蒋介石の判断・決断

2022年10月24日 | 歴史を尋ねる

 最後の関頭演説は蒋介石の決意を示すものだ。この演説は事変解決のための日本に対する最後の忠告であった、と。『盧溝橋事変が中日戦争に拡大するか否かは、ひとえに日本政府の態度にかかっている、日本軍隊の行動にかかっている。われわれは和平を希望し、平和的な外交方法によって盧溝橋事変を解決するよう努力する。だが、われわれの立場には、きわめてはっきりした四点がある。一、いかなる解決も、中国の主権と領土を侵害することは許さない。二、冀察政務委員会の行政組織は、いかなる不合法な改変も受け入れない。三、中央政府が派遣した地方官吏、例えば冀察政務委員会委員長・宋哲元らの更迭を、何人も要求することは出来ない。四、第二十九軍の現在の駐屯地区は、いかなる拘束も受けてはならない。 以上の四点は、弱国の外交の最低限度である。日本が東方民族の将来を思い、両国関係が最後の関頭に達することを願わず、中日両国間に永遠の仇恨の造成を願わないならば、われわれのこの最低限度の立場を軽視すべきでない。和平を希望するが、一時の安逸を求めるものではない』 日本は、中国政府の態度を挑戦的であると非難し、「華北の地方当局が解決条件を実行することを、中央が妨害しないよう要求する」と言ってきた。中国外交部は、「地方的な性質の問題で現地で解決できるものについても、必ずわが中央政府の許可を必要とする」と反論を加えた。 だが一方で、中央の承認なしとはいえ、現地の第二十九軍(軍長・宋哲元)と日本軍との間に協定と協定細目が存在することの事実だった。その協定細目によれば、現地軍が戦わずして北平、天津を明け渡すという最悪の事態も起こりかねない情勢だった、蒋介石はこう危機感を募らせた。現地解決に引きずられる宋哲元に対し、蒋介石は参謀次長・熊斌を北平に派遣し、主権と領土を守るために、日本軍の甘言にまどわされず、抗戦を促し、この説得によって、宋哲元も抗戦の決意を固めた。
 日本軍の作戦遂行を中国側が得た情報によれば、すでに八個師団、約16万人が北平、天津に向けて集結ないし輸送中であると蒋介石は判断した。(日本側の記録では、第一次動員《7月11日決定》は関東軍の一個旅団と在朝鮮の一個師団と航空隊で中国側の推定する八個師団をはるかに下回る) 7月25日午後4時、約百人の日本兵が装甲列車で天津ー北平間の廊防の到着、電話修理と称して、同駅を占拠した。廊防を守る中国軍が撤退を求めたが応ぜず、にらみ合いが続き、夜半日本軍は突然発砲を開始、戦闘状態に入った。(廊防は天津ー北平間の鉄道沿線にあり、このあたりの中国軍守備区域内の軍用電線が切れたので、修理部隊は中国軍の了解を取って修理にかかったが、修理中に攻撃を受けた。機関銃、迫撃砲も交えた本格的な攻撃であった。修理班についてきた部隊が応戦し、翌日飛行隊が援護し、増援部隊も駆け付け、中国軍は潰走ことが史実であった) 7月26日、廊防を奪った日本軍は、他の駅も次々占領、輸送手段である鉄道を遮断した。この日また新しい衝突事件が北平で起きた。数十台の軍用車に分乗した日本軍が、北平城広安門に乗り付け、「野外演習から戻った日本総領事館の衛兵である」と偽って、北平城内に入ろうとした。彼らは、本当は豊台に駐留する実戦部隊であった。団長はこれを見破り、門を開いて、日本軍を誘い込んだあと、一斉に銃火を浴びせた。この突然の事態に日本軍は大混乱におちいり、十数人の死傷者を出した。いわゆる広安門事件である。翌27日、日本は一斉に攻撃に出て、北平東方の通州の中国軍に襲い掛かった。午後各地も相次いで攻撃にさらされ、盧溝橋に燃え上がった戦火は、ついに北平周辺一帯に、一斉に燃え広がった。28日午後、宋哲元は北平市長・秦徳純、師長・張自忠らと緊急会議を開き、北平を死守するか、放棄するか、選択を迫られ、文化の古城を戦火で灰にするのは忍びないとする声が圧倒的で、ついに北平放棄が決まった。天津の中国軍は最後の抵抗を試みるが、日本軍の爆撃と砲撃にさらされ、30日天津を放棄した。北平、天津の戦いによる第二十九軍の死傷者は五千人を超えた。(広安門事件の日本側の記録はこうだ。廊防事件を受けて、香月軍司令官は事件を東京の参謀総長に報告し、自由に兵力を使用させてほしいと要望し、参謀総長は許可した。石原作戦部長は「徹底的に膺懲せられたし。上奏等一切の責任は、参謀本部にて負う」と通告した。不拡大派・石原の最初の譲歩だった。香月軍司令官は宋哲元に対し、北京付近からの撤退を28日正午という期限付きで通告し、出来なければ武力で訴えると警告した。そうした中、北平居留民保護の為に日本軍広部大隊は26台のトラックで北平城内の日本兵営に向かった。事前に松井特務機関長が部隊の北平外城広安門通過について、冀察政務委員会当局と交渉して秦徳純市長の承諾を得た上で、連絡の為に冀察政府軍事顧問桜井少佐が午後6時頃広安門に赴くと、門を警備していた中国軍が城門を閉鎖していたため、開門について交渉した結果午後7時半頃開門され部隊が門の通過を始めたが 、部隊の3分の2が通過した時に突如門が閉ざされ、広部部隊を城門の内と外に分断した状態で不意に手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加えてきたため、広部部隊も門の内外から応戦した。中国側は兵力を増強して大隊を包囲し、一方豊台の河辺旅団長により午後9時半救援隊が派遣されたところで折衝により中国軍は離れた場所に集結し、広部部隊の内、城内に入ったものは城内公使館区域に向かい、城外に残されたものは豊台に向かうという案がまとめられ午後10時過ぎに停戦し、広部部隊は27日午前2時頃公使館区域の兵営に入った。この戦闘における日本軍の死傷者の合計は19名で、その内訳は戦死が上等兵2、負傷が少佐1、大尉1、軍曹1、上等兵2、一等兵1、二等兵7、軍属2、新聞記者1であり、桜井顧問に同行した通訳1名も戦死している。当時、既に中国軍は河北省南部の石家荘・保定や山西省の大同に多数集結し、また豊台においては完全に日本軍を包囲しており、その一方で日本軍も新たに動員された関東軍・朝鮮軍の部隊が北平・天津地区に到着しつつあり、両軍の間で緊迫の度が高まる中で起きた事件であった。

