兵力の逐次投入とローズベルトの隔離演説

2016年11月30日 | 歴史を尋ねる
 石原莞爾作戦部長は、支那事変前は兵力使用反対、事変後は早期和平、もし兵力を使うなら、決定的な効果のある場合に限ると主張していた。石原の下で戦争指導課の主任幕僚長だった堀場一雄は、戦後「支那事変戦争指導史」を出したが、7月10日「戦争指導当局は、実力行使を絶対不可とし、現地に一兵も増加させない主義とした」 一方、万一情勢が実力解決を必要とするならば、15個師団を同時に動員し、戦費55億円を覚悟して一挙解決を図るべきであり、その他の中間的姑息な方策は国家の前途を誤るものなりとかいている、と。
 8月9日、海軍上海特別陸戦隊の大山勇夫中尉は斉藤要蔵一等水兵の運転する自動車で上海租界の管轄下にある道路を通過中、保安隊の一斉射撃を受けて即死した。通州事件と同じように、保安隊が日本人に反抗の姿勢を明らかにした。上村伸一は中国側の「前線将兵の抗日熱は、すでに政府のコントロールし得ないものになってしまった」と書いている。
 海軍は陸軍の出兵を要求し、陸軍はその時点では交渉による早期収拾を期待して消極的であったが、従来陸軍の華北出兵に厳しく反対だった米内光政海相も海軍の要望として上海出兵を要望した。現地の反日の潮流はとどめるすべもなく、上海における日中間の戦力比から云って在留邦人の危険は目前に迫っている。出兵すれば局地解決の望みが絶たれるが、邦人を見捨てることは不可能であった。石射猪太郎も言っている通り、上海に飛び火した以上もう早期和平のチャンスはなかった。従来、陸海軍間の協定で、上海有事の際は二個師団出兵の約束があったので、石原も止むを得ず二個師団出兵に同意した。しかし、二個師団で足りるはずもなかった。満州事変後の第一次上海事件でも、三個師団半で苦戦した。今回の中国軍は、兵力、装備、士気、とくに抗戦意識は、当時と様変わり、たちまちにさらに三個師団増派と、出兵規模は拡大して行った。

 華北では郎坊事件以来、天津軍を中心に、日本軍は北京、天津地区を占領、平定していた。しかしいったん武力を行使した以上、各地域で摩擦、戦闘は避けがたく、増派を得た現地の軍は、不拡大の中央の方針など無視して、どんどん独自の作戦を遂行した。綏遠事件で敗退した蒙古の徳王は、日本軍の行動を見て、蒙古騎兵は日本軍の先鋒をつとめ、綏遠を占領し、10月には蒙古連盟自治政府の成立を宣言した。こうして戦争は全土に拡がり、当初北支事変と呼んだ紛争も9月2日には支那事変と呼ばれるようになった。もはや実態は全面戦争であり、宣戦を事由とするに十分な中国側の挑発行為も多々あったが、陸海軍の反対で宣戦は思いとどまった。その主たる理由は、公式の戦争となると、アメリカなどが中立義務を守り、日本に軍需物資を売らなくなると戦争遂行上困る、ということであったと岡崎久彦氏は解説する。同時に中国側も同じ事情があった、と。
 のちに近衛文麿が石原に、「なぜ作戦部長たる君が不拡大方針を唱え、政府もこれに和して行動したにもかかわらず拡大したのか」と問うたら、石原は「表面は賛成し裏面で拡大を策した面従腹背の徒にしてやられた」と近衛の手記に書いてあるそうだ。参謀本部が現地に自制を命令すると、すぐに部下から現地に電話で「構わないからやれ」という趣旨を伝えたという。直属の部下の武藤章作戦課長は強硬派の中心人物であった。

 米国は孤立主義の深い底の沈潜していた、と岡崎氏はいう。1935年から1937年にかけて議会は三つの中立法を採択した。(1935年にアメリカで制定された中立法は、大統領が戦争状態にある国が存在していること又は内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁じるというもの) イギリスは、ヨーロッパでヒットラーの脅威に直面していたので、極東だけは何とか米国と共同して事態を収拾しようとしたが、米国はこれに応じなかった。アメリカ国内でも、米国が日本に屑鉄を大量に売っていたが、その輸出禁止も出来なかった。
 昭和12年10月5日、ローズベルトはシカゴにおいて、隔離演説を行い、国際秩序、国際法を破壊しようという勢力の脅威があることに警告を発した。「無法という疫病が広がっていることは、不幸にも真実のようだ。疫病が広がり始める時、社会は病気の蔓延から社会の健康を守るために、病人の隔離を承認し、それに参加する」 キッシンジャーの表現に従えば、ローズベルトのやり方は複雑で、率直ではなかったが、その都度国民を一歩ずつ教育しながら、目的に向けて忍耐強く、仮借なく前進した、と。ふーむ、ローズベルトの眼から見ると日本はすでに隔離すべき病人か。国際社会に無法がはびこるという認識ならば、何らかの制裁が必要となる。しかし孤立主義のアメリカが世界に手を出すことは受け付けない。だから国際法の用語の無い「隔離」という防疫のための言葉を使って尻尾を掴まれないようにしているのだ、と。日米戦争の発端はどこにあるかといえば、ジョン・ヘイの門戸開放宣言でも、スチムソンの満州の既成事実不承認の宣言でもない。それらは二つとも、宣言発出後、事情の変化で一時は消滅してる。その発端は、このローズベルトの隔離演説に始まる、ローズベルトの努力であった、と岡崎氏はいう。キッシンジャーは「アメリカの第二次大戦参戦は、偉大で勇気のある指導者の並々ならぬ外交努力が達成した大きな成果だった」と評価し、真珠湾攻撃がなくとも、ローズベルトが結局「自由の未来とアメリカの安全にとって決定的と考えた戦争に参加させたことは、疑いない」と観察している、と。そして、キッシンジャーは日本を徴発して戦争を起こさせ、結果として世界の自由を守ったその努力を賞讃している。

 この隔離演説はローズベルトの努力の目に見える始まりであった、と。1938年、米国の世論も議会も、経済制裁による対日強制措置を支持するようになった。39年には、議会、世論の圧力を受けた形で、1月には航空機などの禁輸、7月には日米通商航海条約の廃棄通告にまで踏み切った。その頃から、石油禁輸をすれば日本が支那事変を続けられないことは指摘されていた。そしてこれが1941年に大東亜戦争を不可避とする切り札となった。石油禁輸をすれば、日本は全面降伏か、対米戦争になることは、アメリカ側も先の見える人は皆わかっていた、と岡崎氏。

