政党外の超越的存在・勢力とメディア世論の結合

2015年03月29日 | 歴史を尋ねる
 貴族院が田中首相の問責決議案を可決した行為が適切だったかどうか評価は難しいが、当時東京日日新聞の論調は圧倒的多数派であった。「貴族院改革の声すらある今日において、貴族院がその行蔵を慎むは当然・・・同院が今回の如き断乎たる態度に出たことは、その背後に国民多数の意思が働いているという自信があるからだろう。・・・田中内閣は憲政史上、稀に見る悪政を重ね、恬として恥ずる所を知らない。加えるに、卑劣なる誘拐手段によって反対党を切り崩し、その当然失うべき過半数を衆議院に維持せる等、口には国民思想の善導を高唱しながら、そのなす所は全然これを裏切り、国家生存の将来を、危殆に陥れると見るべきものが多い」 また評論家は「衆議院に匙を投げた国民は貴族院によってはじめて溜飲を下げるという奇観を呈した」 また伊沢多喜男は「問責決議案可決は近衛文麿・細川護立・伊沢のやったことで、これが内閣瓦解の原因」だとし、小川平吉も「首相を斃せし弾丸は単に満州問題の一発に非ず・・・水野文相辞表に関する上院の所謂軽率不謹慎問題」をはじめ四点を指摘している。ふーむ、東日の稀に見る悪政という非難の中身は何なのか、過半数に達しない政権与党の苦労を少しも斟酌しないメディアも、議会にまだ理解が浅いということか。

 1928年4月、米仏は「国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし・・・国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその人民の名に於いて厳粛に宣言す」とする条約の締結を目指す旨を日・英・独・伊4国に送付した。日本政府は欣諾回答を送り、8月フランスで15か国代表が調印した。ところが条約文中に「各自の人民の名において」は天皇の大権干犯だと攻撃が行われ始め、9月から政治問題化した。12月に召集された第56議会では、野党はこの問題で政府を激しく攻撃した。田中首相は、この字句は「人民のために」という意味で何も問題ないと答弁、議会はかろうじて通過したが、枢密院では平沼騏一郎らが反発し、「人民の名において」は日本には適用されないという宣言を付して不戦条約は枢密院に諮詢された。この事件が、またしても天皇シンボルをめぐる抗争であった。朴烈怪写真事件は政友会を中心とした野党が攻勢をかけた抗争であったが、水野文相優諚問題といい、民政党も天皇シンボルをめぐる抗争を仕掛けた。開始された日本の大衆デモクラシー下の政治抗争においてこのシンボルが持つ大衆動員力には、党派を問わず抗しがたい魅力があったと筒井氏。こうした点で民政党を過大評価することは実情に合わない、と。

 1928年3月、三・一五事件といわれる共産党関係者の大検挙が行われた。27年テーゼと言われるコミンテルンが日本共産党に出した闘争司令に「君主(天皇)制廃止」が掲げられたことが原因であった。これを踏まえて第55議会に治安維持法改正案が提出されたが、可決されなかった。そこで政府は「国体変革」には「死刑」という緊急勅令案を枢密院に諮詢した。次の大検挙が1929年4月、今回は共産党中央常任委員3人が逮捕され、以後共産党の組織的活動はほとんど不可能になった。当時世界の共産党は、コミンテルンというモスクワにあった世界革命本部の指示の下に活動していた。
 1929年1月、一旦下野した蒋介石は総司令に就任し、北伐再開を主張。4月北伐軍は始動、済南を包囲。日本政府は済南に第六師団の出兵を決定、第二次山東出兵であった。5月国民革命軍は済南に入城したが、この国民革命軍と日本軍が衝突した。以後在留邦人への虐殺・略奪が生起したので、山東派遣軍増員のため第三師団を派兵した。第三次山東出兵である。一万五千人が動員され、日本軍は済南の占領した。しかしその後中国側の処罰・賠償が十分に行われないまま撤兵したので、国内ではこの点でも田中内閣への批判が高まった。こうした北伐軍の活動が続く中、5月18日、政府は「満州に戦乱及ぶ時は治安維持のため適当有効な措置をとる」と張作霖と国民政府に通告した。とくに吉沢謙吉公使はこれを直接張作霖に伝え、満州復帰を勧告した。張作霖は特別列車で北京を出発したが、この列車が6月4日奉天近郊で爆破され、張作霖は死亡した。これは関東軍高級参謀河本大作の陰謀であった。これが陰謀であったことは、中国・日本政府中枢・軍中央いずれも早期に察知した。元老西園寺は田中首相に真相公表と関係者処罰を要求、田中も同意した。しかし、関東軍・軍中央・閣僚の多数は、真相公表は日本に不利益だと反対した。それでも暮れの12月24日、田中首相は天皇に真相公表と関係者処分を内奏した。だがその後、真相非公表と警備責任者のみの処分という処理方針が政府内の大勢となっていった。
 1929年1月、衆議院予算委員会で民政党の中野正剛が「満州某重大8事件」について田中首相を追及した。議会に取り上げられた結果、もう早期に決着をつけざるを得ない大問題になった。3月27日、白川陸相は真相非公表と警備責任者のみの処分という方針を内奏した。牧野内大臣は「驚愕の至り」「言語同断」と日記につけている。白川陸相・田中首相ともに前年末の方針と打って変わった方向で行こうとしていることが、空中関係者に明白に伝わってきた。6月不戦条約の取り扱いに関連して、「満州重大事件といい、不戦条約といい政府の態度は不当不誠実は甚だしき。聖上陛下はこの際適当なる機会を捕え厳然たる御態度を取らるること然るべき」と侍従次長が内大臣秘書官長に言っている。6月27日、田中首相は、村岡長太郎関東軍司令官らの行政処分による決着を天皇に上奏、天皇は以前と方針が変わっていることを指摘し、田中が理由を述べようとするとこれを拒絶した。翌28日、白川陸相を天皇のもとに説明に派遣。これが天皇の逆鱗に触れ、午後、鈴木侍従長との面会で「御真意」と「天皇の逆鱗の旨」が田中に伝えられ、上奏希望も天皇から拒絶された。こうして7月2日、田中内閣は総辞職した。尚、内閣の方針自体は認められ、6月30日公表されている。首相としての輔弼のあり方が問題とされたと筒井氏は結ぶ。新聞は一斉にこの憐れな最後を叩いた。「人心は疾くの昔に現内閣を去っていた。・・・ほとんど空前に近い無責任政治を演じて、議会をして有れども無きがごとくならしめた。・・・元老宮中の介入発言をすら惹起するに至る、また已むを得ざる勢いと言わざるを得ない」(朝日)。
 
 7月2日、浜口民政党内閣が成立。朝鮮総督府疑獄事件、北海道鉄道・東大阪電気鉄道疑獄事件、売勲疑獄事件が発生起訴された。すべて田中内閣時代に起因する疑獄事件であった。9月29日、前首相田中義一は狭心症で急死した。「田中君の尊皇心は殆ど恐怖心にも近い程」と評するのは田中をよく知る久原房太郎の言である。そして筒井氏は以下纏める。①天皇の叱責は自ら語ったメモにあるように、宮中のアドバイザーのアドバイスを受け田中を叱責した。②田中内閣の崩壊は複数要因である。③田中内閣の崩壊は、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒した。これは政党政治・議会制民主主義尊重者にとって好ましくない事態である。やがて「政党外の超越的存在・勢力」が「軍部」や「近衛文麿」など形を変えて再生産され、メディア世論と合体して政党政治を破壊するに至る背景・下地を作った。④天皇問題の政治的有効性の再三の駆使に多くの問題があった。⑤マスメディアは、シンボル的問題と既成政党政治批判ばかりをセンセーショナルに報道し、二大政党の健全な育成に意を注がなかった。⑥知識人も大衆デモクラシー時代に十分対応することが出来なかった。多くの知識人は、既成政党=ブルジョア政党への失望と批判を語りつつ、同時に新興の無産政党の発展に期待し、二大政党制の意義と理念を十分語ることが出来なかった。そして筒井氏は尚今日まで持ち越されていると語る。

政党外勢力による政権の揺さぶり

2015年03月28日 | 歴史を尋ねる
 年が明けて、1928年1月21日第五四議会が再開され、田中首相・外相の施政方針演説、三土蔵相の財政演説後、解散詔書が発布された。この時の政府声明は、「前内閣の対支外交の不始末と財界破綻の収拾回復に曙光を見出した。そこで在野時代主張の産業立国・地方分権を織り込んだ昭和3年度予算案を編成して54議会に臨んだが、反対党が数をたのんで阻止せんとするので解散を奏請した」というものであった。民政党は義務教育国庫負担を掲げており、地方財政の立て直しを、税源の地方化で解決するか、国庫負担化の強化で解決するかで異なっており、国庫負担の強化は地方財政の放漫化を防ぐための措置であった。民政党が大蔵省的と言われる所以であった。
 この選挙は政府の選挙干渉が激しかったことで有名である。投票日までの選挙違反検挙者数が民政党は政友会の10倍強であった。選挙結果は政友会217(解散前190)、民政党216(同219)、ほか33。投票率80%、わずか1議席差であった。小政党がキャスティングボートを握る典型的な二大政党時代が訪れた。日本最初の普通選挙の総括として、高畠素之(マルクス研究の主要研究者であったが右傾化を強めた社会思想家)の批評を引用している。「意外に番狂わせが少なかったというが、それがむしろ当然で、さすがに普選時代らしい現象である。大きな声では言われぬが、普選法による有権者には有象や無象が多く、政綱や政策を見て賛否を決するよりも、候補者の閲歴や声望に基づく有名無名が、彼らの判定する人物的上下の標準となる場合が多い。・・・爾余一切の比較考証すべき材料を欠くが故に、ヨリ有名かヨリ無名かの一事をもって、人物判定の唯一標準とするほかなかったと解すべきであろう」

