日本の戦後経済史

2021年03月29日 | 歴史を尋ねる

 戦後の日本経済の飛躍的発展は、その後の失われた20年を経験し、且つ中国の台頭もあり、その用語が大分陳腐化された趣きがあるが、でもその発展経緯は是非とも押さえておきたい。戦後の混乱からその萌芽をつまみ出そうと考えているのが吉田政権の経済運営であるが、どうもこの辺についてうまく解説してくれる著書も少ないので、前もって整理して置きたい。その上で吉田政権がどんな役割を果たしたのか、位置づけたい。

 「終戦後史1945-1955」の著者井上寿一氏は中公文庫版吉田茂著「回想十年」の解説者でもある。その著書で「自由経済の展開」項建てして、片山・芦田内閣の統制経済から第二次吉田内閣の自由経済への転換を解説している。しかし、当事者の言葉は正当化されているので割り引いて考えなくてはならないとの配慮からか、第三者(反吉田の元経済安定本部の稲葉秀三)の言葉引いて、経済再建構想を解説する。そうすると、吉田がなぜ自由経済をめざしたかコアな部分が捨象され、吉田は自由経済主義者だったからだという中身のない解説になる。従って井上氏の解説をとらないこととする。
 「戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点」の著書高橋洋一氏は小泉政権時代、経済財政諮問会議特命室、首相官邸参事官を歴任、経済財政の現場を歩いた人である。経済の歩みを正しく知らねば、未来は見通せないと主張し、戦後の奇跡の成長を振り返っている。高橋氏の主張を単純化すれば、高度経済成長は1ドル=360円の楽勝レートが成長の最大の要因、日本復興の最大の原動力は、政策ではなく朝鮮特需、という柱に要約される。結果的な現象面はそうとも言えるが、極めて大括りな結果分析ではないか。もう少し、起承転結があってもいい。それが歴史の重みであり積み上げだと思う。ただ「奇跡の成長の出発点に見るウソの数々」という項建てで戦後経済の常識を正しているので、これは参考にしたい。1、どうして日本は敗戦直後の廃墟から立ち上がれたのか:(戦後経済の常識)GHQが農地改革、財閥解体と集中排除、労働民主化などの経済民主化を行ったことが成長の基盤、悪性インフレの最大の要因である生産の絶対的不足に手を打つために傾斜生産方式が取られたのも効果的であった。けれど復金債の発行などがインフレ体質を強め、政府の補助金や海外からの援助に頼り切った脆弱な経済体質になってしまった。トルーマン大統領の求めに応じて、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが来日、ドッジの提言に基づき超緊縮予算、復金債の停止、自由競争の促進などの経済安定策が推進され、インフレは収まったものの安定恐慌の様相を呈したが、朝鮮戦争の特需で日本経済は息を吹き返す。 2,教科書にも出てくる傾斜生産方式はまるで効果がなかった:1947年の後半、生産が回復したのはアメリカからの重油の緊急輸入と1948年のエロア資金による原材料輸入によって生産が拡大した。傾斜生産方式はアメリカからの援助引出しに効果があった。 3、戦災に遭っても日本の工場はかなり生き残っていた:米軍は軍需工場の所在地を調べ上げて徹底的に破壊した。転用された民生用工場の中には、爆撃を免れたケースも沢山あった。政府の対米交渉で物資の輸入に成功したので、日本の産業全体が発展した。 4、復金債のお金のばらまきは悪性インフレの主因ではない:戦後の復興に必要だったのは原材料の輸入と資金の供給。政府は復興金融金庫をつくって復金債を発行、日銀引き受けで大量の資金が市場に投入され企業はドンドン設備投資した。日本には金融政策で広くお金をばらまくことは悪いことだと考える人が沢山いた。戦後の悪性インフレと呼ばれるインフレーションが起った最大の要因は、金余りではなく供給不足だった。 5、政策金融が呼び水となるカウベル効果が起った実例はない:復興金融金庫は1952年日本開発銀行に吸収され、その後は日本政策投資会社へと変わったが、民間金融機関の方が目利き能力があった。安い金利は民間圧迫ともなる。日本輸出入銀行は一定の役割を果たした。しかし民間金融機関の海外支店が充実して来るにつれ、その役割は減って来た。  6,政府の成長戦略に期待するのも、間違った認識から:政府の産業政策が間違いなく効くのは、産業のゆりかご期から幼少期。日本は戦前からすでに産業のインフラが整っており、かなり高度な産業が発展していた。戦後の日本企業は一部の許認可企業を除いて、通産省の指導など全く関係なく成長を遂げた。 7、戦後の「封鎖預金+財産税」は財政再建には意味がなかった:当時の預金封鎖は猛烈なインフレ対策として強制的に貨幣の流通速度を下げるためと言われた。しかし本当の目的は債務償還のために裕福層に財産税を課すことだった。だが、この間の猛烈なインフレによって、財産税の徴収よりインフレによる増収の方が大きかった。実質的な資産の目減りを経済学ではインフレ税と言い、インフレは政府債務の実質的な削減となる。戦後のインフレの原因は、生産設備や原材料の不足による供給不足だから、それを増やす政策を打てばインフレ率は収まる。 8,GHQの改革がなくとも、日本は戦前から資本主義大国であった:戦後の日本経済はアメリカの占領政策によって資本主義が根付いて、経済が生まれ変わったかのように誤解している人がいる。むしろ、資本主義の土壌があったうえに、アメリカの占領政策が加わって、戦後の経済発展の基盤が整ったと見るべき。当時は経済的規制はほとんどなく、日本は貧富の格差が非常に大きい国だった。ところが戦争が近づき戦時体制に移行し、経済は統制経済に変わった。民間企業は戦争中だったので我慢した。統制経済の日本をGHQが民主化したというのは、余りに近視眼的な見方、敗戦によって統制経済から元の資本主義経済にもどされた、と見るのが素直な見方である。  9、資本主義が前提の日本では、労働三法でバランスがとれた:戦後のGHQの民主化政策の中で、労働三法(労働基準法、労働関係調整法、労働組合法)が制定され、労働基準権が確立され、労働組合を結成できるようになった。労働者の権利意識が高まって労働争議がたくさん起こり、社会主義に転換するかもしれない、きわどい状況も生じた。しかし労働者の基本的な権利を守らないと民主主義にはならない。資本主義体制を前提とした労働の民主化は、社会のバランスをとる上で必要なもの、経済成長するに従って、多くの企業では労使協調路線となり、運命共同体となった。 10、財閥解体も集中排除も完全に骨抜きにした民間の知恵:GHQは財閥が軍国主義の温床であったとして、三井、三菱、住友、安田などを対象に財閥解体命令を出した。独占禁止法や過度経済力集中排除法なども制定し、市場競争を促進する政策を導入した。しかし日本はそこをうまく切り抜けた。完全にバラバラに解体したわけではなく、緩やかなグループとして温存させた。 11、農地改革は購買力を増やしたのではなく、共産化を防いだ:農民層の窮乏が日本の対外侵略の重要な動機になったとGHQは考えて改革を求めた。日本で農地改革を進めたのは、第一次吉田内閣で農林相を努め、片山政権で経済安定本部総務長官だった和田博雄だった。戦前和田は治安維持法違反容疑で逮捕された。そんな和田たちが推進した農地改革によって・地主層が大幅に増えた。農民たちは格安の値段で土地を買って地主になり、経済的にも余裕が生まれた。和田自身は日本が社会主義化することを望んでいたかもしれないが、結果として自作農を増やし社会主義化を防ぐ一因になると共に、自民党の根強い支持層になっていった。 12、ドッジ・ラインの金融引き締めが深刻な不況を招いた:終戦直後は生産能力が極めて限定されるから、そこに資金を大量に投入すれば一時的にインフレに陥る。昭和23年の日本経済はアメリカからの物資輸入で生産管理が整いつつあった。生産設備が回復すれば、供給が増えてインフレは沈静化する。しかし、GHQと日本政府はそれを待ちきれず、金融引き締めに走った。これによってインフレは収まったが、一転して深刻なデフレが起った。その結果、多くの中小企業が倒産し、失業者が溢れた。インフレ要因を見誤ってマネー要因と考えてしまうと、投資資金まで市場から回収してしまう。日本は深刻な不況に陥った。 13、日本復興の最大の原動力は、政策ではなく朝鮮特需:ドッジ・ラインをきっかけにした大不況で社会主義化しかねないところ、朝鮮戦争勃発で経済的には特需が起って好景気になり、政治的にはGHQによるレッド・パージが始まって、共産主義者が追放された。GHQが展開した経済安定9原則による緊縮財政や金融引き締めは深刻な経済復興につながらなかった。日本経済を復興させたのは、政府の統制や指導ではなく、朝鮮特需という外的要因だった。

