桂太郎 予が命は政治である 2

2014年04月30日 | 歴史を尋ねる

 日英同盟交渉が動き始めたのは、第一次桂内閣発足から2か月後の明治34年(1901)であった。桂は伊藤と日英協約問題で意見交換し、①日本の安全のため韓国を他国に侵略させない、②ロシアの満州での統治権を拡張させることは韓国の独立を危うくする、③満州における統治権の拡張は、日英両国の政策たる門戸開放・領土保全と矛盾するものである、とこうした考えを二人で即興的にまとめた。この後、小村新外相のもとで日英交渉は軌道に乗り、①朝鮮における日本の利益を保持し、他国に妨害させない、②清国の領土保全と門戸開放、③両国の防守同盟、という日本側原案を提示した。伊藤はむしろこの時日露協商締結に向けて活動していたが、こうした動きに英国も明治35年(1902)日英同盟に踏み切った。こうして桂と小村は日英同盟によってロシアの南下を抑止し、その間に清国本土に経済進出するという、彼ら本来の国策構想を実行に移そうとしていたが、日英同盟の対露抑止効果は二人が考えているほど大きくはなかった。ロシアは軍艦19隻を極東に派遣するとともに、旅順口で7隻の駆逐艦を竣工させ、更に三隻の戦艦を東洋に向けて航行中であった。増派された陸兵は4万人に達した。一連の積極策は、ベゾブラゾフに代表される対日強硬派が皇帝周辺で急速にその発言力を強めていた結果だった。事態の急転に衝撃を受けた伊藤、山県、桂、小村は無隣庵で凝議した。この決定に従って明治36年(1903)日露間の直接交渉が開始された。日本側から口上書が手渡されが、ロシア側対案は到底呑めるものでなかった。その後も交渉が続けられたが、ロシア政府内部の混乱もあって、翌年明治37年2月10日日本はロシアに宣戦布告した。

 戦局についてここでは省略するが、戦況はバルチック艦隊を連合艦隊はほぼ全滅させたものの、日本側の戦力はほとんど底をついていたという。ロシア国内の厭戦ムード(血に日曜日事件)や米国ルーズベルトの熱心な調停もあって講和会議が開かれる運びとなった。尚ここで、、小林道彦氏は桂の戦争指導について触れているので、見ておきたい。桂首相は現役将官(大将)であったから、日露戦争の戦争指導にも深く関与していたという。機密日露戦史によると陸軍に関する重要な決議事項は、すべて山県元帥の内協議を経た後、これを山県、桂首相、陸相、参謀総長・同次長よりなる毎週の定例会議で決定し、それから大本営会議に移していた。例えば総理大臣の資格で、陸軍の南北二正面作戦検討の大本営会議、203高地の攻略優先を決定した御前会議にも出席していた。単純に統帥に対する文官の介入とは言えないが、軍内部に微妙な波紋を投げかけていたという。首相たる桂大将が文官の地位を以て兵事に容喙したとの非難が陸軍内部に起こっていたらしい。

 日露戦争はロシアにとって極東という辺境の地での軍事的敗北にすぎなかった。日本陸軍が陸上戦闘で決定的勝利を収めたわけでもなく、絶対的勝利を収めることはそもそも不可能だった。しかし、開戦当時の予測に比べれば、それはまさに目も眩むような大勝利であった。一時は、満州におけるロシアの支配権を事実上承認せざるを得ないところまで追いつめられていた日本は、気がつけば韓国はおろか南満州までをも勢力範囲とする大陸国家になっていたと小林氏はいう。朝河のいう米国の懸念は、見えなかったということだろう。この間、桂内閣はイギリスから同盟強化の申し出に応えて、第二回日英同盟協約の締結に踏み切った(明治38年8月)。これは韓国保護国化の承認と引き換えに同盟の適用範囲を東亜およびインドにまで拡大したもので、日本はインド防衛に関して間接的な責任を負うことになり、さらに同盟は攻守同盟に強化され、その抑止効果の強化も図られた。さらに桂は来日中の米国のタフト陸軍長官と覚書を取り交わし、米国のフィリピン支配と日本の韓国保護化とを相互に認め合った(7月)。


