満蒙独立運動 3

2015年05月30日 | 歴史を尋ねる
 大正4年(1914)8月大隈内閣は大浦内相の議員買収事件が大問題となったため内閣改造を行い、内相は交代して一木喜徳郎、海相は加藤友三郎、加藤外相は辞職して、一時大隈総理が兼任したが、フランス駐在大使石井菊次郎が外相に就任した。石井外相は袁世凱に帝政延期勧告を出したりしたが、5年1月、対中強硬論者による大隈暗殺未遂事件が発生、日本内で反袁運動がいよいよ強くなり、政府は3月、「支那目下の時局に対する帝国の執るべき態度」を閣議決定する。このときに閣議要項が、反袁運動を益々勢いづかせた。その内容とは「帝国は優越なる勢力を支那に確立し支那人をして帝国の勢力を自覚せしめ日支親善の基礎を断つる事」「これが為袁を排斥する事」「その目的を達するためには成るべく支那自身をしてその情勢をつくらしめ帝国はこれに乗じてことを処理する事」、更に反袁運動への資金援助は政府は公然これを奨励しないが同時の黙許することと、あからさまな文言も入っていた。当時の状況を原田熊雄男爵は「袁世凱が皇帝になるということに反対の空気が支那の一部にあったのをとらえて、南方では久原房之助がひそかに金を出して今の国民党を援助して袁世凱反対の軍を起こさせ、北方では旅順に避難していた粛親王を盛り立てて満蒙を一丸として独立国をつくらせようとしており、この資本は大倉組が出していた」と記している。
 政府の閣議要項は関東都督によって、在満各地の領事館に伝えられた。「排袁を目的とする本邦人の活動に対してその取締に手心致したい、右は3月7日決定の閣議の趣旨に副う次第」という通達であった。第17師団長本郷房太郎中将も独立守備隊長藤井幸槌少将も内閣の決定に反対だったが、同じ満州の地で、軍憲を背景にした革命騒ぎの計画が着々と進められていたと草柳。

 粛親王は満蒙独立を諦めなかった。満州朝廷を支える八大王家の中でも、識見実力ともにナンバーワンであった。川島浪速とは同じ年(1866)の生まれで、アメリカのモンロー主義になぞらえて東洋にも東洋モンロー主義を起こすべきで、日支が一体になってこそ白人による支配の歴史を終息させうると、二人の意見は一致している。大正4年夏、川島から知らせが届き、蒙古の塩湖付近に蟠踞する蒙古騎兵隊の首領パプチャップと連絡がつき、粛親王を中心とする宗社党と連合して独立の兵を挙げる準備が整ったというのであった。資金は大倉喜八郎、協力者は軍人並びに大陸政客といわれた面々。いずれも大物ないし有力者と目される人物であった。翌5年1月、青柳騎兵大尉と粛親王の王子と轡を並べて蒙古に発った。「第二次挙事」の機が熟していく。一方、東京三宅坂の陸軍参謀本部でも、参謀次長田中義一、この下に関東都督参謀長から転任してきた福田雅太郎第二部長らが計画を進める。満蒙視察に出ていた小磯国昭少佐(後の首相)に川島らの計画を告げ、実行を促す。政府はこの陰謀を知っていた。石井外相は小池政務局長に、在満各地の領事に政府の意図が伝わるよう命じた。この伝達が伊集院彦吉中国公使、寺内朝鮮総督から手ごわい反発がきた。「まことに浅慮無謀極まるもので、そんなことをしたら列国の猜疑心を深めるばかりである。それよりも、今、張作霖が奉天将軍になりたくて、段芝貴将軍との間に暗闘を展開している。この際、張を暗助して、張の満蒙独立運動をさせた方が、政府の計画より実際的ではないか」 この提案に石井外相も田中参謀次長も同意してしまった。ここから満州政策は二途に分かれる。一方は土井大佐・川島浪速らが進める粛親王と蒙古騎兵隊の独立運動であり、他方は、政府が兵器から軍資金まで保証する張作霖擁立運動であった。
 
 ところで、奉天将軍の段芝貴が日本軍の工作を感知し、身の危険を感じて北京に逃亡した。これで張作霖は宿願の奉天将軍になり巡按使まで兼ねる。名実ともに満州の実力者となった。軍事顧問に菊地武夫中佐が就任し、日本側との接触は于冲漢があたった。彼は日露戦争では日本軍に従軍し特殊任務に就き、満州国の産婆役を務めたという。粛親王の旅順派は日本政府が張作霖工作に踏切ってしまうと、これまでの計画が水の泡、考えつく先は張作霖の末梢しかない。張作霖暗殺の担当は三村陸軍予備少尉、25歳。三村は馬車を目がけて、爆弾を抱えたまま体当たり。しかし張作霖は次の見すぼらしい馬車に乗っていた。難を逃れた張作霖は日本に対して疑心暗鬼状態になった。菊地中佐らが何とかとりなし独立に踏切らせようとする。その挙兵の準備が殆ど完了し、あとはきっかけを待つだけとなったとき、袁世凱大総統が急死した。これで「打倒袁世凱」「袁専制からの独立」というスローガンは、全く目標を失った。日本政府の方針は一変する。袁の後を襲った黎元洪大総統を暗助し、黎に南北統一をやらせ、全体に日本寄りの政治体制をつくる。それが計画になる。「奉天派」も「旅順派」もお払い箱。しかしパプチャップ蒙古騎兵隊三千騎は南下を始める。予定の計画に従えば、大連や安東県に配置した「満州特殊部隊」が一斉に放棄してよい頃であったが、日本政府の方針変更で解散を命じられた。
 以上のように第二次大隈内閣の対支政策は、北京政府を支持したかと思えば南方革命軍を援助し、独立運動を扇動する一方で張作霖を暗助するというように、全く統一を欠き、政策の変転もきわまりない有様となった。大隈内閣が中国に残したものは猛烈な抗日・排日の感情だった。対華二十一か条の前後は、学生・知識人などの反抗だったが、やがて反日感情は民衆の間に浸透していった。西原亀三は「ついに侵略の牙をむいた日本に対する支那人の憤激、日本人に対する憎悪、それによって巻き起こった排日・排貨の旋風は、京城あたりでも感知された。・・・長春や奉天で、日本製の帽子を地に投げつけたり踏みにじったりして、排日救国を怒号している、支那人の眼は、日本人に対する憎悪に燃えていた」と「夢の七十余年」で記している。満鉄の社員もこの反日の熱風に吹きさらされる。大連埠頭に積んだ大豆の袋がひんぴんと放火され、所長はいや気がさしてやめている。大隈内閣の対支政策は、民衆の間に鬱積した感情に触れず、もっぱら軍と大陸浪人の計略に委ねるところが多かった、と草柳氏。

満蒙独立運動 2

2015年05月27日 | 歴史を尋ねる
 「二十一か条」に「陸軍の要求」はいつ入ったか。きっかけは大正3年8月の「鄭家屯事件」だと草柳は云う。第一次大戦が始まって間もない頃、鉄嶺から鄭家屯へ行軍中の日本部隊が中国の巡警から射撃を受け、下士官と兵が一名づつ負傷した。これを知った福島関東都督は、直ちに加藤外相に上申したが、その上申書は「関係者の処罰」「負傷者に対する撫恤金の支払」のほか「満蒙における日本人の居住権」「不動産の所有権」「鉱山採掘権の獲得」など、後日「二十一か条要求」に盛り込まれる権利要求が書き込まれていた。というのも、満蒙では居住地の区域以外に住んでいる日本人は多くいたし、中国人の名義を借りて土地家屋を持ったり、鉱業を経営したりする者もかなりあった。日本人の側から見れば既得権で既成事実であったのだ。 が、条約上の措置がないので、行政と軍事を一手に握る関東都督としては一気に問題を解決しようとしたわけである。十月、関東都督が福島安正から陸軍大将中村覚にかわる。日本の対独戦は順調に進んでいる。中村都督は、前任者の要求を上回る要求を加藤外相に上申する。しかし、この段階では加藤はきびしく拒絶している。ところが12月3日、日置北京公使に伝達した「二十一か条要求」の内容は、福島・中村の上申書を上回る程度のものになっている。加藤・小池はさすがに外交通、ロシアと蒙古の間に露蒙協約が結ばれているのを、外交事例として利用したと、草柳はいう。