外務省東亜局長石射猪太郎(いしいいたろう)

2016年11月25日 | 歴史を尋ねる
 岡崎氏は第一次近衛文麿内閣のほぼ全期間、外務省の東亜局長をつとめた石射猪太郎の回想を中心に、当時の日本の政治の経緯を追っている。
 石射は異色の外交官で、上海の同文書院の出身、卒業後満鉄に勤め、父の事業を手伝うため帰国、しかし事業は失敗し、就職もままならず、高文試験、外交官試験を合格して、入省早々中国各地の領事館勤務をしたが、やがてワシントンに赴任して幣原喜重郎、佐分利貞男の薫陶を受ける。石射の協調外交、平和外交の信念はこの頃固まった。満州事変の時吉林の総領事だったが、石射はこれを軍の反乱と断じ、翌年5月、「本官は関東軍と両立せず」と理由を明記して、帰朝を申請した。1937年バンコック在勤中、本省の東亜局長になってほしいという電報を受け、一晩考えたうえ、「対華問題につき、大局的見地より軍側とそりが合わぬことをご承知の上ならば、よろしくお取り計らいを乞う」と返電し、やがて就任した。帰朝してすぐ近衛内閣が成立し、広田弘毅外相のもとで働くことになった。

 石射にとって盧溝橋事件のの第一印象は、「また(軍部が)やりあがった」であった。石射はシャム勤務の前、昭和11年7月まで上海総領事をしていた。もし潮の変り目であるその後の一年間上海に在勤していれば、情勢の変化は石射の眼に当然映っていただろうと岡崎氏は推測するが、抗日戦争の勃発を期待する雰囲気が漲っていたのは、むしろ支那側であったという松本重治などの情勢判断に近づいただろう、と。
 事変勃発翌日、石射は外務省で陸軍の後宮淳、海軍の豊田副武の両軍務局長と会合して、事件の不拡大方針を決めた。午後の閣議でこの方針は確認された。11日、日曜日であったが緊急閣議が開かれ、その早朝、若い外務事務官が憤慨して、石射のところにやって来た。陸軍の軍務局から連絡があって、「緊急閣議に三個師団案が出るが、それを外務大臣の反対で葬って欲しい」という。それならなぜ自分たちの力で食い止めないか、卑怯ではないか、と言って口論してきたといった。石射は鵠沼から帰ってくる広田を東京駅に出迎えて、この情報を伝え、「この際、中国側を刺激することは絶対禁物です」と念を押したという。しかし閣議から帰った広田は、石射に「閣議は通った」と語った。居留民の安全と現地軍の自衛のために必要である限り動員を実施するという条件付きであり、その準備のためということで了承したという。ここで石射は、「私と東亜一課はいたく大臣に失望を感じた」と記している。たしかに広田は閣議で一応は動員に反対している。しかし大事な時に、言葉の綾で妥協をしている。
 その日、近衛は閣議の決定について天皇のご裁可を得て政府声明を発表した。声明は「今次事件はまったく支那側の計画的武力抗日なることはもはや疑いの余地なし。よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支出兵に関し政府の執るべき所要の措置をなすことに決せり」と宣言している。そして、事件を「北支事変」と称することを決定し、近衛は同日夜、政界、財界、言論界の有力者を集めて政府の決意を披歴し、支持を求めた。いつもは軍の後手に回って軍に引きずられたので、今度は先手を打って軍をたじろがせるほうが事件解決上効果的だという考え方だったという。うーむ、国外の戦闘が、国内の軍の方を向いて政治判断をする。石射は簡潔に批判する。「冗談じゃない、野獣に生肉を投じたのだ」 これが国民政府を刺激し、7月17日における蒋介石の「いまや中国は日本との関係において最後の関頭に直面している」という、廬山演説に繋がった。

 近衛、広田に失望した石射が一縷の希望を託したのは参謀本部作戦部長となっていた石原莞爾であった。事変勃発の一月前、外務省での会議で、石原が、日本の主要な関心はソ連への守りであり、「自分の目の玉の黒いうちは中国に一兵の出さぬ」と言っていたのが頭に残っていた。石射は秘かに石原と会ってその意思が不変であることを確認し、大いに意を強くしたと記す。石原はいったん作った思想体系を崩すような人ではないが、当初は満州領有論であったが、五族協和の満州国建設を政策と決めてからは、その後一貫してこの信念を守った。
 昭和12年1月に石原が書いた「帝国外交方針改正意見」では、「日支親善は東亜経営の核心なり。これがため帝国は鋭意隠忍して、・・・漢民族が目下苦境とするところを認識し、これを打開して進むべき方向を探し、・・・その建設統一運動を援助する。右は方向の根本にして、帝国はこれによりて支那命脈保持の支柱となり、名実ともに、東亜盟主たるの国格を備えるに至るべく・・・」と、その基本哲学を表明している。同じ時に書いた「対支実行策改正意見」では、「一、帝国の対支強圧的または優位的態度を改め真に友情的対等的ならしむ。二、北支特殊地域なる観念を清算し、北支五省独立の気運を醸成するような方策を是正し、現冀察政権の地域は当然中華民国の領土にして主権もまた中央政府にある所以を明確にす。・・・」と具体的に書き、さらに「五、抗日人民戦線は・・・支那現代の苦悩の一表現なり、これを正当なる民衆運動に転向せしめて以って支那統一、新支那建設の指導者たらしむるを要す」とまで書いている。これは単に彼の思想からくる論理的帰結だけではない、おそらく東亜連盟結成を志して、中国人、満州人、朝鮮人の若者たちとよく交際し、その志を吸収し、それによって彼の理論を補強した結果であろう、と岡崎氏は推察する。更に付け加えれば、当時の蒋介石と話し合える関係が築けたと思う。秘録を精読すると、蒋介石はその都度日本側にメッセージを送っている。しかし当時の史料からは、蒋介石のメッセージに対する日本側の正面から向き合った考えはほとんどお目にかからない。誰か必ず居たと思うが、不思議なところだ。石原の意見は蒋介石のメッセージに対する回答とは言えないが、十分話し合える内容だ。

 1937年(昭和12年)の支那事変(日中戦争)開始時には参謀本部作戦部長であったが、この時、作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時の関東軍参謀長・東條英機ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍へ参謀副長として左遷された、とウキペディアにもある。

