毛沢東 盧溝橋事件前後

2016年10月22日 | 歴史を尋ねる
 蒋介石が解放された翌月(1937年1月)、早速中共側から国民党側に打電があり、「兵士5万人を保留し毎月50万元の軍費を支払ってほしい」旨の要求があった。紅軍は壊滅寸前で経費的にも限界に来ていた。蒋介石は、1万5千人以上の兵士を持つことは許さないと返答したが、結局押し問答の末、2万5千人で妥協し、毎月20万~30万元の軍費を蒋介石が中共側兵士に支給することが決定した。当時ソ連のスターリンは、ドイツやイタリアで台頭するファシズムへの対抗措置を講じなければならず、コミンテルンが中共にお金を支給するような経済的ゆとりがなくなっていた。そのため国民党と合作させ、国民党の禄をはみ、国民党に養ってもらう中で、中共軍が拡大して行けばいいと考えていたと遠藤誉氏。「日本軍と蒋介石を戦わせて共倒れさせ、共産革命を成功させる野心」が着々進んだ、と。西安事件直前の36年12月7日、毛沢東は朱徳に代わって中央革命軍事委員会主席に正式に就任していた。

 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中の撃戦が始まった。中国ではこの事件を「七七事変」と称している。日本軍支那駐屯軍第三大隊および歩兵砲隊は、前日6日から軍事演習を行っていた。北京市内にも異様なほど日本軍の戦車が押し寄せ、ただならぬ雰囲気が漂っていた。夜間演習中に「中国軍が実弾を発射した」と日本側、中国側は日本軍側の陰謀と主張。明白なことは、日本軍が他国にいて戦争が始まったことだ。盧溝橋事件の第一報が入ると、毛沢東は「災禍を引き起こすあの厄介者の蒋介石も、ついにこれで日本と正面衝突さ」と言い、張聞天は「抗日戦争がついに始まったぞ、これで蒋介石には、我々をやっつける余力がなくなっただろう」といって喜んだという。1938年4月まで延安にいた紅第四方面軍の軍事委員会主席・張国燾が『我的回憶(我が回想)』で詳細に記録していると遠藤氏。

 1937年8月22日、中共中央は陝西省洛川で中共中央政治局拡大会議(洛川会議)を開催、「中国共産党抗日十大綱領」を決議発布した。その内容は、日本帝国主義を打倒せよ、抗日のために民族は団結せよ、といった中華民族のナショナリズムを掻き立てるものであった。しかしこれはあくまでも人心掌握のための宣伝文句であって、「日本軍との正面衝突を避けよ」という命令が出されていたことを、多くの元中共指導者が伝記に記している、と。先に引いた張国燾の回想録に中で、毛沢東は「敵の力が集中しているところを避け、手薄なところを攻撃する。吾々の主要任務は八路軍の実力を拡大することである。敵の後方で中共が指導するゲリラ根拠地を創ることが肝要だ」「愛国主義に惑わされてはならない」「前線に行って抗日の英雄になってはならない」など、具体的な毛沢東の言葉を記録している、と。他の元中共指導層の回想録も同様に、「抗日戦争の間は正面に出て日本軍と戦ったりせず、小さなゲリラ戦をやっては大きく宣伝し、いかに中共軍がすばらしいかを人民に浸透させる。それにより広範な人民を中共側に付け、抗日戦争の間は中共軍が強大化することを第一の目的とする。日本が敗退したら一気に国民党軍を打倒し新中国を誕生させるという、深い革命理念を持たなければならない」ということだとも遠藤氏。確かに、表面に現れた時系列の歴史的事実を見るだけでなく、こうした側面(歴史を動かした人物の当時の深い考え)から見ていくと、歴史的事件がもっともっと生々しく、ダイナミックに目の前に現れてくる。

 洛川(らくせん)会議の初日、蒋介石は元紅第一方面軍を「国民革命軍第八路軍」と定めたことが発表された。以後「八路軍」と呼ばれるようになり、「新四軍」(南方8省にいた元紅軍)と共に、日本敗戦後の国共内戦後半期に「中国人民解放軍」と改称されていく。その他「満州国」内には東北抗日連軍がいて、第一路軍、二路軍、三路軍などに分かれていたが、この系列はコミンテルン配下に金日成など、やがて現在の北朝鮮を形成する部隊なども含んで複雑なものであったという。
 八路軍が陜北を出発しようとした時、毛沢東は八路軍の幹部を集めて次のように指示した。(内容は極秘命令が出ていたが、八路軍から逃げ出した元幹部がのちに口外した)
 中日の戦いは、我が党の発展にとって絶好の機会だ。吾々が決めた政策は70%は我が党の発展のために使い、20%(国民党との)妥協のために使う。残りの10%だけを対日作戦のために使う。もし総部と連絡が取れなくなっても、以下のことを守るように。その1:(国民党との)妥協段階。服従しているふりをする。三民主義を唱えているように振舞うが、実際は我が党の生存発展を覆い隠す。その二:競争段階。2,3年の時間を使って、我が党の政治と武力の基礎を築き、国民政府に対抗、破壊できる段階に達するまで、戦いを継続。同時に国民党軍の黄河以北の勢力を消滅させる。その三:進撃段階。華中地区に深く入り込み根拠地を創って、中央軍(国民党軍)の各地区における交通手段を遮断し、孤立して連携が出来ないように持っていく。我が党の反撃が十分に熟成されるまで行う。そののち最後の国民党の掌中から指導的地位を奪う。

