貴族院が田中首相の問責決議案を可決した行為が適切だったかどうか評価は難しいが、当時東京日日新聞の論調は圧倒的多数派であった。「貴族院改革の声すらある今日において、貴族院がその行蔵を慎むは当然・・・同院が今回の如き断乎たる態度に出たことは、その背後に国民多数の意思が働いているという自信があるからだろう。・・・田中内閣は憲政史上、稀に見る悪政を重ね、恬として恥ずる所を知らない。加えるに、卑劣なる誘拐手段によって反対党を切り崩し、その当然失うべき過半数を衆議院に維持せる等、口には国民思想の善導を高唱しながら、そのなす所は全然これを裏切り、国家生存の将来を、危殆に陥れると見るべきものが多い」 また評論家は「衆議院に匙を投げた国民は貴族院によってはじめて溜飲を下げるという奇観を呈した」 また伊沢多喜男は「問責決議案可決は近衛文麿・細川護立・伊沢のやったことで、これが内閣瓦解の原因」だとし、小川平吉も「首相を斃せし弾丸は単に満州問題の一発に非ず・・・水野文相辞表に関する上院の所謂軽率不謹慎問題」をはじめ四点を指摘している。ふーむ、東日の稀に見る悪政という非難の中身は何なのか、過半数に達しない政権与党の苦労を少しも斟酌しないメディアも、議会にまだ理解が浅いということか。
1928年4月、米仏は「国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし・・・国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその人民の名に於いて厳粛に宣言す」とする条約の締結を目指す旨を日・英・独・伊4国に送付した。日本政府は欣諾回答を送り、8月フランスで15か国代表が調印した。ところが条約文中に「各自の人民の名において」は天皇の大権干犯だと攻撃が行われ始め、9月から政治問題化した。12月に召集された第56議会では、野党はこの問題で政府を激しく攻撃した。田中首相は、この字句は「人民のために」という意味で何も問題ないと答弁、議会はかろうじて通過したが、枢密院では平沼騏一郎らが反発し、「人民の名において」は日本には適用されないという宣言を付して不戦条約は枢密院に諮詢された。この事件が、またしても天皇シンボルをめぐる抗争であった。朴烈怪写真事件は政友会を中心とした野党が攻勢をかけた抗争であったが、水野文相優諚問題といい、民政党も天皇シンボルをめぐる抗争を仕掛けた。開始された日本の大衆デモクラシー下の政治抗争においてこのシンボルが持つ大衆動員力には、党派を問わず抗しがたい魅力があったと筒井氏。こうした点で民政党を過大評価することは実情に合わない、と。
1928年3月、三・一五事件といわれる共産党関係者の大検挙が行われた。27年テーゼと言われるコミンテルンが日本共産党に出した闘争司令に「君主(天皇)制廃止」が掲げられたことが原因であった。これを踏まえて第55議会に治安維持法改正案が提出されたが、可決されなかった。そこで政府は「国体変革」には「死刑」という緊急勅令案を枢密院に諮詢した。次の大検挙が1929年4月、今回は共産党中央常任委員3人が逮捕され、以後共産党の組織的活動はほとんど不可能になった。当時世界の共産党は、コミンテルンというモスクワにあった世界革命本部の指示の下に活動していた。
1929年1月、一旦下野した蒋介石は総司令に就任し、北伐再開を主張。4月北伐軍は始動、済南を包囲。日本政府は済南に第六師団の出兵を決定、第二次山東出兵であった。5月国民革命軍は済南に入城したが、この国民革命軍と日本軍が衝突した。以後在留邦人への虐殺・略奪が生起したので、山東派遣軍増員のため第三師団を派兵した。第三次山東出兵である。一万五千人が動員され、日本軍は済南の占領した。しかしその後中国側の処罰・賠償が十分に行われないまま撤兵したので、国内ではこの点でも田中内閣への批判が高まった。こうした北伐軍の活動が続く中、5月18日、政府は「満州に戦乱及ぶ時は治安維持のため適当有効な措置をとる」と張作霖と国民政府に通告した。とくに吉沢謙吉公使はこれを直接張作霖に伝え、満州復帰を勧告した。張作霖は特別列車で北京を出発したが、この列車が6月4日奉天近郊で爆破され、張作霖は死亡した。これは関東軍高級参謀河本大作の陰謀であった。これが陰謀であったことは、中国・日本政府中枢・軍中央いずれも早期に察知した。元老西園寺は田中首相に真相公表と関係者処罰を要求、田中も同意した。しかし、関東軍・軍中央・閣僚の多数は、真相公表は日本に不利益だと反対した。それでも暮れの12月24日、田中首相は天皇に真相公表と関係者処分を内奏した。だがその後、真相非公表と警備責任者のみの処分という処理方針が政府内の大勢となっていった。