 高橋洋一氏の著書からの引用が長くなったが、戦後経済史の常識を覆す見方を提示している。これは近年の経済運営から得た知見に依るものと思われる。たしかに金融引締めによるインフレからデフレに陥った景気を転換させたのは直接的には朝鮮特需であるが、もう少し内在的なものがあったのではないか、吉田第三次政権は経済自由化に舵を切った、国際経済とのつながりを考えて単一為替レートを模索していた。この辺を、吉田茂著「回想10年」でさらに追いかけていきたい。
 その前に、もう一冊1950年に発行された高橋亀吉の著書「戦後日本経済躍進の根本要因」を調べておきたい。高橋は本当に真正面から物事を分析する。「戦後経済の飛躍的発展は、昭和45~46年時に減速に転じ、48年以降の石油異変に直面して日本経済の成長率は5~7%に低下。これが日本経済に対し何を意味し、如何なる問題と対策を必要とするかが緊急課題だが、これに応えるためには、45年当時までの日本経済の飛躍的発展に原因、要因を新事態に対照してのみ、確実に掴むことが出来る」と序文に記す。そのスタンスは高橋洋一の考え方と同一である。しかし著作への動機は最初別にあった。敗戦直後の日本経済は第三流国家への復帰も難しいとされた弱体経済が、わずか四半世紀にして先進西欧諸国を凌駕し自由世界第二位の経済大国にまで急発展した。その基因は何か。この課題に対して問題意識を大きく盛り上げたのが欧米諸国の識者の著作だった。しかし改めてこれらの著作を精読してみると、飛躍的発展の基因は、大部分、彼等の国にない、日本独自の諸要因の重視であった。しかし高橋から見ると、外人の重視している諸点は、実は戦前からすでに日本に存在している歴史的産物である。にもかかわらず、戦後の日本が達成し得たような、世界の経済大国へは、戦前には不可能であった。では、戦後の日本経済に新たに付加された基因は一体何か、その研究が当初の動機であった、と。参考までに昭和42年発表されたロンドン・エコノミスト誌の「日本は登った」の特集記事から要因を記す。①日本は欧米流の自由経済体制ではなく、巧みに操作された計画経済である。②教育が高度に普及していて、労働者の高度の新技術に対する適応能力が高く、終身雇用制、年功加俸制の下に企業一家的に組織化されている。③労働力の、新興重化学工業への動員と移動とに成功している。④日本人は集団的忠誠思想を持っていて、目的達成への協力性が高い。⑤優秀な官僚の下に、官民一体となって、政府は経済の計画的達成を指導する機能を演じている。⑥経営者は利潤追求を二の次にして旺盛な企業意欲の下に果敢な投資をしている。⑦独特な銀行、信用制度の下に、巨大な企業資金が調達されている、と。
 以上はエコノミスト誌を代表させたが、高橋から見ると戦前から長く日本に存在していたが、戦前の日本経済は軽工業段階にとどまり、重化学工業そのものは世界の二流、三流にとどまり、その地位以上に脱出する可能性が殆どなかった。ところが戦後の飛躍的発展は、戦前では発達が制約されていた重化学工業が、俄然、世界の一流中の一流にまで発達し得るに至ったことが、その要因であると亀吉は分析する。戦前の日本に欠けていた重化学工業発達の要因が、戦後新たに登場することが、その基因である、と。日本経済は戦前においてある程度までの重工業の発達を成し遂げていた。しかしそれは軍事的立場からの強度の保護政策下にあって、国際競争力は極めて貧弱であり、重工業の発達は軍事関係以外は、著しく限られていた。昭和10年の工業生産総額中、軽工業は48.9%、化学工業20.7%、重工業は30.6%だった。戦後の飛躍的発展は、戦前の軽工業中心経済の殻を破って、重化学工業段階に大きく進展した為だったが、昭和30年代以前には、コスト高のためその発展は制約されていた。昭和28年度の経済白書ではコスト高の原因として①原材料の割高、②労働生産性の低さ(国際的比較で設備の陳腐化の程度が、今後新たに輸出産業として育成しなければならない機械や金属或いは化学において著しいことが問題である、さらに高金利があると白書)。 こうした不利な点が、昭和30年代に入り急速に改善され、日本経済の発達分野は新たに大きく拡大され、飛躍的発展につながった、と亀吉。①鉄鋼価格が戦前欧米より20%内外高価であったが、昭和30年代後半以降、逆の欧米より低廉となった。このことは鉄鋼を素材とする機械器具、造船、自動車の発達を有利にしている。②重工業がある点以上に発達すると、各産業の用途にそれぞれ最適の鉄鋼資材、機械設備等を簡便に供給できると、経済の発達を加速させた。以上諸々の結果、これまで設備投資を大きく圧迫していた国際収支の赤字は、重工業品の輸入代替化、次いで輸出化によって黒字常態に一転した。さらに付加価値の大きい重化学の発達によって国民所得は著増した。それは資本蓄積を増大し、国民購買力を増加させて、量産型大規模工業の発達を促進させた。これが高橋亀吉が言う飛躍的発展のプロセスである。

 第一次吉田内閣執行中の時期であるが、石橋蔵相が体を張って総司令部と折衝し経済の復興を成し遂げようとしている時、吉田は「財政や金融の技術的な一々の施策のことはともかくとして、何かしら全体としての経済の動きが、私が本来考えているのとは違った方向に向いているように思えてならなかった」と当時を振り返って述懐している。何気ない言葉であるが、これが政治家の勘というものではないか。それが第二次吉田内閣を組閣する時、もう少し具体化してくる。「当時はインフレーションを如何に抑えるか、換言すれば、物価と賃金の悪循環を断ち切り、経済の安定と再建とを如何にして進めていくか、ということが最大の関心事であった。そして経済安定本部を中心とする傾斜生産方式や、経済統制の励行ということが、ある意味では一応成功した如く見えた。しかし別の立場から考えれば、本を正さないで末ばかりを抑えるといったような感がないでもなかった」 そして吉田は党内外の人を通じて耳に入ってきた中に、「当時はまだ商品によって区々だった為替レートの一本化を目標として、国内物価の調整安定と企業の合理化を図りながら、国際経済への結びつきを考えて行かねばならない」という話に、「この経済を国際的な結びつきで見なければいけないということは、多年海外生活をし国際関係になれて来た故もあってか、私には直感的にわかった」と。吉田はさらに考えを進め、「敗戦で領土は失う、蓄積は尽きる、しかも人口はどんどん増えていくというこの日本の経済が、自分だけの枠の中でいかに苦慮してみても、その効果には限度がある。一刻も早く国際経済の中に復帰しなければならない。国際経済に結びつけば、そこに自ら日本の経済の安定が見出せるだろう。統制だとか、助成だとか、小さな枠の中で色々手を尽して経済を安定させようとしても、それではいつまで経っても堂々巡りになる。思い切って国際経済の嵐に日本の経済を当てなくては、本当に立ち直れないのではないか」 このような話を経済学者からも、党の人達とも話し合った、という。

 日本が太平洋戦争で戦っている最中の1944年、米国を中心に戦後世界の国際経済の在り方を検討し、戦争の背景となった保護貿易を解消し、自由貿易を推進する体制としてIMF(国際通貨基金)とGATT(関税と貿易に関する一般協定)を定め、国際復興開発銀行(世界銀行)を設立した。当然ながら、当時の日本はこうした機関に加盟することも出来なかったし、貿易そのものも総司令部の許可なしにすることが出来なかった。この環境下で、吉田内閣がすでに上記のような構想を以て政治に望んでいたことは、特記すべきである。戦前でも上記の考え方はあってもおかしくなかったが、唯一、東洋経済の石橋湛山らが語っていたぐらいか。ただ上記の国際経済体制が出来ていなかったこともあるが。戦後の一時期、日本は貿易立国にならなくてはならないと声が横溢したその淵源は、やはり吉田内閣のこの考え方がスタートではなかったか。

 

