山東懸案解決に関する条約と21か条要求改廃問題

2014年08月29日 | 歴史を尋ねる

 1915年の対華二十一か条要求以来、中国問題をめぐって対立を深めていた日米は、大戦後のパリ講和会議において、中国・山東半島のドイツ権益の処分をめぐって激しく対立した。その無条件譲渡を講和条約に明記するよう要求する日本全権に対して、「新外交」を掲げる米国のウイルソン大統領は中国への直接返還、もしくは連合国による国際共同管理を主張し、交渉は紛糾を重ねた。結局、国際連盟の成立を優先したウイルソンが屈し、日本の要求が全面的に認められた。ただし、日本の次席全権であった牧野伸顕は、それと引き替えの形で、山東の中国への還付条件を、政府の方針を大幅に緩和する形で公に声明し、またウイルソンの中国政策構想への積極的な賛意をたびたび表明した。山東問題のウイルソンの対日譲歩は、こうした牧野の言動を評価し、日本を含めた連盟下での大国間協調によって、今後の列強の対支政策を革新するための政治的決断であったと、中谷直司氏は概括する。引き続いて、ワシントン会議での極東問題の焦点は山東懸案であった。この問題で対中直接交渉による解決を目指していた日本政府は、ワシントン会議の議題にすべきでないとの立場であった。一方の北京政府は直接交渉をあくまで避けたい意向であったが、ヒューズやバルフォア、およびマクマリーは加藤友三郎や施肇基に直接交渉を斡旋した。山東問題の審議は直接交渉の形式で始まったが、オブザーバーとして米国からはヒューズ、マクマリー、ベル前駐日代理大使、英国からはバルフォア、ジョルダン前駐華公使、ランプソンが参加した。

 山東問題交渉に際して北京政府は、日本によるドイツ権益の継承を認めないと代表団に打電した上で、その訓令を公表した。中国政府の非妥協的態度は徐世昌総統らの会議に対する不信感が存在していた。山東鉄道が完全に返還されない限り山東問題の解決はあり得ないとシューマン駐華米国公使に伝えていた。当初日本側はこの山東鉄道に関して日中合弁花を要求していたが、中国側の合意を得られなかったばかりか、米英両国にも好感を与えなかった。そこで日本側は、山東鉄道を借款鉄道として、借款期間中は経営者の幹部に日本人を登用する案で歩み寄ったが、中国側は山東鉄道を買収して、国庫証券を発行して鉄道財産を日本に償却するという案を譲らなかった。停滞し始めた日中交渉を打開したのはマクマリーとランプソンであった。さらに交渉を引き継いだヒューズとバルフォアは鉄道財産の償却期間15年として、その間運輸主任と会計主任は日本人を登用する案を提示し、中国側もやむなく受諾した。山東問題を解決せしめた功労者は、マクマリーとランプソンであった。とりわけマクマリーはヒューズやルートと異なる路線を実践し、日中間の公正なる仲介者として振舞い妥協点を提示する巧みな外交交渉を展開したと服部龍二は高く評価している。

 一方、日本が租借していた関東州に関する協議は、顧維鈞が1921年の会議で租借地撤廃を提起したことによって始まった。英仏両国の代表団が威海衛と広州湾を返還することに合意したのとは対照的に、日本代表団は条約によって関東州租借権は99年間延長されたとの立場を堅持した。原内閣期の新四国借款団交渉によって日本の特殊権益は米英仏各国によっても承認されたとの解釈を示し、ルート4原則をも援用した。ボルフォアも日本の立場に理解を示し、英国の九龍租借地になぞらえて日本の主張を擁護した。それでも中国側は、日本は最後通牒を送って調印を強要したもので条約の改廃を要求した。21か条要求関連条約改廃問題は、結局閉会間際に初めて審議に付され、日本側から幣原が発言し、支那が自由独立の国として締結した国際協約を廃棄する案は同意しがたい、尚、列記主義的南満特殊権益の範囲を除いて南満東蒙の租借優先権を新借款団に提供し、南満での外国人顧問招聘の優先権を放棄した上で、留保していた21カ条要求の第5号を撤回するという三項目で譲歩を行った。中国代表からはブライアン・ノートを引用しつつ日本の態度に批判を浴びせたが、審議は簡単に打ち切られた。当時のニューヨークタイムズ紙は、日本側の「抜け目ない譲歩が21カ条問題の議論を封じ込めたと報じた。ワシントン会議を成功裡に終わらせたいとするヒューズやバルフォアの思惑もあって、日本は何とか現状を大きく変えないでやり過ごすことができた。しかし中国側は大きな不満を残したままであった。


