昭和維新運動の源流

2016年05月28日 | 歴史を尋ねる
 前回「当時の社会が生み出した悲劇」という言葉を使ったが、ではそれぞれのテロ事件やクーデター、二・ニ六事件に至る昭和維新運動はいつ始まり、どのように展開して事件に至ったか、この欄では取り上げたい。筒井清忠氏によると大正中期に成立した老壮会・猶存社(ゆうぞんしゃ)こそ昭和維新運動の源流だという。老壮会が設立されたのは大正7年(1918)、設立の背景にあったのはこの年に起こった米騒動であった。この騒動での示威運動発生地点は368ヶ所で、軍隊約10万人が出動、逮捕者は数万人、起訴者約8000人。近代日本史上最大の民衆騒擾事件だった。この事件に触発され、強い危機意識を抱いた人々が集まったのが老壮会であった。中心人物の満川亀太郎は、「米騒動によって爆発したる社会不安と、講和外交の機に乗じたるデモクラシー思想の横溢とは、大正7年秋期より冬期にかけて、日本将来の運命を決定すべき一個の契機とさえ見られた。一つ誤てば国家を台無しにして終うかも知れないが、またこれを巧みに応用して行けば、国家改造の基調となり得るかも測り難い。そこで私共は三年前から清風亭に集って、時々研究に従事しつつあった三五会を拡大強化し、一個の有力なる思想交換機関を作ろうと考えた。かくして老壮会が出来上がった」と後に回顧している。第一回会合(大正7年10月9日)の満川挨拶は、「今や我国は内外全く行詰り、一歩を転ずれば国を滅ぼすに至るの非常重大時となっている。英米の勢力益々東洋に増大し民主的傾向世界に急潮をなして我国に衝突しつつある。また貧富の懸隔益々甚だ布く、階級闘争の大波打ち寄せつつあるが、これらは三千年来初めての大経験である。こうした中、要は如何にしてこの国の立つべき所を定むるかであり、五十年前土間に蓆を布き、あぐらをかきて国事を議したる維新志士の精神に立ち返りてこの会を進めて行きたいものなり」と。

 第一回参加者は、満川亀太郎・大川周明・佐藤鋼次郎(陸軍中将)・大井健太郎(自由民権運動家で大阪事件の首謀者)・嶋中雄三(中央公論社社長)らであったが、後に、高畠素之(マルクスの「資本論」の最初の翻訳者で国家社会主義者)・堺利彦(幸徳秋水とともに日本の社会主義の草分け的存在)・高尾平兵衛(アナキスト)・権藤成卿(農本主義者)・渥美勝(桃太郎主義を唱えた宗教者)・伊達準之助(大陸浪人)・鹿子木員信(日本人初のヒマラヤ登山家で国家主義哲学者)・中野正剛(東方持論社社長で後に衆議院議員)・平貞蔵(吉野作蔵門下生で東大新人会創立メンバー)・大類伸(西洋中世文化史学者)・草間八十雄(都市下層社会研究者)らが参加、多彩な顔触れであった。中でも中心的メンバーは満川亀太郎と大川周明で、この二人が中心となってインドの独立運動家リハビー・ボースらも加わり、大正4年(1915)頃に三五会というアジア問題についての時局研究会を始めており、これが老壮会につながった。

 満川亀太郎は明治21年大阪生まれ、小学生時代、三国干渉の物語にナショナリズムを燃え立たせ、中学時代、幸徳秋水の社会主義文献に接し、早稲田時代、幸徳秋水、宮崎滔天を愛読したが、日本の革命はどうしても錦旗を中心としたものでなければならぬと考えた。さらに、発禁本北一輝の「国体論及び純正社会主義」を熟読、大学中退後亜細亜義会に加盟、新聞・雑誌の記者・編集者を勤めた。インド独立運動家ボースと知りあい、大川周明を知ることとなった。貧民生活研究家などとも知りあい、ナショナリズムとアジア主義と社会主義が渾然一体となってその思想的核は形成されたと筒井氏。
 大川周明は明治19年山形県生まれ、明治32年庄内中学に入学、西郷隆盛「南洲翁遺訓」を愛読、折から、日清・日露戦争勝利で国家目標の喪失により明治末期の青年たちが陥った「煩悶」の時代を迎えつつあり、キリスト教や社会民主党に関心を抱いたりした。「週刊平民新聞」を購読、「自由、平等、博愛」というフランス革命のスローガンや「平民主義、社会主義、平和主義」の主張に魅かれ、また、堺利彦・幸徳秋水・安部磯雄らの演説も聞いている。東京帝国大学宗教学科を専攻、宗教団体日本協会に入会、卒業後も宗教研究を続け、翻訳にも力を注いだ。ヘンリー・コットンの著作でイギリスの植民地インドの現況に衝撃を受け、日印親善会に加わり、インドの独立運動に積極的に加担、アジア主義的運動のリーダー的存在となった。

 満川・大川ら昭和前期の代表的国家主義者となる人たちですら、幸徳らの社会主義の影響を強く受けているところにこの時代のこうした運動の特質が見られると筒井氏。それらの人々が中心となりつつ、多くに立場の人々が集まったのが老壮会の特色であった。会で取り扱われたテーマも「世界の民主的大勢」「英米勢力の増大」「普通選挙の可否」「社会主義」「貧民生活」「ロシア問題」「アメリカ問題」「世界革命論」「山東問題」「婦人問題」等多様で、大正11年(1922)までに44回開催し、会員総計約500人となった。しかし会のその特質がかえって会の性格を曖昧にしてしまったので、大正8年(1919)満川と大川が結成した猶存社であった。「今や天下非常の時、何時までも文筆を弄しているべき秋ではない。我等は兜に薫香をたきこめた古名将の如き覚悟を以て日本改造の巷に立たねばならぬ。慷慨の志猶存す」と。この運動が目的とする「国家改造の気運を整調指導して貰う」ためのリーダーが必要だと考えた満川は、その頃中国革命に挺身していた北一機を日本に迎えることを提唱、大川が上海に出向く。
 大正8年(1919)5月、山東半島問題をめぐる排日運動の嵐、五・四運動が吹き荒れ、6月「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書いた北は、それを満川に送っているが、それを投函して帰れる岩田冨美夫が雲霞怒涛の如き排日の群衆に包囲されている有様を背景に、北は断食をしながら「国家改造案原理大綱」の執筆を始めた。この著作の執筆中に大川が来訪したのであるが、その中には、「ベランダの下は見渡す限り故国日本を怒り憎しみて叫び狂う群衆の大怒涛、しかも眼前に見る排日運動の陣頭に立ちて指揮し鼓吹し叱咤している者が、悉く十年の涙恨血史を共にした刎頸の同士その人々である大矛盾、自分は支那革命に与れる生活を一擲して日本に帰る決意を固めた。十数年間に特に加速度的に腐敗堕落した本国をあのままにして置いては明らかに破滅、そうだ、日本に帰ろう。日本の魂のドン底から覆して日本自らの革命に当ろう」と書いていた。その著書は完成、秋に秘密頒布されたが、翌年出版法違反となるが、北は12月上海を発ち帰国した。

 国家改造案原理大綱を改題して「日本改造法案大綱」に改題、伏字化版を大正12年刊行。内容は、天皇を中心にしたクーデターを行い、特権的な身分制度を廃止し政治を民主化する、言論・集会・結社に自由を奪っていた諸法を廃止、財産・土地の私有制度に制限を加える、」労働者・農民・児童の地位向上や保護を行うというのであった。これら国内施策のかなりの部分は、社会民主党の「社会民主党宣言書」と共通の内容であるが、天皇を立ててそれを行う点は違っていた。
 それに対して対外政策は北の独創性が高い。北は、英露は大富豪・大地主と主張、国際間に於ける無産者の地位にある日本は、正義の名に於いて彼らの独占より奪取する開戦の権利なきか。インドの独立及び支那の保全を成し遂げ、新領土は異人種異民族の差別を撤廃し、豪州に印度人種支那民族を迎え、極東シベリアに支那朝鮮民族を迎えて先住の白人種とを統一し、東西文明の融合を支配し得る者地球上只一大日本帝国あるのみ、と。
 北においては、国内的平等主義と国際的平等主義は完全に結合し、日本のナショナリズムは、北と猶存社によって、明治時代の士族的な古い体質を持ったものから、新しい時代の青年知識人にも受け入れやすい平等主義と世界性を持ったものに大きく転換した、と筒井氏は解説する。
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井上財政と社会不安の高まり

