クーデタ計画(宮城事件)と阿南惟幾

2019年08月30日 | 歴史を尋ねる
 8月14日の夜、畑中健二少佐(軍務局課員)と椎崎二郎中佐(軍務局課員)の主導する反乱軍が皇居を占拠、東部軍(12方面軍司令部兼東部軍管区司令部)を動員して、阿南惟幾陸軍大臣を首班とする軍事独裁政権の樹立をめざして行動を起した。クーデタが成功するためには陸軍の支持が必要であり、そのためには阿南陸軍大臣と梅津参謀総長の承認が絶対条件であった。さらにクーデタを実行するには東部軍司令官の田中静壱大将、近衛師団長の森赳中将の支持が必要であった。反乱首謀者たちはクーデタの指導者である荒尾興功大佐(軍務局軍事課長)を伴って参謀総長の梅津を訪れ、クーデタの計画について意見を聞いた。いつもは優柔不断で、腹の中では何を考えているか分からないという評判のあった梅津は、この時は断固としてクーデタに反対した。梅津の反対はクーデタの失敗を意味した。さらに梅津は、陸軍上層部を「承詔必謹」のもとにすばやくまとめて、阿南からクーデタを支持する組織的な基盤を奪い取ることに成功した。

 阿南のクーデタに対する態度は曖昧だった。阿南は東部軍の田中司令官を招き、クーデタが始まったら東部軍はこれを支持するかと尋ねた。田中に同伴した東部軍参謀長の高嶋竜彦少将は「それには貴官によって著名された合法的な文書が必要である」と答えた。田中は首都の治安を維持する任務のみに言及し、クーデタについては沈黙を保った。高嶋は阿南の支持があればこれを支持する意思をほのめかし、阿南の態度如何で東部軍を巻き込んだクーデタが拡がる可能性もあった。
 この間、竹下正彦軍務課内政班長は「兵力使用第二案」を起案した。これによると、近衛師団を動員して宮城を占拠、外部との交通、通信を遮断する。東部軍を動員して要所に兵力を配置し、要人を保護し、放送局を押さえる、たとえ聖断が下るも、右態勢を堅持して、謹みて、聖慮の変更を待ち奉る、と。しかし、この計画の実現のためには、大臣、総長、軍司令官、近衛師団長の意見の一致を前提としていた。首謀者は躍起になっていたが、その首尾は拙劣だった。御前会議が午後に開催されると信じていたが、和平派は先手を打って御前会議を十時半に開いた。天皇が第二の聖断を下した時、大勢はすでに決していた。首相官邸で阿南を待ち構えていた竹下は、御前会議の結果を聞いて愕然とした。阿南が陸軍省に帰ると、大臣室に青年将校二十人余りが殺到した。井田正孝中佐は大臣の決心変更の理由をお伺いしたいと詰め寄ると、阿南は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちは良く判る。苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられた。自分としてはもはやこれ以上反対を申上げることは出来ない」と説明した。さらに阿南は言った。「聖断は下ったのである。今はそれに従うばかりである。不服者は自分の屍を越えて行け」。畑中少佐が泣き伏した。井田と竹下はこれで計画は終わりになったとあきらめた。

 阿南は首相官邸での閣議に赴いた。天皇が終戦の詔書を録音機に吹き込み、これを国民に放送することがこの閣議で決まった。これまで天皇は現人神であり、国民にその肉声を聞かせることはタブーであったが、国民に終戦を納得させるためには、このタブーを棄てなければならなかった。日本放送協会の録音班は、皇居に三時に出頭せよという命令を受け取った。梅津はすばやく陸軍の上層部を「承詔必謹」でまとめることに成功した。河辺参謀次長は若松陸軍次官を誘い、陸軍首脳が「皇軍は飽くまでご聖断に従い行動す」ることを誓った誓約書を取り付けた。これには陸軍大臣、参謀総長、教育総監、第一総軍司令官、第二総軍司令官、航空総軍司令官が署名した。この誓約書の最大の目的は阿南からの署名を取り付けて、クーデタが陸軍大臣の支持を得ることを阻止することにあった。この方針で陸軍首脳部が一致したからには、その後クーデタを試みるものは天皇に弓を射る逆賊として取り扱われることになった、と長谷川毅氏は解説する。ふーむ、これまで最高戦争指導会議、閣議で多数決でことを進めず、焼夷弾が降り注ぐ空襲下にあって、全員一致を目指す進行方法に違和感を覚えていたが、犠牲を払ってもここまで念を入れて全会一致を求めた慎重さが少し理解できた。長谷川は言う。米内がバーンズ回答を受け入れて終戦する理由を国内事情に求めた、と。「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦はある意味では天祐だ。国内情勢で戦いを止めるということを出さなくても済む。私はかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である」。米内のこの言葉は、もう一つ分かりずらいが、過激分子が跋扈して国を誤らせることをさしているのだろう。そのために阿南らを取り込むことが重要であった、ということか。
 午後二時半、梅津は参謀本部将校全員に対して大御心の伝達を行い、これを遵守する告示を行った。阿南は閣議から帰ると陸軍省課員を集めて、聖断を履行する命令を下した。大臣の訓令ののち、吉積軍務局長が御前会議での天皇の言葉を告げ、若松次官が上層部全員の署名になる誓約書を読み上げ、大臣の訓示を厳守すべき旨を述べた。陸軍は速やかに天皇の聖断のもとに終戦に向けて結束を固めた。陸軍省と参謀本部は文書を焼却しはじめた。日本帝国陸軍がガラガラと音を立てて崩壊しつつあった。

 しかし、陸軍省の将校全員が阿南の召集に応じた訳ではなかった。畑中少佐と椎崎中佐は陸軍省の会議室には姿を現さなかった。二人はすでに近衛師団の参謀である石原貞吉、古賀秀正少佐を陰謀に加えることに成功していた。阿南が陸軍省で訓示を与えている頃、畑中は東部軍の司令官田中大将を訪れ、クーデタへの参加を依頼、田中大将はただちに一喝、下がれと命じた。位が違い過ぎた。クーデタはここでも失敗した。
 閣議は四時に再開した。天皇の聖断が枢密院の承認を必要とするか否か長い議論に入り、法制局に問い合わせ、法制局長が承認を必要としないとの結論をもってきて、議事再開。詔書の草案を審議し、天皇の承認を得た後、閣僚の署名を得て正式の文書になった。全員の署名が終わったのは午後十時。
 同じころ、クーデタの首謀者は近衛第二連隊の芳賀大佐を反乱に参加させることに成功した。そのために全陸軍が今では反乱を支持していると告げた。皇居を護衛すべき軍隊が、皇居を占拠する反乱部隊と化した。

 午後十一時十五分、天皇は玉音放送収録のため宮内省の政務室で収録、建物の窓には鎧戸が閉められ内部の光が漏れないようしてあった。録音盤は袋に入れられ、皇后宮事務所の整理戸棚の中にある書類入れ用の金庫に納められた。しかも書類の束の奥であった。後に反乱軍が宮内省をしらみつぶしに探しまわったり、放送局が反乱軍に占拠されることになったことを思えば、この機転は幸運であった。
 天皇の終戦放送を録音している時、クーデタの首謀者たちは、森師団長のクーデタ参加を要請するため、近衛師団の参謀室に集まった。長い議論のすえ、森は射殺され、反乱が始まった。近衛師団長の名前で畑中は近衛師団の七連隊に、天皇を保護し、宮城を占拠し、宮城の出入りを遮断するよう命じた。宮城内では反乱軍がすばやく畑中の命令を実行した。
 15日午前1時30分頃、竹下は大臣に反乱軍を支持してくれるよう依頼するため、阿南を官邸に訪ねた。阿南は静かに酒を飲んでいた。阿南は竹下を招き、今夜切腹するつもりであると言った。竹下はこれを止めないと約束した。阿南は義弟に遺書と辞世の歌を示した。
 「大君の深き恵みに浴びし身は言い遺すべき片言もなし」
 遺書には「一死以て大罪を謝し奉る」とされ、陸軍大臣阿南惟幾と署名されていた。
 阿南が息を引き取った時、帝国陸軍が死に絶えた。
 東部軍の田中司令官は4時に近衛師団参謀本部に乗り込み、秩序を回復することに成功した。畑中は宮城を追放されたあと近衛軍の一部を使って放送局に乗り込み、全国に向けて反乱軍の声明を発表しようとしたが、放送局員の抵抗にあい、これを諦めざるを得なかった。東部軍の田中司令官が反乱軍を鎮圧してから御文庫に赴き、宮城占拠事件の顛末を天皇に報告した。