支那に関する九か国条約

2014年08月28日 | 歴史を尋ねる

 日米両国の学会では、1920年代の東アジアの国際政治をワシントン体制という概念で論じることが通例となっている。しかしワシントン会議に関して、日米英三国間の合意とは、何がどこまで合意したのか、特に対中政策をめぐる日米関係で、米国は日本の在満特殊権益に承認を与えたか、逆に米国は、日本の勢力圏外交に転換を求めたのか、先行研究は未だに一致を見ていないと、「東アジア 国際環境の変動と日本外交1918~1931」の著者服部龍二氏はいう。しかしその後の満州事変の発生に際し、アメリカのスティムソン国務長官は、門戸開放政策というアメリカの外交政策の上に樹立された中国に関する九か国条約、パリ不戦条約、そして国際連盟規約など、戦後の多辺的条約の下で樹立されてきた平和維持のための協力行動の体制の基礎を、破壊から防御するという基本的な姿勢を示した。以後米国は満州事変および満州国に対し、条約違反であるとの認識を貫き、この認識は東京裁判(極東国際軍事裁判)での起訴および判決の根底となった。従って、九か国条約の成立過程をもう少し詳細に追ってみたい。

 太平洋・極東問題総委員会の冒頭、中国代表団首席全権の施肇基駐米公使は、中国が極東問題に最も緊密な利害関係を有するとして、極東問題をめぐる原則に関する提案を行った。その原則は中国の領土保全(第一条)、門戸開放と機会均等(第二条)、中国に無断で列国は中国関係の条約を締結しない(第三条)、中国に対して保有する特殊権益はその根拠が非公開であれば無効(第四条)等の10原則であった。中国側の意図は、米国が東アジア政策の理念としてきた外交的原則を援用しつつ、列国が保有する在中権益を切り崩すことにあった。中国外交がこのように原則論から口火を切ったことは、専ら個別的懸案に特化する傾向にある日本外交の発想とはおよそ対照的であると服部氏。警戒を強めたのは日本側だけではない。ルーズヴェルト政権で国務長官を努めたルートは合意形成が難しいと判断し、独自代替案を主張すべく機会をうかがった。仏国全権ブリアンが支那とは何ぞやと地理的範囲を質問した時、ルートは極東問題の原則が中国に適用される地理的範囲を限定すべきと発言し、英国のバルフォア全権の支持を得、極東問題をめぐる原則の起案を委嘱された。英国はチベット帰属問題を抱えていた。従ってルートは先に既述した4原則を提起、第一項の行政的保全は各国の既得権益および利益にも影響を及ぼすのかとの加藤全権の質問に、支那が既に付与した特権は本決議で影響を受けないと言明、バルフォアは治外法権の撤廃や関税自主権の回復に関して、必ずしも変更の義務は発生しないとのべ、顧維鈞は中国の主権に抵触しかねない制限は随時討論を呼びかけ、廃止に向けて各国の同意を求めていくとしたい上で、不本意ながらもルート案に賛意を表した。従って満州全般にわたる日本の地位の特殊性が概括的に認められたわけではなかったが、条約的根拠の明確な既得権益に限っては現状維持で合意が形成された。ルート4原則の審議過程で容認された日本の特殊権益とは、新四国借款団交渉の過程で承認された「列記主義」的南満州特殊権益(条文に明記されている項目だけ)と基本的には同じものであった。しかしウイルソン政権(新四国借款団団交渉)が門戸開放原則に依拠しつつ既得権益の部分的供出を日本に求めたのに対し、ルートが推進した路線は米国の外交的原則と日本の特殊権益論との共存を可能とするよう修正したものであったと、服部龍二氏は分析する。

 しかしルート路線は米国の総意でなかった、ヒューズ国務長官はルート4原則に示された現状維持的政策を見直し、門戸開放原則を再定義する方針を打ち出した。門戸開放の原則を一層有効に適用する為、会議参加国は、優越権を設定する協定や他国が適法な商工業を営むことを阻害する独占権の設定を求めない、門戸開放の調査機関(ボード)を設立し、既得権益をも原則に照らして審議する内容であった。このヒューズ路線は門戸開放を積極的に推進し東アジア国際秩序を構築する意図を持っていた。会議で施肇基がヒューズ修正案を歓迎すると表明したが、幣原は既得権まで対象にする事には異議を唱え、英仏伊各国も幣原に近い意向を示し、ヒューズの構想は後退を余儀なくされた。九か国条約には門戸開放や機会均等が盛り込まれたが、幣原を含めて日本側には勢力圏外交的発想が根付いており、米国が日本外交に転換を余儀なくされたわけではないと服部氏は結論づける。しかし原則外交とは実に厄介だ。柔軟性があるようで、解釈はその時その時でいかようにも変更できる力を持っている。


