大正4年(1914)8月大隈内閣は大浦内相の議員買収事件が大問題となったため内閣改造を行い、内相は交代して一木喜徳郎、海相は加藤友三郎、加藤外相は辞職して、一時大隈総理が兼任したが、フランス駐在大使石井菊次郎が外相に就任した。石井外相は袁世凱に帝政延期勧告を出したりしたが、5年1月、対中強硬論者による大隈暗殺未遂事件が発生、日本内で反袁運動がいよいよ強くなり、政府は3月、「支那目下の時局に対する帝国の執るべき態度」を閣議決定する。このときに閣議要項が、反袁運動を益々勢いづかせた。その内容とは「帝国は優越なる勢力を支那に確立し支那人をして帝国の勢力を自覚せしめ日支親善の基礎を断つる事」「これが為袁を排斥する事」「その目的を達するためには成るべく支那自身をしてその情勢をつくらしめ帝国はこれに乗じてことを処理する事」、更に反袁運動への資金援助は政府は公然これを奨励しないが同時の黙許することと、あからさまな文言も入っていた。当時の状況を原田熊雄男爵は「袁世凱が皇帝になるということに反対の空気が支那の一部にあったのをとらえて、南方では久原房之助がひそかに金を出して今の国民党を援助して袁世凱反対の軍を起こさせ、北方では旅順に避難していた粛親王を盛り立てて満蒙を一丸として独立国をつくらせようとしており、この資本は大倉組が出していた」と記している。
政府の閣議要項は関東都督によって、在満各地の領事館に伝えられた。「排袁を目的とする本邦人の活動に対してその取締に手心致したい、右は3月7日決定の閣議の趣旨に副う次第」という通達であった。第17師団長本郷房太郎中将も独立守備隊長藤井幸槌少将も内閣の決定に反対だったが、同じ満州の地で、軍憲を背景にした革命騒ぎの計画が着々と進められていたと草柳。
粛親王は満蒙独立を諦めなかった。満州朝廷を支える八大王家の中でも、識見実力ともにナンバーワンであった。川島浪速とは同じ年(1866)の生まれで、アメリカのモンロー主義になぞらえて東洋にも東洋モンロー主義を起こすべきで、日支が一体になってこそ白人による支配の歴史を終息させうると、二人の意見は一致している。大正4年夏、川島から知らせが届き、蒙古の塩湖付近に蟠踞する蒙古騎兵隊の首領パプチャップと連絡がつき、粛親王を中心とする宗社党と連合して独立の兵を挙げる準備が整ったというのであった。資金は大倉喜八郎、協力者は軍人並びに大陸政客といわれた面々。いずれも大物ないし有力者と目される人物であった。翌5年1月、青柳騎兵大尉と粛親王の王子と轡を並べて蒙古に発った。「第二次挙事」の機が熟していく。一方、東京三宅坂の陸軍参謀本部でも、参謀次長田中義一、この下に関東都督参謀長から転任してきた福田雅太郎第二部長らが計画を進める。満蒙視察に出ていた小磯国昭少佐(後の首相)に川島らの計画を告げ、実行を促す。政府はこの陰謀を知っていた。石井外相は小池政務局長に、在満各地の領事に政府の意図が伝わるよう命じた。この伝達が伊集院彦吉中国公使、寺内朝鮮総督から手ごわい反発がきた。「まことに浅慮無謀極まるもので、そんなことをしたら列国の猜疑心を深めるばかりである。それよりも、今、張作霖が奉天将軍になりたくて、段芝貴将軍との間に暗闘を展開している。この際、張を暗助して、張の満蒙独立運動をさせた方が、政府の計画より実際的ではないか」 この提案に石井外相も田中参謀次長も同意してしまった。ここから満州政策は二途に分かれる。一方は土井大佐・川島浪速らが進める粛親王と蒙古騎兵隊の独立運動であり、他方は、政府が兵器から軍資金まで保証する張作霖擁立運動であった。