 4月20日、普選後初の国会として第五五議会が開催された。野党は極端な選挙干渉を行ったとして、鈴木内相を弾劾する案を議会に提出してきた。これに対し与党鈴木派を擁護すべく政友会は、空前の野党切り崩し耕作を展開した。野党民政党総務桜内幸雄の言を紹介しよう。「先ず内相弾劾案を否決する為の手段として、反対派議員の買収に乗り出した。今日は何県の某が誘拐された。また今日は何某が買収されたと、刻々と不快な情報が我党本部に流れ込んできた。・・・内相弾劾案が愈々議会に俎上に登ることになると、政友会は最後の手段として、警察を利用し、議員の身辺保護と称して、保護検索の手段を取り、挙句の果てには軟禁するという不逞の挙に出た。・・・ここにおいて我が党は熱海・湯が原等の旅館に合宿させることとし、議員の身辺を警戒することにした。之が当時世間では議員の缶詰といった所以で、新聞では民政党を缶詰党、政友会を缶切り党などとヒヤかしたものである」 5月4日内相弾劾を含む決議案は政府側228、反対党側233で通過、鈴木内相は辞職した。
 そこで田中首相は望月逓相を内相に、久原房之助を逓相にという内閣改造を企図したが、5月20日、水野文相がこの人事に抗議して辞表を提出した。しかし田中首相が天皇に水野留任を申請し了承された。ところが天皇に会見した水野は、天皇よりご諚(優諚)があったので留任したと発表した。これは天皇に政治責任を押し付ける行為として問題化した。そこで田中首相は、辞意撤回は前日であり水野の言動は虚偽があると声明。結局水野は再度辞意を表明し、辞職は決定した。この経緯全体にわたり田中首相の輔弼のあり方が問題視された。5月26日、首相は天皇に進退伺を提出、首相の進退伺書の輔弼者は首相自らしかないと宮中で問題化したが、翌日却下された。牧野内大臣の日記に「首相の進退伺事件の一部外間に洩れ、各新聞一斉に論じ立て非難甚だし」
 貴族院の有力団体である火曜会(近衛文麿ら中心)は幹事会を開き、首相の態度を問題とする強硬方針を決定、貴族院五派による首相問責声明が発表された。また、新渡戸稲造・美濃部達吉・上杉慎吉・松本烝治ら学者17名が田中首相批判声明を発表した。
 その後11月10日裕仁親王即位大礼が行われたことなどもあり、水野文相優諚問題は一旦鎮静化する。

 8月1日、民政党顧問床次竹二郎は突如離党した。名目は民政党の対中国政策への不満であったが、背景は次のようであった。普選後の西園寺系政客松本剛吉は、「政友会・民政党以外の三十余名の当選者の素質を見るに、無産党や職業的、扇動的の政治家ともいうべき輩であって・・・時務に通ぜず、政治を解せざる、空言狂騒、無責任極まる少数の徒が、この機に乗じて国政を左右すべき一新勢力を射倖するに至ったことは、実に国家の不祥事である。・・・床次氏を起して第三党を樹立し、以て少数中立の鼠輩を閉塞せしめたなら、・・・」松本は政客横山雄偉とともに床次を説得した。以後、ほぼ一日おきに約二か月間床次を口説き、やっと決心して西園寺に面会、床次は、政民両党から百人程度の議員が結集できると期待してこの挙に出た。新党倶楽部を結成してみると集ったのは三十数名。11月政友会の岡崎邦輔は床次を訪問、政友会入りを勧誘した。1929年1月、二度にわたり田中・床次歓談が開かれた。床次は田中から政友会復帰後の総裁後継言質を期待したが、田中は与えなかった。この時点で両者合わせると過半数を確保できるが、床次の新党倶楽部は第56議会で是々非々を貫き、結局床次が政友会に復帰したには、29年9月の浜口民政党内閣時だった。

 1929年1月の第56議会の貴族院での首相答弁から、再び田中首相の輔弼の件が問題化し始めた。火曜会は緊急総会を開き、田中首相は軽率不謹慎とする申合せを決定、近衛文麿を座長とする各派交渉委員会が開催された。ついに2月22日、貴族院は首相問責決議案を172対149で可決させた。貴族院の内閣弾劾決議は憲政史上初であり、地租・営業収益税地方移譲関連法案は貴族院で審議未了となった。決め手となったのは前年の学者17名の田中首相批判声明を踏まえた新渡戸稲造の演説であったと言われているそうだ。

二大政党制スタート

2015年03月27日 | 歴史を尋ねる
 1927年(昭和2)4月第一次若槻内閣が総辞職すると牧野伸顕内大臣は「憲法の常道に依り田中男に大命の降下あるを以て至当とする」と西園寺元老に具申、西園寺は「自己の抱懐するところと符節を合する」と答えている。この時政友本党は憲政会と連携しており、衆議院の多数を構成しているが、そのことに意味がなく、党首に問題があるとみなされても第二党が政権与党化することが明確にされた。首相になった田中義一について、朝日新聞の政治記者だった有竹修二は、「井上準之助は良き理財局長、若槻礼次郎は優秀なる大蔵次官と賀屋興宣はいう。この考え方からすると田中義一は総理大臣の器だ」と褒めている。「オラが宰相」と揶揄の対象になったが、「講談的人情味と軍人特有の機略と長州人の立身出世主義が交錯した人」と有竹修二。
 4月20日、田中内閣が発足し、陸海相・司法相以外はすべて政友会員で構成され、貴族院からの入閣を拒否している。政党内閣度は非常に高い。中核は鈴木喜三郎、鳩山一郎、森恪。高橋是清が蔵相に就任すると、枢密院は三週間のモラトリアム緊急勅令公布の件を可決、即日施行した。そして日銀の非常貸出による銀行援助方針を声明した。5月3日第53臨時議会で、日銀特別融資と台湾銀行貸し付けの法律が可決され、金融恐慌は鎮静化した。6月2日、高橋蔵相は辞任し、文相の三土忠造が蔵相に就任、後任に水野錬太郎が就任。それにしても、この時の高橋の手並みは鮮やかで、日本の財政史・経済史に残る不滅の業績で、併せて田中首相の功績としても評価されるべきだろうと筒井氏。

 田中内閣の成立に最も衝撃を受けたのは政友本党。床次総裁の権威は失墜し、その政権戦略は崩壊した。そこで床次総裁は憲本連盟強化の声明を発表し、両党合同を正式に提起した。5月3日新党倶楽部232名(憲政会165、政友本党65、その他2)が結成され、衆議院常任委員長はほぼ独占、枢密院批判決議を可決し、政府の金融恐慌対策は支援した。6月1日立憲民主党結党式が開かれ、浜口雄幸総裁、若槻、床次顧問、桜内幸雄幹事長ら。新党が出来ると、若槻・床次は、二大政党制を「立憲政治上の理想」と高唱。新たに総裁公選制として七年という任期を定めた政友会も第三党消失を歓迎し、田中首相は浜口総裁に会い、政争が辛辣になることを防止することについて話し合った。しかし、問題はマスメディアとくに新聞の方にあった、と。新聞は、期待感を表明しつつも「政権本位」の現状を危惧するというような報道に終始、馬場恒吾は「政権獲得意識のみで生きる政党、政治家」に失望を表明し、吉野作造は両党の現状に失望、無産政党に期待するという意見を表明、これは当時の多くのマスメディア・知識人の傾向であった。日本二大政党政治の不幸な出発であったと筒井清忠氏はコメントする。これらは若槻内閣期のスキャンダル暴露合戦・泥仕合・解散回避談合などに由来するが、マスメディアが絶えず「政党政治の暗黒時代」といった見出しで「既成政党」を批判し「新勢力」への期待ばかり言い募るところが大きい。権力をめぐるゲームが相当に凄まじいものであることは当然といったスタイルで報道をしていれば、事態はかなり変わったのではないかと、筒井氏の思いだ。ふーむ、責任をとらなくていい方法は批判することだから、この心理はいつの時代も変わらない。

 田中内閣は「対中国積極政策」をとったとして知られている。最近、幣原外交も対中国政策に関しては満州の特別権益を持つことを前提にしているので、それほど変わらないという見方もあるようだ。1927年4月、国民党からの共産党排除を狙った上海クーデターが発生、蒋介石は南京国民政府を樹立させた。田中内閣成立後の約一か月後、居留民の多い〈2万5千人)青島方面へ保護のための出兵を声明し、満州から2千名派遣した。それほど乗り気でなかった陸軍を森恪外務次官らが押切ったと言われている。徐州会戦で蒋介石軍が大敗し、汪兆銘の武漢政府との間に緊張関係が生じると、蒋介石は辞職を宣言し下野した。9月末に来日し、二度にわたり田中首相と会談し、一か月半ほど滞在・保養し帰国している。日本軍は9月初めには撤兵完了していた。
 田中・蒋介石会談の内容は、国民党の中国統一を日本は認め、中国は日本の満州における権益を認めるというもので、蒋介石は中国と真に緊切なる利益を有するのは日ソ二国のみで、ソ連は干渉しているのに日本は何で干渉援助をしないのかとまで言っているそうだ。また、東方会議(田中首相ら閣僚、吉沢健吉中国公使、吉田茂奉天総領事、関東長官、関東軍司令官、外務政務次官森恪ら)で中国問題が話し合われ、対支政策綱領を発表した。中国本土に対しては中立的立場をとり、在留邦人保護に関しては断固とした措置を講ずる、満蒙に関しては日本の特殊的地位を尊重し政情安定化を講ずるものを支持・援助するというものであった。これらは外務省の従来の中国政策にほぼ一致した。
 7月満鉄社長に任命された政友会の山本条太郎は、満蒙五鉄道建設請負協約(山本・張協約)を締結、翌1928年契約が締結し、三カ月後に発表し工事に着手することになっていたが、張作霖の爆殺により工事は中止となった。

 




「劇場型政治」(大衆デモクラシー)の開始

2015年03月25日 | 歴史を尋ねる
 1926年(大正15)12月4日第52議会が開会された。政党勢力比は、憲政会165、政友会
161、政友本党91。与党有利が常識化していた当時、解散総選挙をして与党が多数派を形成しようとすることは当然、また、怪写真事件で倒閣へ向けて勢いのついた野党が解散を求めるのも自然であった。12月5日、大正天皇崩御。若槻首相は「(解散は)憲法にも制限されていない」と語り、安達内層代理は挙党選挙準備を指示、憲政会の機関誌は「総選挙準備号」銘打った。野党の政本両党は第52議会の委員長ポストを独占し、不信任案提出の準備を進めた。27年1月16日、政友会、政友本党は党大会を開き、政府に正面から対抗する決意を表明。憲政会は不信任案にも解散で対抗することを明示、党内に戦意満つと見られた。18日議会は再開され、若槻首相は施政方針演説で、社会政策拡充、人口・食料問題解決、緊縮財政堅持、税制整理等を述べたが、衆議院本会議では野党が松島事件・朴烈怪写真事件問題を激しく追及した。政友会小川平吉は、憲政会長箕浦勝人が疑獄事件に関与した上、若槻首相が箕浦から偽証罪で告訴されたのでは、若槻首相に綱紀粛正を唱える資格なし、と攻撃し、政友本党松田源治は、松島事件の予審判事の交代に政治的圧力をかけられた疑いが濃いと追及した。19日、政友会は朴烈の減刑奏請理由書を議会に提出すべしとする決議案を提出、政友本党らの賛成で可決されたが、政府は秘密事項としてこれを拒絶した。

