革命を抱きしめる・進歩的文化人:ジョン・ダワー

2020年04月24日 | 歴史を尋ねる

 第二次大戦中に出征し、沖縄で敗戦を迎え、一年間米軍に拘留され、沖縄で労働に従事させられた小林正樹映画監督。やっとの思いで引き揚げて来た小林に映った光景は、「日本は極端に民主化していた。誰もが民主化へと向かっていた。誰もが人道主義的自由と組合活動という、カッコ付きの民主主義へと突き進んでいた」 彼は反戦的で人道主義的な映画製作を手掛けたが、日本人の突然の変心に深い疑念を抱いていた。日本は戦前と全く変わっていないように見えた。あの時、挙って軍部を支持していた。変化が悪いわけではないが、その変化がどのようにして起きたのかが問題だ、と。 吉田茂も異なった観点から、この民主革命に深刻な危惧の念を表明していた。名声を得たのは、「GHQと口にするたびに自分の心をよぎったのは、ゴー・ホーム・クイックリーという言葉だった」というジョークだった。しかし希望に反して、占領軍はいつまでも日本に駐留し続けた。吉田政権が占領下の改革に従ったのは、見直しを必要とするものは、日本が独立した後、見直せるはずだと考えていた。しかし一度決まってしまったものを再び変えることは、容易いことではない、と。

 小林が懸念し、外国人が従順な家畜と嘲笑った大勢順応主義は、日本では醇風美俗と表現された。GHQの課長が、日本人の態度や慣習が改革の妨げになりそうだと聞くと、やつらの習俗を変えさせろと叫んだ。しかし次第に明らかになって来たのは、勝者とその政策に対する民衆の反応は、イデオロギー的には曖昧であったが、誰も予測できなかったほど積極的であった。また、これまで天皇にしか抱かなかった熱狂をもって、マッカーサー最高司令官を受け入れ、敬意と服従を、GHQにも向けるようになった。予期せぬ反応は、マッカーサー元帥やGHQ宛てに直接送られてきた手紙やはがきだった。毎日何百通もの手紙が届けられた。大多数は個人が自発的に書いたものだった。 一方、知識人たちはほとんど例外なく進歩的文化人のマントを身につけ、民主主義と解放という大義名分のもとに結集した。この進歩的文化人という言葉は、日本にしか存在しない特異な言葉だ、とダワーはいう。この時代に知識人として評価されたければ、民主主義革命の使徒になることが、何より大切だった、と。

 戦争に反対したごく少数の知識人からみれば、これは驚くべき変化であった。数百人の学者や作家が軍国主義者や超国家主義者として公職追放されたが、戦前の自由主義者や左翼知識人は、戦争を支持していた。一部の共産党員は、信念を曲げず日本帝国主義に批判的な立場を取り続けたが、実際には、彼らは獄中にいたか、国外、ソ連や中国に滞在していた。わずかに一握りの学者(有沢広巳や大内兵衛)だけが国家主義の波に飲み込まれなかった。同じ時期のドイツでは、数は少なくても、影響力を持った知識人、左翼、教会関係者、軍部の将校たちが、確固とした主義・主張を掲げてナチの国民社会主義に立ち向かったが、日本にはそう言うものはなかった、以前の知識人の行動で誇るべきものはほとんどなかった、とダワーは手厳しい。戦後、多くの知識人が実践した進歩的で急進的な政治の関わり方は、後に丸山真男は悔恨共同体の形成と名付けた、当時の時代状況を映し出したものだった、とダワー。敢えて筆者が言えば、戦争に反対した共産党も、当時のコミンテルンの指導に依るものだった。どこまで自らの信念だったのか、それを証する文献に出会ったことがない。