2016年05月18日 | 歴史を尋ねる
 二・ニ六事件の首謀者の一人、青年将校の安藤輝三は事件後次のように証言している。安藤が国家革新運動に関心を持った契機は初年兵教育からで、兵の身上を通じて農山漁村、中小商工業の疲弊窮乏の状態を知り、世相の瀕廃人心の軽佻等に憤慨し国家の前途を憂えた。こうして軍人としては考えては不可と云われる政治問題まで考えを致さねばならぬようになりましたという。不景気の中、除隊した兵が就職口を探してくれと云ってくるのでそれらに補助を与えても焼け石に水で、私自身が破産する様になりました、と。筒井清忠氏の著書では証言内容の時代を特定していないが、昭和恐慌の時期であろう。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校を経て昭和元年歩兵少尉として第三連隊に入隊。戸山学校・歩兵学校を経て昭和10年、歩兵第三連隊中隊長就任。昭和6年8月、菅波三郎が第三連隊に現れ手からは一層急進化し、十月事件クーデタ計画に加担している。北・西田に会い「改造法案」を読み、菅波が満州に去ってからは、歩兵第三連隊の国家革新青年将校の中心的存在となり、その人格から「安藤が起てば歩三が起つ」と言われるほどの存在になった、と筒井氏。

 前回は、井上蔵相の「金解禁準備不況」に始まって、世界恐慌の影響による「価格恐慌」が押し寄せたまでだったが、日本社会に与えた影響を鈴木正俊氏の著書で見ておこう。
 政府は1930年度予算を超緊縮型とした。これは金解禁に備えるという意味もあったが、財政難が深刻となっていたこともあった。もう一つの特徴は、国際発行がゼロであったこと。井上は「国民経済の立直しと金解禁決行に就いて国民に訴う」で、「借金をして歳出を計っているような不健全なことを止めて、借金もせずにバランスを合わせて、この財政上の状態を立て直すつもりです。収支のつぐなわない不合理な財政状態を改善して、財政の基礎を確立するつもりです。この趣旨から、政府はすでに財政緊縮に着手し、昭和五年度予算編成に当たって非常なる緊縮方針をもって臨み、既定経費の整理節約、新規事項の抑制を図り、一般会計においては公債を発行せず、特別会計において公債を半減する計画であります」と。
 しかしこの予算編成の結果は、政府の予想を大きく裏切るものであった。政府が均衡予算に固執し財政支出を削減したため、民間設備投資の落ち込みを招き、それが回り回って税収不足に跳ね返り、結局歳入不足になったからだ。均衡予算を目指し、歳出を削減したものの、不況のあおりで歳入が減ったために縮小の螺旋階段をくだるようなことになった。デフレが深刻化したのだった。
 アメリカの大不況、保護主義の高まりを受けて、日本のアメリカ向け輸出、特に生糸の輸出が大きく減少したことが日本経済にとって大きなダメージとなった。生糸は日本の輸出の38%を占め、特にアメリか向け輸出の96%と大部分を占めていたから、その価格下落の打撃は致命的であった。国内需要が停滞している時、輸出の落ち込みが重なったから国内経済は深刻な不況となった。工業生産額は31年に37%減、農業生産額は43%減、農業の落ち込みが大幅であったが、東北地方の農村の惨状が特に目立ったことは既述済である。
 30年前後の日本のGNPは、実質が堅調な中で名目が大きく落ち込むという特異な様相を示した。1929年を100とすると、実質GNPは30年、31年とわずかであったがプラスを維持したが、31年の名目GNPは約80と二割も減少した。恐慌下で生産量は堅調に推移したが、物価の下落が極めて大きいという特徴を示した。深刻なデフレである。デフレの指標としての卸売物価の動きをみると、1929年を基準とすると、30年に18%、31年に30%も下落した。この鋭角的な落ち込み理由は、1、人為的なデフレ政策と30年の旧平価による金解禁、2、アメリカの保護主義の高まりと大恐慌の影響、3、卸売物価、特に米、生糸など農産物の価格暴落の三つの複合的な要因だと鈴木氏。当時の経済史を担当する専門家は大恐慌だから経済の落ち込みも止むを得なかったとの見解が多い。確かに日本の力ではどうにもならない世界恐慌の勃発とその波及が、日本経済に大きな影響を及ぼしたことはわかるが、経済政策の誤りを第一に挙げるべきでないか。それは、井上の後を継いだ高橋是清が見事に大恐慌からの脱出を図った史実があるし、井上蔵相が在任当時、即効性のある景気対策、農業対策などをとった気配がなかった。やはり経済政策の当事者は時局に適合したタイムリーな経済政策を撃つべきであったし、自らの信念の中にとどまるべきでなかった。

 また、政府は金解禁に当たって金が流出しないよう財界に協力を求めていたから、金の海外流出は大規模になるまいと楽観していた。しかし現実に金解禁が始まってみると、企業や銀行の実需に加えて、金融機関の投機的なドル買い、円売りも起きた。特に1931年9月21日、イギリスが金本位制を離脱すると、日本の金輸出再禁止を予想してドル買い・円売りが横浜正金銀行の窓口に殺到した。その間のドル買いの順位は、一位ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行、二位三井銀行、三位三井物産、四位住友銀行、五位三菱銀行であった。当時の日本では自由貿易が行われており、為替についても何の制限もなかったから、ドルの売買は自由にできた。この結果、日銀の正貨準備は31年末には金解禁前に比べて半減した。日銀の金準備が減少するにつれて、その分通貨量が縮小、金利が上昇し、不況が加速したのも、政策当局の予想外の出来事だった。
 ドル買いに対して井上は徹底的にドル売り、円買いで立ち向かった。またドル売り・円買いの効果を上げるために公定歩合を二度に亘って引き揚げた。それでもドル買いの勢いは止まらなかった。イギリスが金本位から離脱し、さらに世界の国々がこれに続こうというときに、日本だけが流れに逆らうことは不可能であった。
 しかし井上は退任後も高橋の金輸出再禁止策や在任当時のドル買いについて執拗に攻撃しているが、高橋の以下の反論が正論であろう。参考までに高橋の演説を引用すると「井上前蔵相は、我が国がついに金の輸出再禁止をなさざるべからざるに至りしは、我が銀行家または資本家が妄りにドル貨を買い付けたる結果なりとて、盛んにこれを攻撃致しますが、それならば何故、井上君は断然金の輸出を禁止するか、或いは他の法律上または行政上の手段によって、為替の思惑を取り締まらなかったのであるか。何らこの種の手段を講ぜずして、内外貨幣の売買を長く自由の立場に置き、ただ日本銀行の金利を引き上げ、以てその解合(とけあい)を期待したるがごときは、大いなる見当違いであったと言わねばなりません」。
 そしてその結果、財界批判の炎は彼方此方から上がりついには32年3月5日、三井合名理事長の団琢磨は血盟団の菱沼五郎によって暗殺された。血盟団は井上日召が一人一殺主義を標榜して組織したが、目的は政財界人、西園寺公望、牧野伸顕、池田成彬、団琢磨、若槻礼次郎、井上準之助、犬養毅らを暗殺するためであった。追記事項として、井上準之助前蔵相は32年2月、総選挙の候補者応援に駆け付けたところを、同じ血盟団の小沼正に射殺された。逮捕された小沼は「旧正月帰郷した時、百姓の窮乏見るに忍びず、これは前蔵相のやり方が悪かったから殺意を生じた」といい、小沼の来歴を当たると、実家の事業が失敗、再起を決して上京したが、貧困から這い上がろうとしても、独占営業者の専横や警察署の腐敗を身にしみ、そうした中で悪戦苦闘していた。さらに昭和恐慌で最終的に家族離散となった。重なる挫折を味わっていた1930年(昭和5年)に井上日召を知り、血盟団に加わった、とある。当時の社会が生み出した悲劇なのだろう。
 
