石原莞爾作戦部長は、支那事変前は兵力使用反対、事変後は早期和平、もし兵力を使うなら、決定的な効果のある場合に限ると主張していた。石原の下で戦争指導課の主任幕僚長だった堀場一雄は、戦後「支那事変戦争指導史」を出したが、7月10日「戦争指導当局は、実力行使を絶対不可とし、現地に一兵も増加させない主義とした」 一方、万一情勢が実力解決を必要とするならば、15個師団を同時に動員し、戦費55億円を覚悟して一挙解決を図るべきであり、その他の中間的姑息な方策は国家の前途を誤るものなりとかいている、と。
8月9日、海軍上海特別陸戦隊の大山勇夫中尉は斉藤要蔵一等水兵の運転する自動車で上海租界の管轄下にある道路を通過中、保安隊の一斉射撃を受けて即死した。通州事件と同じように、保安隊が日本人に反抗の姿勢を明らかにした。上村伸一は中国側の「前線将兵の抗日熱は、すでに政府のコントロールし得ないものになってしまった」と書いている。
海軍は陸軍の出兵を要求し、陸軍はその時点では交渉による早期収拾を期待して消極的であったが、従来陸軍の華北出兵に厳しく反対だった米内光政海相も海軍の要望として上海出兵を要望した。現地の反日の潮流はとどめるすべもなく、上海における日中間の戦力比から云って在留邦人の危険は目前に迫っている。出兵すれば局地解決の望みが絶たれるが、邦人を見捨てることは不可能であった。石射猪太郎も言っている通り、上海に飛び火した以上もう早期和平のチャンスはなかった。従来、陸海軍間の協定で、上海有事の際は二個師団出兵の約束があったので、石原も止むを得ず二個師団出兵に同意した。しかし、二個師団で足りるはずもなかった。満州事変後の第一次上海事件でも、三個師団半で苦戦した。今回の中国軍は、兵力、装備、士気、とくに抗戦意識は、当時と様変わり、たちまちにさらに三個師団増派と、出兵規模は拡大して行った。
華北では郎坊事件以来、天津軍を中心に、日本軍は北京、天津地区を占領、平定していた。しかしいったん武力を行使した以上、各地域で摩擦、戦闘は避けがたく、増派を得た現地の軍は、不拡大の中央の方針など無視して、どんどん独自の作戦を遂行した。綏遠事件で敗退した蒙古の徳王は、日本軍の行動を見て、蒙古騎兵は日本軍の先鋒をつとめ、綏遠を占領し、10月には蒙古連盟自治政府の成立を宣言した。こうして戦争は全土に拡がり、当初北支事変と呼んだ紛争も9月2日には支那事変と呼ばれるようになった。もはや実態は全面戦争であり、宣戦を事由とするに十分な中国側の挑発行為も多々あったが、陸海軍の反対で宣戦は思いとどまった。その主たる理由は、公式の戦争となると、アメリカなどが中立義務を守り、日本に軍需物資を売らなくなると戦争遂行上困る、ということであったと岡崎久彦氏は解説する。同時に中国側も同じ事情があった、と。
のちに近衛文麿が石原に、「なぜ作戦部長たる君が不拡大方針を唱え、政府もこれに和して行動したにもかかわらず拡大したのか」と問うたら、石原は「表面は賛成し裏面で拡大を策した面従腹背の徒にしてやられた」と近衛の手記に書いてあるそうだ。参謀本部が現地に自制を命令すると、すぐに部下から現地に電話で「構わないからやれ」という趣旨を伝えたという。直属の部下の武藤章作戦課長は強硬派の中心人物であった。
米国は孤立主義の深い底の沈潜していた、と岡崎氏はいう。1935年から1937年にかけて議会は三つの中立法を採択した。(1935年にアメリカで制定された中立法は、大統領が戦争状態にある国が存在していること又は内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁じるというもの) イギリスは、ヨーロッパでヒットラーの脅威に直面していたので、極東だけは何とか米国と共同して事態を収拾しようとしたが、米国はこれに応じなかった。アメリカ国内でも、米国が日本に屑鉄を大量に売っていたが、その輸出禁止も出来なかった。