 この事件は、直前に起きた廊防事件とともに中国側の規範意識の欠如と残酷な面を見せつけ、中国側に対して全く反省を期待できない不誠意の表れであり和平解決の望みが絶たれたと判断した日本軍支那駐屯軍は7月27日夜半になって前日の通告を取消し、改めて冀察政務委員会委員長であり、二十九軍軍長でもあった宋哲元に対し「協定履行の不誠意と屡次(るじ)の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能(あた)はざる所であり、就中(なかんずく)広安門に於ける欺瞞(ぎまん)行為は我軍を侮辱する甚(はなは)だしきものにして、断じて赦すべからざるものであるから、軍は茲(ここ)に独自の行動を執(と)る」ことを通告し、さらに北平城内の戦禍を避けるために中国側が全ての軍隊を城内から撤退させることを勧告した。日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された。駐屯軍は28日から北平周辺の中国軍に対し攻撃を開始し、天津方面では28日夜半から中国軍の攻撃が開始され、各方面で日本軍が勝利し2日間で中国軍の掃蕩が完了した。7月29日には、在留日本人数百人が「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)に虐殺される通州事件が起き、日本世論は激昂することとなった。)

 以上詳細な経緯を見てきた。盧溝橋事件後の蒋介石の判断は、当然中国軍側からの報告による事件の真相によって、日本に対する戦意を高めている。しかし日本側の記録によると、全く逆さまな事実関係が浮かび上がる。尚且つ、蒋介石は現地解決を否定している。真相が正しく伝えられず、現地解決を否定する事は、由々しいことである。そして、日中戦争を解説する日本の出版本にはほとんど触れられていないが、『日本軍支那駐屯軍は28日早朝から北平・天津地方の中国軍に攻撃を加える為、必要な部署を用意し、河北の民衆を敵視するものではなく、列国の権益とその居留民の生命財産と安全を図り、中国北部の獲得の意図がないことを布告し、これと同じ内容が内閣書記官長談として発表された』という記載がウキペディアにある。引用先は「戦史叢書」である。蒋介石が一番気にかけていた、河北省の領土と主権の侵害について、その意図がないことを、布告し、内閣書記官長談として発表している。蒋介石の耳には達していないだろう、秘録にその記述はない。こうした事実をおもてに曝してみると、蒋介石政権下の各勢力(特に中国共産党)の駆け引き、陰謀が渦巻いているように見える。蒋介石の叱声を恐れる幹部の報告も、結果的に日中戦争に追いやる結果に働いているようだ。