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戦後混乱期の財政問題

2021年03月24日 | 歴史を尋ねる

 吉田は言う。図らずも第一次内閣を引受けざるを得なくなったのは、終戦間もない昭和21年5月22日であった。まず手をつけなければならぬことは、東久邇、幣原の戦後内閣に引き続いて、戦争中の後始末をすると同時に、食糧、石炭等の重要必需物資の不足、欠乏に対する対策と、一日も早く財政、経済の安定を図る方針であった。しかも占領軍総司令部の対日管理政策は厳しい時代で、財政、経済方面において、内面指導というか、内政干渉的なことも多かった。財政経済を担当した部門は経済科学局で、局長のマーカット少将はマッカーサー元帥にフィリピン戦以来従ってきた軍人だから、財政経済方面のことは知識も経験も持たない人物だったが、その局員として米本国から送られてきた文官のうち、いわゆるニュー・ディーラーが少なからずいた。本物の社会主義者とまではいわないにしても、一種の統制経済の信奉者であり、人為を以て一国の経済の在り方や動きをどうにでも出来ると考え、彼等が描いた青写真をもとに、平素の持論を日本で実験してみようという野望と熱意に満ちていた。当時の大蔵大臣でさえ週に一回か二回、日を定めて定期的に経済科学局長をはじめ幹部と会見し、指示を受けたり、当方の事情を述べて諒解を得なければならなかった。従って内外に対してしっかりした人物を据えなくてはならない。しっかりした見識を持ち、主義主張を堅持して、頑張りとおす人物、生産の復興が大事であることは勿論だが、インフレーション激化の危険を食い止める人物、そして出来るだけ統制を外すようにしていかねばならぬ。こうして石橋湛山に大蔵大臣を引受けて貰った。この時「この際は生産の復興が第一だ」と石橋は強調していた。

 世間では統制廃止論者でインフレ論者が内閣に入ったと評判が立っていたが、石橋の統制廃止論は、統制の持つ悪い面を出来るだけ切って、素直に生き生きと経済を伸ばしていくべきだという趣旨だった。前内閣時代からの引継ぎの戦時補償打ち切り問題などもやらなくてはならないと考えていた。インフレ問題も世間では第一次大戦後のドイツの場合を例にとって論議していたが、石橋は、まず生産、まず窮乏の打開、それがインフレーション激化を食い止めるもとで、財政や金融は適当にコントロールしていけば、無茶苦茶なことにならないという所説だった。
 当時は新円経済に移ってから漸く三カ月目(昭和21年2月17日、幣原内閣は国民生活安定のための経済緊急対策として、多くに緊急勅令と共に、金融緊急措置令、日本銀行券預入令を発布、実施したが、この措置の要領は、①預貯金の支払を停止してこれを封鎖し、②五円以上の日銀券は3月2日までにすべて金融機関に預入し、それ以後無効とすること、③預入金は個人百円に限り新円と交換し、他は封鎖預金にすること、④封鎖預金の現金引出しは、世帯主三百円、世帯員一人当たり百円に限ること、⑤定期的給与も五百円までは新円払いとするが、それ以上は封鎖支払とする、などを定めた)、戦後の混乱は一向に収拾されず、食糧非常時という言葉が出たくらい、生産は一向に軌道に乗らない、何となく騒然たる時だった。せっかく引締めた日本銀行券も、月が経つにつれどんどん膨らんでいく。何か思い切って戦後の後始末をつけ、新しいレールの上で、新しい経済が滑り出すようにしなければ、新円経済などといっても、元の木阿弥になってしまうというようなことが言われていた。
 組閣して一週間目ぐらいのときに、石橋蔵相が総司令部に呼ばれ、マーカット少将から戦時補償打切りと財産税の案が示されて戻って来た。総司令部の補償打切りの原案は、戦時補償はするけれど、同時に百パーセント課税するという仕組みで、石橋蔵相は反対ではないといった。仮にも政府が保証すると約束した国家の債務を、打ち切るのは出来ないが、それに百パーセントの税金を課することは、実質は打切りも同然で、一応理屈もつく。だが、補償打切りの損害がそのまま銀行に影響を及ぼし、銀行の預金者の預金を切り捨てる結果になるということだった。預金者に迷惑を掛け、銀行を窮地に陥れることとなれば、日本の経済復興は困難になる。それで石橋蔵相の意見では、これを財産税で処理しようというのであった。その他、打ち切りに伴う一般社会の不安を除く意味で、食糧の輸入をやって貰いたい、占領費の負担が無暗に増えるのも何とかして貰いたい、この2点を条件のように付けて回答した。
  補償打切りの問題は石橋蔵相もかなり辛抱強く交渉を重ねたが、遂に7月、総司令部から最後通牒のようなステートメントを突きつけられ、石橋蔵相の考えは容れられかった。ところで戦時補償打切りの問題はいよいよ実行してみると大した支障もなく済んだ。一つは大蔵省が総がかりで研究し対策をとっていたこともあるが、インフレーションの進行で、金額的に経済界の打撃は少なくて済んだ。石橋蔵相は関係法案の提案時、交渉の経過報告をやりながら感極まって涙さえ落としたぐらいの気持ちで取り組んだが、その勢いが災いしたか、後日いわゆるメモランダム・ケースの追放を受けるに至った。

 財産税の考え方は前内閣時代、渋沢大蔵大臣の手元で出来上がっていて、新円切替のときにも財産調査か申告だったかが併せて行われ準備がすすんでいたが、その頃は公債の償還に充てて、戦時中の始末をつけるという話だったが、公債償還などというのは金持ちや資本家を保護することだ、財産から巻き上げた者は社会政策に使うべしという議論もあって、石橋蔵相はこれを一般財源に使うことにした。一般財源に回せば、赤字公債を出したと同じ経済的効果を持つことになり、危険も承知だが、よく注意してやっていけば大した危険や弊害なしに済むという考えだった。
 7月に出した21年度予算案で、歳出の三分の一が終戦処理費(主に米軍駐留経費)で、進駐軍の工事が方々で無統制に行われている、余り勝手気ままな、或いは贅沢な注文は控えてもらう様にしようと、大蔵省や復興院などの関係当局の間にしばしば出た。そして後になって何カ条の申入事項として、正式に司令部に申入れた。総司令部の方も、自粛しようということになり、工事関係の一定金額以上のものは、総司令部の許可を要する扱いになった。石橋蔵相の見込みでは、2割ぐらいの節減になるとの見込みだったが、それでも資金繰りに困って、日銀から立て替え払いをしたこともあった。
 産業の復興には金を出さなければならない、何とかして生産設備を増強しなければならないというのが、当時の考え方の中心だった。そのために石橋蔵相は総司令部と話して、復興金融金庫をつくることにした。預金を封鎖したり、補償打切りをやったりして、企業も銀行も資金の蓄積がなかった。国家が産業に資金を直接供給しなければならない。法律が国会を通過して動き出したのは翌年に入ってからだったが、その前の8月頃から興業銀行に事実上やらせて、石炭や肥料などの資金を出すようにした。

 昭和22年度予算の編成は21年10月ごろから議論されていたが、当時は一日一日がインフレーションの進行だった。米、石炭、賃金、ストライキ、追加予算、ヤミ物価、いろいろな要素が絡み合ってグルグル回り始めた。経済の実力もないし、政府としての権力も弱い、特に労働攻勢の激しかったせいもあったが、何とかして国民が勤勉に、真面目に働き得るような経済の環境を作り出すようにしなければ、共産党の術中にはまって、日本はとんでもない混乱に陥りそうだった。さらに、全体の経済の動きは、吉田が本来考えているのと違った方向に向いているように当時感じた、という。それでも当時精一杯やり得たことは、共産党勢力の指導の下に、必要以上に色々な要求を突き付けては、結局は問題の解決をこじらせて、すぐにストライキだ生産管理だといっては、生産を破壊し、経済を混乱に導くような動きをしていた一部の過激分子に対して、真に国を憂え、國を愛する一般国民の世論の支持を得て、これに対処し、その被害を極力少なくするが出来たことである。(これは二・一ゼネストを乗り越えて、総選挙で共産党を少数党にさせたことを指しているのだろう。だが、総選挙の結果、第一党は社会党に譲り、自民党は10名の差で第2位に落ち、連立政権には入らず吉田自由党は下野した。さらに新憲法下の第一回国会を開く直前に、石橋は公職追放の処分を受けた)