 この時代、互いに裏切り、寝返り、欺き、スパイなどという言葉では表現しきれないほどの諜報活動が国共両軍ともに渾然一体となって展開されていた。特に国共合作していたから、互いに相手の戦略を把握していなければならない。上記の情報は1977年「対日抗戦期間中共統戦策略之研究」が発表され、そこには引用文献があった。遠藤氏はさらにその引用文献の一次資料を追いかけるとその資料の著者は蒋介石自身であった(その著書は1962年国防部史政局による編纂であった)。そして、1940年8月、彭徳懐・八路軍副総指揮官が百個の団を組織して日本軍と真正面から戦い、日本軍の補給網に多大の損害を与え、大きな戦火を挙げた。のちに日本軍の対支派遣軍総司令官となる岡村寧次対象も、八路軍の強さに驚き、彭徳懐を高く評価した。しかし毛沢東は彭徳懐を激しく非難し、新中国誕生後、1959年の廬山会議で粛清されのちに獄死した。粛清のきっかけは1958年から毛沢東が始めた大躍進政策を批判したためとされているが、毛沢東の恨みは、何十年もため込んでおいてから、残忍な形で晴らされる、と。
 

国共合作と盧溝橋事件とゾルゲと

2016年10月17日 | 歴史を尋ねる
 瀋陽から満州事変に関する第一報を受け取った時、蒋介石は第三次中共掃討作戦の真っただ中で、江西省の南昌にいた。中共が中華ソビエト共和国を建国しようとしているのは江西省なので、ここで徹底して中共の紅軍を殲滅しなければ孫文の中国革命の遺志を遂げることは出来ない、それを実現するつもりだった。それを打ち砕いたのは日本の関東軍だった。満州事変が起きて大歓声を上げたのは毛沢東ら中共軍であった。これで予定通り中華ソビエト共和国を建国することが出来る。毛沢東は蒋介石国民党軍と党内権力闘争による挟み撃ちで、絶体絶命の淵にあった。毛沢東が1956年、元軍人の遠藤三郎とあった時、日本軍閥に感謝するといった思いはこの時点から発生していたと、遠藤誉氏。
 1931年11月中華ソビエト共和国が江西省の瑞金で正式に誕生し、臨時政府が樹立された。臨時政府の主席に選ばれたのは毛沢東だった。井岡山で上げた手柄(仲間を大量に殺戮した)が功を奏した。蒋介石は9月22日の演説で、日本が公然と侵略行為に出たのは痛心の極みだ。国民は挙国一致して真の愛国精神を発揮しなければならないと訴え、直ちに中華民国の名において国際連盟に日本国を提訴。蒋介石が中華民族の思いを切々と訴え本気で嘆き悩んでいるのに対して、毛沢東は満州事変を絶好のチャンスと位置付け、蒋介石の苦しい立場を逆利用し、蒋介石がすぐに日本と戦おうとしないことを以って、売国奴と宣伝し、戦っているのは共産党だけだと勇ましいスローガンを掲げ、抗日世論を煽った。蒋介石は尚も、攘外先安内を実行して、1936年6月、第四次中共掃討作戦を再開、しかしまたしても、日本軍の熱河省侵攻により、その対抗戦に力を注がなければならず、失敗に終わった。

 事態が動いたのは中共内部で表面化した内部分裂だった。毛沢東はゲリラ戦法を基本戦略に置いていた。これに対し、上海中共中央局を牛耳っている王明などのソ連組は正面出撃を主張。コミンテルンが毛沢東を批判し、毛沢東の代わりに張聞天を人民委員会主席の座に就けた。更に軍事顧問としてドイツ人のオットー・ブラウンを派遣した。当時ソ連のリーダーであったスターリンは、毛沢東のことを田舎バターと嘲笑っていたことを毛沢東は知っていた。特に歴代中共中央委員会総書記は毛沢東以外すべて留学組で、ほとんどがモスクワで、王明、張聞天、博古などがメンバーだった。毛沢東がソ連を嫌い、知識人を心の底から憎んだか想像できると遠藤氏。
 オットー・ブラウンは毛沢東のゲリラ戦法を捨てさせ、代わりに積極的な突撃型戦法を実施した。ところがその戦法に切り替えた瞬間、瑞金ソビエト政府はいとも簡単に壊滅、毛沢東ら紅軍は瑞金ソビエト政府を放棄し逃げ出した。蒋介石はまたしても毛沢東らを取り逃がした。毛沢東や周恩来、朱徳らに率いられた10万人の紅軍を第一方面軍、四川省や湖南省の紅軍を第四方面軍と呼び、各地に紅軍は散らばっていたが、コミンテルンの指示に従って、一斉に西へ北へ逃走を始めた。のちにこの敗走を北上抗日と称しているが国民党軍も追いかけられない、まして日本軍は一人もいない。しかしスローガンは中国工農紅軍の北上抗日宣言を出したり、一致団結して日本帝国主義を中国から追い出そうという宣伝ビラを160万部以上も印刷し配布している。中国人民はこの宣伝ビラを信じて来た。国民党軍は尚も追討を止めず、湖南、貴州、広西まで掃討を続けた。しかし毛沢東らは山中に逃げ込み、険しい地勢ばかり利用して逃走するので殲滅できなかった。ようやく国民党軍の守りが薄い貴州省の遵義県まで落ち延びたときには、10万人だった紅軍も3万5000人まで減った。1935年1月占拠した邸宅で遵義会議を開く。この会議ではコミンテルン指示による攻撃型戦法の失敗を総括し、ソ連組が失脚する。そして毛沢東は中共中央軍事委員会主席に選ばれた。紅軍は再び四川省ソビエトの第四方面軍と合流を目指し出発したが、四川省で蒋介石が待ち受けていることを知った毛沢東は突如南下し、貴州省に向かう。そこは雲南省と共にアヘンのデルタ地帯。蒋介石は重慶から軍用機で貴州に駆け付けたが、国民党の貴州軍はアヘン吸引者が多く、軍隊の体を成していない。毛沢東は追撃をかわして雲南省に逃げ込む。しかし紅第四方面軍と合流できた時は、毛沢東の紅第一方面軍はわずか1万人を残すだけであった。

