初めて「現代史」の時代が終わり、ようやく本来の歴史が始まる

2022年02月13日 | 歴史を尋ねる

 京都大学教授中西輝政氏が、スティネットの著書で解説を付けている。経緯はわからないが、初出が『正論』平成12年10月号となっていて、文藝春秋社から第一刷は平成13年6月30日なので、何らかの理由で急遽採録されたのかもしれない。中西氏はコメントする。
 「本書はいわゆる真珠湾ものの一冊である。従来から、日本軍の奇襲をルーズベルト大統領とワシントンの政府首脳はその場所が真珠湾であることを含め知っていながら、それをハワイの米太平洋艦隊司令官キンメルにはあえて知らせず、しかもその責任をすべてキンメルとショートの二人にだけ負わせたとする、いわゆるルーズベルト陰謀説を説く本である。この五十年余りの間に数多くの真珠湾ものがあり、陰謀説はこれまで耳にタコができるほど聞かされてきた。しかもあれほど甚大な損害を座視することは無かったはずの反陰謀説もあり、状況証拠から言えば限りなくクロに近い心証だが、反論の余地もなくはない、というのが実証を重んじる歴史家のこれまでの立場だった」 「知性の徒を自任している歴史家や知識人にとって、陰謀説と言われるような議論に与するにはどうしてもためらいが残ってしまう。一旦、議論が泥仕合的様相を呈すると、またかという思いが定着し、どうせこれまでの焼き直しだろうと思ったが、この本は五十年にわたったモヤモヤを取り払うだけでなく、決定的ともいえる重要文書を含め、膨大な新史料の発掘によってこの論争に実質的にピリオドを打つものだと感じさせた」 「私(中西)は、歴史家として「現代史」という学問的なジャンルを認めないことにしている。もちろん時事問題の一応の整理という意味はある。とりわけ戦争に関わる国際政治の歴史というものは、五十年やそこらで歴史の真実をたとえ一応としてでも、確立し得るとは到底思えないからである。歴史の正当性というものが余り問題にならず、気軽に秘密文書を公開した十八世紀や十九世紀のヨーロッパ外交史を長く研究してきた者として私は、歴史上本当に重要で決定的な史料というものは、表向きどんな文書公開のルールを定めていようとも、結局、その出来事から少なく見て二世代(最低60年)を経なければ決して世に出てくることはない、と確信している。二世代前、それは到底、現代とは言えない。二十世紀は、歴史の正当性が最大限に重視され、プロパガンダを歴史として長期にわたって押し付けることが定着してきた世紀であった。どの国も、自国の当面の政策や対外戦略にとって有利な歴史を作り出し、それを維持することが、かってのどの時代よりも重視されるアコギなる世紀、それが二十世紀であった」 「第一次大戦の開戦原因や戦争責任をめぐる論争はいまだに続いているし、ロシア革命や干渉戦争に関する客観的な研究はこの十年やっと緒に就いたばかりだ。辛亥革命や内戦の歴史は、いまだプロパガンダとしての現代史でしかあり得ない。とすれば、歴史の正当性が一層深く絡みついている第二次大戦、特にその一部を成すと考えられてきた昭和の大戦について、本当の意味の歴史研究が、いま二世代経ったところでようやく緒に就こうとしているのも、いわば順当な展開なのである」と。
 確かに、謀略やプロパガンダが飛び交う国際社会に於いて、大方の人々が納得のいく歴史を記述することは、まことに困難だ。現代史というと、確かに主義主張が飛び交って、記述する人の見方・主張を知るに過ぎないことがある。時事問題の一応の整理と言い方が、妙に理解しやすい。

 著者ロバート・B・スティネットはジョージ・ブッシュ中尉(のちの米大統領)の下で、アメリカ海軍の軍人として戦い、十度の戦闘功労勲章を受けて、大統領特別感状にも輝いた第二次大戦の英雄であり、1986年にオークランド・トリビューン紙の記者をやめた後、この十数年ひたすら真珠湾の真実を求めてその研究に従事してきた。その間、日米戦争についてBBCなどの主要メディアでアドバイザーを務めてきた大戦史の権威の一人。こうした経歴の持ち主が、情報の自由法の活用によって、これまで推測ないし噂の域を出なかった問題と生存する証人へのインタビューの繰り返しによって、厖大な史料を示して事実を確定していく。本書の注が示すように、精緻を極めた手法には圧倒されると、中西氏も認めるところだ。60年後に初めて公のされた『Hitokappu Bay』の文字の入った米海軍秘密文書のコピーを原書で目にしたときは、長年ヨーロッパのインテリジェンス(秘密情報史)の研究の研究に関心を持ってきた中西氏さえ、驚いている。日本はあの戦争でマッカーサーやニミッツ、ハルゼーらに敗れたのではない。彼らは絶対負けるはずのない完璧な事前情報に基づいて作戦を展開したのに過ぎない。また、フォードやGEのアセンブリー・ラインに象徴されるアメリカの物量が戦争の主役であったわけでもない。あの戦争に於いて、究極的かつ決定的な意味で日本を撃破した主役は、ローレンス・サフォードやジョセフ・ロシュフォート、あるいはウィリアム・フリードマンやアグネス・ドリスコら、大戦中日本の外交・海軍暗号の解読を可能にした人々であった、と中西氏。こんなことは今や二十世紀戦争史の常識だが、イデオロギー的に歪んだ歴史書や、八月が来るたびにあの戦争を考えると言いながら、その實相の一番の核心部分について、なぜ日本人はこれほど無関心でいられるのだろうか、と。欧州外交史の研究を通して、欧米人がこうした秘密情報問題に示す真摯な関心を見てきた中西氏には、全く理解できない、と嘆息している。

