軍における国家革新運動

2015年12月28日 | 歴史を尋ねる
 軍における最初の革新組織は一夕会であった。その発足は大正10年(1921)春、ドイツのバーデンバーデンでスイス駐在武官永田鉄山、ソ連へ赴任途中の小畑敏四郎、欧米派遣中の岡村寧次が交わした密約(藩閥中心の陸軍人事刷新を基本目標)に遡る。藩閥という「大磐石を打破するには、少壮将校が団結して、上の方に突進する以外はない」と考えた彼らは、ヨーロッパから帰国後同志の獲得に努めることになった。昭和3,4年には、これを例会と会員を持つ一つの組織にまで発展させた。メンバーが紹介されているので、主要な人物を拾っておきたい。陸軍士官学校卒年次:14期小川恒三郎、15期河本大作ほか1名、16期永田鉄山、小幡敏四郎、岡本寧次、板垣征四郎、土肥原賢二ほか3名、17期東条英機ほか4名、18期山下奉文ほか2名、20期3名、21期石原莞爾ほか1名、22期鈴木貞一ほか4名、23期根本博ほか3名、24期5名、25期武藤章ほか2名。一夕会は中堅将校層の横断的な結合で、彼らの多くは満州事変勃発の際には、すでに重要な地位を占めており、陸軍省では永田軍務課長、配下に鈴木貞一、岡村は補任課長、参謀本部には東条が編成動員課長、根本は支那班長の要職、特に関東軍には板垣と石原が参謀、土肥原は奉天特務機関長として活躍していた。一夕会はその後永田と小畑との対立から分裂したが、有力な中堅将校が革新を目標として結合したことは、少壮将校が同じように組織化へ進むのを奨励する結果になった。

 一夕会と前後して天剣党と桜会が結成された。何れも非合法手段を用いて国家改造を実行しようとする秘密結社であり、一夕会とは性格を異にした。天剣党は昭和2年西田税が陸軍青年将校のうち革新分子を糾合して結成を計ったが、直ちに憲兵の知るところとなり弾圧され、正式結成に至らないで終わった。西田は在学中に満川亀太郎、北一輝らを知り、特に北の「日本改造法案大綱」に深く共鳴して大正14年軍職を退き、大川の行地社に入って革新運動に専念した。大正15年には北の下に走り、自宅に士林荘という会をつくって尉官級青年将校の間に急進的革新思想を普及することに努めた。彼らが経典として信奉した北の「大綱」を青年将校に与え、さらに八千部を配布したといわれている。西田の影響下にあった青年将校は陸軍部内で最も急進的な分子を構成し、後に五・一五事件に連座した海軍士官の首謀、藤井斉、二・二六事件の主要メンバー村中孝次を含んでいた。天剣党の主たる関心は国家改造で、現存指導層の破壊であり、彼らは革命後建設される新国家よりも革命行為そのものに情熱を傾けた。
 桜会も国家改造の実現を目的に昭和5年に結成されたが、天剣党ほど破壊一本槍ではなく、会員中には改造後の建設を主目標と考え準備に努めるものはあったことは既述済みである。桜会は百人を超える少壮将校を会員に持っていたといわれ、分裂解体する短い期間中二度のクーデターを試みるほどの隆盛を示した。陸軍内に桜会が成長を遂げた第一の理由は、国内政治の現状に不満を持ち、差し迫る軍縮に反発して何等かの行動に移りたいとする少壮将校の心情を代弁したこと、第二に桜会の意図を容認、支持した人々が上層部ならびに中堅将校の間にあったことであろうと、緒方氏。桜会趣意書では、まず国勢の衰運を嘆じた後、その原因を論じて、政治家、国民、軍指導者の責任を追及し、直接国政に参画することを目的としており、それを実現するため、昭和6年3月および10月にクーデターを計画することになった。彼らがここまで大胆な行為にまで至らしめたのは、軍務局長小磯国昭、参謀次長二宮治重、参謀本部第二部長建川美次は積極的に桜会を支持し、運動費も与えていたといわれている。さらに桜会を勇気づけたのは陸軍大臣宇垣一成の政治的野心であった。