 もう一つ見ておきたいのが、塘沽協定である。1933年(昭和8年)5月31日に、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定である。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。この時の戦闘経緯が、蒋介石にとって、日本が満州はおろか、華北地区にも侵略し、ついには中国全土の侵略を目論んでいると、判断するに至ったと筆者には推測されるからである。詳細に亙るが、ウキペディアによる情報をベースに考えてみたい。
 熱河は清朝の夏の別邸地域として歴史上有名であるとともに満州と中国本土の間にくさびのように存在し、その狭い終端は山海関で海に向かっていた。この地は満州国の建国宣言では満州国の一部とされ、塘沽協定が締結された当時、その山間地は北京(北平)を含む中国北部を威圧する場所としても、あるいは満州へ軍隊、扇動家、プロパガンダ工作員を送り込む場所としても重要であり、またアヘン栽培による収益が当地の価値を高め、その地理上の位置が戦略的・政治的に重要なものとなっていた。この地を支配していた湯玉麟は、かつては張学良の部下だったが、満州国の建国宣言に署名し、熱河省長に就任していた。湯は正規・不正規軍の両方を併せて2万を越える軍を率いていたが、南と西からは張学良の軍事力、さらに万里の長城に迫りつつあった日本軍の軍事力の脅威の狭間にあった。蒋介石は湯玉麟の関心は地盤としての熱河省とアヘンの販路としての東北地域の確保と見ていた。 張学良はこの地から産出され、天津と北京に流れるアヘンをさばくためにアヘン販売局を設けて莫大な利益を上げ、自身の満州国における工作活動資金としていた
 1932年7月17日、関東軍嘱託の石本権四郎が熱河省内朝陽寺で拉致される事件が発生したため(朝陽寺事件)、第8師団は石本を奪還するため翌日同地に赴いた。関東軍では同事件をきっかけに、内地からの増援を受け、熱河省の軍事制圧を検討していたが、眞崎甚三郎参謀次長からは「性急な行動は慎むよう」指示された。事件に対し、中華民国外交部は矢野真臨時代理公使に対して「匪賊による列車強盗に対しわが軍が治安出動していたところ、日本軍より攻撃を受けた」として抗議を行ったが、日本側は「治安維持のための出動であり、日本軍に威嚇射撃などを行った中国側に非がある」と反論した。日本側の報道によると石本は張瑞光に率いられた約300名の匪賊に襲撃され、不思議なことにその場からただ一人拉致されていた。拉致実行者たちが遺棄した書類から彼等が7月16日に張学良からの「石本等が熱河省内朝陽において活動しつつあるから彼を捕縛せよ」との命令を受けて行動したことが判明した。7月19日には熱河政府代表が日本の要求を受け入れ、石本の救出に努力する事と今後は問題を起こさない事を約束したが、8月23日南京政府軍事委員会は北平分会に「日本軍よりの石本引渡し要求を拒絶すべし」と電命した。 石本は熱河省におけるアヘン問題について熱河当局と交渉を行っており、日本側は「アヘンからの収入を失うことを恐れた張学良が朝陽寺事件を起こした」と判断した。石本は翌1933年3月18日に朝陽東方4kmの地点で遺体となって発見され、検死の結果1932年12月20日頃匪賊によって殺害されたことが判明した。遺体発見1週間後の3月25日には石本の陸軍葬が行われた。朝陽寺事件が長期化する一方で、蒋介石は張学良に対し熱河に進軍し、湯玉麟を中国側に引き戻すよう圧力をかけることを要請していた。張学良と中央政府との対立を発生させながら、10月に入ると、中国軍が熱河へ集結を開始した。さらに日本側も12月に第6師団の増派を得て、熱河作戦の実施が迫りつつあった。蔣介石は12月25日、さらに中央軍6個師団の増派を進めていることを張学良に知らせている。