 引用が長くなるが、中西氏の経験は改めて唸らせるものがある。「私(中西)が今から30年(現時点では50年)ほど前、イギリスのケンブリッジ大学の歴史学部の大学院に留学したが、その時就いた国際関係史の指導教官サー・ハリー・ヒンズリー教授(のち副学長)は、1939年に第二次大戦が勃発した時、ケンブリッジ大学の三年生であったが、戦時動員でイギリス情報部(M16)に勤務し、折から解読可能となったドイツ(及び日本、ソ連など)の最高軍事暗号の解読資料(ウルトラ情報)の配布と管理に大戦後の1947年まで携わった人物であった。彼はそれまで一言も話さなかったが、1975年にその秘密が第一段階に解除になると、その後は折に触れウルトラにまつわるエピソードを私に話してくれた。ヒンズリーがなくなった後教え子に明かにされた話は、彼は二十代後半でウルトラをめぐる英米協力の要路に関わる仕事をしていたが、1946年1月、大戦後も英米間では秘密情報とくに暗号解読についてグローバルな協力関係を続けていくという合意を成立させ、冷戦後の今日、欧州諸国で話題となっているいわゆる「エシュロン」体制の発足に極めて重要な貢献をした、という。この「エシュロン」システムこそ米ソ冷戦を西側の勝利に終わらせ、アメリカを唯一の超大国路線を確立させた最大の支柱であったこともよく知られている。しかしこの話も決定的な核心は、二世代・六十年を過ぎないと明らかにはならないもう一つの例証である」と。「こうした目で日米開戦に至る流れと戦争の推移を見てゆけば、日本の外交と戦争の営みに対して、長年にわたる英米各々の対日情報活動の蓄積の上に立って1930年代の末から緊密さを深め、すでに確固たるものになっていた英米の情報と国策の協力体制の網の中に絡めとられていく日本の姿がはっきりと浮上してくる。そしてあの大戦争の中で、愛国の至情に燃えた日本の多くの軍人と国民が払ったあの壮大な戦争努力が、苦も無く一瞬のうちに壊滅させられていく『日本の哀れさ』がひとしお浮かび上がる」と。
 「第二次大戦中、イングランド中部コヴェントリー市に対するドイツ空軍の大空襲計画を事前に掴んだ英首相ウィンストン・チャーチルは、予め対抗措置を取ればドイツ側がイギリスによる暗号解読の事実を疑うことになると恐れ、イギリス政府としてはコヴェントリー市民にはいかなる警報も出さず、結局、数万の命を犠牲に供したことは、今日ではよく知られた事実である。そしてこのことは今日に至るもイギリス人の大多数によって倫理的に正しい決断だったと容認されている。それほど暗号や秘密情報活動は、国家の生存や歴史の進路に決定的に重要性を持つことが広く認識されているわけであり、それはまた戦時、平時の区別なく広く受け入れられている国際関係の常識ともなっている」