桂太郎 予が命は政治である

2014年04月26日 | 歴史を尋ねる

 桂太郎(1847~1913)は、「憲政の神様」尾崎行雄の日本憲政史上に残る名演説の前に立ちすくむ藩閥政治家、山県系官僚閥ナンバー2の陸軍大将として韓国併合や大逆事件を主導した保守反動政治家とイメージされている。桂は若き日陸軍将校として新興国家ドイツに留学し、山県のもとで、憲法制定に先立って近代的軍事組織を導入することで自ら明治国家建設に参画、日清戦争に出征した後、陸軍大臣として政党勢力と対決し、第一次桂内閣を率いて日露戦争を乗り切り、その後明治天皇に信頼されて公爵にまで昇叙され、ついに元勲と遇せられるようになったが、何故か突如として、それまでの政治的栄達を無にしかねない政党政治家への転身を試み、その第三次桂内閣は議会を取り囲む憲政擁護、閥族打破の歓声の中にわずか2か月余りで総辞職した。小林道彦著「桂太郎ー予が命は政治である」は、この転身を促した桂の志しとは何だったのか、その秘密を探っている。桂は陸軍出身の藩閥政治家でありながらあえて新政党を自ら組織して、桂園体制と呼ばれた日露戦後の安定的な政治体制を打破しようとし、その夢はあえなく潰えるが、桂新党=立憲同志会に結集した政治家の中には、加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸らが含まれ、彼らはやがて戦前期日本を代表する政党政治家に成長、政党内閣の時代(1924~1932)を支えた。このブログでは、明治期の軍事と政治の距離感、日露戦争推進責任者としての桂を調べてみたい。

 明治34年(1901)第一次桂内閣が成立した。陸相就任後わずか3年で、首相の座に就いた。当時伊藤は政友会の党内運営に苦心していた。一方山県閥は藩閥を超えて山県系官僚閥へと大きく変容を遂げていた。その中で桂は、第三次伊藤内閣以来の陸相として、憲政党・星亨を向こうに回して渡り合い、地租増徴の道筋をつけた桂の政治的手腕は、明治維新第二世代の中では一頭地を抜いており、山県はそれを高く評価した。また、ロシア軍の満州占領で国際関係が緊張しつつあったこの時期、陸軍軍政を知り尽くしている桂を首相にすることは、時宜にかなっていた。内閣の顔ぶれは、桂太郎首相、小村寿太郎外相、内海忠勝内相、曾禰蔵相、児玉源太郎陸相、山本権兵衛海相、清浦奎吾司法相などで、七名を山県系が占めた。当初短命が予想されたが、第一次内閣は4年7か月という戦前における最長政権となり、この間日露戦争をはじめとする数々の試練を乗り切った。首相になると本来は予備役になるが、明治天皇の内旨により、桂は特に陸軍大将として現役軍人であり続けた。桂の組閣構想では外相に加藤高明を留任させる予定であったが、加藤は英国流の責任内閣制を目指していたことで、前内閣の連帯責任を主張して受諾せず、急遽駐清国特命全権公使の小村に白羽の矢が立った。日清戦争の最中に第一軍の民政長官として辣腕をふるったことから桂の知遇を得るに至った。やがてその抜群の政策立案能力で桂の腹心中の腹心へと急成長、児玉とともに桂を支えた。

 小村は内閣入閣時「内政外交に関する十年計画意見」を執筆していた。その内容を一言でいえば、清国本土への経済発展のための内政改革の推進ということであったと小林氏は要約する。(地租増徴継続、外債募集で財政基盤を固めると同時に地方分権を進めて中央集権の弊を改め、海軍の拡張・鉄道の広軌化、海外航路の拡張、産業基盤の整備、貿易諸機関の整備、京義鉄道の南満州への延長、南清鉄道の建設、日清共同事業の奨励など) 当時伊藤・政友会が内向きの政治改革構想を唱えていたのに対し、桂・小村は全国の力を挙げてこれを外部に向かわしめる計に出るべきだとしていたというのである。小村には満州そのものに進出しようとの発想はなかった。満州やシベリアは貿易上有望ではなかった。日英協約を結べば、英領植民地や中国本土への日本の経済進出が容易になる、日英同盟でロシアの満州併合、列強による中国分割という最悪の事態を抑止し、その間に日本は中国本土に経済的平和的に進出しようとするものであったと小林氏は小村の政策を結論づける。


