戦後の日本経済の飛躍的発展は、その後の失われた20年を経験し、且つ中国の台頭もあり、その用語が大分陳腐化された趣きがあるが、でもその発展経緯は是非とも押さえておきたい。戦後の混乱からその萌芽をつまみ出そうと考えているのが吉田政権の経済運営であるが、どうもこの辺についてうまく解説してくれる著書も少ないので、前もって整理して置きたい。その上で吉田政権がどんな役割を果たしたのか、位置づけたい。
「終戦後史1945-1955」の著者井上寿一氏は中公文庫版吉田茂著「回想十年」の解説者でもある。その著書で「自由経済の展開」項建てして、片山・芦田内閣の統制経済から第二次吉田内閣の自由経済への転換を解説している。しかし、当事者の言葉は正当化されているので割り引いて考えなくてはならないとの配慮からか、第三者(反吉田の元経済安定本部の稲葉秀三)の言葉引いて、経済再建構想を解説する。そうすると、吉田がなぜ自由経済をめざしたかコアな部分が捨象され、吉田は自由経済主義者だったからだという中身のない解説になる。従って井上氏の解説をとらないこととする。
「戦後経済史は嘘ばかり 日本の未来を読み解く正しい視点」の著書高橋洋一氏は小泉政権時代、経済財政諮問会議特命室、首相官邸参事官を歴任、経済財政の現場を歩いた人である。経済の歩みを正しく知らねば、未来は見通せないと主張し、戦後の奇跡の成長を振り返っている。高橋氏の主張を単純化すれば、高度経済成長は1ドル=360円の楽勝レートが成長の最大の要因、日本復興の最大の原動力は、政策ではなく朝鮮特需、という柱に要約される。結果的な現象面はそうとも言えるが、極めて大括りな結果分析ではないか。もう少し、起承転結があってもいい。それが歴史の重みであり積み上げだと思う。ただ「奇跡の成長の出発点に見るウソの数々」という項建てで戦後経済の常識を正しているので、これは参考にしたい。1、どうして日本は敗戦直後の廃墟から立ち上がれたのか:(戦後経済の常識)GHQが農地改革、財閥解体と集中排除、労働民主化などの経済民主化を行ったことが成長の基盤、悪性インフレの最大の要因である生産の絶対的不足に手を打つために傾斜生産方式が取られたのも効果的であった。けれど復金債の発行などがインフレ体質を強め、政府の補助金や海外からの援助に頼り切った脆弱な経済体質になってしまった。トルーマン大統領の求めに応じて、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが来日、ドッジの提言に基づき超緊縮予算、復金債の停止、自由競争の促進などの経済安定策が推進され、インフレは収まったものの安定恐慌の様相を呈したが、朝鮮戦争の特需で日本経済は息を吹き返す。 2,教科書にも出てくる傾斜生産方式はまるで効果がなかった:1947年の後半、生産が回復したのはアメリカからの重油の緊急輸入と1948年のエロア資金による原材料輸入によって生産が拡大した。傾斜生産方式はアメリカからの援助引出しに効果があった。 3、戦災に遭っても日本の工場はかなり生き残っていた:米軍は軍需工場の所在地を調べ上げて徹底的に破壊した。転用された民生用工場の中には、爆撃を免れたケースも沢山あった。政府の対米交渉で物資の輸入に成功したので、日本の産業全体が発展した。 4、復金債のお金のばらまきは悪性インフレの主因ではない:戦後の復興に必要だったのは原材料の輸入と資金の供給。政府は復興金融金庫をつくって復金債を発行、日銀引き受けで大量の資金が市場に投入され企業はドンドン設備投資した。日本には金融政策で広くお金をばらまくことは悪いことだと考える人が沢山いた。戦後の悪性インフレと呼ばれるインフレーションが起った最大の要因は、金余りではなく供給不足だった。 5、政策金融が呼び水となるカウベル効果が起った実例はない:復興金融金庫は1952年日本開発銀行に吸収され、その後は日本政策投資会社へと変わったが、民間金融機関の方が目利き能力があった。安い金利は民間圧迫ともなる。日本輸出入銀行は一定の役割を果たした。しかし民間金融機関の海外支店が充実して来るにつれ、その役割は減って来た。 