 著書「DAY OF DECEIT(ルーズベルトの欺瞞の日々)」の圧巻は、日独伊三国同盟が結ばれた翌月、1940年10月、海軍情報部の極東課長アーサー・マッカラムが起草しルーズベルト政権によって採用されたと見られる『対日開戦促進計画』の文書である。(著者は1995年1月24日、第二公文書館の軍事関係部門の記録グループ38の特別米軍収納箱6号で、アーサー・マッカラム少佐作成の、日本を挑発して米国に対し明白な戦争行為に訴えさせるための、八項目の行動提案を発見した) アメリカ国民の九割近くが欧州への参戦に反対、という当時のアメリカ国内の状況を踏まえて、いかにすれば国民が一致して対ドイツ参戦に向かえるか、このことが40年の大統領選挙中もルーズベルトの脳裡を離れなかった最重要課題であった。苦境に立つ英国を救い、欧州の覇権と民主主義を擁護するため何としても欧州に参戦することでルーズベルトとその側近たちは早くから一致していた。それゆえマッカラム(1898年長崎で生まれ、海軍士官として日本にも駐在した日本通)の文書には三国同盟をまたとない好機ととらえ、日本を極限まで追い詰めて暴発させることによって、裏口から欧州参戦を果たす、日本を知り尽くした容赦のない戦略思考の上に立つ対日開戦促進の外交軍事戦略プログラムが、そこに織り込まれた。その核心は八項目にわたる段階的日本追い詰めプログラムだが、当時の日本で叫ばれていた、「ABCD包囲網」という見方を裏付けるもので、この包囲網が何を目的としているか理解できず、シナリオ通り坂道を転げ落ちていったことが明らかにされた。戦後も長く続いた山本五十六神話も、細部に至るまでアメリカ側の監視下に行われていたことが説明されている。開戦通告の伝達をめぐる日本外務省の世紀のチョンボも含めて、ルーズベルトの『リメンバー・パール・ハーバー』の演出効果を高めさせた。
 以上のことは、日本人にとって一体何を意味するのか、単なるショックややっぱりそうだったのかという感慨だけでは済まされない、と中西輝政氏。もはやカッコ付きの「現代史」ではなく、真の歴史を安心して究明できる時代が訪れた。これらを謀略と片づけるのではなく、古来どの国でも、国家が生き残ろうとするとき示す理性の発露と見るべきで、日本も国家を作っている以上、この理性(情報活動や外交活動)を学ばなくてはならない、と。例えば、第二次大戦をめぐって、「コミンテルン」や世界の進歩派リベラル知識人を巧妙きわまる手段で操り、自国の国益に奉仕させたソ連の情報・対外戦略は、全くの不可能を可能にさせる手品ともいえる事例に満ちている。ソ連崩壊後の今日、コミンテルン関係の史料が少しづつ出始め、第二次大戦の戦争原因をめぐる論議にも新しい意味を持ち始めている。中日戦争に至る経過や、日本と米英両国との対立を助長していた中国側の情報・外交活動の中身については、現在の北京政権が崩壊すれば、はるかにインパクトの大きい史料が出てくるだろう、と中西氏は言う。
 21世紀に向けた日本の歴史の教訓として、「新秩序」の掛け声に押され三国同盟の締結へと向かった日本指導部のけた外れの愚かさと、コミンテルン戦略に乗って支那事変の泥沼にはまり込むというとんでもない戦略的無能力の、この二つが大東亜戦争の決定的誤りが歴史の教訓となるだろう、と。

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真珠湾の真実 後編

2022年02月09日 | 歴史を尋ねる

 テッド・エマニュエル海軍一等下士官は、秘密海軍情報チームの一員で、ホノルルに寄港する日本船はすべて調査するよう、大統領からの指令が1936年8月から出ていた。これらの船舶の乗組員と何等かの関係のあるオアフ島在住の日本人は、すべて身元を調査して名簿に記録せよ。問題が発生した特は真っ先にその人物を強制収容所に入れよ、と。エマニュエルは、後にスパイだったと著書を出した元海軍少尉、吉川猛夫(森村正は偽名)が在ハワイ日本領事館一等書記官として着任するその姿をシャッタに捉えることだった。一等書記官という役職は重責で、外国勤務経験を有する人物が任命されるのが常だが、外務省の外交官名簿にも登録されていなかった。日本海軍はオアフ島での軍事活動を観察、米太平洋艦隊をひそかに調査するため、スパイとして軍令部に所属する吉川が選ばれた(軍令部はすでにシアトルにはK少佐、ロサンゼルスにはY中佐が駐在)。アメリカ情報部は疑いを抱いた。27歳の青年がこれほど重要な役職に就けるはずがなかった。
 森村がホノルルに到着する前日以降、元海軍情報部長ウォルター・アンダーソンは森村の監視ははFBIではなく海軍情報部で行うと、FBIホノルル支局長ロバート・シバーズに語った。シバースはボスであるフーバー長官に抗議したが、変わらなかった。エマニュエルはその日繰り返しシャッターを切り、森村をA級スパイ容疑者リストに追加した。その後八か月間、ワシントンにいるアメリカの情報部員は、森村の送る報告を監視したが、森村の送った津暗号とPA暗号の内容は、それを最も知る必要のあった人物、キンメル、ショート、シバースには知らされなかった。
 海軍情報部は森村の電話に盗聴器を仕掛けた。盗聴された会話は速記用口述録音機を通して記録され、カー海軍大尉のオフィスに運んだ。この録音より森村の活動は夜遊びと情報収集のための遠出が明らかになった。しかし森村はスパイ防止法に触れないよう、決して軍事施設には立ち入らず、写真撮影もしなかった。軍事施設の絵葉書と米国測量局発行の地図が簡単に手の入った。森村のスパイ活動は、8月21日までの第一段階(吉川の著書では兵要調査と言っている)で22通の電報を東京に送っている。この中で真珠湾及び陸軍航空基地で見た艦艇及び飛行機の種類を報告した。