 
 
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恐慌の展開と社会不安

2016年05月17日 | 歴史を尋ねる

 二・ニ六事件の首謀者の一人、青年将校の安藤輝三は事件後次のように証言している。安藤が国家革新運動に関心を持った契機は初年兵教育からで、兵の身上を通じて農山漁村、中小商工業の疲弊窮乏の状態を知り、世相の瀕廃人心の軽佻等に憤慨し国家の前途を憂えた。こうして軍人としては考えては不可と云われる政治問題まで考えを致さねばならぬようになりましたという。不景気の中、除隊した兵が就職口を探してくれと云ってくるのでそれらに補助を与えても焼け石に水で、私自身が破産する様になりました、と。筒井清忠氏の著書では時期を特定していないが、昭和恐慌の時期であろう。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校を経て昭和元年歩兵少尉として第三連隊に入隊。戸山学校・歩兵学校を経て昭和10年、歩兵第三連隊中隊長就任。昭和6年8月、菅波三郎が第三連隊に現れ手からは一層急進化し、十月事件クーデタ計画に加担している。北・西田に会い「改造法案」を読み、菅波が満州に去ってからは、歩兵第三連隊の国家革新青年将校の中心的存在となり、その人格から「安藤が起てば歩三が起つ」と言われるほどの存在になった、と筒井氏。

 前回は、井上蔵相の「金解禁準備不況」に始まって、世界恐慌の影響による「価格恐慌」が押し寄せたまでだったが、日本社会に与えた影響を中村氏の著書で見ておこう。とくに不況の影響が著しかったのは農村だった。農業所得はこの三年で半額以下に落ち込んだ。当時の農家の現金所得の柱であった繭価は、ニューヨークの生糸相場の下落に伴っていち早く落ち込んだ。米価の落ち込みはやや遅かったが、1930年が豊作であることが明らかになると、急に低落し、そのために31年には農家所得が急落した。当時の内務省社会局調査「農山漁村に於ける生活困窮状況」(昭和7年8月)によれば、地域的に見れば東北地方の困窮が一番甚だしく、その次は山陰地方が惨状をきわめた、と。農産物の値下がり、繭価の下落、労働需要の減退等のために、「糊口に苦しみ、米を食するを得ずして、アワ、ヒエ等を常食とするの状態なり。漁村の窮乏は山村に次ぎ甚だしく、漁獲物の価格低落、近年天候不良による不漁等、農漁山村の負債の逐年的増加、金融の拘束等、農漁民の生活を脅かすもの枚挙にいとまあらず」とされている、と。
 窮乏したのは農村ばかりではなかった。製造工業の分野でも打撃は著しく大きかった。代表産業であった防錆業ですら、急に製品価格が低落したために赤字に転落するものが多く、六大紡の一つであった大阪合同紡は東洋紡と合併、良好な労使関係を誇っていた鐘紡も臨時給与をカット、未曾有の大ストライキが勃発した。他産業は推して知るべし、倒産も相次ぎ、失業者は29年以降、32年までに20万人増加し、50万人に達した。しかもこれは特定の工業地帯のみを対象とした調査で、その実態はもっと深刻であった。

 この不況に対して、財政支出による公共事業を拡大して失業者を吸収すべきだという要求に対し井上蔵相は、この種の政策の効果は一時的にすぎず、恒久的な成果を上げ得ないとしてこれを拒否した。そこで考えられたのが産業合理化運動であった。商工省のもとに産業合理化の旗振り役として「臨時産業合理局」が設置されたのは、1930年6月であった。重要産業統制法が制定され、政府の指定する重要産業(紡績、鉄鋼、セメント、製糖、製粉、製紙、カーバイトなど)に属する企業の二分の一以上が加盟してカルテルを結んだ場合、政府に届けること、その加盟企業の三分の二以上が申請した場合には、カルテル未加入のアウトサイダーのもその統制を及ぼすことができる、というものであった。この法律の制定によって、不況カルテルは以後続々と形成された。操業短縮や価格協定なども実施されたが、国際ダンピングの影響もあり一時混乱したが、なんとかカルテルの効果が挙がった。さらに個別企業では合理化が進められるとともに、新しい産業(人絹、自動車関係など)が秘かに発展した。

 昭和恐慌の展開につれて、日本の社会は次第に不安定になっていった。1932~33年にかけての急激な政治的・社会的変動は、やはり深刻な恐慌の下で準備され、実現したと中村隆英氏。浜口内閣は海軍軍縮の実現と金解禁を主要な政綱に掲げて、組閣後一年以内にこの二つを実現した。しかし、この一年の間に、ロンドン軍縮会議が「統帥権干犯問題」を発生させ、海軍部内の動揺を来し、条約派の良識ある幹部(山梨勝之進他)が現役を退かされ、一方金解禁準備のための緊縮政策、その後の世界恐慌の深刻化によってもたらされた昭和恐慌が、社会的不安をいっそう激しくさせた。
 また、野党政友会は、田中義一総裁の死後、引退していた犬養毅を総裁に戴いて、民政党内閣の批判を活発に展開、その際金解禁政策を批判して金輸出再禁止を叫ぶとともに、海軍艦隊派に同調して統帥権干犯論を展開したことは、両刃の剣であって、軍部の政治的進出を容認し、議会政治の墓穴を掘る結果となったと言われている。

 その第一の表れが1930年11月14日、浜口雄幸首相が東京駅駅頭で狙撃され重傷を負った事件であった。続いて、養蚕不況によって農家の生活が困窮したのを背景に農民運動が激化、後の血盟団事件や五・一五事件につながるような運動も次第に準備されつつあった。このような状況はすぐに表面化しなかったが、これに敏感に反応したのは陸軍の中堅幹部で、31年3月のいわゆる三月事件クーデタ未遂事件。参謀本部のロシア班長橋本欣五郎はトルコ駐在武官として現地にあって、ケマル・アタチュルクの独裁政治を見聞きし、手っ取り早く有効な国家改造の手段は、議会政治を打倒して、ケマルが実行したような軍部の独裁に移行することであると考えはじめるようになっていた。そのため、陸軍省参謀本部の中堅将校を組織して、自らが中心となって「桜会」を結成した。桜会は1930年に結成され、以後、国家改造についての議論を闘わせていたが、31年初頭から、橋本を中心に急進派が中心となって陸軍首脳部を抱き込み、大川周明のグループとも連携して、宇垣一成内閣結成を目標に、クーデターを実行しようとしたものだった。結局この事件は一切表面化することなく、何人も責任をとることなくもみ消された。

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金解禁準備不況

2016年05月14日 | 歴史を尋ねる
 浜口内閣が成立した時、民政党はその政策として掲げて来た金本位への復帰の実施に踏み切り、大蔵大臣には党外から井上準之助が起用された。日本銀行出身で、横浜正金銀行頭取、日本銀行総裁を長く務めた井上は、日銀先輩の高橋是清に信頼され、つねに経済界に波乱を起こさない方針をとって来た。財界の信用の厚い人物だった。金解禁についても、井上は時期尚早を主張し、入閣直前の昭和4年6月当時、今解禁するのは肺病患者にマラソンをさせるようなものと公言してはばからなかった。その井上が金解禁を意図する浜口内閣に入閣したことは、世間一般の意外とする所であった。中村隆英氏は当時の井上を忖度して、政治家への転身を決意し、この難事業を成功させることによって、将来の首相の地位をかちとりたいと考えていた。金解禁が避けられないとすれば、自分以外にはこれを成し遂げられる者はないという自負心を抱いていたのかもしれない、と。蔵相となった井上は、準備のない解禁は危険であるが、準備の上で実行するのなら金解禁にともなう不況を招く恐れはない、自分はその準備を行うと明言して、金解禁に向けて経済政策を大胆に変更した。その肝は高橋是清の回想にもあるように「現在の財界を匡正するためには緊縮政策によりいじめつけて金解禁をしなければならぬ」という一言であった。高橋がこの言葉を回想することは、そこに井上の危うさを感じたのではないか。