 加藤・小池ラインは、「露蒙通商議定書」の内容に着目した。この議定書第一条は「ロシア人は、蒙古内における随所に居住し、および自由に移転し、商業、鉱業その他の業務に従事することができる」、第六条は「ロシア人は蒙古の随所にて商工業上の経営所を創設し、諸家屋、店舗及び倉庫を建設するため、指定地を賃借し又は自己の所有物として取得することができる」「ロシア人は耕作の目的で空地を賃借することができる」と規定するなど、外蒙古の資源と権益をロシアが自由につかえることを骨子としたものであった。
 この議定書を見て中国は狼狽した。こんな内容を承認したら、日本も領土上のバランスを取って、同じ内容のものを東蒙古と満州について要求してくるに違いないと予測した。すぐに「露蒙通商議定書」を含む両国間の協定を否認し、ロシアと直接交渉して、たとえ名義上であれ外蒙古が中国の固有の領土であることを認めさせようとした。ところが、国会がこの条項を許さなかった。日本の満蒙に対する出方を恐れる声が沸き上がった。が、結局、中国はロシアと交渉を重ねた結果、「露蒙通商議定書」を原案通り承認してしまった。

 日本政府はこの「議定書」を盾にして交渉に入る。日置公使は、はっきりと「日本の要求の基礎は第一条と第六条にある」と言明する。曹汝霖(外務次官)は、外蒙は中国の藩属であるが満州は中国21省のひとつであり、関係が全く違うと反論、さらに中国が「露蒙協約」を認めたのはやむを得ない事情からだと陳弁した。日置公使は「日本としてもロシアのような方法をとるのは容易であり、また国内世論も実力発動に傾いているのだが、政府は平和的に交渉したいのだ」と凄味をきかせる。そのあげく、5月7日、日本政府は最後通牒を発した。この時偶々、満州駐箚師団と青島守備軍の交代時であったため、日本政府は意識して交代両軍を重複駐留させた。陽動作戦であった。これが図に当たって、ついに5月7日に二十一か条要求を承認した。
 二十一か条の調印からほどなく、中国政府の農商総長周自斉は普段から懇意にしていた船津書記官を昼食に招いて、中国人の対日感情を率直に告げた。要点は以下の通り。①日本は欧州多事の時に乗じ、支那の抵抗力なきを軽侮し、過酷な要求をしたことはいかにも残酷と一般支那人に瀰漫した。②朝鮮独立の擁護は併呑する前提であった。いずれ満州も同様の運命になると想像しているところ、今回租借期限の延長、満州解放、鉄道管理期限の延長、さらに東蒙までも包含された。③山東における日本軍隊の横暴は忍び難し。ロシア人、ドイツ人は些細な事業には手を出さず、支那商人の利を得る余地があったが、日本人はほとんどあらゆる利益を壟断せり。④山東は日本軍侵入以来、馬賊が侵入し、聞くところによると日本官憲黙認の下に満州方面より渡航せり。その背後には幾多の日本人も加わっているとの噂あり。
 船津は、周の話を洩れなく文書化して、加藤外相に送った。加藤はこの文書を岡陸相にも送付した。しかし、加藤も岡もこの周談話にほとんど配慮を払っていないようであると草柳。加藤高明は東大法学部を卒業するとすぐに三菱本社に入り、岩崎弥太郎に惚れこまれてその長女を妻に、7年後官界に転じて駐英公使、帰国して第四次伊藤博文内閣の外相に就任。後に東京日日新聞社の社長にもなっている。経歴から見るとコモンセンスの人を思わせるが、外相としての業績はその逆で、小池張造を局長に迎えたころは、山県有朋などの元老さえひんしゅくする専断外交の旗手になっていたと解説する。外交テクニックは駆使するが歴史と向い合える謙虚な政治家ではなかったと云うことか。

満蒙独立運動

2015年05月26日 | 歴史を尋ねる
 川島浪速は粛親王を北京から旅順まで連れてきた。川島は王の信頼を得ている。王の娘を貰い受け養女とした。のちに東洋のマタハリといわれた川島芳子である。上海や天津の社交界に妖花の香りを漂わせ五か国語を操った。敗戦後、捕えられて北京郊外で銃殺刑に処せられたが、死ぬときは日本人として死にたいと、白絹の着尺を所望したと伝えられている。旅順での都督府は宿舎を提供する。川島は参謀本部の福島参謀次長宛て状況を打電する。天津からのちに蒙古王といわれた代議士佐々木安五郎がやってくる。京城からは総督府の太田憲兵大尉がやってくる。もう1人、張作霖と気脈を通じている陸軍大尉町野武馬がやってきた。町野は会津藩の家老の息子で、東洋風の豪傑だが、機略縦横のところがあって、田中義一大将が組閣した時、「自分の使命は中国問題の解決にあるが、それには満州を処理しないと、日本は戦争を始めなければならぬ。どうしたらよいか」と相談を持ち掛けられている。町野は満鉄総裁に山本条太郎を推した。山本は三井物産の社員として中国の慣習に通じ、「産業立国論」を唱えて計数にも明るい。山本なら、田中義一が中国問題処理策として考えている吉会線をはじめ五本の鉄道建設をやってのけるだろうと考えた。軍事上の効果もすこぶる大きい。

 この粛親王の動静をじっと見ていたのが総領事の落合謙太郎だった。その有様を内田外相に打電、一切が明るみに出た。時の西園寺内閣の対満政策は出来るだけ現状維持で、その機会の最も我に利して、その成算十分なる場合を捉えて根本的解決に至るだけの手を打とう、というものであった。川島や軍人のこの計画は「奉天挙事」とよばれたが、政府は川島を東京に呼んで運動を禁ずることを言い渡し、更に粛親王には訪問音信の禁止、独立運動に参加しないことを条件に旅順滞在をみとめた。
 しかしこの独立運動には別口があった。三原大佐、津久井少佐らと大陸浪人は革命党の方を支持した。満鉄もまた孫文に力をかしている。独立運動の途中、川島らは参謀本部に満鉄や別派が革命軍を援助するのをやめさせてくれと強談判している。町野大尉も張作霖から日本は本当にオレを奉天将軍にする気があるのかと抗議されていた。実際、満鉄の孫文に対する資金援助はかなり続いた。その窓口は犬塚震太郎理事で、大毎記者であった鈴木茂三郎が孫文に対する取材で明かされている。

 川島浪速らの「満蒙独立運動・奉天挙事」は西園寺内閣の手で制圧されたが、その火種は消えたわけではなかった。西園寺内閣は、上原陸相が「二個師団増設」が認められなかったことを理由に辞任すると、それが原因で崩壊してしまう。上原の要求は「朝鮮の治安維持」「満州の権益擁護」を目的としていた。西園寺を継いだ第三次桂内閣は護憲運動の大衆デモの中でわずか二カ月で沈没、山本権兵衛内閣からつぎの第二次大隈内閣にかけて、日本の満州・中国政策は四分五烈した、あるいはさまざまな思想や思惑が出揃った。その前に、阿部守太郎という外務省政務局長が大正2年9月、自宅門前で刺殺された。犯人は18歳と20歳の青年。背後に岩田愛之助という大陸浪人がいた。阿部は、軍部と大陸浪人が中国で暗躍するのを苦々しく思い、その胸中を公言して憚らなかった。彼は徹底した平和路線を主張し、日本の緊急課題は「財政の充実」「経済の発展」「通商の拡大と国富の増加」にあるとし、また国際社会との協調が第一であるから、中国問題も英国並みの接触でよい、とする。従って支那の領土を獲得するなどという考え方は大きな間違いで、第一中国がそれを認めないに決まっているし、無理押しすればやがて日本自身が大きな犠牲を払う羽目に立ち至る。この意見は山本内閣の外相牧野伸顕の方針でもあった。これが「満蒙独立」を支持していたグループの憤激を買った。というのは、阿部が暗殺された年のはじめ、都督府参謀長に就任した福田雅太郎少将などは、日本が満州における発展を企図する間は、到底平和手段を以て円満に解決する見込みなきが如しとの結論をもって中国に臨んでいたし、川島浪速も第二次満蒙独立運動にそろそろ取り掛かっていた。

 暗殺された阿部政務局長の後任には小池張造がイギリスから呼ばれた。この人事は、日本の対支政策が「協調」から「統制」へと転換することを意味したと草柳はいう。草柳のいう統制とはどんな意味か文中からは不明だが、条約に基づくコントロール政策ということか、加藤外相の下で、小池は「対華二十一か条要求」を作り上げた人物だったから。この「二十一か条」は、親日派の曹汝霖でさえ「これではわが国が第二の朝鮮になってしまう」と抗議したほど苛酷なものであった。この原案は小池が書いたが、加藤外相はそれを修正していない。加藤がなぜそのような要求を中国に突き付けたか、真意は詳らかでない。中国側が血涙とともにのんだのが大正4年5月9日。中国ではこの日を「国恥記念日」としたが、古島一雄(ジャーナリスト、衆議院議員)の日記によれば「五項21カ条、仔細にこれを検すれば、はじめより加藤式ならざるものあり。さらにこれを詳言すれば、陸軍の要求を容れたるのあと、歴々掩うべからず。加藤の剛腹を以てして、容易にこれに応じ、容易にこれを提起す。その微旨(ビシ:奥が深くて微妙な趣旨)知るべきのみ」