 森村は8月21日以降、情報収集の第二段階に入った。真珠湾在泊艦船の追跡に加え、真珠湾の格子状地図作成に取り掛かった、とスティネット。(吉川の書籍によると、10月23日軍令部から密使がホノルルに到着、和紙一本のコヨリに97項目の質問が書いてあった。1、在泊艦船の総隻数。2、艦種別隻数、艦名。3、戦艦、空母の停泊位置。4、戦艦の停泊または係留の状況。5,戦艦、空母の動静。6,戦艦が泊地から港外に出るに要する時間。7,最も多くの艦船が在泊すると推定できる日は何曜日か。8,戦艦が停泊するときには防雷網を装備しているか。9,戦艦が入渠している日数及び場所、など。これを見て吉川は、軍令部の方向が暗示されたように思った、と。)(スティネットによると、真珠湾攻撃時撃墜された日本機から、海軍情報部は『敵艦停泊状況報告スケッチ』を回収した。その図面には湾内に停泊する艦名が、その位置とともに図示されていた。このスケッチは吉川からの情報を基にして軍令部が作成したのだろう。さすがにここまでの図面は吉川から電報で送れないだろう。これでは日本軍の動きが見え見えだから。)
 しかし、スティネットの記述はもう少し具体的だ、どの情報に基づいて記述しているか不明だが。「森村と琴城戸(ホノルル生まれでアメリカ国籍を持っていた。1939年に領事館で働くようになった)とはウマが合った。行く先々でバーや売春宿に入り浸り、合間に島の軍事施設の調査を行った。盗聴器が琴城戸の声を初めて拾ったのは1940年12月、41年2月18日から海軍はスパイ容疑で調査対象としたが、FBI のスパイ名簿には彼の名前がない。琴城戸は海軍基地の軍事的配置を、最新の状態に描きかける手伝いを依頼された。彼はフォード島に横付けしてる戦艦、修理施設及び海軍の乾ドックの位置を確認、森村は真珠湾のスケッチを描いて、軍事目標とそれぞれに該当する四文字を書き込んだ。その日の午後、RCA社が受け取りに来て、いつもと違う経路で東京の海軍省に送った」と。
 スティネットの著書には、電文などのコピーと解説が数多く掲載されて、注書きも丁寧だ。1941年9月24日の掲載電文は、東京(豊田)からホノルル駐在領事宛の極秘電報で、報告注文は、真珠湾内の水域を大きく五つの区域(A、B、C、D、E)に分け、それぞれに軍艦、空母については錨泊中のもの、艦種・級を記入。これは上下両院合同調査委員会に提出された、爆撃計画命令作成のため東京から発信された電報の英語版である。1945年に議会は陸軍暗号解読班がこの電報を15日遅れの10月9日まで解読、翻訳できなかったと説明された。陸軍情報部長はこの手の通信諜報を下らぬおしゃべりとして片づけてしまった。この電報は、ハワイのキンメル大将とショート中将とに知らせることは、差し控えられた、とスティネットのは解説する。(吉川猛夫著「私は真珠湾のスパイだった」で、吉川はこの電報の発信者の真意を測りかねた、と。もし軍令部の参謀であれば、湾内の状況は熟知している。浅瀬に所在する船舶の有無を聞いてきたり、繫留、入渠中の艦船は重要でないと言っている。これは何の意味なのか。百も承知の軍令部が言ってくるはずはない。あるいは外務省の役人がまた聞きで聞いてきたのか。だが、この電文は戦後、日本が攻撃を決意したものと脚光を浴びた。ただ電文起案者は、今も、不明である、と。)続いて、もう一つの掲載電報は、1941年9月29日、ホノルル(喜多)からワシントン宛、今後の艦船の位置を示すための略号が極秘電報で送られている。ただ注意すべき点は、スティネットのはいずれも森本の電報だとしているが、電文には森村の文字は見当たらない。情報当局はこれから森本だと判定することは当時はできない。(上記の吉川の著書では、森本が折り返し電を9.29打ったとしている。ただ掲載電文には喜多とあるから、森村の名前は使ってないようだ)スティネットは「あのスパイを泳がせろ」と森本のことを言っているが、森本と電文はすぐには結びつかなかったのかもしれない。ここには吉川の著書で面白い記述がある。(「真珠湾攻撃の翌月、FBI隊長のシーバスが日本総領事館を訪ねてきて、領事館関係者を米国本土・強制収容所に送り込んだ話が載っているが、FBI物語の中で、シーバスは次のように語っている。「戦争直前のハワイ駐在の正式隊員は7名、開戦に備えて、数千人の敵性分子の名簿を作成し、いざという時には逮捕する用意と準備をしていた。日系市民は危険だ、危険だと言われながら、実際に逮捕し尋問してみると何の根拠もなかった。そちらの日系市民を捉えることに夢中になりすぎて、あれだけの電報を打った者が総領事館にいたことに気が付かなかった。わかっていたら、早々にそ奴の首根っこを押さえてやったのに。残念だった・・」と。) 米海軍情報部はスパイを泳がせて情報を収集することが主目的である。森本はその隘路にいて逮捕されずにすんだのか。