 井上の打った政策の一つは、横浜正金銀行に指示して、意識的に為替レートを旧平価に近づける方針を進めることであった。1929年第二四半期100円につき対米レート44.6ドルを、第三四半期46.5ドル、第四四半期48.5ドルと急激に上昇を続けた。井上はまた、日本銀行に内命して、金利を高めに誘導し、金融を引き締めるようさせた。その一方で、実行予算を組んで財政支出を約9000万円削減して、16億8000万円とした。削減の対象は主として公共投資であって、折から進められていた国会議事堂、警視庁などの建設工事をはじめ、鉄道の新設などは全面的に中断された。(昭和4年11月の高橋是清の談話:先だって、永田町を通ってみたら、帝国議事堂の鉄骨がガランとして青空の上に空立っている。そうして仕事は中途半端で停止せられ、構内は寂として山寺のようである。・・・これらはすでに取り掛かって、現に進行中の仕事である。これを止めるとか中止するとかいうには十分に事の軽重をはかり、国の経済の上から考えて決せねばならぬ。その性質をも考えず、天引き同様に中止する事は、あまりに急激で、そこに必ず無理が出てくる。その無理はすなわち、不景気と失業者となって現れ出ずるのである。)
 官吏の減俸も企図されたが、これは司法官や中堅官吏が反対運動をおこしたりして挫折を余儀なくされた。反対の先頭に立ったのは、商工事務官岸信介である。なお減俸政策は結局2年後の1931年に実現を見た。一方、井上は消費節約、国産品愛用、産業合理化を訴えて全国を遊説した。この傾向を見て国内の卸売物価は1929年後半に5ポイント方下落し、株価指数は10ポイント、綿糸相場は13ポイントの低下を示した。銀行、会社の増資・社債発行は同年第二四半期の四億円から第四四半期の8600万円に落ち込んだ。物価も低落の方向に向かい、29年後半には不況の色が濃くなった。この不況は世界恐慌の影響がまだ表面化しないうちのことで、いわば「金解禁準備不況」であったから、井上財政のもたらしたものとみることができる、と中村隆英氏は著書でコメントする。貿易赤字のもとで、むしろ円レートを切り上げて金本位に復帰しようという計画を実行に移すためには、思い切って国内需要を収縮して物価を引き下げ、輸入を削減し、輸出ドライブをかける以外には手段がない、と井上は考えていたに違いないと中村氏。うーむ、円高で輸出ドライブをかけるということか。現在の経済常識の逆さまを考えている。

 金本位への復帰につては、経済学者や経済ジャーナリズムの大勢は、伝統的な教科書通りの考え方に従って、一も二もなく金本位に復帰すべきだというのであったが、旧平価解禁に反対する新平価解禁論者が少数ながらあったことは、本ブログで既述済みでる。インフレーションが好ましくないが、デフレーションもまた好ましくない、物価水準は安定させるべきものであり、もし金本位に復帰するなら、現実のレートに見合うように円の金価値を切り下げるべきだというのであった。当時の重工業、化学工業等、国際競争力の弱い産業の経営者たちも、口にこそ出さないが同じ考えであったろうと中村氏。産業人としては当然だろう、井上はそういう意味では金融人だったのだろうか。高橋是清もこの時期の談話の中で、金解禁を行うために最も必要なことは、産業の国際競争力を強化して、国際収支の均衡を回復する事であり、その努力なしに金解禁を急ぐことは反対の意向を表明していた。鐘紡の社長であった武藤山治は、石橋の説を聴いて新平価解禁論に転向し、東京海上火災専務の各務健吉はダイアモンド誌に一文を載せて、金解禁による不況は三年ほど続き、社会不安を引き起こすだろうという見解を表明していた。しかし一般には、井上の金解禁政策はむしろ経済政策の正道であるという見解が支配的だった、と。当時の状況は「経済国難来ーその真相と対策http://blog.goo.ne.jp/tatu55bb/e/8bd48059eb7ac6be4e7be89ffae473f1で詳細に記述した。そして高橋亀吉の回顧によると、金解禁後経済界の悪化は新平価解禁論者が過度の前途悲観論を流しているからだとして、非国民扱いにする非難が上がった。昭和5年1月、反駁を某誌に発表した内容は「・・・某大新聞(朝日新聞)までが、堂々と自己の所信を展開する代わりに、反動的にも悲観論者を非国民扱いすることによって、楽観論者の主張を維持せんとする卑怯極る態度をとりつつある。・・・株価は単なる悲観論によって下落するのではなく、下落すべき実質的原因があるからこそ下落するのである・・・」 ついには4月読売新聞に「財界攪乱陰謀の主導的人物摘発か、警視庁の係刑事総出勤して某方面に活動」という見出しをうって、著名なる経済評論家を籠絡して、新聞雑誌を通じて、金解禁悲観説を協調せしめ云々、と。ここで詳細に記述したのは、当時の世相を記録しておきたかったためだ。

 ところが、1929年10月24日、ニューヨーク株式市場の暴落をきっかけに世界恐慌が勃発した。アメリカの景気はその年の初夏をピークに反落に向かっていたが、金融の逼迫から株価の暴落が発生した。恐慌の発生で欧米の金利が低下して日本の資金の流出が抑えられるから、金解禁には好都合だと考えられていた。しかし、恐慌はたちまちヨーロッパに波及した。1928年以来、アメリカの株高が進むにつれて、アメリカの資金がヨーロッパから回収されていたから、ヨーロッパでは金融が逼迫し、不況の色が濃くなりかけていた。世界に物価はつるべ落としの惨状を呈し、貿易は急激に縮小した。このために、金解禁のための緊縮政策と海外からの不況とが重なって、日本の恐慌は異常な激しさを呈した。卸物価は1929年から31年までに三割以上、横浜の生糸相場は約半分、株価は三割の下落を示した。
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戦前の経済指標(経済成長)

2016年05月13日 | 歴史を尋ねる
 GDP(国内総生産)という統計はいつ、どこで、誰が発明したか、双日研究所の吉崎達彦氏が新聞のコラムでクイズを出している。正解は1942年の米商務省。第二次世界大戦中の米国は戦時遂行のための道具として国民所得推計を必要としていた。そこで生み出されたのが「国民総生産GNP」の概念であった。この作業の功労者となったのは、ノーベル経済学賞を受賞したサイモン・クズネッツ教授だと吉崎氏(コラムの趣旨はGDPという経済統計は時代遅れになっている)。ウキペディアで「国内総生産は『フロー』をあらわす指標であり、経済を総合的に把握する統計データで、GDPの伸び率が経済成長率に値する」とある。確かに、吉崎氏の指摘のように時代遅れになりつつあるのかもしれないが、戦後日本では経済活動を示す有力な経済指標であった。昭和27年、経済安定本部、財政金融局長の坂田泰二は序言で「国民所得統計は経済の総合的な現況の分析手段、あるいは経済政策樹立のために、きわめて有効なものとして最近とみに世人に注目を浴びるにいたった。この要請に応えて、我が国では終戦後、経済安定本部財政金融局に国民所得調査室を設けて、国民所得の推計に努力している」と記している。