 8月15日の7時21分、日本放送協会のアナウンサーは、天皇が12時に直接国民に対して声明を読み上げると伝えた。これ以後このメッセージが繰り返し放送された。正午に日本中の国民と外地の日本人と軍隊はラジオの前に集まった。
 「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」
 玉音放送を聴かなかった男が二人いた。放送が始まる前に畑中と椎崎は二重橋と坂下門の芝生に座って自決した。
 この日の午後三時二十分、鈴木内閣は総辞職した。その前に内閣は内閣告諭を発表した。「科学史上未曾有の破壊力を有する新爆弾の用いらるるに至りて戦争の仕法を一変せしめ、ついでソ連邦は去る九日帝国に宣戦布告し帝国は正に未曾有の難に逢着したり」と述べた。
 さらに御前会議で天皇が提案した陸海軍将兵向け特別勅語を用意し、17日発表された。「今は新たに蘇国の参戦を見るに至り内外諸般の情勢上今後に於ける戦争の継続は徒に禍害を累加し遂に帝国存立の根基を失うの虞なきにしもあらざるを察し・・・我国体護持の為朕は爰に米英蘇並びに重慶と和を講ぜんとす」と述べて、軍人が天皇の終戦の決断を遵守することを訴えた。

 ワシントン時間8月14日午後三時、バーンズは東京からベルンに出された日本政府のポツダム宣言受諾の電報の暗号解読を受け取ったと大統領に報告した。四時五分、日本政府の正式の回答が到着すると、バーンズはただちにベヴァン、ハリマン、ハーレイに連絡して、四か国の首都で日本降伏に関する声明を発表することを提案した。午後七時、トルーマンはホワイトハウスの記者会見室で、日本政府がポツダム宣言の無条件降伏を受け入れたこと、太平洋戦争がこれを以て終了したことを告げる声明を読み上げた。
 しかし、戦争はいまだに終わらなかった。天皇のポツダム宣言受諾は、スターリンが日本に対して新しい攻撃を開始するきっかけとなった、長谷川毅氏はこう結ぶ。
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バーンズ回答「自由に表明された国民の意思」

2019年08月29日 | 歴史を尋ねる
 日本政府が最初にアメリカの(バーンズ)回答を受け取ったのは8月12日、午前零時45分で、外務省ラジオ室がサンフランシスコからの短波放送で傍受した。ラジオ室は直ちに東郷外相、松本次官に伝達。首相官邸にバーンズ回答の全文が届けられると、迫水は落胆した面持ちを隠せなかった。第一項と第四項とがひしひしと神経に届いた。天皇の問題は国民の意思にかかってくる、敵も天皇の存続は一応認めてこの回答を送ったもので、日本の通告を黙認したものともとれると松本は解釈した。「これで大丈夫だ。この上交渉を重ねることは決裂に導くだけで何もならない。これを鵜呑みにする以外手はない。この際は何としても戦争を終わらねばならぬ。私は外務大臣を説くから君は総理を説いてくれたまえ」 バーンズ回答の到着後ただちにどう解釈して、どう行動すべきかの輪郭を松本が立案し、迫水を支持者として動かした、長谷川毅氏はいう。
 東郷はバーンズ回答にひどく落胆した。バーンズ回答が猛反対にあうのは必至であり、これを鵜呑みにしなければならないと主張しても、それがどこまで受け入れられるかに自信がなかった。松本は逡巡する東郷を後にして、首相官邸に迫水を訪ね、二人は上司を騙すことに決めた。迫水は、東郷が鵜呑みにすることを決定したと首相に報告し、松本は、鈴木がこれに同意したと告げることにした。この作戦が功を奏し、東郷は首相と面談して、バーンズ回答を受諾することに合意した。

 陸軍省軍務局はバーンズ回答文を取り寄せ、外務省とは異なった翻訳をしていた。第一項については、天皇は連合国最高司令官に隷属する、と。これは天皇の神聖を否定するものだ、国体の根本的破壊を意味するものであると解釈した。第四項も、天皇統治の大権を認めておらず、国体の本義に反する人民政府を認めている、と。しかし参謀本部の上層部は、軍務局とは対照的に冷静な判断をしていた。池田純久中将(総合計画局長官)は統帥部の弱腰に毒舌を吐いた。第二課長の天野少将も武装解除を受け入れると大混乱になると警告した。しかし河辺参謀次長はこれらの批判に対して、「甘い甘い、まだまだこれらの人々は日本が如何なる事態に入っているか知らず、自惚心、自負心、自己陶酔、自己慰安、自己満足、この安易なる軍人心理が今日の悲況を醸成した。・・・嗚呼我等は敗れたり我等の信ずる皇国は滅ぼされたり」と思わず自己批判し、日記に吐露している。河辺は敗北を認めていた。
 しかし梅津参謀総長と豊田軍令部総長は、天皇への拝謁を願い出て、バーンズ回答は無条件降伏を要求し、国体の根本である天皇の尊厳を冒涜するものであるから、断固として拒否すべきであると上奏した。侍従武官長は部下から懇請されて渋々上奏しているような態度だったと印象を述べているが、天皇はまだ正式な回答文書が届かないうちに結論を出すことをたしなめた。軍務局は最高戦争指導会議が召集されることを予期して、「敵側回答の条件を断固拒絶し真に帝国の存亡を賭して大東亜戦争の目的完遂に邁進する」という方針を採択していた。その要項から、軍務局は明らかに戒厳令を布いて軍の独裁政権樹立を「考慮していたことが窺える、と長谷川氏。この草案には総長・大臣以下関係者の花押・捺印があり、阿南が過激派に与していたのに対し、梅津・河辺が終戦に傾いていたことが見て取れる、と。
 過激派は着々とクーデタの準備を進めていた。その中心は阿南の義弟である軍務局の竹下正彦中佐であった。天皇を人質にとって幽閉し、和平派を殺害して、軍事独裁政権を樹立する計画であった。竹下は義兄に向かって、ポツダム宣言の拒否を要求し、それが出来ないならば切腹すべきであると激しい言葉を吐いた。阿南は陰謀者たちの計画を黙って聞いていた。積極的にクーデタ反対の態度を示さなかった、と長谷川はいう。