 昭和22年10月、芦田内閣総辞職によって再び吉田は内閣の首班に指名されたが、当時は、いかにしてインフレーションを抑えるか、物価と賃金の悪循環を断ち切り、経済の安定と再建を如何に進めるかが、最大の関心事であった。経済安定本部を中心とする傾斜生産方式や経済統制の励行というようなことが、成功したかに見えた。しかし別の角度から考えれば、本を正さないで末ばかりを抑えるといったような感がないでもなかった、と吉田は言う。ふーむ、吉田が第一次政権のとき、経済が違った方向に向いていると感じたのはこのことだったのか。先にも触れたが、為替レートを一本化して、国際経済との結びつきを考えて行かねばならない、吉田は直感的に分かった、と述懐している。国際経済に結び付けば、そこに日本経済の安定が見いだせるだろう、統制とか助成だとか、小さい枠で安定させようとしても、それではいつまで経っても堂々巡りになる。思い切って国際経済の風に日本の経済を当てなくては、本当に立ち直れないのではないか。当時の慶応大学永田清教授や他の経済学者からも聞いたし、党の人達との話し合った、と。

 第二次吉田内閣については記述済みなので、結論だけを記しておきたい。吉田は第二次内閣組閣早々、政府職員の給与改定問題を引き継いだ。賃上げが5300円か6300円か決断を迫られたとき、最終的にマッカーサー元帥の下で民政局長と経済科学局長を挟んで、6300円に決まったが、賃金についての総司令部の考え方(賃金三原則:賃上げの財源として、赤字融資、公価改定、政府補給金支出のいずれも行うべきでない)が、明らかにされ、企業がややもすると、その自主性と経済性を失っていると感じていたから、良い機会となった。激しいインフレーションの余勢がつづいており、極端にいえば、物価がどこまで上がるか分からない不安な時代に、賃金と物価との悪循環の弊を断ち切る契機となった。続いて12月18日、経済安定九原則が指令された。前書きの文句は、常日頃吉田たちが考えていたところであり、結びの文句「以上の計画(9原則)は単一為替レートの設定を早期に実現させる途を開くためには是非とも実施されねばならぬものである」となっているのも、政府としては同感であった。ただ、9項目の中に統制の強化に関するものがあったのは意外であったとも言っている。9原則について、予算委員会で統制の問題については、米国の考えで、ニュー・ディール式の統制を日本に試みることは再検討の必要があること、今での統制一点張りではなく、過渡的に統制を残すとしても、いずれは撤廃の方向に持っていくものと率直に答弁している。吉田の想いは日本の闇市場が却って弊害をもたらしているという事例、食糧問題調査団が来て日本の統制の実情を目の当たりにして、日本の統制経済の励行が如何に困難か見て帰っている事例も念頭にあった。
 12月に入って閣議で九原則に対する政府としての具体的方針を決めた。それは今まで考えていたことを、その機会にまとめたようなもので、単一レートによる国際経済との結びつき、価格差補助金の削減、財政の均衡確保と赤字緒融資の厳禁、企業や政府事業の独立採算制の堅持、統制の簡素化などであった。それから後に引続く経済安定政策への布石が出来上がり、23年を迎え、総選挙となった。

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公職追放とその解除

2021年03月14日 | 歴史を尋ねる

 公職追放、俗にパージと言われたこの制度は、各界の指導層の多くの人々にとり、苦い経験として残っている。昭和21年1月4日、連合国総司令官から、戦争責任者の公職追放に関する指令が発せられた。もともとこれはポツダム宣言中の「日本国国民を欺瞞し、世界征服の挙に出た過誤を犯さしめた者の権力及び勢力を永久に除去すべき」という条項に基づいた。ついで、幣原内閣は2月28日、「就職禁止、退官、退職等に関する件」及び施行令を公布し、追放が実施された。連合国側の進駐当時の考えでは、日本は極端な軍国主義的国家であり、専制的警察国家であって、自由主義・民主主義の思想を圧迫し、国民を侵略戦争に駆り立てたから、その指導者の影響力を根こそぎ断ってしまって、国民を解放しようとした。この追放制度は、日本民主化政策の一つで、財閥解体とか戦犯処罰などとともに、敗戦国の指導者層に対する懲罰的な意味を持っていた。結果論から言えば、占領当局者にとっては気の引ける、後味の悪い政策であったし、日本人からも、追放、パージということが、制度として大規模に行われたには初めての経験だったし、共産主義国家の場合を除いて、世界の歴史においても、余り例を聞かぬ、と吉田は振り返る。
 従来日本社会の第一線に立っていた者が、みんながみんな、連合国側のいう軍国主義者や極端な国家主義者だったわけではなく、自由主義者、議会主義者も沢山いた。ただ一時、軍閥やそれに追随する軍国主義者たちが、日本の国家なり社会なりに支配的暴威を振るうに任せたけれど、これは必ずしも日本の社会、国家の本態ではなかった。明治以来相当長い期間に亙って、日本の社会制度、国家機構の根本思想は、自由主義的、民権主義的にも、かなり進歩していたことは、歴史に徴しても明らかである、と。当時吉田は総司令部の人とたびたび論じ合ったが、先方にとっては、日本はひどい軍国主義的国家であり、警察国家であって、自由主義、民主主義の思想は、軍閥以外の指導層にも全く失われていたという考え方が、先入観として植え付けられていたので、こちらの言うことなど聞き入れようとはしなかった、と。それどころか、時が経つにつれて、だんだん行き過ぎてしまって、玉も石も混同した制度の結果となった。

 最初の追放されたものを見ると、中央の政界、官界の上層部に限られ、その数も割合少なかった。ところがワシントンの極東委員会のメンバー、特にソ連側に、総司令部のやり方が手ぬるいという不満が強く、苦情が出た。そのせいか、総司令部民政局の追放関係担当者が、しきりに被追放者の人数が少ない、特にドイツに比べて少ないという点を問題にするようになった。しかし日本の場合、ドイツのナチのように、全国的な組織と同志的結合が政治を独裁的に支配していたのとは異なっていたから、ドイツの例を引いて、人数を考えるのは当を得ていない。吉田はそうした道理を、終戦連絡事務局の担当者に主張させ、吉田も先方にぶつかったが、ダメだった。また、日本の財界に対しても、総司令部の側に、当初から強い先入観があった。大資本家が自己の利益追求のために、軍部や政界を帝国主義的侵略戦争に引きずっていったという、左翼張りの公式論に基づく強い疑念と反感があった。最初戦犯容疑者が拘置された際に、相当多数の財界人が指名された。追放令を経済界へ拡大適用するという課題が、はじめから総司令部にあったに違いない。20年10月19日、吉田が外務大臣に就任した直後の記者会見で、日本の財閥が侵略戦争の原動力の一つであるから追放や解体すべきとの記者の質問に、「日本の今日までの経済機構は、三井、三菱その他の旧財閥によって樹立された。日本国民の繁栄は、これら財閥の努力に俟つものがものが多かった。これらの旧財閥を解体することが、果たして国民の利益であるか疑問である。各財閥はいつでも私利私欲からのみで仕事をしたのではない。戦時中などは、自己の損失において傘下の各産業の経営を続けた。政府がこれら財閥の損失を無視して、船や飛行機の製造を命令したからだ。軍閥と提携して巨利を博したのは、むしろ新興財閥である。軍閥は旧財閥が満州などの占領地で活動することを禁じて、新興財閥に特権を与えていた。旧財閥は平和時に、その財産を築き上げたのであって、終戦を最も喜んだのは彼等である」と答えた。当時、余りにも率直に財閥擁護論を述べたので、ソ連をはじめ連合国側でも相当問題視し、第一次吉田内閣を組織した時も、同様な質問を外国新聞記者団から受けたので、今でも正しいと信じていると答えた。吉田らしい対応の仕方である。

