兌換銀行券

2012年07月24日 | 歴史を尋ねる

(3)兌換銀行券の発行:創立の際に制定された日本銀行条例第14条では「日本銀行は兌換銀行券を発行する権を有す」と定められたが、発行する時は別段の規則を定めると但し書きが付された。中央銀行業務に不可欠の銀行券発行の具体的規定が盛られなかったのは、当時不換紙幣の整理がそれほど進捗しておらず、銀貨と紙幣の価格差がなお著しかったため、将来可能となった時点で改めて具体的規定を制定しようとする趣旨であった。その後、明治15年・16年中に紙幣整理策が進展し、一方で正貨準備の蓄積が進んだこともあって、明治14年4月には銀貨1円に対し1円79銭5厘にまで下落した紙幣価値も、16年10月には1円15銭1厘まで回復した。ここで、松方大蔵卿は「試みに全額の正貨準備を以って兌換銀行券を発行せしめ、以て市場の需要に応じ通貨の流通を伸縮せしめるの道を開かん」と欲し、「兌換銀行券条例発布の議」を建議した。

 元老院の審議終了から2週間後の明治17年5月、兌換銀行券条例が交付された。日本銀行条例公布から1年11ヶ月を経過したあと、ようやく中央銀行の命というべき銀行券発行が可能となった。この条例の骨子は①兌換銀行券は銀貨兌換とする。②兌換銀行券発行高に対し相当の銀貨を置き引換準備に充てる。③兌換銀行券の種類は1円・5円・10円・20円・50円・100円・200円の7種とする。④兌換銀行券は租税・海関税・その他一切の取引に通用する、等。

 この条例の中核は①と②であった。なぜ銀貨兌換を採用したか、後日松方は次のように言っている。「私は金本位にしたい考えは持っていたが、金どころか、漸く銀の準備が出来たという有様だったから、交換が出来さえすればよいという積りで、そのときは銀の交換を取った」 また引換準備について曖昧な表現をとっているが、これも「条例制定の際は紙幣兌換の手始めで、最初より末の末まで見込みをつける条例を制定することは不可能、当分条例を実施し、将来の目的が定まった時便宜改正をする見込み」であった。松方の漸進主義の表れでもある。

 明治18年5月に兌換銀行券が初めて発行されて以来、その流通は極めて順調で、その需要の増大して発行高も急速な勢いで増加した。そしてこの間兌換銀行券発行準備も銀貨に金貨が加わり、期末で見る限り正貨準備高は50%を割ることがなかった。こうして、日本銀行兌換銀行券は着実に世の信任を得、順調に流通過程に浸透していった。明治21年7月末の発行高はついに政府紙幣を上回り、紙幣・銀行券流通高の40%を占め、また、同年末の金銀貨・補助貨等も含む現金流通高の34%に及んだ。


日本銀行創立の議

2012年07月19日 | 歴史を尋ねる

 明治14年(1881)10月政変で大隈は失脚し、松方が大蔵卿に就任して財務運営の中枢にすわった。松方は当時実施間際であった大隈の内外債募集案を否定し、反対意見を封じるため天皇・閣員の一任を取り付けた。ここに明治13年9月以降順次整備されてきた緊縮財政ー紙幣整理路線実行体制がが固められた。当時、西南戦争を契機として激しいインフレを引き起こし、国際収支は悪化して正貨が枯渇し、財政も収入低下と支出増で破綻に瀕していた。松方は、この財政経済危機の主因が不換紙幣増発にあると認識し、その解決策を漸進的紙幣整理と正貨蓄積による兌換制度の確立にもとめた。具体的には第1に緊縮財政と増税により財政剰余を捻出し、その一部で直接紙幣消却を図る。第2に予算制度上の赤字構造を是正し収支均等化に努める。第3に準備金を海外荷為替資金として輸出商に貸付け、売上代金を正貨で領収し兌換準備として正貨蓄積を図る。第4に、中央銀行を設立して近代的通貨信用機構を整備し兌換銀行券を発行して、漸次政府紙幣をそれに切り換えていく。このような構想をもとに松方は、明治15年(1882)3月「日本銀行創立の議」「同創立趣旨の説明」を提出し、中央銀行設立の必要性を訴えた。