 東郷は首相官邸で鈴木とバーンズ回答を受諾すると合意した後、皇居に参内、天皇にバーンズ回答について報告した。東郷は、国体について、国民の意思が尊重されるから皇室の安泰は確保されるであろうと外務省見解を紹介し、天皇はこれを支持した。和平派の合意が成立したかに見えた瞬間、二つの方角からトラブルが起った。まず、阿南が鈴木に面会して、陸軍はバーンズ回答を受諾することに真っ向から反対であると通告した。阿南は、連合国が国体の維持を拒否した場合、首相は戦争継続を支持すると約束したはずだ、と。もう一つの方角は、平沼がバーンズ回答の受諾に反対した。国体論の神がかり的信奉者であった平沼には、天皇が連合国最高司令官に従属すること、また将来の政体が国民の総意で決められることは絶対に受け入れる事が出来なかった。日本の国体と民主主義とは彼にとって共存し得ない概念であった、と長谷川氏。阿南と平沼の攻撃、そして陸軍将校のクーデタの可能性は、鈴木の決心を揺るがせた。平沼は首相官邸から皇居に向かい、木戸との面会を要求した。平沼の議論に動揺した木戸は、バーンズ回答は国体を否定するものではないかという疑問を天皇に告白した。天皇は、バーンズ回答の中の「自由に表明された国民の意思」という表現に触れて、国民が皇室を支持するなら皇室の安泰もさらに強固になるのだから、明確に国民の自由意志の表明によって決めることは良いことだと思うと言明した。木戸は天皇のこの言葉を聞いた時「パッと目が開いた様な気持ちになった」と想起している。戦争継続は民族と国家の破滅に導かれる、そうなれば国体護持など二の次の問題になると思った。

 午後六時、外務省はバーンズ回答の正式文書を受け取った。しかし和平派が新しい戦略を練る時間が取れるよう、このニュースを翌日の朝まで伏せていた。その間、参謀本部には支那派遣軍総司令官岡村寧次大将から電文を受け取り、「断乎として全軍玉砕を賭して」最後まで戦うことを要求していた。同様の電報は寺内寿一南方軍総司令官からも、その他各地の外地派遣軍からも次々送られてきた。阿南、梅津が心配したように、敗戦を外地派遣軍に知らせて投降させるのは容易なことではなかった。これはまた、海の向こうのスティムソンが憂慮した事態でもあった。

 13日午前9時、首相官邸の地下室で最高戦争指導会議が開かれた。陸軍からの要求で、内閣法制局長村瀬直養が特別に出席、村瀬は法的観点から、バーンズ回答は国体と抵触するものではないという外務省の解釈に同意すると述べた。阿南は著名な国史学者の説を引用して、この解釈に猛烈に反対した。しかしこの時、参謀本部と軍令部の二総長が天皇に呼び出された。天皇は、日本と連合国が戦争終結の条件を審議している間は攻撃的軍事行動を停止することを命じた。梅津は自己防衛以外のあらゆる軍事行動を禁止する命令を出すと約束した。両総長が皇居から帰ってきて、最高戦争指導会議は再開された。阿南と梅津は自主的武装解除と本土の非占領を条件に加えるよう主張、東郷はバーンズ回答の修正を求めることは戦争を継続することに等しいと論じた。最高戦争指導会議がふたたび混迷に陥った。四時近くに閣議が開かれた。鈴木は各閣僚の意見を募った。15人の閣僚のうち、12人が東郷の意見を支持、阿南を含む三人が反対した。鈴木は日本に残された時間はない、自分は閣僚の意見を天皇に伝え、天皇の決定を待つつもりであると述べた。すでに鈴木は再度、御前会議を開くことを示唆した。閣議の途中で、迫水は呼び出され、廊下には朝日新聞の柴田敏夫記者が、一片の紙片を示した。「大本営午後四時発表、皇軍は、新たに勅命を拝し、米英ソ支四か国軍に対し、作戦を開始せり」と。陸相はまったく知らないと答えた。迫水は池田に頼み、梅津と連絡して、四時数分前にこれを取り消すことに成功した。後で迫水は陸軍次官、参謀次長の決裁があったと記しているが、両次長はすでに終戦を受け入れていたので、軍務局のクーデタの陰謀を企てた者から出た者であろうと、長谷川氏。とにかく間一髪で危機が避けられた。

 13日の夜、6人のクーデタ計画の首謀者が陸軍大臣の官邸に阿南を訪ね、計画の詳細を説明し、大臣の支持を要請した。阿南は黙って聞いたが、これを支持するか否かについては如何なるコメントも避けた。将校たちは二時間にわたり、阿南をクーデタ計画の指導者として陰謀に引き込もうと試みたが、阿南はこれにコミットすることはなかった。
 アメリカの忍耐は極限に達していた。バーンズ回答が送られて二日間、日本から何の返事もなかった。その間、ソ連軍は満州の奥地へと侵攻した。日本の受諾の遅延は、ソ連が自国の支配下に置く領土の拡大に絶好の機会を与えた。アメリカは最後通牒の検討を始めた。
 14日の早朝、木戸はこの朝B-29から東京に散布されたビラの一枚を手にした。「戦争をただちにやめるか否かはお国の政府にかかっています。皆さまは次の二通の公式通告をお読みになれば、どうすれば戦争をやめることができるかがお判りになります」と宣伝していた。今まで国民の目に触れないようにしていた情報が表立って分かってしまっては、逆に軍が動き出す引き金になるかもしれないと恐れた木戸は、八時半に天皇に拝謁して、直ちに御前会議を開くことを提案し、天皇の裁可を得た。これは単に木戸の発案ではない、この筋書きは明らかではないが、シナリオが描かれていたのは確か、と長谷川氏。

 御前会議が召集される直前、畑俊六、杉山元、永野修身三元帥が宮中に参内、永野、杉山が軍はいまだに余力を有しており、上陸する米軍を撃滅することが可能であると上奏したのに対し、畑元帥は「防御に就いては敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなし」と報告し、ポツダム宣言受諾も止むを得ないと述べた。天皇は「戦局急変してソは参戦し、科学の力は特攻も対抗し得ず。依ってポツダム宣言を受諾するの外なきこととなれり」と説明し、このまま戦争を続ければ形勢はますます悪化して国家を救済することも出来なくなる、また皇室の安泰は敵側からの確約があり、それについては心配ないと述べた。ふーむ、ここまで冷静に状況を把握し、行く末を考えていた人がトップにいたことは、まことに幸いなことであった。当時天皇は44歳。
 その上で、後に御前会議で発する言葉を元帥たちに伝え、天皇の決定は深く考えた結果であるから元帥も協力するようにと言い渡した。三元帥は深く頭を下げてこれを受け入れた。その後よく知られた御前会議、詳細は省くが、全部で23人の出席者が、10時に皇居に出頭せよと突然の通知を受けた。各閣僚は十時に閣議に出席する予定であったが、そのまま参内した。参列者が多いので、机は取り除かれ、天皇の前に机が置かれたほかは、玉座に面して三列に椅子が並んだ。10時15分、天皇は元帥の軍服をまとい、白い手袋をはめて、侍従武官長を従えて入室した。天皇が着席すると、鈴木首相が今までの経過を説明、全会一致に至らなかったので、ここで反対意見をお聞き取り願って、その後聖断を受けたいと発言した。鈴木は、梅津、阿南、豊田を指名し、三人それぞれ発言したが、これまでの議論に加えて新しいものはなかった。鈴木は多数意見を代表する東郷を指名することなく、直ちに天皇の意見を賜った。天皇はとぎれとぎれに、国内の事情と世界の現状を考えると、これ以上戦争をすることは無理と考える、バーンズ回答は悪意を以て書かれたものではなく、国民全体の信念と覚悟の問題であるから、この際先方の回答を受諾しても宜しいと考える。さらに、国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよく分かるが、しかし、私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う、と述べた。さらに天皇は、三国干渉の時の明治天皇の苦衷を追懐するかのように、耐えがたきを堪え、忍び難きを忍び、将来の回復に期待したい、この決定がこれまで戦場にあって戦死し、内地にあっても戦傷を負い、戦災をこうむった国民、とりわけ陸海軍将兵を動揺させることになるのを危惧している、彼らを説得するために自らマイクの前に立って国民に呼びかけることもいとわないといった。
 終戦の聖断が下った。8月14日正午であった。
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終戦間際の中米ソの駆引き