6,政府の成長戦略に期待するのも、間違った認識から:政府の産業政策が間違いなく効くのは、産業のゆりかご期から幼少期。日本は戦前からすでに産業のインフラが整っており、かなり高度な産業が発展していた。戦後の日本企業は一部の許認可企業を除いて、通産省の指導など全く関係なく成長を遂げた。 7、戦後の「封鎖預金+財産税」は財政再建には意味がなかった:当時の預金封鎖は猛烈なインフレ対策として強制的に貨幣の流通速度を下げるためと言われた。しかし本当の目的は債務償還のために裕福層に財産税を課すことだった。だが、この間の猛烈なインフレによって、財産税の徴収よりインフレによる増収の方が大きかった。実質的な資産の目減りを経済学ではインフレ税と言い、インフレは政府債務の実質的な削減となる。戦後のインフレの原因は、生産設備や原材料の不足による供給不足だから、それを増やす政策を打てばインフレ率は収まる。 8,GHQの改革がなくとも、日本は戦前から資本主義大国であった:戦後の日本経済はアメリカの占領政策によって資本主義が根付いて、経済が生まれ変わったかのように誤解している人がいる。むしろ、資本主義の土壌があったうえに、アメリカの占領政策が加わって、戦後の経済発展の基盤が整ったと見るべき。当時は経済的規制はほとんどなく、日本は貧富の格差が非常に大きい国だった。ところが戦争が近づき戦時体制に移行し、経済は統制経済に変わった。民間企業は戦争中だったので我慢した。統制経済の日本をGHQが民主化したというのは、余りに近視眼的な見方、敗戦によって統制経済から元の資本主義経済にもどされた、と見るのが素直な見方である。 9、資本主義が前提の日本では、労働三法でバランスがとれた:戦後のGHQの民主化政策の中で、労働三法(労働基準法、労働関係調整法、労働組合法)が制定され、労働基準権が確立され、労働組合を結成できるようになった。労働者の権利意識が高まって労働争議がたくさん起こり、社会主義に転換するかもしれない、きわどい状況も生じた。しかし労働者の基本的な権利を守らないと民主主義にはならない。資本主義体制を前提とした労働の民主化は、社会のバランスをとる上で必要なもの、経済成長するに従って、多くの企業では労使協調路線となり、運命共同体となった。 10、財閥解体も集中排除も完全に骨抜きにした民間の知恵:GHQは財閥が軍国主義の温床であったとして、三井、三菱、住友、安田などを対象に財閥解体命令を出した。独占禁止法や過度経済力集中排除法なども制定し、市場競争を促進する政策を導入した。しかし日本はそこをうまく切り抜けた。完全にバラバラに解体したわけではなく、緩やかなグループとして温存させた。 11、農地改革は購買力を増やしたのではなく、共産化を防いだ:農民層の窮乏が日本の対外侵略の重要な動機になったとGHQは考えて改革を求めた。日本で農地改革を進めたのは、第一次吉田内閣で農林相を努め、片山政権で経済安定本部総務長官だった和田博雄だった。戦前和田は治安維持法違反容疑で逮捕された。そんな和田たちが推進した農地改革によって・地主層が大幅に増えた。農民たちは格安の値段で土地を買って地主になり、経済的にも余裕が生まれた。和田自身は日本が社会主義化することを望んでいたかもしれないが、結果として自作農を増やし社会主義化を防ぐ一因になると共に、自民党の根強い支持層になっていった。 12、ドッジ・ラインの金融引き締めが深刻な不況を招いた:終戦直後は生産能力が極めて限定されるから、そこに資金を大量に投入すれば一時的にインフレに陥る。昭和23年の日本経済はアメリカからの物資輸入で生産管理が整いつつあった。生産設備が回復すれば、供給が増えてインフレは沈静化する。しかし、GHQと日本政府はそれを待ちきれず、金融引き締めに走った。これによってインフレは収まったが、一転して深刻なデフレが起った。その結果、多くの中小企業が倒産し、失業者が溢れた。インフレ要因を見誤ってマネー要因と考えてしまうと、投資資金まで市場から回収してしまう。日本は深刻な不況に陥った。 13、日本復興の最大の原動力は、政策ではなく朝鮮特需:ドッジ・ラインをきっかけにした大不況で社会主義化しかねないところ、朝鮮戦争勃発で経済的には特需が起って好景気になり、政治的にはGHQによるレッド・パージが始まって、共産主義者が追放された。GHQが展開した経済安定9原則による緊縮財政や金融引き締めは深刻な経済復興につながらなかった。日本経済を復興させたのは、政府の統制や指導ではなく、朝鮮特需という外的要因だった。