 1936年2月、陝西省延安の山岳地帯に革命根拠地を構えた毛沢東が、食糧事情の困窮により東征抗日と称して山西省の農村に出撃すると、蒋介石はこれを迎撃すべく、山西省と陝西省に配備した国民党軍を動かした。そこに陝西省の指揮を執らせた者の中に張学良がいた。山西省で農民の食料の掠奪を行った紅軍は多くの兵士を失いほうほうの体で陝西省に引き上げた。蒋介石に言わせればもうすぐに紅軍を殲滅できるところまで来ていた。1936年12月、毛沢東らの誘いに負けて張学良が中共側に寝返り、西安で蒋介石を拉致監禁し、国共合作を無理やり吞ませてしまう。そもそも万里の長城の北側、中国東北地方にいた軍隊や住民の多くも、日本が満州国という傀儡政権を築いて以来、故郷を追われ不満の日々を送っていた。その哀しみを歌った「松花江上」の歌詞には、九一八という言葉が何度も出てくる。毛沢東は「中国人が中国人を打つのはおかしいではないか、一致して抗日に力を注ぎ、国を救おうではないか」と訴えた。これらの言葉は東北を追われた多くに人々の心に響いた。まずは兵士の段階、続いて毛沢東は周恩来や潘漢年に指示して、張学良を説得するよう命じた。

 蒋介石が最後の5分の戦いを命じたとき、西安にいた張学良が動かなかったことに蒋介石は怒った。わずかな部下を引き連れて張学良の下に行った。張学良は蒋介石を拉致監禁し、中共から指示された八つの要求を差し出し、これを吞めば南京に戻すと交換条件を出した。この要求に蒋介石は激怒してすべて拒絶、さっさと殺せと居直った。ところがそこへコミンテルンから指示が来た。蒋介石を殺してはならない、と。日本という敵がいて、蒋介石がその敵と戦っているという状況がないと、共産党が発展するのは厳しい。日本との戦争は蒋介石にさせろ、コミンテルンは、まもなく日中戦争が始まるのを知っていた。
 蒋介石が拉致されたのは1936年12月12日、自由の身になったのは25日、南京には26日に戻った。南京では一日遅れのクリスマスプレゼントだと言って爆竹が鳴り響き、蒋介石の巨大な肖像画が街を飾り、市民が蒋介石万歳!、中華民国万歳!と叫んで蒋介石を迎えた。蒋介石は逆に、自分の存在がこのように位置付けられていることに初めて知って深い感動を覚えたと遠藤氏は記述する。
 そして案の定、翌1937年7月7日、北京で盧溝橋事件が起き、日中全面戦争に入った、と。

日本軍が紅軍の危機を救った!

2016年10月10日 | 歴史を尋ねる
 1887年生まれの蒋介石(毛沢東は4年後生まれ)は、1907年渡日して東京振武学校で訓練を受けた後、1909年大日本帝国陸軍に勤務、1911年まで高田連隊の野戦砲兵隊の将校を務めた経験がある。1911年10月辛亥革命が勃発すると、帰国して革命に参加。1923年、孫文は蒋介石をモスクワに行かせ、ソ連赤軍の軍制視察をさせるが、コミンテルンは蒋介石を大歓迎しながら、コミンテルンに加入するよう執拗に蒋介石を勧誘した。またソ連は中国における一切の特権を放棄するとは言っているものの、いたるところでソ連の領土的野心が見えた。コミンテルンはきれいごとを言うが、実は国民党を利用して中国共産党を強大化させようと目論んでいることを見抜いた。蒋介石は帰国後すぐに孫文に進言したが、孫文には入れられなかった。1924年1月の第一回全国代表大会で、孫文の要請によりコミンテルンの代表が国民党の最高顧問になった。また国民党の中央候補執行委員に共産党員の毛沢東が選ばれ、ますます不信感を抱いた。ただしこの大会で軍官学校の設立が決議され、蒋介石が軍官学校校長兼広東軍総司令部参謀長に任命された。しかし黄埔軍官学校の学生募集の段階で、コミンテルンは周恩来や葉剣英など幹部候補生を送り込んできた。蒋介石が心血を注いだ軍事教育機関も、共産党員に占拠されそうになり、蒋介石の警戒心は益々高まった。

