の女工は4年間しか働かない。嫁入り資金を稼いでやめる。初めの2年は簡単な機械を扱い、後の2年は複雑な機械を扱う。あなた方の方は30年かかっている。
  そうすると日本で生まれて銀行の重役をしている議長が、コメントして、日本で職工を非人道的に使っていると思うかもしれないが、日本の工場では学校、病院の設備まであり人道的である。4年で職工を交代する国は世界に無い。これは日本の優秀なる国民性の結果であると言った。これにはイギリス側も一言もなく、日本の技術の優秀であることがそこで決まった。更に豊田式紡織機は英国の十倍の能率を発揮して、製造される綿糸綿布の安くなるのは当然だ、それは日本人の技能と優秀な国民性からきている。

 日本は金本位を離脱して有利になったと言われるが、金本位離脱を先にやったのは英国である。あなたの国でポンドを下げた。その結果英国の商品が世界に進出した。その範を示したのは英国である。後で英国の内地の物価が上がって、ポンドの値下がりだけ相殺されたため、英国の貿易は旧に戻った。それと同じ現象が日本でも起こっている。一時の現象たる為替値下がりに対抗して関税の引き上げをやる方が不正ではないか。以上が日本側の論旨であった。翌日のニューヨーク・タイムスにこれらの議論が報道された。太平洋会議のこうした議論は、英国側が謗るような日本が不正競争をしているのではないことを、世界の認識させる有力な動機になった。その後国際連盟は労働局次長を日本に派遣し実地調査を指せ、その報告は、日本にソシャル・ダンピングの事実なしという報告をしている。また、英国自らも調査団を派して実施調査したが、これも不正競争の事実はないことを認めざるを得なかった。
 そこで英国側は表立って不正競争とかソシャル・ダンピングとかの名で非難する事をやめ、今度は「失業者をこれ以上出されては困る。自国産業を保護・維持しなければならぬ。この現状を破るものは、たとえ正当競争といえども、これを放任する訳にはいかない。効果的方法を以て、その進出を防がねばならない。」 ロンドンで開かれた綿業者の日英会商は決裂し、英国は各種の政治力を以て日本品を圧迫し始めた。

世界恐慌後の日本経済躍進時代 2

2015年12月01日 | 歴史を尋ねる
 世界恐慌は1929年(昭和4年10月)に口火が切られ1933年(昭和8年)まで約4年間続き、漸く1934年に至ってひとまず収拾された。その収拾過程で、世界の資本主義経済は、革命的といってよいほどの変容をした、と高橋。
 ①国際自由金本位制度が崩壊して、管理通貨制度がこれに代った。
 ②国際自由貿易原則が破壊されて、ブロック経済体制が支配的傾向となった。
 ③為替相場の引き下げ競争=為替戦争を始めた。
 以上のうち②と③は国際経済を破壊し、第二次世界大戦を培う結果になったので、戦後はこれを克服するため、アメリカ主導の下に国際通貨基金制(IMF)とガット(関税及び貿易に関する一般協定)とが国連の一翼として、国際協約の形で生まれた。

 世界恐慌は三つの波を打っていることは既述済み。第一波はニューヨーク株式暴落、第二波は中欧の金融恐慌、第三波は米国金融恐慌。このうち第二波の打撃が最も激烈かつ深刻で、物価暴落が最も甚大な時期であった。当時の国際商品価格の暴落率は最低約6割、最高約9割であった。しかも短期ではなく、前後4カ年続いた。日本は昭和6年12月新たに誕生した犬養内閣で金再禁止を断行、5月の五・一五事件前後から円為替が暴落したので、これが防波堤となって、世界恐慌最悪期における国際物価暴落の被害は、免れることが出来た。因みに、円為替の平価に対する暴落は、ドル対比41%、ポンド対比35%に下がった。
 日本経済が第二波を免れたということは、日本経済の立ち直りが世界中で最も早く、かつ力強いものとなった要因となったが、これをもたらした金再禁止後の推移は、政府の自主的施策の基づくよりも、満州事変~五・一五事件という、一連の軍部ファッショの財政膨張強要の僥倖的結果であった。この時も政策論争が沸騰した。当時各国は、恐慌克服対策として物価回復に重点を置き、その対策として、①金利の思い切った引下げ、②財政的にはリフレーション政策を採用し、公債発行による景気回復政策を大規模にとる、③さらに為替相場の意図的引下げ政策を採った。しかし、日本の財政当局は、金再禁止を断行したが、当初は以上のいずれの政策についても、進めることを渋っていた。高橋ら民間エコノミストは、そうした政策を積極的意図をもって計画的に実施すべきことを主張したようだ。

 この間に、満州事変の意外な拡大―軍事費の予想外の拡大―五・一五事件を契機に経済政策はリフレ政策に転じ、農村匡救予算の拡大などによって、財政のリフレーション(マクロ経済政策(金融政策や財政政策)を通じて有効需要を創出することで景気の回復をはかり、他方ではデフレから脱却しつつ高いインフレーションの発生を防止しようとする政策)化が進行し、かつ、円為替相場は軍事費予算の膨張(政府が軍部の抑制不足)と、国際連盟脱退などから、前途の財政不安から海外の投資思惑が円売り又は対日投資引上げに遭い、円為替は既述の通り二分の一以下に暴落、遂に為替管理を実施して、その安定を図るに至った。以上の結果、日本経済は昭和7年後半から、8、9、10年にかけて、誰もが予想しなかった一大躍進を遂げた。具体的には、①日本の輸出の世界的躍進、②満州国を中心とする日満ブロック経済構想の下での大陸開発(満州、朝鮮)、③軍事予算の膨張を中心とする軍事産業の勃興、の三つが重なり合って現れた。特に軍需品の自給自足目的で、日本の重工業の保護育成を大規模に推進させ、戦後の重化学工業発展の基礎を培う結果になった、と。

 昭和7~10年期に、巨大な財政支出(巨額な公債発行)によく耐えた裏には、特殊な理由があったと高橋は云う。①輸出が一大進展を遂げて、国際収支力を潤沢にしたこと、②輸入物資が暴落して貿易条件が著しく有利であったこと、③昭和4~7年の大不況で国内の設備や労力が遊休にあった、かつ、米その他の農産物が過剰状態にあった。従って遊休設備や労力や、過剰物資をフルに活用しきる段階まで、財政の膨張は好影響を及ぼし、物価や国際収支に悪影響を与えずに済んだ。
 しかし、日本の輸出が世界市場で躍進的に進展すると、恐慌の疲弊に悩む各国、特に英国の競争企業を大きく圧迫し、各国で日本品圧迫の大運動が野火のように拡がった。当初英国を中心に不公正競争だと非難し始めた。パンフの太平洋調査会会議でイギリス委員と論争し、そうでないことを論証したが、今度は個々の企業がダンピングをしていないが、国民経済として、過度の低賃金と円為替暴落の両面から損をして投売りしているとして、ソーシャル・ダンピング又は「世界産業平和の敵」だと非難し始めた。日本はこの日貨排撃の対応を迫られた。