戻り道 セオドア・ルーズヴェルトとアルフレッド・セイア・マハン

2014年08月25日 | 歴史を尋ねる

 アメリカの世紀はいつから始まったのか。米西(スペイン)戦争のあった1898年が転換点であったが、変化の源は1880年代の西部フロンティアの消滅であった。しかしそれ以上の根本的変化は、国力の増大、米国の製造業の生産は世界の工場といわれた英国を抜き、さらに躍進を続けていた。しかし軍事力は極めて貧弱であった。それは建国の父ジョージ・ワシントンが表明した原則(欧州の権力政治に巻き込まれない)で、兵力を必要とさせなかった。1890年代米国の工業力は伊の13倍あったが、米国海軍はイタリア海軍より弱小であった。このアメリカが急速に大海軍力になった政策実行者はルーズヴェルトで、その論理的根拠をつくったのはマハンであったという。

 マハンの代表的著作は「海上権力史論」としていち早く日本語に翻訳され、日本の海軍政策にも大きな影響を与えたが、その中でマハンは、スペイン継承戦争、七年戦争、ナポレオン戦争などのすべてにおいて、海軍力に支えられた英国の経済力が直接間接に、その勝敗の鍵を握っていたことを論証しようとした。マハンの理論は、国力の隆盛の基礎は海外貿易の拡大にあり、そのためには強大な商船隊とそれを守る強力な海軍力と、海外における中継基地および工業製品を売りさばく市場、つまり植民地を必要とするということで、この三つのすべてを欠いていたアメリカに、その必要を力説するものであった。米国が世界の帝国主義競争に参加することを主張するものであった。そして、マハンが最も有望と考えた海外市場は南アメリカと中国であり、そのへの足場としてパナマ運河、ハワイ、フィリピンは偉大な価値のあるものと考えた。ルーズヴェルトは「海上権力史論」が発刊されるとすぐに書評で絶賛し、自らマハンの発見者をもって任じた。ルーズヴェルトは海軍次官、副大統領、大統領となって、「マハンのシーパワーの思想がルーズヴェルトという人物の姿を借りてホワイトハウスに入った」といわれるほど大海軍の建設を志向した。1901年に大統領に就任すると、すぐに十隻の戦艦建造の承認を得た。1903年の計画では第一線用戦艦48隻を予定した。三国干渉の臥薪嘗胆で、国民に重税を課し清国からの賠償金をほとんど費やして、日露戦争に備えて戦艦6隻をつくった日本とは財政規模の桁が違った。さらに1905年英国に戦艦ドレッドノートが出現した。砲を艦の中心に置くなど革命的産物で、大和・武蔵に至る近代戦艦のひな形で、旧来のものを一挙に旧式にしてしまった。これによって経済力の優る米国が急速に優位に立ち、日本にも国力不相応の建艦計画をつくらせることとなった。

 マッキンリー、ルーズヴェルト、タフト三代(1899~1912)の共和党時代の米国の対外政策は、他の帝国主義国とほとんど異なるところはなかった。ハワイ併合は公正な手段によるとは言い難いし、フィリピン併合は民衆の意思を全く無視した武力によるものであった。一時マロロス共和国を宣言し、米軍と戦争状態に入ったこともあり、現在のフィリピンの建国記念日は、マロロス共和国成立の日である。パナマになるともっとひどい。当時コロンビア領であったパナマ地帯を租借しようとし、うまくいかないと砲艦外交で住民に独立を宣言させ、独立新政府から運河地帯の恒久租借権を得た。しかしその後ずっと帝国主義であった訳ではない。やがてアメリカの伝統に根差すウイルソン主義、つづいて孤立主義の復活がアメリカの国際政治の主流となった。そうした米国の君子豹変ぶりに振り回されるのが、20世紀の世界中の国の宿命であった。日本が満州国を承認した時、アメリカがパナマでしたことと同じではないかといってみても、アメリカはその時違った価値観を持つ国になっていた。アメリカの圧倒的な国力が、20世紀をアメリカの世紀にしたのだった。


戻り道 同盟と集団安全保障(日本の孤立外交)

2014年08月24日 | 歴史を尋ねる

 引続き岡崎久彦氏(「幣原喜重郎とその時代」)によって、当時を解説してもらおう。岡崎氏は「新外交」なるものがはたして日本の安全を託するに足るものであったかという問題テーマを掲げて分析する。じつはワシントン体制の下の国際協調外交とは、他面日本の孤立外交であったというパラドックスがあるという。これは米国のウイルソン主義の本質からくるものである、と。ウイルソン主義の分析と評価は、キッシンジャーが第一人者だ、従って適宜引用し説明する、という。旧世界において平和を維持するもっともオーソドックスな方法は、各国間の同盟によってバランス・オブ・パワーを維持することであった。しかし米国はこの概念を軽蔑し、リアルポリティークの実行を不道徳と考えていた。米国が国際秩序の基準としたものは、民主主義であり、集団安全保障であり、そして民族自決だった。