 7月11日の閣議決定後、現地では停戦協定が出来たので内地師団動員は保留となった。しかし中国側の下部も中央の統制が利かない。何か衝突があれば、日本側は直ちに反撃する。7月20日、陸軍は再び三個師団の動員を閣議に出した。石射は後宮、豊田両局長と会談したが、豊田は反対、後宮は個人としては反対だが陸軍の部内情勢上動員は止むを得ないという。陸軍部内で強硬派の突き上げが激しかった。石射は大臣に嘆願書を出したが、閣議から帰ると、三個師団動員を決定したという。翌朝、石射は、嘆願を無視したのは部下不信任にほかならない、と部下の上村伸一課長と連名で辞表を広田に提出したが、広田は「動員しても事態が窮迫しない限り出兵しないと陸軍大臣が行っているから」と説明した。石射は、広田に懐柔されたと記しているが、その時点では政府上層部でも、まだ事態の早期収拾を期待する雰囲気が強かった。事実、東京は不拡大を望んでいたのに対して、7月下旬には、むしろ現地において、坊郎事件、広安門事件、通州事件など、中国側による挑発事件が相次いだ。
 7月30日、天皇から近衛に対して「このあたりで、外交交渉により事態の解決を図ってはどうか」とのお言葉があり、一方で石原作戦部長の努力もあって、外務省と陸、海両省で合意した国交調整案(石射の案に沿ったもの)は、中国側が満州国を今後問題にしないと秘かに約束してくれれば、塘沽停戦協定やその後の梅津・何応欽、土肥原・秦徳純協定など、華北に特殊な地位を与える諸協定は皆解消して、南京政府の行政権を回復し、その代わり中国側は反日運動を取り締まる、ということであった。ふーむ、これは蒋介石のメッセージにある程度応えた内容だ。しかし、この交渉はチャネルの行き違いなどがあり、なかなか進まなかった、と。しかし石射は「もし接触がうまくいっても、どうせ結実しなかっただろう」と書いている。それはその時、上海事件が勃発したからだ、と。

主権の護持と暴支膺懲

2016年11月22日 | 歴史を尋ねる
 1937年7月17日の蒋介石の強硬な声明は、全中国のナショナリズムを感奮興起させるものであった。曰く「盧溝橋の武力占拠を容認すれば、北京は第二の奉天となり、北支は第二の満州になる。・・・盧溝橋の保全は全国民存亡のかかるところであり、いかなる犠牲を払っても断固抗争せねばならない」 これが盧溝橋事件の事実関係の誤判断に基づくものと考えると、事件の発端は悲劇的だったとさえいえる。このあと、事件勃発後一、二か月間の招来の運命を決定する重大な時期において事態を悪化させた諸事件は、過去の諸事件とは打って変わって、たとえ中央の指令によるものでなくとも、ことごとく中国側の末端の組織の積極的なイニシアティブによるものであり、中国側はもはやそれを隠そうとしなくなった。日本の軍部には事変不拡大の方針はあったが、軍の威信を傷つけることは絶対に許さないという高飛車な姿勢は変えるべくもなく、これほど挑発しやすく挑発に乗りやすい軍隊もなかった、と岡崎久彦氏は記述する。
 この事変が仮に事実関係の誤判断に基づくとしても、その後の状況を蒋介石から見れば北平が第二の瀋陽となる恐れを持ったのは事実であり、それを日本側が否定した声明が出たようにも思えない。日本側が強硬な声明と批判するのみでは、相互の歩み寄りは出来ない。この辺の日本側の経緯は、当時外務省東亜局長、石射猪太郎(いしいいたろう)を通して次編で見てることとし、事実関係を追っておこう。

 事件は、現地の両軍は7月11日現地協定に合意した。日本政府は一旦動員を発令しながら、事態の推移をみて、動員の実施を保留した。同じころ蒋介石の強硬演説が行われた行き違いはあったが、にもかかわらず現地では局地解決が進行していた。しかし7月25日、郎坊で中国側による日本軍攻撃事件が起こり、26日には広安門事件が起きた。広安門事件とは、城外の日本軍が在留民保護のために、中国側の事前の了解を得て北京城内に入ろうとして城門を通過中に、中国側が通過半ばで城門を閉ざし、城外に残った部隊を銃撃した事件であった。27日の閣議では内地師団動員を決定し、現地にいた日本軍は28日、北京、天津で軍事行動を開始、30日には平津地区を平定して作戦を終えた。その間、多くの事件で、日本人に最も大きな衝撃を与えたのは通州事件であった。
 通州は、日本が非武装地帯に作った冀東政権の中心をなす町で、長城以南では日本の支配が最も安定した地域として多数の日本人が生活していた。ところが、7月29日、日本の守備隊が町を離れた留守を狙って、三千人の中国保安隊が反乱して日本人を虐殺した事件であった。それまで屈辱に耐えて日本人の頤使(いし:アゴで人を使う)に甘んじていた中国人保安隊が、すでに全国に瀰漫していた抗日戦の雰囲気の中で、もう我慢できない、日本人をやっつけろ、ということのなった、死者200名、とくに遺棄された女性の屍体に残る意図的な凌辱のあとは目を蔽わしめるものがあった。こうした雰囲気について、日本側は、中国人の意識がそこまで様変わりをしていたという認識もなく、松本重治のいうとおり「のんき」に構えていた。そして、日本の軍内部だけでなく、国民全体の中に、これ以上中国をつけ上がらせてはならないという「暴支膺懲」のコンセンサスを作り上げることとなった、と岡崎氏。

 その後も、いったん北支では落ち着いた戦闘が中支に拡大し、北支事変が支那事変に変わっていく原因となった第二次上海事変も中国側の挑発であったし、上海事件も通州事件と同じく保安隊の反逆であった。日本人を守る役目の保安隊が機を見ては日本人を襲撃するようでは、在支日本人が全員撤退する以外にはもう戦争以外有り得ない、と。
 支那事変の原因は何だったかという問いに対して、岡崎氏は、直接の原因も、その後の事変の局地解決、不拡大の企図をことごとく挫折させた原因もほとんど中国側にあったと断ぜざるを得ないという。
 事件の事実関係を追えば、岡崎氏の主張に近づくが、蒋介石の立場に立てば、必ずしもそうばかりとは言えない。前回の「最後の関頭演説」に言う様に、中国の主権を侵害することを許さないとする蒋介石が考える最低限度の国権のまえには、多少のいざこざはやむを得ない、それ以上に国家の主権を守らなければならないとする考えも首肯できる。表題にあるように、主権の護持と暴支膺懲というまったく次元の違う国益の衝突で、支那事変は引き起こされたということか。そしてその次元の相違を調整できる人(アメリカを含め)もなく、結果を見れば、日本も蒋介石も敗者となった。

