江戸時代の断絶

2010年04月29日 | 歴史を尋ねる

 江戸時代の政治史を見ると、将軍の代替わりを境として前後に大きな断絶がある。それは将軍が絶対的な権威と権力を持ち、その信任を受けて政治が行われる当時の政治体制に由来する。中でも、(1)柳沢吉保ー荻原重秀(しげひで)の元禄後期政権と次の新井白石政権との間、(2)田沼意次政権と次の松平定信政権との間の断絶はその幅はもっとも広いと、大石慎三郎氏は後藤一朗氏の著書「田沼意次ーゆがめられた経世の政治家」の序文で語っている。荻原重秀は元禄後期の経済政策に大きな足跡を残した重要人物であるが、その死に方は獄死とも殺されたとも言われ定かでないが、この点で田沼意次も大変良く似ていて、二人とも信用に足る基礎資料がほとんど残されていない、という。この二つの政権交代劇は、将軍交代に伴う側近グループの入れ替わりといった普通のケースと違って、クーデターともいうべき手段による政敵への権力移行であった。そしてもう一つの共通点は、新井白石・松平定信とも書き残したものが沢山あり、これが重秀・意次の評価を決める主要な資料となっている。

 戦後一時期燎原の火のごとく日本史ブームが訪れ、啓蒙書が沢山発行されたが、歴史書の田沼意次に関する部分を見ると厳密な史料点検が行われず、特にブームに乗った歴史書にその点が目立つ、少しでも面白ければ良いといった非学問的態度さえ見える、そこに義憤さえ感ずると大石氏は語っている。そうした中で後藤氏は一介の銀行マンだったこともあり、日本歴史学の権威である大石慎三郎学習院名誉教授の支持を得て、上記著書を発行している。一度出来た定説を覆すことがどの程度大変なのかこの著書を見ると想像できる。 田沼時代の歴史を書き換えた銀行マン後藤一朗氏と大石慎三郎名誉教授のコメントを披露して、田沼意次の時代を辿るスタートとしたい。

 後藤一朗氏:あれだけの政治活動をした人物でありながら、田沼の研究史料は少ない。そうした中で、静岡県相良の地(田沼意次の居城があった)は、他の何処より史料に恵まれ、また田沼家からの好意で格別の便宜を得た。あらゆる視点から探求・分析し、徳川将軍家のお家騒動に、政変の根源を見つけることが出来た。

 大石慎三郎氏:幕閣としての田沼意次ではなく、領主としての田沼意次を知る必要あり、静岡県相良町を訪ね、領地の状況を知るとともに、税制、年貢、土地史料等を見て歩いたが、期待するものは出会わなかった。そんな折に相良町在住の後藤一朗氏が訪ねて来て意見をたびたび交換し、氏のたっての要請で序文を書くこととなった。これを弾みにして、さらに田沼研究を進め、「田沼意次の時代」という著書を纏めた。ずいぶん長い道のりだったが、自らを語ることがなかった荻原重秀・田沼意次を書いてみたいと思っていた。


自然との共生文明

2010年04月17日 | 歴史を尋ねる

 江戸時代の武士についてもう少し仕組みを探りたい。誤解をしやすいがユニークなことは武士は土地を所有していなかった。武士が住むのは幕府や殿様から拝借している土地・屋敷であり、個人が所有しているものではない。武士の知行地としている農村の土地は村人たちが所有権を持っている土地で、武士が持っているのは年貢の徴収権だけだ。では大名はどうであったか。江戸時代を通じて大名の配置換えが頻繁に行われた。国持ち大名は外様大名で、加賀の前田家、薩摩の島津家、陸奥の伊達家、肥後の細川家などは動かなかったが、譜代の大名たちは頻繁に動いた。そのたびに家臣団は殿様と一緒に移転した。

 天保6年(1835)御側役五島伊賀守と奥右筆大沢弥三郎両名は町人名義で町屋を所有し町人に貸し付けたのは「不届き」として免職・謹慎・所有地の没収という罪を受けた。第一の理由は町人に割り当てられた町屋地域の土地家屋は町役人(名主9の支配下に入る。これは江戸時代の根幹である身分制度の崩壊につながる不届き。第二は三民(農・工・商)の師表たるべき武士、且つ政府の中枢にある武士が金銭的利益のために武士のルールを破る道義的責任を問われての不届き。論語に「君子は義に諭(さと)り、小人は利に諭る} 多くの武士はこの言葉に殉じた。中国・朝鮮はともに儒教を国教とした国だったが、その実践においては日本の武士が最も忠実に精錬潔白を貫いたと恒孝氏はいう。一方でヨーロッパの貴族たちの考え方は、近代に移行する中で、あくまで貴族個人の所有物であった。1900年の記録によると、英国の国土の41%は1688家族の貴族の所有地であった。大土地所有者であることは権威と財力の象徴で、爵位を持ち、貴族院議員として国家経営に大きな発言権を持ち続けた。ドイツでもユンカーという地方貴族が土地の大きな部分を私有していた。これが崩れたのは第一次敗戦からだ。日本では第二次大戦後農地解放が行われたが、それまで地方の殖産や文化の発展の中核的働きをしていた江戸時代からの豪農の所有地であった。日本のシステムと西欧のシステムは一見似ているところもあるが、根本的には異なっていた。