2019年08月25日 | 歴史を尋ねる
 8月12日(日)、トルーマン大統領は執務をこなしながらバーンズ回答(日本の条件付きポツダム宣言受諾回答に対する)に対する日本の返事を待っていた。しかし日本からはなかなか返事が来なかった。その一方で、大統領はスターリンがマッカーサーの連合国最高司令官への任命に同意する書簡を受け取った。しかし、トルーマンはソ連の満州侵攻を憂慮していた。エドワード・ポーレイは「朝鮮と満州の工業地帯を占拠するためにアメリカ軍を速やかに派遣すること」を勧告、ハリマンもこの勧告を支持した。さらにハリマンは、「スターリンが宋子文に対して要求を拡大していることにかんがみ、私は遼東半島と朝鮮の日本軍の降伏を受け入れるためにアメリカ軍の上陸が敢行されることを勧める。われわれはソ連に対してこれらの地域でソ連の軍事行動を認めるいかなる義務を負うものではないと信じる」と言い切った。
 重慶からは、ハーレイ大使と中国派遣アメリカ軍司令官ウェデマイヤー中将が、大統領に警報を発してきた。中国共産党の軍事指導者である朱徳が、日本軍とその傀儡軍は近くにいる反日本軍に降伏せよという放送を行っている、共産軍は日本に支配されているいかなる地域にも入っていいし、行政を支配する権利がある、と言っている。内戦が迫っている、とウェデマイヤーは警告していた。そしてアメリカは、日本軍が国民党に支配された軍に降伏する方法を講じるよう訴えた。
 アメリカ政府はソ連軍が遼東半島、朝鮮に進攻し、さらにソ連軍と中国共産党とが協力するかもしれないことを危惧した。統合参謀本部は大統領に、日本に対する降伏文書の草案を提出、トルーマンは勧告を考慮して、マッカーサーのみの署名から、四連合国代表者の署名に切り替えた。それは、ソ連を対象にしたもので、ソ連に日本占領がアメリカの独占的課題であることを認めさせることに主眼があった。
 これより一日前、トルーマンはスティムソンとフォーレスタルの勧告に反して、日本への爆撃を続けることを決定した。8月10日から14日の間に、千機以上の爆撃機が日本の都市を空爆し、一万五千人以上の日本人が死亡した。しかしアメリカの焼夷弾が雨のように日本の都市に降り注いでいたのに、日本政府は決定を下せないでいた。話を日本側が条件付きポツダム宣言受諾の回答を出したところに、巻き戻す。

 御前会議の聖断がなされた後の日本の政局は動揺と混乱に満ちていた、長谷川毅氏は解説する。高木惣吉はその日記に、「陸軍のクーデタの気勢は刻々と高まり、海軍の決戦論者も、必死になって終戦の妨害に努めた。鈴木は唯陛下の指図を仰ぐばかりで、自らは少しも采配を振ろうとせず、梅津、阿南、豊田は決戦論に取りつかれ、重臣は何れも安全地帯から見物という姿で、決死の覚悟で和平を尽くしたのは米内、木戸のほか寂々たる少数にすぎなかった」と記している、と。高木の記述は、少々オーバーに聞こえるが、当時高木にはそう映ったのだろう。当事者は余りにも重たい敗戦処理に呆然自失の体をなしていたということではないか。戦場を経験していない将校たちが、決戦・決戦といきり立っていたのだろう。海軍の決戦論者などは、余程の人間だ。
 マリク大使は9日東郷との会見を要請したが、東郷は多忙を理由に会うことを拒否した。10日になって、マリクと会見、マリクが宣戦布告を読み上げ、東郷はマリクに怒りをぶちまけた。東郷は、日本政府が皇室の安泰の重要性を強調し、天皇の大権が侵されないことを条件にポツダム宣言を受諾する決定をしたことをマリクに告げ、日本政府の正式の受諾声明を連合国に速やかに伝達することを依頼した。
 8月11日の朝刊を目にした日本の読者は、政府がポツダム宣言を受諾して終戦の決定をしたとは誰も思わなかった。情報局の下村総裁は、国体維持のために困難に接し忍耐を以て対処することを国民に訴えたが、政府が終戦を決意したという言及は何処にもなかった。さらに朝刊は、「たとえ、草を食み土をかじり野に伏すとも断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず」と戦いを続けることを訴えた陸軍大臣の勇ましい声明を掲載していた。この布告は阿南の許可なしに出された。
 御前会議終了後、陸軍省に戻り省の上級課員を招集し、阿南と吉積軍務局長は、軍の一糸みだれざる統制の維持を要望した。この時一人の課員が立ち上がって「大臣は進むも退くも阿南についてこいと言われたが、それでは大臣は退くことも考えて居られるのか」と質問、阿南は「不服なものは、まず阿南を斬れ」と答えた。しかしこの応答は、将来の陸軍省、参謀本部将校の行動の先触れであった、と長谷川氏。これらの将校は非公式の会合を至る所で開いて、いかなる行動をとるかを討議した。この興奮した雰囲気の中でクーデタの計画が練られていった、と。そして陸軍大臣の名前で布告が出された。しかし、この布告の文章を冷静に読むと、日本の窮状がよく分かる。彼らでも、そこまでは隠せなかった。実に悲壮な文面だ。

 8月10日午前7時30分、アメリカの短波放送は「同盟通信」からのモールス信号を受信した。さらにマジックの暗号解読から、大統領は日本政府の回答文の中身を掴んでいた。大統領は直ちにバーンズ、スティムソン、フォーレスタル、レーヒーを召集、会議を開いて、日本の条件付きポツダム宣言受諾を拒否することが決定された。この決定にバーンズがもっとも重要は役割を果たした。バーンズは当初、この条件でも日本の回答を受諾することに傾いていた。アメリカ国民のえん戦気分が気がかりで、大統領自身、一日も早く戦争を終了したい意思を持っていた。しかしグルーがドゥーマンとバランティーンと共に二回にわたり、この条件を認めることは日本の軍国主義を徹底的に破壊するというアメリカの戦争目的から逸脱すると論じ、バーンズはこの意見に説得された。
 トルーマンは会議の初めに一連の問いを発した。日本政府の回答はポツダム宣言受諾と見做すことができるか、天皇制を維持しながら日本の軍国主義を抹殺することが可能か、条件付きのポツダム宣言受諾を考慮すべきか。これに対して、バーンズが条件付きには問題があることを指摘し、これを認めることはルーズベルト、トルーマンの二人が明確にした公式の宣言から逸脱することになる、と主張。レーヒーは天皇に手を付けないのは勝利を遅らせるのに比べれば些細なことである、と。スティムソンは、様々な地域に散らばっている日本軍を降伏させ、硫黄島や沖縄を繰り返さないようにするためには、日本軍は天皇以外の権威を認めないであろうと述べた。フォーレスタルは爆撃が続けば日本人の憎悪はアメリカだけに向けられ、それがロシア人、イギリス人、中国人には向けられなくなる、として、スティムソンの提案を支持した。しかし、バーンズはこの多数意見に反対した。ポツダムの三巨頭は無条件降伏を主張した。その時は原爆も投下されずソ連も参戦していなかった。その合意を翻して、より大きな妥協を日本にしなければならないのか理解できない、といい、日本の条件を呑むことは、大統領を磔にすることになると、国内政治の問題を持ち出した。フォーレスタルは、実質的にはポツダム宣言をが受諾されることを明確にしつつ、降伏の条件を定義する形で、日本の条件を受け入れる準備があることを示す回答を作成するという妥協案を提案、トルーマンはこれを受け入れ、バーンズにこの草案作成を命じた。
 バーンズ回答の主要な点は、第一項「降伏の時から天皇と日本政府の権威は連合国最高司令官に従属する」、第四項「日本の究極的な政体は日本国民の自由に表明される意志によって定められる」と。バーンズ回答は天皇の地位を維持することを排除していなかったが、天皇と皇室の運命については沈黙を保っていた。

