東京裁判 弁護側立証 第二部 満州及び満州国に関する立証

2022年07月20日 | 歴史を尋ねる

 この部門の冒頭陳述は、検察側証人若槻禮次郎の反対尋問の際にその尋問の見事さを裁判長から称賛された、南被告担当の岡本敏夫弁護士が担当した。岡本弁護士は本部門の立証を、①奉天事件前の諸問題、②奉天事件及びこれに付随した諸問題、③満州の特殊性及び満州国の誕生、④満州国の国際的諸問題、⑤満州国の国内的諸問題、の五項目に分けて行う旨述べたあと、各項目毎に提出すべき証拠の内容と、証拠に基づく弁護側の主張を述べて、冒頭陳述を終わった。弁護側は具体的に裏付ける証拠として100通を超える文書を提出し、25人の証人を喚問した。
 本部門全体を通じて、検察側立証の反駁に最も効果があったと思えたのは、元関東軍参謀片倉衷陸軍少将の証言だった、と冨士信夫氏。片倉証人は満州事変勃発当時関東軍参謀として勤務し、その後陸軍省、再度関東軍参謀として勤務して満州問題に知識の深い人物であり、その証言は満州事変勃発直前に起こった中村震太郎大尉殺害事件、満州事変勃発直後の関東軍の行動、陸軍中央部と関東軍との関係、事変勃発後満州各地に起こった独立運動、満州国誕生と関東軍との関係及び関東軍の行動、満州国独立後の満州国と関東軍との関係等極めて多岐に亙り、詳細に及んだ。英米法に通じ、直接尋問のツボをよく心得ている岡本敏男弁護人の尋問と片倉証人の証言について、裁判長は「日本側のあらゆる公文書によって、本証人の証言は相当確実な根拠を持っている様である」と発言している。冨士氏に言わせると、裁判長のこのような発言は、片倉証人意外ななかった、と。片倉証言は、田中隆吉・溥儀両証人を始め、検察側書証を真っ向から反撃したものだった。①満州事変勃発当時の関東軍の行動は、全く自衛の行動だった。②満州国の独立は関東軍の策謀ではなく、満州事変を契機として満州各地に台頭した独立の気運が次第に清朝の復帰に発展し、満州の三千万民衆の希望によって誕生したものである。③満州国成立後、関東軍はその発展育成に協力しこれを援助したが、同国を支配するような事はなかった、等を要点。とするものだった。

 片倉証人の重要と思われる点を冨士氏は要約している。「奉天事件の発生は、1931年9月18日午後十一時半頃、奉天から旅順への第一電で知った。本庄軍司令官は遼陽方面の検閲を終えて同夜遅く旅順に帰り、三宅参謀長が奉天から届いた電報を報告した時、軍司令官は入浴中であった。電報接受後の会議で軍司令官は、平素の作戦計画に従って奉天付近に兵力を終結し、爾後敵の出方に応じて行動するよう指示したが、この討議中に日支両軍交戦中との第二電が到着したので、軍司令官は逐次兵力を戦線に注ぎ込む事に決心を変更した。19日午前三時半頃旅順から奉天に司令部が移動したが、同日午後6時頃、南陸軍大臣から『閣議において事変不拡大の方針に決定した故善処せよ』との訓電が到着した。当時金谷参謀総長からも、事変一段落の状況下、今後関東軍は中央と連絡の上行動するようにと訓電を受けていた。9月20日頃にはハルピン方面の情勢が不穏となったため、関東軍特務機関及び総領事から派兵の要請があり、関東軍は中央に意見具申した。これに対して杉山陸軍次官から現地居留民保護は行わない旨の返事があった。9月22日頃陸軍省から現地調査で安藤兵務課長が来満。18日支那軍が無抵抗を表明したにもかかわらず、関東軍がなぜ攻撃したのか:戦闘は開始されており、これは支那側の緩兵手段であって、今さら仕方ないとその申し出を拒絶したとの経緯を聞き、課長は前線の隊長に事情を聴くこととした。 関東軍の行動が迅速であったところから、事前に予測して準備していたか:事変前の関東軍兵力は僅少で平素から訓練の徹底により、万一の場合の作戦徹底に努めていた