 言論界の追放問題については、当時総司令部も戦前、戦中の新聞、雑誌、書籍などの記事の調査に力を入れていたが、日本側のいわゆる進歩的分子、それも共産党と密接な関係のある人々が、言論界方面の指導者層の清掃を総司令部当局に対して強く進言しており、また総司令部民政局の追放担当者の中に、特にこれらの人々と密接な連絡をとっていたのもあって、それらの意見を民政局上層部にかなり強く反映させた。この追放令の分野にとどまらず、日本の民主化という改革実施局面において、共産主義者、その同調者、あるいは急増の左派オポチュニスト達は、進歩的民主主義者という仮面の下に、総司令部民政局に盛んに出入りして働きかけており、他方当時のアメリカ当局が日本の実情なり共産党ないし共産主義運動の実体なりに対して無知であったという事実と相俟って、一種の偏見にも近い既成観念を総司令部当局に植え付けた。
  追放令の拡大が実行されたのは昭和21年9月、総司令部民政局から非公式メモが手交され、総司令部は追放令を財界、言論界および地方レベルに拡大する方針であること、ついては日本政府側で一案を作成して提出せよというのであった。当時の実情は、政界では第一次の追放の実施によって、財界では財閥解体や独占排除などによって、言論界では急進的労働組合の強い圧力によって、すでに相当深刻な不安と混乱とを引き起こしていた。追放令の本旨が、戦争責任者の排除にあるべきということからいって、このような大拡大には、日本政府として承服し兼ねる所以のものについて、強く陳情をしたが、どうしても民政局が承知しない。ついには吉田首相からマッカーサー元帥に対して手紙で訴えたりして、原案が纏まらない日を重ねているうちに、民政局の意図している全貌が明らかにされた。民政局が提示したのは、地方への拡大と経済界への適用であって、言論界については持ち越された。地方レベルでは、支那事変勃発から終戦までの期間の地方行政関係の末端に至るまで、長にあったものを追放しようとするものだった。県知事、市長、町長、村長および町内会長までが含まれていた。県知事は最初の追放令で大半が追放されていたが、単に問題の時期にその職にあったというだけの理由で、戦争責任を追及されるというのは、実情にあたらず、納得が出来ない。戦後における地方民主化という立場から、新しい指導者を選択させるためというなら、追放とは別の措置を講ずべき。戦争責任などと言う追及は、追放の本旨に全く副わないばかりか、国民の多くはこれを怨嗟し、地方の混乱を増すばかりだというのが日本政府側の考えであった。日本側の態度が強いことを意識して、後で町内会長は追放の範囲からひっこめた。

 経済界への追放の拡大を意図する民政局の当初の腹案は、極めて広範囲の適用を考えていたもので、その財界に及ぼすであろう影響は深刻なものであった。財界の戦争責任を強く見た考え方は総司令部に止まらず、ソ連その他の連合国によって支持されていた。さらに深く調べると、総司令部に内において、特別重要な役割を演じたのは、経済関係の専任担当官であったピッソンとハドレーという婦人の二人だった。ピッソン氏は以前日本にいたこともあり、かなり熱心なニュー・ディール思想の持ち主で、相当革新的な考え、むしろ社会主義的な考えの様だった。ハドレー氏も以前日本にいたこともあり、特に日本の財界の研究者として知られていた。そして日本の侵略戦争と財閥の役割について特別の関心をもって、日本の民主化、平和化のためには、財閥を徹底的に解体する必要があるというのが持論だった。この二人の手によって総司令部に側の経済関係追放の腹案が示されたのは21年12月初めだった。対象会社:①資本金一億円以上の会社、 ②生産品が市場の10%以上を支配するもの、 ③軍需工業その他侵略戦争を援ける悪質な経済活動を行った企業、 ④植民地及び占領地の開発に従事した主な企業、 ⑤資本金の如何に拘わらず大きな経済的支配力をもった会社。 以上の基準によって補足された会社の数は240~250社。これらの会社に問題の期間中に在職していた取締役及び監査役は、常勤、非常勤たるとを問わず、一律に追放となる。これでは、日本の経済力の中枢にあった会社は殆ど網羅され、これらの会社で役員だった者は殆ど全部追放に該当するという重大事態に直面した。日本政府としては到底吞むわけにはいかないから、民政局に直接折衝したのは勿論、当時日本の経済再建に大きく目を向ける必要を感じていた経済局をはじめ、緩和を図るためあらゆる努力を傾けた。日本側の努力にも拘らず、結局中枢的な企業は大体網羅され、日本側に主張は殆ど認められなかった。拡張追放令の発布の期限に平取締役だけでも除外して貰いたいと必死の努力を傾け、さすがに民政局側も根負けしたというか、修正要望にマッカーサー元帥の承認を得るのに成功した。

 言論界の追放にはいろいろ複雑な背景が絡んでいた。日本を戦争に駆り立てた世論形成について役割を演じたものは、個人であろうと、言論機関の役員であろうと、その責任を追及するというのが総司令部側の既定方針であった。しかしその基準をどの程度までもっていくか最初は決まっていなかった。その後極めて念入りな、広汎な総司令部側の腹案が出たのは、三つの要素が作用した。第一は言論機関を乗っ取ろうとする左翼人の総司令部当局に対する執拗な働きかけ、第二は総司令部内における、これと呼応した人々の存在、第三はこの基準を利用して、特定の人物を追放しようとする民政側の意図であった、と吉田は分析する。民政局側が日本政府に命じたことは、支那事変の勃発から開戦に至る期間における一切の新聞、雑誌、映画、定期刊行物、放送原稿などを入念に調査し、その期間に会社、団体等で軍国主義、極端なる国家主義、侵略戦争を唱道し、支持したものが何件あるかを調査して提出せよという要求だった。この間に於いて先ず特別調査を命じられたのは、当時大蔵大臣だった石橋湛山が主宰した東洋経済新報とダイヤモンドだった。東洋経済新報などは当時の情勢としてもよくこれだけの反対の論文が掲載できたと思われるものが多々あり、委員会も東洋経済新報は該当しないと結論を出したが、民政局が承知しない。これは石橋蔵相を追放しようと狙っていたから新報そのものが追放に該当するような基準を示してきた。一度でも追放に該当する記事が掲載されればいけないとの基準を示し、殆ど全部の新聞、雑誌が該当することになった。該当する企業、団体の部長級迄追放の基準が示され、これでは壊滅的となるため幾度も折衝が続けられ、部長級は免除され、さらに範囲の縮小にも成功した。
 こうして総司令部の指令に端を発して、勅令が制定され、審査が実施されて、昭和23年5月をもって、約20万人の追放が決定され、終始符が打たれた。

 公職追放にはその後があることはあまり知られていない。追放解除の話である。総司令部の追放が進行中も解除の制度がなかったわけではなく、22年3月(第一次吉田内閣時代)、公職資格訴願審査委員会が設置され、追放を受けた者で、その決定に誤りがあると考え、且つこの証拠を挙げることが出来れば、この委員会に訴願し再審査してもらえた。このとき千余件の訴願を受け百五十件ほど解除された。第二次吉田内閣成立直後第二次の訴願委員会設置を元帥から許してもらった。しかし事務当局は厳しく望んだが、再度吉田はマッカーサー元帥へ直接書簡を送って訴えたところ、特免申請三万二千余件のうち一万余名に上る多数の解除者が決定された。続いて26年6月公職資格審査会が設けられ、11月に廃止されるまで、17万7千余名の追放指定の取消しを行ったし、その後公職資格訴願審査会が出来て、9千余名が追放解除された。そして昭和27年4月28日、サンフランシスコ平和会議が発効し、これに伴って公職追放関係の法令すべてが廃止され、これで追放に関する問題の一切が結末を告げた。

 

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労働保護立法とその功罪

2021年03月08日 | 歴史を尋ねる

 労働保護の立法及びその実施は、財閥解体、公職追放、農地制度改革などと並んで、占領期の画期的な改革の一つだった。連合国は当初から、労働者の解放を以って、農民の解放と共に、日本の民主化の最も重要な目標としていた。しかしその後の実績に徴して、占領改革の行き過ぎはその労働政策において最も甚だしく、十年余の歳月を経た今日でもその禍根を取り除かれたとは言い難い、吉田茂はその著書「回想十年」でいう。「もういちど読む 山川 日本戦後史」の著者老川慶喜氏は、その改革の経緯と組合活動の活発化には触れるが、その後の経緯については触れず、行き過ぎと言われるものに対しての評価は避けている。
 終戦直後の労働情勢を吉田は次のような認識だった。飢餓とインフレーションによる労働者階級の生活苦、新たに解放された共産勢力の策動、これに対する占領当局の介入などが交錯して、事態を一段と混乱させ、かつ困難なものにした。しかしその間に生じた各般の悪弊は、その後、法制上や労働慣行において、いろいろ改善努力が払われたにも拘らず、根強い生命力を持ち、これを全く排除するには、極めて困難な性質のものとなった。今から顧みても、当時の社会情勢は正に革命的な様相を呈していた。終戦の年の10月、早くも読売新聞社に経営の民主化を名目に初めて生産管理戦術が取られ、新聞は共産主義者に指導される争議団に占領され、翌年2月には北海道美唄炭鉱において、連続数十時間に亙り、管理者に対する人民裁判めいた詰問が行われるなど、ストライキは勿論、座り込み、デモ、暴行、脅迫、監禁等の不法行為は、日常茶飯事の如き感があった。吉田第一次内閣などは、全く赤旗の包囲の裡で組織された。左翼勢力は21年1月に開催された「野坂参三帰国歓迎国民大会」を契機として、いわゆる人民戦線統一の気運が高まり、2月には共産党細胞の主導権の下に全国産業別労働組合会議(産別)の準備会、22年8月の結成大会により、参加組合員数160万人を以って正式に発足し、その後の労働運動を引きずりまわした。これに対し戦前の労働運動指導者を中心とする日本労働組合総同盟も相前後して発足したが、組合員85万人で、産別に対してその勢力は劣弱であった。他方経営者側の対抗態勢は、旧来の指導者の相続く追放などの事情もあり、著しい立ち遅れを示し、労働問題を専管する経営者団体である日本経営者団体連盟(日経連)の発足したのは、漸く昭和23年4月であった。
 戦後の労働情勢の中で、早くも21年5月、ちょうど吉田が第一次組閣の苦心をしている最中、総司令官マッカーサー元帥は「一部の規律なき分子による集団的暴力と脅迫を禁止する」警告(共産党の集団暴力について国民に警告し、もし一部分子の自制が不可能であるならば、総司令部としては、必要な対策を余儀なくされる。日本の健全な世論が、総司令部の介入を不必要とすることを切望する)を発し、直後に成立した第一次吉田内閣が6月、食糧危機突破声明と共に、「社会秩序保持に関する声明」(当時争議手段としてしばしば採られた生産管理という特殊な形態に対して、政府の見解と態度を明確化した。国民経済再建の必要上、やむを得ない場合には、適宜の措置をとる。そのためには経営者側及び労働者側の代表者で構成する経営協議会などを各企業に設け、争議を必要としないような措置を整えておくことが望ましい)を発した。