日中全面戦争

2016年11月18日 | 歴史を尋ねる
 1937年(昭和12)7月9日、蒋介石は事変の拡大に備えて、準備を急ぐ。四川にいる何応欽に対し、直ちに南京に行き、全面戦争に備えて、軍の再編に着手するよう命令。廬山に来ていた第二十六路軍総指揮・孫連仲に対して、保定あるいは石家荘まで北上するよう指示。山西省の軍を河北省石家荘に集結するよう指示。同時に軍事関係の各機関には、総動員の準備、各地の警戒態勢の強化を命令。河北の治安を預かる宋哲元には「国土防衛には、死をかけた決戦の決意と、積極的に準備する精神をもって臨むべし。談判には日本がしばしば用いる奸計を防ぎ、わずかでも主権を喪失することなきことを原則とされたい」と電報を打った。
 10日、国民政府は日本大使館に対し「日本軍の行為は計画された挑発であり、不法の極みである」と文書で抗議した。同時に全軍事機関の活動を戦時体制に切り替えるため、緊急措置がとられた。①抗議のための軍隊として第一線百個師、予備軍約八十個師を編成し、7月末までに大本営、各級司令部を秘密裏に組織する。②現有の6カ月分の弾薬は長江以北に三分の二、長江以南に三分の一を配置する。弾薬工場が爆撃される場合を考え、フランス、ベルギーから購入することを交渉し、香港、ベトナム経由の輸送ルートを確保する。③兵員百万人、軍馬十万頭の六カ月分の食料を準備する。
 現地では、この間、日中両軍がにらみ合ったまま、交渉が続けられていた。9日、日本の支那駐屯軍参謀長・橋本群が天津から北平入りし、駐北平武官・今井武夫らと協議を重ねた末、10日、第二十九軍責任者の謝罪、中国軍の撤兵などを内容とする要求を、秦徳純に提出した。次いで交渉の舞台は天津に移され、中国軍側は第二十九軍第38師団長・張自忠が代表となって交渉を続けた。張自忠は病気中で、ベッドに寝たまま交渉に当たった。その結果、11日午後8時、張自忠は中央に無断で、つぎの協定を松井太久郎との間で調印した。①第二十九軍代表は日本軍に対して遺憾の意を表し、責任者を処分して、将来同様の事件が起こるのを防止する。②日本軍と接近する宛平県城及び竜王廟には中国軍は駐留せず、保安隊が治安を維持する。③抗日団体を徹底的に取り締まる。宋哲元もこの協定に同意を与えたが、国民政府は翌12日、南京の日本大使館に覚書を送り、王寵恵外交部長から、いかなる協定であろうとも、中央の同意がない限り無効であると通告している。宋哲元は東京で進んでいた事変拡大の動きを掴めず、独断で協定に応じたのであると蒋介石。(東京の陸軍中央は、当初事件を小規模な局地紛争と判断し、8日夜、参謀総長は「事件の拡大を防止し、進んで兵力を行使することを避けよ」と現地に電命した。現地軍も、9日朝の幕僚会議で、不拡大、現地解決の方針を確認した。しかし一部に強硬論を唱える部門もあり、杉山陸相は閣議で三個師団の増援を要求したが、時期尚早として見送られた。10日になって中国軍が北上を開始した情報がはいり、不拡大派が折れ三個師団増援の方針が固まった)

 7月11日、東京の首相官邸で開かれた五相会議は、内地から三個師団、朝鮮から一個師団、満州から二個師団の覇権を決定、腸線と満州の部隊に華北出勤が命令された。同日夕、日本政府は声明を発表した。「今次事件はまったく支那側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし。よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支出兵に関し、政府として執るべき所要の措置を成すことに決せり」 この声明と共に、事変を「北支事変」と呼ぶことに決定した。その呼び名は、戦火を華北一帯に拡大する意図をはっきり示すものであった、と蒋介石秘録はいう。
 12日、病床にあった田代に代え、新たに香月清司が支那駐屯軍司令官に任命され、参謀本部も対支作戦計画を策定した。
 14日、支那駐屯軍司令官は事件解決のための七項目を冀察政務委員会に提示、①共産党の策動を徹底的に弾圧する、②排日的な要人を罷免する、③排日的機関を冀察から撤退させる、④排日団体を冀察より撤退させる、⑤排日言論やその宣伝機関、及び学生、民衆運動を取り締まる、⑥学校と軍隊内における排日教育を取り締まる、⑦北平の警備は保安隊が担当し、中国軍隊は場外へ撤退する。(ふーむ、随分内政に介入した注文である、そして共産党の活動がトップの注文になっていることが注目される) 現地で交渉に当たる宋哲元に対して、蒋介石は単独交渉に応じてはならない、日本軍の攻撃に対する徹底的抵抗を命じてあった。しかし、彼はこの段階に至りながら、尚も現地解決の望みに固執し、張自忠らに交渉させた。その結果、張自忠らは19日、ほぼ日本軍の要求通りの「協定細目」に調印した。