 この後片倉証人は、満州各地に独立運動や清朝復帰運動が起きた状況を各要人の名前と行動、特に溥儀擁立に関する要人達の言葉を引用しながら証言すると共に、土肥原大佐の天津での溥儀との会見模様や溥儀の天津脱出の様子、溥儀の身の安全を図るため旅順に隔離したことを証言した後、中央と関東軍の関係、満州国誕生に関連する中央及び関東軍の考え方について証言した。「1932年1月頃、参謀本部の要求により軍司令官は板垣参謀を上京させ、関東軍の状況、満州国に関する情勢を報告させると共に、軍司令官の決意を中央に伝達させた。その決意とは、当時の満州の独立運動の成熟した情勢から見て、満州を独立国として発展させる以外に解決の途はないという客観的情勢に対する軍司令官の意思の表明であって、この決心の基礎は、各種要人との会見の際彼らの意向を聴取した外に、板垣参謀が各地の要人の意向を聴いた結果、彼等が満州に何ら領土的野心のない事を了解すると共に、南京政府、張学良政権の満州復帰に異口同音に反対を唱えた事によるものだった。帰満後の板垣参謀の報告によれば、独立国を建設するという考えは荒木陸相以下にはなかったが、満州に張学良政権や南京政府が復帰できないことは了解し、関東軍は各地の独立政権と連絡を保ちながら全満州の秩序維持と平和回復に努めること、というのが中央の意向であることが判明した」
 検察側立証に真正面からぶっつかり、その一つ一つを覆していった片倉証人に対し、検察側からリットン報告書以下の検察側提出の証拠を基に、証人の信憑性を覆そうと質問が行われたが、検察側の誤解、曲解による質問を証人に指摘され、真相を何れが語っているかは別として、検察側の反対尋問は実効を挙げないで終わった。

 事変勃発の端緒になった南満州鉄道爆破がどのように行われたかについて、弁護側は当時陸軍法務官であり、関東軍法務部長を務めていた大山文雄陸軍法務中将が証人として出廷、事変勃発直後関東軍から現地調査に派遣された調査団作成の調査書が朗読された。この調査書は、1931年9月23日(事件発生後五日後)午後5時14分から6時10分までの間調査が行われ、枕木、軌道等が現場に晒されている状況から、何らかの爆発物によって破壊され、現場付近に残置されていた三人の中国兵の死体は他から運搬してきた形跡はなく、死後四、五日経過している点から見て、中国兵が鉄道を爆破して逃亡しようとした際、日本軍守備兵に射殺されたものと判断された。反対尋問に立ったコミンズカー検察官は、リットン調査団の質問に答えた現地指揮官川本中尉や中国兵を射殺したという守備兵を現場に連れて行かなかったのは不自然で、爆破直後に列車が無事に通過している事実を挙げ、中国兵の死体の位置、血痕の状況について詳細証言を求め、日本側が小細工して死体は後から現場に運んできたのではないか、と疑問視した。裁判長の尋問に対しても、大山証人はあくまで調査書の内容に終始する答弁を続け、何か歯切れの悪さを感じたと冨士氏は述べている。第二部の立証の最後に当る、国内的諸問題について、溥儀証言及び建国後の「神道」を満州国に強制して宗教支配を行おうとしたとする検察側の主張に反駁する証拠が提出された。出廷した証人の中には、溥儀皇帝の筆跡鑑定結果を証言した警視庁鑑識課高村巌、南陸相宛の親書は溥儀皇帝の真筆とした名波敏雄陸軍大佐、満州国の内政と関東軍の立場を証言した植田謙吉陸軍大将、満州国法制関係事項を証言した参事官松本俠など。また書証としてレジナルド・ジョンストン著「紫禁城の黄昏」からの抜粋は、単なる著者の意見に過ぎないとして却下された。

 以上が弁護側立証の概要であるが、どうも反証のパンチがない。検察側の争点と同じ土俵で反証をしている。もう少し歴史的背景から満州問題を捉えてもいいのではないか。そう考えているとき、黄文雄著「満州国は日本の植民地ではなかった」が手元に出てきた。これを読み進めるうちに、大きな観点を見開かせられた。そうか、現在のチベット、新疆ウイグル問題も、実は満州国が否定されたその延長上に起こった問題なのだ、という思いがふつふつと沸き起こった。本当のアジアの歴史を知らないアメリカが、極東アジアの采配を振るったところに、原因があったのではないか。こんな思いを懐きながら、黄文雄の主張に耳を傾けたい。