 ソ連政府は日本政府の条件付きポツダム宣言受諾の回答を受け取ると、中国政府にも伝え、戦争終結前に中ソで条約を締結するときがやって来た、とスターリンは宋子文に迫った。中ソの間で、中国共産党に関する重要な意見交換があった。ソ連は国民政府を中国唯一の政府として支持することを規定しているが、この条項に、中国政府が中国の統一を達成し、民主化を行うことをソ連政府が認めたあとにという句を付け加えるよう提案した。これは国民政府が共産党との連立政府をつくることをスターリンは意図したが、宋子文は断乎として拒否、第七セッションはふたたび決裂に終わったが、スターリンは早く条約を締結しなければ、共産主義者はが満州を支配するかもしれないと不気味な警告を発した。
 ハリマンは中ソ交渉のゆくえに大きな危惧を抱いた。大きな障害はスターリンの大連港の共同管理権と東清鉄道、南満州鉄道でのソ連の経営権の要求で、大連港がソ連の共同管理権を認めるならば、それはアメリカの利益に大きな打撃を与えることになると警告し、バーンズからの訓令を要請した。また、ソ連政府は日本政府の条件付降伏の回答を受け取ったが、これは無条件降伏を認めていないので、ソ連は懐疑的である、ソ連軍は満州の内部170キロにまで侵攻しており、さらに前進するつもりである。この攻撃こそ、ソ連政府の日本の条件付降伏に対する回答であると宣言した。この会談中に、ジョージ・ケナンがバーンズ回答を携行し、ハリマンを通じて同意するかどうかの回答を即座に求めた。
 米ソの日本占領を巡る駆引きが始まった。バーンズ回答は連合国最高司令官に従属すると規定していた。これはドイツで悩ませた共同責任という形を回避することを明確にするためだった。ソ連政府は連合国最高司令官に複数の司令官を任命することを提案して、アメリカ政府の意図に挑戦してきた。ハリマンはモロトフに、「アメリカは太平洋戦争での負担で単独で四年間担って来た。それによって、日本がソ連の背後から攻撃するのを抑える役割を果たしてきた。ソ連政府はこの戦争でたった二日間しか戦っていない。アメリカ人以外の最高司令官などというのはまったく考えられない」。 モロトフはこれに対して色をなして、大使の言葉に答えるのは躊躇したい、なぜならそれをすれば、ヨーロッパでの戦争と比較せざるを得ないからだといった。後からスターリンから協議したいといってきたが、ハリマンは断乎として拒否した。ソ連政府は引き下がった。しかし、これは最初のつばぜり合いに過ぎなかった。バーンズ回答はイギリス、中国、ソ連の承認を得た。国務省は11日午前、日本政府に対し、スウェーデン政府を通じてバーンズ回答を送付した。
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御前会議のご聖断 2

2019年08月19日 | 歴史を尋ねる
 8月9日、午前に開かれた最高戦争指導会議でポツダム宣言受諾に一条件を付帯した和平派と四条件を付帯した継戦派に分かれ、六巨頭の合意ができなかった。会議が休会するや討議の内容は指導者の側近たちに伝った。和平派、継戦派ともに、彼らの考えを指導者に伝えて、その立場を強硬に貫くよう運動した。松本は東郷に、一条件でのポツダム宣言受諾にいかなる妥協もしてはいけないと進言した。軍令部次長の大西滝次郎中将(神風特攻隊の創設者)は陸軍省に足を伸ばして、自分の上司である米内を信じることが出来ないので、断乎として戦争の継続を主張するよう阿南に懇願した。陸軍省の急進的将校は阿南が四条件を付けたといえども、ポツダム宣言を受諾しての終戦に同意したことに憤慨した。双方が次の会議に向けて準備をしたのであり、それは双方の立場をさらに強硬にさせ、妥協を難しくした。

 午後二時半、鈴木が皇居から首相官邸に帰ってから、緊急閣議が始まった。東郷による最高戦争指導会議での経過報告と一条件のみでのポツダム宣言受諾提案の後、阿南は、国体の護持を保障する手段は軍隊を維持することであり、軍隊が存在しなければ一条件を付けたとしても、この条件を履行させる手段がないので、これは無条件降伏に等しい、原爆が投下されソ連が参戦した後ではもはや勝利は不可能であるが、大和民族の名誉にかけて戦い続ければまだチャンスはある、と述べた。午前の最高戦争指導会議では沈黙を守っていた米内が発言し、原爆投下とソ連参戦のほかに、国内の情勢が戦争の継続を許さない、日本は物理的にも精神的にも戦争を継続する状態ではなく、現在必要なのは希望的観測ではなく冷徹な合理的判断である、とし、一条件のみのポツダム宣言受諾を支持した。他の閣僚も意見を述べたが意見が纏まらず、五時半閉会した。

 閣議の後、松本俊一外務次官と迫水内閣書記官長が会見し、この際「聖断」でことを運ぶよりほかに手段がないことで合意した。閣議の後、鈴木はふたたび参内、閣議の結果を木戸に報告、木戸は鈴木に、天皇が御前会議を開催することに同意したと告げた。鈴木はここで初めて天皇が一条件のみでポツダム宣言を受諾する案を支持していることを知らされた。和平派は御前会議で天皇の聖断で行き詰まりを打開する策に、鈴木を引きずり込むことに成功した。
 2回目の閣議が六時半から開かれた。米内が戦争で負けていると発言したのに対して、阿南は会戦では負けても、戦争では負けていないと応酬した、さらに国体の護持は四条件を付けて初めて国体の護持が可能であると主張した。午後十時、鈴木は討論を打ち切った。首相はふたたび最高戦争指導会議を開催し、この結果を天皇に報告すると述べた。鈴木は木戸のシナリオに従って行動した。

 この直後、鈴木が東郷を伴って参内し、天皇に閣議の討論の結果を報告し、天皇の御前で最高戦争指導会議を開催したいと要請した。さらに鈴木は、枢密院議長平沼騏一郎の出席も要請した。ポツダム宣言受諾は一種の条約と考えられ、枢密院の受諾を得なければならない。この煩を避けるためであった。御前会議召集の通報は軍部に大きな衝撃を与えた。陸軍省軍務局長の吉積政雄中将、海軍軍務局長保科善四郎中将、その他の陸海軍の幹部から課長、中小佐までが迫水の執務室に押し掛け、殺気立って、約束が違うとなじった。物騒にも軍刀を手にかけていた者もいた。迫水はこの御前会議で聖断が下されることはおくびにも出さず、この会議は構成員の意見を陛下に聞いていただこうという趣旨であると説明、阿南にも同じ説明をした。迫水はふたたび軍を騙した。それにしても、継戦派はどうしてこのように容易に騙されたのか、長谷川氏は疑問を挟んで考える。阿南、梅津、豊田はうすうす和平派の陰謀を知っていながら故意に騙されることを選択したのかもしれない、彼らが和平派の企てを気が付かないほどお人よしではない。彼らの戦争継続は確信に欠けていた。しかし彼らは下からの戦争継続を求める圧力をひしひしと感じていた。豊田によると、阿南の梅津は和平が不可避だと思っていたが、急進的な将校の圧力で強硬な意見を主張せざるを得なかったと記している。梅津と阿南は恐らく戦争を継続すべきか、終息するべきかで迷っていた。天皇の聖断が下れば、和平にも大義名分が立つ。聖断は彼らの隠れ蓑となる、と。長谷川氏は少々皮肉が過ぎる感じがするが。それにしても、迫水のところに押しかけた軍部の将校たち、彼らは戦況をどう見ていたのか、聞きたいところだ。そこまで事態がみえなくなっていたのか、そうではないだろう、ここまで戦死者を出し日本が危機存亡の淵迄追い詰められて、その責任の取り方が分からなくなっていたのではないか。覚悟なく始まった大戦争、当然その収拾の仕方も考えがなかった。東條英機が大東亜戦争は自衛戦争だったということ自体、軍部には、責任の取り方が判らなかったということだろう。