 

実録 満鉄調査部

2015年05月25日 | 歴史を尋ねる
 草柳大蔵(1924 - 2002)は日本の評論家、ノンフィクション作家、ジャーナリストと紹介されるが、筆者には大宅壮一門下の史実に基づいたノンフィクション作家のイメージが強い。ウキペディアを見ると、1945年(昭和20年)、東京帝国大学に入り、在学中に学徒出陣し、特攻隊員(特別操縦見習士官)を志願するとある。彼の評論をテレビなどで見た記憶を辿ると、こうした事実も首肯される。色々な事実事象に正対していたように見えた。彼は日本人が作りうる空前絶後の知識集約集団だった満鉄調査部の全貌を解明しようとして、上記著書を書き上げた。第一章は調査部の誕生・性格・機能を概説し、第二章は満州建国に至る理念と行動、時代の国際関係を要約し、第三章は調査部の確立と権力との関係、最終章は日本の敗戦後の満鉄調査部の人的資源が戦後の経済成長の青写真を描いたと記している。ここでは第二章を取り上げたい。先に中国問題の第一人者として取り上げた米国のマムマリーの中国問題理解を遥かに超えて、日本が当時の中国に深く関わっていたことが分かる。

 日露戦争後、日本の満州経営には二つの流れがあった。一つは伊藤博文によって代表される「文治派」であり、もう一つは軍部による「軍制存続派」である。といっても、シビリアンが文治派で軍人が軍制存続派であったわけではない。外交官の中にも満州の特殊権益を守るため軍事的支配が必要と考えている者もあれば、軍人の中にも冷静で均衡のとれた政策判断の出来る将軍たちもいた。中国では辛亥革命を経て孫文病没後、政局は更に混沌とし、蒋介石の北伐が成功する1928年まで、各地の軍閥の間に権力闘争が展開される。北洋軍閥:袁世凱 彼の死後、安徽派(段祺瑞、徐樹錚、段芝貴)、直隷派(馮国璋、呉佩孚、曹錕)、国民軍派(馮玉祥)の三派に分裂。山西派(閻錫山)。広東派(陳烱明、陳済棠)。広西派(岑春煊、陸栄廷、李宗仁、白崇禧)。奉天派(張作霖、張学良)。この各派の争いがあって、最終的には張作霖の「奉天派」と曹錕、呉佩孚の「直隷派」の決戦となる。奉直戦争と呼ばれた内戦であるが、「国民軍派」の馮玉祥が買収されて張作霖側につき、「直隷派」は敗退する。この買収工作を直接担当したのは土肥原賢二中佐であった。「曹錕が秘書長の王蘭と顧維鈞を使ってアメリカから援助を受けようとしている」との情報に、この計画の実現を恐れ坂西中将は土肥原に粉砕を命じた。
 この事態が進行しているとき、外相幣原喜重郎は「不干渉政策」を堅持し、中国から吉沢健吉公使や船津総領事がヤキモキしても、外務省からは内容空疎な訓電しか与えていなかった。「馮玉祥のクーデター成功」「常勝呉佩孚敗退」の報に接し、加藤高明首相は幣原外相に感謝し、高橋是清も握手を求めた。閣僚中、ひとり陸軍大臣宇垣一成は「張の戦勝、馮の寝返りが何処に原因しているかも知らずして得意がりて居る彼らの態度は憐れむべく且つ笑止の至りである・・・」と。翌大正14年1月、北京公使館内で行われた「在支諜報武官会議」で林弥三吉武官は次のように発言した。「外交官は平戦両時における国家存立の根底に立って活動すべきであるのに、多くは永い泰平の中で、屈従してでも協調外交することを外交官の天職であるかのように考えている。故に軍人が国防に忠実であるためには、これらの外交官とは別に独自の行動すべきである。よって世人が二重外交を非難するもこれに屈服する必要はなく、統帥権の発動により着々実行を期すことが必要である」
 「張作霖爆殺」までわずか三年である。すでに軍部は外務省による外交の軌道から離れ、独自のプログラムの上を走り出した、というのが草柳大蔵の実感であったと記している。更にその歴史は軍人だけが創作し発展させたものではない。そのような単細胞的な、あるいは他罰性的見地から歴史は理解さるべきではない。国民の一部も軍部の行動とプログラムを支持してきた。それは「満州経営」から「満蒙独立」へと発展していく思想だった、と。

 この「満州経営」という言葉を最も忌み嫌ったのは伊藤博文であった、と続く。例の明治39年5月、西園寺内閣時の首相官邸で開かれた「満州問題に関する協議会」(既述済み)での伊藤の発言「満州は決して我が国の属地でない」である。伊藤が「経営」という言葉にこれほど強く反発したのは、諸外国ことに英国が「満州は未だ軍政下にあり、これは門戸開放に違反する」とつよく抗議してきているうえに、袁世凱も「日本の行動は北京条約違反である」と明言していることなど、国際社会の悪評を耳にしているから。尊王攘夷からスタートして憲法研究の海外視察を経験してきた伊藤にとって、欧米からの干渉には敏感すぎるには当たり前であったと草柳。伊藤統監のこの発言を一つの歯止めとして、軍制は次第に撤廃され、行政は関東都督(この中に関東軍になる参謀部が置かれた)、「経営」の主体には満鉄が設置された。
 しかし、朝野の中には「わが同胞十万の流血と二十億の国帑(こくど)を費やして得たる満州」という言葉が「切り札」のように保存されている。アメリカ鉄道王ハリマンの満鉄共同経営提案に、これを制した小村寿太郎の言葉が「十万の流血と二十億の国帑」だった。中国に辛亥革命が勃発し、袁世凱と孫文の革命軍が権力を掌中に収めかかると、早くも「満蒙独立」を掲げて熱砂に身を投じる者があらわれる。
 長野県松本の素封家であった川島浪速は、早くから中国にわたり、北京官界に多くの知古を得ていたが、辛亥革命で袁世凱が浮かび上がると、早速袁の爆殺計画を立てた。これに失敗すると、今度は「満蒙独立運動」を開始する。この運動が、「満州建国」の原型のように思われると草柳。川島は先ず清朝の粛親王を擁して満州に走り、一方蒙古ではカラチン王らに挙兵させ、相呼応して満蒙王国をつくろうと考えた。満州では張作霖にも声をかける。川島のこの計画に、現地では高山公通大佐、多賀宗之少佐、松井清助大尉が参加し、菊地武夫北京守備隊長が蔭からバックアップした。この計画には参謀本部、寺内朝鮮総督、伊集院北京公使も賛成していた。しかもこの独立運動は、あたかも清国人に自主的な行為によるものの如くするのが狙いであった。
 

 


寄り道 マクマリーメモ(なぜワシントン体制は崩壊したか)3

2015年05月19日 | 歴史を尋ねる
 1928年7月、国民党政権が中国のほぼ全域にわたって権力を掌握した。その月、米中間に中国の関税自主権を承認する新協定が結ばれた。そして南京政府(国民党)を中国の正式な政権として米国が公式に認めたと解釈され、この既成事実が、他の関係諸国に同様の承認と譲歩を次々に強制する結果となった。関税問題が一段落すると、中国は次に治外法権の問題に目を向けることになった。そんななか、1929年の秋、半自治的な満州政権(張学良)が、ソ連が権益を持っている「東支鉄道」から資産を接収しロシア人スタッフを拘束し、職務から追放した。中国の無謀、ソ連の圧力、中国の弱腰、ケロッグ条約のアピール、そして中国の無謀と繰り返し、現状協定の取り決めに沿って決着した。張学良は1928年父の後を継いで政権に就いて以来、父張作霖が長年やっていたことを真似ていた。中国人自身の証言によると、満州における日本企業は、安定の保障が得られず、次々起こる問題に対応し続けなければならなかった。しかし理解できないのはなぜ日本人が、軍人のグループにせよ、張作霖を爆殺したか。何故なら、張作霖の息子、張学良は危険なほどわがままで、半ば西洋化しており、あいまいなリベラル思想と父から学んだ残酷な手法のはざまで混乱していた。だから彼が国民党への忠誠を表明した時、満州での日本の既得権を攻撃してくる革新勢力の先鋒になると日本人が考えたのも理解できる。日本が満州で実行し、中国のその他の地域での侵略路線を許容するものではないが、日本をその行動に駆り立てた動機をよく観察すれば、その大部分は、中国国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が自ら求めた災いだと我々は解釈しなければならない。中国に好意を持つ外交官たちは、中国が敵対と裏切りを続けるなら手痛いしっぺ返しを受けるだろうと忠告したが、帰ってくる反応は、列強の帝国主義的圧迫からの解放を勝ちとらなければならないという答えだけだった。