 キッシンジャーによれば、集団的安全保障の概念と同盟の概念は180度反対のものだ。同盟は特定の潜在的敵国を仮定しているが、集団安全保障は、ちょうど国内で司法制度が刑法を維持するように、特定の犯人を想定している訳ではない。制度が有効に機能するためには、すべての国が、各々の国益の相違にかかわらず、脅威の性格についてほぼ同じ認識を有す場合であり、現実には起こりえない状況を条件としている。そしてこれまで世界が経験してきたことからすると、その前提が誤りであったことを示している。国際連盟の下の満州事変、伊のエチオピア侵略、独のオーストリア、チェコ制圧、ソ連のフィンランド侵攻、国際連合の下ではソ連のハンガリー、チェコ、アフガニスタン侵攻に対した何の役にも立たなかった。湾岸戦争については、集団安全保障は米国のリーダシップに取って代わるものではなく、それを正当化するために発動された、と。

 同盟は対抗するグループの間にバランス・オブ・パワー(「問題を平和的に解決するしかない力関係」)を作って平和を守ること、集団安全保障は敵味方全員のためのルールをつくって、それをみんなが守れば平和になるということで、誰かが守らない場合の保障はない。日本は海洋国としての日本の安全を百パーセント守ってくれた日英同盟の代わりに日英米仏の四か国条約と中国に関する九か国条約を与えられるが、これは日本にとってなんの安全の保障にもならなかった。同盟なしで孤立して安全を守ろうと思えば、その国が安全と思う水準は限りなく上がっていく。一メートルでも国境が遠い方がよいというロシアの伝統的政策はその典型、日本の生命線も、やがて朝鮮から満州へと拡大していく。同じことがヨーロッパでも起こったという。仏は独の報復に備えて英国との同盟を望んだが、与えられたのは英仏独伊白の五か国条約であり、それは東欧諸国とのあいだの種々の安全保障取り決めも含んだ。これがロカルノ条約であり、どの国の安全にも役立たなかったのは歴史が示している、と。

 それならば、バルフォア試案の線に沿って日英協力関係が残っていたらどうなったろうか、と岡崎氏。日英は中国大陸における権益の維持に共通の関心を持っていたから、お互いに帝国主義国として相互の利益を守っただろう。幣原外交の失敗は帝国主義である当時の日本外交に、米国式理想主義という本来に合わない衣を着せようとした。英国式外交の方がよほど似合っていた。1927年の南京事件で日英米の居留民が危険に曝され、英国が日本の軍事協力を慫慂した時、幣原の協調外交は断固武力介入に反対した。もしバルフォア試案が生きていれば、日英同盟は事実上復活していただろう。これは中国にとって厳しい状況であり、日本は同盟の信義上インドなどの独立も支持できないから、アジア解放に時期はもっと怒れていただろう。他方、日本の帝国主義的進出が過激になると、米国との衝突路線となることを恐れて英国がブレーキをかけただろう。満州事変も防げたかもしれないし、仮に起こってもリットン報告書の線で収まっただろう。大恐慌の後で英帝国の市場への参入はできたかどうかわからない。しかし不況の結果日本の国内状況が対外政策にはね返る効果は抑制できたはずだ。ましてや、日独伊三国同盟のような非現実的な、空想的なものには絶対入らなかったことは間違いないという。その先の見通しは岡崎氏の著書を見て頂くことにして、ここでは日本孤立外交の淵源を見ておきたかった。


戻り道 日英同盟存否の仮説

2014年08月23日 | 歴史を尋ねる

 前回は幣原喜重郎の外交テクニックを弄しすぎた批判に触れたが、岡崎久彦氏はもう少し踏み込んで分析している。当時日本は大きな政策選択の岐路に立たされていた。それは旧外交と新外交の岐路であり、パワーポリティックス路線とウイルソニアン路線の岐路であると岡崎氏はいう。これは親英路線か親米路線の選択であった。当時でいえば原敬の「対米英協調」か内田康哉外相の「対英米協調」の違いだともいう。原敬は第一次大戦の勃発直後に、「今回の世界大戦で各国の均衡が破れる」ことを予測し、中国問題の解決のためには日米間の提携が絶対必要であると考えていた。将来は日英同盟さえあてにならず、日本は「多少の犠牲を払うも」対米関係の改善を最優先すべきだと主張したそうだ。先が見える人には見えるものだ。そして、対米協調が帝国外交の大主義、大輪郭だという信念を一貫して持っていたそうだ。幣原はワシントン会議が終わる直前、次のように述べている。「日本は条理と公正と名誉に抵触せざる限り、出来るだけの譲歩を支那に与えた。日本はそれを残念だと思わない。日本はその提供した犠牲が、国際的友情および大義に照らして無益になるまいという考えの下で、よろこんでいるのである」と。なかなか微妙な言い回しである。外交官の信念といえばわかるが、当時の日本国の信念といえるか、そうでなければ日本国民に十分理解を得る努力が要求される。国際世論と日本の世論との齟齬を来さない努力は当時といえども政治家に要求されると思う。