 国民所得推計(その一種としてのGDP)は戦後作成されてきたのはわかったが、では戦前の日本経済の経済指標は何だったのか。佐藤朋彦氏によると、政府統計は大きく、一次統計と二次統計に二つに分かれる。そして一次統計がさらに「調査統計」(統計調査を実施して得られる統計)と「業務統計」(役所への届け出などから作成される統計:例えば貿易統計)に分かれる。次に二次統計は「加工統計」とも言われ、GDPとか景気動向指数とか。国づくりに必要な統計が整備されるようになったのは、明治政府になってからで、現在の総務省統計局の歴史は古く、明治4年太政官正院に政表課が置かれたことが始まりらしい。さらに大隈重信は参議大蔵卿として財政整理に当たっているうちに正確な統計の必要性を感じ、明治14年統計院設置を唱え、院長に自身が就任した。設立趣意書の冒頭に「現在の国勢を詳明せざれば、政府すなわち施政の便を失う。過去施政の結果を鑑照せざれば、政府その政策の利弊を知るに由なし」と記述されている。そして、この統計院はその後内閣統計局になった。
 統計院が設置されると統計年鑑の編纂事業が大きな課題となった。明治14年の政変などもあったが14年11月統計年鑑は完成し、翌年6月刊行された。内容は、1土地、2人口、3農業、4山林、5漁業、6鉱山、7工業、8通運、9銀行、10外国貿易、等々21項目。年鑑の名称はその後変遷が見られるが、昭和15年には統計の秘密保持が厳重になり、太平洋戦争勃発で年間も停止された。戦後統計年鑑の復刊が強く要望され昭和24年10月第一回日本統計年鑑が刊行された。その分野は27分野610表、本文1000頁に及ぶもので19国民所得が追加されている。経済の総合的現況分析手段である国民所得統計は終戦後ということになる(大戦前にも幾つかの推計は行われたと統計局の弁)。

 それでは戦前の経済指標(経済成長)を知る手がかりは、総務省統計局「日本長期統計総覧」に拠るようであるが、本川裕氏作成の「社会実情データ図録」経済成長率の推移(1886~2014)を覗いてみると、面白いことが分かる。(注)に~1930:粗国民支出(大川・高松・山本推計)実施値、1931~:実質国民総支出、1956~2014:内閣府SNAサイトとある。世界恐慌発生までは3氏の推計値、以降は国民総支出を算出、戦後は政府発表データ。http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4430.html http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4400.html

 この作表をした本川氏のコメント:戦前日本の(実質)経済成長率の推移で最も目立っているのは、変動が激しかった、1886~1944年までの59年間でマイナス成長は15回、1956年以降の戦後のグラフ(58年間)と比較すると6回で対照的である、と。尚、目を見張るのは、戦前期一番大きいマイナス成長は関東大震災年度と日露戦争終結年でマイナス4.6%、4.4%。昭和金融恐慌の年はプラス3.4%、昭和恐慌の昭和5,6年はそれぞれプラス1.1%、3.3%。あの日本経済史を揺るがした年がプラス成長とは驚きである。この事実は中村隆英氏の「昭和史」でも解説している。不況期の経済状況という作表で、昭和恐慌期の実質GNP指数は上昇している。一方で農産物価格指数、工業製品価格指数、輸出額とも1930~1931は大きく落ち込んでいる。そして中村氏は「この時期の不況を一言で特徴づければ、価格恐慌であった」と言っている。すべての価格がそれぞれ大幅に下落して、平均すれば約三割落ち込んだ。しかし、生産量は減少せず、むしろ若干強含みの感じであった。そのために、後年のGNPの推計は、名目GNPの大幅な下落と実質GNPの若干の下落、以後の急上昇という、特徴ある動きを示している、と。ふーむ、人為的要素が大きかったということか、次回その辺を掘り下げてみたい。
 
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高橋是清 昭和2年の金融恐慌を憶う

2016年05月08日 | 歴史を尋ねる
 前回に引続き、高橋是清随想録から。昭和金融恐慌についてはすでに詳細記述済みであるが、高橋を知ると同時に当事者の証言はやはりリアリティがあるので、採録したい。

 あの時のことを思い出すと実に感慨無量だ。昭和2年3月15日、「あかじ銀行」が休業し、その波動が八方に拡がり、毎日各地に銀行の休業、破綻が続出し、財界の不安は日増しに加わって、4月に入ると鈴木商店の整理が伝えられ、株式市場が一斉に崩落した。その一方で支那問題が紛糾し、中部方面で動乱が起こり4月4日には南京の日本租界が支那暴民の大掠奪が行われ、北京においても支那官憲がロシアの大使館に侵入して家宅捜索をなすなど、支那事態の重大を伝えて、諸株はいよいよ低落する一方であった。かくて4月8日、神戸の六十五銀行が休業し、鈴木商店の業態が危機を報ぜられ、神戸を中心として関西金融界の不安が著しく拡大し、コール市場は事実上閉鎖せらるるに至った。鈴木商店の危険、六十五銀行の休業が伝えられると、これに最も関係の深い台湾銀行に対する危惧の念を一層強からしめ、ここに至って急激なる取り付けを受けた。殊に同行に巨額のコールを貸し付けている銀行は、相前後して回収を始めたので、台湾銀行は窮地に陥り支払い停止をなすほか方法がなくなった。時の若槻内閣は、日本銀行から台湾銀行に二億円を貸し出させ、日本銀行に欠損が生じた場合、政府がそれを補償しよういう案を立て、緊急勅令をもって発令すべく枢密院審査委員会に付議したが、同会は満場一致で否決した。それでも政府は本会議で本案の通過を図ったが、その努力は水泡に帰し、その責めを負うて辞職した。

 そして台湾救済の勅令案が不成立に終わると同時に、台湾銀行の内外支店は一斉に閉鎖の止むなきに至り、これが財界に非常なショックを与えて、18日に至ると日本銀行の貸し出しは空前の激増を示しわずか一日で約2億9千万円増加した。19日に至ると全国金融界の動揺はさらに甚だしく、各地に銀行が相次いで休業するものも多く、対米為替も低落して、財界の不安はいやが上にも加わり行くばかりであった。
 この混乱の最中、4月19日組閣大命が田中男に降下した。田中は大命を拝すとその足ですぐに私を訪ね、大蔵大臣として入閣するよう要請があった。私は当時すでに74歳で、政界を隠退し、閑雲野鶴の見であったが、当時の財界は非常なる危殆に瀕していたのみならず、同時にわが国の海外における、財界信用も全く失墜し、外国の諸銀行が日本の銀行との取引を拒絶するような状態であったので、老齢であり、病後の衰弱がまだ回復していなかったが、国家の不幸を座視するに忍びないという気になり、三、四十日間という約束で就任を許諾した。私の見込みでは、三、四十日で一通り財界の安定策を立てることができると考えたからだ。4月、親任式、閣議後自宅に日銀総裁、副総裁、大蔵次官を招致し、数日前から取り付けを受けていた十五銀行の救済問題について意見を徴した。そして日銀に21日午前三時まで非常貸し出しを敢行するよう交渉し、各銀行の手元準備の充実に努めた。ところが21日午前二時半、十五銀行休業の報が一度伝わると、不安に脅えた預金者たちは21日の明けるのを待って怒涛の如く各銀行が押し寄せ、東京・大阪・名古屋・京都・神戸等の大都市においては勿論、地方の各市に至るまで、多数の預金者が銀行の窓口に殺到して取り付けを始め、ここに全国的の大恐慌が現出した。

