第二次近衛内閣の松岡外相就任について、重光は「昭和の動乱」の中で、次のように評した。「近衛内閣の異彩は、何といっても松岡君であった。長州萩の産で、藩閥の空気に親しんだ人であるが、米国西海岸のオレゴン大学に学んだ、米国仕込みの政治家であって、彼の英語は、座談でも演説でも、日本語と同様に流暢、その米国仕込みの思想は、決して極端に右傾でもなく、左傾でもなく、日本的愛国者であって、満州問題について強硬意見を表示したが、支那問題については、自由主義的穏健政策の持ち主で、第一次上海事件の時、日支の停戦交渉成立を援助して活動した、ことからも明らかである。彼は、外相就任後間もなく、支那及び東亜問題について、無賠償、無併合及び主権尊重の政策を公表したくらいで、重光等は、欧州の一角から、今度こそ、自由主義を解する近衛、松岡の連携によって、軍部の力を押さえ、日本を正道に引き戻すのではないかと、一時はひそかに期待した。松岡君は、外務省で重要な経験を経た後、政党政治家としても、大陸における実業家としても、長き責任を持っていたので、識者において期待は少なくなかった。しかしこの期待の実現は許されなかった。・・・彼は功を急いだ。そのために軍部の政策の先頭を走り、軍部の傀儡というより軍部を駆使する形となり、さすがに近衛公よりも、松岡外相の姿が大きく浮かび出た有様だった」と。
松岡の締結した三国同盟の歴史的審判は出ているが、先に開戦時のエピソードを引いた斉藤良衛著「欺かれた歴史 松岡洋右と三国同盟の裏面」により、「松岡は何を判断ミスしたのか。どうしてそのようなミスジャッジをしたのか」を追ってみたい。先ずは、著者の斉藤良衛について。彼は外交官試験に合格後外務省に入省、外務省通産局長を経て満鉄理事を歴任。松岡が外相就任の少し前、外務省顧問に誘われた。一旦は断ったが当時宮内大臣の松平恒雄(学生時代から面倒を見てもらった)に相談、松平は「松岡は気違いでどんなことを仕出かすかわからない。白鳥が顧問で大橋が次官の噂があるが、こうした同型の人物が外務省の上層部にいたのでは不安この上ない。誰かがブレーキをかけねば、日本が戦争に飛び込まないものでもない。君が外務省顧問を引き受けて、これら外務上層部の戦争突入のブレーキ役を務めてくれまいか」と受諾を勧め、斉藤は意を決して松岡の誘いを受けた。
斉藤が北京の二等書記官時代に松岡と知りあい、当時から松岡はドイツに好感を持ったことはなく、外相就任当時も、ドイツ人ほど信用のおけぬ人種はないと極論していた。平沼内閣時代、日独攻守同盟を執拗に押し付けようとしながら、日本側の了解も取らず、突如独ソ不可侵を締結、当時存在した日独防共協定をほごにしたこと、ドイツは他国を利用して我欲をほしいままにする、これと手を握った国は、例外なしに火中に栗を拾わされたと、ビスマルクを罵り、カイゼルを貶し、ヒットラーの政策の欺瞞性を言って、失われた植民地回復、中国門戸開放の要求を警戒すべき、中国軍のドイツ式訓練に熱中しているドイツ軍事顧問団に対し憤りを持っていた。このことは、彼の親米主義を反映したものであった。彼は幼い頃からアメリカで育ち、小中学校から大学を卒業しただけに、同国に対して親近感を持ち、第二の故郷、第二のマザータングだといっていた。更にアメリカの極東政策、対中国政策の公正さを賞讃し、アメリカが居なければ西欧諸国と帝政ロシアは中国を分割し、日本の独立さえ危うくしたかもしれない、またワシントン会議におけるアメリカの態度にも、全幅の好感を寄せていた。にもかかわらず、松岡が後に至って、何故アメリカを向うに回す三国同盟を結んだのか、その理由を記述する、と。
松岡は親米と三国同盟とが少しも矛盾しない、と考えた。この同盟はアメリカを向こうに回して、抗争するものでない。アメリカを欧州戦争に参加させないようにすることによって、太平洋で日米間の平和を保ち、ひいて世界の大動乱を予防するのが同盟の目的である、と。