 「満州国といえば、大多数の日本人は、台湾、朝鮮と並び称せられる大日本帝国の三大植民地だと見なしている。中国人の物言いに倣って「偽満州国」と称したり、日本の「傀儡国家」といったりするような「満州国」のイメージは、戦後に形成されたもので、はっきり言って「自虐史観」の代表的なものである。それは決して正しい歴史認識ではない。このようなイメージは、満州史についての歴史を歪曲したものであり、近現代の国民国家形成に関する歴史認識の不足によって形成された」と。
 「中国では満州という地名は支那と同様に忌み嫌われ、タブーにもなっている。その代わり東北という呼称の使用を、日本人にまで強要している。満蒙の地は中国の神聖不可分の固有の領土と決めつけ、高句麗史まで中国の一地方史と主張してはばかることがない。満州事変は九・一八事変と称して反日抗日のシンボルとし、毎年9月18日は国辱記念日としている。それではなぜ中国人は、先秦時代から万里の長城を築かなければならなかったか。この問いだけで、中国の歴史捏造が明らかになる。中国人は古来、万里の長城以北にある満州は、中華世界とは別世界、異域、異文明圏とみなしてきた。満州が古来、中国の絶対不可分の固有領土だという主張は、中国政府が二十世紀に入って初めて主張したものである。天下王土に非ざるものなしという王土思想は古代からあった。しかし満州という土地まで中国の絶対不可分の領土だという主張は、歴史を捏造したものである」と。
 「史実を見れば、満州は中国と不可分だというより、むしろ有史以来満州と中国とは万里の長城を境に、相容れない二つの世界であった。植生圏を見ても環境がまったく異なっており、文化的・政治的に対立・対峙し続けてきた異なる文化圏であった。この二つの世界は抗争を続けながら、それぞれ国家の興亡盛衰を繰り返して来た。それは中国史とは別の北アジア史、東アジア史である。かって孫文は日本に対し、満州の売却を交渉したことがあった。しかし中華民国の支配権は、建国後一度も満州に及んでいないし、日露戦争後の満州は北はロシアの、南は日本の支配下にあった。山縣有朋はが孫文の売却話を断った事実は、当時の満州の実状をよく物語っている」
 「満州人が17世紀初頭、万里の長城を超え、中国を征服し清国を建てたのち、満州はずっと『封禁の地』として漢人の入植が禁止されてきた。中国人にとっても、古来から満州の地は『荒蕪』あるいは『夷狄』の地として恐れられ、あえて長城を超えて移住するような者はいなかった。そこにいたのはモンゴル系、ツングース系などの北方民族のほか、封禁を犯して、盗墾、盗掘、盗漁、盗採をはたらくような漢人か、鴨緑江以南の農地を得られなかった朝鮮人だけであった。漢人の入植が解禁されたのは、清末に発生した回教徒の反乱以後のことである。やがて北からロシア人、東から日本人がこの地に入ってきた。日露戦争後、満州は両国によって南北に分けられ、日露の勢力下に置かれた。ドイツとフランスを合わせた広さに相当するこの土地は、ちょうどその欧州の二つの国と同じ緯度にあった。そこに多民族共生の『合衆国』すなわち満州国が諸民族によってつくられた。それは満州事変以後のことである」
 「満州国を日本の植民地、傀儡国家だと見なすのは、明らかに建国の背景を無視した言説であり、歴史の歪曲である。日本人が満州国の建国、復国に最大の情熱を傾けたことは事実であり、ただ単に関東軍の陰謀という『陰謀史観』で語りつくせるものでもない。清王朝崩壊後の満州は匪賊が跋扈し、軍閥が民衆から厳しく税金を取り立てていた。満州の民衆にとって『保境安民』こそ心から望むものであり、満州合衆国の建国には民意と時代の潮流を見なければならない」
 「日露戦争後の満州史を、日本軍の『侵略、虐殺、略奪、搾取』の歴史と見なし、『反満抗日』のみで語るのは明らかに歴史の捏造である。関内の中国人にとって、関外の地は荒蕪の地であり、風土病の地でもあった。20世紀に入っても、新たに開拓した土地であり、日本の租借地であった関東州(遼東半島)と満鉄所属地以外、近代産業らしいものもなかった。しかし、満州国建国後13年半にして、そこは北東アジアの重工業の中心地となり、自動車や飛行機まで作られる一大近代産業国家にまで成長した。日本人の開国維新以来のすべての情熱と技術の粋を注ぎ込んだ結晶といってよいし、日本人は誇りに思わなければならない。満州合衆国は、わずか13年半で大日本帝国の崩壊とともに夭折した。建国の理想であった『王道楽土』を実現することは出来なかったとしても、中国人にとっては十分『桃源郷』であった。戦乱と飢餓の拡大、繰り返しによって絶望の淵に追いやられていた中国の流民にとって、満州国こそ最後の駆け込み寺であった。年間百万余りの流民が長城を乗り越え、満州に流入したことこそが何よりの証拠である」