ところで、奉天将軍の段芝貴が日本軍の工作を感知し、身の危険を感じて北京に逃亡した。これで張作霖は宿願の奉天将軍になり巡按使まで兼ねる。名実ともに満州の実力者となった。軍事顧問に菊地武夫中佐が就任し、日本側との接触は于冲漢があたった。彼は日露戦争では日本軍に従軍し特殊任務に就き、満州国の産婆役を務めたという。粛親王の旅順派は日本政府が張作霖工作に踏切ってしまうと、これまでの計画が水の泡、考えつく先は張作霖の末梢しかない。張作霖暗殺の担当は三村陸軍予備少尉、25歳。三村は馬車を目がけて、爆弾を抱えたまま体当たり。しかし張作霖は次の見すぼらしい馬車に乗っていた。難を逃れた張作霖は日本に対して疑心暗鬼状態になった。菊地中佐らが何とかとりなし独立に踏切らせようとする。その挙兵の準備が殆ど完了し、あとはきっかけを待つだけとなったとき、袁世凱大総統が急死した。これで「打倒袁世凱」「袁専制からの独立」というスローガンは、全く目標を失った。日本政府の方針は一変する。袁の後を襲った黎元洪大総統を暗助し、黎に南北統一をやらせ、全体に日本寄りの政治体制をつくる。それが計画になる。「奉天派」も「旅順派」もお払い箱。しかしパプチャップ蒙古騎兵隊三千騎は南下を始める。予定の計画に従えば、大連や安東県に配置した「満州特殊部隊」が一斉に放棄してよい頃であったが、日本政府の方針変更で解散を命じられた。
以上のように第二次大隈内閣の対支政策は、北京政府を支持したかと思えば南方革命軍を援助し、独立運動を扇動する一方で張作霖を暗助するというように、全く統一を欠き、政策の変転もきわまりない有様となった。大隈内閣が中国に残したものは猛烈な抗日・排日の感情だった。対華二十一か条の前後は、学生・知識人などの反抗だったが、やがて反日感情は民衆の間に浸透していった。西原亀三は「ついに侵略の牙をむいた日本に対する支那人の憤激、日本人に対する憎悪、それによって巻き起こった排日・排貨の旋風は、京城あたりでも感知された。・・・長春や奉天で、日本製の帽子を地に投げつけたり踏みにじったりして、排日救国を怒号している、支那人の眼は、日本人に対する憎悪に燃えていた」と「夢の七十余年」で記している。満鉄の社員もこの反日の熱風に吹きさらされる。大連埠頭に積んだ大豆の袋がひんぴんと放火され、所長はいや気がさしてやめている。大隈内閣の対支政策は、民衆の間に鬱積した感情に触れず、もっぱら軍と大陸浪人の計略に委ねるところが多かった、と草柳氏。
政府の閣議要項は関東都督によって、在満各地の領事館に伝えられた。「排袁を目的とする本邦人の活動に対してその取締に手心致したい、右は3月7日決定の閣議の趣旨に副う次第」という通達であった。第17師団長本郷房太郎中将も独立守備隊長藤井幸槌少将も内閣の決定に反対だったが、同じ満州の地で、軍憲を背景にした革命騒ぎの計画が着々と進められていたと草柳。
粛親王は満蒙独立を諦めなかった。満州朝廷を支える八大王家の中でも、識見実力ともにナンバーワンであった。川島浪速とは同じ年(1866)の生まれで、アメリカのモンロー主義になぞらえて東洋にも東洋モンロー主義を起こすべきで、日支が一体になってこそ白人による支配の歴史を終息させうると、二人の意見は一致している。大正4年夏、川島から知らせが届き、蒙古の塩湖付近に蟠踞する蒙古騎兵隊の首領パプチャップと連絡がつき、粛親王を中心とする宗社党と連合して独立の兵を挙げる準備が整ったというのであった。資金は大倉喜八郎、協力者は軍人並びに大陸政客といわれた面々。いずれも大物ないし有力者と目される人物であった。