 戦後の労働政策の出発点は、20年10月11日「改革要請に関する日本政府への指示」というマッカーサー元帥から幣原首相に対して発せられたものだった。その中で、「労働者の搾取と酷使から防衛し、かつその生活水準を向上させるために、有効なる発言が出来るような権威を持つ労働組合を促進助長すべきこと」を指示された。吉田の考えでは、労働立法などは、終戦直後の前途に見通しも殆ど困難な混乱期になされるべきではないとの考えだったが、占領軍という絶対的権力によって、しかも占領初期の強硬方針によって、労働三法が相次いで制定された。幣原内閣は、官庁、学識経験者、事業主、労働者、貴衆両院各代表よりなる労働法制審議会を設け、答申を基礎として法案を決定、国会審議を経て、3月21日労働組合法は22年3月1にから施行された。当時、労働組合運動が現実にどう進展していくのか殆ど見通しがつかず、論議は戦前における組合運動の体験を前提とする資料が中心となり、かつ占領軍当局の意向を斟酌しながら立案した。基本的態度は、労働組合は当然に健全かつ民主的なものと想定し、その殆どの条項で、政府および使用者側の干渉弾圧の排除に重きを置いた。答申原案には、組合運動につき刑法の適用を全面的に排除するような規定さえ掲げられた。政府はこれを改めようとしたが、正当の業務によってなしたる行為はこれを罰せずという適用が曖昧だったため、その後における過激な労働運動の圧力が、この正当限界を著しく歪めた。従ってこの法律は昭和24年の第三次吉田内閣の手で全面改正となって、暴力否定の意味をさらに一層明確化した。

 労働関係調整法は21年7月、第一次吉田内閣により提案され、10月13日施行の運びとなった。本案も労働法制審議会の答申に基づいて立案されたが、総司令部は終始その背後にあって介入監督を加えた。最後は英文と日本文の間に齟齬がないかまで、関与した。その結果、政府案は答申案をそのまま鵜呑みにせざるを得ず、学校教員の争議権の制限についても、遂に認められるところとならなかった。従って本原案は当初労務法制審議会の委員であった松岡総同盟会長も賛成であったが、共産党の支配する産別会議派労働組合が反対運動を展開するや、総同盟もこれに巻き込まれ、会長は審議会の席上、公人として反対せざるを得ない立場について釈明をした。このことは当時の労働運動界が、一部良識を有する者をも共産勢力の影響下に圧服させたことを意味する、と。
 労働基準法も第一次吉田内閣の手によって、審議会に諮問の上、22年3月に国会に上程され、9月1日から施行された。同法は第一条で「労働条件は労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」と規定し、家事使用人および家内労働者を除く一切の企業及び職業に一般に適用されることとなり、原則的に八時間労働、男女同一賃金を規定した点など、従来の工場法などに比べて、格段の進歩を含んだものであった。当時経営者団体からは、国家再建との関連において、労働能率を無視した労働条件の国際水準までの引上げは、企業を破壊するものであるから、経過規定を設けて、企業への影響を緩和せよという要求があった。敗戦後のわが国にとって、かなり無理なものと政府側も感じていたが、総司令部よりの介入監督があったのは事実だった。

 総司令部の民政局には、理想的な労働法規が出来上がったという自信と、結果的には極左勢力にとかく寛大で、むしろ同情的であった労働組合政治活動容認の態度は、マッカーサー元帥の二・一ゼネスト禁止を契機に早くも転換し出した。二・一ゼネスト直後、総司令部のコーエン労働課長やコンスタンチノー労働関係班長らが転勤を命ぜられたのも、明らかに総司令部の労働政策の転換を意味するものだった。しかし国内労働運動の現実の方向は、少しも総司令部の希望や意図とは一致しなかった。二・一ゼネストの後、総選挙の結果吉田は退陣し、社会党の片山内閣に引き継いだが、新給与基準の話合いは円滑にいかなかった。社会党政権になったら労働争議は沈静化するだろうと吉田は考えていたが、共産主義者にとって、社会党も保守政党もいずれも敵の陣営に属する、労働組合が共産党によって指導される限り、社会党政権であろとも、苛烈な労働争議は一向に静かにならない、と吉田は感じた。事実、片山、芦田両内閣を通じて、殆ど十二カ月に亙る過激にして執拗な争議行為が、特に官公庁関係組合によって繰り返された。総司令部もたまりかねて、突如、マッカーサー最高司令官から、国家公務員法を全面的に改正して公務員の争議を規制するよう、芦田首相宛てに勧告がなされた。芦田内閣から引き継がれた吉田第二次内閣は、国家公務員法の改正と公共企業体労働関係法を国会に提案、会期末一杯に成立させた。組合側からすれば、一度与えられた争議権を後になって奪われたので、納得し難いのも事実だが、不法ストのくり返しは、法律を正面から無視する行為・態度は許しがたい、と吉田は言う。組合法は、成立過程で、原則として、労働者の自覚と良識に信頼して、組合の健全な発展を期待したものだったが、その後の実態を見ると、こうした前提を覆すばかりか、一部に逆の事実さえ窺われた。労働組合が日本経済の再建、日本民主化の促進に好ましいものと成長するには、その前提として、組合が民主主義の線に沿って運営されねばならない。だが現実は、労働組合が、しばしば外部からの潜入分子によって支配されている。義務の方は忘れられて、権利のみが主張される。社会全体のことが疎かにされ、集団的利己主義が幅をきかす。こうしたことが労働組合の名をもって行われる。労働組合自身の正常な発展のためにも、組合が外部の勢力に利用されることなく、組合員自身の判断によって自主的に運用される必要がある。しかし当時の組合の実情は、一部少数の独裁または攪乱に委ねられ、組合員の民主的意向は蹂躙され、独裁主義、英雄主義がこれを支配し、経済の再建を妨害し、さらに経済を破滅に向かわせるものさえあって、日本の民主化促進に逆行し、これを破壊せんとする如き労働争議が発生する有様だった。二・一ゼネストに対するマッカーサー元帥の禁止命令、及び国家公務員の争議禁止に関するマッカーサー書簡などは、こうした事情に対処して発せられた。その後も、一部の労働者の自覚反省にも拘らず、なお不健全な者は執拗に活動を続け、その勢力は一段と暴威を加えた。日本の労働組合運動は、余りに正道を外れていた、と吉田は言う。先に触れたように、西ドイツは復興過程で日本のようなストライキは発生しなかった、東ドイツからの多数の難民が共産主義下の実情を伝え、西独国民は嫌というほど聞かされていたからだ、と西独側から説明があった。こうした事実からも、正道を外れていた、と吉田は言うのだろう。