 しかし、戦争に最も原理的な抵抗を行ったのは、献身的な共産主義者であったという言説が、終戦後の日本社会の中で共産主義者に高い地位を約束した。終戦後、徳田球一ら数百人の共産主義者が釈放されたが、一躍、即席の英雄になった。野坂参三が中国から帰国した際も、同様なことが起った。敗戦は、共産党の指導者にカリスマ性を与え、高潔さと尖鋭な政治性のオーラを吹き込んだ。広範な分野で活動する人々が、様々な形でマルクス主義を受容したことは、敗戦初期の日本社会に生じた目覚ましい出来事だった。戦後、日本社会で強い影響力を持った経済学者は、マルクス主義あるいは新マルクス主義的な枠組みの中で活動していた。大学での歴史学、経済学、政治経済学の分野でも、マルクス主義の影響が支配的であった。  文学界もまた革命的意識の嵐にもまれることとなった。1945年の暮れ、神田の書店街に100名ほどの作家が結集し、新日本文学会を結成、設立趣旨は、すべての民主主義的な文学者を結集し、民主主義文学の発展のために戦うことであった。そして著名な作家の戦争責任を糾弾する記事を掲載し、有名な文学者の戦争責任を告発した。  こうした中で、ニューディール政策を支えたGHQの人々も、日本の知識人たちの多くが悔恨共同体の感情に深く感化され、自分たちの責任を考察する際、マルクス主義を含むヨーロッパ思想を決定的な要素にするとは、予測できなかった。ましてや日本の知識人の考えが、マス・メディアを通じてこれほど速やかに日本国民に広まっていくとは、驚きだった。占領軍当局も次第に対応を変えていった。GHQ内の急進的な改革論者たちが、日本の左翼的知識人を育成し、支援したのに対して、警戒心の強い反共主義者たちは、左翼知識人の名前をブラックリストに載せた。

 戦後手を付けられた農地改革、労働改革、教育改革などの基本的変革は、事実上すべての日本の官僚、テクノクラート、顧問からなる巨大な中核グループによって進められた。改革推進派の日本人が自発的に改革に貢献したという事実は、あらゆる方面の人々が証言している。占領初期におけるアメリカ側の改革に向ける熱意は、改革を受け入れてゆこうという日本側のきわめて積極的な姿勢によって補完された。例えば労働基準法。厚生省労働基準課の課長だった寺本広作は、戦前軍部によって失効されていた労働法規の条項だけだなく、ILOの協定に基づいて、労働者を保護する包括的基準を起草、GHQの労働課長セオドア・コーエンの事務所に持ち込んだ。新しい教育民主化の動きを支えたのは、1946年5月に文部省が発表した新教育指針。目標とするところは、民主的で平和な文化国家の建設に寄与することであり、戦争と悲惨な現状を招いた日本社会の欠点について、教師も行政側も、深く反省するよう求めていた。小学校の民主読本には、「ポツダム宣言に則って連合国側は日本が民主主義を早く実現し、ふたたび世界に参加できるように力を尽くしているのです。しかし連合国側に言われるまでもなく、人類の歴史を見れば、民主主義国家になり、民主主義的国民となることは人の道にかなったことであることがわかります」と。そして、こうした新しい学校教科書を作った人々は、悔恨共同体の一員であったリベラルで左翼的な学者だった。教師たちは、大挙して労働組合を結成し、かっての国家への服従を償うかのように、権力に対決的な姿勢をとった。中でも日教祖は共産党と密接な関係にあり、慌てたSCAPのメンバーは学校における共産党の影響を排除するため、日本中に足を運んだ。