 江戸時代の日本は詰めてみてみると、農業国家だった。時代が進むにつれて商業が盛んになったが、扱う商品はほとんどが農業生産物であり、漁業や製鉄も農林業の上に成り立っていた。緑の上に浮かんだ植物国家だともいえると江戸の生活ぶりを丁寧に書き上げた石川英輔氏はいう。調べれば調べるほど、当時の日本人は上手に共存した社会を作っていたそうだ。現代科学技術と違って、ほとんどのものを植物から作り、太陽エネルギーだけですべてが再生産できるようにしか利用していなかった。紙の生産の場合、現在は年月を経た木を切って紙を作るが、江戸期は毎年生えてくる一年生のコウゾの枝を使ったそうだ。それでも当時日本は製紙大国であった。幕末期の外国人が、日本人は紙をハンカチのように使って捨てると、感心して書き残している。こういう生産システムは紙だけではない。衣食住すべて国内で取れる資源を食いつぶさず自給自足して利用する文明を維持していたという。

 といっても、人力でせいぜい牛馬の力だけですべての作業をするのだから、生産量は少なく、当時の生活は現在では想像つかないほど貧しかった。幕末に欧米に行った日本人が、あちらの生活のきらびやかさに目を奪われた様子は様々な記録に見えているが、だからといって当時の日本の文化が一方的に劣っていたと考えるのは間違っていると石川氏は言っている。石川氏のロジックは面白い。15世紀から20世紀へかけてのヨーロッパやアメリカの文化は、アフリカやアジア、アメリカなどの植民地として、先住民を奴隷にしたり虐殺や収奪したりすることによって作った富なくしては考えられない。事実、18世紀から19世紀に向って海外植民地からの収入と貿易による巨大な利益をもとに産業革命にはいった英国は世界帝国の座についたが、当時最も利益を上げたのは奴隷貿易であったと恒孝氏は調べている。さすがに奴隷貿易は人道上の問題から禁止の動きが起こると、今度は中国向けアヘン貿易を強力に進めた。江戸時代の先祖たちは、そんな下劣なことはしなかった。欧米諸国より貧乏なのが当たり前で、恥じる必要はない、と。

 日本が有数の森林国なのは有名な事実ですが、戦国時代に乱伐された日本の森林は、江戸時代に再び盛り返して営々と守られてきた貴重なもので、ほとんどが人間の手によって手当てがなされた二次森林です。英国では13世紀から16世紀にかけて深い森林を切り倒し森林資源が枯渇したらしい。またアメリカでも入植した東岸は一面深い森に覆われた大森林地帯だったが、悉く切り倒されてしまった。こうしてみると、自然に対する考え方が西欧人と日本人とでは根本的に違うようだ、征服か共生か、これが貴重な江戸の遺伝子だと徳川恒孝は訴えている。


天下泰平と武士の苦悩

2010年04月14日 | 歴史を尋ねる

 「百居ても同じ浮世に同じ花 月はまんまる雪は白たえ」 元禄時代の狂歌師 油煙斎貞柳 「生きすぎて七十五年食いつぶし限りしられぬ天地(あめつち)の恩」 大田蜀山人辞世の句 「冥土より今にも迎い来たりなば九十九まで留守と断れ」 大田蜀山人 病床で残した句   「子を放る真似をしてゆく橋の上」「男の子裸にするとつかまらず」 江戸川柳「誹風柳多留」  このような天下泰平の時代を作り出した江戸社会の仕組みを見てみたい。

 百万都市の江戸を治める江戸町奉行所の定員は300名弱、この人数で現在の都庁と区役所の業務、警視庁、消防庁、地裁や高裁の仕事までこなしたが、細かい行政事務が出来る筈はない、実務部分の多くは民間に委託された。また、天領の地方行政は各地に作られた代官所が担当していたが、定員30人そこそこの代官所で五万石から十万石の土地の行政と税務を担当していた。従って実際の仕事は民間である村役人のお任せであった。テレビ等では代官は悪役と決まっているが、実際は地方行政の立派なプロだったようだ。江戸時代を通して大名は幕府に上納する税はなかった。その代わり幕府からの原則援助もなし。その代わり大名は「役」を行わねばならなかった。譜代は幕府の要職(老中、若年寄、大目付、寺社奉行等)、外様は河川の改修や橋の架け替え、城郭修理。江戸期後半は各地の防備をする「海防」の大仕事。これらの費用は原則自己負担。幕府も各藩も、基本的には米の年貢だけに頼る収入で、年々拡大する巨大な経済社会に対応することが迫られ、財政上の困難は増加する一方だった。