高橋洋一氏の著書からの引用が長くなったが、戦後経済史の常識を覆す見方を提示している。これは近年の経済運営から得た知見に依るものと思われる。たしかに金融引締めによるインフレからデフレに陥った景気を転換させたのは直接的には朝鮮特需であるが、もう少し内在的なものがあったのではないか、吉田第三次政権は経済自由化に舵を切った、国際経済とのつながりを考えて単一為替レートを模索していた。この辺を、吉田茂著「回想10年」でさらに追いかけていきたい。
その前に、もう一冊1950年に発行された高橋亀吉の著書「戦後日本経済躍進の根本要因」を調べておきたい。高橋は本当に真正面から物事を分析する。「戦後経済の飛躍的発展は、昭和45~46年時に減速に転じ、48年以降の石油異変に直面して日本経済の成長率は5~7%に低下。これが日本経済に対し何を意味し、如何なる問題と対策を必要とするかが緊急課題だが、これに応えるためには、45年当時までの日本経済の飛躍的発展に原因、要因を新事態に対照してのみ、確実に掴むことが出来る」と序文に記す。そのスタンスは高橋洋一の考え方と同一である。しかし著作への動機は最初別にあった。敗戦直後の日本経済は第三流国家への復帰も難しいとされた弱体経済が、わずか四半世紀にして先進西欧諸国を凌駕し自由世界第二位の経済大国にまで急発展した。その基因は何か。この課題に対して問題意識を大きく盛り上げたのが欧米諸国の識者の著作だった。しかし改めてこれらの著作を精読してみると、飛躍的発展の基因は、大部分、彼等の国にない、日本独自の諸要因の重視であった。しかし高橋から見ると、外人の重視している諸点は、実は戦前からすでに日本に存在している歴史的産物である。にもかかわらず、戦後の日本が達成し得たような、世界の経済大国へは、戦前には不可能であった。では、戦後の日本経済に新たに付加された基因は一体何か、その研究が当初の動機であった、と。参考までに昭和42年発表されたロンドン・エコノミスト誌の「日本は登った」の特集記事から要因を記す。①日本は欧米流の自由経済体制ではなく、巧みに操作された計画経済である。②教育が高度に普及していて、労働者の高度の新技術に対する適応能力が高く、終身雇用制、年功加俸制の下に企業一家的に組織化されている。③労働力の、新興重化学工業への動員と移動とに成功している。④日本人は集団的忠誠思想を持っていて、目的達成への協力性が高い。⑤優秀な官僚の下に、官民一体となって、政府は経済の計画的達成を指導する機能を演じている。⑥経営者は利潤追求を二の次にして旺盛な企業意欲の下に果敢な投資をしている。⑦独特な銀行、信用制度の下に、巨大な企業資金が調達されている、と。
以上はエコノミスト誌を代表させたが、高橋から見ると戦前から長く日本に存在していたが、戦前の日本経済は軽工業段階にとどまり、重化学工業そのものは世界の二流、三流にとどまり、その地位以上に脱出する可能性が殆どなかった。ところが戦後の飛躍的発展は、戦前では発達が制約されていた重化学工業が、俄然、世界の一流中の一流にまで発達し得るに至ったことが、その要因であると亀吉は分析する。戦前の日本に欠けていた重化学工業発達の要因が、戦後新たに登場することが、その基因である、と。日本経済は戦前においてある程度までの重工業の発達を成し遂げていた。しかしそれは軍事的立場からの強度の保護政策下にあって、国際競争力は極めて貧弱であり、重工業の発達は軍事関係以外は、著しく限られていた。昭和10年の工業生産総額中、軽工業は48.9%、化学工業20.7%、重工業は30.6%だった。戦後の飛躍的発展は、戦前の軽工業中心経済の殻を破って、重化学工業段階に大きく進展した為だったが、昭和30年代以前には、コスト高のためその発展は制約されていた。