 日本は義和団の乱の際に結ばれた北京議定書においてロシアを意識した要求を行い、万里の長城の東端に位置する山海関とその西南15kmにあり不凍港として重要視される秦皇島などに駐兵する権利を得ていたため、この時期の山海関には北寧鉄路南側の兵営に歩兵100人と工兵の小部隊を駐留させ砲台を4基設けるとともに秦皇島には守備隊約50人を駐屯させていた。1933年1月1日午後9時20分頃、山海関南門外日本憲兵分遣所構内、同憲兵分遣所長宿舎、奉山線山海関駅日本軍鉄道看視哨所及び満州国国境警察隊付近に手榴弾を投じ、小銃射撃を加えた者があり、日本軍守備隊は直ちに警戒配置につき、中国側とは協定を結び小康状態を保っていた。1月2日午前11時頃日本軍守備隊は協定に基き南門の処理に向かおうとしたが、中国軍が依然南門付近にあって不法に突如射撃を加えてきたため兒玉利男中尉が戦死し、他に数名の負傷者を出した。日本側の報道によると日本軍守備隊は自衛上やむなく応戦し、午後3時30分以後山海関付近の中国軍と戦闘を開始して奉山沿線にあった関東軍の一部を増援として得た。陸軍省は、これは当時、張学良が盛んに熱河省並びに山海関付近において反満抗日の行動に出つつある情況から、中国側官憲が日本の国際的地位を不利にするため行った計画的挑戦であることが明らかであると発表した。支那駐屯軍司令官中村孝太郎中将は1月2日午後11時30分北平歩兵隊長粟飯原中佐を通して張学良に対する軍司令官の警告を手交し、日本人居留民は山海関及び秦皇島とも守備隊兵営に収容し保護された。1月3日、日本軍爆破隊は山海関沖にある駆逐艦からの艦砲射撃、緩中から飛来した航空機の爆撃の援護を得て山海関南門を爆破すると、戦車隊と守備隊の一部が突撃して中国軍を撃退し、11時55分日章旗を揚げた。両軍の歩兵は同等だったが日本軍は駆逐艦「芙蓉」と「刈萱」からの艦砲射撃に加え、19門の野砲、7機の航空機で中国軍の軽・小火器と対峙したため、圧倒するに至った。日本軍はこの戦闘後も中国側内部に侵攻する動きを見せず、日本軍司令官からは停戦の申し入れがなされた。一方、日本側の報道によると近くの秦皇島にいた中国軍は山海関陥落の報に逃げ腰となり中国人街一帯にわたって恣意的な徴発(略奪)を行ったため中国住民は恐慌をきたし、さらに避難した日本人居留民の家屋からも一物も残さず略奪していた

日本軍の山海関南門攻略に関する報道は日本側と中国側で異なっていたが、外国の信頼できる情報源の多くは日本側の報道を支持した。 山海関事件について当時のロンドン・タイムスは、日本は最終的に熱河省から無法者を追い払う意図を決して隠したことはないが、この事件を中国側の挑戦によるものとする日本側の主張は現場近くに日本の軍隊がいなかったという事実と戦闘が始まった時には第二師団が釜山から日本に向けて出航していた事実によって裏付けられるとし、「中国側が西欧列強の支援を得るためのものではないか」と論じた。同じく英国のデイリー・メール紙は事件は主に張学良によるもので彼は国際連盟が日本に対して実力を行使することを期待したのではないかと論じた。 中国側は日本軍による山海関占拠の合法性を認めなかったが、ロンドン・タイムズは「1901年に調印された北京議定書に基いて占拠している日本軍に対して中国軍が攻撃的態度を取ったことは中国軍の責任であり、日本側が侵略されたとして防御するのは当然の権利」と説明している。

 1933年2月9日、張学良は熱河攻略を決意し、南京政府も加わった多数の正規軍を熱河に侵入させたため、満州国は2月18日に熱河討伐を決定し、張景恵を総司令に任命。同日関東軍も日満共同防衛の立場から熱河征討の声明を発表した。2月21日、満州国政府は「張学良正規軍、義勇軍が満州国内の熱河省に侵入して要地の占拠、住民からの略奪、婦女子への暴行という不法行為を繰り返して満州国の治安を混乱させ、国の独立性を危うくしている」としてその不法行為を詰問した。同時に「不逞分子」の24時間以内の国外退去を要求し、これに応じない場合には断固実力をもって掃蕩を行うとの最後通牒を翌日発することも決定した。翌22日には日本政府も南京政府に対して熱河省における反満抗日行為の中止と中国軍の即時撤退を要求し、応じない場合には「自由行動」を取ることを宣言した。日満連合軍は協力して熱河省に進攻し、2月24日には熱河省の北の都である開魯を占拠、3月4日には熱河の省都承徳に入城した。同日関東軍司令官武藤信義は「長城ノ重要関門ヲ確保シテ北支方面ニ対シ戦備ヲ整ヘ」るよう指令した。張学良は蔣介石との会談の上、3月12日に敗北の責任を取って軍事委員会北平分会代理委員長を辞任し、同時に蔣介石の念願通り、張学良指揮下にあった東北軍は解体され、4人の軍長とする四個軍に改編され、中国北部に対する中央の支配力確立の端緒となった。一方、満州国軍総司令張景恵は3月13日新京に凱旋した。 
 5月25日何応欽はその代理徐燕謀を通して関東軍司令官に正式停戦提議を渡した。5月31日午前11時11分、塘沽において日本側代表、陸軍少将岡村寧次関東軍参謀副長は中国側代表、陸軍中将熊斌と以下の内容の停戦協定を調印した