昭和12年10月5日、ローズベルトはシカゴにおいて、隔離演説を行い、国際秩序、国際法を破壊しようという勢力の脅威があることに警告を発した。「無法という疫病が広がっていることは、不幸にも真実のようだ。疫病が広がり始める時、社会は病気の蔓延から社会の健康を守るために、病人の隔離を承認し、それに参加する」 キッシンジャーの表現に従えば、ローズベルトのやり方は複雑で、率直ではなかったが、その都度国民を一歩ずつ教育しながら、目的に向けて忍耐強く、仮借なく前進した、と。ふーむ、ローズベルトの眼から見ると日本はすでに隔離すべき病人か。国際社会に無法がはびこるという認識ならば、何らかの制裁が必要となる。しかし孤立主義のアメリカが世界に手を出すことは受け付けない。だから国際法の用語の無い「隔離」という防疫のための言葉を使って尻尾を掴まれないようにしているのだ、と。日米戦争の発端はどこにあるかといえば、ジョン・ヘイの門戸開放宣言でも、スチムソンの満州の既成事実不承認の宣言でもない。それらは二つとも、宣言発出後、事情の変化で一時は消滅してる。その発端は、このローズベルトの隔離演説に始まる、ローズベルトの努力であった、と岡崎氏はいう。キッシンジャーは「アメリカの第二次大戦参戦は、偉大で勇気のある指導者の並々ならぬ外交努力が達成した大きな成果だった」と評価し、真珠湾攻撃がなくとも、ローズベルトが結局「自由の未来とアメリカの安全にとって決定的と考えた戦争に参加させたことは、疑いない」と観察している、と。そして、キッシンジャーは日本を徴発して戦争を起こさせ、結果として世界の自由を守ったその努力を賞讃している。
この隔離演説はローズベルトの努力の目に見える始まりであった、と。1938年、米国の世論も議会も、経済制裁による対日強制措置を支持するようになった。39年には、議会、世論の圧力を受けた形で、1月には航空機などの禁輸、7月には日米通商航海条約の廃棄通告にまで踏み切った。その頃から、石油禁輸をすれば日本が支那事変を続けられないことは指摘されていた。そしてこれが1941年に大東亜戦争を不可避とする切り札となった。石油禁輸をすれば、日本は全面降伏か、対米戦争になることは、アメリカ側も先の見える人は皆わかっていた、と岡崎氏。
8月9日、海軍上海特別陸戦隊の大山勇夫中尉は斉藤要蔵一等水兵の運転する自動車で上海租界の管轄下にある道路を通過中、保安隊の一斉射撃を受けて即死した。通州事件と同じように、保安隊が日本人に反抗の姿勢を明らかにした。上村伸一は中国側の「前線将兵の抗日熱は、すでに政府のコントロールし得ないものになってしまった」と書いている。
海軍は陸軍の出兵を要求し、陸軍はその時点では交渉による早期収拾を期待して消極的であったが、従来陸軍の華北出兵に厳しく反対だった米内光政海相も海軍の要望として上海出兵を要望した。現地の反日の潮流はとどめるすべもなく、上海における日中間の戦力比から云って在留邦人の危険は目前に迫っている。出兵すれば局地解決の望みが絶たれるが、邦人を見捨てることは不可能であった。石射猪太郎も言っている通り、上海に飛び火した以上もう早期和平のチャンスはなかった。従来、陸海軍間の協定で、上海有事の際は二個師団出兵の約束があったので、石原も止むを得ず二個師団出兵に同意した。しかし、二個師団で足りるはずもなかった。満州事変後の第一次上海事件でも、三個師団半で苦戦した。今回の中国軍は、兵力、装備、士気、とくに抗戦意識は、当時と様変わり、たちまちにさらに三個師団増派と、出兵規模は拡大して行った。