 「満州国の夭折は、アジアの人々にとって悲劇であった。そればかりでなく、中国人にとっても悲劇であった。多民族共生を目指した合衆国の喪失は、戦後アジアの新興多民族国家のモデルの喪失であるばかりでなく、中国人にとっては、近代国家とは何かという問いすら失わせてしまった。今日に至ってなお前近代的な『中華帝国の亡霊』が東アジアの大地に徘徊しているのは、そのためである」と。

 では、どのようにして満州国は誕生したのか。中華帝国は易姓革命によって興亡を繰り返したが、同じように北アジアの遊牧帝国も国家の興亡を繰り返した。満州地域では、前1~後7世紀が高句麗、前2~後5世紀は扶余、6~7世紀は靺鞨、7~10世紀は渤海、10~13世紀は純ツングース系の女真であった。女真族は金帝国を作ったが、その後、モンゴル族の元、その後継の北元の支配下にあった。彼らは松花江流域の海西女真、黒竜江下流の野人女真、牡丹江流域の建州女真の三大集団に分けられる。このうち、後金国を建て、清王朝を作ったヌルハチが出たには建州女真であった。清の太祖ヌルハチが建国して二百年かかって、清は空前の大帝国に成長した。多民族が統合されている清の国家は、それぞれの民族が独自の歴史と文化を持っている。そこで確立された統治システムは、天朝朝貢冊封秩序の体制であった。この秩序は、中央の緩やかな統治に対して周辺国が朝貢し、中央は彼らを統治者として認証(冊封)して応じた。中央集権ではなく、間接統治と直接統治の折衷型であった。清帝国の天下を支えるのは、精強な八旗軍だった。清王朝がもっとも恐れたのは、満州人が絶対多数の漢民族に同化してしまうことだった。そのため旗人の尚武の気風を保つために世襲制で保護し、商売を禁止した。
 しかし清王朝は乾隆帝の時代が過ぎると、自然環境も社会環境も少しづつ崩壊し始めた。それに戦乱と飢餓が重なり、悪循環に陥った。19世紀の中国大陸をみると、白蓮教徒の乱から太平天国の乱、さらにイスラム教徒の乱に至るまで、民衆反乱のなかった年はほとんどなかった。飢餓のない年もなかった。1810年~11年、1849年、1876~78年の大飢饉は、餓死者が一千万を超えていた。数十万人や数百万人の餓死者だ出る年など珍しくもなかった。飢餓があるたびに大量の流民が発生する。1876年の干ばつでは、流民は一千万にも上った。中国大陸は飢餓と戦乱で荒廃し、餓死から逃れた流民が東南アジアに流出し、華僑となった。華北の流民はモンゴル草原へと流れ、河北省と山東省の流民は、主に満州へと流れ込んだ。流民が大量発生するのは、中華世界が人口過剰になった結果、生態系が全面崩壊した現象ともいえる。
 20世紀初めの満州の人口は推定一千万人、そのうち満州人など少数民族は百万人、残りが漢民族であった。だが、30年後の満州事変当時の人口は三千百万人と急増した。日清戦争当時の満州の推定人口はたった百万人だったという見方が多い。満州・モンゴルへの開拓移民の入植は、遊牧民族の牧地、狩猟場、植物採集地へ侵入し、土地を占有することが多かった。それによってツングース系とモンゴル系の先住民は、平野や牧地から辺境へと追われていった。特に悲惨だったのはモンゴル草原であった。清の盛期には、長城を超えて侵入してきた農耕民・流民はすべて万里の長城以南に送還されたが、清が衰退すると、満州・モンゴルの民は、牧草地も狩猟場も漢民族の流民の大洪水に襲われ、辺境地へと追われた。そして、獏北の草原や森林は漢民族の乱開発によって崩壊し、砂漠化が拡大し、自然林は喪失した。