「同盟を結べばアメリカの朝野に、激しい反日感情が沸騰するに違いないが、日本の真意が分かってくればアメリカ人の心機は、一転するであろう。アメリカ人はそうした気分の持ち主である。万一日本がアメリカと戦う羽目になった場合、日本が勝てる望みはない。物資の戦争、工業力の戦争である今日の戦争に、アメリカを向こうに回して勝てるはずがない。しかし外交関係には理屈だけで説明できぬ出来事が突発することが少なくない。日本の外交は太平洋沿岸諸国間の平和保持に主眼を置くべきであることには反対はないだろうが、問題は平和維持の方法である。これには日米中三国の協調を中心とすること以外に途はない。しかし日中両国の関係は、日露戦争が終わった頃から今日まで良くなった例がなく、今日両国は北部及び中部中国で武力抗争を続け、中国側の逃避、ゲリラ戦術に引っかかって、日本軍は深田にはまった形となっている。こうなって来ては、日本軍閥が中國から全面的に撤兵を決心すること以外、徹底的な解決方法はない。しかし軍にはそんな気が毛頭ないし、政府側から強硬に押したとしても、同意を得られる軍部ではない。そうして見ると、不甲斐ないようだが、第三国の力で、日中関係を調整してもらい、それに応じた新体制に順応させることによって、軍部の侵略主義を是正させることが考えられる。この第三国は、アメリカ以外にあり得ない。この国は、ソ連やドイツと違って、日本や極東各地を侵略する恐れがないと見てよい。人は僕を親米主義者だというが、僕は国を愛するが故に、アメリカとの親善を説いているのだ。日独伊三国を結んだが故に、僕を親独主義者と見るのは勝手であるが、それは大きな誤りだ。私の親米主義者であることには、同盟締結後もいささかも変わらない。同盟が世界平和の維持、アメリカの英独戦争への参加を防止することによって、第二次世界大戦の勃発を予防すること、その他同盟の平和的性格について、国会でも、演説会その他あらゆる機会に説明して置いたところである。ドイツを同盟の相手方としたのは、日ソ国交調整の手段とし、日本の威力を増大して、アメリカに参戦を思いとどまらせるための外交上の一時の便法に過ぎない、一旦この目的が達せられたとなると、三国同盟は存続の必要を失うであろう」と松岡はいった。
更に「しかしこの同盟の日本に与える危険は、現に戦われている欧州戦争の一方の当事国との同盟である。しかもイギリスはアメリカとは親密以上の間柄である。たとえそれが親米のための僕の外交上の一時的駆け引きであっても、これがその通り世間に受け取られることは当分不可能である。現に日本は、ドイツを助けてイギリスを叩き、次いでアメリカを攻撃する手段とするのが、同盟の目的だと解釈するアメリカの有力新聞があるくらいだ。満州事件以来日本のすること、なすこと、ことごとく侵略手段だと取られている今日、ドイツとの握手もまた侵略のためと考えるのは、やむを得ないが、同盟によって日本が戦争へ引っ張り込まれることはあくまで防止せねばならぬ。そこで僕は条約にいくつかの戦争予防線を張っておいた。同盟を防御同盟にしたこと、第三国からの攻撃の有無及び同盟援助の時期・方法の決定権を当該国独自の判断に任せたこと、同盟が日本を戦争に引き入れる恐れがあると認めた時、日本は同盟を脱退できるとのドイツの了解を取り付けなどは、いずれもこの戦争予防線である。しかしながら他方、アメリカの参戦防止という目的があり、これがためドイツ、イタリア及びソ連と固く握手し、アメリカをうかつに参戦できないと思わせるために結ばれたのだから、これを威嚇するくらいの覚悟がなければ、同盟を結んだ甲斐がなくなり、アメリカの参戦を早めないとは断言できない、相当程度の外交技術が必要である。・・・しかしながら、日独伊同盟成立の暁、アメリカの対日反感を危険の点まで持って行かぬとも限らない。そこで僕は三国同盟が成立し、日ソ国交調整に乗り出してから、適当な機会を見計らって自分でアメリカに渡り、ローズヴェルト大統領やハル国務長官との直接談判によって、日米関係を改善し、アメリカの参戦を防止し、世界恒久平和の樹立に全力を尽くすであろう」と。