 高い民間委託の実態はどうであったか。農村の年貢徴収は村単位で行われ、実務は村役人である名主・庄屋層がすべて代行した。村全体の生産高が検地で認定されれば、その35%を村として納めればよかった。「村請け制」と呼ばれた。季節の出稼ぎや野菜栽培は年貢の対象外、農村の経済力向上の背景はこの徴税方式にもあった。江戸や大阪の年貢は免除されていた。ただし町を維持する直接費用(上水道の補修、川浚い、火の見櫓の補修、町火消しの法被など)は「町入用」として名主などの町役人(ちょうやくにん、まちやくにんでは武士になる)が今の固定資産税のような方式で徴収し運営を担当していた。争いこともまず町役人に調停を頼んで、駄目な場合奉行所が受け付ける仕組みであった。このように、町・村いずれにしても、江戸時代は最初の行政役はほとんど民間で行った。このため実質的行政を任された村役人・町役人の事務所では高い計算能力と書類作成能力を持つ有能な人材が多数必要とされた。このことは武士以外の人材の教育の必要性と教育の熱意を向上させたと、恒孝氏は考える。19世紀初頭、日本人の識字率が英国を上回っていたであろうと英国人と話した折、「当時の日本は教育によって社会で上昇できる可能性がある社会だったのだろう。英国では階級制度が厳しく教育は金の無駄遣いと感じていた。これは20世紀に入るまで変わらなかった」といったそうだ。さらに特徴的なことは、各藩が藩内の殖産に必死に取り組んだことだった。領国を富ませるためには他の領国や江戸・大阪などの巨大消費地に輸出できる産品の開発しか道はない。特に1700年代後半の異常気象に見舞われた時期は農業生産が低迷し、日本中の大名が名産品・特産品の開発に知恵を絞った。漆器、織物、蝋燭、塩、酒、染料、陶器、手工業品、干物、菓子などはだいたい江戸時代の先人が開発したものだ。参勤交代は、江戸で多くの情報交換が行われ、松平定信の寛政の改革時、彼の屋敷に多くの大名が集まって領国経営の研究会も開かれた記録があるそうな。

 幕府・各藩の経済は商品開発、専売制の実施、上納金といった増収策があったが、武士個々人は全く違った。武士の収入源は先祖伝来の知行だけであった。江戸初期は米が生活と経済の中心であったが、貨幣経済が急激に発展していけば、米以外の商品や奢侈品が多くなり、時代を経るにしたがって、相対的に貧乏になることが避けられない。ゆるぎない武士の誇りを持ちながら、組屋敷に帰ればせっせと内職に精を出す武士たちの姿は幕末武士小説の典型です。経済力は低いが教育水準が高い知識階級で、武士のモラルという特殊な道徳観念に従う武士階級が社会の上部構造を作り、その下に洗練された経済社会・市民社会がある、江戸時代の日本の社会構造はユニークだった。


日本独自モデル パートⅡ

2010年04月13日 | 歴史を尋ねる

 パートⅡは江戸時代のソフト面。まず貨幣。日本中に貨幣が本格的に流通するようになったのも江戸時代。それまでは中国で鋳られた銭の使用と値の張る取引は金・銀の目方を量り、含有量を調べていた。全国統一を機に幕府は金座を江戸、銀座を京都、大阪、駿府、長崎に作り、刻印を押し奉行が著名した高額貨幣(金貨)、商いに最も必要な金・銀貨幣を大量に供給、銭も日本製の良質なものを供給して、経済活動を一気に広げた。

 次は法律。憲法に当るものは「法度」。武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸子法度。現在の民法に当るものは公事方(くじかた)、刑法に当るものは吟味筋(ぎんみすじ)と呼ばれ、直轄地は幕府法、大名領は藩法、旗本は地頭法と全国的な法基準が出来上がった。また膨大な裁判数に音を上げて判例集「公事方御定書」に集大成された、。これは一般には公開されない内部資料に留まったが、江戸民法大全のようなものだったようです。江戸の法の執行はオランダ商館ツユンベリーが「法が身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国はない」と江戸参府随行記に書いているそうだ。因みに享保四年(1719)の訴訟受理件数は4万7千件(内公事3万6千件)に達し如何に幕府の裁判が信用されていたか分かる。