 明治15年10月、日本銀行はようやく開業の運びとなった。この創立はわが国経済の近代化への基本的礎石であるという意味で、単に金融財政上のみならず経済一般の歴史上一大時期をかくするものであった。明治維新以来開始された政府の近代的通貨・金融制度の移植・育成努力がようやく辿り着いた最終到着点であった。そしてそこに導く駆動力になったものは、富国強兵・殖産興業という、国民的課題の達成を目指さざるをえなかった明治政府の歴史的使命感であった、と日銀百年史http://www.boj.or.jp/about/outline/history/hyakunen/hyaku1.htm/は語っている。それでは、その具体的事実とは何か、先を急ぎたい。

(1)公定歩合の設定:開業と同時に開かれた重役会で①公債証書抵当貸付を一口10万円を極度に3ヶ月11%、1ヶ月10%(年)。②定期預金、1000円以上6ヶ月以上5%(年)。③当座預金は無利子、とする旨を定め大蔵卿の許可を願い出、許可を得た。

(2)国庫・国債事務の取扱:明治維新後の急速な統一国家形成過程において、全国の租税を敏速・確実に中央に集中・保管すると共に、これを再配分することの出来る統一的な国庫制度の確立が必要で、このためには、行政組織、予算・会計制度、通貨・金融制度、交通・通信機関等さまざまな前提条件の整備を必要としたが、それを並行して①府県の財政を規制・統一して国庫の収入とする余地を作り出す、②各省・各府県の出納機関として旧為替方を排除して、近代的金融機関に出納業務を移す。、という二つの方法を中心に国庫制度の統一が進められた。日銀開業時には、国庫金の取扱は収納・支払とも、大蔵省為替方を命じられた各地の銀行が当たっていた。これを政府は日銀に国庫金の取扱を命じた。 


大隈財政から松方財政へ

2012年07月15日 | 歴史を尋ねる

 大隈が提議した「財政更革の議」の具体的方策は大きく4つ挙げられた。①税制改正、②地方財政の改正、③正貨収支の均衡、④各庁経費の削減。今の財政論議にある福祉施策はないが、国家財政のテーマは何時の世も古くて新しい問題のようだ。まず税制は酒類煙草税増徴、売買譲渡税相続税等の徴収。次に地方財政の改革は、国税と地方税の支弁範囲の改正。続いて正貨収支の均衡、対外支払いを削減するために、雇用外人費・吏員海外派遣費・外国製品購入費などを見直し予算限度額を決める。これに対する最も効果的な方策は官営工場払下であるという意見がこの議に主張されている。そして各庁経費の削減、各官庁の不急・重複の事業の廃止など、内務・大蔵・陸軍・海軍・文部・工部六省の経費削減指令を行なうことである。このようにして財政整理による紙幣消却の諸政策が表明され、明治14年度の紙幣消却予算額は倍増された。

 どうもこの「財政更革の議」は井上馨の「財政救済策」がベースとなって、大隈と伊藤の連名での提議、そして実行に移されたようだ。当時の政治情勢を先の梅村文書によって辿ってみたい。

 「大隈の「外債論」が敗れて以後、論戦の激化は財政対策一本に絞りこまれた。残るところは聖域に踏み込んでの緊縮財政以外にない。その後の財政政策は、井上が五代友厚の「地租米納論」に反対して提出した「財政救済策」の線に沿って展開された。1873年に大蔵大輔を追われた井上はその後も大蔵卿のポストに野心満々であった。見方によればこの時以降井上財政の復活があったとも云うことだ出来よう」

 「開拓使官有物払下事件をきっかけにして起きた明治14年政変で、大隈とその一派は大隈謀叛の名の下にすべて政府から追放された。もつれた政局は黒田も内閣顧問に祭り上げられ、開拓史も廃止された。他方明治14年政変の勝者である伊藤も内閣府の創設に失敗し、岩倉も威信の低下を免れなかった。こうした中で、松方だけは多年の野望であった大蔵卿の椅子をいとめ、ここに松方財政の開幕となった。就任早々、松方はすでに裁可になっていた公債発行の議を葬り去り、大隈財政との断絶を鮮明にするのだが、松方財政のこの面だけを強調するのは片手落ちの誹りをまぬがれない。他方において松方は先行する大隈財政から少なくとも三つの遺産を継承していたことも注目すべきだ」