国家目標の模索

2014年04月17日 | 歴史を尋ねる

 日露戦争の予想以上の勝利によって、日本は幕末以来の国家的危機を乗り越えることと同時に、韓国と南満州をその勢力範囲とする地域大国への道を歩き始めることとなった。明治という国家がその発足以来一貫して追求し続けていた国家目標、万邦対峙は、ここに最終的に達成された。しかしそれは同時に国家目標の喪失をも意味した。20世紀という新たな時代のただ中へ漕ぎ出そうとしていた日本人は、ここに新たな国家目標を模索しなければならなかったと、「桂太郎」の著者小林道彦氏はいう。明治38年(1905)9月、東京日比谷公園で開かれた、河野広中ら講和問題同志連合会主催の国民大会に詰めかけた数万の群集は、講和条約の破棄と戦争継続を主張して暴徒化し、以後三日間にわたって東京全市は混乱の巷に化した。戦時中の非常特別税の重課や物価騰貴に苦しめられていた都市民衆は、ポーツマス講和条約の内容、とりわけ無賠償講和に憤激し、警察署などを襲撃・焼打ちする暴動を起こしてしまった。翌日も騒擾は一向に沈静化せず、路面電車も焼打ち、深夜に及んで桂太郎内閣は戒厳令を発令して近衛師団などを出動させて治安維持に当らせるとともに、新聞雑誌には流言蜚語を厳しく取り締まった。桂は政事と社会とを混同すれば、事態は由々しきものになると考え、反政府勢力によって政治利用されないよう警戒した。そして桂が道筋を付けなければならなかったのは大陸権益を新たな国家経営構想の中にいかに位置づけるかだと、小林氏は推量する。

 当時の南満州は帝政ロシアが造成したポート・アーサーとダルニー(旅順と大連)以外には、奉天ぐらいしかめぼしい都市は見当たらない朔北(さくほく)の地であった。清朝はその発祥の地である満州を封禁の地として、漢民族の移民を厳禁していた。多額の戦債をかかえた日本がこのような土地で植民地経営を行ったところで、それはいたずらに日本の国力を消耗させるだけだ。後に満州権益の死守を唱えるようになる山県なども、この時点では俄かに商工業上の利益が得られるとは考えず、満州における軍事計画は存在しても、その植民地経営は存在しなかった。当時陸軍中堅層の田中儀一なども、日本軍の早期撤退とともになるべく多くの清国軍を進駐させ、清国軍を朝鮮保護の藩屏たらしめるべきと主張していたらしい。山形ですら満州経営には乗り気でなかったから、日本の対外膨張に清朝であった伊藤や井上などは、満州経営が日本にすぐに経済的収益を上げられるとは考えていなかったと、当時の文献を読み込んで小林は推察する、「満州経営はペイしない」と。講和会議の終わった9月、グリスコム米国公使と会談した阪谷大蔵次官は、桂に「満韓鉄道株式会社設立の条件」を提示説明した。①東清鉄道南部支線・韓国鉄道を合併し新会社を設立。②満韓鉄道の財産を一億円とし、新たにアメリカから一億円の株式を募って資本金2億円とする。正貨危機回避という大目的のために、大蔵省は満州のみならず韓国鉄道経営の門戸をハリマンに開け放そうとした。10月ポーツマスから帰国した小村は、桂・ハリマン協定の破棄と彼の「韓満施設綱領」に基づく積極的大陸政策の推進を主張した。小村は外資の導入によって満韓鉄道経営費の財政負担を軽減するとともに、鉄道・港湾等の交通機関の整備によって日本と大陸間の通商貿易を活発化させ、日本の経済発展を促進する考えであった。更に小村は清国政府との談判に当って、満州政策に関する条約締結条件を閣議に提出し決定した。

 山県ら陸軍中央が満州経営に乗り気でなかったが、陸軍内部では別の動きー台湾総督兼満州軍総参謀長の児玉源太郎であった。先に触れた「満州問題に関する協議会」の席上、伊藤から叱責を受けた児玉である。台湾経営を立て直した児玉は、植民地経営は、やり方次第で十分ペイすると考え、イギリス東インド会社を参考に、鉄道経営に仮装した大規模な植民地経営を南満州に展開しようとしていた。児玉は満州経営の中心に陸軍でなく鉄道を据えた。彼は満州鉄道庁の長官に文官の後藤新平を起用しようと考えており、満州における軍政は早期に撤退し、市場開放の実を上げなければならないと考えていた。そこで、会議の席上児玉は、本国に拓殖務省のような主務官庁を設けて、統括させるとの主張であった。児玉や後藤新平、それに小村寿太郎は、山形の軍事大国路線とは異なる新たな国家経営構想を抱いていたと小林は分析する。しかしながら、児玉は間もなく急逝する。そして桂は明治39年1月、かねてからの約束通り、西園寺に政権を禅譲した。