 満州の地は朝鮮民族の故郷の一つという側面もある。高句麗、渤海の滅亡後、朝鮮民族の満州への進出は消極的だったが、清の時代になると立入禁止の満州に流入するようになる。19世紀中ごろになると豆満江を渡り、白頭山周辺に入植、密貿易や盗採、潜墾に従事していた。1869年の朝鮮半島大凶作をきっかけに大量に満州に流入し、やがて豆満江以北の間島一帯は、満州族、朝鮮族、漢民族の三族雑居の地となり紛争地帯となった。また、1636年、清が李朝朝鮮を屈服させた丙子胡乱のとき、おびただしい朝鮮族が満蒙人によって北方に強制連行された。売買された朝鮮族は60万人に上ったとも、史書には記録されている。李朝末期になると朝鮮半島は政情不安が続き、三政紊乱と酷税から逃れて、満州に入る朝鮮人は急増した。
 日本の場合、2・26事件後、広田弘毅内閣は七大国策の一つとして、二十年間に百万戸、五百万人の満州移住計画を立てた。しかしこれは成功しなかった。昭和二十年までに二十七万人のみにとどまった。満州移民に成功しなかった理由は、(1)土地の獲得が困難で、当時中国ナショナリズムの思想が横溢していた。(2)労働者の賃金問題で、熟練労働者は日本の二分の一から三分の一、非熟練労働者は比較にならないほど安かった。(3)中国本土での人口過剰の問題であった。イナゴの大群のように百万人前後が押し寄せる流民に負けてしまった。日本の満州居留民や移民は、日露戦争後、遼東半島の関東州をはじめ満鉄沿線と主要都市に急増し始めた。満州は匪賊と軍閥支配の社会であったから、日本人居留民は満鉄付属地以外にはわずか一万数千人しかいなかった。国策移民が本格的に推進されたのは満州国建国後のことで、1945年には百五十五万人に日本人がいた。
 満州人が中国を征服後、少数民族が広大な中国を統治していくためには、大多数の満州旗人が北京に移住した。民族が入れ替わるようにして漢民族が流民となり、匪賊(暴力的手段を用いて不法行為を繰り返す集団である。「匪」という漢字は「人でなし」や「悪党」といった意味を持つ。匪賊は公権力の及びにくい農村部、行政上の境界の周縁地域、辺境の山岳地域などで活動する集団であることが多い。匪賊には、経済的には破産した農民や没落した地主・知識人、戦時には敗残兵などが加わった)となって満州広野に入った。かくて、満州の地の満州人は少数民族へと転落した。こうして満州の地は馬賊・匪賊の梁山泊となり、満州国成立までの満州社会を支配したものは、官匪・兵匪・学匪といわれる軍閥や匪賊であった。満州社会は馬賊(満州特有の武装集団であり、その成員の大部分が騎乗することから日本ではそう呼ばれている)と、匪賊、警察、軍人が不即不離の関係にあった。そのため軍と匪賊との違いがはっきり分からない。満州軍閥の巨頭、張作霖のように政府側の呼びかけによって馬賊から軍人となった場合もある。中国近現代史が記述する「反日抗日の民族的英雄」とは匪賊を意味することが多い、と黄文雄氏は言う。
 1973年農家に生まれた張作霖は16歳で匪賊の首領の下に投じ、日露戦争の時ロシアに協力していたことで日本軍に逮捕され、やがて日本側についた。辛亥革命後、袁世凱の下に走り奉天将軍となった後、1917年王永江の『保境安民主義』を入れて、北京の中央政権から離脱して東三省の独立を宣言した。1916年の袁世凱の死後、中国は北の北京中央政府軍(軍閥軍)と南の反政府軍(国民党主体の革命軍)との南北対立の激化に伴って、北京政権も流動化し始めた。軍閥政治と軍閥戦争の始まりである。とくに安直戦争(段祺瑞の安徽派と曹昆・呉偑孚らの直隷派の軍閥戦争)の後、北京政権では張作霖の奉天派と呉偑孚らの直隷派が対立、張作霖は敗退して窮地に追い詰められた。北京政府は徐世昌総統と呉偑孚を中心とする直隷軍によって抑えられた。張作霖は政府の職を剝奪されたが、自ら奉天省議会の名で自治保衛団を作り、東三省の総司令官を名乗り、日本関東軍の支持の下で相変わらず満州の実験を握った。北京政府は張作霖討伐を断行し、第二次奉直戦争が起こった。一進一退が続く中で馮玉祥が奉天軍に寝返り、北京でクーデターを起こし、奉天軍の勝利となって戦いは決した。張作霖は北京政府を握り、その勢力は華中まで及んだ。戦いの最中、英米は呉偑孚を支援し、ソ連も北京政府や広東政府の双方を支援して中国の赤化を図っている、満蒙の地に特殊権益を有する日本は当然、奉天軍を援助すべきと張作霖は主張、当時の日本軍にとって、中国の混乱が満州へと波及することは絶対阻止しなければならない、馮玉祥の反乱は、日本の不干渉主義に不満を懐いた関東軍の土肥原賢二中佐が画策したものといわれている。