流動的で、理想に燃えた平和な瞬間:ジョン・ダワー

2020年04月18日 | 歴史を尋ねる

 1945年8月、焦土と化した日本に上陸した占領軍兵士がそこに見出したのは、驚くべきことに、敗者の卑屈や憎悪ではなく、平和な世界と改革への希望に満ちた民衆の姿であった。勝者による上からの革命に、敗北を抱きしめながら民衆が力強く呼応したこの奇跡の敗北の物語を、米国最高の歴史家が描く。二〇世紀の叙事詩。ピューリッツァー賞受賞。これはジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」の見開きページ解説文である。ダワーは「日米が激烈で残虐な戦争に陥りながら、いったん殺戮が終わると一転して友好国・同盟国になったこと、これはじつに注目に値する」と書いて、戦後だけではなく、戦争の理解、そして当時のアメリカの戦ったベトナム戦争などを遍歴、回り道して本書に辿りついたという。そして日本の指導者だけではなく、日本人すべてを対象にした、その点が評価されたと思うと、書いている。ダワーは日本に住んだこともあり、日本人の奥さんも居り、そういう意味では知日派と言えるのだろうが、当ブログ管理者から見ると、黒船から幕末、明治維新を経て、日清戦争・日露戦争・世界大恐慌ぐらいまで遡って貰いたかった。その先に日米戦争があったから。管理者宅ではアメリカカルフォルニア州立大学からの留学生を受け入れているが、ブラックシップについて知っている人は皆無、ペリー提督の名前を知っている人もほとんどいない。歴史のないアメリカだからとも思うが、彼らは南北戦争と現代史しか知らないのではないかとさえ思ってしまう。オバマ大統領が来日する時の言動を聞きながら、歴史観がない人だなと感じられた。安倍総理が当初オバマ大統領から歴史修正主義者と見做されていたことを想うと、国と国の理解の仕方は、本当にむつかしい。ましてや、戦争した相手だから。

 ダワーの言説に入る。日本人にとって上からの革命は、めずらしい経験ではなかった。19世紀半ばからずっと、支配者は民衆に、産業化・近代化・西洋化を進め、過去と決別し、新しい人間、新たな国家の新たな臣民になれと熱心に説き、1868年を機に、政府は文明開化のスローガンを掲げて、改革を実行した。1880年代になると、政府は天皇制の保守的で統制された保護の下に、近代国家を形成した。1930年代・40年代に現れた軍部や民間の独裁主義者たちでさえも、革新的、革命的スローガンを掲げて、帝国主義や軍国主義の政策を実行した。このように、権威主義的に上から強く指導して現状をすっかり変えるやり方は、日本では目新しいものではない。アメリカの改革者による日本占領が成功した理由の一つは、この点にある、と。マッカーサー最高司令官は、自らが統治する日本の実情を決して自分の目で確かめようとしなかった。マッカーサーと2回以上を話をした日本人はたった16人しかいなかった。1950年6月に朝鮮戦争が勃発するまで、マッカーサーが東京を離れたのはマニラとソウルを短期間訪問しただけだった。天皇裕仁と同じ様に、日本人の心情や成果について、親密で温かい言葉で語ることはあっても、決して接触を持とうとはせず、日本人の生活の実態を確かめることもしなかった。将軍は日本人の崇拝の念を巧みに利用した。占領下において彼は大君主であった。そして彼の部下は大君主の代理をする植民地総督のように職務を遂行した。政府の上の政府、この超政府は、政治・経済・社会・文化に関する基本政策を具体的に提示し、推進しながら、命令ではないが命令と同等の強制力を持った巧妙な技を編み出した。この賢明なやり方を通じて、GHQ当局は日本政府の政策に介入出来た。この手法を、ダワーは新植民地主義的革命と名付けた。

 GHQの異常なほどの集権性は、文民と軍人の職員を日本中に配置し、日本の教育制度と日常の生活文化に直接干渉することによって、一人一人の日本人の考え方や感情を作り変えることが重要だと、政策立案に関与した人物は述べている、と。その為には、アメリカのチームが日本各地に派遣され、アメリカ流の草の根レベルの公民教育を教え、学校教科書を検閲して、認可するかどうか決めるために、総ての教科書を英語に翻訳するよう義務付けた。マスメディアのも影響力を及ぼし、ニュースや公共放送番組、映画などに検閲を実施した。たとえばラジオ放送について、民主主義に基づいた放送以外許さないため、占領当局はNHKに独占させた。占領軍の改革者たちは、厳しい統制によってのみ、日本の典型的なジョー・ニップ(普通の人)をアメリカ流の民主主義者の複製に作り替えることができると信じていた。