 こうした攻防が議会で行われている最中、若槻首相は安達内相に三党首会談による妥協の動きを伝えた。「これは秘中の秘なり、君のほか一切他言してはならぬ。この際に処して政友会及び本党と妥協し、議会の無事終了を図るの他なし」安達は猛反対し、病気療養中の浜口に伝え、政局緩和運動に乗らない様書簡を若槻に送ったが、若槻はきかなかった。20日、政本両党は内閣不信任案を提出した。この時停会にするか解散にするかはあらかじめ閣議で首相一任を取り付けていたので、三日間の停会が宣せられた。そして三党首会談が開催され、昭和新政の初めに当りお互いに政治の公明を望む」として政争中止が求められ、決せられた。こうして内閣不信任案は撤回され、予算案・震災手形関連法案が衆議院通過の見透しとなった。この党首会談は密約が交わされたということで有名であり、あとで問題となった。それは合意文書に「(議会後)政府においても深甚なる考慮をなすべし」という言質があった。これは3月頃には新聞に暴露されたが、若槻は辞意を示唆せずと説明し、田中・床次両総裁は総辞職と解釈したようである。会談後浜口は「あまり技巧を弄するといかんぞ」と若槻に語っていた。浜口の言と云い、また野党の二党党首に大幅な譲歩をせずに内閣不信任案撤回・予算通過に合意するわけでもないので、これは若槻が辞職をほのめかしたと解するのが自然と筒井清忠氏は云う。

 この妥協については、今日の政治史研究者の間にも英国的二大政党形成のチャンスを潰したという批判が強い。選挙で憲政会が勝っても負けても第一党が政権党になるという慣行が二度続き、日本の政党政治が確乎なものになった可能性が高かったからだという。しかし若槻の側から見ると、野党の攻勢を受ける中で課題が多く、予算・兵役法(宇垣軍縮に必要)、不良住宅地区改良法、税制改革関連法案、震災手形二法案等、通過させねばならぬ法案が多かった。とくに、金本位制に復帰することには経済界からの強い要請があったので、震災手形二法案成立は必至視されていた。
 政友会は政本提携を望んだが、憲政会の策士・安達謙藏の工作が早く進行し、2月25日、27名が秘密著名した憲本連盟覚書が成立した。これで憲政会が議会を乗り切る見通しが出来たが、新聞等メディアに知られると総攻撃を受けることになった。新聞の見出しは政党政治の暗黒時代、露骨極まる政権私議等であった。
 1月末、片岡蔵相は震災手形法案を政友会田中総裁に三時間半説明し、懇願した。田中はこれを了承し批判を抑制していた。そこでこの法案を通すため片岡は覚書の公表を法案通過後とする様若槻らに要請していた。しかし漏洩に時間はかからなかった。これを知った田中は激怒し、片岡に約束破棄を通告した。以後、政友会の猛攻が開始され、議会は荒れに荒れ、議長・副議長は辞表を提出した。こうした状況下の3月14日、衆議院での片岡蔵相の東京渡辺銀行に関する破綻失言から、金融恐慌が発生した。この後の経緯は既述済みで、4月20日若槻内閣は総辞職した。

 この後田中内閣が成立し、金融恐慌を高橋蔵相が鎮静化させるが、この時憲政会内部では若槻内閣崩壊の経緯から内閣不信任案提出論が猛烈であった。憲本連盟が成立していたので通過する可能性が高かった。しかし若槻ら憲政会幹部はこれを説得し抑制した。高橋蔵相の七億円の損失補填にも全く反対せず、その為臨時国会はスムーズに進んだ。こうしたプラス評価もあるが、若槻内閣には従来から批判的評価の方が多い。解散総選挙を避けて妥協した点や金融恐慌時に枢密院と最後まで戦わなかったことを問題視する。だが、内閣崩壊の実相は、朴烈怪写真で追いつめられて妥協や多数派工作を図っていたところに、金融恐慌が発生して最後のKOパンチを食らった。問題は、普通選挙を控え、政策的マターよりも大衆シンボル的マターが高まったことを若槻が十分理解していなかった、「劇場型政治」への無理解が問題だったと筒井清忠氏はいう。
 朴烈怪写真事件で天皇の政治シンボルとしての絶大な有効性を悟った一部の政党人は、以後これを度々駆使した「劇場型政治」を意図的に展開することになる。次の田中義一内閣に、さらに統帥権干犯問題・天皇機関説問題等に見ることになる。ロンドン条約時の「統帥権干犯問題」を取り上げて、政党人自らの首を絞めたと主張する人は多く、間違いではない。しかし、政治シンボルの操作が最も重要な政治課題となる大衆デモクラシー状況への洞察なしに、そのことだけを問題にしても、現代に生きる反省には結びつかないと筒井氏。ふーむ、なかなか鋭い指摘だ、現在の政治状況も含めて。

昭和史を変えた一枚の写真

2015年03月24日 | 歴史を尋ねる
 1932年(昭和7)5月の五・一五事件で政党政治は終わりを告げるが、この前後になると政党政治の全盛期ともいうべき加藤護憲三派内閣はしきりに回想されることになった。そしてその真価はむしろ太平洋戦争の末期と戦後に明確になったと、筒井清忠氏は語る。1945年7月連合国が日本に対して出したポツダム宣言には日本における「民主主義的傾向の復活強化」とあった。イギリスが日本の民主化は明治憲法の修正で可能と考えた。これが加藤内閣以降の一連の憲政会・民政党内閣の治績を指していることは明白だ。グル―前駐日大使は「幣原、若槻、浜口」の名前を出してこうした方向(米国の日本占領政策)を進めたが、彼らは加藤内閣の中枢をなした人々で、加藤が育てた人々だ、と。戦後できた幣原内閣では、労働組合法、農地改革、婦人参政権などが次々に実現していくが、この時幣原がこれらは「余が十数年前、閣議に列している頃、議に上がった」こととして加藤内閣を想起して推進していた。加藤が戦後日本の礎石を築いたことは間違いない、政治的リーダーの評価は長いタイムスパンで捉えねばならないことを教えていると筒井氏はいう。ふーむ、筆者は加藤高明と云うとすぐに対華21カ条要求の当事者であったことが思い浮かぶ。その後の日本の歴史に与えた影響を考えると、すぐに首肯出来かねないところであるが、次の加藤高明の言葉は重い。「政党なるものは政権争奪の機関ではない。野にあっては、政府が過ちに陥ろうとするのを警告・匡救し、一旦大命を拝すれば、或は自分に不便を感ずる事があっても、起って平素の主張を実現する。これが政党の使命であって、その国家に尽くす道は、野に在ると朝に在るとに依りて異なる道理は無い」

 1926年(大正15)1月議会の最中に加藤高明首相は議場で倒れ、若槻礼次郎内相が首相臨時代理、間もなく加藤が亡くなって、新聞各紙は若槻がそのまま後継首相になることを要望した。元老西園寺は英国政党政治の慣行に倣って若槻を推挙。第一次若槻礼次郎内閣が誕生、全閣僚が留任した。当時の人気は高かった。憲政会では加藤首相の施政方針演説内容、地方選挙腕の普選、郡役所廃止、社会政策立法、税制整理、緊縮財政等の実現が新内閣で企図された。2月安定した議会運営を目指して憲本協定(憲政会と政友本党)が結ばれた。曲折があり評価が下落したが政府提出法案成立率は94%と高かった。4月首相は金融・貿易振興策、税制整理、人口食料問題、社会問題、文官任用令改正等広範囲にわたる新政策に着手することを表明。内閣改造を行ったが若槻らの党運営への不満が増大、党人派懐柔の人事も行った。一方で大きな政治事件が噴出した。松島遊郭事件、陸軍機密費事件、石田検事怪死事件、朴烈怪写真事件。若槻内閣下で次々国民の耳目を集める事件が起きたが、社会的反響が大きくまた政治的影響も大きかったのは、朴烈怪写真事件であった。これは元々、大逆事件であった。1923年(大正8)9月3日、関東大震災後の混乱の最中、朴烈と金子文子が検挙された。その後治安警察法違反容疑で起訴、尋問がすすんで1925年大逆事件のことを朴が認めた記念に立松予審判事が写真を撮影したが、この写真が後に大問題となった。その写真は写した立松判事から朴の手にわたり、それを出所する石黒に譲って持ち出された。11月朴烈と金子文子の記事が解禁となった。東京日日新聞には「震災渦中に暴露した朴烈一味の大逆事件」「罪の裏に女! 躍動する朴烈が内縁の妻金子ふみ」「惨苦の中に真っ赤な恋」、 東京朝日には「震災に際して計画された 鮮人団の陰謀計画」「自叙伝を書く文子と読書にふける朴烈」等々。当時新聞は週刊誌的役割も果たしていたが、それにしても、男女関係と著作執筆・読書が強調されており、恋愛賛美と教養主義賛歌の大正後期らしい紙面づくりになっていると筒井氏。1926年3月死刑判決が下った。同日検事総長から特赦が申し立てられた。これに対し政友会の小川平吉は若槻に面会を求め、反対論を開陳。しかし閣議は特赦を決定した。4月恩赦で無期懲役に減刑、大阪朝日新聞は「恩赦も知らぬ獄中の朴夫婦、きのうきょうの生活は? 流石に夫を案ずる文子」と典型的な大衆社会的な報道姿勢が窺える。相当に同情的な紙面になっていることが判る。こう言った報道姿勢が国家主義者たちを刺激したことは想像に難くないと筒井氏。

 7月金子は自殺する。この報道と同時に発生したのが怪写真事件であった。この日、東京市内各所に二人が予審取調室で抱き合った写真付きの怪文書が配布された。これを翌日報知新聞が報道、各紙が後追い報道。怪文書は「単なる一片の写真である。この一写真に万人唖然として驚き呆るる現代司法権の腐敗堕落と、皇室に対する無視無関心なる現代政府者流の心事を見ることが出来る。・・・日本の司法権はこれほど無茶苦茶になり、司法部の役人共には皇室の尊厳も安危も一向頭になくなってしまったのである」 怪文書は当局の二人への優遇を批判し、恩赦決定以前に減刑を当局者が公言し新聞等に発表させたとして、江木翼司法大臣を攻撃した。こうした報道を受けて、政友会が声明を発表。大逆犯を減刑した政府の過ち、恩赦裁可前に減刑奏請を発表した政府の手続き上の誤り、二人への優遇などを問題として詳細を明らかにせよと迫った。翌日、朴烈怪写真事件の首謀者として北一輝が検挙された。石黒が持ち出した写真を見た北は、即座に若槻内閣倒閣運動に利用できると思いつき、怪文書作成を政友会筆頭幹事長森恪に相談したと言われている。この事件が大きな話題になるにつれて、次々に副次的なニュースが再生産されていった。

 この事件が大きな政治性を帯びるになったのは、9月に入って政友本党が政府問責を決議したからであった。床次総裁は、連立交渉決裂後も若槻内閣に好意を示していたが、怪写真事件の拡大につれ態度を変え、床次が若槻首相を訪問し、引責を求めるに至った後、「世論は未曾有の憂うべき事態を引き起こす」という声明を発表した。二大野党による攻勢で事件は政治的方向に大きく動いた。しかし若槻は「立憲政治は政策の争いだ 朴烈問題など介意の要なし」と正論を吐いたが、政策の争いだけでは済まない事態に立ち至っていた。近づいている第一回の普通選挙では、こうしたシンボルをめぐる大衆動員の力量の方が決定的に重要であるはずなのに、若槻にはその認識がないことが如実に感じられるものであった。同じ日の政友会支部長会議での田中総裁の演説報道に、大衆動員上の優位さが感じられたと筒井氏は云う。新聞にはこの事件が倒閣につながると明言する論調も出てきたが、内容は「既成政党批判」「老人批判」という繰り返される批判パターンであった、と。

