第二次大戦中に出征し、沖縄で敗戦を迎え、一年間米軍に拘留され、沖縄で労働に従事させられた小林正樹映画監督。やっとの思いで引き揚げて来た小林に映った光景は、「日本は極端に民主化していた。誰もが民主化へと向かっていた。誰もが人道主義的自由と組合活動という、カッコ付きの民主主義へと突き進んでいた」 彼は反戦的で人道主義的な映画製作を手掛けたが、日本人の突然の変心に深い疑念を抱いていた。日本は戦前と全く変わっていないように見えた。あの時、挙って軍部を支持していた。変化が悪いわけではないが、その変化がどのようにして起きたのかが問題だ、と。 吉田茂も異なった観点から、この民主革命に深刻な危惧の念を表明していた。名声を得たのは、「GHQと口にするたびに自分の心をよぎったのは、ゴー・ホーム・クイックリーという言葉だった」というジョークだった。しかし希望に反して、占領軍はいつまでも日本に駐留し続けた。吉田政権が占領下の改革に従ったのは、見直しを必要とするものは、日本が独立した後、見直せるはずだと考えていた。しかし一度決まってしまったものを再び変えることは、容易いことではない、と。
小林が懸念し、外国人が従順な家畜と嘲笑った大勢順応主義は、日本では醇風美俗と表現された。GHQの課長が、日本人の態度や慣習が改革の妨げになりそうだと聞くと、やつらの習俗を変えさせろと叫んだ。しかし次第に明らかになって来たのは、勝者とその政策に対する民衆の反応は、イデオロギー的には曖昧であったが、誰も予測できなかったほど積極的であった。また、これまで天皇にしか抱かなかった熱狂をもって、マッカーサー最高司令官を受け入れ、敬意と服従を、GHQにも向けるようになった。予期せぬ反応は、マッカーサー元帥やGHQ宛てに直接送られてきた手紙やはがきだった。毎日何百通もの手紙が届けられた。大多数は個人が自発的に書いたものだった。 一方、知識人たちはほとんど例外なく進歩的文化人のマントを身につけ、民主主義と解放という大義名分のもとに結集した。この進歩的文化人という言葉は、日本にしか存在しない特異な言葉だ、とダワーはいう。この時代に知識人として評価されたければ、民主主義革命の使徒になることが、何より大切だった、と。
戦争に反対したごく少数の知識人からみれば、これは驚くべき変化であった。数百人の学者や作家が軍国主義者や超国家主義者として公職追放されたが、戦前の自由主義者や左翼知識人は、戦争を支持していた。一部の共産党員は、信念を曲げず日本帝国主義に批判的な立場を取り続けたが、実際には、彼らは獄中にいたか、国外、ソ連や中国に滞在していた。わずかに一握りの学者(有沢広巳や大内兵衛)だけが国家主義の波に飲み込まれなかった。同じ時期のドイツでは、数は少なくても、影響力を持った知識人、左翼、教会関係者、軍部の将校たちが、確固とした主義・主張を掲げてナチの国民社会主義に立ち向かったが、日本にはそう言うものはなかった、以前の知識人の行動で誇るべきものはほとんどなかった、とダワーは手厳しい。戦後、多くの知識人が実践した進歩的で急進的な政治の関わり方は、後に丸山真男は悔恨共同体の形成と名付けた、当時の時代状況を映し出したものだった、とダワー。敢えて筆者が言えば、戦争に反対した共産党も、当時のコミンテルンの指導に依るものだった。どこまで自らの信念だったのか、それを証する文献に出会ったことがない。
しかし、戦争に最も原理的な抵抗を行ったのは、献身的な共産主義者であったという言説が、終戦後の日本社会の中で共産主義者に高い地位を約束した。終戦後、徳田球一ら数百人の共産主義者が釈放されたが、一躍、即席の英雄になった。野坂参三が中国から帰国した際も、同様なことが起った。敗戦は、共産党の指導者にカリスマ性を与え、高潔さと尖鋭な政治性のオーラを吹き込んだ。広範な分野で活動する人々が、様々な形でマルクス主義を受容したことは、敗戦初期の日本社会に生じた目覚ましい出来事だった。戦後、日本社会で強い影響力を持った経済学者は、マルクス主義あるいは新マルクス主義的な枠組みの中で活動していた。大学での歴史学、経済学、政治経済学の分野でも、マルクス主義の影響が支配的であった。 文学界もまた革命的意識の嵐にもまれることとなった。1945年の暮れ、神田の書店街に100名ほどの作家が結集し、新日本文学会を結成、設立趣旨は、すべての民主主義的な文学者を結集し、民主主義文学の発展のために戦うことであった。そして著名な作家の戦争責任を糾弾する記事を掲載し、有名な文学者の戦争責任を告発した。 こうした中で、ニューディール政策を支えたGHQの人々も、日本の知識人たちの多くが悔恨共同体の感情に深く感化され、自分たちの責任を考察する際、マルクス主義を含むヨーロッパ思想を決定的な要素にするとは、予測できなかった。ましてや日本の知識人の考えが、マス・メディアを通じてこれほど速やかに日本国民に広まっていくとは、驚きだった。占領軍当局も次第に対応を変えていった。GHQ内の急進的な改革論者たちが、日本の左翼的知識人を育成し、支援したのに対して、警戒心の強い反共主義者たちは、左翼知識人の名前をブラックリストに載せた。
戦後手を付けられた農地改革、労働改革、教育改革などの基本的変革は、事実上すべての日本の官僚、テクノクラート、顧問からなる巨大な中核グループによって進められた。改革推進派の日本人が自発的に改革に貢献したという事実は、あらゆる方面の人々が証言している。占領初期におけるアメリカ側の改革に向ける熱意は、改革を受け入れてゆこうという日本側のきわめて積極的な姿勢によって補完された。例えば労働基準法。厚生省労働基準課の課長だった寺本広作は、戦前軍部によって失効されていた労働法規の条項だけだなく、ILOの協定に基づいて、労働者を保護する包括的基準を起草、GHQの労働課長セオドア・コーエンの事務所に持ち込んだ。新しい教育民主化の動きを支えたのは、1946年5月に文部省が発表した新教育指針。目標とするところは、民主的で平和な文化国家の建設に寄与することであり、戦争と悲惨な現状を招いた日本社会の欠点について、教師も行政側も、深く反省するよう求めていた。小学校の民主読本には、「ポツダム宣言に則って連合国側は日本が民主主義を早く実現し、ふたたび世界に参加できるように力を尽くしているのです。しかし連合国側に言われるまでもなく、人類の歴史を見れば、民主主義国家になり、民主主義的国民となることは人の道にかなったことであることがわかります」と。そして、こうした新しい学校教科書を作った人々は、悔恨共同体の一員であったリベラルで左翼的な学者だった。教師たちは、大挙して労働組合を結成し、かっての国家への服従を償うかのように、権力に対決的な姿勢をとった。中でも日教祖は共産党と密接な関係にあり、慌てたSCAPのメンバーは学校における共産党の影響を排除するため、日本中に足を運んだ。