 1935年現在の極東の状況は、中国が今や日本支配の脅威下にあるという事実、しかも中国は自分自身でこれに対して無力であるということである。満州危機の必然的帰結として発生した事件の進展を見ると、ワシントン会議に参加した各国間の国際協調が挫折し、国際連盟が、極東の第一義的な責任を果たせなかった事実が示される。勿論、ソ連が東アジアの覇権を日本と競う可能性があるが、その争いでロシアが勝てば、結果は中国の独立の回復ではなく、日本に代わるソ連への隷属である。このような状況下で、米国の極東政策はどうあるべきか、次の三つの選択肢があった。
 (1)日本の中国支配に反対し、可能な限りのすべての手段と機会を捕えてこの支配を阻止し、日本と反対の立場を断固主張する。
 (2)日本の立場を認め、実際にも日本と行動を共にする。そして誠心誠意の態度を以て、反対、留保、修正の提案を取り下げる。
 (3)受け身の立場を取る。アメリカが極東だけでなく全世界を通じて、伝統的にとってきた政策の基礎となる自由の原則は一切譲らないが、積極的行動はすべて避ける。状況が悪ければ、能動的な関心さえ示さないようにする。
 これら選択肢のうち、一番目はあまり議論に値しないと考えられる。この立場を徹頭徹尾貫くならば、日本との戦争は避けられない。日米戦争にたとえ米国が勝利するにせよ、極東と世界全般にとって不幸な出来事になるだろう。ワシントンおよびロンドン海軍軍縮条約は、日米がお互いに太平洋の広大な海域を渡洋作戦出来ないような比率で合意している。緊急必要な場合、米国は太平洋諸島の防衛ライン内の日本海軍を撃破できる艦艇を建造することが出来るが、それは途方もない時間とお金がかかる。恐ろしい程の不利な状況を確実に克服できる強力な艦隊を作り上げる前に、アメリカ国民は結果を求めるに違いない。最終的な勝利の前に不幸が訪れるかもしれない。たとえ米国が戦争に勝っても、巨大な出費と犠牲を要し、何の利益にもならないだろう。日本の打倒は、極東問題からの日本の排除を意味しない。それは単に新しい緊張を生むだけで、ロシア帝国の後継者たるソ連が、日本に代わって極東支配の敵対者として現れる。この戦争でアメリカが勝っても、その成果は恐らくソ連が独占してしまうことになる。

 米国の勝利は、障害要素であった日本が排除されて、米中間の緊密な理解と協力に役立つと考える理想主義者もいるかもしれないが、中国人は過去も現在も未来も、外国人を野蛮な敵と見做しており、外国人を競わせて、利を得ようとしてきた。一番成功している国が尊敬されるが、その次にはたちまち引きずり降ろされる。日本との戦争は何の利益も得られないし、どう転んでも巨大な犠牲と危険が必ず伴う。従って戦争の回避自体が、我々の最も重要な目標であることを認識しなければならない。極東における現状と見通しからして、米国が中国で何か偉業を成し遂げるという期待を断念して、日本との衝突を避けるために控え目な果たすべきであるとしても、この状況が永久に続くというものでもない。極東にこれから発生する事態は、現在確実視されているものと全く逆の現象となるかもしれない。中国が重要な存在となって再び日本より明るく光ることもあるだろう。少なくとも将来における不測の事態に備えておかねばならない。そう考えると、極東から撤退することは出来ないし、我々が主張してきた門戸開放と中国の領土保全の原則を、公式に撤回するわけにはいかない。残された選択肢の中で最も賢明な策は、我々の原則を一切譲らず、我々が持っている信念を決していい加減に扱わないが、それらを強硬に推進することは慎重に避けるということである。

 日本とは極東におけるずば抜けた利害関係のある国となった。日本は我々を裏切り、中国の舞台から我々を追い出してしまおうとしているから、いい関係ではない。しかし日本がそうなった状況を酌量すれば、もう少し寛大であってもよいかもしれない。アメリカ人は自給自足が出来る程度に天然資源のある広い国に住み、世界市場への通路となり、太平洋と大西洋の間にある国で生活している。日本人は天然資源の乏しい小さい島に密集して住んでいる。日本は東アジアを除くすべての市場から遠く離れているし、狭い海の向こうから二つの国、中国とロシアから過去に威嚇を受けてきた。日本人は、それを生存そのものの脅威だとみなさなければならないし、日本にとって、原材料輸入と輸出市場としての中国が、産業構造を維持し、国民の生計を支えるために不可欠である。我々がなかなか理解できないでいる真の問題点はここにある。日本人がアジアで自分の地位にあれほど神経質で気難しいか、大多数の日本人がアメリカが日本を低く押さえつけようと干渉していると憤りに満ちた偏見を持っているのも、こういうところに理由がある。そして、これら誤解を呼び起こした日本人の感情は、やはり本物で危険である。
 中国での我々の利権は、現在の減少した価値に合わせて帳簿価格を切り下げよう。日本には媚びもせず徴発もせず、公正と共感を以て対処しよう。親中国だとか反中国だとか、親日とか反日とか間違った感情の道に踏み込まない、何よりも、我々が公言した行動の原則と理想に忠実でなければならない。我々が威厳と誠実さを持ち続けるなら、他国はたとえ意見が違っても、我々を尊敬するであろうと、マクマリーは結んでいる。

 変転きわまりない世界情勢の中で、特にアジアの問題は我々の日常生活に直結し生起する。なかでも、日本を中心として中国と米国の三面関係をどのように正常に維持していくかは、今後とも難しい課題である。この本がそのことを考える一助になれば幸いだと、翻訳者の衣川宏氏はコメントしている。逆にいえば、現在の状況は過去の経緯の中から生まれた結果であり、大戦によって切り離されたものでは決してないということか。戦前日本が持っていた課題を、戦後は米国が背負っている、と筆者には見えるのだが。朝鮮戦争、ベトナム戦争もその荷物だった、と。

 

寄り道 マクマリーメモ(なぜワシントン体制は崩壊したか)2

2015年05月18日 | 歴史を尋ねる
 極東での米国政策は、過去十年間における展開過程を振り返りながら、再検討する必要がある。この経過の中で注目すべきは、日本の積極政策、満州侵攻、中国本土侵攻、国際連盟からの脱退、ワシントン並びにロンドン軍縮条約の廃棄通告等が起った。また、ソ連政府は世界革命の推進を目指し、ボルシェビズムを中国で宣伝することに成功を収め、国民党政府の政体と政策に大きな影響を及ぼしている。そして、中国ではある種のナショナリズムが成長し、従来からある中国人の外国人嫌いと不平不満の意識が、共産党顧問たちの指導で、衝動的な反抗と自己主張へと転化している。我が米国だけは、反対の方向を指向し、フィリピンに十年後には独立を与えようとしている。関係諸国の協力を目指したワシントン体制は、1925年~1929年の間に実質上廃絶状態になり、その権威を失ってしまった。従ってワシントン会議で示された米国の伝統的政策はその根本から変えてしまう事態に直面している。我々の究極の目標、戦略をどこまで変えねばならないか、十分検討しなければならない、とマクマリー。

 中国はワシントン会議に嘆願者の立場で参加し、その要望が達成され、心から感謝の意を表してきたが、条約の効力発生が遅れた三年間のうちに、その態度を根本的に変えてしまった。1923年、孫文の政治顧問になったボロディンらはコミンテルン政策を巧みに取り入れ、中国や他の植民地諸国を目覚めさせ世界革命を推進し、資本主義並びに帝国主義的列強に対抗させようとした。国民党党首の孫文は米国や日本からの支援獲得をやめて、反帝国主義と不平等条約廃棄を中国再生の基本教義(三民主義)とした。更に彼の遺書として帝国主義的列強への隷属から解放してくれるのはソ連だけだという内容がプラウダに公表された。孫文の死後、数カ月後に上海事件、広東事件が発生し、この事件によって中国人の憎しみが英国人と日本人に向けられたが、明らかにボロディンらの助言によるものであった。英国の貿易と船積みは一年以上もボイコットされた。英国の対中貿易は極めて難しい事態に立ち至り、中国に対して新しくてより柔軟な英国の取組み方を述べた文書が準備され、1926年12月公式文書が公表された。英国が中国との協調について主導権を取ろうとしたものだった。そして、中国人にとっては、外国人の条約上の諸権利に対する彼らの権利主張を逆に誘い出す効果があったと、マクマリー。公表後2,3日もしないうちに、国民党官憲に扇動された群衆による漢口、九江英国租界の実力接収という事態を招くことになった。
 この英国の提案は、早速米国政府に影響を与えた。1927年1月、ケロッグ国務長官は米国政策についての公式声明を発表した。そこには、「合衆国政府は、中国の民族的な自覚を好意と関心を以て注視してきた。そして中国人民の政府組織の再建に向っての前進を歓迎する。我が政府は、最も寛大な精神で中国と交渉することを希望する。我々は、中国内で租借地を所有していないし、これまで同国に対し、いかなる帝国主義的態度もとってはこなかった」と記されていた。その後は米英両国政府とも、新聞報道に見られるように、お互いが中国の好意を得ようと競い合い、故意ではないにしろ、無責任と暴力の風潮を助長していたように思われると、マクマリー。