 他方、孫文の死後、1925年に広東で国民政府が成立した。新政府は蒋介石を革命軍総司令として北伐を開始する。北洋軍閥は各派各系に分かれていたが、大同団結して国民革命軍と対峙した。1928年5月、蒋介石の率いる国民革命軍は山東省済南を落とすと、北洋軍閥軍の敗北は決定的となり、張作霖は北京退去の声明を発して、奉天に帰る途中の6月4日、列車が爆破され、波乱の生涯を終えた。蒋介石が率いる国民革命軍の北伐中にも、国民党内で南京政府VS.武官政府、南京政府VS.北京政府の国民党内戦や政府乱立の抗争があった。国民党内戦の中で最大の内戦は、1930年の中原の戦争である。動員された兵力は百五十万人、犠牲者30万人とされ、この党内の内戦は蒋介石の勝利に終わった。張作霖の息子・張学良が率いる奉天軍が蒋介石軍を支持したからであった。この内戦後、張学良軍は黄河以北の土地を獲得し、蒋介石の信任を得て陸海軍三軍の副指令となった。新たな満州の実力者の誕生であった。張学良は既に1928年12月、関東州と満州鉄道付属地を除く東三省全域に国民党の青天白日旗を一斉に掲げさせた。東三省の易幟である。
 1931年9月、奉天近郊の満鉄線爆破事件(柳条湖事件)を端緒に始まった満州事変当時、日本軍はたった一万五千人の関東軍兵力のみで全満州を占領した。当時満州には関東軍の十数倍から数十倍の兵力を擁する張学良軍閥の軍隊がいた。彼らは日本軍の占領に不抵抗だったというより、民衆から見放されて追放されたと、黄文雄氏は分析する。当時、ソ連は第一次五か年計画に忙殺され、中立不干渉を声明していた。米英も経済大恐慌から回復していない。蒋介石率いる国民党軍は「攘外必先安内」というスローガンを優先させ、国民党軍の力を温存するために関東軍と対決したくなかった。そして満州軍閥は張学良を追放した。首都奉天市長趙欣伯は「日本軍隊が張学良とその軍隊を殲滅し、大悪人の手から東北人民を救い出してくれたことに対して、深く感謝しなければならぬ」と。
 張作霖支配下の満州の民衆は、二重の搾取と掠奪で塗炭の苦しみに喘いでいた。満州の地は、移民の土地であると共に無法の土地でもあった。馬賊・匪賊は推定三十万人から三百万人いた。略奪、放火、強姦、誘拐は日常茶飯事で、民衆は生きていくだけでも容易ではなかった。こんにちの中国史で「反日抗日」の闘士といわれる民族英雄も、馬賊や匪賊の類であった。満州の歳入の8割は軍事費に使われた。二十世紀の中国人は政府も軍閥も革命家も、軍事力こそが命であり、戦争に負ければ、全てを失った。また、満州国成立前の張作霖・張学良軍閥支配下の満州で最大の弊政の一つは通貨の紊乱だった。通貨は、内外公私取り混ぜて、数十種とも百種類前後あったともいわれる。歳出の不足を補填するためには、紙幣の大量増発しかない。そのためインフレが昂進し、満州経済は大混乱に陥った。軍閥時代の満州の最も安易で最大の財源の一つは租税と専売制であった。しかし、満州の国富は、軍閥や税吏の掠奪、争奪だけで失われていたのではない。社会の争乱があるたびに、暴民や暴民も徴税局や穀倉・塩倉を襲撃した。官匪、兵匪、土匪が跋扈しており、この点からも満州の経済発展は難しかった。

だいぶ、黄文雄氏の引用が長くなった、結論を急ぎたい。黄文雄氏は言う、「満州国建国について、関東軍の謀略による張作霖爆殺事件や柳条湖事件を語ることは欠かせない。満州事変とその背景を知る事は、満州国というものを理解するうえで非常に大切である。しかし、これらと同様に、「万宝山事件」や「中村大尉殺害事件」を知る事も重要である。満州国の時代背景には、日本の国家としての権益問題があり、さらに満州を支配していた張作霖・張学良一家の問題もある。満州事変の直接の原因は、張一家の跋扈と圧迫に対して関東軍が逆襲したということであり、満州建国は、そのような時代に生まれた満州民衆をも含む関係者全員の理想でもあった。