南満州における新旧外交の実行

2014年04月10日 | 歴史を尋ねる

 世界が南満州における日本の地位を忌み懼れるには、尋常一様の理由ではなく、日露戦争の勝利で新外交の二大原理(領土保全と機会均等)を扶植しながら、他方でこれらと相容れない旧式の利権を自ら作為し、敵より獲得したことによる。しかしこれに留まらず、日本が南満州における新旧外交を並び実行するところに主因があると、朝河は指摘する。これには推論が伴っており、正確にいえば、世の報ぜられる日本の行為、世界の主観に映ずる日本の行為が、旧外交を基にした積極的方針のもとで遂行されているように、世に映っている。世人の眼に映ずる南満州における日本の方針は軍事的か、政治的か、経済的か、すなわち、陸海軍の優勢を占めることか、清国の主権を侵食することか、または商工業の主位を獲得することか、もしくは三者を併せ実行しようとすることか、こうした目で日本を注視している。これらを撤兵、租借地、鉄道経営、鉄道地帯に分けて、朝河が言うのであれば、米国から見た疑惑を挙げてみたい。

 撤兵問題:戦前における軍事的危険として露国鉄道の警備兵と租借地の兵備があった。鉄道警備兵は馬賊からの襲撃を防ぐため。ポーツマスでは日本側は鉄道警備兵を制限を加え、さらに日露両国とも鉄道を軍事目的に使用しない取り決めをした。鉄道警備兵と租借地を除いた撤兵は日露とも完了した。さらに日本は清国が兵備を整理して外人の財産生命を保護する実力を備えた時には、露国とともに鉄道警備兵も撤兵すると約した。しかし満州を旅行した米人は、鉄道警備兵だけでなく、鉄道地帯以外の領事館にも軍隊が駐在していると報告している。

 租借地:世人曰くとして、朝河は次の様に指摘する。旅順に駐在する陸海の兵数および防備は何ら制限がないので、南満州の軍事的優位を得ることは難しくない。現在は一師団に過ぎずというが、旅順と日本は距離的に近いため、一旦事起これば直ちに送ることができる。疑惑を招かないようすべき。そもそも租借地は露国が25年の租借期間を定めて清国より借りた。しかし戦前の露国は更新して永久的に運用、清国に還付しないとみられていた。日本が旅順を陥れるや、世人は清国の保全および東洋の平和のためにこれを祝した。日本の公明正大を信じて清国に還付し、外国の軍港にすることがなくなることを予期した。しかし、日本は露国より引き継いだ。もし25年後の1923年、日本が清国に還付しなければ、清国は他国と共同して日本に対し、一大禍乱が生ずるだろう。朝河は日本国民がこの点を意識して、政府又は内閣の変動にもかかわらず、国家の方針とされることを切望している。更に、旅順の兵備は要害防備点を除き、その経営および兵数について公開し、世に無益有害の疑惑を生じさせないよう当局者に願う。旅順は世が日本の軍事的野望の有無を証する中心点である。

 鉄道地帯:日本がポーツマスで鉄道を軍事目的に使わない、鉄道守備兵を少数に限ることは大きな前進であった。しかし世人は日本の南満鉄道を根拠に、政治的侵略を企てていると疑っている。鉄道地帯は単に鉄道敷設および経営に必要なものに限られるべきであるが、露国は戦前右の目的に必要とするより遥かに広大な面積を得て、これを地帯の中に編入した。他の諸国が清国と協約を結ぶ場合、鉄道付属について幅と長さ、使用法、警察法を規定している。しかし露国はこれを適用していない。日本人および世人は戦前露国の言行を非難した。しかし日本は長春以南の鉄道をそのまま引き受けた。そして日本の世論に促されて、かえって奇怪なる地帯を拡張、新市を建立しようとしている。奉天にも長春にも日本軍隊が広大な地域を占め、或いは日本官民が清国官憲を威嚇して数百万坪の敷地を強売した。もし曖昧の中に機を得て私曲を成就するがごとき、前日世に向かって指摘した露国の横暴を今自ら実行すると評せられてもやむを得ない。これらの私曲よりくる一時の利益はいかにも大きく見えるが、これに伴う害悪の大きさに如かず。外は長く清国と相憎み、世界に孤立し、内は国民の政治道徳を腐乱し、世の平和を破るの源は実にこれらの点にあるべし。ふーむ、現実の社会と関わった歴史家にはここまで見える。この慧眼は驚くべきであるが、当時の為政者(外務当局を含めて)届いている様子は窺えない。