 (1)大隈が懸命に取り組んできた財政・金融制度の改革。(2)実質的に井上財政の復活と呼んだところの明治13年秋以降の一連の増税と経費削減を組み合わせた財政政策の体系。(3)「松方が大蔵卿に就任した時にはすでに下方転換をとげていた景気動向。当時、米価は明治14年春までにはすでに峠を超えて下降の傾向に転じていた。大隈の手によって公布を見ていた地租徴収期限の繰上げによって農村は一種のパニック状態に陥っていた。松方デフレ下の農民の土地喪失はこのに端を発していた。「事態がここまでくれば、最早デフレは誰の目にもあきらかなところである。これに対して、松方は政策転換どころか、非常にも追い討ちをかけて、断乎として緊縮財政を続行する。砕けた腰を蹴り上げる。これが松方財政であった。こうして松方財政の下で極度に深刻化したデフレを世に"松方デフレ”と呼ぶ」 

 梅村氏のコメントはかなり辛口であるが、井上の辣腕、大隈の才気、松方の堅実と戦国の信長、秀吉、家康にも準えられ、松方の兼ね備えた堅実な性格、健全財政主義、たたき上げの実務経験が大蔵官僚にとって理想の大蔵卿像として歓迎された。


明治人のオプティズム

2012年07月07日 | 歴史を尋ねる

 梅村又次氏の論文は「日本の経験」を伝えるという、図書館ジェトロ・アジア経済研究所のHPに掲載されているが、当時と今を対比させながら記述する所に、実にリアリティある史実の分析となっている。折角の機会なので、詳細に亘るが今によみがえらせる手法を追ってみたい。

 「当時の経済危機に対して政府の領袖たちはどのような理解と政治的評価を持っていたのであろうか。ここが経済政策のそのものの出発点になるわけだから、この辺から論議の緒を解いていきたい。一口に政府首脳といっても、その中には大隈、井上、松方などの財政経済に理解をもった〝経済巧者”もいれば、これには全く理解も興味も持たない〝経済不巧者”もあって同じではない。そこに経済政策論議の一種独特の微妙さが生じる」という。フムフム、これは経済政策論議だけではない、いろいろなケースに当て嵌まりそうだ。この辺を梅村氏は巧みに解説する。

 「まず正貨流出。正貨の流出は邦家の一大事とする認識においても、又正貨の流出を防止する貿易収支の改善策は関税自主権の回復、輸出産業の振興、輸入品の節約という点では、政府内では意見が一致していた。今日からみれば、輸出の振興、輸入代替の促進などは長期的効果のみ期待しうるものだから、危機においてはより速効性のある国内需要の圧縮をまず計るべきところだが、当時の緊縮財政論者の井上や松方でさえもこうした発想はしていなかった。その裏には、政府首脳達が共通して輸出の振興による拡大均衡の達成に楽観的な見通しを持っていたことがあるようである。坂の上の雲を見つめて歩んでいた明治の人々にはある種のオプティズムが共通する心事として働いていたとするならば、これ等のこともよく理解できる」

 「次は物価騰貴。物価騰貴の方は利害の対立を生じ、経済政策論争を巻き起こした。地租の金納化によって固定収入者になった政府はインフレに対して損失者だが、予算編成が円満に行なわれている間は経済不巧者は物価騰貴に格別の関心を示さなかった。この段階での大隈の施策は公債や紙幣の償還並びに洋銀対策で、大隈自身も物価対策について特別を配慮をしていなかった。むしろ今の政策に対する批判はまず、民間から起こった。民間の中でもインフレ利得を得た生産者(豪農や豪商)とインフレ損失を被った消費者があるわけで、いわゆる士族民権派は経済政策の転換を要求して、盛んに政府攻撃の論陣を張った。明治13年5月大隈は二つの建議書を上程し経済政策の転換を提案するが、多数派の経済不巧者たちによって換骨奪胎の末、本来の政策意図を外れて、専ら予算編成の財源不足対策として受け止められ、一大財源論戦が展開されるに至った。」