華北では郎坊事件以来、天津軍を中心に、日本軍は北京、天津地区を占領、平定していた。しかしいったん武力を行使した以上、各地域で摩擦、戦闘は避けがたく、増派を得た現地の軍は、不拡大の中央の方針など無視して、どんどん独自の作戦を遂行した。綏遠事件で敗退した蒙古の徳王は、日本軍の行動を見て、蒙古騎兵は日本軍の先鋒をつとめ、綏遠を占領し、10月には蒙古連盟自治政府の成立を宣言した。こうして戦争は全土に拡がり、当初北支事変と呼んだ紛争も9月2日には支那事変と呼ばれるようになった。もはや実態は全面戦争であり、宣戦を事由とするに十分な中国側の挑発行為も多々あったが、陸海軍の反対で宣戦は思いとどまった。その主たる理由は、公式の戦争となると、アメリカなどが中立義務を守り、日本に軍需物資を売らなくなると戦争遂行上困る、ということであったと岡崎久彦氏は解説する。同時に中国側も同じ事情があった、と。
のちに近衛文麿が石原に、「なぜ作戦部長たる君が不拡大方針を唱え、政府もこれに和して行動したにもかかわらず拡大したのか」と問うたら、石原は「表面は賛成し裏面で拡大を策した面従腹背の徒にしてやられた」と近衛の手記に書いてあるそうだ。参謀本部が現地に自制を命令すると、すぐに部下から現地に電話で「構わないからやれ」という趣旨を伝えたという。直属の部下の武藤章作戦課長は強硬派の中心人物であった。
米国は孤立主義の深い底の沈潜していた、と岡崎氏はいう。1935年から1937年にかけて議会は三つの中立法を採択した。(1935年にアメリカで制定された中立法は、大統領が戦争状態にある国が存在していること又は内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁じるというもの) イギリスは、ヨーロッパでヒットラーの脅威に直面していたので、極東だけは何とか米国と共同して事態を収拾しようとしたが、米国はこれに応じなかった。アメリカ国内でも、米国が日本に屑鉄を大量に売っていたが、その輸出禁止も出来なかった。
昭和12年10月5日、ローズベルトはシカゴにおいて、隔離演説を行い、国際秩序、国際法を破壊しようという勢力の脅威があることに警告を発した。「無法という疫病が広がっていることは、不幸にも真実のようだ。疫病が広がり始める時、社会は病気の蔓延から社会の健康を守るために、病人の隔離を承認し、それに参加する」 キッシンジャーの表現に従えば、ローズベルトのやり方は複雑で、率直ではなかったが、その都度国民を一歩ずつ教育しながら、目的に向けて忍耐強く、仮借なく前進した、と。ふーむ、ローズベルトの眼から見ると日本はすでに隔離すべき病人か。国際社会に無法がはびこるという認識ならば、何らかの制裁が必要となる。しかし孤立主義のアメリカが世界に手を出すことは受け付けない。だから国際法の用語の無い「隔離」という防疫のための言葉を使って尻尾を掴まれないようにしているのだ、と。日米戦争の発端はどこにあるかといえば、ジョン・ヘイの門戸開放宣言でも、スチムソンの満州の既成事実不承認の宣言でもない。それらは二つとも、宣言発出後、事情の変化で一時は消滅してる。その発端は、このローズベルトの隔離演説に始まる、ローズベルトの努力であった、と岡崎氏はいう。キッシンジャーは「アメリカの第二次大戦参戦は、偉大で勇気のある指導者の並々ならぬ外交努力が達成した大きな成果だった」と評価し、真珠湾攻撃がなくとも、ローズベルトが結局「自由の未来とアメリカの安全にとって決定的と考えた戦争に参加させたことは、疑いない」と観察している、と。そして、キッシンジャーは日本を徴発して戦争を起こさせ、結果として世界の自由を守ったその努力を賞讃している。
この隔離演説はローズベルトの努力の目に見える始まりであった、と。1938年、米国の世論も議会も、経済制裁による対日強制措置を支持するようになった。39年には、議会、世論の圧力を受けた形で、1月には航空機などの禁輸、7月には日米通商航海条約の廃棄通告にまで踏み切った。その頃から、石油禁輸をすれば日本が支那事変を続けられないことは指摘されていた。そしてこれが1941年に大東亜戦争を不可避とする切り札となった。石油禁輸をすれば、日本は全面降伏か、対米戦争になることは、アメリカ側も先の見える人は皆わかっていた、と岡崎氏。