江戸時代の政治史を見ると、将軍の代替わりを境として前後に大きな断絶がある。それは将軍が絶対的な権威と権力を持ち、その信任を受けて政治が行われる当時の政治体制に由来する。中でも、(1)柳沢吉保ー荻原重秀(しげひで)の元禄後期政権と次の新井白石政権との間、(2)田沼意次政権と次の松平定信政権との間の断絶はその幅はもっとも広いと、大石慎三郎氏は後藤一朗氏の著書「田沼意次ーゆがめられた経世の政治家」の序文で語っている。荻原重秀は元禄後期の経済政策に大きな足跡を残した重要人物であるが、その死に方は獄死とも殺されたとも言われ定かでないが、この点で田沼意次も大変良く似ていて、二人とも信用に足る基礎資料がほとんど残されていない、という。この二つの政権交代劇は、将軍交代に伴う側近グループの入れ替わりといった普通のケースと違って、クーデターともいうべき手段による政敵への権力移行であった。そしてもう一つの共通点は、新井白石・松平定信とも書き残したものが沢山あり、これが重秀・意次の評価を決める主要な資料となっている。
戦後一時期燎原の火のごとく日本史ブームが訪れ、啓蒙書が沢山発行されたが、歴史書の田沼意次に関する部分を見ると厳密な史料点検が行われず、特にブームに乗った歴史書にその点が目立つ、少しでも面白ければ良いといった非学問的態度さえ見える、そこに義憤さえ感ずると大石氏は語っている。そうした中で後藤氏は一介の銀行マンだったこともあり、日本歴史学の権威である大石慎三郎学習院名誉教授の支持を得て、上記著書を発行している。一度出来た定説を覆すことがどの程度大変なのかこの著書を見ると想像できる。 田沼時代の歴史を書き換えた銀行マン後藤一朗氏と大石慎三郎名誉教授のコメントを披露して、田沼意次の時代を辿るスタートとしたい。
後藤一朗氏:あれだけの政治活動をした人物でありながら、田沼の研究史料は少ない。そうした中で、静岡県相良の地(田沼意次の居城があった)は、他の何処より史料に恵まれ、また田沼家からの好意で格別の便宜を得た。あらゆる視点から探求・分析し、徳川将軍家のお家騒動に、政変の根源を見つけることが出来た。
大石慎三郎氏:幕閣としての田沼意次ではなく、領主としての田沼意次を知る必要あり、静岡県相良町を訪ね、領地の状況を知るとともに、税制、年貢、土地史料等を見て歩いたが、期待するものは出会わなかった。そんな折に相良町在住の後藤一朗氏が訪ねて来て意見をたびたび交換し、氏のたっての要請で序文を書くこととなった。これを弾みにして、さらに田沼研究を進め、「田沼意次の時代」という著書を纏めた。ずいぶん長い道のりだったが、自らを語ることがなかった荻原重秀・田沼意次を書いてみたいと思っていた。