 大隈重信は明治13年5月「通貨の制度を改めんことを請うの議」において、外債を募集して正貨を導入し、それによって政府紙幣を回収して日本の貨幣制度を金属本位制度に改め、国内通貨と国際通貨とを共通の基盤の上におくことを企図した。しかしその提案は外債を極度に警戒する立場にあった岩倉らによって否決された。そして貨幣価値の安定は外国からの借入金に依存することなく、国民の努力と貯蓄によって確保されねばならないという方針が勅旨によって定められた。同年大隈は「財政更革の議」を建白して、財政節約による紙幣消却の具体案を提示した。これは伊藤博文との協力によって企画された。この紙幣消却策はその後の通貨価値安定策の基本的性格を含むもので、明治14年10月以降の松方正義によって遂行された紙幣整理・正貨蓄積政策につながるものであった。まず財政整理によって剰余金を生み出すこと、継いでその財政剰余金で紙幣消却を行い、また外国荷為替其の他によって正貨の蓄積を計ることの二つの目的を達成するための方策を提議していた。


西南戦争後のインフレーションと大隈財政

2012年07月03日 | 歴史を尋ねる

 西南戦争の発端は、私学校党の暴発であったが、その遠因は鹿児島にある陸軍省の武器弾薬庫の大阪移管と警視庁川路大警視の配下による私学校党の動静視察調査であった。西郷は大隅で遊猟中であったが仔細を聞いて、苦渋の色をしめして一言、「わが事已(すで)に止む」。西郷たちが出した結論は暴発した私学校党をみずから率いて上京し、直接大久保に会い、今回の政府の態度、措置の理由を質すというものであった。兵を率いるという点で反対するものもいた。これに対し「吾は陸軍大将、全国の兵を率いるとも、それは陛下の許すところ」と一言で抑えた。

 この戦争のために政府が支出した軍事費は4500万円。この費用調達の役割は大隈であった。この調達には大きな障害があった。戦乱の激化が始まる前月、政府は減租の詔勅が発せられ、大幅な地租の減税が行なわれたばかりであった。同時に地租延納例則の公布、煙草、収入印紙等の減税も行なわれた。こうした場合公債の発行であるがすでに限度まで発行されており、大隈は窮余の策として銀行紙幣と政府紙幣の発行を目論んだ。鉄道建設のために進めていた第15銀行より1500万円の銀行紙幣の発行による借入れ、政府紙幣2500万円の発行など。こうした紙幣の大量発行は、一般の歴史書は止むを得ざる緊急措置とされているが、明治12年の大隈の建議書には「その発行が止むを得ない事情によるものであったとはいえ、漫然と増発したのではなく、貨幣の運用を充足し、金融を疎通する目的をもっていた。これによって各地の通貨需要を拡充し、交換の媒介、金融の疎通の上に少なからざる効果を上げている」といっている。さらに、明治12年の通貨流通量は決して過剰ではない。たまたま対外支払いの超過で正貨が欠乏し洋銀相場が騰貴したため、支配の増発があり、それが物価高騰の原因と誤解されている、と。こうした大隈の強弁にもかかわらず、紙幣の価値は極端に下落し、激しいインフレの様相を示すに至った。

 大蔵卿としての大隈は殖産興業政策を主唱する大久保と意見を同じくし、大久保政権下での大隈の役割は財政と金融の諸制度を整え、大久保の要請に応えて殖産興業政策の台所を切り盛りすることであった。しかし大久保没後の大隈財政の環境条件は大きく変わった。この近辺の財政政策について多くに見解が出されているが、ここでは梅村又次氏の「創業期財政政策の発展ー井上・大隈・松方ー」の論文に由ることとしたい。