1929年1月、衆議院予算委員会で民政党の中野正剛が「満州某重大8事件」について田中首相を追及した。議会に取り上げられた結果、もう早期に決着をつけざるを得ない大問題になった。3月27日、白川陸相は真相非公表と警備責任者のみの処分という方針を内奏した。牧野内大臣は「驚愕の至り」「言語同断」と日記につけている。白川陸相・田中首相ともに前年末の方針と打って変わった方向で行こうとしていることが、空中関係者に明白に伝わってきた。6月不戦条約の取り扱いに関連して、「満州重大事件といい、不戦条約といい政府の態度は不当不誠実は甚だしき。聖上陛下はこの際適当なる機会を捕え厳然たる御態度を取らるること然るべき」と侍従次長が内大臣秘書官長に言っている。6月27日、田中首相は、村岡長太郎関東軍司令官らの行政処分による決着を天皇に上奏、天皇は以前と方針が変わっていることを指摘し、田中が理由を述べようとするとこれを拒絶した。翌28日、白川陸相を天皇のもとに説明に派遣。これが天皇の逆鱗に触れ、午後、鈴木侍従長との面会で「御真意」と「天皇の逆鱗の旨」が田中に伝えられ、上奏希望も天皇から拒絶された。こうして7月2日、田中内閣は総辞職した。尚、内閣の方針自体は認められ、6月30日公表されている。首相としての輔弼のあり方が問題とされたと筒井氏は結ぶ。新聞は一斉にこの憐れな最後を叩いた。「人心は疾くの昔に現内閣を去っていた。・・・ほとんど空前に近い無責任政治を演じて、議会をして有れども無きがごとくならしめた。・・・元老宮中の介入発言をすら惹起するに至る、また已むを得ざる勢いと言わざるを得ない」(朝日)。
7月2日、浜口民政党内閣が成立。朝鮮総督府疑獄事件、北海道鉄道・東大阪電気鉄道疑獄事件、売勲疑獄事件が発生起訴された。すべて田中内閣時代に起因する疑獄事件であった。9月29日、前首相田中義一は狭心症で急死した。「田中君の尊皇心は殆ど恐怖心にも近い程」と評するのは田中をよく知る久原房太郎の言である。そして筒井氏は以下纏める。①天皇の叱責は自ら語ったメモにあるように、宮中のアドバイザーのアドバイスを受け田中を叱責した。②田中内閣の崩壊は複数要因である。③田中内閣の崩壊は、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒した。これは政党政治・議会制民主主義尊重者にとって好ましくない事態である。やがて「政党外の超越的存在・勢力」が「軍部」や「近衛文麿」など形を変えて再生産され、メディア世論と合体して政党政治を破壊するに至る背景・下地を作った。④天皇問題の政治的有効性の再三の駆使に多くの問題があった。⑤マスメディアは、シンボル的問題と既成政党政治批判ばかりをセンセーショナルに報道し、二大政党の健全な育成に意を注がなかった。⑥知識人も大衆デモクラシー時代に十分対応することが出来なかった。多くの知識人は、既成政党=ブルジョア政党への失望と批判を語りつつ、同時に新興の無産政党の発展に期待し、二大政党制の意義と理念を十分語ることが出来なかった。そして筒井氏は尚今日まで持ち越されていると語る。
1928年4月、米仏は「国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし・・・国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその人民の名に於いて厳粛に宣言す」とする条約の締結を目指す旨を日・英・独・伊4国に送付した。日本政府は欣諾回答を送り、8月フランスで15か国代表が調印した。ところが条約文中に「各自の人民の名において」は天皇の大権干犯だと攻撃が行われ始め、9月から政治問題化した。12月に召集された第56議会では、野党はこの問題で政府を激しく攻撃した。田中首相は、この字句は「人民のために」という意味で何も問題ないと答弁、議会はかろうじて通過したが、枢密院では平沼騏一郎らが反発し、「人民の名において」は日本には適用されないという宣言を付して不戦条約は枢密院に諮詢された。この事件が、またしても天皇シンボルをめぐる抗争であった。朴烈怪写真事件は政友会を中心とした野党が攻勢をかけた抗争であったが、水野文相優諚問題といい、民政党も天皇シンボルをめぐる抗争を仕掛けた。開始された日本の大衆デモクラシー下の政治抗争においてこのシンボルが持つ大衆動員力には、党派を問わず抗しがたい魅力があったと筒井氏。こうした点で民政党を過大評価することは実情に合わない、と。
1928年3月、三・一五事件といわれる共産党関係者の大検挙が行われた。27年テーゼと言われるコミンテルンが日本共産党に出した闘争司令に「君主(天皇)制廃止」が掲げられたことが原因であった。これを踏まえて第55議会に治安維持法改正案が提出されたが、可決されなかった。そこで政府は「国体変革」には「死刑」という緊急勅令案を枢密院に諮詢した。次の大検挙が1929年4月、今回は共産党中央常任委員3人が逮捕され、以後共産党の組織的活動はほとんど不可能になった。当時世界の共産党は、コミンテルンというモスクワにあった世界革命本部の指示の下に活動していた。