 幣原は会議で、①満蒙における借款の優先権を新しい四か国借款団の共同事業に提供する。②南満州における日本人顧問の優先権を放棄する。③21か条要求で、将来のために留保していた第五号を正式に撤回するの三つを譲歩した。さらに満蒙における特殊利益を認めた石井・ランシング協定については、内田外相は明示的にその表現が残ることを望み、幣原全権との意見の相違が生じたが、幣原は石井・ランシング協定の実質は確保されているのだから、と本省を説得して、事実上解消させている。幣原の考えは、日本の貿易業者および実業家は地理上の位置に恵まれ、また支那人の実際要求について相当の知識を持っている。日本人が優先的もしくは排他的権利を獲得する必要はない。自由平等な競争ならば日本は勝てる、特権は必要ない、と。日英同盟をあっさり捨てて四カ国条約に踏み切ったのは、この機会に日本の針路を変えようという信念のもとに、外交技術を使ったのかもしれないと、岡崎氏。そこで問題は、当時の日本の国家戦略として正しかったかどうか、当時言われた「新外交」が本当に世界の平和、日本の安全を守るのに有効なものであったか、もしそうであっても、日英同盟を離れた日本として、国内状況から考えて新外交を貫くことが実際上可能だったか、どうか。

 残念ながら歴史的結論はすでに出ている、という。幣原はある期間その理想の実現に努力し成功した。しかし、それは満州事変までの十年しかもたなかった。もし中国側のナショナリズムが意図的な排日侮日運動のかたちで表われることがなければ、もし世界大恐慌がなかったら、あるいは原敬の暗殺がなかったらという歴史上のイフはあるが、しかし、協調外交の国内的基盤が、こうした現実に起こった困難に耐えうるだけの強さがなかったことは歴史的事実である、と。困難に際しても、外交的にアメリカとの協調を維持するために英国の助力があればまだ何とか手はあったかもしれない。しかし、国際的に孤立していた日本としては、国内の状況に押し流されるほかなかったといえる。国内政治の上からいえば、むしろ日英同盟を維持した方が幣原の協調外交を維持し易かった。14年間在米日本大使館の顧問をしていたムーアは「日英同盟を存続していたならば、文官と海軍で陸軍を押さえ得た。米国が英国を強要して日本との同盟を廃棄させたのは米国外交の失敗だった」と嘆じたという。


ヒューズ国務長官のイニシアティブ

2014年08月19日 | 歴史を尋ねる

 1921年(大正10年)7月、米国は日英仏伊にワシントン会議の非公式な提議をした。日本はボトムアップ方式で会議の準備に取り掛かった。そして会議の主眼を軍備制限(軍縮)に置き、太平洋および極東問題は、将来のため政策について列国共通の理解にとどめるという、楽観的な一般方針を決定した。そしてワシントン会議はその11月第一回総会を開いた。冒頭ヒューズ議長は、歓迎の辞などを省略して、いきなり、英米および日本が制限すべき軍艦の隻数およびトン数に関する具体的な計画を述べた。軍事交渉は秘密交渉として行うという当時の国際慣行を破る、極めて型破りな開会演説であった。ヒューズ案は、米英日3か国の主力艦建造計画をすべて放棄するとともに、老齢艦艇等の一部を廃棄し、主力艦を米国、英国は50万トン、日本は30万トンに制限し、巡洋艦、潜水艦および航空母艦等の補助艦も同様の比率に制限するというものであった。対米比率6割は由々しき問題であったが、加藤友三郎は英米協調主義者として、第2回総会で、ヒューズ提案に賛同の意を表する所信表明の演説を行った。こうして、海軍軍備制限の討議は、専門委員会(分科会)に委ねられた。しかし、対米比率7割に固執した海軍首席随員加藤寛治中将の強硬な態度で、委員会は不調に終わった。その結果この問題は非公式の日米英3国全権会見に託された。