政友会分裂と護憲三派の形成

2015年03月22日 | 歴史を尋ねる
 原敬は、大隈内閣成立の直前に西園寺の推薦で政友会総裁に就任、大隈内閣は当初政友会に大打撃を与えるが、21カ条要求に失敗、大浦内相の汚職問題などで大隈人気は落ち、大隈内閣総辞職後、山県直系の寺内正毅が内閣を組織、この間、原の政友会は寺内内閣に協力姿勢をとり、次の総選挙で第一党に返り咲いた。しかし原は慎重で、山県が生存中は政党内閣は期待できないと洩らしていたが、第一次大戦中の物価騰貴、米騒動で寺内は総辞職、山県は西園寺を後継に推挙したが、西園寺が固辞して、ここに原内閣が誕生した。原内閣は、陸海軍大臣を除いて、全部政党人か政友会にゆかりの人ばかりであった。明治14年の自由党結党以来37年、未熟児で終わった隈板内閣から20年、初めて本格的な政党内閣が誕生し、期待の大きい内閣であった。しかし、満鉄疑獄事件・東京市政疑獄事件など政府与党関係者がらみの汚職事件が頻発し、憲政会ら野党の攻勢は激化した。

 中橋徳五郎文相の高等教育拡張計画と元田肇鉄相の鉄道施設法改正案が、党勢拡張を専ら眼目にしているとして貴族院で問題化した。議会終了後、高橋是清蔵相・野田卯太郎逓信相、小川平吉政友会幹部等は内閣改造を強硬に進言した。しかし原はすべては皇太子殿下帰朝ののちとして、大きな対立には至らなかった。1921年11月原敬首相は東京駅で暗殺され、新内閣の首相は高橋是清政友会後継総裁に決定、全閣僚が留任した。しかしここから政友会が改造派と非改造派に分極し始めた。改造派とは、横田千之助法制局長官らで、中橋・元田の辞職と小川平吉・田健治郎の入閣という内閣改造による改革を企図した。1922年(大正11)3月新聞に内閣改造計画が掲載され、横田は法制局長官を辞して幹事長に就任した。高橋総裁は逡巡してその実行を渋った。急先鋒の小川平吉は高橋を説得したが、党の瓦解・分裂を恐れ、高橋は動かなかった。改造派はさらに攻勢を強め、総辞職後の大命再降下を企図して、閣議に改造問題を提出、結局総辞職となった。併せ中橋・元田ら六人は政友会除名処分となった。しかしこの後の元老の首相選択は、加藤友三郎海軍大将に打診、加藤が受けなければ野党の憲政会総裁加藤高明だった。ワシントン軍縮条約を海軍大臣としてまとめた加藤友三郎の手腕が高く評価されたのだった。目論見の外れた政友会幹部は、憲政会内閣の成立を阻止するため、無入閣・無条件で加藤友三郎内閣を支持することとなった。しかし翌年議会中加藤は健康を害して亡くなった。政友会は政権復帰を期待したが、政友会に少しお灸をすえてやらねばいかぬと西園寺らは考え、元老たちは山本権兵衛に大命を降下させた。またしても非政党内閣であった。落胆した政友会改革派(中橋・床次らかっての非改造派)は運動を開始し、高橋総裁と幹部に総辞職を勧告する。結局この時は中橋・元田・山本達雄らを現幹部に加えることで一旦落着した。

 1923年(大正12)12月虎の門事件が起こり山本内閣は総辞職。元老は貴族院研究会出身の清浦奎吾の奏薦を決定した。三度続けて非政党内閣となった。政友会は最高幹部会を開催、横田千之助らは清浦内閣は超然内閣なので否認することを主張したが、床次竹二郎、山本達雄らは、議会に多数派である政友会に政権が来ないのは高橋総裁の責任ゆえ交代すべきであり、政党に関係を持たない清浦内閣による公平な選挙の結果に基づいて政権の帰趨を定めればよいと主張した。続いて枢密顧問官を辞任した三浦梧楼が斡旋した政友会高橋是清、憲政会加藤高明、革新倶楽部犬養毅の三党首会談が開かれ、「憲政の本義に則り、政党内閣制の確立を期すること」が申し合わされ、護憲三派が成立した。これに対し政友会改革派の床次、山本、元田、中橋らは脱党し、政友本党を結成。149名を擁し、衆議院第一党、清浦内閣の与党となった。1月末衆議院は解散、5月総選挙が実施された。これは関東大震災で東京などの選挙人名簿などに時間がかかったためだ。投票結果は、憲政会152、政友本党111、政友会102、革新倶楽部30。大命は憲政会総裁加藤高明に降下した。それは明治憲法下における選挙結果で選ばれた唯一の首相であった。

 加藤は若槻礼次郎・浜口雄幸・江木翼・安達謙藏という側近最高幹部による党指導体制を確立済みで、組閣も万全であった。憲政会:政友会:革新倶楽部=3:2:1の割合の入閣とした。陸海軍は経験豊かな宇垣と財部で安定化させ、幣原の外相起用で日米関係も安定化させる手はずだった。野党政友本党幹部の山本達雄をして「天晴れ」と言わせるだけの組閣だった。この内閣の特質として、重要な官職に政党員が就いた。別に憲政会系の官僚の積極的登用も行われた。尚、元老西園寺との間の適正な距離をとりえたことは加藤の美質であったと言われている。

政党政治の揺籃期と政友会

2015年03月21日 | 歴史を尋ねる
 何度も触れますが、日本のデモクラシーの根源は板垣退助の自民党にあると岡崎久彦氏は説きます。自由民権運動を通じてできた自由党は、すでに国会開設の前に、各地に深く根を下ろした政党となる素地を持っていた。代表する人々は、志士として尊敬された人や、地方の名望家であり、政治家として国政を担う脂質を持った人々であった。最初の議会が開設される前に、日本はすでに立派な政党を持っていた。伊藤博文は初期議会を経験して、最大野党の自由党と組むという議会政治の大道を悟った。そしてこれを冷静に見ていたのは陸奥宗光だったという図式らしい。陸奥は、プロシア型憲法でもなんでも、議会さえ開設すれば、やがて政党政治にならざるを得ないことを見通しつつ、年来の知己である伊藤博文を援けて議会民主主義の確立を計っていた。陸奥の死後、日本の議会政治は試行錯誤を重ねつつ成熟していく。

 日清戦争後の議会運営のため、伊藤は自由党の板垣退助と提携するが、すると薩派も立憲改進党と提携して松方・大隈内閣が出来た。すると民党は自由党と進歩党(立憲改進党)を合体して憲政党を作り、絶対多数党を作る。そこで伊藤は、山県有朋などの反対を押し切って政権を大隈重信、板垣退助の憲政党に譲る。この措置は憲政を救った、もし山県らの超然主義を貫いていれば、藩閥内閣は議会は少数で何も通らない、解散に次ぐ解散で野党と対決し、日露戦争の準備も出来ず、場合によっては憲法の停止もやむを得なかったかもしれない。隈板内閣は準備不足で短命に終わったが、憲法発布の時にプロシャ的超然主義を標榜して発足した日本の憲政が十年たたずに、ドイツでは第一次大戦で敗れるまで実現していない政党内閣をつくった。日本は再び平和革命に成功したと岡崎氏は褒めています。その裏を解説している。伊藤にとって、大隈、板垣は維新以来の同志、国を思う心は変わりないという信頼関係があったので政権も譲れた、と。次いで伊藤は旧自民党系を中心に立憲政友会を作り、自ら総裁になった。三百議席中百五十五を占める大政党となった。(伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党・民党関係者の星亨、松田正久、尾崎行雄、伊東巳代治、西園寺公望、渡辺国武、金子堅太郎、片岡健吉、大岡育造、江原素六、元田肇、渡辺洪基、原敬らが中心となって創立に動き、紅葉館で創立発会が行われ、帝国ホテルに事務所を設置した。党の主要な委員会および人数は総裁選任事項であり、総裁専制色の強い組織だった) この政友会が将来の大正デモクラシーへの大道を開いたという。

 日露戦争から明治天皇崩御までの十年間は、桂ー西園寺ー桂ー西園寺ー桂と、藩閥政治と政友会内閣が交代する桂園時代で、日本の政治は安定した。西園寺は政友会総裁として政党内閣を組織するが、原敬など一、二の政党人を主要閣僚にして実力をつけさせる一方、政党や藩閥に関係にない人材主義を貫いて藩閥の警戒心を解いた。また西園寺は衆議院、桂は貴族院の多数を率いて互いに協力し合っていた。西園寺はパリで、普仏戦争時のパリ・コミューンの騒動の最中に着き、その後十年間のフランスにおける政治思想の最も激動する時代を体験し、生涯変わらぬリベラリズムの思想を身に着けていた。伊藤、陸奥亡き後も、政府部内で一貫して、親英米路線の中心的存在となり、また伊藤後の政友会総裁を引き受け、陸奥の遺志を継いで原敬を育て、ついに大正デモクラシー達成に道を開いた。ただ、皇室の藩屏として義務を何より重んじ、皇室を傷つけまいとして、昭和の激動期には天皇の政治介入を抑制し、結果として軍部の独走を許してしまったという批判はあると岡崎はいう。

 大正政変の原因は陸軍の二個師団増設問題だった。日露戦争後陸軍から常備師団四個の造設の要求があったが、取りあえず二個師団増設を認め、あとの二個師団はそのうちと云っていたのが、大正時代を通じての大きな政治問題になった。あとの二個師団増設要求を西園寺が拒否すると上原勇作陸相は辞職し、山県に後任を依頼するが、山県は言を左右にして、予算の取引を要求したが、西園寺はさっさと辞職した。後継は三度桂となった。今度は海軍が陸軍の二個師団増設に反対で海相を出さなかったが、強引に詔勅を使って組閣した。怒った政友会は内閣不信任案を出したが、今度は不信任案撤回の詔勅が西園寺に下され、苦悩した西園寺は、政友会総裁を辞任した。国民は激昂して、全国に憲政擁護運動が起こった。鎮静化に軍隊も出動したが、死傷者も出て、全国に警察署焼打ち事件が起こり、桂は終に辞
職した。

 

二大政党制はなぜ挫折したか

2015年03月20日 | 歴史を尋ねる
 男子普通選挙とともに訪れた本格的政党政治の時代は、わずか8年で終焉を迎えた。待望久しかった政党政治が瞬く間に信頼を失い、逆にそれほど信望の厚くなかった軍部が急に支持されるようになったのはなぜか。宮中やメディアと云った議会外の存在、大衆社会下におけるシンボルとしての天皇、二大政党による行き過ぎた地方支配など、従来の政治史研究では見過ごされてきた歴史社会的要因を追及する。これは筒井清忠氏著「昭和戦前期の政党政治」の扉のフレーズである。本ブログはここまで経済的動きを主に追いかけ、政治的動き、軍部の動き、対外進出の動きをはずしてきたが、ここしばらくは筒井氏のテーマを中心に政治的動きを追いかけていきたい。先ずこの時代の政治の流れを整理しておきたい。