 御前会議は皇居の地下防空壕の会議室で、9日午後十一時五十分に始まった。形式的には最高戦争指導会議ではあったが、六巨頭のほかに、平沼と、幹事として迫水、吉積、保科、池田純久内閣総合計画局長官と蓮沼蕃侍従武官長が陪席した。幹事の陪席が決まった経緯はわからないが、一つは迫水が陪席するためには形式上他の巨頭の補佐も出席させなければならないこと、第二に、軍の補佐を陪席させ聖断に関与させれば軍の反対を封じることになる、と意図したのだろうと長谷川氏。
 迫水がポツダム宣言のテキストを読み上げた後、鈴木が今までの論議を説明、一条件と四条件との二分されてまだ結論が出ていないことを報告した。鈴木の後に、東郷が甲案を擁護する論を述べた。次に米内が口を切り、東郷の意見に賛成であると述べた。阿南が次に意見を求められ、「全然反対である。その理由はカイロ宣言は満州国の抹殺を包含するが故に道義国家の生命を失うこととなる。少なくとも受諾するにしても四条件を具備する必要がある。特にソ連の如き道義なき国家に対し、一方申入れを以ってせんとする案には同意することが出来ない。一億枕を並べて斃れても大義に生きるべきなり。飽くまで戦争を継続する訳ではない。充分戦いをなし得るの自信がある。米に対しても本土決戦に対して自信あり、海外諸国にある軍隊は無条件に矛を収めないし、内国民にも飽くまで戦うものがあり、斯くては内乱の恐れがある」と。梅津は阿南の意見に同意であると述べ、無条件降伏をするまでの状態になったとは言えない、いま無条件降伏をしては戦死者に済まないから、四条件を付帯することが最小限の譲歩であるとした。
 次いで平沼は出席者が辟易するほど時間をとって多くの質問をした。最後の東郷原案の天皇の地位について法に従属することのない文案の修正を要求した。そしてこの修正案にはいかなる異議も出されなかった。ここまでこぎつけたことで精一杯であった。最後に豊田が意見を述べた後、鈴木が立って、長時間にわたって論議を重ねたが結論は出ない、しかし事態は深刻であり、一刻も猶予が許されない状況である、この際、聖断を仰ぐしかなしと発言して天皇の玉座の前に進んだ。阿南が驚いたように「総理!」と声をかけたが、鈴木は玉座の前で最敬礼して、天皇の発言を求めた。天皇は少しからだを前に乗り出し、「朕の意見は外務大臣の申しているところに同意である」と結論から切り出した。
 「従来勝利獲得の自信ありと聞いているが、今まで計画と実行とが一致しない、又陸軍大臣の言う所によれば九十九里浜の築城が八月中旬に出来上がるとのことであったが、未だ出来上がっていない、又新設師団が出来ても之に渡すべき兵器は整っていないということだ。これではあの機械力を誇る米英軍に対し勝算の見込みなし。朕の股肱たる軍人より武器を取り上げ、又朕の臣を戦争責任者として引渡すことは之を忍びざるも、大局上明治天皇の三国干渉のご決断の例に倣い、忍び難きを忍び、人民を破局より救い、世界人類の幸福の為に斯く決心したのである」 
 天皇の発言が終わると鈴木が起立して「御思召しのほどは賜りました」と述べ、天皇は一同の最敬礼のうちに退場した。すでに8月10日午前二時三十分であった。

 午前三時に閣議が再開され、天皇の聖断を採択する決定を行った。この時阿南は鈴木と米内に条件を付けた。もし連合国が天皇の国家統治の大権を認める条件を拒否すれば、彼らも戦争継続を支持するとの約束をすることであった。鈴木と米内は之を約束せざるを得なかった。梅津は参謀本部に帰り河辺に御前会議での結果を告げた。この日の河辺に日記は「嗚呼万事休俟」と。和平派の策は成功し、後は連合国の反応を待つばかりであった。

 
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御前会議のご聖断

2019年08月13日 | 歴史を尋ねる
 極東でのソ連の軍事行動の最大の目的は、ヤルタ条約でスターリンに約束された領土、鉄道、港を占拠することであった。ソ連は、西からザバイカル方面軍、東からの第一極東方面軍による大きな挟撃作戦をとり、さらに北からの第二極東方面軍がこれを補助する攻撃をなし、三方から満州の中央の長春、奉天に向けて進撃した。1945年8月には増強されたソ連軍は150万に達し、これに対峙する日本軍はすでに弱体化し、71万の関東軍、朝鮮・樺太・千島に配置された28万の軍だけであった。
 8月9日午前一時、関東軍総司令部の当直参謀は、ソ連軍が東部満州国境を越えて満州に侵入したという報告を受けた。関東軍は国境では静謐を保ち、事を起してはならぬという命令を大本営から受けていたので、ソ連の侵攻に反攻するのにためらいがあった。そのうちソ連の宣戦布告の報が入り、関東軍は戦闘態勢に入り、秦総参謀長は、それぞれの作戦計画に基づき敵を粉砕すべしと、命令を出した。これが午前六時、その間関東軍はもたもたしていた。しかし関東軍は敵を粉砕すべき準備も装備もなかった。また、関東軍の対応が遅れたのは、大本営の命令を待っていた。しかし、肝心の大本営は、頼みにしていたソ連の中立という柱が崩れ落ち、これにどう対処するか作戦さえ立てることが出来なかった。
 8月9日未明、同盟通信のラジオは、モスクワ放送が対日宣戦布告の放送を流して入りることをキャッチ、直ちに迫水と東郷に伝えた。迫水は何度の本当かと確かめ、立っている大地が崩れるような気がし、また全身の血が逆流するような憤怒を覚えた、と記している。東郷も何度も本当かと繰り返し聞いた、と。早朝、外務省の四首脳(東郷、松本、安藤、渋沢)は直ちにポツダム宣言を受諾し戦争を終結するより他の手段はないことに同意した。さらに、ポツダム宣言の受諾については、皇室の安泰の一条件一本槍で行かねばならないこと、しかし、連合国の天皇に対する反感を考慮して、この条件を条件として提起するのではなく、「ポツダム宣言受諾は皇室の地位にいかなる影響も及ぼさないという理解の下に」と一方的に宣言することにした。
 鈴木首相は木戸を訪ねたが、ここで木戸は鈴木に天皇の意向を伝え「この際ポツダム宣言を利用して戦争を終結に導く必要」を力説した。鈴木は直ちに最高戦争指導会議を招集した。