斉藤はコメントする。三国同盟の平和的性格を説明すると共に、日中紛争に対するアメリカの斡旋を依頼するためであった。アメリカの民論は、松岡に対する反感も甚だしく、彼を軍閥の侵略主義の事実上の指導者であるかの如く考えていた有力者が少なくなかった。松岡は知っていたが、自分の持つアメリカへの好印象にも期待し、不評判もアメリカに行けばアメリカが変わると楽観的に言っていた。松岡の外交の真の姿が日独伊三国同盟の締結という外見上武断的に見える雲に隠されて、対アメリカ外交の最も重視した部門がまったく陰に隠れたことは、彼にとって不幸であったばかりでなく、日本にとっても不幸なことであった、と。
松岡の締結した三国同盟の歴史的審判は出ているが、先に開戦時のエピソードを引いた斉藤良衛著「欺かれた歴史 松岡洋右と三国同盟の裏面」により、「松岡は何を判断ミスしたのか。どうしてそのようなミスジャッジをしたのか」を追ってみたい。先ずは、著者の斉藤良衛について。彼は外交官試験に合格後外務省に入省、外務省通産局長を経て満鉄理事を歴任。松岡が外相就任の少し前、外務省顧問に誘われた。一旦は断ったが当時宮内大臣の松平恒雄(学生時代から面倒を見てもらった)に相談、松平は「松岡は気違いでどんなことを仕出かすかわからない。白鳥が顧問で大橋が次官の噂があるが、こうした同型の人物が外務省の上層部にいたのでは不安この上ない。誰かがブレーキをかけねば、日本が戦争に飛び込まないものでもない。君が外務省顧問を引き受けて、これら外務上層部の戦争突入のブレーキ役を務めてくれまいか」と受諾を勧め、斉藤は意を決して松岡の誘いを受けた。
斉藤が北京の二等書記官時代に松岡と知りあい、当時から松岡はドイツに好感を持ったことはなく、外相就任当時も、ドイツ人ほど信用のおけぬ人種はないと極論していた。平沼内閣時代、日独攻守同盟を執拗に押し付けようとしながら、日本側の了解も取らず、突如独ソ不可侵を締結、当時存在した日独防共協定をほごにしたこと、ドイツは他国を利用して我欲をほしいままにする、これと手を握った国は、例外なしに火中に栗を拾わされたと、ビスマルクを罵り、カイゼルを貶し、ヒットラーの政策の欺瞞性を言って、失われた植民地回復、中国門戸開放の要求を警戒すべき、中国軍のドイツ式訓練に熱中しているドイツ軍事顧問団に対し憤りを持っていた。このことは、彼の親米主義を反映したものであった。彼は幼い頃からアメリカで育ち、小中学校から大学を卒業しただけに、同国に対して親近感を持ち、第二の故郷、第二のマザータングだといっていた。更にアメリカの極東政策、対中国政策の公正さを賞讃し、アメリカが居なければ西欧諸国と帝政ロシアは中国を分割し、日本の独立さえ危うくしたかもしれない、またワシントン会議におけるアメリカの態度にも、全幅の好感を寄せていた。にもかかわらず、松岡が後に至って、何故アメリカを向うに回す三国同盟を結んだのか、その理由を記述する、と。
松岡は親米と三国同盟とが少しも矛盾しない、と考えた。この同盟はアメリカを向こうに回して、抗争するものでない。アメリカを欧州戦争に参加させないようにすることによって、太平洋で日米間の平和を保ち、ひいて世界の大動乱を予防するのが同盟の目的である、と。
「同盟を結べばアメリカの朝野に、激しい反日感情が沸騰するに違いないが、日本の真意が分かってくればアメリカ人の心機は、一転するであろう。アメリカ人はそうした気分の持ち主である。万一日本がアメリカと戦う羽目になった場合、日本が勝てる望みはない。物資の戦争、工業力の戦争である今日の戦争に、アメリカを向こうに回して勝てるはずがない。しかし外交関係には理屈だけで説明できぬ出来事が突発することが少なくない。日本の外交は太平洋沿岸諸国間の平和保持に主眼を置くべきであることには反対はないだろうが、問題は平和維持の方法である。これには日米中三国の協調を中心とすること以外に途はない。