 1925年3月孫文が死去すると、孫文ヨッフェ宣言による国共合作は「政府:汪兆銘、ぐん:蒋介石、労農階級組織:中国共産党」の三つに分裂する傾向を呈した。5・30事件と称せられる労働争議が上海で起きた。上海の日系資本の製綿会社で起きた暴動で共産党員が死亡、これをきっかけに列強の租界行政に対する不満が爆発全国各地に広がった。これに対して北洋軍閥とその背後にある日本軍が弾圧を加えたので、全国規模のゼネスト運動に発展した。この後毛沢東は汪兆銘主席の下に駆け付け、宣伝部長代理、中央候補執行委員に選ばれたのは記述済み。
 軍を掌握したものが勝つ。これは中国の歴史の鉄則、コミンテルンは蒋介石を警戒した。1926年3月国民党海軍所属の軍艦が広州の沖合に現れると、蒋介石は自分を拉致してソ連に連れていく陰謀と察知し、艦長(共産党員)をはじめ、共産党員やソ連の軍事顧問関係者を逮捕、広州市に戒厳令を布いた。蒋介石は国民党の会議で「党務整理案」を提議、それにより共産党員は国民党執行機関で部長クラス以上の職位についてはならないとなった。汪兆銘ら国民党左派は毛沢東ら共産党員とともに反蒋介石を提唱し政府を武漢に移して執務をしていたが、この党務整理案が可決により、毛沢東は宣伝部長代理を離れ、汪兆銘と離れた。
 1926年6月、国民革命軍総司令に任命された蒋介石は、7月本格的な北伐を宣言、翌27年3月南京に入場すると、いきなり南京の民衆が日本を含む外国領事館や居留民を襲撃、南京事件の発生だった。蒋介石の評判を落とそうとしたコミンテルンの陰謀だった。この一連の動きを見た蒋介石は、中共勢力が政権を奪還しようとしていると感知し、4月上海クーデターを起こし、中共勢力を武力で粛清、中共側及び労働者側は惨敗した。毛沢東は中共の軍事力の無さを痛感、同時に労働者階級だけを相手にしていてはダメだ、中国人民の圧倒的多数を占める農民を味方につけなければならないと自覚、武力強化と農村に根拠地をという毛沢東の戦略が始まった。

 1927年6月、1年前に北伐を宣言した蒋介石は田中義一首相の第一次山東出兵などもあり、これ以上の北伐をあきらめ、南京防衛に留めた。7月、これまで中共に協力的であった国民党左派の汪兆銘武漢政府は、中共の背後にコミンテルンがあり、ソ連の野心のために中共が動かされていることを知ると、突然中共と手を切った。しかし打倒蒋介石のスローガンを捨てなかった。コミンテルンは南京事件を策謀したあと、打倒蒋介石のスローガンを掲げて、8月南昌蜂起させた。中共軍の建軍記念日は、現在もこの8月1日としている。蜂起軍は国民革命軍第二方面軍として、国民党内部の武力を一部接収していた。南昌の公安局長は朱徳でのちの中華人民共和国元帥、国家副主席となった。8月13日、蒋介石は嫌気が差して自ら辞職、その後田中義一首相と会談をしたが記述済みである。
 政界復帰の要望に押されて28年1月、蒋介石は国民革命軍総司令に復職、一気に北伐を完遂させようとした。田中内閣は、第2次、第3次山東出兵をするが、蒋介石はそれを縫いながら北伐を続け、奉天閥の張作霖を追いつめた。ところがこのとき張作霖爆殺事件が起きた。張作霖の息子・張学良は、父親が最後に残したとされる「日本軍にやられた」という言葉を知り、国民党の蒋介石と協力関係に動いた。これをもって、蒋介石の北伐は完了したと見做し、国民党による中国統一が一応完成したとしている。尚、国民党は時期によって首都が移動し、広州政府(孫文。1925~26年)、武漢政府(汪兆銘。1927、1937~38)、南京政府(蒋介石。1927年^37年、1946年~48年)、重慶政府(蒋介石。1937年~46年)と政府名を区別している。

 一方中国共産党は1927年8月、湖北省漢口で緊急会議を開き、政権は銃口から生まれるをスローガンに武力強化を決定、さらに銃口を牛耳るのは党であるとして、「党指揮槍」を党の基本とした。現在の中国でも軍は党の指揮下にある。中共中央委員会の管轄下に中共中央軍事委員会があり、その主席は中共中央の総書記が兼ねる。今は習近平が中共中央総書記であるとともに中共中央軍事委員会の主席である。この基本精神は1927年の「八七会議」で打ち立てられて以来、100年近く変わっていない。このときまだ軍事力など全くないのに、中共軍が各地で武装蜂起を起し、国民党軍と戦った。毛沢東も27年9月、5000人ほどの工農革命軍を率いて秋収起義を起して失敗している。10月に江西省の井岡山(せいこうざん)に逃げ、1000人ほどになってしまった敗残兵と共に山に身を隠そうとするが、井岡山には「山の掟」があった。そこは早くから農民自衛軍が樹立されており、山の大王がいた。毛沢東は警戒する大王を熱心に説得、最終的には毛沢東らを迎え入れた。井岡山革命根拠地は毛沢東が最初に切り開いた革命の聖地としてドラマや映画に登場するが、その陰には、一万人に及ぶ謎の大量殺戮、大粛清が潜んでいた。この一連の殺戮事件を、南京大学の教授だった高華氏が論文を書き、毛沢東が江西ソビエト地区を固め、瑞金に中華ソビエト政府を樹立するための権力基盤づくりのためだと結論付けていると、遠藤氏。この事件により毛沢東は、恐怖によって周りを従わせる帝王の道を学んだ。敵(日本)を倒すのではなく中華民族を殺し、特に革命に貢献した共産党員の仲間たちを処刑して自らの突出した権威を維持して行こうとする手法は、彼の生涯を通じて一貫している、と。
 農村革命根拠地という戦略により、毛沢東は農村における勢力範囲を拡大させ、地主や富農の土地を没収して貧農に分配するという土地革命を実施して行った。貧農にとって、地主に逆らったからには命はない、後戻りのできない状況に立たされながら、中共軍に参加して行った。まさに命がけだった。遠藤氏は、恐怖という心理を利用したものであったと、いう。