 日本銀行はこの恐慌状態に応ずるため21日も非常貸出を続け、この日一日の貸出高は六億一千万円、貸出総額は十六億六千万円、兌換券発行高は二十三億円で、前日比六億四千万円増加した。元来日銀の貸出額は平常二億五千万円前後で、一番多い時でも四億八千万円を超えない、それが21日に一日で発行した分は六億三千万円、実に空前の発行高であった。日本銀行は兌換券が不足となり、金庫の中の破損札まで市中に出したが、それでも不足し、にわかに五円十円札と二百円札を急増することになった。昭和2年4月21日の財界は、前古未曾有の混乱状態に陥らんとしていた。
 21日には午前十時から夜中までぶっ通し閣議が続けられたが、午前十一時頃、私は二つの応急措置を取ることを決意し、午後の閣議に諮って各閣僚の同意を得た。1、緊急勅令をもって二十一日間の支払猶予令、モラトリアムを全国に布くこと。2、臨時議会を招集して、台湾金融機関の救済及び財界安定に関する法案に対し協賛を求めること。この二つであった。ところが緊急勅令発布の手続きを踏むには、急いでも二十二日一杯はかかる。発令までの二日間応急処置を講じなければ危険だと考え、閣議決定と同時に私は三井の池田、三菱の串田両君を招き、モラトリアム実施の準備行為として、民間各銀行は二十二、二十三の両日自発的に休業して貰いたいと相談した。両君は諒解して直ちに銀行団にその意を伝え、私の希望通り実行することに決定した。
 そこで一刻も速やかに国民に安心させるために、『政府は今朝来各方面の報告を徴し慎重考究の上、財界安定のため徹底的救済の方策を取ることに決定しその手続きに着手せり』という声明書を発表した。この応急処置は疾風迅雷的に決定し、間髪を容れる余地もなくとり行った。一方東京銀行集会所及び手形交換所連合委員会は臨時委員会を開いて、日銀の徹底的援助を待つのみであるが、これにより日銀の損失補償について決定し、池田、串田両君と日銀の市来、土方正副総裁が私に陳情に来たが、内閣ではその時すでに補償案を決定し、法文を練っているところであった。その夜十一時ごろ対策案が出来上がったので、私は直ちに倉富枢密院議長を訪問して、あす緊急勅令案が枢密院に諮詢になる手筈であるが、ついては事態の急に鑑み、一刻も速やかに議事を終了して、財界の不安を一掃させられたと述べ、一方平沼副議長には法制局長長官が行って諒解を求めた。
 かくて私が自宅に帰って床に就いたのは午前二時過ぎ、翌22日には早朝五時に起き、八時には官邸に出勤した。人間は精神が緊張している時は、割合疲れぬものだ。折り悪く総理大臣が俄かに発熱して一週間ばかり引き籠ることになったので、私は総理大臣の代理までしなければならぬことになり、午前九時赤坂離宮に参内し、財界救済の応急策としてモラトリアム施行の止むべからざる旨を上奏し、ご裁可を経た。枢密院とは打ち合わせが出来ていたから、諮詢案の回ってくるのを待ち構えていた様子で、午前十一時五十分頃全会一致で可決した。次いで午後二時半から天皇陛下親臨の下に本会議を開き、緊急勅令案を付議して、満場一致で可決確定した。

 全国銀行二日間の休業、モラトリアムの緊急勅令、臨時議会召集、この三大事を断行したが、全国大小の銀行を全部休業させるということは世界の歴史にも稀有のことで、休業後再び店が開かれた場合、取り付け騒ぎが再現しないか、これは神様以外に断言し得るものはない。もし同じように恐怖状態を繰り返すならば、内閣は成立後五日にしてその責を負わねばならぬ。このサイコロの動き如何によって財界の安否も内閣の運命も定まる。そこで私はこの三日間(日曜を含めて)にあらゆる努力を尽くして対応策を講じた。まず、日銀に、従来取引を許していた銀行以外にも資金の融通をなさしめ、担保物の評価に関して寛大の方針を取るようにした。24日は休日にも関わらず非常貸出を続け、また正金銀行の方でも海外支店に命じて、預金者や債権者の取り付けに応ずべき十分な資金を準備せしめ、その結果、内外の支店もことごとく再開準備を整えた。
 いよいよ25日の朝になって、各銀行はいずれも早朝から店を開いて綺麗に掃除し、カウンターに山の如く紙幣を積み重ねて、取り付けに応ずる姿勢を示し、甚だ平穏だとの報告があり、警視庁あたりの報告も同様で、まず胸をなで下ろした。全国各地からも頻々と電報が来たが、いずれも平穏を報ずるものばかり、21日に預金を引き下ろした連中は、その処置に困って一流銀行に持ち込むという有様で、一流銀行の預金者の殺到と変わった。

 銀行休業の非常手段は予期以上の好結果を収めた。まず第一の関門を通過すると、第二の関門は臨時議会は少数与党だった。議案がやっと衆議院本会議を通過して貴族院に回されたのは最終日の午後六時、午後十二時に会期満了となるので審議時間はわずか六時間、私は一日も早く財界救済法案を決定して、人心の安定を図らねばならぬと考え赤誠を披歴して貴族院の諒解をもとめたが、質問が相次ぎいつ果てるともつかない状況の中、坂谷男爵が俄かに賛成演説をなし、委員会、本会議を可決決定したのは十一時半であった。さらに第三の関門、二十一日間の支払い停止期間の期限満了時、各種債務の取り付けが行われる可能性もあったが、期日が到来しても何らの破綻も見ないで、無事に第三の難関を通過した。さしもに混乱を極めた財界もここの初めて安定の緒に着き、閉店中の台湾銀行各支店も一斉に蓋を開けることとなったので、私は6月2日にお暇を願って野に下った、と。うーむ、日本は当時本当に良き人に恵まれたものだ、そして田中義一の慧眼もさすがだった。
 
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「経済難局に処するの道」 高橋是清(昭和10年1月)2

2016年05月03日 | 歴史を尋ねる
 最近の輸出貿易は誠に目覚ましき躍進を示し、このためわが国が各国に比し、早く世界的不況から脱出し得た大きな原因となっている。国際的に通商に自由が失われ、欧米諸国の貿易が連年縮小の一路を辿っている際、わが商品のみが独り目覚ましき躍進を示していることに対しては、諸外国中には、その競争に耐えかねて種々の防止策を講じ、不当なる圧迫手段をさえ加えんとするものも決して少なくない。これはわが国の経済的実力に対する誤解から発足するもので、近年のわが輸出貿易の異常なる発展が、単に為替安や労銀安のみに基づくものでないことは、少しくわが経済化の実情を検討すれば直ちに諒解し得るところである(1932年英連邦オタワ会議による自由貿易政策の廃棄、1933年太平洋調査会での日貨排撃に対する論戦)。(中略)
 翻って世界各国の経済状態を見るに、失われた通商の自由は容易に回復されそうにもない。否、各国は各自国の経済を守るため、自給自足政策によって国をたてて行こうとしている。外国品が良質廉価であるからといって、無暗に輸入してはその国は購買力以上に金を費やすことになる。これが続けて、その国の失業者も増え、国家衰亡の原因となるのである。そこで高率関税政策をとるとか、割当制度をとって、外国品を排斥することになるのである。各国の政治家は決してこれを喜んでやっているのではあるまいが、かような手段をとらなければ自国が立ち行かなくなるから、止むを得ずそういう自衛手段をとっているのである。こうして世界各国は相互に他国品を排斥し合う結果、ここにブロック的経済封鎖主義が経済政策の基礎をなす様になって来た。今日は正にその時代で、人類の福祉増進の上からも、世界平和の上からも、これは誠に遺憾なる現象といわねばならぬが、この事実はどうすることも出来ない。
 故にわが国としても今日輸出貿易が盛んだからといって、決して楽観は許されぬ。またこれに過重に依頼して、経済政策の基調をここにのみ置く訳には行かぬのであった。もとより各国と協力して現状打破に務むべきであるが、同時に、いつでもこの国際的変調時代に備えるだけの準備を怠ってはならぬ。すなわち現在のように世界的に経済封鎖政策がとられる場合においては、一国の経済を立ち行かしめ、さらにその繁栄策を図ろうとすれば、何よりも国内の購買力を涵養して行くことが肝要である。この点については、私は機会ある毎に私見を述べているが、どうしても農村振興策をとり、農村の購買力の増進を計らねばならぬと信じている。

 わが国は英国などと違い、農村人には全人口の半数を占めているので、農家経済の消長が国民経済に及ぼす影響は極めて大である。かくの如き事情にあるので、農村経済の行き詰まりは所詮我が国民経済の行き詰まりとなる。ところが不幸にして近年農村経済は、一時経済界大不況の影響と農村経済の特殊事情とによって非常に窮迫し、特に昨年春繭暴落と各地災害の頻発によって、非常な大打撃を受けたのである。これがため、政府は臨時議会を開会してその救済策を講じ、農村経済復興の一助たらしめた。また先年斎藤内閣時代に着手した時局匡救事業も、米価の公定価格制定もこの趣旨にほかならない。もとより現時の経済的非常難局に処していくにはこれだけで足りるものではない。日満両国が緊張なる経済協調を保ち、さらに時代に適応するように、各般にわたる病根を検討して根本的な経済建設策を考究していくが刻下の急務なることは言うまでもない、と。高橋是清の言説は、今の時代から見ても、適切で、むしろこの時代にここまでの情勢判断と経済的分析を適格にしていた人がいたことに驚く。筆者はこの人がなぜ2・26事件で殺されたのか、その疑問にぶつかっている。そこまで情報を閉ざされた青年将校がいたとは。青年将校は社会を憂えていた筈だが。引続き、高橋の言説。