 


満州を各国に開放し日本の満州進出を可能とした

2014年04月06日 | 歴史を尋ねる

 日露戦争はポーツマス講和条約を締結したことで一区切りとする歴史書が多い中で、日清善後条約(満州に関する条約)を詳細に語る書籍が少ない中、石原莞爾の依頼で纏めた伊藤六十二郎(東大史学科卒、シベリア抑留11年)著「満州問題の歴史」が手元にあるので、朝河貫一(在米国)と違った角度で、当時を呼び起こしてみたい。

 日本政府において日本の満州進出の基本政策を担当したのは外務大臣小村壽太郎だった。小村は明治33年ロシアの満州占領当時、ロシア駐箚公使としてロシアの満州政策を観察し、明治34年駐清公使として北京に赴任して清国外交責任者慶親王から露清交渉の秘密文書を入手し、ロシアの満州政策を検討した。外交実務者として満州問題に最も精通していた。日露戦争講和にあたって、閣議決定、天皇上奏文に次のように記している。「そもそも日本が安危存亡を賭してロシアと干戈を交えたその目的は満韓の保全を維持し、極東永遠の平和を確立するに在り。これ日本の自衛を全うし、正当利権を擁護するため、緊要欠くべからざるものにして、・・・左の条件は絶対に必要・・・」として、①極東平和の最大禍源たる韓国を全然我が自由処分に委すること。②日本が従来主張したる満州保全の主義に基づき、一定の期限内に同地よりロシア軍隊を撤退せしめること。これと同時に我方においても満州より撤兵すべきはもちろんなり。③旅順、大連の経営と東清鉄道ハルピン支線とはロシアが南満州に威力を振い、進んで韓国国境を威嚇するに至りたる侵略の利器なり。故に遼東半島租借権と鉄道支線とは共に我が掌中に収め以て将来の禍根を途絶すること。以上が絶対必要条件であった。他の条件は事情の許す限り獲得すべきものとした。

 次に小村外相は日露講和条約調印の当事者として、清国との満州に関する条約の談判に当り、次の条件を閣議に提出、決定した。①講和条約3条により日露両国軍隊が満州より撤退したるときは清国政府はただちに撤退地方において安寧秩序を維持するに足る行政機関を設定すべきこと。②清国政府は満州における善政を確立し、外国居留民の生命財産に対し、適当且つ有効なる保護を与うるの目的を以て満州の施政改善に着手すべきこと。③日本政府は清国が満州における外国人の生命財産および企業を完全に保護し得るに至りたりと認むる時はロシアと同時にその鉄道守備兵を撤退すること。④清国政府は如何なる名義を以てするも日本国の同意なくして満州の一部たりとも別国へ割譲し、または別国の占領を承諾せざるばきこと。⑤清国政府は満州内地における左記の都市を外国人の商工業および居住のために解放すべきこと。(ハルピンなど17都市名) ⑥清国政府はロシアより日本国に対する左記の譲渡を承諾すること。・旅順口、大連ならびにその付近の領土および領水の租借権および該租借権に関連し、その一部を組成する一切の権利、特権および譲与。・長春、旅順口間の鉄道および一切の支線ならびに同地方においてこれに付属する一切の権利、特権および財産、同地方において該鉄道に属し、またはその利益のために経営せらるる一切の炭坑。他3項。このうち遼東半島を達するよう努める。

 日本と清国の会議は重ねること21回、漸く両国が条約を調印した。これにより満州を各国に開放して日本の満州進出を可能にした。満州を外国人の居住貿易のために解放したことは日本の功績だと伊藤はいう。確かに、満州は清朝の盛時までは封禁政策をとり漢民族に対しても開放されず、ロシアが満州を軍事占領している時には外国領事館の開設を認めず、外国人の居留地設置は天津条約で開港された営口だけには外国領事館が設置され、僅少の貿易が行われていた。日本は日清戦争で満州の奉天と安東の開放を約束させたが、当時ロシア軍の占領下に在ったために実行不可能だった。満州を解放させたのは満州に関する日清条約(日清善後条約)付属協定第一条だった。「第一条 清国政府は日露両国軍隊撤退ののちなるべく速やかに外国人の居住および貿易のため、自ら進みて満州における左の都市を開くべきことを約す。奉天省6市、吉林省6市、黒竜江省4市」


日本の禍機 3 (領土保全と機会均等の由来)