 当時国民党は極端に暴力的となっており、内部抗争によって一層激しくなった。この内部構想はは、ロシア人政治顧問団に対する不信任とその追放劇(国共分離)となり、蒋介石がトップに立つに及んで、最高潮になった。国民党の北伐は、ソ連のガレン将軍の援助を受けて進軍できた。この行軍に際し、政治局員や宣伝部員がかなり前を先行し、中国人の生計の道を奪ってきた外国人の桎梏から農民を開放し、自由にするためにやってきたのだと宣伝、孫文の論文が引用され、中国の対外貿易は帝国主義者への貢物で、中国の長期にわたる貧困と苦難はその結果であるとされた。これで、今まで北伐軍に抵抗してきた地方が次々制圧され、蒋介石は快進撃、国民的救世主として歓迎された。現地で前から予測され心配された事件が、1927年3月南京で発生した。蒋介石軍が揚子江下流域に勢力を広げて南京に兵を進めた時、軍隊の一部が外国人の全財産を没収し、これに遭遇した外国人が襲われ死者も出した。その処理の仕方も、帝国主義列強を威嚇しその尊厳を傷つける暴力が正当化される、国民党へ迎合するけっかとなった

 日清条約並びに日露戦後の条約は当初から約定関税率と通商条項に関する10年ごとの見直し規定を定めていた。1926年秋、中国は条約の抜本的改正を要求し、六か月以内にまとまらないと条約は失効することとした。日本政府は異議を唱えるとともに、当初は北京グループ、その後は上海・南京の国民党と交渉を継続した。ところが1928年の夏、南京の国民党政府は改定が期間内に纏まらなかったので条約は失効したものと見做すと唐突に宣言した。日本は本件を先ず米国の態度を打診した。内田康哉外相はパリでの不戦条約調印式後、ワシントンを訪れた。しかし米国政府は懐疑的で冷淡で、全く手応えのない態度に終始した。一つは田中首相時の山東出兵措置、いま一つは中国筋からもたらされた田中メモランダムが、不信感を呼んでいた。この済南事件では、現場の近くにいた外国代表団の人々は、日本軍が自国居留民の生命財産保護のため行動したことを知っていた。しかし日本に対する新聞報道は、特にアメリカではひどかった。記録によると、国務省の見解も、日本軍が国民党の動きを抑え込むため済南事件を起こしたとなっている。アメリカ人は中国国民党を、自分の理想を具現する闘士のように、肩入れした。
 国務省を訪れた内田外相は、ケロッグ国務長官に外交覚書を読み上げた。「条約の明確な規定に反し、国民政府は、突然に本条約廃棄の通告を日本政府に送ってきた。そして、新条約締結までは、中国における日本国民並びに通商に関する事項は、中国が一方的に決める暫定規定によって規制される旨がこの通告に述べられている。条約の尊厳性の問題を抜きにしても、この種の処置が認められるならば、条約や協定で日本に保障されている権利や権益を、一切壊滅させてしまう結果となることを日本は深く憂慮する。・・・列強諸国にとって最善の方策は、協調の精神で行動することである。1922年のワシントン条約署名各国が、この精神に準拠し、共通の利害に影響を与える問題に関し、率直に互いの意見を交換し、中国における政治状態の安定と永久平和の確立に貢献するとの考えに立ち、可能な限り連携して行動することである」 この覚書が読み上げられた際、国務長官が述べたコメントは、アメリカの場合、基本条約が1934年まで有効なので事情が異なるとの発言に留まった。そして米国は中国に課せられた関税率の撤廃条約に署名したこと、治外法権を放棄するための整備を急いでいると付言した。日本代理大使は日本の覚書にある国際協力を米国は受け入れられるものであるかどうか尋ねた。これに対し長官は、「すべての列強諸国は、安定政権の樹立を目指す中国現政府の努力に対し、可能な限り協力して力を貸すべきであるというのが、私並びに米国政府の気持である」
 三カ月後に着任した日本大使が、再び同じテーマを話題にした。ワシントン会議で米国があれほど力説した道義的影響力が本当に正しいものであったか、あるいは頑固に盾つく中国人を鼓舞し彼らにへつらった偽善的なものだったか、日本人は切実に知りたがった。結局米国は中国びいきで、中国の希望に肩入れすることにより、協力国の利害に与える影響を無視して自らの利益を追求している、内田外相はこんな印象を抱いて去ったに違いない、とマムマリーは推察する。
 

寄り道 マクマリーメモ(なぜワシントン体制は崩壊したか)

2015年05月13日 | 歴史を尋ねる
 マクマリー(MacMurray)は1881年に生まれ1960年に没したアメリカの外交官であるが、若い頃中国に勤務し、中国関係条約集を編集して、ワシントン会議にも参加、1920年代前半のアメリカでは、中国問題の最高権威の一人だと考えられていた。ところが、1925年に中国駐在公使として着任して以来、ワシントンの本省としばしば衝突し、1929年に辞職した。1935年の夏、極東問題担当の国務次官補スタンレー・ホーンベックがマクマリーにアジア情勢の概観を書くよう委託したのが、これから紹介するマクマリーのメモランダムである。このメモは、本来は政府に、危機の由来に関する権威ある概観を提供し、アメリカの対応策について勧告するために書かれたものである。当時の米国の多くの人は、日本がアジアを戦争に投げ込むドラマの悪役だと信じていたが、しかし、マクマリーの情勢分析とその解釈は、日本の新しい強引な政策は、一方的な侵略とか軍国主義に冒された結果ではなく、それに先立つ時期のアメリカを含む諸国の行為がもたらしたものだと熱心に説いた。
 1920年代において、日本がワシントン条約の条文と精神を厳密に守ろうとしているのに、この合意の当事者、特に中国と米国が条約諸規定の実施を繰り返し阻害したり、拒否する事実のあったことを彼は指摘した。米国に教唆された中国は、自らの国際的地位を保証してきた法的枠組みを一貫して軽視し、それによって日本の激しい怒りを招く結果になった。日本にワシントン条約を締結させるのは難しかったのだから、その後の日本の態度は評価されるべきだったが、そうした評価は得られず、逆にワシントン体制が崩壊して自国の利害が脅かされると感じた時、日本は強力な軍事力に頼るようになったとマクマリーは考えた。もし米国が日本の苦情を認めないで中国への肩入ればかりを続けるならば、結果的には日本との戦争になると予言した。

 1935年に書かれたマクマリーの分析は、その仕事を依頼したホーンベックには気に入られなかった。ホームベックは、米国は日本との戦争というリスクを冒さなくとも、外交面で中国を支援できると信じていた。従って、このメモは誰に見せた様子もなく、あっさりファイルにとじ込まれてしまった。それにもかかわらず、このメモは世に知られ、広い範囲に読まれるようになり、結果的には古典的な価値を持つ文書になった。1930年代にこれを呼んだ外交官は鋭い分析の光にまず印象付けられた。日本、中国並びに列強諸国間の複雑な国際法上の紛争に精通した力作だったから。1950年代の政府関係者にとっては、このメモが、日本の敗戦で力の均衡が破壊され、それまで日本が管理していた朝鮮その他の地域で、力の真空状態が生じることを予測していた。これは過去のアジア情勢の文書であるだけでなく、国際法の原則とバランス・オブ・パワーにも立脚した分析と議論であり、結果として現在にも有用だとされている。