 真珠湾攻撃直前の六日間に、森村は十通の電報をサウス・キング通りのRCA社から打電した。電報は数分以内に東京へ送られ、同時にフィリピンの重要監視局CASTを含むアメリカの手に渡った。しかし、マッカーサー陸軍大将やハート海軍大将がCASTのスパイ報告を、ハワイの司令官たちに知らせた記録はない。12月6日、土曜日の朝、東京はPAシステムを介して森村に、海軍基地と近辺の陸軍施設との、現在の防空態勢を報告せよと指示した。森村は正午前に最後の報告を書き上げ、ハワイは奇襲に最適であると伝えた。日本の爆撃機と雷撃機のパイロットたちへの最後のアドバイスは、「阻害気球なし。これらの場所に対する奇襲成功の算あり」 森村の電報はRCA社からPA暗号を介して東京に送られた。サンフランシスコ無線傍受局TWOが傍受し、テレタイプでワシントンに解読文を転送した。RCA社ホノルル支店からHYPOのロシュフォートのために、森村報告のコピーが作成された。日本の真珠湾攻撃計画は今や、アメリカの暗号解読員たちには、そのすべてが明らかになった。にもかかわらず、それを最も必要としていたキンメルとショートに見せられることもなく、徒に放置されていた。
 アメリカの軍事・外交暗号解読のトップであるジョセフ・ロシュフォートと、彼の補佐ファーンズリ・ウッドワードは、すぐに解読されなかった理由を述べている。12月1日から6日の間のRCA社が処理した電報は27通、そのうち18通はスパイ情報、9通は定期的文書だった。21通は12月5日金曜日の午後受け取り、すぐに解読・翻訳された。12月6日の土曜日に傍受された6通は12月7日の夜中に配達された、と。海軍当局者は森村の「阻害気球なし」という報告は、日曜日の午後遅く、攻撃から七時間たってからロシュフォートに届いたのではないかと見ている。それだとしても尚、アメリカの暗号解読者たちにとってはなお、電報を解読して太平洋艦隊に警告するチャンスはあった。真珠湾攻撃に至るまでの六日間、第十四海軍区情報参謀メイフィールド大佐は暗号化された電報の取り扱いを監督した。彼には、傍受電報をキンメルに届けるという、重大な責任があった。メイフィールドはその責任を果たさなかったが、それを責められることは無かった。

 10月21日、ロシュフォートは第十一航空艦隊司令長官塚原二四三中将の無電を傍受し、日本の大規模侵攻作戦を次の通り予測した。「塚原中将が空母部隊を自分の部隊に追加した事実は、長距離の大規模作戦を暗示している」 通信概要日報で、ロシュフォートは第三及び第四航空戦隊が、この作戦に加わったと述べていた。翌日ロシュフォートは、千島列島を中心として北部及び中部太平洋の広大な海域の東方と南方に大きく展開すると思われる、別の日本航空作戦部隊を発見した。「証拠は無いが、大規模な演習か作戦行動かが進行中で、航空隊は主として南洋諸島、高雄、海南島、インドシナ、千島の部隊を含み、潜水艦はマーカス島、父島から千島列島に配備されている。先日、幌莚島が航空基地として確認されたので、演習は千島列島北部まで広がっている」
 一方日本が戦争行為を企てているもう一つの証拠は、東京駐在のジョセフ・グルー大使から送られてきた。11月5日、御前会議で米国と連合国との開戦が決定された、日本軍部は東南アジア目標地域の侵攻占領に対して承認が与えられ、山本大将も直衛行動(主に戦艦や空母を護衛する駆逐艦や巡洋艦などの使用される言葉)が許可された。グルーから国務長官コーデル・ハルに送られた長い報告書の末尾に「米国との戦争は、芝居がかったやり方で、危険なほど突然にやってくるかもしれない」と締めくくられていた。
 ロシュフォートの推定とグルーの警告を読んだアメリカ政府は、もう一つのことに着手した。海軍当局が米国および連合諸国の船舶はすべてこの海域から引き揚げるよう、代わりに太平洋を横断する船舶は、オーストラリアとニューギニアの間のトレス海峡を通るよう命ぜられた。この命令は、南雲中将の機動部隊が単冠湾を出港した一時間後に出された。そして、キンメルはロシュフォートから報告される気がかりな傍受電報に基づき、ハワイ北方海域で日本機動部隊の捜索を命じた。キンメルの率いる艦艇が日本軍の意図した海域にいることをホワイトハウスの軍当局者が知ると、彼らはキンメルに帯平癒艦隊を真珠湾錨地に帰投させるよう指示した。12月23日午後三時、キンメルは「演習を中止せよ」と命令を出した。彼の手元には、日本が奇襲攻撃をかけてくる可能性があると警告する一方、日本の行動を早める位置に太平洋艦隊を置かないよう、作戦部次長インガルソン少将から電報が来た。「日本との交渉が好ましい結果に終わる可能性は極めて疑わしい。現在の情況は、われわれの意見では、フィリピンまたはグアムに対する攻撃を含む、奇襲侵攻的な行動をとる可能性がある。すでに緊迫している情況を複雑化したり、日本軍の行動を刺激したりしないために、内密に伝達する」 キンメルは、インガルソン少将からの電報を、日本を挑発するなという禁止命令だと考えたという。キンメルはスターク大将からの伝えられたルーズベルトの指示で、「大統領が、発砲は大西洋及び西南太平洋地域のみで行うよう指示した」という命令を思い出した、と。これに従わなければ軍法会議にかけられるということを暗示していた。
 キンメルは日本の空母機動部隊発見を目的とする新しい任務を承認した。真珠湾を敵の攻撃から守るため、空母エンタープライズと戦艦アリゾナを中心に艦艇25隻で、11月28日から12月5日まで軍事行動を実施する計画だった。しかしこの計画は実行されなかった。スターク大将からキンメルに、航空母艦を使用して陸軍の追撃機をウェーク島とミッドウェー島まで運ぶよう命令した。28日早朝、空母エンタープライズは戦闘機を搭載し、太平洋艦隊最新鋭の軍艦十一隻が護衛についた。結局ワシントンからの命令により、キンメルは太平洋艦隊で最も老朽化した艦艇を真珠湾に残し、空母二隻を含む近代的軍艦21隻をウェーク島とミッドウェー島に派遣した。最後の瞬間になって艦艇を真珠湾から移動させた状況は、議会調査委員会で討議された。開戦当時の海軍作戦部長であったスターク大将は次の通り答えている。「それらの艦艇が派遣されたかどうかは、記憶が定かではない・・・はい、確かに派遣されました。その日時はキンメル大将が決めました。われわれは特定の日時は決めていません」 スタークは事実を取り違えていた。海軍の記録によるとスタークが派遣日を12月26日と決めていた。空母レキシントン及び空母エンタープライズの任務群が真珠湾を出港した後の湾内残留艦艇のほとんどは、艦齢27年に達する、第一次世界大戦当時の遺物であった。