 この時点で、中共軍を中心としたソビエト区革命根拠地は全国に10ヶ所以上にまで広がった。コミンテルンは当初ヤドカリ方式をとっていたが、やがてソビエトと名乗れ、その軍隊を中国工農紅軍と解明するよう指示している。のちに中国人民解放軍の核心部分を形成する。1930年2月、江西省の瑞金を首都として中華ソビエト共和国創建に関する草案が決定された。コミンテルンの指示で、中華民国の中にコミンテルンをトップとする共和国を創るもので、紙幣の発行や銀行、軍や警察、病院や学校など、行政機能と社会生活機能を創るものであった。国の中に国を創る、しかもコミンテルンが管轄する、そんなことを許してなるものか、蒋介石はすぐさま紅軍を殲滅すべく、1930年12月、革命根拠地に対する包囲掃討作戦を始めた。第一次掃討作戦は10万人の国民党軍を投入した。しかし戦った相手は朱徳率いる紅第一方面軍で、殲滅することが出来なかった。1931年4月第二次掃討作戦には20万人の兵を投入、それでも殲滅出来ない。コミンテルンは当初、国共合作で日本と戦わせようと考えていた、しかし国共合作が決裂した今、共産圏の国を作るしかない、そのために武器支援を続けた。7月第三次掃討作戦に蒋介石は30万人の兵士で猛攻を行った。さすがに紅軍は大きなダメージを受け、毛沢東まで陣頭指揮に当たり苦戦した。この戦いはさらに20万人の兵士を増強し、50万人体制で紅軍を殲滅しようと作戦を練っていた。もう一歩のところで、満州事変が起きた。紅軍は救われた。日本軍が紅軍の危機を救った!。

毛沢東、国民党中央候補執行委員に当選

2016年10月08日 | 歴史を尋ねる
 近代中国の歴史的事実を蒋介石の眼を通して見るとよく分かるが、それでも限界がある。それを毛沢東の眼を通して見ると、その限界の所が霧が晴れてくる。その両者の角逐を通して近代中国が誕生したことが分かる。ここでは毛沢東が中国共産党の中で重きをなしてくる過程を遠藤氏の著書で追ってみたい。

 湖南省長沙に戻った毛沢東は小学校の歴史担当教員になりながら、1919年7月、「湘江評論」を創刊した。ところが当時湖南を制圧していた北洋軍閥の監軍、張敬堯に阻止され1カ月のちに発禁処分となった。激怒した毛沢東は、打倒張敬堯運動を起こす。地元の労働者、民衆を組織化しただけでなく、パンフレットも大量に作り、上海や広東あるいは北京など進歩分子の集まる地域に配り、抗議表明を各地で行った。この運動は様々な新聞にも載ったため、全国各地の進歩的知識人の下に届いた。結局、張敬堯は1920年6月、湖南監軍を罷免された。一連のことが功を奏したか、1921年7月、上海で開催された中国共産党第一回全国代表大会に、毛沢東は長沙代表として参加することになった。中国共産党創立委員の一人になった。このときの代表者は12人、党員は全国で50人前後しかいなかった。もし毛沢東が北京大学図書館に残っていたら、並み居る知識人の中で北京代表の中には入れなかっただろう。長沙に居てこそ代表メンバーであった。ただ第一回党大会において毛沢東はほとんど発言していない。毛沢東伝では、他の代表が外国語を話し、マルクス主義の本を熟読しており、文献に基づいた高邁な論理を展開していたので毛沢東は寡黙だったと伝えられている。

 国民党は、孫文が創立した中華革命党を1919年10月改組したものだった。中華革命党は1906年に三民主義を党綱領として結党し、辛亥革命を成功させている。共産党が誕生したころ、中国の国号は中華民国で、中華民国の政権与党は国民党であった。この孫文に対して、ソ連のコミンテルン(1919年の創立された共産主義政党による国際組織で、モスクワに本部を置くコミュニスト・インターナショナルのこと)は執拗に国共合作を提案してきた。誕生したばかりのソ連は新しい国家としての承認を各国に求めたが、なかなか承認してもらえず、いっそのこと世界各国を共産主義の国家にしてしまえということからコミンテルンを組織した。ヨーロッパでの受け入れがなかなか広がらないので、ソ連はターゲットを集中的に中国に絞った。そもそも中国共産党の創立は、コミンテルンのお膳立てであった。陳独秀や李大釗などをコミュンテルンのメンバーにして、モスクワの指導の下で中国共産党を創立させた。しかし党員の数が少なすぎる。1922年第二回党大会時、全党員は195人、それに比べ国民党員数は13万5千人に達していた。このままでは中国に共産主義政権を打ち立てることは出来ない、先ずは国民党に寄生して、そこから発展していくしかないと、コミンテルンでは議論された。その結果がヤドカリしながら国民党を内部から切り崩し、その中で共産党が大きく成長する策が決議された。
 孫文は最初のうちは激しく拒否したが、コミンテルン代表のヨッフェが「ソ連は中国に対する一切の特権を放棄する」「中国で共産主義を実行することはない」と誓い、「中華民国の統一と完全な独立を応援する」などと言い立て、ついには説得されて、孫文ヨッフェ宣言を出した。1923年6月の第三回党大会で大論争の末、共産党員個人の名義で国民党に入党することで妥協した。この形式はコミンテルンで計画したものだった。中国の統一という革命への情熱に燃えていた孫文は、1924年1月第一回の国民党全国代表大会を広州で開催した。この大会で孫文の三民主義を基本としながらも、国共合作のため「連ソ」「容共」「扶助工農」が党綱領として決議された。