 続いて第1回太平洋および極東問題総委員会で、ヒューズ議長は何らの提案を試みることなく、施肇基中国全権に中国の領土保全、独立の尊重、門戸開放・機会均等等をうたった10か条の提案を行わせた。横山隆介氏はこれを「ヒューズの第2爆弾発言」と評している。この会議でヒューズは、中国問題のほかに、シベリア、太平洋諸島の委任統治、海底電線および太平洋における国際通信という難題に積極的に触れた。米国は、ワシントン会議招請の際に、太平洋および極東問題について一般事項のみを審議し特定事項に触れないという日本との約束を反故にしたのだった。加えて第2回極東問題首席全権分科会から幣原全権が病気のため出席できなくなり、代って埴原正直外務事務次官が出席した。第2回太平洋および極東問題総委員会で、加藤友三郎は、対中国の友好関係の樹立、門戸開放の無条件無担保での尊重および、極東平和のための列国協力等を述べ、国際協調路線を明確にした。以後、中国問題は「ルートの4原則」と呼ばれる決議案をもとに討議された。同日午後、ヒューズ議長は、加藤友三郎およびバルフォアを国務省に招き、今後は随時非公式会議を行い、膠着状態にある軍備制限問題のみならず、並行審議中の太平洋および極東問題も解決したい旨を述べ、日英米3国全権会見が開始された。

 12月に入ると、加藤友三郎は英米が共同歩調を取り始めたことを伝えて本国からの訓令を待った。返事の訓令は、①米国提案の比率に同意するほかない、②太平洋諸島防備問題は現状を維持せよ、③建造中陸奥の復活に全力を尽くせ、というものであった。日本政府は今や太平洋の恒久平和を目的とする四国条約が成立しようとする状況にある時、海軍比率問題を決裂させることになれば、国際的孤立に陥ると判断したのだった。しかし四国条約が日英同盟に変わる協約であるという日本政府の認識は、米国の日英同盟破棄の野心に比べれば余りに楽観的過ぎた。

 バルフォアはワシントン会議開催直前ヒューズに日英同盟に代わる三国協約を要求した。会議が始まって、加藤友三郎は埴原を伴い、日英同盟問題を解決するために、バルフォアを訪問した。加藤は同盟存続を希望するが、バルフォアは日英米同盟三国協約案を提示し、日英同盟の復活が出来る条項を盛り込むことを示した。米国世論の日英同盟に対する反感は日に日に強まりつつあった。2日後佐分利参事官は、バルフォア案を参考にして幣原個人が作成した試案を、バルフォアおよびヒューズに手交した。岡崎久彦氏は「バルフォア案は本来幣原のいう協議条約であるが、日英同盟の可能性を残しているものであり、バルフォアとしては20年間の日英同盟関係を裏切るまいとした苦心の作である。少なくとも米国が受け入れるかどうか試してみる価値はある。ところがどうしてよいか苦しんでいるときに幣原の案が出てきた。英国が同盟を切ると言っていないのに幣原の方から切ったのは、厳しく言えば訓令違反、政府中枢の信頼があったために、外交技術の冴えを発揮しすぎたという批判は当然ある」とコメントしている。


近代日本の交差点

2014年08月18日 | 歴史を尋ねる

 歴史的決断には結果が出る。当事者は最善を尽くしていると思われるが、通り過ぎてから、前の決断の良し悪しが分かる。歴史の審判(結果)というか、世界の世論ないしパワーポリテックスは、時に日本にとって厳しい結果となる。ここしばらく、駐日フランス大使ポール・クローデルが1923年に日本は孤独の帝国であると指摘したその内容とプロセスを追いかけてきたが、それは1922年に開催されたワシントン会議での決定事項以後の日本の置かれた国際環境を言っているのだ。このワシントン会議は、日露戦争以降、第一次世界大戦などで日本が取ってきた政策のチェックの場であり、審判(アメリカによる)の場であった。そして以降の東アジアの方向を規定するルールづくりの場でもあったようだ。見方によっては太平洋戦争にもつながっているというのだ。従って、これまで見た歴史的事実と照らし合わせながら、ワシントン会議の中身を追ってみたい。

 ワシントン会議は1921年11月から翌年2月まで約3か月に及ぶ大会議であった。参加国は、日英米仏伊のほか、中国、ベルギー、オランダおよびポルトガルの9か国で、いずれも、何らかの形で太平洋および極東地域に利権を有する国であった。この会議は、「海軍軍備制限条約」「太平洋方面島嶼の属地、領地に関する四国条約」「中国に関する九国条約」等の7つの条約と12の決議を採択し、総計会議数135回に及ぶ前代未聞の会議であった。一般世評にいう、単なる主力艦を中心とした軍縮会議」ではなかったと、横山隆介氏はいう。それは、第一次大戦によるドイツの崩壊とロシアの共産化がもたらした太平洋および極東地域の力の真空をいかに埋め、この地域の国際秩序をいかに保つかを議論する場であった。この会議に2つの大きな案件があった。1つは海軍軍備制限問題であり、太平洋地域の海洋秩序の維持が問題となった。もう1つは太平洋および極東問題であり、中国を中心とした国際秩序の再編を目指したものであったというのだ。