 宇垣はかねてから政党政治の現状に痛憤し、政党を評して「政治を標牌とする株式会社みたいなもの」とし、「かくの如き朦朧会社は打ち壊して更に清新なるものを建造することが邦家前途の為に必要である。余はこの主義の下に進まんとす」と決心していた。宇垣の言動は革新将校にとって好意的と受け取れた。彼の変心は、宇垣が民政党総裁として迎えられる公算が大となり、政治権力が把握できる見通しが立ったからだといわれている。永田、岡村、鈴木貞一らは、クーデター計画の内容が明らかになるにつれて、三月事件後は非合法手段を用いることを廃し、むしろ陸軍の主導下に漸次国家改造を実現させようと努力することになった。特に満州事変中軍部の政治力が著しく強化され、クーデターを用いる必要がなくなるにつれ、彼らは部内において急進的革新運動を抑えて統制を確立した上、高度国防国家を建設し、対外発展に備えることを主張するようになった。一方、桜会の急進派は中堅将校に依存する戦術を改め、運動の重点を地方の尉官級将校へ移し、益々過激化に走り二・二六事件に繋がった。

 ここで当時の革新運動陣営を概括しておこう。まず組織力、行動力において、革新陣営の主力が陸軍にあった。陸軍部内には、北・西田の影響下にあった青年将校を底辺にして、その上に中佐以下の少壮将校を網羅する桜会があり、さらにその上には一夕会を中心とする中堅幕僚層が存在し、しかも上層部には、部内の革新運動を積極的に推進させようとする同調者も少なくなかった。
 海軍が革新陣営内で占めた地位は大きくなかったが、急進分子を擁していた。藤井斉を中心とする国家改造を目標として結成された王師会は、陸軍青年将校や民間右翼とも連絡して、遂に五・一五事件を引き起こした。その後ロンドン条約問題で海軍部内に不満が最高潮に達し、条約派と艦隊派に二分されたが、海軍には陸軍に見られた大規模な横断的結合が成立せず、五・一五事件が突発するや峻厳な態度で被告に臨み、急進的な士官を予備役に編入するなどの措置に出たため、結局海軍は革新運動に大きな役割を果たすことなく終わった。
 民間においては、大川周明、北一輝、西田税がそれぞれ軍部内の革新運動に強い影響を与えていたのは既述済みであるが、昭和6年頃には、従来分散的であった右翼が大同団結の動きを見せ、資本主義の打倒を標榜し、「労働権の確立」や「耕作権の確立」をうたって大衆の支持獲得に努めようとする傾向を示した。このような動きは、全日本愛国者共同闘争協議会と大日本生産党を実現した。前者は玄洋社系であり、後者は黒龍会系であった。更に左翼からも国家社会主義へ転向するものが出現した。軍を中心とする革新運動は労働者政党にも浸透し始めた。
 民間運動のいま一つの流れとして農本主義的革新運動も無視できない。農村の窮乏が青年将校を国家改造へ駆り立てたのと同様、農本主義者権藤成卿や橘孝三郎も、恐慌下の農村の状態に刺激されて国内改革を実現するため行動するようになった。農本主義者とは定義し難いが、橘と密接な関係にあった井上日召もまた農村の困窮状態を見て国家改造の決心を固めたといわれている。
 昭和6年8月26日、日本青年会館において、革新を目指す陸海軍青年将校ならびに西田税、井上日召、橘孝三郎ら民間側革新運動家による全国会議が開催された。日本青年会館の会合は、その後の出席者の連座した事件(血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件など)を考えると、まさに急進的革新勢力の勢揃いともいえる画期的な会合であった。

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