 マクマリーは彼の友人であるルーズベルトが見てくれるだろうと期待したが、1937年、実際に見たのは駐日米大使となったC・グル―だった。グルーは「これは傑作だ、大統領から極東政策に関与するすべての官僚も読んでほしい。中国と日本の実像を正確に、客観的に教えてくれる。日本がいつも尊大で弱い者いじめで、中国が虐げられた無垢の人だという我々の考えを変えさせるのに役立つだろう。いまの戦争が始まってからずっと、東京にいる我々が勧告してきた政策の健全さを証明するものである」と。グルーはこのメモランダムをコーデル・ハル国務長官に読んでもらうよう熱心に進めた。しかしその後、このメモランダムのアプローチも、グルーの勧告も、ワシントンで成功を収めるに至らなかった。ハル長官は前任のヘンリー・スティムソンが敷いた対応策を踏襲するだけであった。スティムソンは軍事力の行使は否定したが、日本を不当な侵略者と頭から決めつけ、日本に反対する世界の世論を結集しようとしていた。ハルは当時日本を「法の尊厳や道徳の原理に全く拘束されず、征服のプログラムのための際限ない巨大な軍事力」を有する国と記述し、したがって侵略者が根絶されない限り、平和が保障されることはないとハルは信じていた。ここでいうハルとは、日本が戦争に踏切ったハル・ノート(交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている)の当事者である。

 更に戦後、アメリカの政策を立案する国務省の担当にとって、マクマリーの言葉には先見の明があると映った。「日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何の恩恵にはならない。それは日本の代わりにロシア帝国の後継者ソ連を置くだけである。・・・こんな戦争でアメリカが勝ったとしても、その成果は恐らくソ連が独占してしまう」と。事実戦後米国とソ連はたちまち仲違いしてしまい、中国では共産党が政権を握り、更に旧同盟国を向こうに回して朝鮮の戦争に巻き込まれた。国務省政策立案者の一人に、ジョージ・F・ケナンがいた。ケナンの外交研究は、イデオロギーよりも勢力均衡を重視するやり方を示し、マクマリーは二度も(毛沢東の勝利と朝鮮戦争)先見の明を見せたと称賛した。
 ここまでマクマリーのメモランダムの位置づけをアーサー・ウォルドロン著「平和はいかに失われたか」で見てきたが、メモの内容について次回掘り下げたい。

 

 

幣原外交の行き詰まりとスチムソン・ドクトリン

2015年05月10日 | 歴史を尋ねる
 1931年(昭和6)6月、参謀本部の建川美次部長を委員長として、陸軍省の永田鉄山軍事課長はじめ陸軍省、参謀本部の主要な課長を委員とする委員会が「満蒙問題解決方策の大綱」を作成した。それは、このまま排日が続けば、軍事行動のやむなきに到ることがあり、それに備えて、満州における排日行動の実態を内外に啓発し、万が一軍事行動が必要な事態になったとき、列国が日本の気持ちを理解し、非難・反対しないよう事前に工作しておく、その期間を一年とすることを提案している。これは重光葵が日中関係は行詰まると予想し、堅実に行詰まることを提唱したのと、期せずして同工異曲であった。こうした見通しのなか、幣原はどう考えていたのか。当時の考え方を知る参考になるものとして、事変のひと月前、広東の汪兆銘政権の外交部長陳友仁との懇談記録が残されている。
 幣原の歴史認識は、支那人は満州を支那のものと考えているが、実際はロシアのものだった。それを追い出したのは日本である。また、日露戦争中は日本は知らなかったが、露清秘密同盟の有効期間中だったから、日本が知っていたなら敵国である清国からの領土割譲もありえた。にも拘らず、日本は領土権を主張しない。満州に求めるものは、日本人が内地人たると朝鮮人たるとを問わず、相互友好協力の上に満州に居住し、商工業などの経済開発に参加できるような状況の確立であり、道義的にも当然の要求であると、幣原の考えを開陳している。

 幣原の方針ははたして達成可能だったのだろうか。張学良の心情、そしてその政策から考えて至難であり、現に実例で示されていた。幣原の考えで事態解決の突破口を開こうとするならば、幣原の外交力で米、英を動かし、日、英、米一緒になって、蒋介石と張学良に対して既存条約を尊重して友好的な話し合いですべてを処理し、早急な利権回復運動や反日運動をやめるよう働きかける事しかない。ワシントン条約を三国共同で堅持することである。しかしそれは、マクマリーが国務省に対して一貫して主張して容れられず、ついに失意のうちに外交官生活を去ったその政策であった。アメリカ国務省説得において、身内であるマクマリー以上の成功を幣原に望むべくもなかったと、岡崎氏は分析する。うむ、かつて伊藤博文が満州問題に関する協議会の席上「児玉参謀総長は満州に於ける日本の地位を根本的に誤解している。満州に於ける日本の権利は講和条約に依って露国から譲り受けたもの以外に何もない。満州経営という言葉は戦時中から我が国の人が口にしていた所で、今日では官吏や商人もしきりに満州経営を説くが、満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でもない場所に我が主権の行われる道理は無い」の時代の戻ることは出来ない。時代は経過し、むしろ直近の秩序体系は、ワシントン条約体制の維持で、幣原はこの九か国条約を尊重する協調外交政策を推進してきたが、この体制の破綻危機を訴えたマクマリーが退けられた。

 重光公使は国民党の実力者宋子文財政部長と図って、満州問題解決の方策を探る目的で、内田康哉満鉄総裁も交えて協議するために宋と連れだって訪満することとしたが、出発予定の一日前に柳条湖事件が勃発、計画が流れた。事件勃発の翌日早々、宋は重光に対して日中共同処理委員会を設けて問題を解決することを提案し、重光はただちにこれを東京に取り次いだが、なかなか返事が来ないまま二日たった。幣原外相から返事が来た時には、その間関東軍の軍事行動がどんどん進み、「事態の進展は、日本軍の計画的行動でもはや手が付けられない。中国はすでに国際連盟に訴える手続きを取った」という回答が来た。幣原は中国公使を呼んで、連盟などに提訴しても東洋の事情を知らない国々の雄弁大会になるだけで話がまとまらないと翻意を促したが、既に国民党側は態度を決めていた。幣原は協調外交を信じたが、国際連盟については一貫して懐疑的であった。オーソドックスな大国間の相互理解による協調を信奉していた。事実、満州問題を現実的な妥協で解決しようとする英国などの動きを封じたのは法理的な正義を論じる小国の動向であった。

 しかし外国の幣原に対する信頼は依然として絶大で、スチムソン国務長官は後日、「ワシントン会議から満州事変までの十年間、日本政府は国際政治の舞台に於いて異常な善隣外交の範を垂れた。その外交の中心である幣原が外相の任を負っているから、彼が満州における強硬政策に対して敢然と戦っているに違いないことを我々は知っていた。彼の仕事を困難にさせるような手段を取るべきでないことは、我々には明瞭だった」と著書に記している。「日本人に対して、彼等を監視していることを知らしめ、同時に正義派の幣原らを援助する方法で実行し、国家主義者の扇動に利用されないようにすることだ」と。
 11月には関東軍が再び本格的な錦州攻撃を始め、若槻内閣総辞職に伴って幣原辞任の報が伝わるや、スチムソンは憤然として「もはや日本と手を携えて満州事件を解決する望みはまったくなくなった。今後アメリカは何ら遠慮することなく、積極的に日本を叩きつけなければならない」といって、ただちに英国の外務大臣に電話して、アメリカ政府の決意を告げた。それが日支両国に対する通牒の形を取ったが、1932年1月7日のスチムソン宣言であった。その内容は、力によろうと日支間の協定によろうと、満州事変勃発以降の中国の領土、主権の変更は認めないという趣旨であった。
 この宣言が法的にはどこまで有効か疑問なしとしない文書であるが、のちにローズヴェルトが挙国一致内閣のためにスチムソンを登用し、太平洋戦争開戦時にはアメリカの政策として復活したと岡崎氏はいう。幣原は「国辱外交」「軟弱外交」の悪罵の中で退陣することになり、敗戦まで一切政治外交の表舞台から姿を消した。しかし敗戦後、総理となって現れたとき、記者団からまだ生きていたのかとという声が上がったという。非常時に幣原を引っ張り出したのは吉田茂だったとテレビ番組で伝えていた。戦争の後には、また外交がよみがえるということか。

満州事変への道

2015年05月09日 | 歴史を尋ねる
 1928年(昭和3)の済南事件は日中関係に大きな転機となったことは既述済みである。南京政府の知日派で温厚な黄郛外交部長は退き、英米派の王正廷に替わり、その後は日中間の話し合いよりも国際連盟や欧米のマスコミに向って日本を非難し、日本を孤立化する政策を取った。そして革命外交と呼ばれる国権回復運動を展開した。1931年4月重光公使が王正廷に内容を確認すると旅順大連の租借地も含まれ、満鉄の鉄道利権を含まれる旨回答があった。重光は幣原外相と協議し「行き詰まりがどうしてもやむを得ないことならば堅実に行詰まる」と具申し別れた。堅実にとは外交上日本の地位が世界に納得させられるようにしておくことだ、と。
 外交的軍事的対決ならば、日本は何とかする自信はあったろう、しかし、手を焼いたのは反日侮日運動であったと、岡崎久彦氏は云う。日本の庇護の下に成長した張作霖政権の下の満州でさえ、特に田中内閣の山東出兵以後は状況が変わった、と。1929年に(昭和4)に満州を訪問した重光は満州の雰囲気が変化したことに驚き、15年前に自分が奉天に在任した頃の日支官民の融和状態は煙と消えていた、当時懇意であった人々でも白昼を避け暗夜ホテルに来訪するという有様で、日本人側でも近来倨傲を加えた張学良政権と協力を得ることは難しいとの意見であった。1930年満鉄は創業以来の大赤字となり、満鉄関連の事業に生活を依存する数万の日本人に不安を与えた。