 1918年(大正7)日本最初の本格的政党内閣として原敬総裁の政友会内閣が誕生した。(藩閥の支持する超然内閣であった寺内正毅内閣は、大戦中の物価騰貴による米騒動もあり、寺内内閣は総辞職) しかし1921年原敬首相は暗殺された。そして、後継の高橋是清内閣で、政友会は、党勢拡張を主張する床次竹二郎らと、それに批判的な横田千之助らとに分極し始めた。1922年、幹事長に就任した横田は、党分裂を恐れる高橋総裁首相を説得、総辞職後の大命再降下を企図し、内閣一新のため総辞職した。しかし、横田らの思惑は外れ加藤友三郎海軍大将の超然内閣が誕生した。翌1923年、加藤友三郎首相の健康は悪化し、8月死去。元老たちは今度も海軍の山本権兵衛に大命を降下させた。しかしこの第二次山本内閣も関東大震災後の混乱の仲、虎の門事件で総辞職。貴族院を中心とした清浦奎吾内閣が成立した。非政党内閣が三代続き、政党人には鬱積がたまった。この清浦内閣を、当時の三大政党憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派が打倒して、1924年6月加藤高明憲政会総裁を首相に戴く護憲三派内閣が成立、主導力になったのは政友会の横田であった。この時政友会から分かれて清浦内閣の与党になっていた床次竹二郎総裁の政党本党は野党になった。翌1925年、この護憲三派内閣で普通選挙法がつくられるが、横田は病死する。
 その後、三派は分裂、憲政会が8月に加藤高明憲政会単独内閣を作る。一方、政友会は犬養総裁の革新倶楽部を吸収したので、ここから憲政会・政友会・政友本党の三党時代となる。1926年1月、加藤高明首相は国会開会中に倒れ、後継の憲政会総裁若槻礼次郎が後を継ぎ、首相となった。議会は憲政会165、政友会161、政友本党87各議席という構成であった。この若槻内閣が、朴烈怪写事件・金融恐慌など激しい政争・経済的混乱で倒れて、1927年(昭和2)4月に、田中義一内閣という久しぶりの政友会内閣が出来る。その後、憲政会と政友本党が合流して民政党が成立(1926年6月)。ここで初めて本格的な二大政党政治がはじまった。1928年2月、田中内閣の時に初の普通選挙が実施された。激しい選挙戦になったが、政友会217、民政党216という一議席差で、政友会が勝利した。しかし、一議席差の田中政友会内閣の統治は困難を極めた。普通選挙での選挙干渉をめぐる鈴木喜三郎内相弾劾議案問題が起きて鈴木内相が辞職したのをはじめ、水野文相優諚問題・不戦条約問題・張作霖爆殺事件等、問題が頻発。1929年7月田中内閣は倒れ、浜口雄幸民政党内閣が成立する。初めての民政党内閣であったが憲政会系統に政権が戻ったともいえる。


 この浜口内閣で二回目の普選が行われたが、これは民政党273・政友会174という百議席に近い大差で民政党が勝利、井上準之助蔵相による金解禁政策を実施するとともに海軍軍令部の非常に激しい反対を押し切り、また枢密院の反対も抑えきり、ロンドン海軍軍縮条約という国際協調優先の軍縮条約を浜口内閣は締結した。浜口内閣が戦前日本政党政治の頂点と言われている所以である。しかし、かなり強硬な手段を用いたことに国家主義者が反発。また、世界恐慌のため深刻な経済状況の悪化が見られる中、浜口首相は東京駅で撃たれた。一時回復したが結局、内閣を若槻礼次郎に譲り、1931年4月、第二次若槻内閣が成立する。折から悪化していた日中関係はその頂点に達し秋に満州事変が起きると、軍部・関東軍の行動を十分に抑制できないままに安達謙藏内相の連立内閣運動が起きて、第二次若槻内閣は空中分解。犬養毅総裁が首相の政友会内閣になる(1931年12月)。この犬養内閣では高橋是清蔵相の下、金輸出再禁止が行われた後、1932年2月に第三回普選が行われ、今度は政友会301、民政党146という選挙結果になった。しかし、その三カ月後に、関東軍の進める満州国建国に反対であった犬養首相は海軍青年将校に打たれて死去し、犬養内閣は倒れた。その後、元老西園寺公望は斉藤実首相の挙国一致内閣をつくったので、この時点で日本の政党内閣は終わってしまった。
 以上八年間のうち、憲政会主導・民政党内閣が五年四か月、政友会内閣が二年八か月。ついに政党内閣が潰えてしまった大衆デモクラシー開始期の日本政治のどこに問題があったのか、筒井清忠氏は当時を踏み分けていく。

 

不景気と世相

2015年03月19日 | 歴史を尋ねる
 アメリカのジャーナリスト、フレデリック・アレンはアメリカ社会の変化を活写した。繁栄の20年代では、短いスカート、断髪、口紅、性の混乱、自動車ブーム、ラジオ、映画、新聞・雑誌の隆盛、知識人の反乱、土地ブーム、そしてゴルフ、野球、麻雀の流行。大量生産時代、誇大広告時代。アレンは20年代の乱痴気騒ぎを、旧秩序の小春日和と名付けた。さらにアレンは1930年以後も書いて、大恐慌下のアメリカ社会の精神状態を描いて、不安におびえるアメリカ人の心象風景を黄昏という言葉を使って表現し、忍び寄る戦争の前夜をシンボリックに表現した。日本でもその頃、不安、憂鬱、懐疑、モダン、エログロナンセンスなどの言葉がはやった。大宅壮一は民衆生活の解剖を試みて、当時を感覚的満足を目的とする一種の消費経済であり、感覚文化であると定義した。これまでの観念的・装飾的な文化に代って、あくまでも実利的な、アメリカニズムを台頭させた。明治いらい知識人の憧れの的であったイギリス文化・フランス文化に代って、昭和初頭の日本はアメリカ文化が流入した。
 アメリカニズムとは、機械文明、大量生産であり、自動車、飛行機、映画、ラジオなどの文明の利器であり、カフェー、ジャズ、ダンスなどの消費文化である。大宅はこのようなモダニズムの担い手を中産階級に求めた。消費生活のトップを切るのはつねに没落した中産(有識無産)階級で、西洋映画とスポーツとカフェーの中に生の喜びを見出したと分析している。

 ここでいう没落した中産階級とは、知識層および俸給生活者が主体であった。この時代、大学出の学士が職にありつけぬという、明治以来の異変が生じた。大学・専門学校卒業生の就職率は、関東大震災(23年)時80%、金融恐慌(27年)時65%、ところが29年には50%、31年にはついに三分の一にまで減ってしまった。当時の朝日新聞は「刀は折れ矢は尽きた 各大学就職戦線」の見出しつけて各大学の就職状況を伝えている。また、昭和初頭のサラリーマンの初任給調査が紹介されている。権威主義の官庁は、官立・私立の区別だけでなく、出身学部によっても給料に格差を設けていた。他方民間会社で官私の差別をしていないのは、三菱と三井、勧業銀行だけで、あとは出身大学によって初任給の差があった。大学・専門学校別の序列・格差構造は、民間企業にも貫かれていた。さらに大宅壮一は当時のサラリーマンの、不景気と生活基盤の不安定さを伝えている。

 一方で、関東大震災が、東京の文化・生活様式を大きく変えた。1920年(大正9)の第一回国勢調査で336万人の東京市に人口は、30年(昭和5)の国勢調査では、496万人にまで膨れ上がった。この10年に人口動態は、旧市内の人口が減り、郊外の人口が急増した、スプロール化現象であった。郊外地域(中野、杉並、世田谷、三河島、王子等9の人口増加は、各種交通機関の発達による通勤圏の拡大もあるが、大震災による大量移住が重要な要因となった。農地の宅地化が急速に進み、住民の職業構成が大きく変貌した。給料生活者が急増した。東京市は震災後の帝都復興計画を立て、29年までの六年間に、七億円を投じて復興事業をひとまず完成させ、景観は大きく変化した。その後の建物の変遷はあるものの、現代の東京の街並みは、昭和初期に出来上がった。さらに交通網の発達が新しい商店街、盛り場を誕生させた。新宿、浅草、大阪では千日前。昭和初期に漫才を興行化し庶民の演芸として今日の隆盛を招いたのは、大阪の吉本興業で、昭和5年、横山エンタツ・花菱アチャコのコンビがデビューし、今日の漫才のスタイルがはじまった。また、第一次大戦期の成金時代に、今日は帝劇、明日は三越のキャッチフレーズがつくられ、小市民文化は謳歌されたが、昭和に入ると蓄音機やレコードが登場し、流行歌がこの時代を風靡した。

 大宅壮一は時代を写し取るのは巧みであった。彼は東洋一の大印刷会社の職長の話を紹介して、鋳造しても鋳造しても、すぐに不足を告げる二つの活字がある、それは「女」と「階」の二字。殊に前者に対する需要は最近急激に増大し、一万個のストックが大抵いつでも、すっかり出払ってしまう。「階」は云うまでもなく「階級」その他の熟語をつくるために必要な時であった。この二つの需要が最近幾何数的に増大したというこの事実は、1930年の社会相を具体的に特色づけるものでなかろうかと、エピソードを紹介している。「女」の活字は「女給」「彼女」「女史」「モダン女性」などモダニズムとエログロナンセンスとに関係があり、「階」の字は、昭和初期のマルキシズムの隆盛と関係していた。改造社が「マルクス・エンゲルス全集」を、白揚社がレーニンの主要著作集を刊行したのは、1928年のこと、マルクス主義的哲学論や芸術論が縦横に論じられた。歴史学の分野でも史的唯物論の方法的立場から、日本資本主義発達史研究に新生面が切り開かれ、講座派、労農派の経済学者、歴史学者が論争が戦わされた。

 学問・文学・映画・演劇等におけるマルクス主義の影響は、大都会だけに限らず、農村青年にも大きな影響を及ぼした。炎熱極寒を問わず働く農民、働いても働いても借金のかさむ農民、薄暗い部屋の隅に子供の守りをする以外全く何の権利を持たない日本の農村婦人等をして、何時までも何時までも、全く無権利で不合理な地主や資本の搾取の下に耐え忍んでいる時代は永久に過ぎ去った。次第にあるいは急速にプロレアリヤ意識を呼び起こし、忍びえない生活条件に対する闘争に彼らを結合せずにはおかなかった。こうした激越な文章が、地主と小作人との闘争を呼び起こしていった。大恐慌期には、社会主義思想を身につけた新しい農民群像が登場した。では昭和初期にマルクス主義が青年たちの心を捉えていったのは何故だろうか。松田道雄は「昭和四、五年のころ」という論文の中で、大正教養主義の限界を理由の一つに挙げているという。「労働者のスト、金融恐慌、北伐軍が上海を占領する、そういうことに教養主義は何の説明もしません。教養主義というものが、政治に関して完全なる真空状態にあったということを強く感じました。この教養主義の政治的空白を一挙にしてみたし、教養主義の文化主義を吹き飛ばしてしまったのが、マルクス主義でありました」
 日本の中国侵略、大不況下の社会的混乱の中にあった、大正の教養主義はまったくの無力であったと、中村氏はいう。しかも、ヨーロッパやアメリカの30年代知識人も、この大不況とナチズム台頭の時代に、急速に社会主義へと接近していった。日本における知識人の抵抗は、決して孤立的現象ではなかった、と。