 「大隈財政の環境条件はまず経済の面から崩れる。地租の軽減、内戦の戦費、国立銀行券の増発などの波及効果によって貿易収支の赤字が拡大し、物価は洋銀相場と共に騰貴した。今日の経済常識からすれば、政府は戦後の早期に財政支出を削り、金融を引締め、貿易収支の悪化と物価の騰貴に備える。道理の上ではそうであっても、そう行かないのが政治の常。経済のメカニズムに対する理解や経済情報が今日に比べれば未発達だった上に、中央において全面的な物価の上昇が目立ってくるのは、明治12年に入ってからであったから、明治11年政府は安んじて地方三新法による地方制度の整備と公債1000万円財源にする殖産興業プロジェクトをセットした内治拡充の積極政策に乗り出した。その意味において物価上昇の遅れやその後の政局や経済の適切な運営にとって不運なことであった」 「こうした時期に突如として大久保が暗殺された。大久保の没後も暫くの間は大久保の遺志の継承をスローガンとして進まざるを得ない。しかし日時の経過と共に、政府内のバランスがくずれ、経済政策について薩長の対立が起こってくる。」


大隈重信の反金本位積極財政

2012年07月01日 | 歴史を尋ねる

 明治8年当時の貿易構造は、生糸、蚕卵紙、茶、紙など第1次生産品及び半製品を輸出し、社会資本形成のための器材や民間需要のための消費財を輸入するという今でいう発展途上型の貿易構造であった。必然的に輸入超過になり、支払のために正貨(金貨・銀貨)が大量に流出した。おまけに貿易不均衡を反映して洋銀相場が円安に振れたため、金銀の流出を益々大きくなった。その結果、銀行の保有する金貨が銀行券と引き換えられ減少し、兌換銀行券の発行を困難とした。明治7年に渋沢や井上、伊藤が予期したのと全く逆のスパイラルが働いて、不換紙幣は兌換紙幣の国立銀行券に代るどころか、国立銀行券が金貨に換えられる事態となった、銀行は回収に回った。これに対し、大蔵卿の大隈重信は、明治9年6月、銀行券の発行には金貨を準備を廃止し、政府紙幣の準備で良い事にした。また、銀行券発行の限度を従来の資本金の6割から8割に拡大した。理論上は無茶苦茶であったが、これが当時の最も現実的な国立銀行救済方法であった。

 さらに当時家禄処分によって華士族に対して発行される公債証書の取扱が問題となっていた。そこで華士族をこの公債で一家を維持する方法として、公債証書を以って銀行を経営させるのが良いとなった。そしてその銀行紙幣は政府紙幣を以って兌換するとして、明治9年8月国立銀行条例の改正を行なった。この後、152の銀行が誕生した。これが大隈重信持論の積極財政であった。①政府紙幣の正金(金貨・銀貨)を先延ばしして、銀行券の発行などで通貨供給量を増大させ、金融機関を発達させ、企業活動を活発化させる。②その結果国内に産業が生まれ、国産品が増大し、国内需要を賄うばかりか輸出も拡大する。③これによって貿易収支も改善され、通貨が安定し、正金も流出から流入に転ずる。④その流入した正金を以って、金本位制を確立する。

一方大隈重信のもとで次官をつとめていた松方正義は、この積極財政を容認しながらも、紙幣の本質が正貨兌換性にある以上、政府紙幣や銀行券を増発するよりも、これを減少に向かわせ、さらに国産愛用と輸入抑制を積極的に推し進めて、兌換準備金を増加させなければならないという金本位制に立つデフレ策を建策した。しかし松方正義の建策は、なにはともあれ、金銀の流出を防ぎ、既存の国立銀行の破綻を回避し、同時に新設の国立銀行の育成を促進させるという当面の課題のために押し切られ、大隈の積極財政が政府の方針となった。大隈が緊急避難的にとった反金本位制の積極財政は、国立銀行を雨後のタケノコのように次々生み出し、通貨供給量だけは確実に増大させたので、世の中は一転して好景気の様相を呈するようになった。そこに、この積極財政を一段と加速させる異常事態が生まれた。明治10年2月に勃発した西南戦争であった。