 1941年12月28日、ルーズベルトは首都ワシントンを離れ、ジョージアに向かったが、出発する前に、大統領・陸軍長官スチムソン・国務長官ハル・海軍長官ノックス・陸軍参謀総長マーシャル・海軍作戦部長スタークは戦時内閣(とスチムソンが名付けた)会議に入った。大統領は新たな提案をし、戦時内閣はこれに賛成した。その提案は、米英蘭の連合国に対し、日本から攻撃を仕掛けた場合、悲劇的な事件が発生するとの警告特別電報を、裕仁天皇に送ろうというのであった。ルーズベルトは天皇宛ての電報を用意したが、送信は12月6日の夜まで一週間送らされた。「米国民は平和と諸国民の共存の権利とを信じ、過去数か月に亙る日米交渉を熱心に注視してきた。吾人は支那事変の終息を祈念し、諸国民において侵略の恐怖なく共存し得るが如き太平洋平和が実現されることを希望し、且つ堪えがたき軍備の負担を除去し、各国民が如何なる国家をも排撃し、もしくは特惠を与えるが如き、差別を設けない通商を復活することを祈念する。・・・私が陛下に書を出すのは、この危局に際し陛下に於かれても同様暗雲を一掃するの方法に関し考慮せられんことを希望するが為である」
 ルーズベルトは12月6日午後8時(米国東部標準時)まで待って、ジョージ・グルー大使を経由して裕仁天皇にこの電報を送った。東京時間で12月8日午前零時15分、グルーは東郷茂徳外相に、天皇との接見を申し出た。東郷は、伝えてみるが、実現できるかどうか約束できないと返答した。グルーはそのまま大使館に戻ったが、接見が叶えられることは無く、わずか三時間後には、機動部隊攻撃の発艦時刻が迫っていた。
 12月1日、国務長官ハルと長い電話を交わした後、ワシントンに帰るべきであることに意見が一致、ホワイトハウスに帰着後、ルーズベルトはノックス・ハル・スタークと話し合った。野村大使と日独間でやり取りされた外交電報が少なくと四通届けられた。野村大使への訓令は「両三日中に日米交渉は実質的に打ち切りとする他なき情勢であるが、先方に対して、交渉決裂の印象を与えることを避けることとしたい」と東郷外相。さらに別の電報は、外相の意向をベルリンの大島大使を通して、ヒトラーやリッペントロップ外相に宛てたものであった。「我と英米両国との間に戦争状態の発生を見る虞の極めて大なることを内密通報せられ、且つ右発生の時期は意外に早く来るやも知れず」と。ルーズベルトはこの電報のコピーを手元に保管した。