 吉田はかねてから、占領下において発せられた諸法令を日本政府が自主的に再検討すべきことを総司令部側に要請していた。昭和26年5月、新憲法四周年記念日を迎えるにあたって、連合国最高指揮官リッジウェー大将は声明を発表し、占領管理の緩和の方針を明らかにすると共に、日本政府に対し諸法令の再検討、是正の権限を付与する旨を述べた。日本独立後の事態に即応するという新たな観点から、政府は政令諮問委員会を設け、中央労働委員会会長中山伊知郎を含む各界の学識経験者7名に、これまでの占領下の諸法規の検討を託した。7月委員会は「労働関係法令の改廃に関する意見」を答申した。その内容は、労働関係法令は経済民主化の根幹であるから、その基本原則は今後も確保強化すべきものであるが、過去5年間の経験から見て、日本経済の実情に適しない点は、国際水準を下がらない限り、率直に修正を考えるべきであるとの根本方針の下に、ゼネラル・ストライキに対する措置等につき改正意見が述べられた。政府は更に慎重を期して労使公益三者よりなる労働関係法令審議委員会を設けて審議を求めたが、中心課題について結論が得られなかった。そこで政府は自己責任で立法措置を講ずることにした。これが緊急調整制度だった。この制度は、争議のために国民経済や国民生活に重大な障害をもたらすと思われる場合、総理大臣の権限としてこれを中止を求め、労働委員会に争議の解決を任すことができるというものだった。昭和27年5月、破壊活動防止法案と併行して、労働関係調整法への追加改正案が国会に提案されたが、労働組合及び社会党方面からの猛烈な反対にも拘らず、政府は終始強硬な態度でこれを押し切り、7月末に成立を見た。その年の晩秋に起こった炭鉱争議の最終段階で、組合側が坑内排水作業の放棄、つまり水浸しの危険をもって経営者を脅かす戦術に出た時、この緊急調整権の発動となった。そして、二カ月余に亙る大争議はそれを契機に解決した。こうした事件を動機に、今度は争議行為規制に関する特別立法が行われた。

 この炭鉱争議と前後して、電気事業関係組合の執拗な停電争議を見るに及んで、こうした状態を放置しておくことは、経済復興のためのみならず、国民生活のためにも重大なる損害を与えるとして、断固として規制措置を講ずることを決意した。この政府方針を当時の労働大臣には事前に相談したが、当時の労働組合の事情を知っている事務当局に意見を聞かなかった。聴けば実行を渋ることは察知出来たから。しかし、一度政府の決意が表明された以上、事務当局も張り切って具体的法案の立案に全力を尽くした。国会には「電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律案」の名の下に、スト規制法案が提出された。一回目は審議未了となったが、総選挙後の第5次吉田内閣で、新労働大臣小坂善太郎の所掌の下に特別国会に提案、乱闘一歩手前の事態まで起り、両院の労働委員長を左派社会党の議員によって占められていたため、執拗な引延し策を喫して難航、参議院では審議未了のまま、本会議に引取り、改進党と緑風会の協力でこれを可決し、漸くその成立をみた。その間の政府当局の苦心と努力は並大抵のものではなかった。
 また労働基準法が日本の産業労働界の実情、特に中小企業の実情に沿わない点の多いことは多くの人が首肯するところだった。これこそ日本の特殊事情を知らず、無視して、単なる理想にのみ走った総司令部内のニュー・ディーラー達の行き過ぎの典型的なものであった。当時数十万の適用事業所のうち、92%は従業員百人未満の事業所である。また従業員十人未満の零細事業所が70数%に及んでいるのに、基準法に依る違反件数は、昭和24年、百二十数万件に及んだ。この違反摘発によって、是正が行われたかというと、そのようには見受けられない。問題は中小企業の経済的実態そのものであって、摘発は徒に関係者いじめに堕するのみで、労働者保護上さしたる効果は期待し得なかった。しかし改正については国際的事情も考慮して、慎重なる態度を必要とした。ソーシャル・ダンピングという非難を受けないように注意する必要がある。昭和25年9月、吉田は運用につき改善を加えるよう指示を与えた。当時開催された基準局長会議で、保利茂労働大臣は、「労働基準監督行政の要諦は、単なる警察的な監督でなく、高度の指導性を持つことにある。その衝にあたる監督官は千差万別の事情を持つ各現場の現実を理解し、具体的妥当性のある臨床的措置を講じて、できる限り関係者が得心して法を守り、進んで労働条件の改善に努めるようにすることが必要である」という趣旨の訓示を与え、行政運営の一大転換を断行した。

 一般に、戦後の労働三法の成立までは一般に知られているが、その後の実績に照らした運用の改革は殆ど知られていない。吉田政権が保守反動とのレッテルを付けられていることの経緯は、こんな苦心の後だったのだろう。この経過からの吉田の所感も重要だと思われるので、ここに記しておきたい。
 第一に挙げたいのは、敗戦後の最も艱難なる時期に、共産党及びその同調者の策動が如何に甚だしく、わが国の再建復興に、どれほど妨害となったかという問題だ。彼等に言わしめれば、資本家的復興を阻止したというのだろうが、敗戦後、食うに糧なく、着るに衣なき時代においては、如何なる立場から見ても、国民一致の下に生産復興を第一義とすべきであった。もちろん勤労者の多くは何ら罪はない。もし罪ありとすれば、一部過激分子の跳梁を自ら抑え得なかった点であろう。当時の事態について、二・一ゼネスト禁止の指令と共にマッカーサー総司令官の声明書が詳細かつ雄弁に伝えている。「思うにゼネストに参加しようとする者は、恐らく日本国民の極く少数だろう。つい先ほど日本を戦争に導いたのも少数だった。それと同様の災禍の中へ、今やその少数者によって、大多数の国民が投げこまれようとしている。この際われわれは日本国民をその運命の中に打ち捨てておくか、われわれの乏しい資源を犠牲にしても、食糧その他の生活必需品をどこまでも日本に送るべきかという、誠に不幸な決定をなすべき破目に追い込まれている」と。
 また、共産勢力の策動は、国家再建、経済復興を妨害したと共に、わが国の労働組合運動の正常、堅実なる発達をも歪曲、阻害した点も見逃し得ない。当初は労働組合の保護育成に主眼が置かれて、二・一ゼネストゼネスト禁止以降次第にこれを抑制する方向に転換した。それにはニュー・ディーラー達の行き過ぎの是正とか、日本の産業、特に中小企業の実情への適応とかいうこともあったが、労働組合運動が始めから総司令部の保護育成策に順応して、健全着実な発達の途を辿ることを選んだとするなら、総司令部の弾圧的抑制もなかっただろうし、労働関係法規の改正も、特に行う必要はなかった。少なくとも改正の度合いが余程違った。その点で占領初期の総司令部の甘やかし労働政策の弊を非難したくなるが、その陰に、これに乗じて策動した共産分子と、図に乗り過ぎた軽薄短慮なる労働指導者が妄動を欲しいままにして、労働組合の本来正常なる在り方を逸脱させた罪は、忘れてはならない。

 当時の為政者として、率直にその所感を述べている。なかでも、少数過激なる指導者を、戦前の軍部における少数過激なる軍閥に準えていることが、注意を引く。マッカーサーも同様な趣旨を語っている。

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農地制度改革、改革の先駆と第二次農地制度改革

2021年03月01日 | 歴史を尋ねる

 終戦後における農地制度の改革は、連合国の占領政策としても、また国内問題としても、最も重要なものであった。連合国側の認識は、日本の封建的な土地制度は、日本の経済を歪め、軍国主義の強固な基盤をなしている。地主階級に対しては、軍閥、官僚、財閥と共に、日本民主化の阻害要因と見て、消滅させるべきものと考えていた。また低賃金労働と日本軍の徴兵の供給源である大多数の農民は、奴隷的状態にあると見做し、これを解放して生活を向上させることは、占領当初からの、いや日本進駐前からの、重要目標の一つであった。一方、日本側も国内問題として、遠く大正時代より、自作農創設維持などをテーマに農地問題が採り上げられ、その必要は多くの識者から説かれ、歴代の内閣も、関心を持ってきた。しかも戦時中は食糧確保のために取られた統制措置から、自ずと自作農民尊重の空気が生まれ、寄生的な農地保有といったものは、甚だしく制約をこうむっていた。終戦当時の日本の地主小作の関係は、すでに外国人が想像するものとはかけ離れていた。終戦後においても、食糧確保の必要は必須で、従って農地制度は時代の要請に応じて、改革されるべき運命にあった、と吉田は考えた。実行に移された農地改革は、第一次吉田内閣のとき、総司令部の強い推進の下に立法化されたが、それより前、吉田が外務大臣のとき先駆的計画が、農林大臣松村謙三の下で、自発的に立案されていた。立案の衝に当ったのは、当時の農政局長、第一次吉田内閣に農林大臣として入閣した和田博雄だった。その内容は、従来の物納を金納制に改めるとともに、地主の保有限度を三町歩に抑え、それ以上は小作人に対して強制的に譲渡させるもので、当時としては画期的な改革案であった。閣議で説明されて、吉田は初めて承知した、と正直に述懐している。農地の強制解放は重大だったが、審議の末、原案の三町歩を五町歩に引き揚げる修正で閣議はまとまり、11月23日の新聞に、一斉に発表された。