ニューディールかファシズムか(大恐慌の日米比較2)

2015年03月14日 | 歴史を尋ねる
 ファシズムという言葉をここでは、軍事偏重、軍国主義化という意味に解しておきたい。GNPの推移を見ると、日本は1934年(昭和9)に恐慌前に復帰したが、アメリカは1941年になってようやく恐慌前の状態に回復した。日本の回復が早かった理由は、高橋財政の有効需要創出政策が功を奏したことと、32年~35年の輸出の伸びが著しかったことによる。とくに対米為替相場は、32年6月30ドルを下回り、11月には20ドルの線を下回る所まで暴落した。為替相場の下落にも拘わらず、実質賃金は逆に低下傾向にあったので、日本の商品は世界市場で強い競争力を持つことができた。この財政と輸出の役割に引っ張られて、民間投資が活発化した。一方アメリカは過剰設備を抱え、この時期新規投資をあまりやっていなかった。さらにアメリカ経済は輸出依存度は極めて低く、しかも銀行恐慌が大恐慌と重なった。アメリカ経済の停滞と日本経済の躍進を比較すると、ニューディールは景気回復という点に限ってみれば、失敗だったともいえる。しかしこれは盾の一面に過ぎないと中村政則氏は云う。

 ニューディールも高橋財政も、公債政策による景気浮揚を意図したことは、同じであった。だが、問題はその膨張した財政収入を何に使ったか。中村氏は軍事費比率と公共事業・救済費比率を日米比較グラフを掲示してその特徴を際立たせている。高橋財政は、軍事費の比重が35~47%まで急増しているのに対し、ニューディール財政では軍事費の割合は8~15%に過ぎない。他方、高橋財政における公共土木事業費の比率は8~14%、ニューディール財政では公共事業費と救済費とを合わせると19~40%に達する。軍事財政と平時財政の対照性を浮き彫りにしていると、中村氏は解説する。高橋が蔵相に就任した時、日本はすでに満州事変に突入していた。兵備改善費・満州事件費が軍事費突出の最大の要因であった。戦争状態に入った以上、軍事費の増加はやむを得ないと考えることも出来るが、この軍事費増加は、彼の経済観・国防観と内面的な関連をもっていたことにも注意を向けるべきだと中村は解説する。軍需生産が、不況で眠っている遊休資産に活を入れた限りでは、景気回復に役立った。だが、軍艦そのものは物を作る力を欠いている。大砲や鉄砲の弾丸は資本の社会的再生産に還流してこない。1935年当時、東洋経済新報の主筆石橋湛山は、この点を批判して、軍縮の経済学を主張した。高橋蔵相も、軍需生産の行き過ぎは危険で、「国防の充実は必要だが、なるべくこれを最小限に食い止めなければ国の財政は耐えきれぬ。悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して安固とはなりえない」と云って閣議の席上軍部をたしなめたという。しかしその結果が、上記の通りであった。

 これに対しニューディールの特徴は、政府の財政資金を公共事業や失業救済に大々的に投じたことにあった。連邦緊急救済局・民間事業局・雇用促進局・民間資源保存団・農業調整局などが相次いで設立され、失業者救済・農民救済のための事業が推進された。それぞれの事業に巨費が投入され、失業者は建設・改修工事に動員され、就業の機会を得た。テネシー渓谷開発公社は、自然保護と地域住民の福祉の向上を目指したものとして、ニューディールのシンボルになった。多くの労働者や農民は、下から盛り上がる草の根民主主義に結集し、ニューヨーク支持の社会的基盤を徐々に形成させた。同じころ、ヨーロッパではナチズムが猛威をふるい、アジアでは日本の中国進出(侵略)が開始されていた。経済的崩壊に瀕した中で、アメリカにも革命の客観的条件があったと主張する学者もいたし、ファシズムにむかう危険すらあったと石垣綾子氏はその著者で語っているという。その防波堤になったのは、ローズベルトだと。ローズベルトのニューディールは、体系性を欠く代わりに、極めてプラクティカルで、柔構造であった。ニューディールの第二期は、アメリカの独占資本家を敵に廻しても、大企業への課税あるいは産業規制をつよめたり、失業救済・公共事業などを通じて、反体制勢力を吸収し包摂していったというのだ。

 これに対して、高橋財政における公共事業の推進は極めて限定されたものであった。昭和7年から9年にかけて、総額八億円の時局匡救事業を推進した。おもに農村救済を目指す公共土木事業が中心で、道路建設・河川改修・治山治水・橋梁建設・港湾改良などの事業を起こして、貧窮農民や失業者に就労の機会を与えようとした。しかしこの時局匡救事業は、軍事費の圧迫によってわずか三か年で打ち切られてしまった。更にニューディールが労働者の団結権・団体交渉権を認め、労働運動の画期的前進を可能としたのに対し、当時の日本は、治安警察法・行政執行法・暴力行為等取締法・治安維持法などの法規によって、がんじがらめにしてしまった。明治以来の日本の近代化は、経済的自由は認めるが、政治的自由は極力抑え込むことを特徴としてきた。戦前の日本経済は、労働者・農民の低所得水準の上に組み立てられたものであり、それらは彼らの政治的自由を圧迫することによって、はじめて可能となったのである。高橋財政はこのような歴史的基盤の上に展開された。高橋財政は労働者に団結権も団体交渉権も保障しなかったし、日本の民衆に勇気と希望を与えはしなかったと中村氏は総括する。うーむ、なかなか厳しい指摘である。当時の日米を単純に比較して、結論とはちょっと乱暴ところがある。もう少し諸々の条件を勘案しないと高橋はちょっとかわいそう。しかし同時代であるからこんな比較も面白い視点だと思う。

大恐慌の日米比較

2015年03月11日 | 歴史を尋ねる
 1932年(昭和7)大統領選挙でのフーヴァーの対抗馬は、ニューヨーク州知事のフランクリン・ローズベルトだった。民主党大会の指名受諾演説で彼は、「共和党の指導者たちは、物質面において大きな失敗を犯したばかりではなく、彼等は国民のビジョンを失わしめた。彼らは不況にあって何の希望も与えず、わがアメリカ的生活における、安定へともどりゆく途を示し得ない。そして私はアメリカ国民に『ニューディール』を約束する」と。このニューディールという言葉は、トランプのカードを新しくくばりなおす、新規まき直し、新しい対策というほどの意味であるらしい。ローズベルトがこの言葉を使ったとき、そこの何か具体的な内容が盛り込まれていたわけではなかったと、中村政則氏はいう。しかし、この言葉は、新鮮な響きをもって国民に迎えられ、大統領選挙は圧勝だった。
 1933年3月の大統領就任式で、われわれが恐れなければならないのは、ただ恐れそのものであるとして、緊急なる行動に移らねばならないと、国民に呼びかけた。ニューディールの目的は救済、復興、改革の三つのRを示し、1300万人を超す失業者をはじめ、忘れられた人々を救済することにまず重点が置かれ、続いて、全国産業復興法を成立させ、資本家と労働者の救済を目指した。農民の救済は農業調整法に基づき、農業調整局があたった。第二期は改革を志向した。しかし1937年、再度恐慌に直面した。詳細は措くとして、中村氏は、日米両国の危機克服の仕方の違いで、アメリカはニューディールにむかったが、日本はなぜファシズムに帰結してしまったのか、その歴史的根拠を必要最小限なことだけ指摘しておきたいという。経済的側面でそこまで指摘できるものなのか、中村氏の論説を追ってみたい。

 世界大恐慌の影響は、アメリカがもっとも激しく、かつ長期にわたった。工業生産の落ち込みが最大なのはアメリカ、カナダ、オーストリア、ドイツ、イギリス、日本の順であった。日本の場合は金融恐慌いらい低迷が続いていたので、アメリカほど大きな落差は現れなかった。これに対して各国の景気回復過程を見ると、ドイツと日本がいち早く恐慌から脱出している。アメリカの回復もそれにつぐが、37年恐慌で再び景気を悪化させ、長期低迷を余儀なくされた。逆に日本経済の早期回復はどうして可能だったか。中村氏は次のように指摘する。
 日本の井上・高橋財政とアメリカのフーヴァー・ローズベルト財政の対比をしてみると、公債依存度(政府支出に占める借金の割合)では、井上・フーヴァー財政と高橋・ローズベルト財政が、それぞれよく似ているという。井上・フーヴァー財政は、ともに公債発行を控え、均衡財政を維持しているが、高橋・ローズベルト財政は、公債依存度を一挙に高め、高橋は8%→34%に跳ね上げ、ローズベルトは17%→57%に急上昇した。ローズベルトは大統領選中、フーヴァーが均衡予算を破ったと攻撃したが、ローズベルトは早くも伝統的な均衡予算の原則を破った。後年アメリカ経済研究会によれば、これはあくまでも救済を中心とした緊急支出であって、経済が回復すれば、再び公債が減り均衡予算に戻ると、ローズベルトは楽観的な見通しを持っていたという。事実、政権第二期以降になると、公債依存度は下降し始め、健全財政に復帰する傾向を示している。高橋財政も同様で、昭和7年~10年度予算は、いずれも3割以上という高い公債依存度を示しているが、公債漸減方針をつらぬき、昭和11年には27%まで低下した。

 しかしながら、GNPに対する公債残高の比率を見ると、日本とアメリカとでは違っていたという。アメリカは1939年まで50%のラインを超えることはなかったが、日本では、高橋財政期に一貫して50%をオーバーし、38年度以降には60~70%台に達したという。日本の公債発行はアメリカに比して遥かに過大なものになっていた。この違いはどこから生じたか。高橋蔵相は、「従来赤字公債は財政上嫌忌されてきた。しかし今日の大恐慌下では、財政政策は大転換しなければならない。英米識者の中には年度予算の均衡は民力を枯渇させる、政府は数年にわたり予算の均衡を得ることを主眼にすべきとの意見がある。財界不況にして失業増加し産業不振の場合、政府自ら借入金によって事業を起こし、以て経済界の調節にあたるのがよい。ことに土木、建築、道路等の経費は、国家として資本を投下するもので、その経費を損得勘定にするのは誤りだと云うのである」と演説した。 高橋はこの新しい考えを米国イェール大学のフィッシャー教授及びシカゴ大学の研究から知ったと述べている。当時として、単年度予算はなにも維持する必要はなく、不況期きおける財政の赤字は、好況期の黒字で回収して予算の均衡を図ればよい、という考えを高橋蔵相以前に、明確に述べた財政家は一人もいない。財政思想の革命的転換だと中村氏は指摘する。