翌5年1月、青柳騎兵大尉と粛親王の王子と轡を並べて蒙古に発った。「第二次挙事」の機が熟していく。一方、東京三宅坂の陸軍参謀本部でも、参謀次長田中義一、この下に関東都督参謀長から転任してきた福田雅太郎第二部長らが計画を進める。満蒙視察に出ていた小磯国昭少佐(後の首相)に川島らの計画を告げ、実行を促す。政府はこの陰謀を知っていた。石井外相は小池政務局長に、在満各地の領事に政府の意図が伝わるよう命じた。この伝達が伊集院彦吉中国公使、寺内朝鮮総督から手ごわい反発がきた。「まことに浅慮無謀極まるもので、そんなことをしたら列国の猜疑心を深めるばかりである。それよりも、今、張作霖が奉天将軍になりたくて、段芝貴将軍との間に暗闘を展開している。この際、張を暗助して、張の満蒙独立運動をさせた方が、政府の計画より実際的ではないか」 この提案に石井外相も田中参謀次長も同意してしまった。ここから満州政策は二途に分かれる。一方は土井大佐・川島浪速らが進める粛親王と蒙古騎兵隊の独立運動であり、他方は、政府が兵器から軍資金まで保証する張作霖擁立運動であった。
ところで、奉天将軍の段芝貴が日本軍の工作を感知し、身の危険を感じて北京に逃亡した。これで張作霖は宿願の奉天将軍になり巡按使まで兼ねる。名実ともに満州の実力者となった。軍事顧問に菊地武夫中佐が就任し、日本側との接触は于冲漢があたった。彼は日露戦争では日本軍に従軍し特殊任務に就き、満州国の産婆役を務めたという。粛親王の旅順派は日本政府が張作霖工作に踏切ってしまうと、これまでの計画が水の泡、考えつく先は張作霖の末梢しかない。張作霖暗殺の担当は三村陸軍予備少尉、25歳。三村は馬車を目がけて、爆弾を抱えたまま体当たり。しかし張作霖は次の見すぼらしい馬車に乗っていた。難を逃れた張作霖は日本に対して疑心暗鬼状態になった。菊地中佐らが何とかとりなし独立に踏切らせようとする。その挙兵の準備が殆ど完了し、あとはきっかけを待つだけとなったとき、袁世凱大総統が急死した。これで「打倒袁世凱」「袁専制からの独立」というスローガンは、全く目標を失った。日本政府の方針は一変する。袁の後を襲った黎元洪大総統を暗助し、黎に南北統一をやらせ、全体に日本寄りの政治体制をつくる。それが計画になる。「奉天派」も「旅順派」もお払い箱。しかしパプチャップ蒙古騎兵隊三千騎は南下を始める。予定の計画に従えば、大連や安東県に配置した「満州特殊部隊」が一斉に放棄してよい頃であったが、日本政府の方針変更で解散を命じられた。
以上のように第二次大隈内閣の対支政策は、北京政府を支持したかと思えば南方革命軍を援助し、独立運動を扇動する一方で張作霖を暗助するというように、全く統一を欠き、政策の変転もきわまりない有様となった。大隈内閣が中国に残したものは猛烈な抗日・排日の感情だった。対華二十一か条の前後は、学生・知識人などの反抗だったが、やがて反日感情は民衆の間に浸透していった。西原亀三は「ついに侵略の牙をむいた日本に対する支那人の憤激、日本人に対する憎悪、それによって巻き起こった排日・排貨の旋風は、京城あたりでも感知された。・・・長春や奉天で、日本製の帽子を地に投げつけたり踏みにじったりして、排日救国を怒号している、支那人の眼は、日本人に対する憎悪に燃えていた」と「夢の七十余年」で記している。満鉄の社員もこの反日の熱風に吹きさらされる。大連埠頭に積んだ大豆の袋がひんぴんと放火され、所長はいや気がさしてやめている。大隈内閣の対支政策は、民衆の間に鬱積した感情に触れず、もっぱら軍と大陸浪人の計略に委ねるところが多かった、と草柳氏。