 次いで江戸の上水道と下水処理。当初江戸の町は埋め立てによって海岸側に市街地を造った。このため井戸を掘っても塩分の入った水しか出ない地域が多かった。最初に作られたのが神田上水、現在の井の頭公園から66キロの上水路、3600の副水路、途中から地下に木管のパイプで給水したそうだ。江戸東京博物館に陳列されている。テレビなどで見る長屋の井戸はこの上水だそうだ。三角測量により、正確に地形を読み取り上水網を張り巡らしたようだ。また、川の水質維持にも力を尽くし、台所ごみを含め廃棄物の川への投棄を厳禁し永代島へ廃棄することを命じたそうだ。ごみ収集業者がいて、結果として埋め立てて造成された土地はごみ業者のものになった。併せて江戸は世界で最も進んだ衛生管理を維持していた。日本の場合、糞尿は上質の有機肥料として100%活用していたことは有名だ。西欧では河川に投棄されることが多く、悪臭ふんぷんだったという。水洗便所は英国の発明だそうだが、19世紀に入ってからだそうだ。またベルサイユ宮殿には便所の設備がなかったという。押して知るべし。江戸市民は隅田川で白魚のおどりを食べていたことと比べると、その違いは大変なものだ。


日本独自モデル

2010年04月12日 | 歴史を尋ねる

 日本は古来より外国モデルを輸入するのが得意だったが、「江戸時代のかたち」が完成した最初の100年はまったく日本独自のもの、日本人の知恵と経験、感性で作り出したもので、結果として、声高な理念も主義もなく、平和な社会が維持された。奈良時代、中国の名前まで借りて出来た「大蔵省」という役所は明治以降また復活しているが、江戸時代は「勘定奉行所」と呼ばれたのは象徴的だと、徳川恒孝氏は語っている。

 明治初期日本に来たドイツ人治水技師が「日本には河がない、あるのは滝だ」と驚いたほど急流の河川が多く、いったん大雨が降れば水害を引き起こす沖積地では利用が困難だったが、幕府が始めた全国的な治水工事は、幕府直轄、大名に命じたもの、天下普請として各大名総出のものとあったが、結果的に米の生産量・人口を飛躍的に増やし、まさに列島大改造は日本を一転させた。徳川幕府による大名弱体化政策とも云えるが、半面軍事予備費を転用・活用したともいえよう。一方農家も秀吉による兵農分離策で専業農家となり、村は強い自治性を育て、田畑を少しでも広げて整備し、生産性はこれまた伸びることとなった。日本の米作りにかける情熱や勤勉性は昭和40年ごろのアジア諸国のものと比べても圧倒的な高さだったようだ。

 一方武士社会では、大名たちの大々的な配置転換で、全国に新しい領主が誕生し、新しい城が作られ、または改装され、新しい町作りが始まった。大名の居住地に大消費都市が出現して、地域経済発展の拠点が定まった。260余の大名が居たそうだから大変な数である。今日の地方都市はほとんどこの頃、城下町としての基礎が築かれた。ここ数年、各地で築城400年記念の催しが開かれているのが何よりの証拠だ。1700年ごろで日本の都市人口は10%ぐらい、これは世界でも断然早い記録だそうだ。都市は市場経済を発展させ、文化を育てる場であり、当時世界で最も充実した都市化文明を持っていたこととなり、逆に言えばその都市人口を養える豊かな農業と漁業があったこととなると、恒孝氏は云う。

 さらにこれらの都市を結ぶ街道も整備された。戦国時代の旅は何処で何が起こるかわからず、治安はまったく保障されなかったし、通行許可基準もバラバラ、余程のことがなければ、普通旅をしなかった。それが江戸時代になると一変した。街道整備、宿場に旅籠、馬や駕籠の提供、関所はすべて幕府直轄、通行税もなし。当時の異邦人ケンペルは「自国の首都の大通りのように人が沢山歩いている」と驚嘆している。江戸時代には4回にわたって爆発的な「お伊勢参り」があったそうだ。この途方もない旅行ブームはなぜ起こったか良く分かっていないが60年周期であったそうだ。さらに参勤交代制度、そして江戸屋敷の維持費も莫大であった。この経費は各大名家の台所を苦しめた。この参勤交代制度は各藩の財政を苦しめたが、他方北から南まで武士と若者たちを巻き込んだ官費による長い旅と江戸滞在は日本の文化のあり方を大きく変えた。若い武士は道場に通い、塾で勉強をした。延々と240年続いたこの制度、世間を知り見聞を広め視野を広くするその効果は計り知れないとさらに恒孝氏は考える。たしかにこんなことを行った国は世界中に日本しかないでしょう。