 しかし高橋は、公債の発行限度についても、見識を持っていた。民間の貯蓄が増加しても、その資金が公債にむかわず、株券・社債等の新規投資に向かったとき、絶対に国策を改める必要があるとの演説もあった。これはケインズの一般理論で説いた過度の公債発行の理論の先取りと云えるもので、日本のケインズと呼ぶゆえんだというのである。一方1934年、ケインズはローズベルトを訪れたが、両者ともこの会談に困惑したようすで、大統領の経済問題に対する教養に失望、落胆したようだ。高橋是清の経済学に対する知識は、ローズベルトのそれをはるかに上回っていたと云える。高橋蔵相の恐慌対策が一定の理論的裏づけを持っていたのに対し、ニューディールの経済政策が、行き当たりばったりの非体系的性格を帯びざるを得なかったのは、この両者の経済的知識の深浅にあったと中村は考える。ふーむ、経済的知識の豊富な中村氏らしい歴史的事実のとらえ方だ。

破局からの脱出

2015年03月07日 | 歴史を尋ねる
 昭和6年(1931)12月13日、犬養毅政友会内閣が成立、高橋是清が5度目の大蔵大臣になった。彼は私邸で日銀副総裁深井英吾と重大な会談を行った。深井は高橋が蔵相就任にあたって進言した。「①もはや金本位制を維持することは不可能である。金輸出再禁止の措置は一刻も早い方がいい。組閣の上は、夜中にても断行することが望ましい。②金輸出再禁止だけでは局面を収拾することは難しい。速やかに緊急勅令によって兌換を停止して頂きたい。」 金輸出再禁止の措置が遅れると、その隙に乗じて、大量のドル買いが殺到し、日銀・横浜正金銀行の窓口が混乱に陥る。非常手段を行使してでも、混乱を未然に防ぎたい、深井は言った。緊急勅令で兌換の停止をやるとなると、ことは重大であった。金兌換を停止することになれば、完全は金本位離脱である。明治時代に、財政の大ベテラン松方正義が、さんざん苦労したあげく樹立した金本位制を、そう簡単に放棄していいものか、高橋は、金と通貨との結びつきを断つことに一抹の不安があった。深井が去った後、高橋は熟考した。再び深井を呼んで、会談、大蔵省側から許可制にすれば高橋蔵相の希望にそうということで解決、高橋はただちに金輸出禁止と兌換停止措置をとった。中村政則氏は当時の高橋の逡巡ぶりを伝える。日本は明治30年以来、通貨は一貫して金とリンクしていた。ところが、これを断ち切ればどういうことになるのか。金は国家の管理下に集中確保され、政府はそれを国際的支払い手段にあてる一方、政府紙幣の無制限発行の可能性を掌中に収めた。これは、財政・金融史上の重大な実験となる。指針となるべき明確な経済理論があったわけでもない。さすがの老財政家高橋と雖も、躊躇せざるを得なかったと、中村は推量する。こうして日本は、新しい通貨制度、管理通貨制度の時代に踏み入っていった。

 高橋財政は、昭和7年度予算編成から、昭和11年2・26事件で高橋が凶弾に倒れるまでの四年間(35年度予算は藤井真信蔵相担当)の財政をさすが、それは日本財政史上にエポックをなす管理通貨制度下の典型的な不均衡(赤字)財政のはじまりであった。高橋蔵相の任務は、国内的には恐慌からの脱出、国外的には満州事変のための軍備強化、この二つの課題をいかにして遂行するかにあった。この任務を遂行するにあたって、井上財政とは全く逆の途を選んだ。井上が、緊縮財政と高金利によって物価を引下げ、国際収支の改善を図ろうとしたのに対して、高橋は、低金利貸付と公債発行によるインフレ政策を採用して、経済に刺激を与え、これによって、景気の回復を図ろうとした。高橋は、経済政策の要諦は国の生産力を引上げることにあると考えた。大正時代に行った彼の演説では、しばしばアダム・スミスやフリードリッヒ・リストを引き合いに出して、大切なのは金・銀ではなく、国民の生産力だということを力説していた。従って、金本位を維持するにも、外国から金を借りるにしても、国の生産力を挙げることの方が先決であると考えた。貴族院の演説でも、井上の金解禁政策には金融技術的粗点が濃厚で、国の生産力を引上げようとする視点がないと、高橋は批判した。この財政演説を行った日の午後、衆議院は解散した。
 民政党の筆頭総務兼選挙委員長に推された井上準之助は、昭和7年2月9日、駒井重次の応援のために東京本郷の小学校に馳せつけたその時、血盟団の小沼正が背後から拳銃を三発打ち込んだ。即死同然であった。民政党は浜口に次いで井上をも右翼の凶弾によって倒れた。

 中村政則氏の「昭和の恐慌」には高橋の面白い演説(4年11月)が紹介されている。お金持ちがお金を節約するか消費するかで、経済効果が違ってくることを巧みな比喩を以て説明している。この高橋の見解は、学説史的にいえば、驚くべき先見性を含んでいる。何故なら1936年にケインズが完成させた投資乗数効果の理論を、この時彼はプリミティブな形だが展開している、と。そして6年から、高橋はこの考えに立って、生産を拡大するための景気浮揚策を次々と展開していった。
 景気浮揚策の梃子は、管理通貨制を前提とする公債政策であった。むやみに公債を発行すれば悪性インフレに転化する危険がある。そこで高橋はいくつかの基礎工作を行ったという。まず7年、三度にわたって日銀金利を引下げ、公債や郵便貯金の利率を下げた。6月には兌換銀行券条例を改正して、日銀券の保障発行限度額を一挙に10億円に引き上げた。この措置で、日銀の発券能力を拡大させ、低金利政策によって、赤字公債が金融市場で無理なく消化される条件を作り出した。同時に為替相場の下落による資本の海外逃避を防ぐため、資本逃避防止法を制定した。その上で政府は、公債増発に踏切り、巨額の軍事費・時局匡救事業費を調達しようとした。さらに高橋は、日銀引受公債制度という新しい方法を創出した。これを深井は一石三鳥の妙手と評した。この制度はインフレ悪化を防ぎながら、政府発注によって民間経済に刺激を与え、景気を浮揚する効果を狙うもので、日本は昭和7年末ごろから、ドイツとともに他国に先がけて経済は回復に向かった。

窮乏の農村とファシズム

2015年03月06日 | 歴史を尋ねる
 「第2次大戦前の日本農村の貧しさは、地主的土地所有の支配による構造的な貧困だったが、恐慌はこれを一段と増幅させ、深刻な社会的危機が醸成された。農村の惨状は新聞、雑誌などのマスメディアを通して大々的に伝えられ、重大な社会問題になった。このような状況下で、農村の危機を最大限に利用したのは、軍部や右翼からなる急進的ファシズム勢力とその運動であった。(中略)恐慌下の農村問題は、ファシズムと対外侵略の媒体として利用されたのである」と、暉峻衆三氏はコメントする。ここでファシズムとは、軍部と右翼からなる勢力の活動(運動)であり、対外侵略の媒体とは、本書で解説するように、「農村と農民を天皇制国家の基礎ととらえ、農村を日本的家族制度と勤勉な労働力・忠勇無双の皇軍兵士・国民食料の給源とみなす農本主義を踏まえ、窮乏の農村を最大限に喧伝し、解決能力のない既成政党政治に対する暴力的攻撃の口実にしつつ、満州事変で国防の生命線を死守する強豪無比の農民兵士」を指しているのだろう。

 結果的には大きく外れていないのかしれないが、暉峻氏のコメントには非常に唯物的で冷たい視線が感じられる。今の世に東日本の被災者を利用したと、口が裂けても云えないだろう。当時の世相を、平凡社のドキュメント昭和史で呼び起こしてみたい。昭和7年2月号「改造」に掲載された前川正一の記事を参考にしたい。
 「あわただしい師走の街頭では、宗教家たちの社会鍋や、青年団あたりの満州慰問鍋に混じって、毛色の変わった一つの新しい募金運動が、『皆さーん、東北、北海道の飢えた農民を救援してくださーい、諸君の熱い手によって雪国飢饉地の出征家族を救援して下さーい』と、どなっている。また、日々の新聞は、満蒙問題、新しい内閣の問題、議会の問題などを取扱うかたわらヤハリ、天明以来の大凶作、農民は飢えに泣く、飢えをめぐって悲惨、人間と熊の闘争悲劇等々のセンセーショナルな見出しの下に、悲惨なニュースを連続的に報道している。都会人の同胞の驚異と同情の眸は、雪に埋もれ、寒さに凍り、飢えては草の根、木の実に辛うじて一時の糧を忍んでいる東北、北海道の飢饉農民の上に集中されている。そのうちでも多くの農民はわが身の不安に思い比べ他人事ならぬ思いで飢饉農民を案じている。」と書き出し、二三の断片的事実を紹介している。北海道天塩地方、岩手県二戸地区の凶作状況と生活ぶり、かかる凶作はどうして起きたか、東北、北海道は、昔から天候に恵まれない地方で、遠くは天明の大凶作で農民は飢餓に悩み町民も同様餓死したものが多く、(中略)飢餓地獄を現出したことがある。近くは大正二年の凶作があった。二年よりは自然の暴威に僅かではあるが対抗しえたため二年の凶作被害より被害が少なかった。しかし災害以外に悪い条件があった。昭和5年の春以来急性に展開した農業恐慌で、農民の農産物安と生産費及び生活費の割高と、税金、借金の重い負担と、地主の高度な搾取で悩みぬいていた。(中略)その上に、一般経済恐慌と結ぶ金融恐慌がとくにこの地方にひどかったこと、最近対支貿易が極度の不振状態にあることなども又凶作以上の飢饉を生む要因となっている。」当時の日本における農業経営と、貧しき農民の力では何ともできない天候不順、とくに「ヤマセ」の「襲来が、東北北海道の農民を死地に引き入れんとしているのだ、(中略)と。

 
 今で云えば政治の出番であるが、当時のルポジュタージュにはそんな記事は載っていない。経済対策もこれからいう状況だった。昭和6年12月12日、元老西園寺公望は天皇の招請で上京した。西園寺は秘書の原田熊雄に「犬養の単独より方法がない」と言いつつ、「どうだろうか」と度々念を押した。原田はこれまで五度政変にぶつかったが、これだけ迷っている元老の姿を見るのは初めてのことであった。
 
 

当時の農業・農村の実情

2015年03月05日 | 歴史を尋ねる
 現在の農業・農村の課題の中で、昭和・農業恐慌時抱えていた課題(後に触れる)と重なるものはほとんどない。精々農業者一人当たりの耕作面積が小さいぐらいか。農林水産省のHPに、東北農政局統計局作成の「統計データで見る東北農業の概要」
http://www.maff.go.jp/tohoku/stinfo/toukei/gaiyou/pdf/001zenntai_261126.pdf
という案内がある。標題にあるように、東北6県の農業の概要がグラフ表示でわかりやすいし、グラフを通して、各県の特徴が手に取るように理解できる。ただ言えることは、どこにも昭和恐慌時の爪痕が感じられない。今ある目前の課題に取り組んでいる様に、グラフからは読み取れる。

