日英同盟交渉が動き始めたのは、第一次桂内閣発足から2か月後の明治34年(1901)であった。桂は伊藤と日英協約問題で意見交換し、①日本の安全のため韓国を他国に侵略させない、②ロシアの満州での統治権を拡張させることは韓国の独立を危うくする、③満州における統治権の拡張は、日英両国の政策たる門戸開放・領土保全と矛盾するものである、とこうした考えを二人で即興的にまとめた。この後、小村新外相のもとで日英交渉は軌道に乗り、①朝鮮における日本の利益を保持し、他国に妨害させない、②清国の領土保全と門戸開放、③両国の防守同盟、という日本側原案を提示した。伊藤はむしろこの時日露協商締結に向けて活動していたが、こうした動きに英国も明治35年(1902)日英同盟に踏み切った。こうして桂と小村は日英同盟によってロシアの南下を抑止し、その間に清国本土に経済進出するという、彼ら本来の国策構想を実行に移そうとしていたが、日英同盟の対露抑止効果は二人が考えているほど大きくはなかった。ロシアは軍艦19隻を極東に派遣するとともに、旅順口で7隻の駆逐艦を竣工させ、更に三隻の戦艦を東洋に向けて航行中であった。増派された陸兵は4万人に達した。一連の積極策は、ベゾブラゾフに代表される対日強硬派が皇帝周辺で急速にその発言力を強めていた結果だった。事態の急転に衝撃を受けた伊藤、山県、桂、小村は無隣庵で凝議した。この決定に従って明治36年(1903)日露間の直接交渉が開始された。日本側から口上書が手渡されが、ロシア側対案は到底呑めるものでなかった。その後も交渉が続けられたが、ロシア政府内部の混乱もあって、翌年明治37年2月10日日本はロシアに宣戦布告した。
戦局についてここでは省略するが、戦況はバルチック艦隊を連合艦隊はほぼ全滅させたものの、日本側の戦力はほとんど底をついていたという。ロシア国内の厭戦ムード(血に日曜日事件)や米国ルーズベルトの熱心な調停もあって講和会議が開かれる運びとなった。尚ここで、、小林道彦氏は桂の戦争指導について触れているので、見ておきたい。桂首相は現役将官(大将)であったから、日露戦争の戦争指導にも深く関与していたという。機密日露戦史によると陸軍に関する重要な決議事項は、すべて山県元帥の内協議を経た後、これを山県、桂首相、陸相、参謀総長・同次長よりなる毎週の定例会議で決定し、それから大本営会議に移していた。例えば総理大臣の資格で、陸軍の南北二正面作戦検討の大本営会議、203高地の攻略優先を決定した御前会議にも出席していた。単純に統帥に対する文官の介入とは言えないが、軍内部に微妙な波紋を投げかけていたという。首相たる桂大将が文官の地位を以て兵事に容喙したとの非難が陸軍内部に起こっていたらしい。
日露戦争はロシアにとって極東という辺境の地での軍事的敗北にすぎなかった。日本陸軍が陸上戦闘で決定的勝利を収めたわけでもなく、絶対的勝利を収めることはそもそも不可能だった。しかし、開戦当時の予測に比べれば、それはまさに目も眩むような大勝利であった。一時は、満州におけるロシアの支配権を事実上承認せざるを得ないところまで追いつめられていた日本は、気がつけば韓国はおろか南満州までをも勢力範囲とする大陸国家になっていたと小林氏はいう。朝河のいう米国の懸念は、見えなかったということだろう。この間、桂内閣はイギリスから同盟強化の申し出に応えて、第二回日英同盟協約の締結に踏み切った(明治38年8月)。これは韓国保護国化の承認と引き換えに同盟の適用範囲を東亜およびインドにまで拡大したもので、日本はインド防衛に関して間接的な責任を負うことになり、さらに同盟は攻守同盟に強化され、その抑止効果の強化も図られた。さらに桂は来日中の米国のタフト陸軍長官と覚書を取り交わし、米国のフィリピン支配と日本の韓国保護化とを相互に認め合った(7月)。