 16日、蒋介石は宋哲元、秦徳純にあてて、現実を冷静に見つめ対日交渉を誤ることのないよう、自覚を求める電報を打っていた。「連日、日本側が盛んに伝えるところによると、兄ら(宋哲元ら)はすでに、日本軍との間で協定を調印しており、その内容はほぼ、①謝罪、②懲罰、③盧溝橋に駐兵しない、④防共及び排日取り締まり、の各項であると言われる。これらの条項は欧米にも伝えられている。現在の情勢を見ると、日本は全力を以て北平、天津に脅威を加え、この種の約定に調印させることを第一目標にしている。だが、日本の真意を推し量るならば、協定調印を第一歩としながら、大軍を終結させたあとで、再度、政治的条件を提出することにあるのだ。今度の事件はけっして容易なものではない。ただ、兄らが最後まではっきりした態度を堅持すれば、成敗と利失に関係なく、責任は私(蒋介石)一人が負いたいと思う。返事を待つ」 だが返事は来なかった。
 18日にも再度電報を打って警告した。17日、廬山で蒋介石は「日本に対する一貫した方針と立場」を演説し、中一日おいて発表した。いわゆる『最後の関頭演説』すなわち「盧溝橋事変に対する厳正表示」を公表し、中国の交戦の覚悟を公式に明らかにした。
 「吾々は一個の弱国であっても、もし最後の関頭に至ったならば、全民族の生命をなげうってでも、国家の生存を求めるだけである。そのような時に中途半端な妥協は許されないし、中途の妥協は全体の投降と滅亡の条件になると知るべきである。全国国民はいわゆる最後の関頭の意義をはっきり認識すべきである。和平がすでに容易に求め得なくなっている現在、かりに和平無事を求めようとするならば、日本の軍隊を無制限にわだ国土に出入りさせることとなり、逆にわが国の軍隊が制限を忍受し、わが国土に自由駐留する事さえできなくなる。日本が中国軍隊に発砲しても、わが軍は反撃できなくなる。
 我々の東四省が失陥してすでに六年の久しきになる。いまや衝突地点は北平の玄関である盧溝橋にまで達した。もし盧溝橋が日本の圧迫を受け、武力で占領されるならば、わが百年の古都であり、北方の政治・文化の中心、軍事の要衝である北平は、第二の瀋陽となろう。今日の北平が、もし昔日の瀋陽になれば、今日の冀察もまた昔日の東四省となろう。もし北平が瀋陽となれば、南京もまた北平にならずにいられるだろうか」
 この演説は事変解決のための日本に対する最後の忠告でもあった、と蒋介石秘伝は記述する。「盧溝橋事変が中日戦争に拡大するか否かは、ひとえに日本政府の態度にかかっている。和平の希望が残されるかどうかは、ひとえに日本の軍隊の行動にかかっている。和平が根本的に絶望となる一秒前まで、我々は和平を希望し、平和的な外交方法によって盧溝橋事変を解決するよう努力する。だが、我々の立場には、極めてはっきりした四点がある。①いかなる解決も、中国の主権と領土を侵害することを許さない。②冀察の行政組織は、いかなる不合法な改変も受け入れない。③冀察政務委員会委員長・宋哲元らの更迭を何人も要求することは出来ない。④第二十九軍の現在の駐屯地区は、いかなる拘束も受け付けてはならない。以上の四点は弱国の外交の最低限度である。もし、日本が遠く東方民族の将来を思い、両国関係が最後の関頭に達することを願わず、中国両国間を永遠に仇恨を造成することを願わないならば、我々のこの最低限度の立場を軽視するべきではない。吾々は和平を希望するが、一時の安逸を求めるものではない」

 同じ日、外交部は日本大使館より覚書を受け取った。この中で日本は、中国政府の態度を挑戦的であると非難し、「華北の地方当局が解決条件を実行することを、中央が妨害しないよう要求する」と言ってきた。これに対して外交部は、「外交ルートを通じて協議し、解決を図るべきである。地方的な性質の問題で現地で解決出来るものについても、必ずわが中央政府の許可を必要とする」と反論を加えた。
 20日、廬山から南京に戻り、軍事、政治の責任者を招集して対策を検討した。同日、日本の駐華大使館参事官・日高信六郎は外交部長・王寵恵に面会を求め、①南京は華北の一切の現地協定を承認せよ、②反日扇動を直ちに停止し、中央軍の北上を停止せよ、と重ねて要求した。王寵恵はいかなる協定にも事前に中央の承認を必要とすること、中国政府には戦時拡大の意図はまったくないことを繰り返し主張した、と。
 ことの経緯をつぶさに追いかけると、この段階では、どちらが先に発砲したかは既に大きな問題ではない、日中の先々の関係は如何にあるべきか、蒋介石は提案しているが、、日本は相変わらず、従来の思考方法で解決策を模索する、思索の深さの違いが、明確にくみ取れる。日本側は明らかに、軍部ではなく、外務大臣・総理大臣の役割が要求されている。蒋介石の真意をいかにくみ取り、日本の考えを表明する番であったのだ、が。

全面抗戦を決意

2016年11月15日 | 歴史を尋ねる
 盧溝橋事件の発生・経過は、1937年7月8日、蒋介石は廬山で秦徳純らから報告を受けた。その日の日記はこうだった。「倭寇(日本軍)は盧溝橋で挑発に出た。日本は我々の準備が未完成の時に乗じて、我々を屈服させようとというのだろうか? それとも宋哲元に難題を吹っかけて、華北を独立させようというのだろうか? 日本が挑戦してきた以上、今や応戦を決意すべき秋であろう」 日中間の外交交渉は中断したままであり、しかも日本軍の挑発的な大演習が繰り返された末の交戦、これが全中国に対する本格的な侵略の開始となる可能性は、極めて高かった。直ちに宋哲元に電報で指示した。「宛平県城を固守せよ。退いてはならない。全員を動員して事態拡大に備えよ」 蒋介石がこれほど疑心暗鬼になっている時に、日本側からほとんど情報が入らない。外務省が動かない、軍当局の蒋介石側に接触がない。蒋介石の判断は至極もっともの様に見えるが、岡崎氏はもう少し深く当時を掘り下げる。
 事件において誰が先に発砲したかは、未だに謎だと岡崎氏。敗戦国日本の史料はことごとく白日の下に曝された。それなのに日本側になんの証拠がない。張作霖爆殺、満州事変、第一次上海事変、その後の各種の北支工作の端緒になった事件の発端は、戦後そのほとんどが日本側によって仕組まれた事件だったことが明らかになっている。ところが、盧溝橋事件については日本側の秘密工作のにおいがまったくなく、東京裁判でさえその点を問題としていない。日本側が行動の口実をつくりたいときは、偽装工作をしたり、支那人を買収して日本人を攻撃させたりしている。訓練は空砲でやっていたので、暴発もまずありえない。より本質的な問題は、戦略的環境が変わってきていた。昭和6年の柳条湖事件から昭和10年の華北工作まで、問題を起してはそれに乗じて兵を動かし、その結果として新しい成果を得ようとしたのは日本の出先の陸軍側で、中国側は武力衝突まで行っては損をするに決まっている。排日侮日など非暴力的方法で日本人を迫害してきた。しかし雰囲気は変わって来ていた、と。

 岡崎氏は言う。当時上海にいた中国情勢観察者の第一人者である松本重治は、「その頃、日支間には外交上の交渉など全く不可能で、お互い相手を信用せず、また日本側は比較的のんきだったけれども、中国側は、何かきっかけを捉えて全面的な対日反撃に出ようという空気がみなぎっており、北京で会った朝鮮人の朴錫胤の如きは、事変の直前に、ここ一週間の間に必ず全面衝突が起こると予言していた」と回顧している。中国側が自信をもってきた最大の理由は、西安事件以降の国共合作であり、対日共同戦線の結成であった。もう一つ、昭和11年末には綏遠事件があった。それは内蒙古の徳王の軍が蒙古の国境拡大のために綏遠省に攻め入った事件で、蒋介石軍は延安の共産軍を撃滅しようとして戦闘態勢を整えていた時であり、これを痛撃して勝利を収めた。関東軍そのものは参加していなかったが、関東軍参謀長東条英機が計画したと言われ、現に作戦参謀の田中隆吉が指揮していた。この勝利は、中国側に関東軍恐れるに足らずという自信を持たせた。事変勃発の当初の時期、中国軍と対峙した日本軍側は、満州事変の時とまるで別の国の軍隊のような士気の高さを中国軍に感じたという。