 日本を民主化するという考え方自体が、実はアメリカ人が戦争中に教え込まれたプロパガンダの大きな修正の結果であった。アメリカのメディアでは、戦時中、総ての日本人は、子供、野蛮人、サディスト、狂人、ロボットとして描かれた。日本人を人間でないものになぞられた例として、猿人間(モンキーメン)があった。良きドイツ人を思い浮かべることはあっても、良き日本人は何処にも存在しなかった。戦争中、10万人以上の日系人が強制収容所に収容されたことは、その証左だ、と。ジョージ・マーシャル統合参謀本部長は、日本人の野蛮な行為はドイツ人のそれを遥かに上回っていると言っていた。このように日本で民主主義革命が可能だと考えられるような明るい材料はなかった。しかし一度、猿人間を民主主義者に変えていく方向に政策が変化すると、日本人を再教育するだけでなく、アメリカ人の一般大衆に対しても再教育を行う必要が出て来た。そして次のような教材も出来た。「日本人は、誠実、発明の才、勤勉さ、倹約、勇敢さ、進取の気性、正直さなど、性格面で良き特徴を持ち合わせている。若干の例外はあるにせよ、性格、性別、年齢、社会的地位、所得そして職業次第では、平均的日本人も他の国の人々と同じ様に、良き特徴を示すことも出来る」と。

 太平洋戦争の最後の半年間で、ワシントンでは急進的な占領政策が登場した。それは、ニューディーる・リベラル、左翼、中国問題専門家たちだった。1945年、ジョンズ・ホプキンス大学で教鞭をとったオーエン・ラティモアはアジア問題の解決として、日本を徹底的に民主化し、それをアジア全域の経済水準を最高レベルに引き上げること、そうしなければ、日本はいずれ必ず搾取的な帝国主義的政策を再開する。日本の賠償はアジア全体の経済力を引き揚げる手段となる、と。日本派と中国派の争いは、ディーン・アチソンがグルーに代わって国務次官なった時に決着した。さらにマッカーサーの政治顧問として国務省から任命されたのは中国問題の専門家だった。その後ワシントンと東京の間を往復した顧問団に、日本問題の専門家を見出すことは出来なかった。民政局長だったチャールズ・ケーディス大佐の事は既にふれたが、アルフレッド・オプラーは、ドイツ生まれで、日本の民法と刑法全般を監督する任務に採用されたが、欧州の事情について幾分通じていますが、日本のことについては何の知識もありませんと面接時に答えると、全く結構。日本について知りすぎていたならば、日本に偏見を持っているかもしれない。私たちは、旧世代の日本派を好ましく思っていませんから、と大佐。


過去の歴史忘れた占領政策(勝者の心理と論理)