 当然各国は国益を守るため、錚々たる人物を全権に任命し、会議に参加させた。日本は海軍大臣加藤友三郎、貴族院議長徳川家達および駐米大使幣原喜重郎の3名、英国は元首相で枢密院議長バルフォア他6名、米国は国務長官ヒューズほか3名、フランスは首相兼外相ブリアン他3名等の陣容であった。表層に流れる友好的な雰囲気とは裏腹に、国益を守るための熾烈な外交戦争の場であった。外交経験のない加藤の苦労は並大抵のものではなかった。その原因は、日本が海軍軍縮と太平洋および極東問題を有機的に繋げて考えておらず、領土および属地の要塞および海軍根拠地をめぐる日英米の確執に、展望を以て望めなかった。また会議開催の直前、原首相暗殺の悲報にも接した。当時の日本は、①日英同盟、②満州問題、③対華21か条要求、④シベリア出兵、⑤移民問題、⑥南洋諸島問題等で、国際的に孤立しつつあった。もしこの問題で加藤が全権の委任を解かれるようなことのなれば、ワシントン会議は決裂し、日本は国際的孤立の道を確実に進んだであろう、それだけに日本にとって極めて重要な会議であったと横山氏は解説する。


対華二十一か条と海軍

2014年08月11日 | 歴史を尋ねる

 第一次世界大戦が始まるとアメリカには激しい反日世論が起こり、一時鎮静化していたが、対華二十一か条の要求をめぐり、日米関係が再度緊張した。下院の海軍予算審議で、アラバマ州選出の海軍主義者ホブソン議員は次のように政府を追及したと平間洋一氏の著書はいう。2年前のカルフォルニア州の土地法案に伴う日米危機では、太平洋岸に艦隊を保有していなかったため、アメリカは日本にフィリピン放棄を保障し、開戦を避けることができた。日本が中国に対して強硬策を取っているのは、アメリカの海軍力が劣勢だからである。今や米国が極東の門戸開放政策を放棄するか、断固戦いを開くべきか決する時が近づいた。しかるに私が国務長官に日支交渉の現状を問うが、膠州湾に関する最初の照会以来、米国政府は何らの行動をとっていないという。このままでは米国の極東貿易は日本人に蹂躙し尽くされる。当初比較的穏健であった米国政府もブライアン国務長官から抗議文、英、仏、露に対して共同で日本に平和的解決を勧告を提案、さらに米国の権益を侵害し、中国の領土保全、門戸開放主義損なういかなる協定も承認できないという「非承認通知」を手交してきた。特に日本の最後通牒を伴った強引な要求姿勢は、アメリカ人の弱者贔屓の国民的同情を喚起し、以後人種差別論、親中国派による反日排日運動を激化させ、海軍拡張主義者はその反日感情を利用して、日本海軍の南洋諸島占領によるフィリピンやグアムの危機を訴え、海軍軍備強化に利用した。

 グリーン大使から日本が対華二十一か条の要求を提出したとの報告を受けると、英国のグレー外相はこの問題に列強がいかなる態度を示そうとも、英国は日英同盟を堅持し、日本を同盟国側にとどめておくべきで、このためにはいかなる問題も回避すべきであるとの指示をグリーン大使に発した。次いで日本の要求が英国の権益を侵害する場合には協議することを期待し、英国政府が対米関係や議会対策で困難な立場に立つので、日本が領土保全や主権尊重という日英同盟条約の目的に違反することのないよう要望せよと命じた。日本が最後通牒を発すると、日支国交断絶にならないよう働きかけると共に、米国からの共同勧告の提案は事態を複雑混乱させるだけであると拒否し、日本が対華要求の第5号を引き下げると、グレー外相は駐英中国大使に受諾するよう勧告した。さらに親中国派の駐中英国大使ジョーダンに影響力を発揮するよう訓令を出した。なぜこのようにグレー外相は日本寄りだったのか、何が加藤外相に強硬な対応を可能とさせたのか。
 グレー外相は開戦時日本海軍の出動範囲を中国沿岸に限ると限定したが、その後のドイツ東洋戦隊の跋扈に、開戦一週間後には北米沿岸、三週間後にはインド洋、一か月後には地中海へと戦域制限をはるかに超えた艦艇の派遣要請をしなければならなかった弱みがあった。さらにヨーロッパ戦局も決して明るいものでなかった。スエズ運河攻撃、ダーダネルす作戦での3戦艦の喪失、ロシア軍の敗退と続き、ロシア軍の崩壊が案じられた。そして対華要求で対日不信感を生起させているとき、シンガポール暴動が発生、鎮圧に日本軍の派遣を要請。ドイツの陰謀に対処する必要もあった。さらに日本は武器援助でも多大の貢献をした。一方、加藤外相は親英外交の熱心な推進者で、英国贔屓と国内では批判されていたが、対華二十一か条をめぐる交渉ではグレー外相に同盟の破壊を計算したと感じさせるほど冷たい強硬な対応をしたという。対華二十一か条の要求(除く第5号)をグリーン大使に通知したが、グリン大使が「一応拝読したが別に意見を申し上げるが・・・」と述べると、「意見を伺う次第にも非ず。単にご通知に及ぶ丈のことなり」と突き放したという。さらにグリーン大使が本国から意見があれば早速お話を申し上げると発言すると、帝国政府はいずれの政府とも本問題につき協議するつもりはないと冷やかにあしらったという。この加藤の強硬な対応は後の識者から色々解釈されているが、平間氏は元老からの独立と、列強に気兼ねなく独立外交を展開したいととの自負、強硬論を展開して成功した過去の体験が作用している様に思われるとしている。更にグレー外相からの懸念表明に対しても、英国の圧力と取らなかった背後には、この交渉中にもたらされた多量の英国からの謝電、特に日本海軍のAdmirable and Effectiveな活動に関する謝電などの影響があったと平間氏は考える。