 暉峻衆三氏編集の著書「日本農業100年のあゆみ」、副題「資本主義の展開と農業問題」がある。この本は日本農業史のバイブル的存在ではないか、「わが国唯一の通史。学生・市民向けに力を込めて書き下ろされた、定番テキスト」とのキャッチフレーズが載っている。大正から昭和期にかけての農業生産の変容を次のように解説している。
 日本資本主義の変化が農業生産に与えた影響を検討するとして、この時期の商業的農業発展の特質を語っている。まず、都市人口の急増は、商品としての農産物に対する需要を高め、都市の消費構造の変化に対応して商業的農業部門が発展した。とくに特定の蔬菜(トマト、キャベツ、キュウリ、玉ねぎなど)、果実(リンゴ、ナシ、みかん、ぶどうなど)、畜産物と云った食料用農産物の生産は著しく増えた。とりわけ畜産物の増加は、顕著だった。この時期の特質は、幕末期のそれが綿花やナタネなど、主として原料作物の栽培であったのと対照的に、新興の食料用農産物であった。その要因は、都市人口の急増や都市における食生活の洋風化の進展と嗜好の変化であった。同時に、地方鉄道網の拡充や貨物輸送への通風車・冷凍車の配備など、運送手段の発展で遠隔地から大都市への蔬菜輸送が可能になったことも寄与した。
 このうち例外的存在はマユをつくる養蚕業であった。養蚕業は、明治後半以降、生糸が外貨獲得のもっとも主要な貿易品目となることで急速に農村に普及し、コメとともに第2次大戦前の日本農業における基軸的な生産部門となった。この時期のマユの価格は、1919年までの急騰、20年恐慌による暴落とその後の低迷という不安定な変動にもかかわらず、養蚕農家は50万戸以上もふえ(養蚕農家比率は29年40.3%)、1929~30年にはピークに達した。小作農民にとって水田でつくったコメは、まず現物小作料として地主に収めたが、マユはほぼ100%商品として換金できたから、拡大・発展につながった。しかし、マユと生糸は国際的商品であったので、景気変動に左右され易く、不安定であったから、農業経営の脆弱性を抱え込む側面があった。

 
 第2次世界大戦前の日本農村の貧しさは、地主的土地所有の支配による構造的な貧困だったと暉峻衆三氏は解説しているが、その地主経営について見ておきたい。地主経営は第1次大戦後の米価高騰期に一時的に黄金期を味わったが、1920年反動恐慌での米価暴落およびその後の低迷、大戦後の急増した小作争議、租税・公課負担の増加によって、その経営は悪化し後退し始めた。そして転身可能な地主は、所有地を売却し、耕作地による小作料収入を有価証券や市街地所有のための投資に振り向け、その利子・地代収入に経営的重点を移行させていった。農村に特徴的であった地主的土地所有は、第2次大戦後の農地改革で解体されるが、その後退プロセスは1920年代にはじまったという。しかしそこには地域差があり、西日本は都市化・資本主義化に起因する農業労力の減少や小作人勢力の増大で、小作料は下落傾向となり、大地主は経済情勢の変化に応じて転身を図った。一方、東日本では尚小作料が上昇基調で、地主経営の基盤が頑強に維持され続けた。そして、小作争議と農民運動の展開にも相当な地域差があった。全国の小作争議件数をグラフで見ると、大恐慌前までは近畿6県が多いが、東北6県はほとんど発生していない。東北6県の小作争議は大恐慌後に急増している。
 小作争議と農民運動の高揚に対して政府は、刑法、行政執行法、治安警察法(17条:耕作地の賃貸借の条件に対し、承諾を強制する為、相手方に対し暴行、脅迫し公然毀損することを得ず)、警察犯処罰法、暴力行為等処罰に関する法律が適用された。しかし、警察的取締だけでは燎原の火のように広がった農民の戦いを鎮めることが出来ず、一定の修正を加え、国民の再統合を図っていこうとする動きが現れた。それは、行政手段を通じての労働組合の事実上の公認(1925年)、男子普通選挙法の公布(1925年)、治安警察法第17条の撤廃(1926年)。但し、取締の緩和は無条件で行われたのではなかった。農民の組織的運動が、私有財産制度の否定や国体(天皇制)の変革につながると考えられる場合は、新たに制定された治安維持法(1925年)が適用された。

 原敬内閣時代の農商務省農務局を中心に、小作制度調査委員会が設置され、小作関係立法の審議が開始された。当時農政課長であった石黒忠篤らは小作組合法をつくることを提案した。しかし、地主側委員は、小作組合を認めること自体が農村に階級対立を持ち込むことになるとして、これに強く反対した。結局、小作組合法は棚上げされ、地主・小作関係の具体的内容にかかわる小作法が審議された。これも猛烈な反対運動が展開されて棚上げされ、小作調停法が1924年制定された。
 もう一つ着手された政策は、自作農創設維持事業であった。この事業は、小作地の地主による任意売却を前提に、小作人の買受代金を国庫が低利で貸し付け、利子に一部を国が負担する方法であった。しかし、限られた財政支出のもとで、この事業規模はごく限られ、貧しい農民にとって、時価による土地買入れは極めて困難であった。

回り道 日本農業の現状と将来図

2015年03月03日 | 歴史を尋ねる
 昭和恐慌時の日本農業の実情をもう少しリアルに捕えるには、現代(現状)を通して見てみるのもいいのではないか、僅か80年余り前のことだから。そして、その国が発展しているならば、当時抱えていた諸問題は歴史を通して解決してきている筈だから。そこで、現在の日本農業がどんな課題を抱えて、どんな展望を持っているのか、先ずこのテーマを整理しておきたい。このテーマに応えてくれるのは、農林水産省の白書が最適だろう。現在白書は、「平成25年度 食料・農業・農村の動向、平成26年度 食料・農業・農村の施策」と云ってるようだ。平成11年に制定された食糧・農業・農村基本法に基づいて、国会に報告すると形式になっている。

 先ず25年度の動向について、先ず食糧の安定供給・安全保障面で、①世界の食料需給と食糧安全保障の確立に向けた取り組み、当然この中にはTPP協定交渉も入っている。②我が国の食糧自給率の動向、平成24年度はカロリーベースの食糧自給率39%、生産額ベース食糧自給率68%。③食糧消費の動向と食育の推進、今後単身世帯が大きく増加し、夫婦と子の世帯等は減少する。また、単身世帯では、世帯主65歳以上の割合が上昇する。④食品産業の動向、食品産業の国内生産額は、少子高齢化等を背景に1990年代後半から減少傾向で推移。⑤食の安全と消費者の信頼確保。
 続いて強い農業の創造について、①農地の集積・集約化に向けた農地中間管理機構の整備、農地流動化の着実な進展に伴い、農地面積に占める「担い手の利用面積」の割合は上昇し、平成22年では農地面積全体の49%。農地中間管理機構を通して、農地の集積、農地利用の最適化を図る狙い。②担い手の動向、基幹的農業従事者の高齢化が進行し、65歳以上層が61%、40代以下が10%という著しいアンバランスな状況、農地法改正でリース方式で企業が参入。③農業生産基盤の整備・保全。④農業の高賦課価値化の推進、6次産業化の推進、農林水産物・食料の輸出拡大、生産・流通システムの高度化、新品種・新技術の開発・保護・普及。⑤主要農畜産物の生産等の動向、米の生産費は規模が大きい階層ほど低下、15ha以上層の生産費は3割減。畜産物の経営コストに占める飼料費の割合は、牛で4~5割、豚・鶏は6~7割と高く、飼料価格の変動を受けやすい構造。⑥研究・技術開発の推進。⑦環境保全を重視した農業生産の推進。
 さらに、地域資源を活かした農村の振興・活性化について、①農業・農村の持つ多面的機能の維持・発揮。②再生可能エネルギーの推進。③都市と農村の共生・対流の推進。④都市農業の振興。

 箇条書きであったが、以上が現在の農業関係者の課題であり展望である。とくに注目する用語として、担い手のいう言葉が出て来ている。これは、近年の農政における主要課題、キーワードであるらしい。戦後の農政はを振り返ると、農地改革による「自作農主義」以来、日本農業の宿痾であった零細経営を打破すべく、旧農業基本法の下で進められた「自立経営農家」の育成、1980年代の総合農政における「中核農家」育成、そして90年代以降には、より専業的な「認定農業者(個人・法人)」育成というように、農業構造の近代化を積極的に担う経営主体の問題としてとらえられてきたという。2005年の「食料・農業・農村基本法」で、「担い手」を次のように定義した。「効率的かつ安定的な農業経営及びそれを目指して経営改善に取り組む農業経営者」を「担い手」とする。ふーむ、農業者を経営者としてとらえていこうということらしい。しかも、効率的とは他産業の従事者並の生涯所得を他産業者並の労働時間で確保することを意味し、安定的とはその効率的な経営が持続的で、短期間に終わらないことを意味すると、注釈にある。

 さらに「農業・農村所得倍増目標10か年戦略」が自民党農林部会で取り纏められ、政府の諸計画にも「農業・農村の所得倍増を目指す」が明記されて閣議にも決定されたという。このプランを覗いてみると、大凡次のようである。「我が国の農業・農村は、農業従事者の減少や高齢化、農業所得の減少などに直面するなど厳しい状況にある。このため、農業の競争力を強化し、産業として持続あるものとするとともに、農村を活性化するためには、農業・農村の所得を増大することが重要となっている。このようなことを背景に、平成25年4月に自民党に於いて取りまとめられた「農業・農村所得倍増目標10カ年戦略」において「地域や担い手の所得が倍増する姿を目指す」こととされ、平成25年12月に決定された「農林水産業・地域の活力創造プラン」及び平成26年6月に決定された「日本再興戦略 改訂2014」においても「農業・農村の所得倍増を目指す」が明記された。その方向として、農業所得の増大として、①生産額の増大で、需要創出、輸出拡大、耕作放棄地の活用。②生産コストの縮減で、農地集積の加速化、資材費の縮減、技術開発、基盤整備。そして農村地域の関連所得の増大として、6次産業化の推進による雇用・所得の増大、その内容として、農業者主体の加工・直売、企業誘致による就業機会の確保、開発食品の市場開拓、再生エネルギーの活用、都市との交流等。

 6次産業化に関わる市場規模は平成24年度1.9兆円に達している。平成25年度の農業総産出高が8.5兆円と云うから、6次産業化に係る市場規模は大きな規模である。そのうち農産物直売所と農産物加工がそれぞれ4割を占めている。従って所得倍増の方向は、今後成長が期待できる加工・直売、輸出、都市と農山漁村の交流など7つの分野における取組を通じて、6次産業化に係る市場規模を拡大するとともに、付加価値のより多くを農村地域に帰属させ、地域内の雇用を生み出すことにより、所得の増大を目指すとしている。