 12月6日7日、真珠湾攻撃直前に傍受された四通の外交電報がどのように取り扱われたかを追ってみると、日本の武力行使を待つというアメリカの政策とルーズベルト大統領へ提供するための暗号解読作業が如何に速やかに行われていたかが明らかとなる。日本はそれらの電報を24時間の間に四回に分けて送信した。東京はまず予告電報をワシントンの野村大使に送り、対米交渉の回答を送ることを通知した。その回答は二通に纏められた。そのうち第二通目の電報には十三項目、第三通目には十四項目が含まれている、と。第四通目にはこの回答を米国に手交すべき日時が指定されるとあった。東郷は野村に対して、明日(6日)十四項目からなる覚書と手交日時は後送されると、東郷は野村に伝えた。野村は覚書を清書し、訓令が届いたら、速やかに覚書を米側に手交できるよう、万端の準備を整えておくことになっていた。日本側は知らなかったが、これら四通は野村大使に届く前に、アメリカ陸海軍の暗号化解読班が、傍受・解読・翻訳していた。四通の日本外交電報は、日本と米国政府との関係を断絶せしめる覚書で、12月7日日曜日の午後一時(米国東部標準時間)に米国政府に手交せよと命じたものであった。
12月6日午後三時までに、最初の十三項目までの電報は無線傍受局SAILで傍受され、海軍無線監視センターUSへ転送され、午後四時頃には解読され英文に書き換えられていた。US局長サフォード中佐は戦争がまもなく始まると判断してホワイトハウスにこれを伝えた。クレイマー少佐がホワイトハウスに走り、ホワイトハウスではレスター・シュルツ大尉が待っていた。シュルツは午後九時三十分、大統領書斎に案内され、そこにはハリー・ホプキンズもいた。大統領は十分ほどかけて全十三項目を読んだと、シュルツは上下両院合同真珠湾委員会で証言した。日本の戦争理由を述べる長文の電報では、アメリカが日本の経済政策を邪魔し、支那事変では蒋介石側に味方して、この戦争を長引かせようとしていると非難していた。ルーズベルトは覚書の最後のページを読み終えると、ホプキンズの方を向いて「これは戦争を意味する」と言ったのをシュルツは覚えている。そのとき時間は午後九時四十五分だった。大統領もホプキンズも、真珠湾が日本の攻撃目標になっているとは議論しなかったし、開戦日時についても何も発言しなかった。書斎で待っている間、シュルツ大尉は、二人の問答を聞いた。ホプキンズが日本の都合で戦争が始まるのだから、奇襲されるのを防止するため、われわれが最初の一撃を加えることができないのは困ったことだ、述べると、大統領は頷いて「それは出来ない。われわれは民主的で平和的な国民なのだから」 そして語気を強めて「しかし、われわれは良い記録を残した」と。シュルツはこれだけはハッキリ覚えている、という。シュルツによると、大統領は受話器を取り上げスターク海軍作戦部長に電話をかけた。午後十時にはルーズベルトが書類をシュルツに返し、シュルツはクレイマーに書類を返した。クレイマーはその後海軍の先任将官たちに書類を見せて回った。 

 12月7日零時五分過ぎ、東郷外相の覚書の第十四項目と、午前一時三十七分、最終部分にあたる、覚書の手交時刻が指定されている第四通目が入電した。SAIL電信員は直ちに傍受し、ワシントンUS局へ送信された。傍受電報を解読、翻訳して午前七時半、クレイマー少佐に手渡された。午後一時が断行通告時間であることが陸軍情報当局者に伝わっていることを確認し、二通の電報をホワイトハウスに届けた。一方マッカラムはこの電報の写しをスターク大将に届けた。時刻は今や午前九時三十分、ハワイ海域では日本機動部隊が速力をあげて南下、二時間以内に機動部隊は第一次攻撃隊を発進させる予定になっていた。
 日曜日の早朝に傍受された電報は、クレイマーによりホワイトハウスへは午前十時に届けられた。ハワイ時間では午前四時三十分に当たる。今度は海軍副官ビアドール大佐経由で寝室にいたルーズベルトに届けた。ビアドールによると、大統領はその傍受電報を読んだものの、午後一時という覚書手交時間については、何もコメントしなかったという。大統領は警戒していないかのようだった、とビアドールは語っている。
 スティネットは両日のルーズベルトの動静を、主任執事ハウェル・クリムの記録簿を調べているが、土曜の夜にレスター・シュルツの訪問は記録せず、日曜日早朝のビアドールの訪問も記されていなかった、と。午後一時にはルーズベルトとホプキンズが書斎で食事をとったという記録になっている。うーむ、この世界の闇は相当深いのだ。