 農地制度改革に対する当時の総司令部及び対日理事会の態度は、この問題を重大視はしていたが、どの国の歴史を見ても、土地に関する改革は流血騒ぎを伴うほどの深刻な問題で、慎重に構え、迂闊には手を出さぬ風にみえたと吉田は言う。そうしたところ松村構想による第一次農地改革案が現れ、総司令部に対して、具体的構想を示唆すると同時に、当時の世論の反響を通じて、相当に強力な案であることを知らしめた。法案は12月6日衆議院に上程されたが、審議はなかなか進まず、難航した。そうしたところへ、農地改革に関する指令が総司令部から出され、その内容は、審議中の法案と比べてかけ離れたものではなかったが、日本農民の劣悪な生活条件を細かに指摘し、改革を求めたもので、「農民解放指令」というべき厳しい調子のものであった。この指令が出たことによって、議会の空気が一変し、法案は僅少の修正で両院を通過した。この法律は21年2月から発効したが、農地の強制譲渡はこれを不徹底とする総司令部の意向で実施に移されることなく、第二次改革に席を譲り、もう一つの小作料の金納制の方は、実現された。
 指令を発した総司令部は、3月15日の政府の回答期限を目前に、農地改革問題担当者が記者会見を行い、第一次農地改革案に対して、地主の保有限度五町歩は多すぎる、その程度では解放措置の対象から外れる小作地が非常に多くなる、さらに農地解放を確実にするため、地主と小作人との直接交渉を認めず、政府が介入して買収売渡を行えということであった。しかし、当時総司令部の指令で総選挙も確定的、内閣は選挙管理内閣の性格を持っており、とりあえず第一次農地改革案を基本とした案を、回答として総司令部に提出した。最初から小作の全廃を目指していた総司令部側は、この回答で満足するはずもなく、マッカーサー元帥は本問題を対日理事会の討議に付した。農地改革について、米、英、ソ、中の四者の意見が珍しくも一致し、6月、元帥への答申が提示された。ただ小作農に対する売渡面積を平均一町歩に制限せよという項目は、日本農業事情に対する理解不足と思われるが、農業生産に大混乱を起すのは必至で、総司令部に強く申入れした。総司令部もよく理解して、この点は採用しなかった。なお、ソ連代表は小作地の全面開放と大地主からの無償没収を強く主張したが、この主張は通らなかった。その後総司令部と政府との話合いで、農地改革の成案は結論に達したが、これを正式の指令としてではなく、勧告という形で、政府に内示された。農地改革の如き、社会、経済制度の根本にふれ、影響するところ広汎かつ深刻な大事業は、日本人の自主的な考え方に立って実施され、しかも日本国民の衷心から承諾し得るものでなければ成功しないというマッカーサー元帥の深い配慮から、正式指令を避けたのだろうと吉田は推測する。この問題について、総司令部側と日本政府との呼吸が、よく合っていた、と。

 21年4月10日には総選挙(自由党140、進歩党94、社会党92、協同党14、共産党5、諸派38、無所属81)があり、つづいて22日には幣原内閣は総辞職、その後の政権の帰趨を巡って、切迫する食料基金を背景に、社会情勢は騒然としてきた。5月1日のメーデーにつづいて、5月19日の食料メーデーなど示威集会が続き、政界は赤旗の波の中に飲み込まれそうな相貌を呈していた。こういう情勢の中で、吉田の組閣工作は難航し、最後の難関であった農林大臣のポストに和田博雄を迎えて、5月22日に第一次吉田内閣が誕生した。この日に先立つ20日、マッカーサー元帥はついに「多数の暴民によるデモと騒擾に対する警告を発し、事態の鎮静化を図った。この激流の中で発足した新内閣の重要な使命として、前内閣が手を付けた農地改革が受け継がれ、さらに一層の徹底が要請された。一方当時の農村は、都会の物情騒然に比べ、比較的落ち着いており、むしろ都会の赤旗騒ぎに反発すら感じていた。もし当時の保守政党が徹底した農地改革を取り上げる勇断を欠いていたならば、あるいは農民の側から強い不満が沸き起こり、さらに政情不安が醸成されたかも知れなかった。幸い、農林大臣として入閣した和田博雄は前内閣の農政局長で、立案にあたった当人であったばかりか、その後も総司令部との連絡に当たってきた責任者であったから、吉田は安心して和田農相に一任した。

 対日理事会の共同勧告に基づく総司令部からの勧告は、6月末和田農林大臣が吉田代理として受けてきた。直ちに細目を検討、7月26日農地制度改革の徹底に関する措置要綱を閣議決定した、骨子は、不在地主は農地を全部手放させること、平均一町歩、北海道では四町歩を越える小作地の所有は制限される、小作・自作を併せて三町歩以上の土地保有を制限することの三点で、制限以上の土地は政府が強制買収して小作に売り渡す、地主に対する代金は公債を以って支払われることなどだった。法律案は9月7日衆議院に提出され、与党の指示で政府原案が成立した。戦後の農村に革命的一新をもたらした農地改革立法は、保守政党の手で仕上げることが出来た、と吉田。記録によると、農地改革法によって解放された農地は約200万町歩、土地を手放した地主約150万戸、売渡を受けた農家約400万戸の多数にのぼった。その結果、従来46%を占めていた小作地の割合は、10%以下に激減した。大部分の農家は自作農になった。昔のような大地主や不在地主は姿を消した。まさに画期的大改革であったが流血の惨事を見ることなく平和裏に実現したことは、当時の社会情勢を考慮に入れれば、真に驚異に値すると吉田は評価する。

 農地改革の細部について、批評する者に言わしめれば、それ相当に意見もあるかもしれないが、この改革で農民全般の生活水準を向上させたことは確かだ。しかも農村の生活向上と安定が、終戦後の不安、混乱に陥った社会情勢を緩和と安定に向かわせた。と同時に、この大改革の円滑な実施にため、旧地主が払った犠牲を見逃してはならない。地主たちがその不平不満を過激なる社会運動や政治運動に具体化し、農村を不安、混乱をもたらしたら、日本社会はどういう事態になっていたかを思うと、旧地主に対する感謝と敬意を表する、と吉田。農地改革を推進した内外の人のうち、日本の不耕作地主と言えば、すべてが小作人を農奴のように搾取、虐待していたとの認識を以って議論したものがあったが、真相を知らざる人々といわざるを得ない。日本の地主の多数は、欧州諸国のそれらと異なり、征服者として農民に臨むといったものでもなく、むしろ農民を愛撫し、場合によっては農民の味方として、その啓発と保護にあたった。地方や集落の公共的利益に貢献する場合も多々あった、と説明する。たしかに、あまり欧米の尺度で考えない方がいい。頭の中で考える人々は、現在でもその傾向が強い。
 マッカーサー元帥は法案成立の昭和21年10月11日、「健全穏健なる民主主義を打ち立てるため、これより確実なる根拠はあり得ず、また過激なる思想の圧力に対抗するため、これより確実な防衛はあり得ない」と述べ、その社会的、国家的効果を評価している。昭和26年9月4日、サンフランシスコの対日講和会議の開会式において、トルーマン大統領から農地改革に関する賛辞を受けた。その演説の中で、日本民主化の重要な指標として、またアジア全域にとっての貴重な先例として、日本の農地改革の成果を高く評価し、力説してくれた。
 第三次吉田内閣では、講和発効の昭和27年、第十三回国会で、従来の農地改革の諸原則をそのままに、純粋の国内政策として確立する方針を明確にして、これを農地法として提出した。この法案は、結局社会党を含めた圧倒的多数の賛成で成立した。しかし農地改革自体によって、日本の農業問題が解決したというのではない。膨大な農村人口で適正な生活水準を維持するに足る耕地が日本にはない。農地改革の終局の目的は、農業生産力を高め、生活水準を向上させることである。その一歩というべきである、こう吉田は結んでいる。

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