昭和28年度の経済白書ではコスト高の原因として①原材料の割高、②労働生産性の低さ(国際的比較で設備の陳腐化の程度が、今後新たに輸出産業として育成しなければならない機械や金属或いは化学において著しいことが問題である、さらに高金利があると白書)。 こうした不利な点が、昭和30年代に入り急速に改善され、日本経済の発達分野は新たに大きく拡大され、飛躍的発展につながった、と亀吉。①鉄鋼価格が戦前欧米より20%内外高価であったが、昭和30年代後半以降、逆の欧米より低廉となった。このことは鉄鋼を素材とする機械器具、造船、自動車の発達を有利にしている。②重工業がある点以上に発達すると、各産業の用途にそれぞれ最適の鉄鋼資材、機械設備等を簡便に供給できると、経済の発達を加速させた。以上諸々の結果、これまで設備投資を大きく圧迫していた国際収支の赤字は、重工業品の輸入代替化、次いで輸出化によって黒字常態に一転した。さらに付加価値の大きい重化学の発達によって国民所得は著増した。それは資本蓄積を増大し、国民購買力を増加させて、量産型大規模工業の発達を促進させた。これが高橋亀吉が言う飛躍的発展のプロセスである。
第一次吉田内閣執行中の時期であるが、石橋蔵相が体を張って総司令部と折衝し経済の復興を成し遂げようとしている時、吉田は「財政や金融の技術的な一々の施策のことはともかくとして、何かしら全体としての経済の動きが、私が本来考えているのとは違った方向に向いているように思えてならなかった」と当時を振り返って述懐している。何気ない言葉であるが、これが政治家の勘というものではないか。それが第二次吉田内閣を組閣する時、もう少し具体化してくる。「当時はインフレーションを如何に抑えるか、換言すれば、物価と賃金の悪循環を断ち切り、経済の安定と再建とを如何にして進めていくか、ということが最大の関心事であった。そして経済安定本部を中心とする傾斜生産方式や、経済統制の励行ということが、ある意味では一応成功した如く見えた。しかし別の立場から考えれば、本を正さないで末ばかりを抑えるといったような感がないでもなかった」 そして吉田は党内外の人を通じて耳に入ってきた中に、「当時はまだ商品によって区々だった為替レートの一本化を目標として、国内物価の調整安定と企業の合理化を図りながら、国際経済への結びつきを考えて行かねばならない」という話に、「この経済を国際的な結びつきで見なければいけないということは、多年海外生活をし国際関係になれて来た故もあってか、私には直感的にわかった」と。吉田はさらに考えを進め、「敗戦で領土は失う、蓄積は尽きる、しかも人口はどんどん増えていくというこの日本の経済が、自分だけの枠の中でいかに苦慮してみても、その効果には限度がある。一刻も早く国際経済の中に復帰しなければならない。国際経済に結びつけば、そこに自ら日本の経済の安定が見出せるだろう。統制だとか、助成だとか、小さな枠の中で色々手を尽して経済を安定させようとしても、それではいつまで経っても堂々巡りになる。思い切って国際経済の嵐に日本の経済を当てなくては、本当に立ち直れないのではないか」 このような話を経済学者からも、党の人達とも話し合った、という。
日本が太平洋戦争で戦っている最中の1944年、米国を中心に戦後世界の国際経済の在り方を検討し、戦争の背景となった保護貿易を解消し、自由貿易を推進する体制としてIMF(国際通貨基金)とGATT(関税と貿易に関する一般協定)を定め、国際復興開発銀行(世界銀行)を設立した。当然ながら、当時の日本はこうした機関に加盟することも出来なかったし、貿易そのものも総司令部の許可なしにすることが出来なかった。この環境下で、吉田内閣がすでに上記のような構想を以て政治に望んでいたことは、特記すべきである。戦前でも上記の考え方はあってもおかしくなかったが、唯一、東洋経済の石橋湛山らが語っていたぐらいか。ただ上記の国際経済体制が出来ていなかったこともあるが。戦後の一時期、日本は貿易立国にならなくてはならないと声が横溢したその淵源は、やはり吉田内閣のこの考え方がスタートではなかったか。