日本の満州における特殊権益を守ることと、満州軍閥と国民党政府が日本の権益を排除しようとしたことのほかに、万宝山事件に代表される、中国人と朝鮮人との民族対立であった」「万宝山事件とは、1931年7月に長春郊外の万宝山で、朝鮮農民が水田経営のために完成した水路を中国農民が破壊したことに端を発して起きた漢民族と朝鮮族との農民衝突であった。朝鮮人は有史以来、中国人によって故郷の満州遼東から朝鮮半島にまで追い詰められ、属国にされ、強制連行されてきた。ことに満州開拓の朝鮮農民は、中国人官憲に迫害され、賤民として差別され、満州の土地を取りあげられたうえ、追放されたりした。日韓併合後は、日本は自国民である朝鮮人を保護する行動をとった。日本関東州政府からの抗議にも拘らず、満州農民と官憲による朝鮮人農民に対する迫害は続き、朝鮮ではこの報で各地の朝鮮人は在留中国人を襲撃した。この問題は日本政府・関東軍と張作霖政権の間で一大課題となり、関東軍が張作霖を爆殺した背景には、四十万~六十万の在満朝鮮人の保護という意味もあった」と。また、「満州事変のもう一つのきっかけは、1931年6月の中村震太郎大尉殺害事件だ。8月南京の重光葵公使は中華民国政府外交部に厳重抗議したが、王正廷外交部長はすぐさま日本軍の捏造であると公言、前後して万宝山事件も起こり、日本の世論は沸騰、中国非難一色となった。中華民国政府は9月になって初めて事実関係を認め、犯人を逮捕し軍法会議にかけた。この事件は、中華民国政府の反日排日運動が、日本軍部の対日軍事行動を誘発し、緊張を高めることになった象徴的なものであった。満州事変の最大の歴史背景は、中華民国政府が展開した排日悔日運動にあるといってよい。とくに排日教育は、日本排斥を主目的として徹底的に歴史事実を歪曲し、自国の失敗や悪行をひたかくして、全ての非は列強諸国の迫害に起因すると、極端な排外思想と中華思想を教えるものであった。国民党政府には、満鉄・旅順・大連に代表される日本の権益を即時回収し、「日華条約即時無効宣言」要求という方針があった。国策としての反日排日運動はこうして先鋭化した」

 20世紀に入って清に取って代わって中華民国は、その国家主権を満州で行使することが一度としてなかった。また、満州問題に直接介入できなかったのも歴史的事実である。義和団事件以後、満州はロシア勢力に押さえられ、日露戦争後からは、日露両国の勢力が南満と北満を二分し、中華民国の時代になっても、満州は日ソ両国の勢力と満州軍閥という二重支配下に置かれている。満州と中国とは完全に別世界である。だから矢野仁一京大教授の「満州は支那本来の領土に非ず」論も、「満蒙における日本特殊権益論」も、こうした歴史背景から生まれた。当時、関東軍参謀だった石原莞爾は、満州領有計画を研究し、「満蒙問題の解決は、日本の生きる唯一の途」「満蒙問題の解決は日本が同地方を領有」してはじめて完全に達成されると唱え、当時の日本人に大きく影響を与えた。石原には満蒙領有案はあったが、満州国建国案はなかった。満州建国の発案者は、満州青年連盟理事長代理で、関東軍最高顧問の金井章次であったと言われている。
 日本の特殊権益論とは、日露戦争とそれに続く大陸進出で「二十万人の生霊、二十億円の国幣」によって贖われたかけがいのない大地だから、その権益を守るのが日本国民としての使命、という考え方。満蒙領有計画は関東軍首脳部にも大きく支持された。史実は、関東軍高級参謀の河本大作大佐の張作霖爆破事件のせいで、田中義一内閣の満蒙政策は挫折した。そこに、1929年5月、河本大作の後任として満州に板垣征四郎大佐が赴任した。張学良は張作霖爆死後に全東北軍を受け継ぎ、虎視眈々として関東軍を満州から追い出し、全ての満蒙権益の回収を目論んでいた。だが石原莞爾参謀と高級参謀板垣征四郎の二人が組んで、関東軍を一手に引き受け、張学良は手出しができなかった。