 この大会には個人の資格で多くの共産党員が参加していた。毛沢東の参加し、彼は要所要所で積極的に意見表明を行い、その堂々とした、論理の通った発言に、孫文や国民党の幹部たちも驚いた。毛沢東の存在に注目し、国民党中枢の中央執行委員の選挙に当たり、候補者リストに毛沢東を入れた。そして国民党の執行部に高く評価され、毛沢東はいきなり国民党中央候補執行委員に当選した。孫文も汪兆銘も毛沢東のことが気に入り、国民党大会終了後、彼を国民党組織部秘書に就かせ、中国共産党中央も国民党に倣い、組織部、宣伝部などの部を設置して、毛沢東は中共中央の組織部長となった。
 順調に動き出したかに見えた国共合作だったが、国民党の右派は共産党員を嫌い、1925年3月孫文が逝去、8月左派の長老、寥仲愷が暗殺されると、共産党を絶対に受け入れない国民党右派が台頭し始めた。そのトップが蒋介石だった。しかし国民党左派には元老、汪兆銘がいた。孫文亡き後、汪兆銘は広州の国民政府の主席に就いた。この主席の座も、コミンテルンが背後で操っていた。国民党内に左派と右派というレッテルを生み出し、左派と右派をアピールしてイデオロギー的に異なるという固定観念を植え付けようという指令は、最初の段階でコミンテルンが出していた、と遠藤誉氏。そうすれば国民党を内部から分裂させることが出来るとの作戦だ、と。その結果、この時点までに国民党の主要なポストは国民党左派か共産党員によって占められ、共産党による国民党乗っ取り作戦は着実に進んでいた。
 1925年9月、湖南から広州に駆け付けた毛沢東は、汪兆銘から国民党中央宣伝部長代理に任命された。汪兆銘は主席としての執務が多すぎるため、自分が兼任していた宣伝部長の職を、毛沢東に譲った。のちに日本の傀儡政権の主席となる汪兆銘は、まるで弟のように毛沢東を可愛がり、10歳違いの二人はのちに汪兆銘傀儡政権と毛沢東との共謀につながった、と遠藤氏は解説する。表面の歴史的事実からは想像つかない、歴史の不思議だ。

毛沢東 韜光養晦(とうこうようかい)

2016年10月05日 | 歴史を尋ねる
 1893年毛沢東は湖南省韶山で生まれた。父親は裕福な農民で、毛沢東は5人兄弟の三男だったが、兄たちは早世したので、事実上長男として育てられた。父親は祖父に負債があったため、従軍して給料をもらい、多少の教育も受けただけで富農に這い上がったことから、ひどく厳格で金遣いに厳しい。毛沢東は小さい時から野良仕事をさせられ、8歳から読み書きの私塾に通わされたが、残り時間は野良仕事。やがて論語とか四書を読むようになり、当時禁書となっていた水滸伝、三国志演義、西遊記などに魅かれた。父親はこれをくだらない本ばかり読んでいる怠惰な親不孝者と罵った。客の前で父親を怒らせ、この事件で私塾に通うことも禁止、もっぱら農作業に専念るよう命ぜられた。こうした中で、毛沢東が編み出した帝王学の基本中の基本、「韜光養晦(とうこうようかい)」の萌芽があったかもしれないと遠藤氏。力がない間は闇に隠れて力を養い、報復の時を待つという意味らしい。
 毛沢東の知的欲求は止められない、反対する父親を親戚に説得して貰い、毛沢東は初めて小学校に上がった。この時学校は隣の県なので父親と離別、その時西郷隆盛が謳ったとする漢詩「将東遊題壁」をもじった漢詩「改西郷隆盛詩贈父親」を披露したという。元の漢詩の意味は「男児たるもの、いったん志を立てて郷里を離れるからには学問が大成しない限り二度と戻らない覚悟である。ちゃんとした墓地に埋葬されようなどという考えはとうに捨てている。どんな場所で野垂れ死のうと、本望である」と。小学校入学時に真似したとはいえこんな漢詩を書くのだから、この方面の才能はずば抜けていたということか。

 1911年、18歳の時に湖南省の省都・長沙の中学に入学、このとき孫文が広州で反清政府革命運動が起こしたことを知り、毛沢東の初めて政治的行動に出る。学校の壁にスローガンを貼り、清王朝への抗議の証に弁髪を自ら切った。武装蜂起が失敗に終わり、一部の革命運動家たちが長江流域に拠点を移し、湖北省武漢市の武昌で10月10日、武装蜂起が起こり、辛亥革命の幕開けとなった。このとき毛沢東も長沙革命軍の兵士となって革命運動に参加した。1912年2月、清王朝最後の皇帝溥儀の退位により、清王朝は崩壊した。再び長沙の中学校に戻ろうとしたが、結果ほとんど授業も出ず除籍となった。普通高校を受験したが、数学と英語がほとんどゼロで不合格。止むなく図書館で読書に没頭、父親からは今後一切の学費を出さないとの通告。そこで学費を払わなくてもいい師範学校に入学、親戚や小学校の恩師などの援助で授業に出れた。師範学校では社会科学にしか興味がなく、特に倫理学に強い関心を持った。ここでドイツ人哲学者が著した「倫理学原理」を繰り返し熟読、のちの毛沢東思想として提唱されていく「実践論」「矛盾論」の基礎を形成した。「倫理学原理」は毛沢東の中でマルクス主義への橋渡しの役割を果たすと同時に、マルクス主義の中国化という毛沢東思想の柱を作り上げたと遠藤誉氏は解説する。