 キンメル提督とショート将軍は、12月7日、日曜日朝9時半からゴルフをする約束をしていた。午前7時45分、当直参謀から真珠湾入口水路で敵潜水艦を発見したとの電話で、ゴルフはあっけなく立ち消えた。キンメルが自宅を出ようとした時には、戦艦群の上に爆弾が落下し始めた。戦艦アリゾナが、大きな火の玉となって炎上した。艦長の多くは、週末も艦上で過ごしていた。戦艦八隻は攻撃の矢面に立たされ、四隻は沈没、四隻は損害を受けた。旗艦アリゾナの乗組員の八割から九割が戦死、キッド少将やバルケンバーグ大佐も犠牲となった。
 午前9時35分、日本攻撃隊は航空攻撃を止めて、空母へ帰投し始めた。彼らはオアフ島で米軍に大きな人的損害を与えて去っていった。陸海軍戦死者は合計2273名、負傷者1119名。百一隻の艦艇のうち16隻が大破、陸軍機96機、海軍機92機を失った。市民の犠牲者も多かった。これは日本軍に空襲されたのではなく、米海軍の高射砲から発射された砲弾の炸裂による被害で、多くは目標を外れてホノルル市街に落下した、という。そして市民の犠牲者が増えたのは、日本軍のパイロットが空母に帰った後、炸裂弾が爆発して市民が巻き添えになった。1941年12月16日、キンメルは太平洋艦隊司令長官を更迭され、大将から少将に降等された。
 しかしスティネットは言う、日本にとっては戦略ミスがあった。日本機動部隊は石油タンク、海軍工廠の乾ドック、機械工場、修理施設といった工業能力も破壊すべきであった、と。日本が工業基盤を破壊していたら、その打撃は太平洋におけるアメリカの反撃を阻止して米軍を本土西海岸まで降誕させただろう、と。ところが実際は、ミッドウェー海戦の頃には、アメリカは艦艇を修理し、比較的被害の少なかった真珠湾海軍基地を拠点として攻撃能力を回復しており、六カ月前に真珠湾にやって来た日本艦隊の六隻のうち四隻を撃沈した。

 アメリカはほとんど一夜にして完全な戦時体制に移行した。枢軸国をうち破ってこの戦争に勝利しようとするアメリカ国民の決心を、軍事的または道徳的に制限するものは、もはや何もなかった。戦争に勝つためには何をしても許される風潮がみられた。しかし、ハワイが受けた無残な破壊によって、なぜアメリカの太平洋の要塞が無防備だったのか、と議会、主に共和党議員の間で疑問が抱かれるようになったのは、開戦からわずか十日後のことであった。政府に向けられた批判に驚き、真珠湾調査によって戦争努力が傷つけられ、中間選挙に影響を与えることを懸念したルーズベルト大統領は、最高裁判事に助言を求め、提案された議会による調査を拒否して、連邦最高裁判所陪席判事オーウェン・ロバーツを委員長に指名し、五人からなる調査委員会を発足させた。しかし、軍事機密を守るため、ロバーツ調査委員会は徹底した調査を行うことが許されず、日本海軍の電報傍受についても公然と議論されず終わった。米海軍の傍受電信員たちは誰一人として証言台に立たず、彼らの無線日誌や文書を証拠として提出することもなかった。無線傍受局については何も明らかにされなかった。
 ルーズベルト大統領はロバーツ調査委員会の報告を、1942年1月24日正式に承認した。日本の攻撃が成功した原因はキンメル太平洋艦隊司令長官とショート陸軍司令官の判断ミスによる、との結論で、両名は職務怠慢の罪に問われた。しかしマーシャル陸軍参謀総長とスターク海軍作戦部長は、指揮官として任務を適切に遂行していたと判断された。これに対してジュームス・リチャードソン元合衆国指定長官兼太平洋艦隊司令長官は、「これほど不当で、不公平で、嘘で塗り固められた文書を、政府印刷局が印刷したことはない。この委員会は名誉ある人物で構成されているのに、極めて遺憾であり、恥ずかしく思う」

 真珠湾攻撃から四日後、事実を解くカギとなる重要な証拠が隠匿され始めた。隠匿指令の第一号は、海軍通信部長リー・ノイズ少将から発せられた。彼は真珠湾攻撃以前に傍受した、日本の軍事および外交暗号電報ならびに関連した指令を海軍地下金庫に引渡して五十四年間公開しないという検閲規定を定め、文書または文書化されたものはすべて破棄するよう命令を出した。ノイズがこの破棄命令を出したのは、ロバーツ調査委員会が組織されるほんの数日前だった。その命令により、あらゆる真珠湾調査から、日本の軍事電報の傍受記録を除外する方針が定められた。破棄を免れた書類もあった。たとえば著者が1995年1月にマッカラムの覚書を発見したのも、アーサー・マッカラム名義の個人ファイルの中だった、と。

 1945年8月に日本が降伏すると、その二週間後に海軍は真珠湾攻撃以前の傍受記録をすべて最高機密文書として分類し、一般への公開、閲覧を禁止した。議会に対しても傍受記録の閲覧を許可しなかった。さらに第一航空艦隊の無電を傍受した電信員と暗号解読員に対してかん口令が敷かれ、アーネスト・キング元帥がその閲覧を監督した。「海軍省は暗号解読成功物語については一切、公式に否定したり肯定することにより、権威付けする意図はもっていない。漏洩や事実を知った人による追加説明により、裏付けされたり補強されたり、あるいは議論が拡大しないようにすることがもっとも重要である、と本官は繰り返し忠告する」 守秘義務は、解雇された者も含め、海軍に奉職した者すべてにある。

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