 1932年3月、満州国は建国を宣言した。その理念は「順天安民」「王道主義」「民族共和」「門戸開放」の四つであった。「民族共和」の淵源は、満州には西にモンゴル系、東にツングース系諸民族がおり、もっと少数の先住民族もいた。それ以外に漢民族移民と朝鮮民族移民が居住し、後からやってきた日本人移民、北からのロシア人もいた。これらの民族の協和を目指した。もう一つの「門戸開放」は、アメリカが中国分割に出遅れ、権利均等、門戸開放を提唱していたからその影響も考えられるし、近代国民国家を目指す満州国としては、伝統的鎖国政策をとるつもりはなかった。
 満州事変後、満州建国を巡る多くの国家構想が語られた。土肥原賢二大佐は日本人を盟主とする五族協和国案、建川美次少将の宣統帝を首班とする親日政権樹立、満州青年連盟は東北自由国、橘樸は民族連合国家、高木翔之助は「満蒙独立共和国」を提唱し、農村自治国家などの構想もあった。もちろん、満州人、モンゴル人、中国人も満州国建国に奔走した。建国の実務面に際して、溥儀を元首に戴くことは意見が一致したが、国号・年号・国旗・国体・政体については意見が分かれた。帝政論あり、立憲共和制論であった。
 張学良ら満州軍閥が関東軍から追放された後、新国家建設運動は、各地で澎湃として生じた。1932年2月、全満建国促進運動連合大会が開催された。各省代表以外には、モンゴル、各種団体、満蒙青年同盟、吉林省朝鮮人、東省特別区朝鮮人など各代表七百人が参加し、満州建国を宣言した。「三千万民衆の意向をもって即日、中華民国との関係を離脱し、満州国を創設する」ことを宣言した。1931年11月、奉天地方維持委員会では、順序として奉天、吉林、黒竜江、熱河各省が連省自治(連邦制)からスタートし、四省代表者会議を開くなどを決定、省長が推戴された。吉林省では満州事変直後、臨時政府をつくり、率先して独立宣言している。黒竜江省も省長を選び新国家の建設協議に加わった。熱河省も省主席を選んだ。また満州国建国にはずみがついたのは、満州の民衆が日本関東軍を敵視しなかったことである。日本軍はロシア軍、満州軍閥とは異なり、軍律正しく略奪的な行為をしなかった。民衆は軍閥支配を苦しみ、関東軍を解放軍と見なして迎い入れた。中国の近現代史がいう、反日抗日ゲリラとは、住民から略奪する兵匪に過ぎない。その反日排日運動の背後には、国民党や共産党だけではなく、背後に米英、ソ連とコミンテルンもあった。日本の軍事力だけで満州国を作れる状況ではなかった。
 満州国が成立すると、日本国内ではこれを承認するか否か論議が沸騰した。結局9月15日、武藤信義駐満特命全権大使と満州国全権・鄭孝胥国務総理との間に議定書が調印され、満州国を実質的に独立国として承認した。1933年1月、満州国は帝政実施を声明、その成立を71カ国に通告した。最初に承認したのは中南米のエルサルバドル、続いてローマ教皇庁、イタリア、スペイン、ドイツ、ポーランドが承認した。しかし国際連盟から満州国建国の正当性が否認され、承認国は十八カ国にとどまった。
 リットン調査団は事変以前の原状回復だけでは再び紛糾する恐れがあるとして、「満州には、中国の主権の下で広範な権限を持つ自治政府を設置する。これに対し国際連盟の主導で外国人顧問による指導・勧告を行う。あらゆる軍隊を撤退させ、漸次的に非武装地域化する。さらに満州の安全保障なども提案する」とし、日本は調査団の提案に反対した。提案内容は満州を国際管理とするに等しく、現実には全く適合できない、との理由だった。松岡は満州で起こった事件は日本の責任ではない、日本の行動は自衛であり、独立運動も住民の自発的意思によるものだと主張、顧維鈞中国代表は、日本の侵略行為だと反論、理事会は勧告案を日中双方に内示したが、それは事実上の満州国不承認だった。

 だいぶ長い黄文雄氏の引用であるが、陰謀説だけで満州事変は語れないし、傀儡国家批判は歴史の事実関係を見ていない批判のための批判だ。無法の地であった満州を民族共和の近代的国民国家に作り上げた歴史的事実関係をもっと前面に出して、満州国を見直す必要がありそうだ。そういう意味では、松岡の主張は、弁護に終始しているように思えるし、東京裁判の弁護側立証も、謀略論否定に終始している。

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