 大戦略の面から見れば、中国共産党の戦略は明らかであると、岡崎氏。蒋介石軍が自分たちの方に向かわず日本側と戦争してくれればよい。戦闘が拡大すればするほど、共産党軍は楽になるし、その間自分の勢力を拡大して他日国民党軍を圧倒できる。その目的のために、中国共産党が、日中両軍間の摩擦や戦闘の拡大を望み、発砲の挑発を含めて謀略工作を行っても、それは中国共産党の勝利に貢献した謀略の成功であって、少しもおかしくない。蒋介石のほうは、そんな共産党の戦略戦術は百も承知であり、また、その時点で個人としては日本との全面対決を覚悟していた訳でもなかったと岡崎氏は推定する。ただ、末端の将兵、民衆の間では、もうこれ以上日本の傍若無人ぶりを許さないという雰囲気が瀰漫していた、と。
 中国内の雰囲気は、すでに西安事件前から変わってきていた。昭和11年に入ると、日本の水兵」船員、領事警察、在留邦人に対する殺害事件が相次ぎ、8月には成都事件が起こり、毎日新聞の記者2名、満鉄社員が群衆に殴打惨殺されていた。満州事変の時には中村震太郎大尉の殺害事件を石原は戦闘開始の口実にしようとしたが制せられ、その後鉄道爆破事件を自作して戦争を始めたが、日本側から戦争をしようと思えば、中村大尉事件程度の事件は当時頻発していた。

 たまたま7月1日から蒋介石は、全国の政界、学界、財界、言論界の有力者150名を招いて、避暑地廬山で会議を開いていたが、そこに盧溝橋事件の報がもたらされた。会議出席者のほとんどが激越な強硬論を述べ、蒋介石もこの会議の傾向を抑制できなかった。周仏海は「廬山会議がなかったならば、日中関係は今日のようにはならなかったであろう」と述懐している。中国の知識層のあいだに抗日のコンセンサスが出来ていた。その前提となる情勢判断は、また日本軍がやったという当時の常識論があっただろう、中国側の挑発ということであれば、話は別であろう、と。
 それは日本側も同じであった。事件の報を聞いて、近衛首相の最初の反応は、風見章に対して、まさか日本陸軍の計画的行動ではないだろうなと、問うたと言うことであった。日本側はこんな迷いが在って、すぐの措置も取り損ねたのだろう、良く言えば。

全面戦争に突入

2016年11月11日 | 歴史を尋ねる
 1937年(昭和12)7月7日、夜11時40分、北平市長・秦徳純に冀察(きさつ)政務委員会外交委員会主任委員・魏宗瀚から電話があり、「日本の特務機関長・松井太久郎が来て、盧溝橋付近で演習中の日本軍のある中隊が、中国軍から射撃され、一名が行方不明になったので、調査の為、宛平県(盧溝橋)城に立ち入り検査すると要求してきている」 秦徳純は折から北京を離れていた華北の責任者、宗哲元(「冀察政務委員会委員長・第二十九軍軍長)に代わって、軍政の大権を任されていた。「盧溝橋は中国領土であり、日本軍はわが方の同意もなしに演習を行い、わが国の主権を犯している。これは国際法違反であり、日本の失踪兵についてはわが方は責任を負えない。まして日本軍が城内に入って捜索するなど許されない。ただ、両国の友好も考え、夜が明けてから同地の中国側軍警に探させると、回答しておくように」 七・七事変(支那事変)の第一報はこうして始まったと、「蒋介石秘録」は伝える。

 北平城から西へ15キロ、盧溝橋はマルコポーロが東方見聞録で讃えた大理石の名橋。交通の要衝で、第29軍第37師団が守備していた。その北側の荒地で、日本軍は一日おきに夜間演習を行っていた。この夜、演習していたのは、支那駐屯軍第一連隊第三大隊第八中隊であった。この夜の演習は、いつもと様子が違っていた。日本軍の目的は、明らかに中国軍を挑発することにあった。兵の行方不明も全くのでっち上げで、武力攻撃をこしらえようとしたものだった。日本側の言い分によると、夜十時ごろ、竜王廟方面から数発、堤防方面から十数発の銃撃を受けた後、点呼してみると騎兵斥候一名の行方不明を知り、直ちに豊台の大隊主力に出動を要請した。しかし実際は行方不明の兵は、用便のために隊を離れていただけで、二十分後には帰隊していた。日本軍はその事実を知りながらかくし、あくまでも盧溝橋城への立ち入りを要求し続け、砲火を開く理由とした。(最初の銃撃は現在も謎とされている。清水節郎の手記によると、射撃音から実弾であることを直感したとあるが、発射閃光は目撃せず、中国軍から射撃されたという記述もない。盧溝橋守備のため、駐留してた小隊長・祁国軒は筆者(古屋)に語った。日本と中国の銃の音が違っており、その夜、中国軍の銃声は聞かなかった、と。尚、最初の一発は、共産軍の便衣隊が発砲して事件を起こさせたという推論もあるが、子らに対しても祁国軒は共産軍の銃声も音が違うからすぐわかる筈だが、聞かなかったと言っている)