2020年04月14日 | 歴史を尋ねる

 引き続き、岡崎久彦氏の解説。幣原喜重郎が理不尽と激怒するような指令が出され、マッカーサーはこれ以上無理は言わないと言いつつ、後から後から苛酷な指令が出た。歴史家ダワーによれば、アチソンがグルー次官に代わった1945年8月11日以来国務相は変わった、と。(ダワー自身による詳細な解説は、次回にゆずる) アメリカ知日派に対する最大の侮辱は、マッカーサーの政治顧問として国務省から任命されたのは、日本専門家ではなく、中国専門家だった。ホーンべック(日米交渉の最終段階、近衛文麿首相はジョセフ・グルー駐日大使と極秘に会談し、日米首脳会談の必要性を説いた。グルーは直ちに本国に電報を打ち、国務省では日米首脳会談の検討が開始された。グルーは、日本は誤算が生んだ危機的な状況から抜け出そうともがいていると述べ、首脳会談が危機打開の最後のチャンスだと訴えた。これに対しホーンベックは、日中戦争、三国同盟、南部仏印進駐が近衛内閣のもとで行われたことから不信感を顕にし、断固たる態度こそ日本を抑えることができると妥協ではなく力による日本を封じ込めを主張した。その際、ホーンベックは中国通ではあったが日本についての知識は乏しかったにも関わらず、日本について断定的な判断を下すことが多いという不可解な言動を取り続けた)がその一人だったが、アメリカの中国専門家は一般に戦時中の中国の宣伝そのままの、日本を悪、中国を犠牲者に考える風があった。国務省が日本専門家ドーマンを任命するようだったら、米国の対日政策は大正デモクラシーの復活が中心となり、幣原を信頼してその仕事を大幅に委ねたであろうと、岡崎氏。ドイツ占領政策は、ドイツ政府が存在せず、占領軍が主権者であ、行政当局であったので、官吏の任免、司法権の行使を含めて、占領軍は好きなように出来た。日本の場合、ポツダム宣言を受諾、占領軍を受け入れたが、ドイツの場合と法的基盤が違った筈。知日派のグルーやドーマンならば、その差異を徹底してくれただろうが、アチソンは粗暴なる指示でこれらを否定、戦争裁判を含めドイツと同じ扱いになった。

 ダワーによれば、日本に関する先入観を排除するために日本専門家を意図的に占領行政の中枢から排除された。ヘレン・ミアーズはその著書で、彼らは個人的には真摯で教養ある人たちだったが、日本に関する本は一冊も読んでいなかった、米国人が日本を改革するというなら、日本は今までどういう国だったかを明確にかつ具体的に知っていなければならない、そうでなければ、未知の化学物質で事前知識なしに実験するようなものだと、その無知に恐怖を感じていた。長く極東政策の最高助言者だったホーンベックは、日本の歴史について、1578年の秀吉から、一気に1927年の田中上奏文に飛躍する雑駁で悪意に満ちた日本歴史観の保有者で、こんなひどい連中に日本は思いのままにされた、と岡崎氏は怒る。

 GHQの民政局の中枢を占めていたのは、左翼的ニューディーラー達だった。猛威を振るったケーディス大佐は、私は日本の歴史や文化についていかなる知識もない、私が知っているのは戦争中の残虐行為と、中国、東南アジアへの拡張だけだ、日本側の改革案は病気の枝を刈り込むだけだが、われわれは根っこから掘り起こす、と。彼の盟友マーク・ゲインは、今の日本は、排外主義のいろいろな機関がそのまま残っている未改革の侵略国家だ、われわれは建設的な計画に乗り出すまでにまだまだ破壊しなければならない、われわれは真珠湾で沈められた何隻かの老朽戦艦の復讐のために戦争したのではなく、日本が再び戦争をしないように日本を作り変えるというはるかに重大な目的のために戦争をしたのだということを、あまりにも多くの米国人が忘れている、と言っている。こんな議論が跳梁跋扈し、鳩山一郎追放のように総理の人事まで左右した。

 これに対し、国際政治の現実から対日政策を考えたのは、GHQ内ではウィロビー情報部長などの軍事専門家であり、国務省では政策企画部の国際戦略家ジョージ・ケナンだった。ケナンは、軍国主義者でもなく、ただ戦時中国家のために献身的に奉仕しただけで、日本の社会の建設的な発展になくてはならない人々が追放されたと報告し、冷戦を戦うパートナーとしての日本の地政学的重要性を説き、占領政策の緩和を進言した。その後、米国の政策は、冷戦の激化と朝鮮戦争を経て、ケナンの進言したとおりになっていった。それに対して、むしろ日本側が左翼勢力の影響でアメリカのパートナーとなるのを遅疑逡巡するのが、占領末期及び長い戦後の日本の状況となった、と岡崎氏は語る。