 つらつら世界の現状を見るに、各国が現在の如き封鎖主義的な経済政策に没頭し、国際的な通商自由が失われていては、結局は各国とも経済的繁栄を招来することは困難であって、いつまでもその桎梏の中に苦しまざるを得ないのである。世界経済不況の原因は種々あろうが、その根源を正せば、欧州大戦当時に生じた戦債問題に帰する所が極めて多い。即ち欧州各国は米国に対する戦債支払いのため巨額の資金を支払わねばならぬが、祖の支払方法としては、物資によるのが最も合理的で且つ容易な手段であった。然るに米国は戦後国内対策のため各国に率先して高率関税を設け、物資の輸入を阻止したので、欧州各国は、ドイツより受け取る賠償金によって辛うじて支払い続けて来た。しかし今日では戦債は不払い状態となり、債権国たる米国も、債務国たる欧州各国もこれに悩んでいる。この間に欧州各国の国際関係は複雑化し、自給自足主義の高調となり、関税戦となって金の争奪が行われ、この金の偏在はさらに経済封鎖主義を助長して、世界は挙げて深刻なる不況の深淵に陥った。戦債問題は世界経済の癌といっていい。
 現下の世界不況を打開し、各国間の排外的経済政策を是正するには、世界経済の指導的地位を占める米国が自発的に戦債問題の合理的解決の乗り出して、初めてその暁光を望みうる。米国政府当局もすでに気づき、ハル国務長官の如きは、自由通商の昔に還さざれば、世界もまた米国も経済的苦境から解放され得ないという意見を持っている。戦債問題の解決は、国際貿易を円満に発達せしめ、関税の障壁を正当に調整し、国際為替相場を安定せしめ、もって世界平和を招来せしめるための先決問題であって、一日も早く関係各国はこれが実現に協調的態度に出ずべきである、と。イヤー、世界を俯瞰した大変な見解である。当時の外務大臣広田弘毅もこの辺からアプローチする方法はなかったのかな、国際連盟を脱退しているからむつかしいか。(中略)

 経済政策はその効果がすぐにでも現れるものではないと事例をもって説明した後、赤字公債の問題を取り上げ、その状況について説明した後、次の説明をして高橋は持論を締めている。
 予算編成にあたって、公債発行を減少させるよう努力はしなくてはいけないが、しかしそれ以上国家に必要なる政策を遂行する場合、単に財政的見地のみに立てこもっている訳には行かない。公債の消化力が非常に減退したとすれば、悪性インフレを誘致し、国民経済上、由々しき問題となる。現在の公債発行政策は政府の発行したものを日銀に全部引き受けしめ、日銀はその買入れ希望者に売るようにしている。この政策は私が始めたことで、責任の重いことと考えている。(中略)今後、その消化力の限度がどの程度あるか、数字をもって明確に示すことは出来ぬが、まだ相当余力があると思う。
 右の諸問題のほか、国防と財政とをいかに調和させるかという大問題がある。これを国策として決定せぬ以上、財政計画も赤字政策も立ち得ない。一昨年秋の斎藤内閣時代における関係五相会議はそれが目的であった。今後もそれらについては十分考えていかなくてはならぬ。これが決まれば自然、国防費の問題も解決し得る。要するに現代は各方面にわたり、誠に多難な時代で、これが打開には堅き決心を持って当たらなければならぬ。経済界のみに限ってみるなあば、我が国は幸いにして経済的再建の途にあるが、いまだ不況克服に数歩を進めたに過ぎず、前途なお幾多の難関が横たわり、真の経済建設は今後のことに属している。しかも国際経済は混沌たる状態にあり、この難局に当たっては真に大国民たる襟度を持し、事に当たって狼狽せず、協心戮力わが国の経済発展に力を尽くすと共に、世界経済の回復に貢献する所がなければならないと信じるものである。

 本の森版には昭和10年1月しか註がない。いついかなるところでの高橋の言説か解説がないのが残念である。今読んでも当時の歴史を見通した立派なものである。安倍首相が自信をもって推し進める現代の経済政策も、こんな裏付けを支えにしているのかもしれない。

 
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「経済難局に処するの道」 高橋是清(昭和10年1月)

2016年05月02日 | 歴史を尋ねる
 手元に、高橋是清口述、聞き書き上塚司、「高橋是清 随想録」がある。この本は昭和11年3月29日発行、発行所・千倉書房の復刻版である(1999年発行、本の森社)。高橋が2・26事件で倒れた約一月後、上塚(高橋是清秘書官、衆議院議員)の手で出版された。口述時期の不明なものもあるが、当時を知る一級の史料であるので、詳細に亙るが、昭和10年1月に高橋(岡田啓介首相の下で大蔵大臣)はどう考えていたのか、松元氏見解との関連もあるので、引用しておきたい。

 ここ数年間世界各国は未曾有の経済的大不況に襲われ、一歩誤れば経済組織の根本から覆される程の難局に逢着した。各国ともこの経済不況打開についてはあらゆる手段を講じ努力を払って来たため幸いに、最近一年位に至ってやや安定しかけて来たように見受けられるが、なお根本的立て直しまでには前途幾多の難関が横たわり、その打開の容易ならざるを思わしむる。かくの如く、今回の世界経済界の大不況は深刻なものであったが、我が国もその例に洩れず非常なる難局に遭遇した。幸いにして我が国は朝野の努力によって各国に比し、早くこの難局から脱出して経済再建の途に上り得たのは邦家のため誠に慶賀に堪えない。
 周知の如く我が国が各国に比し早く経済難局から脱出し得たのは、輸出貿易の躍進と、通貨の適正なる供給ということに負う所が多い。即ち我が輸出貿易の活況は昭和6年12月の金輸出再禁止以後のことに属するが、金輸出再禁止政策が目指す所は右の如く、一は輸出貿易の進展に機会を与えること、同時に二には国内に適正量の通貨を供給し生産と消費との間の失われた均衡を回復せしめ、もって両者の連絡、調節を円滑ならしめんとすることにあった。

 今回の経済不況は人類の生活に必要なる物質の欠乏に基づくものではないことは明らかであって、むしろ供給過剰のため物価が暴落し生産設備は大部分休止するという所にあった。換言すれば生産と消費との間に均衡を失した所にその原因があったのである。故にその対策としては両者の均衡を得せしむることで、これは適正量の通貨供給に俟つほかはなかった。金輸出再禁止は当時の為替事情から当然執るべき政策であったが一面右の如き国内政策を執る上にも是非決行せざるを得なかった。(高橋是清が日銀副総裁時代、井上準之助と懇意になり、前途に多大の望みを嘱した。横浜正金銀行頭取、日銀総裁にしたのも高橋だった。その時分まで井上との意見の相違はなかったので、議論もしたことがなかった。その後、浜口内閣が成立する二日前に高橋の所にやって来て、「浜口君と話し合って見ると、現在の財界を匡正するためには緊縮政策によりいじめつけて金解禁をしなければならぬという事に意見が一致したので、大蔵大臣を引き受ける事になった」と言ってきた。高橋は別れるとき「国家の前途を考えて自分の信念を貫くためには、君も万難を排して進むつもりであろうが、正しい真直ぐな道を歩く事を忘れてはならない」と言っておいたと随想録に収録されている。井上準之助の後の大蔵大臣が高橋であることも、日本の歴史の不思議なところでもある) 金輸出再禁止以後のわが国の財政経済状態に触れることは、善悪ともに私の執り来たった政策を語ることになるので、好ましくないが、とにかく一言しよう。