 8日午前二時、松井は再び城内への立ち入り検査を要求し、もし受け入れられなければ、日本軍は宛平県城を包囲すると通告してきた。秦徳純は武力衝突を避けるため話し合いを始めた。松井はここで初めて失跡兵が帰隊したことを明らかにしたが、今度は失跡の状況を明らかにする必要がある。双方合同で捜査しようと松井の強い要求に、已む無く応じた。要求を受けた秦徳純は城の守備隊と北平周辺防備に当たる師団長に警戒を強めるよう連絡した。間もなく北平と宛平間の電話線が日本軍に切断され不通となった。
 8日午前3時半、宛平県城にいた吉星文は、日本軍の歩兵4,5百人が山砲四門や機関銃隊と共に、豊台から盧溝橋へ向かって移動しているのを確認。宛平県長・王冷斎らも三百人ばかりの日本兵が大型自動車を連ねて出動するのを目撃した。秦徳純はすでに容易ならざる事態に突入しつつあると判断した。直ちに吉星文に盧溝橋及び宛平県城を固守せよ、国土の防衛は軍人の転職である、宛平県城と盧溝橋をわが軍の最も光栄ある墳墓とせよと命令、しかし日本が発砲するまでは絶対に撃つな。日本がもし発砲すればこれを迎えて痛撃せよと指示した。午前4時45分、王冷斎は城内に着いた。別の車で日本側代表も到着しており、直ちに打ち合わせに入った。日本軍が一斉に銃火をひらいたのは、まさにこのときであった。午前4時50分。中国軍もこれに応戦した。ついに本格的な戦闘が開始された。(日本軍の資料によると、行方不明事件の後、豊台駐屯の第三大隊長・一木清直は、北平の第一連隊長・牟田口廉也と連絡を取り、豊台に残る本隊を盧溝橋東約一キロの一文字山に出動させ、午前一時過ぎ清水節郎の第八中隊と合流、牟田口の意向は、宛平県城の東の城内を占領し、現地交渉を有利に導くところにあった。午前3時半ごろ、竜王廟方面から三発の銃声があった。電話報告を受けた牟田口は、午前4時20分、即刻反撃を命令した。第三大隊は盧溝橋北方に展開、攻撃態勢に入った。この時、連隊から調査に派遣された中佐・森田徹が一文字山に到着、森田は攻撃命令が出たことを知らず、攻撃を中止させた。このため、午前5時半、第三大隊は前進を中止、朝食を取り始めたところ、中国軍から攻撃を受け、戦闘に入った、と。ふーむ、いかにもちぐはぐだ。前のめりの様子が見て取れる。)

 日本軍は、盧溝橋の川上にかかる平漢鉄路の鉄橋に攻撃を集中した。陸上部隊のほか砲撃も加わった本格的な攻撃であった。竜王廟をはじめ、盧溝橋北側の中国軍陣地は、ほぼ全滅に近い損害を受け、日本軍に占領された。ここで戦闘は小休止し、いったん宛平県城外で日中両国の交渉が行われたが、日本軍はあくまでも中国軍の撤兵を要求、交渉は物別れになった。午後になると連隊規模の増援軍が続々到着、この間北平では秦徳純と松井太久郎が交渉を行い、次の合意が成立した。①双方は即時に銃撃を停止する。②日本軍は豊台に撤退し、中国軍は盧溝橋以西に退く。③宛平県城内の防備は中国側の別の保安隊が担当することとし、9日午前9時に任務を引き継ぐ。
 しかしこれは中国軍を油断させ、その間に攻撃の準備を整える日本軍の「緩兵の計」であった。9日午前6時、宛平県城の中国軍が撤退を準備している最中、日本軍がまたも宛平県城に大規模な砲撃を加え、この後、両軍は一応定められた銭まで撤退したものの、日本軍は五里店や大井方面で活発な動きを見せ、尚、一触即発の情勢が続いた。

 

日支両国青年座談会

2016年11月01日 | 歴史を尋ねる
 北京(当時は北平)郊外の盧溝橋でナゾの一発から日中戦争が始まったのが、昭和12年7月7日、それから四日後の11日の夜、この座談会は開かれたと文藝春秋。雑誌発売当時の解説には、「北平東四牌楼四五条胡堂の某所に会合した日支両国青年の舌端は火を吐き、日支の現状、アジアの将来を憂うるの至情は火花と散った」とあるそうだ。戒厳令下の北平城内からも最も生々しい第一報だと「文藝春秋に見る昭和史」第一巻はいう。在華日本人青年5名(北平支部員、出張所主任、駐在員など)と中国人青年4名(理事、研究会代表、北平支部長など)の座談会で、雑誌は「砲声殷々たる北平における」とキャッチコピーをつけている。

 座談会の初めは集うことの大変さから始まった。松本「よく集まったな。賀さん達は安全でいいが、我々日本人はここに集まるだけでもまったく命がけですよ。門大街で尋問されてね。僕は北平には永いので顔は知っていたし、強気に出て通ってきたが」 賀「皆さんは支那語も我々とちっとも違わないくらいだし、支那服を着ていたら大丈夫ではないか」 東「いや、駄目だ、いくら支那人くさく装っても、面貌と体つき、特にこの肩の線あたりで区別がつくし、歩き方がまったく違う」 松本「自動車屋に車があるかと聞いたらあるというから、松本だ、直ぐに一台頼むと言ったら、ちょっと待ってくれと電話を切り、故障だから行かれませんと言う」 吉村「僕も中央飯店を出て、いつもなら洋車夫が先を争うが、今日は知らん顔をしている。そのうち一人が支那人と間違えて乗せようとして出てくると、ほかのやつらが日本人だ日本人だよと教えたもんだから、慌てて引き下がった」 松本「それは洋車夫が悪いんじゃない。むしろ役所の指令に忠実なんだ。今度の事件は今までのとちょっと様子が違うね。僕は満州事変の頃も北平にいたが、今度ほど形勢が悪化したことはない。大砲の響きが聞こえたり、民衆の眼も血走ってすごく殺気が漂よっている」 うーむ、今までのいざこざとは様子が違うと、両方とも嗅ぎ取っていた様子がうかがえる。

 続いて 松本「それでは今度の事件の発端である盧溝橋の問題から始めましょう。支那側の発表は?」 賀「支那側では、もちろんその責任は日本にありと断じている。僕らのように日本の新聞も読んでいる者にとっては、両方の声明がまったく正反対なので、解釈に苦しむ」 王「この点で欧米各国の大公使や新聞記者達が真相を掴むのに骨が折れるでしょう。しかし、一般は南京政府外交部員の談として発表されたのを信じている」 日支双方から発表内容のやり取りがあったのち、吉村「ともかく、今度の事件は支那側の計画的な行為だ。あの事件の直前に天津と豊台、北平と豊台間の日本軍の軍用電話が切断されていたそうだ。その他竜王廟付近にたくさんの堅固なトーチカを築いてあったことなども計画的だと見てよい立派な証拠だ。それに二十九軍には兵器弾薬が補給され、秘かに戦闘準備が整えられ、待機の姿勢をさえとっていたという噂だ」 殿「そんなことはない。二十九軍には日本人の軍事顧問の桜井参謀がついていた」「桜井参謀は日本武人の典型と言っていい」 劉「両軍対峙して殺気立っている中を、乗用車の屋根に端座して白旗を掲げて通過して、双方に戦闘をやらせなかったそうだ。聞いただけでも気持ちのいい痛快な話だ」 賀「吉村さん、今度の事件が支那側の計画的行為だと言われたが、我々の方にも日本側の計画的な行為だと思われることがある。6月中旬から下旬にかけて平津地方で日本が何かをやろうとしている、目下計画中だ、近いうちにひと騒動が起こる、と。そのため民衆は内心ビクビクしている中で突発した。皆がそれをやったと思い込んでしまった」 松本「その噂ならば僕も聞いた。僕の家に使っている支那人がこんな噂があると聞いてきたから、絶対ないよと言っておいたが、大砲の音が響きだしてやっぱり起こったと思ったでしょう。その夜、瘤だらけになって帰って来て、飲料水に毒を入れて日本人を皆殺ししろ、そうすれば賞金をやると言われたが、そんなことは出来ないから当分よそに行っていると、泣く泣く暇を取って行った」 吉村「前々から噂を流布して置いて、民衆に充分不安がらせ、敵愾心を煽って、抗日的な雰囲気を作っておいて、頃はよしとばかりやりだすんだから、まったくやりきれない」 武島「その時の、演習部隊は兵は空包だけで、実包は幹部だけが携行していたそうだ」 東「撃ちたくても弾薬がない。日本軍は最悪の場合のみを考慮して、慎重に事に当たっているから、すぐに豊台から補充した」 武島「今になってみると思い当たるが、先月24,5日から今月3、4日頃まで、北平市内外で公安局員その他が猛烈な非常警戒の演習をやっていた。銃をもってあちこち配備についたり、炎天下を走り回っていた。いやに一生懸命にやっていると思ったが、今度のことを予知してやっていたんじゃないかな。戒厳令を布かれたからも、少しも狼狽する様子がなく、稀にみる整然たる配置の線が引いたじゃありませんか」