 軍部の最後の期待を込めて計画した「決号」作戦は、ソ連の中立を前提にしていた。陸軍参謀本部はソ連が参戦してくる可能性もあると想定していたが、ソ連の動向には警戒を要するとはしながらも、本年度内にソ連が対日武力発動の算は少ないとしていた。関東軍はこの楽観的な意見に影響されてソ連の武力行使に対する準備を怠った。参謀次長河辺虎四郎はソ連参戦の報を受けその印象を「ソは遂に起ちたり! 予の判断は外れたり」と記している。河辺は「決号」作戦の主要な作戦立案者であり、河辺のショックをそのまま表している。そして、「然し今に及んで和平を顧眄する限りにも非ず、こうした戦勢戦雲も半面に予期したる所なり、何の事はなし。唯大和民族の矜持において戦いを継続するあるのみ、開戦の決を定むるにあたって常に余は慎重軟弱の派に属せり、然しこうなって来た時に和平や降参を考えたくもなし、何としてもやるだけなり」と河辺は記している。うむ、残念ながら、河辺の感想は個人的感想だ、国を思って記していない
 午前8時に大本営は河辺参謀部長、宮崎周一第一部長が参加してソ連参戦に対応する作戦会議を開いた。従来の政策は関東軍は強いと思わせることだったが、ソ連が攻撃したからには、こちらのウソがいっぺんにばれて、どこくらい持つか、あとは時間の問題だ、負けるに決まっている。どうせ負けるなら、後のことを考えるべきだ、という結論になった。外務省や関東軍はソ連に宣戦布告を出すよう要求しているが、大本営はまだ日ソ間には中立条約がある、国際世論でソ連を非難させる方が得であると考えて、対ソ宣戦を布告しないと決定した。ソ連軍が雪崩のように満州に攻め入っている時に、大本営は米ソ離間の可能性を考えて対ソ戦は深入りしないと、まったく現実離れした考えに基づいて作戦を構築した。そして関東軍に攻撃の準備をせよと命令するものだった。ソ連軍から全面攻撃を受けている関東軍はこの命令を実行することが出来なかった。

 8月9日午前11時、二発目の原爆が長崎に投下された。トルーマンはラジオで声明を発表。「われわれは爆弾を開発し、それを使用した。真珠湾で警告なしに我々を攻撃した者たちに対して、アメリカの捕虜を餓死させ、殴打し、処刑した者たちに対して、また戦争における行動を規定する国際法を遵守しようと見せる事さえすべて放棄した者たちに対してこの爆弾を使用した」と。報復の念、それが広島と長崎に爆弾が落とされた後の声明に共通した主題であった。
 ジョージア州のラッセル上院議員は、ジャップに直ちに止めを刺すためもっと原爆を使用せよと要求する電報をトルーマンに送った。その回答は、「私は日本が戦争において恐ろしく残酷で非文明的な国であることを知っている。しかし、私は彼らが野獣であるから、我々もそのように振舞わなければならないという論には与しない。私としては、一つの国の指導者が豚のように強情であったとしてもその全国民を抹殺してしまわなければならないとすることには戸惑いを感じざるを得ない。これを貴下のためにお伝えしておくが、私はこれが絶対に必要であると確信しなければこれを再び使用することはないであろう」
 8月10日の閣議でトルーマンは、今後大統領の許可なしに原爆の使用は停止されるという決定を発表した。トルーマンの原爆に対する考え方に大きな変化が起った。原爆は軍事目標のみにむけられていると繰り返し主張していたにも関わらず、トルーマンはそれが女子供をも殺害したこと、原爆をふたたび使用することは人間的な感情を冒涜するものだということを理解した、おそらく大統領は、広島の原爆が十万人の死者をもたらしたというマジックの報告を目にしたからだろう、と長谷川毅氏は推測する。

 東京では午前11時、皇居の地下室で最高戦争指導会議が開かれた。まず、原爆とソ連参戦によってポツダム宣言を受諾して終戦する以外の選択はなくなった、という鈴木首相の言葉で会議は始まった。冒頭の言葉の後に重々しい沈黙が続いたのち、米内が口火を切って4つに項目について研究してみたらどうか、と述べた以下の進行は、すでに当ブログで既述済みである。ポツダム宣言受諾による戦争の終結という原則では一致したが、条件は一つにするのか、それとも四つの条件を付帯するのかについては合意を見なかった。午後1時に休会、予定されていた閣議の後に再開することになった。鈴木は会議の結果を木戸に報告に来た。木戸のよれば、鈴木は四つの条件(皇室の安泰、自主的撤兵、戦争責任者の自国での処理、保障占領をしない)の下でポツダム宣言を受諾することを決定したと報告した、と理解した。明確なのは、木戸は四条件を付帯してのポツダム宣言受諾を何の抵抗もなく受け入れた。しかし近衛は、この四条件は連合国の拒否にあうのは不可避であり、終戦工作のぶち壊しになることを憂慮し、木戸と昵懇ぼ仲である重光を派遣して木戸の説得にあたらせようとした。
 木戸は重光と四時に会見、木戸は重光の干渉に不機嫌であった。天皇の勅裁で平和の目途はついた。それを如何に実行していくかは政府の仕事であり、勅裁、勅裁といって陛下に迷惑を掛けようとしていると、木戸は激しい口調で詰った。しかし重光は事態は土壇場に来ており、時間はない、この機を逃せば内外収拾すべからざる大事に至る恐れ、政府内閣の出来ない処を陛下に御願いするのであると説明、この際は軍部を押さえて天皇の直接の採決によって戦争を終結するよりほかの手段はないと訴えた。重光はソ連を影響を強調した。ソ連軍は破竹の勢いで満州に進出しており、今後、樺太、千島、さらには北海道にまで進行する可能性がある。ソ連が戦争終結後に日本の占領政策に及ぼす影響、とりわけ、ソ連が皇室の維持に対して否定的であることを強調して木戸の意見を変えようとした、と長谷川氏は推測する。重光の嘆願は木戸を説得することとなった。木戸はふたたび天皇に拝謁、天皇との会談を終えて執務室に戻り、「陛下は万事能く御了解で非常な決心で居られる。君等は心配ない。それで今夜直ちに御前会議を開いて、御前で意見を吐き、勅裁を仰いで決定するように内閣側で手続きを執る様にしようではないか」と木戸は重光に提案した。「聖断による終戦」のシナリオがここで作られた。
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原爆とソ連の参戦

2019年08月06日 | 歴史を尋ねる
 再び、長谷川毅氏の「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」に戻った。氏は日本の終戦にいたる政治過程を国際的な文脈から分析した学術的研究を目指して、本著作が出来た。前回までは、ポツダム宣言発表後の日本の政治過程を辿ったときに、最高戦争指導会議での豊田副武軍令部総長の言動に違和感を感じ、そのために大戦における海軍の行動を追いかけて来た。今回は、長谷川氏のいう国際的文脈から原爆投下に至る過程とソ連参戦を整理して置きたい。
 
 スターリンはトルーマンがソ連を出し抜いて日本の降伏を勝ち取ろうと企てていると確信した。スターリンはポツダムで、八月半ばまでに日本に対する戦争に参加するとトルーマンに語ったが、トルーマンがポツダム宣言の作成と発表に際して、完全にスターリンを締め出したことで、スターリンは戦争開始の時刻表を変更した。モスクワに帰国した8月5日、スターリンはソ連指導部高官たちとの会議をこなし、日本との戦争、アメリカの原爆使用の可能性について討議した。ソ連はまっしぐらに対日戦争へと進んでいった。
 7月31日、原爆「リトルボーイ」は実戦に使用する準備が出来た。しかし日本を台風が襲ったので、投下は延期された。七機のB29がこの任務につくことになった。原爆を搭載する一機、気象観測機三機、護衛機二機、原爆の投下とその結果を観察する任務を帯びた科学専門のジャーナリストとカメラマンを載せた飛行機一機。与えられた特別任務とは、広島、小倉、長崎のうちのどれか一つの都市に原爆を投下することだった。8月5日の天候は良好に向かうと予報され、6日テニアン時間午前2時45分、エノラ・ゲイは離陸、午前8時15分、リトル・ボーイは広島に投下された。その威力は12,500トンのTNTの爆発を同等の威力で、爆発点の温度は華氏5,400度、爆心地から半マイル以内に大きな火の玉が発生、この範囲内にいた人々の内臓を蒸発させ、小さな丸焦げの塊になった。爆発の後に発生した爆風は火災を引き起こし、市内全7万6千戸の家屋のうち、7万戸が全焼した。35万人の広島の人口のうち、11万の市民と2万の軍人が即死、1945年末までに14万人が死亡した。