 金輸出再禁止以来の国内的経済工作は如何にして支障なく適正量の通貨供給を行うかということに力を注いだ。種々の工作が必要であったが、まず低金利政策を執ることが基礎的工作であった。これは産業振興の見地から当然執るべき処置であったが、すでに金の輸出を禁止し、国内正貨保有量を遥かに超えて多量の通貨を供給せんとする方策をたてた以上、わが対外為替の下落は当然のことであった。従って資本の海外逃避の風が見え、さらに低金利を徹底せしめんとすれば、資本逃避の傾向がますます助長されるのは経済法則上免れ難いところであった。そこでまずその防止方法として資本逃避防止法や為替管理法を制定し、十分この方面の工作を行い、然る後低金利政策を進めることとした。(中略)欧州大戦以前の経済現象では、多くの金利の高低によって経済界の不況は支配されたが、現在の如き複雑にして、しかも通商の自由が失われた時代は、その経済的病根を除去せんとするにも、幾多の手段を必要とする。しかし尚低金利政策の不況対策症法としては最も有効なる手段である。
 即ちこれによって事業経営者の負担を減じ、やがては経済界を回復に導く原因となるが、さらにこの純経済役割的以外に、社会的に重大なる意義を有するものと信じている。資本が経済発展の上に必要欠くべからざることは言うまでもないが、この資本も労力と相まって初めてその力を発揮するもので、生産界に必要なる順位からいえば、むしろ労力が第一で、資本は第二位にあるべきはずのものである。故に、労力に対する報酬は、資本に対する分配額よりも有利の地位において然るべきものだと確信する。『人の働きの値打ち』を上げることが経済政策の根本主義だと思っている。またこれを経済法則に照らして見ると、物の値打ちだとか、資本の値打ちのみを上げて『人の働きの値打ち』をそのままに置いては、購買力は減退し不景気を誘発する結果にもなる。
 今度の世界不況の原因も、多分に、そういう所から発足していることは否み難い。また直接産業に従事している人々の報酬と、過去における蓄積に対する報酬とは、同様に見ることは出来ない。直接生産に従事する人々の報酬を厚くすることは、人の労務を重しとする所以であって、座して衣食するより働く如かずという観念を、社会人心に扶植することが肝要で、この社会通念が濃厚になって初めて労使の協調が達せられる。

 この風潮を促進せしむるためにとるべき経済政策こそ低金利政策である。故に私は低金利政策の遂行は、ひとり事業経営者の負担を軽減して、不況時に際し経済界を回復に導く方策のみならず、実に労使の円満なる和合を促進せしむるものと信じている。この意味からも、なお低金利政策を進めたいと思っている。しかし、これは経済界の実情、金融界の事情等を検討して、実際に適応する様に遂行すべきことが主で為政者はこの点に常に留意すべきことは言うまでもない、と。 ひやー、すごい。まだまだあるが、いったんここで中休みしたい。
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「持たざる国」への道

2016年05月01日 | 歴史を尋ねる
 宇垣一成は何度も首相と目されながら、大正デモクラシーの時代に陸軍大臣として大幅な軍縮を行ったこと等が禍して陸軍内部の反対でついに首相になれなかった人物であったが、戦後、昭和11年当時を振り返って「その当時の日本の勢いというものは、産業も着々と興り、貿易では世界を圧倒する。英国をはじめ合衆国ですら悲鳴を上げていた。この調子をもう5年か8年続けて行ったならば日本は名実ともに世界第一等国になれる、だから今下手に戦などを始めてはいかぬ」と宇垣一成日記で回想していると松元崇著「高橋是清暗殺後の日本」で記す。2・26事件の起こった昭和11年は、高橋財政の下で活況を呈しており、その時点で戦争を望んでいた国民はほとんどいなかった。昭和11年7月には、日本の紀元2600年(昭和15年)に合わせてオリンピックを東京で開催することが決定された。昭和15年には万国博覧会開催が予定されており、全国で観光施設の整備が、東京ではデパートの新築・増設計画が本格化していた。NHKはオリンピックに合わせて、テレビの実用化に本格的に取り組み始めていた、という。

 ふーむ、この辺の記述は意外感がある。確かに高橋亀吉もその著書で昭和7~10年を「世界恐慌後の日本経済躍進時代」と表題をつけて記述しているし、世界的日貨排撃に対する「太平洋調査会」の論戦で高橋が政府委員として活躍したことは、記述済みである。同じ高橋が、2・26事件を境に経済規制、統制経済に移ったとのコメントをしていた。そして日中戦争のたけなわの1940年(昭和15)11月10日、新装なった皇居前広場に昭和天皇と皇后を迎え、五万人が集まった紀元2600年式典を報じるニュース映画で、時の総理近衛文麿が「天皇陛下、万歳」という情景をテレビでも時々放映されるし、戦争に動員される国民のイメージに使われ、歴史学の世界でもこのイベントはこのようなイメージでとらえられてきた。古川隆久氏はふとしたことからこのことについて調べ始めとみると、ずいぶん話が違うことに気が付き、「皇紀・万博・オリンピック 皇室ブランドと経済発展」という著書を出している。ちょっと回り道だが、古川氏の調査結果をかいつまんで見ておきたい。

 明治5年12月、政府は「神武天皇御即位をもって紀元と定められ候」という太政官布告を出した。皇紀が正式の紀年法と法制化された。皇紀誕生の事情は聖徳太子に遡る。602年百済の僧観勒が日本に中国の暦法伝えた中に讖緯説があった。これは十干十二支で1260年周期の最初の辛酉と甲子の年に大変革が起きるという説で、辛酉の年(601年)から1260年遡った紀元前660年を、伝説上の初代天皇(神武天皇)即位の年、日本国家創始の年として、史書「天皇記」を作成した。以後この紀年法は歴史書で使用され、明治の代になって、公文書で使用(元号、西暦併記)された。そして1890年は皇紀2550年というキリの良い年のイベントに、橿原神宮が創建された。
 それでは紀元2600年奉祝の発端は、1930年(昭和5)6月、東京市長永田秀次郎が日本チームの総監督だった山本忠興に東京市がオリンピック開催したき意向を伝え、欧州スポーツ界の状況調査を依頼、東京開催の可能性がある旨持ち帰り、12月永田がオリンピック東京招致の意向を公表した。勿論、紀元2600年に当たる1940年のビックイベントを意識していた。翌年東京市会に建議、満場一致で可決したが、可決理由は「復興成れるわが東京において開催することは、我が国のスポーツが世界的水準に到達しつつあるに際し、時あたかも開国2600年にあたりこれを記念するとともに、国民体育上裨益するところ少なからず、ひいては帝都の繁栄を招来するものと確信す」。
 万博の方はどうか。大正期以後、国内では産業振興のため様々な博覧会が行われ、海外への万博参加も拡大、1926年に博覧会倶楽部が結成された。1929年6月、内閣に日本での万博開催を建議し、全国の団体にも呼びかけた。この時の計画は、世界大戦終結20周年、関東大震災12周年で、不況打開を目的とした。ところがこの段階から1940年に開催を延期する主張があらわれた。1933年シカゴ万博の勅語では集客も難しく、オリンピックと同時開催してはどうかと永田市長が提案し、この案が強く支持された。

 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中戦争が勃発したが、当初は局地紛争の一つと考えられていた。しかし7月28日華北で日本軍が本格的な軍事行動を開始すると、この紛争は全面戦争の様相を呈し始めた。9月9日には政府が国民に戦争への協力を呼びかける国民精神総動員運動の開始を告げる内閣訓令が発せられ、国家総動員計画の準備を開始、こうした中、紀元2600年奉祝の動きにも影響が及びはじめ、オリンピック返上問題が起こった。

 松元崇氏は次のように解説する。好調だった日本経済は、昭和11年の盧溝橋事件勃発後、日中戦争が泥沼化するに従い行き詰まり、国民生活は困窮して行った。生活の困窮化は、英米のブロック経済が「持たざる国」である日本を追い込んだためであると受け止められ、今でもそう信じている向きが多いが、高橋是清らが暗殺されたとたんに日本が「持たざる国」になってしまったわけではない。日中戦争が泥沼化する中で、経済合理性を理解しない軍部(関東軍)による華北分離工作などの無理な政策が日本を国際的に孤立させ、経済全体をじり貧に追い込んでいった。それを英米のブロック経済のせいと思い込まされた国民は、軍部の言うままに戦争への道に突き進んでいった、と松元氏は明言する。よし、では松元氏の主張を追いかけてみたい。
 
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