 1917年10月、ロシア革命が起きて、帝政ロシアは崩壊しソビエト連邦が誕生した。そのとき中国はまだ、軍閥による内乱状態であった。毛沢東がいた師範学校にも内乱の波が押し寄せて来た。1917年11月、敗退した北洋軍閥が長沙市に逃げ込んできたので、師範学校の学生たちを避難させようとしたが、毛沢東は軍事教練をしている学生たちを組織して志願兵を結成し、敗残兵を撃退してはどうかと学校側に提案、長沙一帯は鉄道の要衝にあたり、群雄割拠する軍閥の敗残兵にあらされるという目に何度もあっていた。そのための軍事教練であった。200人ほどの学生志願軍を幾つかに分けて、3000人ほどの敗残兵が集まっている近くの山にひそませ、木刀を持たせて、爆竹を激しく鳴らした。地元の警察にも協力して貰い、実際の鉄砲も発砲させた。敗残兵はよほどの大群に包囲されたと勘違いし、正面攻撃することなく使者を遣わして交渉、3000人の敗残兵は降参し、持っていた武器をすべて学生側に渡した。この成功は毛沢東の「ゲリラ戦」戦略にきっかけを作った。そして長沙で毛沢東は英雄となった。

 1918年夏、毛沢東は師範学校を卒業した。この頃フランスに留学し、アルバイトをしながら勉学に励む「勤工倹学」が流行っていた。フランスが呼びかけ、北京大学の学長が組織した制度で、周恩来も鄧小平もこの制度に乗ってフランスに留学した。8月、毛沢東も北京大学の教授に異動した恩師の呼びかけで、二十数名の青年有志を伴って北京に向かった。恩師は毛沢東に北京大学の受験を勧めたが、大学受験資格を持っていなかった。そこで普通高校卒業に相当する実習をすれば学歴として認められるとして、図書館長室の清掃、新聞雑誌の整理、入館者の氏名登録などの事務職に就いた。このときの激しい劣等感と挫折感は毛沢東にほとばしるような復讐心を燃えたぎらせたに違いない、遠藤氏はそう見る。1919年4月、毛沢東は北京大学を去って長沙の小学校の教員になった。1919年5月4日は北京大学を中心に「五四運動」が起こり、中国の潮流を変え、中国共産党を誕生させるきっかけとなったこの大きなうねりを逃し、なぜ長沙に戻ったか、遠藤氏は考える。1949年10月、新中国を誕生させた毛沢東が始めたのは知識人の迫害だった。資本家階級が生んだインテリだとして、永久なる階級闘争を主張し、多くの知識人を逮捕投獄し、完膚なきまでに叩きのめした。
 文化大革命を発動したときに、大学を閉鎖し大学院を撤廃させて、革命に燃える工農兵が通う「専科」だけを残した。学歴を重んじる学校教育制度を完全に破壊し、普通高校以上の学歴を持つ者をすべて知識人と見做して辺境の地に下放し肉体労働に従事させている。知的レベルが高ければ高いほど迫害を受ける程度は激しく、民衆に暴力をふるわせ屈辱を与え、息絶えたときに、ようやく毛沢東は爽快感を味わった。遠藤氏はここまで言う。
 北京大学の研究所の特約研究員だった遠藤氏は、そのとき高齢の教授から毛沢東の話を聞いたという。老教授は声を潜めて、「もしあの時、北京大学側にもっと人を見抜く目と度量があったら、中国の歴史は違っていたよ」と。

遠藤誉著「毛沢東 日本軍と共謀した男」 

2016年10月03日 | 歴史を尋ねる
 遠藤 誉氏は、日本の女性物理学者、社会学者、作家。1941年、満州国新京市生まれ。日中戦争終結後も日本の独立回復まで中国で教育を受けた。国共内戦を決した長春(新京)包囲戦を体験。1952年、日本へ引き揚げ。1961年、東京都立新宿高等学校を卒業し、1975年、東京都立大学大学院理学研究科博士課程単位取得。1982年 東京都立大学の理学博士として、「モデル流動相における速度自己相関関数の分解の密度依存性 」を発表。以降、千葉大学、1993年から2001年まで筑波大学 物理工学系(留学生センター) の教授などを歴任。『卡子』は、満州での脱出行の体験を基に執筆されたが、 山崎豊子の『大地の子』が『卡子』の盗作であるとして提訴。 自論を主張する『卡子の検証』まで上梓したが敗訴。表題の著書は新潮新書のオファーからようやく執筆、昨年11月刊行された。ブログ主はBSフジ「プライムニュース」に出演した時、はじめて知ったが、共産党系の歴史的情報が限られる中、極めて貴重だ。本書の見開きに「私は皇軍に感謝している」・・・。日中戦争の時期、毛沢東は蒋介石や国民党軍の情報を日本に売り、巨額の情報提供料をせしめていた。それどころか、中共と日本軍との停戦すら申し入れている。毛沢東の基本戦略は、日本との戦いは蒋介石の国民党に任せ、温存した力をその後の国民党潰しに使い、自分が皇帝になることだった、と。歴史書を超えて小説の世界に入るきらいがあるが、こちらは冷静に耳を傾けたい。
 