 ワシントンでは大統領声明が発表された。「アメリカの爆撃機が広島に一発の爆弾を投下し、広島が待つ対敵効果を破壊した。この爆弾はTNT2万トン以上の威力がある」この爆弾は日本が真珠湾攻撃によって戦争開始した行為に対する報復である、原爆はさらに製造されており、より強力な爆弾が作られている。「7月26日の最後通告が出されたのは日本の人々を完全なる破壊から救うためであった。しかし、彼らの指導者は直ちにこの最後通牒を拒否した。もし彼らが我々の条件を受け入れないならば、いまだかってこの地球では見られなかったような空からの破壊の雨を予期しなければならない。この空からの攻撃につづいて海と陸からの攻撃がなされるであろう。そしてその数と力は彼らがこれまでに知っている戦闘技術を遥かに上回るこれまで見たことのないものであろう」と。トルーマンは広島への原爆投下の報に歓喜した。それは、日本人を殺戮することに喜びを見出したからではない。むしろ、トルーマンとバーンズが立案した「時刻表」通りに物事が進んでいったことに喜んだ。この後のなすべきことは日本降伏の報を待つことだけだった。

 日本では、最後の本土決戦を準備していた継戦派と、一刻も早く戦争を終結させなければならないと判断した和平派とが熾烈な競争を演じていた。8月7日の午前、鈴木首相は閣議を開いた。この閣議で、東郷は放送で伝えられたトルーマン声明を紹介し、これが原爆であることを報告した。阿南はこれに疑問を提起、現地に調査団を派遣して事実を確かめるべきと主張、結局この意見が通り、閣議がポツダム宣言受諾の方向に一歩を踏み出すことはなかった。
 8月6日夕5時、すでに原爆は投下されたがまだその情報を受け取っていない東郷外相は佐藤駐露大使に、スターリン、モロトフが帰国したと聞いているので、至急モロトフと会見せよと訓令した。続いて原爆投下の形成を踏まえ、7日の電報は同じ訓令を繰り返した。トルーマンの声明の内容を知っていながらも、東郷は依然としてソ連の仲介によって戦争の終結を成し遂げようとした。ふーむ、東郷もこの緊急時に、意固地になっている。理解が出来ない。佐藤は7日午後7時、東郷に返電を打った。モロトフが明8日午後5時に会見する、と。東郷が天皇に拝謁して原爆に関するトルーマン声明を詳細に上奏し、これを転機に戦争終結に決することを述べ、天皇の言葉を東郷は「陛下はその通りである。この種武器が使用せらるる以上戦争継続は不可能になったから、有利な条件を得ようとして戦争終結の時期を逸することはよくないと思う。また条件を相談しても纏まらないのではないかと思うから成るべく早く戦争の終結を見るよう取り運ぶことを希望すると述べられて総理にもその旨を伝えよとの御沙汰であった」と記している。ふーむ、しかし、そのあとの政府内の動向を調べても、戦争終結に政策の舵を切ったという事実はあまりないようである。広島への原爆投下は、日本の指導者に政策の変更を促すだけの効果がなかった。そうするには、広島の原爆よりも大きなショックが必要であった。豊田軍令部総長は戦後の文書で「まだその一発の原子爆弾で戦争継続をどうするかということを論議する程度には、状況が進んでいなかったのである」と述べている。むしろ、原爆投下はいっそうソ連の斡旋への期待に拍車をかけたのである、と長谷川毅氏。東郷の罪は極めて大きい。

 広島へ原爆投下のニュースを受け取ったスターリンはすぐに行動を起した。スターリンはワシレフスキーに攻撃開始の日時を48時間繰り上げて8月9日の零時に設定することを命じた。この命令を受けてバイカル方面軍、第一極東方面軍、第二極東方面軍、太平洋艦隊に宛てて4本の命令を発令した。それは全戦線で同時に攻撃を開始せよという命令だった。スターリンはさらに、この日午後十時に中国代表団との交渉を始めることを通告した。
 スターリン・宋子文交渉は、宋が大連を中国によって管理される自由港とすることを提案したが、スターリンはソ連が大連をコントロールする特別の権益を持つべきであると主張した。これに対し宋は、スターリンの要求は中国の主権を侵害することである、中国はすでに外蒙古、旅順、鉄道で譲歩した、従って今回譲歩するのはスターリンの番である。スターリンはこれに反駁して、将来の日本の脅威に対抗するためにこの譲歩が必要である、日本は降伏するだろうが、その後30年以内にはふたたび力を回復する、ソ連の港は鉄道と結びついていない、ゆえにソ連が大連と旅順をコントロールることが必要である、と言った。両者の意見はすれ違い、この日の交渉は合意に達しなかった。スターリンはイデオロギーではなく、地政学的利益によって行動していた。彼にとって対日参戦最大の目的はヤルタで約束された代償を獲得することであった。そしてスターリンはソ連が満州に進撃しても、アメリカと中国はこの行動をヤルタ違反であると抗議することはないであろうと最終的に判断した。ソ連が満州の奥深く攻め込んでも、アメリカも中国もこれを咎めれば、ソ連が中国における唯一の正統政府として国民党を支持する姿勢を買えるかもしれないことを恐れ、結局、ソ連の軍事行動を認めるであろうと正確に読み切っていた、と長谷川毅氏は解説する。

 佐藤大使は油橋重遠を伴って時間通り五時にモロトフの執務室に到着した。佐藤は特派大使派遣についてモロトフの回答について幻想を抱いていなかった。しかしここで起こったことは冷徹な外交官であった佐藤も、まったく想像もしないことであった。部屋に案内され佐藤が挨拶をしようとすると、モロトフはこれを遮り、声明を読み上げるので座って欲しいと合図した。この声明は、日本がポツダム宣言を拒否したので、「そのため日本政府が極東での戦争についてソ連政府に斡旋を依頼していたことのすべてが根拠を失った」と述べた。また声明は「連合国はソ連政府に対して、戦争終結までの時間を短縮し、犠牲者の数を少なくし、全世界の速やかな平和の確立に貢献するために日本の侵略に対する戦争に参加することを申し入れた」と述べ、連合国に対する義務を忠実に果たすためにソ連政府はポツダム宣言に参加したと説明した。ソ連政府は、ソ連の参戦こそが「平和の到来を早め、今後起こりうる犠牲と苦難より諸国民を解放し、またドイツが無条件降伏を拒否した後に体験した危険と破壊から日本国民を救うための唯一の方法である」と判断し、「明日、8月9日よりソ連と日本は戦争状態にあるものと見做す」と宣言した。宣戦布告を読み上げてから、モロトフはテキストのコピーを佐藤に手渡した。佐藤は宣戦布告の事実とモロトフとかわした会話の内容を本国政府に暗号電報で伝える許可を求めた。モロトフはこれを承諾した。しかし佐藤の打った電報は日本に到着しなかった。というより、ソ連政府はソ連の奇襲攻撃が抜かりなく遂行できるよう、すべての電報を差し止めた。
 連合国のソ連政府に対するポツダム宣言への参加要請を参戦の理由としてあげているが、これは真っ赤なウソである、と長谷川氏。日本に対するソ連の宣戦布告は、同時にアメリカに対する挑戦であった。これは、いざ戦争が始まれば、連合国はこの大きいウソを暴くことはないであろうと予想したスターリンの掛けであった、と長谷川氏。日本大使館に帰る車の中で佐藤大使は油橋につぶやいた。「来るべきものがついにやってきたね」
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