  1. 中国軍は速かに延慶昌平高麗営順義通州香河宝坻林亭口寧河蘆台を通する線以西及以南の地区に一律に撤退し爾後同線を越えて前進せず
    又一切の挑戦攪乱行為を行うことなし
  2. 日本軍は第一項の実行を確認する為随時飛行機及其他の方法に依り之を視察す
    中国側はこれに対し保護及び諸般の便宜を与うるものとす
  3. 日本軍は第一項に示す規定を中国軍が遵守せる事を確認するに於ては前記中国軍の撤退線を越えて進撃を続行する事なく自主的に概ね長城の線に帰還す
  4. 長城線以南にして第一項に示す線以北及以東の地区内に於ける治安維持は中国側警察機関之に任ず
    右警察機関の為には日本軍の感情を刺戟するが如き武力団体を用ふる事なし
  5. 本協定は調印とともに効力を発生するものとする

南京政府は同日午後3時より緊急会議を開き、停戦協定成立が報告されると満場一致で承認した

 以上が塘沽協定に関わるウキペディアの解説である。当時の東京朝日新聞や戦史叢書より作成されている。蒋介石は秘録でこの事件をこう切り出している。
 国際連盟はクリスマス休暇に入った1933年1月1日、日本軍はついにことを構えて山海関を攻撃、3日には山海関を奪取した。九・一八事変(満州事変)と同じように、日本軍は密かに鉄道爆破事件を起こし、それを口実に山海関を占拠したのである。このニュースが伝えられて、国際連盟(リットン調査書の審議中)の空気は一変、大勢は日本不利に傾いた。英国の対日態度も変わり、ルーズベルトの方針を支持した。国際連盟特別十九人委員会は、ついに日本との調停を打ち切り、2月14日、総会報告書案を審議可決、2月21日に臨時総会を開催するよう要請した。この十九人委員会の総会報告書の大略は次の通り。①東三省(満州)の主権は中国に属する。②日本が東三省で得た権利は、それぞれ中国の主権の行使を制限している。③日本は連盟規約第十条の規定に反して中国の領土を占拠し、更にこれを独立させた。④9・18当夜の日本軍の行動は自衛ではない。たとえ現地の軍官が自ら自衛と信じているとしても、あの瀋陽城内やその他の場所での行動は決して自衛ではない。⑤満州国の組織は日本の参謀本部の援助と指導を受けており、満州国が存在できるのは、日本軍がそこにいるからである。故に満州国は民族自決運動によって成立したものではない。⑥9・18以降の情勢の発展に対して、中国に責任はない。⑦中国は必ずしも排外的ではない。 総会報告書案の内容は、おおむね満州が中国の主権下にある事を認め、ニセ満州国の不承認を表明したものであった。蒋介石はこう日記で記載する。これによって、日本は態度を変えて熱河攻撃を手控えるだろうか、いまはその侵略政策の変更は望めないだろう。あとへ引けないところまで追い詰められた日本は、世界の良識に逆らって、あえて破滅の途を選んだのである、と。2月24日、問題は採決に持ち込まれた。採決の結果、賛成42,反対1(日本)、棄権1(タイ)の圧倒的多数で、総会報告書案の採決が決まった。
 二つの件をつなぎ合わせると、手榴弾を投げ込んだのは蒋介石軍側の謀略としか思えない。国際連盟の審議を有利に持ち込む策だったのか。日本軍が目先の事件に対して、すぐに反応してくることは、蒋介石の戦略の中には読み込まれていたから。しかし、この塘沽協定の経緯をつぶさに見てくると、蒋介石国民党軍は満州に一歩たりとも足を踏み入れたことはない。張学良軍は熱河で挑戦するが、満州軍に押し返された、当然日本軍のサポートがあった事は認めるが。蒋介石による日本の侵略政策反対は国際社会を味方に引き入れるスローガンのように聞こえる。

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