しかし日中両国の関係は、日露戦争が終わった頃から今日まで良くなった例がなく、今日両国は北部及び中部中国で武力抗争を続け、中国側の逃避、ゲリラ戦術に引っかかって、日本軍は深田にはまった形となっている。こうなって来ては、日本軍閥が中國から全面的に撤兵を決心すること以外、徹底的な解決方法はない。しかし軍にはそんな気が毛頭ないし、政府側から強硬に押したとしても、同意を得られる軍部ではない。そうして見ると、不甲斐ないようだが、第三国の力で、日中関係を調整してもらい、それに応じた新体制に順応させることによって、軍部の侵略主義を是正させることが考えられる。この第三国は、アメリカ以外にあり得ない。この国は、ソ連やドイツと違って、日本や極東各地を侵略する恐れがないと見てよい。人は僕を親米主義者だというが、僕は国を愛するが故に、アメリカとの親善を説いているのだ。日独伊三国を結んだが故に、僕を親独主義者と見るのは勝手であるが、それは大きな誤りだ。私の親米主義者であることには、同盟締結後もいささかも変わらない。同盟が世界平和の維持、アメリカの英独戦争への参加を防止することによって、第二次世界大戦の勃発を予防すること、その他同盟の平和的性格について、国会でも、演説会その他あらゆる機会に説明して置いたところである。ドイツを同盟の相手方としたのは、日ソ国交調整の手段とし、日本の威力を増大して、アメリカに参戦を思いとどまらせるための外交上の一時の便法に過ぎない、一旦この目的が達せられたとなると、三国同盟は存続の必要を失うであろう」と松岡はいった。
更に「しかしこの同盟の日本に与える危険は、現に戦われている欧州戦争の一方の当事国との同盟である。しかもイギリスはアメリカとは親密以上の間柄である。たとえそれが親米のための僕の外交上の一時的駆け引きであっても、これがその通り世間に受け取られることは当分不可能である。現に日本は、ドイツを助けてイギリスを叩き、次いでアメリカを攻撃する手段とするのが、同盟の目的だと解釈するアメリカの有力新聞があるくらいだ。満州事件以来日本のすること、なすこと、ことごとく侵略手段だと取られている今日、ドイツとの握手もまた侵略のためと考えるのは、やむを得ないが、同盟によって日本が戦争へ引っ張り込まれることはあくまで防止せねばならぬ。そこで僕は条約にいくつかの戦争予防線を張っておいた。同盟を防御同盟にしたこと、第三国からの攻撃の有無及び同盟援助の時期・方法の決定権を当該国独自の判断に任せたこと、同盟が日本を戦争に引き入れる恐れがあると認めた時、日本は同盟を脱退できるとのドイツの了解を取り付けなどは、いずれもこの戦争予防線である。しかしながら他方、アメリカの参戦防止という目的があり、これがためドイツ、イタリア及びソ連と固く握手し、アメリカをうかつに参戦できないと思わせるために結ばれたのだから、これを威嚇するくらいの覚悟がなければ、同盟を結んだ甲斐がなくなり、アメリカの参戦を早めないとは断言できない、相当程度の外交技術が必要である。・・・しかしながら、日独伊同盟成立の暁、アメリカの対日反感を危険の点まで持って行かぬとも限らない。そこで僕は三国同盟が成立し、日ソ国交調整に乗り出してから、適当な機会を見計らって自分でアメリカに渡り、ローズヴェルト大統領やハル国務長官との直接談判によって、日米関係を改善し、アメリカの参戦を防止し、世界恒久平和の樹立に全力を尽くすであろう」と。
斉藤はコメントする。三国同盟の平和的性格を説明すると共に、日中紛争に対するアメリカの斡旋を依頼するためであった。アメリカの民論は、松岡に対する反感も甚だしく、彼を軍閥の侵略主義の事実上の指導者であるかの如く考えていた有力者が少なくなかった。松岡は知っていたが、自分の持つアメリカへの好印象にも期待し、不評判もアメリカに行けばアメリカが変わると楽観的に言っていた。松岡の外交の真の姿が日独伊三国同盟の締結という外見上武断的に見える雲に隠されて、対アメリカ外交の最も重視した部門がまったく陰に隠れたことは、彼にとって不幸であったばかりでなく、日本にとっても不幸なことであった、と。