2014年04月02日 | 歴史を尋ねる

 朝河貫一は「日本の禍機」の中で、領土保全と機会均等の由来を解説し、この2原則を尊重する外交を新外交、侵略主義と門戸閉鎖主義を旧外交と呼んでいる。そして旧外交を代表するロシアを新外交の代表日本が満州で打ち破って、東洋に「清国主権」と「機会均等の」の二大原則を主義として確立したのは、世界史に対する日本は偉大な貢献であったと、朝河はいう。ところが戦後の日本は、米・中の期待を裏切って、主義の実現に努力することなく、「世界史」の要求に逆らって「私曲」に走った。この関係を朝河は掘り下げている。

 世界の事情が要求する二大事の一つは、支那において列国の経済的競争の公平で、いわゆる門戸開放といわれるもの、ただし一国の門戸を開放して列国の競争跋扈を許すのではなく、列国を相等しき機会を得て実業的競争をさせることであり、機会均等または均等待遇ともいう。古来、東洋の薬味と絹類は西洋で貴重品、これらを得るため東西交易の歴史が開かれた。近世の初めポルトガル人がアラビア人と競争して東洋に活動したのが植民運動の始まり、いつしかこの運動が欧州諸国の一大国是となり、これによって欧州植民諸国の興廃が著しかった。この植民運動は東西両半球に拡がり、ついに植民及び征服の余地はきわめて少なくなった。これと同時に欧州列国の工業化が進展、生産過多の患いが生じ、市場を得んとして列強の植民、征服事業を刺激したが、その余地がなくなった先は、東西独立諸国間の貿易を増進するほかなくなった。特に、支那との貿易が欧米のために極めて重要になった。米人貿易商ショーは「今や綿糸綿布の供給のみならず、幾億の生民が将来これを需要する量は計り知れない、列国の利も莫大を信じて、支那貿易の列国間の競争は重大な事業となった。且つ綿糸綿布以外にも欧州製作品の需要は益々増加し、早くも支那の輸入額は早くも輸出額を超過している」 また、忽然日本という新競争国が現れて、低廉の労銀、運賃と同文同種との利便を有して、猛烈に支那貿易を増進しようとしている。欧米及び日本が支那市場における競争・優勝劣敗は激しさを加え、勢い競争の公平にして機会の均等を主張せざるを得ない事態に至った。

 世界が要求する第二の大事は、支那が独立国の体面を保ち、主権を行い、その領土を保全すること、朝河はこれを清国主権と言っている。ポルトガルが16世紀絹の産地である支那に辿り着き、南洋と同じ手段を使おうとして、すぐにその誤りを発見、支那はかつて統一した一大帝国で、支那と対等な待遇すら得ることが出来ず、わずかにマカオの小地点を得て、列国はこの地及び広東で細々貿易をしていた。その間欧米の事情は激変し、多くの植民地を得た英国はようやく支那に近づき、静かに陸上より膨張した露国は北方より支那の国境を圧迫、1840年頃より1898年頃まで60年間は英国が香港を得、露国が沿海州を得、日本が台湾を得、暫時遼東を得たる外は、列国も支那の領土を欲しい侭に割き取ることは出来ず、表面は清国に主権を重んじて実利を得ようと努めた。1899年米国の米国国務長官 ジョン=ヘイが諸国に通牒して、支那における各自の勢力範囲において機会均等を守るべきことを宣明した。(中国進出に出遅れた米国の偽善説もあるが) 翌年義和団事件が起こり、列国は協力して争乱の鎮定及び善後策をはかった。これは支那の領土を保全し、列国の機会を同じくし、一国の私利を握らせないようにしなければ、支那の分割を防ぎ並びに東洋の平和を維持することができないと列国は看破(真相を見抜く)した。この時二大原則は、理論ではなく、約束でもなく、現実外交の根本義となった。

 しかしこの流れに逆らったのが露国で、義和団事件の折、満州における動乱を鎮定して自己の鉄道財産を保護する名目で、兵を送り東三省を占領、北清においては列国と共同歩調をとったが、満州においては単独で支那と交渉することを主張し、朝河に言わせると、「すでに列国の対清外交の基礎とみなされた二大原則を満州にて公然と背くことになるので、表は遵守すると宣言しつつ、実際はこれと相反する幾多の要求を清国に提議すること再三に及べり」 はるかに韓国にも手を伸べて、言語の絶する虚偽、狡猾、前後撞着の手段を頻りに用いてその志を貫かんとコメントされている。そのあと(旧外交)を日本は受け継いだのではないかという訳である。