革新運動の担い手

2015年12月26日 | 歴史を尋ねる
 革新運動の担い手と目された軍部は、如何にして革新運動に参加することとなったか、緒方氏の説を聴くこととしたい。軍部内における革新の要求は、北や大川が影響を及ぼす以前から存在し、主として技術および指導者選定方法で軍の近代化を求めていた。第一次大戦に参加した軍人が得た最大の教訓は、欧州諸国と比較して日本の軍備、戦略が非常に立ち遅れていたことであった。フランス駐在の陸軍武官砲兵大佐小林順一郎はパノラマ式眼鏡の採用を求めたが、昔ながらの戦争観に固執して許可されず、小林は軍籍を辞して「日本陸軍改造論」を公表し、その後国家主義運動に投じて近代化による国防の確立を説いた。軍の近代化を阻む最大の要因は、藩閥の跋扈にあった。日本の憲政史は明治以来緩慢ではあるが着実に藩閥勢力が交代したが、陸海軍において長州および薩摩の出身者が依然として強力な支配を保ち続け、特に陸軍は山県有朋を筆頭に長州の勢力は牢固として、長州出身者のみが将官を約束されているが如くで、大戦を通じて近代戦に処するには、藩閥出身の上層部は無能であることが明らかとなり、反長州ないし非長州の不満は結集され、次第に一つの勢力として動き始めた。

 軍を近代化しようとする試みが広く支持されたのは、大戦後多くの少壮将校が民主主義および社会主義思想に影響され、軍の既存体制に批判的となっていたからでもあった。平等原理に基づくこれらの西洋思想は、軍隊内で絶対視されていた上下関係の基礎を揺るがすものであった。従来ならば疑意を差し挟む余地のなかった上官の命令に服従するにも、新しい理由付けが必要となった。北一輝が「兵営又は軍艦内において階級的表章以外の物質的生活の階級を廃止す」ることを唱えれば、荒木貞夫は軍隊における階級と社会における階級の相違について、軍の統制を民主主義理念と関連させた上で、「聊かも我が軍隊の階級は、統制上必要なる体系であって、社会における階級とは全く別個の存在である。・・・明治五年の兵制改革によって、国民皆兵の実を挙げ、封建時代の弊風は一掃され、将校が一般国民より自由に選抜任用され、その社会的出身において兵士と異なるところがない。従って軍隊の階級は軍構成上よりくる秩序の上に立つもので、社会上の階級と何らの関係がないのである」 荒木がこの様な説明を試みたことは、民主主義思想が軍の統制に及ぼした特異な影響を示すものだ。大戦後の軍は、内部的には明らかに分裂化の方向へ動いていた、と緒方氏。ここまで軍の内部を掘り下げて分析する見解に余所ではあまり出会はないが、当時の青年将校・兵士に人気があったという荒木の素顔が感じ取れる。

 第一次大戦後の日本はベルサイユ体制を謳歌し、世間一般も民主主義と平和とを賞賛する有様であったので、健軍以来初めて軍は日陰者の不運を経験することとなった。守勢にあった軍を政党政治に反対する方向に傾けたのは軍縮問題でった。大正11年(1922)与野党は相次いで軍備縮小と軍部大臣の任用に関する建議案を議会に提出し、一斉に軍部を攻撃した。その結果建議案は衆議院のほとんど総意によって可決され、政党政治の意気を示した。しかし軍部は実行困難を理由に反対を続けたが、その後年々繰り返される軍縮決議案に接し、軍部は政党政治から圧迫を受け、嫌悪の情も芽生えて来た。政党が軍縮を厳しく迫ったのは、次第に深刻になった行った不況の中で軍事費を節減し、ここで得た財源を生産的な支出へ切り替える必要があるからでもあった。経済界は将来の国際競争は、もはや軍備ではなく、総合的な生産力によって決定されると考え、企業の合理化と生産力の向上に邁進する気構えであった。更に一般大衆は日常生活の圧迫を少しでも緩和するものとして軍縮を望んだ。
 昭和5年(1930)、ロンドン海軍軍備縮小条約の締結をめぐって、軍部対政府・議会の対立は頂点に達した。かねてから海軍は対米七割を主張していたが、浜口内閣は国際協調の立場からこれを譲歩し、軍令部の強硬な反対を押し切って条約を成立させた。国防用兵の責任者である軍令部の意見を無視して国際条約を取り決めたのは統帥権の干犯であるとし、さらに軍令部長加藤寛治は、条約で規定された兵力を以て完全な国防計画を確立出来ないという理由で辞任した。その後海軍部内では、加藤を中心とする艦隊派と海軍省を中心とする条約派との対立が続き、大きなしこりを残すことになった。

 財政緊縮と国際協調とを基本政策としていた浜口内閣にとって、ロンドン条約を締結し得たことは大きな成功であったが、軍令部の反対を強引に押切って条約を成立させたため、政府は海軍部内のみならず、陸軍部内ならびに民間国家革新論者を著しく刺激する結果になった。その上、昭和5年夏から秋にかけて農村に波及した世界恐慌は、これらの革新論者を一層急進的な反政府の方向に駆り立てた。特に軍の場合、国家改造運動を推進していた少壮将校の多くは中産階級または中小地主層の出身であり、彼らが兵営生活で接触する兵士たちの多数は農民階級に属していた。政党内閣の下で、満州において日本の権益は脅かされ、世界恐慌下において中小企業が没落し、農民階級が深刻な窮乏に陥って行き、そして軍縮が軍の存立を圧迫するのを見て、彼らは断固として国内政治を刷新するため行動しなければならないと決心した。軍内部に国家革新を目標とする組織が次々と結成されたのは、以上のような第一次大戦後の情勢を背景としていた。

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