満州事変 緒方貞子 2

2015年12月16日 | 歴史を尋ねる
 国際連盟において、満州における日本の軍事行動が重要な課題となり、国内政治と外交との複雑なプロセスを解明することが必要となった、と。(緒方氏は外務省の外交文書室を訪ね、「日支事件に関する交渉経過(連盟及び対米関係)」の閲覧と分析に専念した)
 連盟理事会の激しい討議にあって、政府は一方で関東軍に軍事行動の停止を要求しつつも、他方で列国に対して、満州に於いて直面する市民の安全、権利の保護等の共通の利益と関心に理解を得るよう努めた。特に政府としては、戦線がハルピンまで拡大することを防ぐことによって、連盟からの介入を阻止しようと考えた。当初においては、列国は日本が速やかに鉄道付属地内に撤退することを要請しながらも、期限を規定するものではなく、馬賊その他満州に於ける無法分子の行動に対し、軍事的措置をとる権利を認めるという妥協的な対応に留めた。これは日中間における軍事的取決めを禁止するものでもなかった。(緒方氏は政府代表を務めていた祖父の芳沢謙吉に当時の状況を聞いている)
 当初、連盟は期限を定めて日本軍の撤退を求めることも考えたが、欧米列国においては必ずしも強硬手段に出るまでの用意はなかった。外務省が連盟に対して正式に調査団の派遣を提案したことは、軍の反発を避けつつ、満州事変の処理に時間的猶予を得るという成果をもたらした。

 この時、関東軍は満州各地において独立のための活動を拡大し、新国家の建設を急いでいた。新国家樹立のための諸案は「民族協和」を基本とするもので、満蒙の支配のために独立国を建設するという関東軍の国家論は、日本政府の構想と一致するものではなかった。政府は満州問題について、総理大臣監督の下に満州事務委員会を設ける意図であったが、関東軍は、自ら絶対的な支配権を確保しようと決意し、満州における新国家建設を貫こうとした。関東軍は、新国家建設の構想を進め、昭和7年(1932)の初頭には具体的な統治案を立て、満州各地の有力者との交渉を進めていた。特に復位を求めていた宣統帝を国家の主席とする満州国の独立計画は、政府および軍中枢部と明らかに異なるものであった。関東軍は、満蒙の領有を目標としていたが、政府中央の反対と列国の反発から、むしろ次善策として独立を企図した。

 満州の軍事活動が急速に拡大する中で、戦線の拡大も、満州国の独立も阻止できなかった内閣は退陣し、犬養毅を首相に政友会内閣が成立した。組閣にあたって、天皇は西園寺ら重臣に対し、軍部を統制し、事態の収拾にあたることを求めた。犬養自身は、長年、中国問題に関心を持ち、日中関係の改善を重視していただけに、個人的な経路を通じて中国要人と交渉を進めようとし、また、列国に対しても新国家の承認を遅らせようと図った。しかし、日本国内では、国際連盟の調査団報告も満州国の承認を示唆するものであるとし、また、満州における日本軍の行動は日本の権益を守るものであるとして強硬論が高まり、犬養は総理官邸において、海軍将校に暗殺された。暗殺者は、海軍の尉官青年将校を中心とし、陸軍士官学校生等、国家改造運動等に連なる運動家であったが、軍の上層部には、政党政治を廃し、国内の革新を進め、満州と中国大陸における権益を最大限に確保しようとする志向も見られた。

 犬養内閣後、政府は、満州国の樹立と開発に重点をおいた大陸政策を展開することとなった。満州国の開発、独立と承認を進めるなかで、日本は、国際連盟の調査団が「リットン報告」として提案した解決方法を日本の利益を否定するものであるとして強く反対し、国際連盟からの脱退を決定した。特に問題になったのは、報告書が満州を中国の主権の下に置き、日本軍の鉄道付属地外から撤退を求めたことであった。国際連盟からの脱退は、日本が過去数十年にわたって守って来た国際協力政策を打ち切るものであり、また、意図して日本の国際協調外交を完全に断ち切るものとなった。満州事変を出発点として日本が辿った政治過程は、着実に「太平洋戦争への道」に向って歩みを進めた、と。

 緒方氏の史観は簡潔で明快である。そして満州事変当時の政策決定過程を逐一検討することにより、事変中如何に政治権力構造が変化し、またその変化の結果が政策、特に外交政策に如何なる影響を及ぼしたかを究明するのが、この著書のテーマである。この変化は対立する諸勢力間の争いの結果であるが、軍部対文官の対立ということで説明できるような単純なものではなかった。それは佐官級並びに尉官級陸軍将校が対外発展と国内改革とを断行するため、既存の軍指導層および政党並びに政府の指導者に対し挑戦したという、三つ巴の権力争いとして特色づけられる、と分析する。

 ワシントン条約後大陸への膨張を阻まれた日本(緒方氏はワシントン条約を明快に解説する。この条約は、四国条約、九国条約および主力艦に関する海軍軍備縮小条約を取り決めたが、これらの条約により、米国は国際条約を通じて日本が中国大陸へと発展するのを阻止しようと試みたものであった、これ等の締結は、米国外交の一大勝利として特筆されなけらばならない、と)は、世界恐慌の余波を受けて経済的にも社会的にも不安な状態にあった。さらに中国ナショナリズムの台頭とソヴィエト共産主義の出現とは、日本の在満権益に対する重大な脅威と考えられた。現状打破を願う気分は世間一般に漂っていたが、革新将校はこのような事態に対し何らの措置を講じようともしない既存指導層にあきたらず、自ら主導権をとり、日本のためにより輝かしい将来を獲得しようとして行動を開始した。彼らは強力な国家社会主義政府を樹立し、強硬な満州政策をもって中国の挑戦に対処し、さらに軍部並びに文官指導層を革新して、日本の強化を計ることを目標としていた、と緒方氏。
 確かに当時の事態を辿っていると、どうしてももやもや感が吹っ切れないが、緒方氏のこの見方を取り入れてみると、当時がクリアに見えてくる。この見解をさらに追いかけたい。

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