1929年1月、一旦下野した蒋介石は総司令に就任し、北伐再開を主張。4月北伐軍は始動、済南を包囲。日本政府は済南に第六師団の出兵を決定、第二次山東出兵であった。5月国民革命軍は済南に入城したが、この国民革命軍と日本軍が衝突した。以後在留邦人への虐殺・略奪が生起したので、山東派遣軍増員のため第三師団を派兵した。第三次山東出兵である。一万五千人が動員され、日本軍は済南の占領した。しかしその後中国側の処罰・賠償が十分に行われないまま撤兵したので、国内ではこの点でも田中内閣への批判が高まった。こうした北伐軍の活動が続く中、5月18日、政府は「満州に戦乱及ぶ時は治安維持のため適当有効な措置をとる」と張作霖と国民政府に通告した。とくに吉沢謙吉公使はこれを直接張作霖に伝え、満州復帰を勧告した。張作霖は特別列車で北京を出発したが、この列車が6月4日奉天近郊で爆破され、張作霖は死亡した。これは関東軍高級参謀河本大作の陰謀であった。これが陰謀であったことは、中国・日本政府中枢・軍中央いずれも早期に察知した。元老西園寺は田中首相に真相公表と関係者処罰を要求、田中も同意した。しかし、関東軍・軍中央・閣僚の多数は、真相公表は日本に不利益だと反対した。それでも暮れの12月24日、田中首相は天皇に真相公表と関係者処分を内奏した。だがその後、真相非公表と警備責任者のみの処分という処理方針が政府内の大勢となっていった。
1929年1月、衆議院予算委員会で民政党の中野正剛が「満州某重大8事件」について田中首相を追及した。議会に取り上げられた結果、もう早期に決着をつけざるを得ない大問題になった。3月27日、白川陸相は真相非公表と警備責任者のみの処分という方針を内奏した。牧野内大臣は「驚愕の至り」「言語同断」と日記につけている。白川陸相・田中首相ともに前年末の方針と打って変わった方向で行こうとしていることが、空中関係者に明白に伝わってきた。6月不戦条約の取り扱いに関連して、「満州重大事件といい、不戦条約といい政府の態度は不当不誠実は甚だしき。聖上陛下はこの際適当なる機会を捕え厳然たる御態度を取らるること然るべき」と侍従次長が内大臣秘書官長に言っている。6月27日、田中首相は、村岡長太郎関東軍司令官らの行政処分による決着を天皇に上奏、天皇は以前と方針が変わっていることを指摘し、田中が理由を述べようとするとこれを拒絶した。翌28日、白川陸相を天皇のもとに説明に派遣。これが天皇の逆鱗に触れ、午後、鈴木侍従長との面会で「御真意」と「天皇の逆鱗の旨」が田中に伝えられ、上奏希望も天皇から拒絶された。こうして7月2日、田中内閣は総辞職した。尚、内閣の方針自体は認められ、6月30日公表されている。首相としての輔弼のあり方が問題とされたと筒井氏は結ぶ。新聞は一斉にこの憐れな最後を叩いた。「人心は疾くの昔に現内閣を去っていた。・・・ほとんど空前に近い無責任政治を演じて、議会をして有れども無きがごとくならしめた。・・・元老宮中の介入発言をすら惹起するに至る、また已むを得ざる勢いと言わざるを得ない」(朝日)。
7月2日、浜口民政党内閣が成立。朝鮮総督府疑獄事件、北海道鉄道・東大阪電気鉄道疑獄事件、売勲疑獄事件が発生起訴された。すべて田中内閣時代に起因する疑獄事件であった。9月29日、前首相田中義一は狭心症で急死した。「田中君の尊皇心は殆ど恐怖心にも近い程」と評するのは田中をよく知る久原房太郎の言である。そして筒井氏は以下纏める。①天皇の叱責は自ら語ったメモにあるように、宮中のアドバイザーのアドバイスを受け田中を叱責した。②田中内閣の崩壊は複数要因である。③田中内閣の崩壊は、天皇・宮中・貴族院と新聞世論との合体した力が政党内閣を倒した。これは政党政治・議会制民主主義尊重者にとって好ましくない事態である。やがて「政党外の超越的存在・勢力」が「軍部」や「近衛文麿」など形を変えて再生産され、メディア世論と合体して政党政治を破壊するに至る背景・下地を作った。④天皇問題の政治的有効性の再三の駆使に多くの問題があった。⑤マスメディアは、シンボル的問題と既成政党政治批判ばかりをセンセーショナルに報道し、二大政党の健全な育成に意を注がなかった。⑥知識人も大衆デモクラシー時代に十分対応することが出来なかった。多くの知識人は、既成政党=ブルジョア政党への失望と批判を語りつつ、同時に新興の無産政党の発展に期待し、二大政党制の意義と理念を十分語ることが出来なかった。そして筒井氏は尚今日まで持ち越されていると語る。