 中国人民は、日中戦争中、毛沢東が率いる中国共産党軍こそが日本軍と勇敢に戦い日本を敗戦に追いやったと教えられてきた。その間、国民党軍は本気で戦おうとしなかったとして、国民党軍を率いる蒋介石を売国奴と位置付け、ののしって来た。台湾との平和統一が必要になった1980年代以降になると、ようやく国民党軍も少しは戦ったと修正、最近では国民党軍も中共軍とほぼ同様に日本軍と戦ったとするドラマが制作されるようになった。それでも2015年9月に盛大にも催された「中国人民抗日戦争勝利と世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典」に見られるように、日中戦争において中共軍がいかに勇猛果敢に戦ったかということが基本に位置付けられていた。自己評価は時間の経過に逆行して高まるばかり、だから中国人民解放軍の軍事パレードを大々的に行った、と。ウム、国内向けプロパガンダに留まらず、世界の指導者を呼んで祝ったことは、世界に向けても発信し続けている、ということになる。ウィキペデアを見ると、国家元首、政府指導者、高位政府代表、国際組織等代表、行進参加国などが詳細に綴られている。ドイツやイタリアも高位政府代表を送っている。招待した方もした方だが、歴史的事実は2番目だということだろう。遠藤氏は次のように繋ぐ。
 もしその中共軍が実は日中戦争時代、日本軍とはあまり大きな戦闘は行っておらず、それどころか日本軍と真正面から戦っている国民党軍を敗退させるべく、日本軍と共謀していたとしたら、どうだろう。中国は中共軍が日本軍を打倒したことによって誕生したとする神話が崩れるだけでなく、習近平政権の基軸も揺らぐだろう、と。毛沢東が最大の敵としたのは国民党の蒋介石である。毛沢東は、国民党軍に出来るだけ正面から日本軍と戦わせ、機が熟したら、消耗しきった国民党軍を叩き自分が中国の覇者になろうと計算していた。そのため1939年、毛沢東は潘漢年という中共スパイを上海にある日本諜報機関「岩井公館」に潜り込ませ、外務省の岩井英一と懇意にさせた。岩井英一は潘漢年から国民党軍に関する軍事情報を貰って、その見返りに高額の情報提供料を支払っていた。最も驚くべきは、潘漢年が毛沢東の指示により、岩井英一に「中共軍と日本軍の間の停戦」を申し込んでいた。

 毛沢東は1936年に西安事件(中国では西安事変)を起して蒋介石を騙し、国民党軍が中共軍を叩けないようにしておいてから、国民党軍の軍事情報を日本側諜報機関に売っていた。毛沢東の密命により、潘漢年接触したのは外務省系列だけでなく、当時の陸軍参謀にいた影佐禎昭大佐とも密会し、汪兆銘傀儡政権の特務機関とも内通していた。すべて中共軍との和議を交渉するためだった。
 1949年中華人民共和国が誕生してまもなく、毛沢東の個人的な意思決定により、潘漢年を逮捕投獄、売国奴としてその口を封じられたまま、1977年獄死した。名誉を回復されたのは死後5年経った1982年。すると潘漢年を知る多くの友人が、無念を晴らすため、情報を収集して、出版にまで及んだ。日本側資料としては岩井英一自らの筆による回想録も1983年出版された。毛沢東の戦略はあくまでも、天下を取るために政敵である蒋介石率いる国民党軍を弱体化させることにあった。そのためには日本軍だろうと、汪兆銘傀儡政権だろうと、どことでも手を結んだ。この戦略は毛沢東の「帝王学」であることを認識しなければならない、と遠藤氏。毛沢東が信奉したのはマルクスレーニン主義ではなく、マルクスレーニン主義を利用した「帝王学」だった。毛沢東にとって重要なのは人民ではなく、党であり、自分だった、と遠藤氏は手厳しい。

 中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあった。そこには毛沢東の命令を受けた中共側の寥承志と潘漢年らが勤務しており、駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一(特務工作)と協力して、「中共・日本軍協力諜報組織」のようなものが出来上がっていた。寥承志は中華人民共和国が誕生すると、各種業務を担当し、日本の高崎達之助と協力して、1962年に中日長期総合貿易覚書に調印するなど、戦後日本とも深く関係した人物だ。当時の日中貿易を頭文字をとってLT貿易と称した。寥承志を文化大革命の時以外投獄されなかったのは、日本側との接触が密でなかったためと、彼は東京生まれで早稲田大学に通い、日本人顔負けの日本語力を持っていたからだろうと推察している。
 1956年、毛沢東は遠藤三郎元中将らを中南海に招待し、「日本の軍閥が我々中国に侵攻したことを感謝する。あの戦争が無かったら、私たちはいまここにいない。その戦争があったからこそ、まかれた砂のような人民が団結出来た」といった。その後、多くの訪中日本人が毛沢東に会うたびに謝罪をするので、毛沢東は嫌気がさし、「皇軍に感謝する」と連発しながら「過去の拘らない」考え方を一貫して主張した。毛沢東は「南京大虐殺」に関して触れたがらず、教育現場でも基本的に教えていない。「南京大虐殺」が中国の教科書に載り始めたのは、毛沢東の逝去後、改革開放が始まってからであった。毛沢東時代と比べると、様変わりした。その転換点をもたらしたのは江沢民の愛国主義教育だった。江沢民の父親は日本が指揮する汪兆銘傀儡政権の宣伝部副部長であった。その出自がばれそうになったので、江沢民は愛国主義教育を反日教育の方に傾け、自分がいかに反日であるかを中国人民に見せようとした。毛沢東の深い策謀など知る由もない。それが現在の中国の若者たちの反日感情を煽り、胡錦濤政権、習近平政権もまた「親日政府」「売国政府」と人民に罵倒されないために、対日強硬策を演じている。毛沢東は生きている間、ただの一度も「抗日戦争勝利記念日」を祝ったことがない。それを祝うことは蒋介石を讃えることになると明確に認識していた。抗日戦争勝利記念日を全国レベルで祝い始めたのは、やはり江沢民であった。習近平政権が歴史カードをより高く掲げる背景は、アメリカを中心として形成されつつある対中包囲網を切り崩したい狙いもある、と。遠藤氏の語る近代中国の歴史観は大局的であり、極めてリアリステックな捉え方をしている。