南洋群島の占領

2014年08月04日 | 歴史を尋ねる

 第一次世界大戦時の日本のドイツ領南洋群島の占領は、イギリス自治領のオーストラリアやニュージーランドにとっては仮想敵国視する日本の脅威が接近することを意味し、アメリカにとっては本土とグアム・フィリピン間の海上交通を遮断されるため、極めてデリケートな問題であった。一方、日本海軍にとって南洋群島は対米海軍戦略上と南進政策推進上からも価値ある島嶼群であった。日本海軍は南洋群島の占領に反対する英国や外務省を説得し、米国の反発を予想しながらなぜ占領に踏み切ったのか、平間洋一氏はその著書で次にように分析している。

 南洋群島の占領には当時の南進論、経済的財政的困窮を打開しようとする農商務省中心の経済的要因による南進と佐藤鉄太郎に代表される海洋国防論からの南進と二つの南進論があった。海軍は1907年の帝国国防方針の中でアメリカを仮想敵国とし、八八艦隊整備の必要性を世論に訴え、海洋(南進)への関心の高揚に努めた。熱帯を制する者は世界を制する、我将来は南にあり、と。このような風潮を受けて農商務省も経済的側面から南洋への関心を高めた。大戦が勃発すると、日本の参戦にオーストラリアやニュージーランドはイギリス植民地相に危惧を表明、米国では上院で海上各島嶼領土の現状変更に対して等閑視しないという議案が提出された。しかし英国のチャーチル海相のカナダ方面の警備依頼、英国支那艦隊司令長官のシンガポールへの艦隊派遣依頼を受け、日本海軍は英国が戦域制限を撤回したとの判断を固め、マリアナ群島、カロリン群島のドイツ東洋艦隊の索敵撃滅行動を命じたが、この時点では単なる索敵撃滅計画であった。更にチャーチル海相よりマーシャル群島やドイツ艦索敵撃滅の依頼もあり、日本海軍は何分の命あるまでマーシャル群島、若しくはカロリン群島に留まり便宜根拠を定め同方面の索敵を継続するよう指示を出した。オーストラリア艦隊が北上する情報が入ると、これ以上遅くなれば南洋群島もニューギニアやサモア同様オーストラリアやニュージーランド軍に占領されてしまうと考えたのか、南洋諸島の一時占領、場合によっては永久占領の必要性を閣議に諮り、今後の推移を顧みることとし、差当り一時占領で了承された。閣議決定を受けると、海軍は群島の要地を占領し守備隊を置くべし、守備隊は時機を見て交代する予定と占領命令を発した。 

 戦局が進むにつれて英国巡洋艦がドイツ巡洋艦に撃沈されるなどドイツ東洋艦隊の活動が活発化し、英国は日本に支援要請を行った。日本艦隊は太平洋におけるドイツの主要根拠地を根絶するという大目的はもとより、いたるところで敵艦艇の捜索、通商保護、護衛任務などの無限の援助を与えていることに深く感謝するとの謝電が、英国海軍省および英国海軍の名において、寄せられた。一方米国では、日本が参戦してしまったこと、宣戦布告に膠州湾返還の一句を入れたこと、三国干渉以来のドイツの日本に対する不当な圧迫に関する説明などもあり、開戦以降高まった過激な反日世論は鎮静化しつつあった。国務長官ブライアンから日本の行動は日英両国で決すべきで、アメリカ政府は干渉的手段を執らないとの記者会見、ウイルソン大統領からは中立宣言が発表された。日本海軍は米国の過激な反日世論には警戒し留意していたが、ウイルソン大統領や政府当局者は冷静慎重な態度だったことを評価し、南洋諸島を占領しても反日世論が激化することもないだろうと判断した。