 何よりも在留邦人が不安に感じ、生業に実害を及ぼしたのは反日侮日運動だった。それは民族の自発的運動というよりも、国民党指導によるところが大きかった。幣原自身、中国における排日運動は、政府とその職能を分かつことが困難な国民党部の直接間接の指導の下に、国策遂行の手段として行われるものであると判断していた。日本に武力行使の口実を与えないギリギリの範囲で、間接的ないじめで、在留邦人がいたたまれなくすることであった。現に多くに日本人は、その為これまで築いた事業の継続を諦めて帰国の途についた。満州事変時、参謀本部作戦課長であった今村均は「また満人にぶたれた、つばきを吐きかけられた、子供が学校に行く途中石をぶつけられた、満人が野菜を売ってくれなくなった」と言われれば、同胞の苦境に同情し、憤慨に血を沸き立たせるようになったのは自然であると当時を回想している。東京裁判で日本側が自衛のために戦ったと主張したのもこういう背景からきている。国際法上の自衛といえるかどうかは措くとして、当時の満州のような状況は国際法以前の問題であった。

 こうした反日運動に対して、在満邦人が結束して対抗するために、全満日本人連合会や満州青年連盟が結成された。「連合会」は、幣原外相の言動に反発して、もう外務省などは恃むに足りずということで、会の名を「自主同盟」に改めた。そして、軍関係者の支持のもとに、日本の政府、政党に働きかけて、「実力行使による満州問題の解決」を要求した。在満邦人は公然と幣原外交に反旗を掲げた。「満州問題の歴史」の中で、伊藤六十次郎は、同盟、連盟に限らず、在郷軍人会などあらゆる在満の諸団体は蹶起し、もはや満州事変は不可避の状況だったと述べ、満州事変を勃発させたのは満州在住日本民族の総意だったと云っている。1931年(昭和6)の夏に入ると、6月には中村震太郎大尉事件、7月には万宝山事件が起きた。
 万宝山事件は、長春西北方に入植した朝鮮人農民が周辺の中国人と衝突し、日中双方の警察隊が出て発砲騒ぎが起こった事件である。その報道に激昂した朝鮮人が華僑街を襲撃し、平壌では百余人の中国人が殺害された。もとは、朝鮮人農民が周辺の中国人の十分な了解を得ずに用水路をつくろうとしたのが発端であり、直接の原因は朝鮮人側にあるが、日本側はこれを度重なる日本人、朝鮮人いじめの一つと捉えた。日本側は1909年(明治42)の条約で、日本人、朝鮮人は土地を借りて農業を営む権利があるが、中国側は、そういう不平等条約は一方的に廃棄したという立場であった。それは、日中双方が既存条約を尊重し、日本人、中国人、朝鮮人が等しく経済活動に参加できるような満州にしたいという幣原の考え方を基礎から突き崩すものであった。
 そのころ東部蒙古地方旅行中の中村震太郎大尉は地方の軍当局に囚われて殺され、その事件は8月になって明らかになった。中村大尉は禁止区域に入り、その目的が地理の調査であったのでスパイ行為ともいえる状況だったが、裁判にもかけず殺して、死体を焼却してその事実を隠していた点は中国側にも非があった。日本の世論は沸き立った。朝日新聞は「未曾有の暴虐極まる惨殺事件が満州の支那官憲によってなされたのは支那側の日本に対する驕慢の昂じた結果であり、日本人を侮辱し切った行動である。いまにして支那の暴虐をただすところがなければ今後さらに憂うべく恐るべき事態の続出を免れないであろう。支那側に一点の容赦すべきところはない」と論じ、日本側の断固たる処置を要望した。関東軍は、今こそ軍部の威信を示し、国民の期待に応え、満蒙問題解決の端緒とする絶好の機会と色めきたった。

 しかし幣原は、陸軍と協議して、この問題を謝罪、責任者の処罰、賠償と将来についての中国側の保障で解決する方針を固めた。陸相も関東軍司令官に宛てた訓電の中で、本件を以て満蒙問題解決の契機となすところなくと特記していた。関東軍としては、また一つ当てが外れたわけで、石原莞爾は永田鉄山宛の長文の書簡で、軍の意見を中央部が採用しなかったのは誠に残念と書き送っている。石原らは、こうなっては独断専行して満州問題を解決しなければならないという意見をますます固めたのもこの頃からであろうと、岡崎久彦氏は推量する。

重光葵公使の憂慮と安倍晋三首相の回答

2015年05月04日 | 歴史を尋ねる
 重光葵はその著書「昭和の動乱」でいう。当時日本人は国家及び民族の将来に対して、非常に神経質になっていた。日本は一小島国として農耕地の狭小であることは勿論、その他の鉱物資源も云うに足るものはない。日清戦争時代に三千万余を数えた人口は、その後30年にして六千万に倍加し、年に百万近い人口増加があった。この莫大なる人口を如何にして養うかが、日本国策の基底を揺り動かす問題であった。海外移民の不可能なる事情の下に、日本は朝鮮及び台湾を極度に開発し、更に満州に於ける経済活動によりこの問題を解決しつつあった。海外貿易は相手のあることであって、そう思うようにはいかない。満州問題は日本人の生活上、日に日に重要性を加えていった。日本人の勤勉は、単に生きんがためであって、生活水準を引き上げるためではなかった。

 国際連盟は戦争を否認し、世界の現状を維持することを方針とし、これを裏付けするために各国の軍縮を実現しようとした。しかし、人類生活の根本である食糧問題を解決すべき経済問題については、単に自由主義を空論するのみで、世界は欧州各国を中心として、事実上閉鎖経済に逆転してしまった。自由主義の本場英国内においてもオタワ協定が結ばれた。(1932年,世界恐慌に対処するため,イギリス連邦がオタワで開いた経済会議で結んだ協定。連邦内の特恵関税と域外への保護関税を強め,市場の安定化をはかったが,伝統的自由貿易主義が放棄され,世界経済のブロック化を促進した) 仏も蘭もその植民地帝国は、本国の利益のために外国に対して益々閉鎖的になるのみであった。第一次大戦後の国家主義時代における列国の政策は、貿易自由の原則と去ること遠きになった。国際連盟の趣旨とする経済自由の原則など、全く忘れられていた。日本の増加する人口を養うためには、その汗水の働きによる海外貿易の発展に依頼することが出来なくなって、遂に生活水準の引下げを強要せらるるようになった、と。 折から世界恐慌の嵐が吹き荒れ、各国は自国民の手当てに精一杯、植民地の囲い込みも激しく、いわゆる持てる国と持たざる国論が頭をもたげてくる。

 この問題で日本が密接な関係を持つのは支那との関係である。対支貿易は、支那の排日運動のため重大な打撃を蒙り、且つ支那における紡績業を中心とする日本人の企業は、これがため非情な妨害を受けるに至った。モスクワ仕込みの共産党の闘将李立三は、上海を中心として学生労働運動を扇動して、排日運動に大童になっていた。日本の権益は、支那本土に於いてのみならず、満州においても、張学良の手によって甚だ迫害される運命に置かれた。支那の革命外交は、王外交部長主唱の下に、全国的に機能を発揮するようになった。日本は、関東州の租借地のみでなく、鉄道付属地に於いて行政権を有し、朝鮮人満州奥地に居住するものは百万を数えた。日本がこれらの権益を、排日の嵐の中で、現地に於いて防衛することは容易ではない。しかも日本が、経済的に支那本土より排斥されるのみならず、更に満州より駆逐されることは、日本人自身の生活そのものが脅かされる次第であった、と。重光の憂慮は深い。「かくして形勢は進展し、満州問題は内外より急迫し、政治性のない政府はただ手を拱いて、形勢の推移を憂慮しながら傍観するのみであった。」