 その後諸外国の軍隊の駐兵などの議論が交わされ、松本「今度の盧溝橋事件が直接の導火線とはなったものの、根本の原因は、国民政府の狂奔によって醸成された深刻な抗日意識が、二十九軍をして発砲させたと言っていい。賀さんはどう思いますか」 賀「やはり、そう思います。だから根本原因を探求して、それの打開策を講じねばならない」 東「満州事変以降、北支にて成立した日支間の協定は、塘沽停戦協定、通車協定、通郵協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、日支電信・電話協定、日支航空協定などがあるが、今日これのどれもが協定違反となっている」 武島「協定があるにも関わらず、北支の中央化工作に躍起となり、策謀を巡らして、あらゆる方面に抗日意識を煽るために努力してきた」 吉村「今年になってもうすでに五十何件という不法行為が行われている。排日が、抗日となり、最近では侮日となって来ている」 殿「過去の為政者は極端な排日教育をやって学童の頭に、日本に対する敵愾心を植え付けるために狂奔したので、今日では三歳の童子といえども、日本は不倶戴天の仇敵だと思っている。日本人を見れば、東洋鬼と言って、すぐ侵略主義者と思い込み悪魔扱いをしている。今日の青年層の皆は、この排日教育を受けて成人した者ばかりだから、抗日意識は今が一番高い。日本に対しては無条件に、善悪の判断無しに反抗的な感情を抱き、すぐ激昂する」 劉「まことに恥ずかしい話だが、支那の一般民衆は自分の国家がどんな危機存亡に瀕しようとも全く無関心で、対岸の火事を見るような顔をしている国民だ。しかしこれは決して民国人に愛国心がないからではなく、昔から人民は、天災、地変、洪水、悪疫、飢饉に悩まされていたが、これに対し適当な処置をして救済する機関がなかったばかりか、かえって軍閥の重税、圧政、搾取、徴発に苦しめられ、また絶えず革命、騒動、一揆、兵乱が年中行事のように続いていたので、もう麻痺している。一度も保境安民の実績を挙げ得た国家機関が存立しなかったので、政府などは頼むに足らずという観念を抱くようになり、ついには個人主義になってしまった。ところが妙なことに、国家意識の乏しい支那民衆がただ一つ、相手が日本だと果然眼の色を変えて熱狂し、憤激し、国論もたちまち沸騰する。これはまったく徹底した排日運動がもたらした結果で、日本は悪いんだと信ずることのみを訓練されたので、正しい批判眼を失ってしまったという悲しむべき結果となっている」 うーむ、昔も今日と同様に苦しんでいる。

 中国側の出席者は、王、賀、劉、殿の4人の青年であるが、どちらかというと親日的な青年であり、話はアジア全般の話題に移っていく。支那人の僕がこんな言動をすると、拳銃の洗礼を受けることになるがと断りながら、賀君は「冷静に考えたならば現在、支那の正面の敵は決して日本ではない。それよりも英、ソ、米こそ警戒すべき存在だ。昔から巧言令色鮮仁という。好餌を以て歓心を買おうとする彼らの腹の中にはどんな計略があるかわからない。現在のさらに南京政府は欧米依存と抗日主義をもって唯一の武器として、辛くも政府の体面を保持している。欧米は、日本の大陸政策を阻止し自国の利益を伸長する目的のために支那を直接間接に支持しているが、国民は政府がやり得ない施設を作ってくれるので、欧米の真意を看破することが出来ない。英国は抗日意識が旺盛になった間隙に付け込んで、自国の勢力を扶植し牢固な地盤を持つに至った。今日では政治経済の各部門に侵食している。今日の支那は英国の支援がなくては国家の命脈が保てないのではないか。英国は将来の支那の癌だ。英国の印度政策の実情を知悉しているので言うが、英国が支那に対して良心的な政策がとれるなら、印度に対しても良心的な政策が取れそうなものだ。」と。更に「支那は日本の躍進をそねむ欧米諸国の走狗となって、もっとも仲良くすべき日本と争っている。もし日本がなければ、今の東洋はどうなっていただろうか。恐らく欧米白色人種国の植民地となって分割され、彼らの横行闊歩に委ねなければならなかった。また今日の日本が弱かったならば、欧米は魔手を伸ばしただろう。今日の支那のように四方から各国に侵食されていても未だ命が保っていけるのは、東洋に日本が厳然と腰を据えているからだ。これはお世辞でも自己卑下でもない。だから支那は駄々っ子のようなものです。そこを日本は一生懸命に叩きもしないでなだめているのです」 フーム、当時こんなことを考えた中国人もいたのだ。第二次大戦後、世界は一変するが、その前の時代であれば、こんな見方があってもおかしくないか。

 座談会は、松本君が、中国側の出席者の対して、皆さんのような思想の方々には、今が一番大切な役割をしていただかねばならない時だとエールを送ると、賀君は本日の怪を有意義ならしめるためには、協力して一刻も早く暗雲を一掃することに努力しますと応えて、閉会となった。不思議にこの段階では中国共産党の活動状況について触れる出席者はいなかった。国共合作などの事件は知られていなかったのか、座談会で蒋介石の名前は出るが、毛沢東の毛も出なかった。