 先の米国連邦議会上下両院合同会議での安倍首相の演説は日米間並びに東アジアの戦後経済関係を簡単に述べています。
 「戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません。アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。自らに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。
 焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2,036頭、やってきました。米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。下って1980年代以降、韓国が、台湾が、ASEAN諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。
 こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。」
 ちょっと引用が長くなったが、キーフレーズは「米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システム」だ。日本が育てたのは繁栄だと云っている、しかも人口が1億2千万人であるにも関わらず。重光が存命であればどう云うのか。重光は昭和32年1月急逝しているが、その前の12月、国際連合第十一総会で演説を行っている。重光の思いは終始変わらなかった。
 「日本は、国民生活上今日多くの困難に直面しております。その最も大なるものは、狭少なる領域において過大なる人口を養う問題であります。生計を維持し、生活水準を向上する原動力が勤勉にあることは、今更言うまでもありません。日本人は勤労を惜しむものではありません。現に男も女もその持場持場において勤勉に働いておる次第であります。しかし、国民の勤労を如何に効果あらしめるかが、国策上の重要課題であります。日本人は、国内の発展はもちろん生産力の増加による貿易の増進が、人口問題の有力なる解決方法であることを知つております。故に、貿易に対する各種の障害については、日本人は非常に敏感であります。従つて、国境を越えて人と物との交流を円滑にせんとする国際連合の企図は、平和のための有力なる政策として日本の歓迎するところであります。」


幣原外交再登場

2015年05月02日 | 歴史を尋ねる
 1929年(昭和4)7月、田中首相が辞表を出すと、翌日浜口に大命が下り、幣原は再び外務大臣となった。就任早々、幣原の国際的力量を必要とする事件が起こった。ソ連は成立直後、ツアー時代の帝国主義外交の獲得物を廃棄するといったが、既得権はやはり簡単には手放さず、東支鉄道について1924年中ソが均等の権利を持つことで合意した。1928年末全満州に青天白日旗(国民革命軍旗)を翻した張学良は、東支鉄道の利権回復運動を試みた。やり方は強引で、東支鉄道のソ連人を罷免、追放した。ソ連は国交を断絶し、軍隊をソ満国境地域に進めた。米仏は不戦条約を引用して厳重な警告を発したが、中ソは警告を拒否。幣原は非公開の外交で中ソを仲介しソ連軍は撤退した。中国では「田中武断外交去り、幣原平和外交来る」ということで、民間の反日運動も下火となった。復帰した幣原の対中外交の優先課題は関税自主権の取扱で、既に1928年6月北伐軍が北京に入城するとすぐに不平等条約の廃棄を宣言し、日本に対しては、日清戦争後の条約の無効を通告してきていた。1930年5月、重光・宋子文関税互恵協定が成立した。その後、満州事変までは、日中関係は好転し、蒋介石は日本から招聘した軍事顧問は6~70名に達し、巡洋艦の建造まで日本に依頼するなど、田中の時と比べると隔世の感があるほどだった。
 
 1930年のロンドン軍縮は協調外交最後の成果だった。海軍軍令部の反対にもかかわらず軍縮交渉を成立させたのは政党政治がまだ機能して軍を抑えたということで、大正デモクラシーが残した最後の業績であった。しかしこれを「最大の悲劇となったロンドン条約」と伊藤正徳(時事新報の海軍記者、大海軍記者と称される)は呼んだそうだ。その一つは、条約批准の一か月後浜口が右翼のテロに遭い、これが五・一五事件に至る一連のテロの始まりとなった。もう一つは山本権兵衛、加藤友三郎の下に一糸乱れぬ統制を誇っていた海軍が条約派と艦隊派に分裂し、将来の日本の海軍を託すべき人材が喧嘩両成敗人事で海軍中枢から去ったことだ、と。そして、浜口入院中幣原は臨時首相代理を務めたが、やがて民政党は若槻を後任に選び、西園寺は若槻を首相に選んだ。幣原は外相として留任した。幣原は少しも変わらなかった。幣原のようなまっとうの外交は変わりようもない。しかし幣原外交を取り巻く内外情勢はどうしようもないくらいに行詰まっていた、と岡崎氏は解説する。この緊張感ある状況を当時駐支公使をしていた重光葵が巣鴨獄中で書いた「昭和動乱」によって、明らかにしておきたい。
 英国は最も保守的であって、最も進歩的である。英国は支那の新事態に適した態勢を樹立するために新政策を決定した。従来の政策を転換して国民政府を承認し、その要望を容れて、不平等条約の改正を行い、租界その他の利権を支那に返還することを商議するもので、支那の民族運動を洞察した、画期的政策であった。英国の新政策の内容は、日本が行いつつある対支政策と軌を一にするものであった。英国と違って日本は折角立派な方針を立て乍ら、政府機関に統一がなく、軍部は干渉を恣にし、政党は外交の理解がなく、世論に健全な支持がないため、幣原外交はある限度より以上に少しも前進しない。その間、英米と支那側との交渉は急速に進捗し、不平等条約改定にも目鼻がついてきた。大勢はすでに支那の制する所で、躊躇する日本との交渉はもはや重視する必要が亡くなった。英米側との交渉が順調に進んで、国権回復政策遂行の速度を非常に早めてきた。

 左傾軍閥憑玉祥側の人で、蒋介石には外様格であった敏腕家王正廷外交部長は、すでに大勢は支那に有利てみてか、支那の革命外交に関する彼自身の腹案を公表した。第一期:関税自主権及び海関の回収、第二期:法権の回収、第三期:租界や租借地の回収、第四期及び第五期:内河及び沿岸航行権の回収、鉄道及びその他の利権の回収、この革命外交プログラムは極めて短期に不平等条約を廃棄して、一切の利権回収を実現しようとするもので、列国との交渉が長引くときは、支那は一方的に条約を廃棄し、これら利権の回収を断行するという趣旨であった。この王正廷外交部長の全貌は、詳細に新聞紙上に発表されてしまった。重光は自ら帰朝して幣原外相に意見を進言することを決意し、まず南京の官邸に王外交部長を訪ねた。それは満州事変の始まる半年前だった。王部長は重光公使に、新聞紙の発表を肯定し、外国の利権回収は勿論、満州をも包含するものであって旅大の租借地も満州の運営も、何れも皆公表の順序によって、支那側に回収する積りであると説明した。
 幣原外交によって、日本と支那中央政府との関係は画期的に改善されたが、半ば独立の状態にあった満州における事態は、これに伴わなかった。張作霖を継いだ学良は、到底日本に妥協的態度を執ることが出来なかった。彼は全く英米人の感化の下で成長し、英人の顧問を持っていた。その考え方は極端に排日的で、日本派の揚宇霆を射殺してその態度を明らかにし、国民党に加盟し、五色旗を降して国民党の青天白日旗を掲げ、公然排日方針を立て、日本の勢力を満州より駆逐する露骨な方策に出て来た。

 こうした情勢下、満州における紛争は漸次増加して、双方の交渉条件は山積した。しかし張学良は日本側の苦情を地方的に解決する立場にないという口実で交渉を拒否した。南京中央政府の権威は満州には及ばない。交渉は地方においても中央においても解決できず、懸案はますばかりであった。日本は満州で商租権を取得し、鉄道付属地以外においても、土地商租の権利があるが、日本人や多年定住している朝鮮人の土地商租は、支那官憲の圧迫によって、新たに取得することは愚か、既に得た権利すら維持困難な有様だった。満州鉄道の回収運動も始まった。支那側は満鉄に対する平行線を自ら建設し、葫蘆島の大規模な築港をオランダに委託し、日本の経営している鉄道及び大連の商港を無価値にしようと企図するに至った。これらの現象を目前に見ている関東軍は、その任務とする日本の権益及び日本人・朝鮮人の保護は、外交の力によっては到底不可能で、もはや武力を使用する以外に途はないと感ずるようになった。
 重光公使はこの形勢を深く憂慮し、支那本土に対する譲歩によって、満州問題の解決を図り、未然の衝突を防ぐことの全力を尽くした。他方、紛糾する事態を国際連盟に説明して、日本の立場を明らかにすべきことを主張し、更に日本は速やかに徹底した包括的の対支政策の樹立を必要とする旨を、政府に強く進言した。浜口首相暗殺の後を継いだ若槻内閣は、大いなる経綸を立てて政策を実行する意思のないことを見出した時、重光は非情な失望を感じたと記している。蘇州・杭州の如き価値の少ない租界を速やかに支那に返還して、不平等条約に対する日本の態度を明らかにすべきという提案すら、枢密院の賛同を得る自信がないことを以て退けられた。日本における国粋主義は、既に軍のみでなく、反対党及び枢密院まで行き渡っていたと嘆く。且つ、幣原外交は、外交上の正道を歩む誤りなきものではあったが、その弱点は、満州問題の如き日本の死活問題について、国民の納得する解決策を持たなかった。政府が国家の危局を目前にして、これを積極的に指導し解決するだけの勇気と能力に欠けていたことは、悲劇の序幕であり、日本破綻の一大原因であった、と。