天明6年(1786)は丙午(ひのえうま)の年であった。その8月、将軍家治がわずらって病状が進み、意次は古い老御典医では心もとないと実力ある漢方医を2名推挙して立ち合わせたが、翌日二人は退けられた。家治の死は20日であったが秘して喪を発せず、27日老中田沼意次は罷免された。その頃の政治は万事三家三卿らの相談によってきめられており、その頃最も権勢を振るったのは新将軍家斉(当時14歳)の実父一橋治済(当時36歳)で、その中に田安家を代表して松平定信らもいた。意次の罷免は「諸々の悪事露見」という曖昧な理由であったが、当時田沼罪案なるものが流布された。その内容は、上様は小児同様の愚君になった、親族縁者のみを登用するのはけしからん、上様への膳部、召物粗末過ぎた、火消屋敷の修理もせずに粗末であった等であった。
天明5年(1785)松平定信は「溜間詰(たまりのまづめ)」になった。この役は老中と同席して政務に加わり、時に将軍の顧問となって、意見具申する役柄である。当時29歳であった。そして家治葬送後の天明6年10月、三家三卿らは次期首班に定信を推薦したが、彼の老中就任は簡単に実現しなかった。それは田沼を支持する吏僚が多数残っていたし、大奥も田沼の減刑運動をしていた。その間、定信は将軍宛に意見書を差し出したが、同様に意次も上奏文を出している。この史料は残されているが、対照的な内容となっている。まず定信の意見書では、自身が意次を刺し殺そうとしたが容易でないとみて、今度は田沼邸に金銀を運び、膝を屈してようやく溜間詰になったと語っている。一方意次の上奏文は漢文で書いてあるが「予を誹(そし)り予を悪(にく)む人々に、意次厘毫も虚妄(うそいつわり)せざる趣きを知らし目、世の雑説を捨て、怨親平等の思いを成さしめ賜え」と書いている。これらを読んだ後藤一朗氏は長い間定信を教養高き文学者とたたえ、意次を新参成り上がりの無教育者ようにさげすむ者が多かったが、二つの上奏文を比較して、いかに今まで世に誤り伝えられていたかを知ることができると記している。
寛政改革というのは、天明6年田沼失脚と同時に反対政権の手で大転換した政策で1791年ごろまで及んでいる。その内容を見てみると、1、印旛沼干拓、利根川江戸湾を結ぶ掘割工事の中止、2、北海道開発事業の中止、3、千島・カラフトの調査打切り、4、諸藩のための金融機関「貸金会所」の中止、5、表意通貨の鋳造をやめ、旧通貨制度へ逆戻り等々、従来政策の禁止・廃棄・抑圧政策に転換し、前向きな政策はごくわずかであった。結局、寛政の行政は、金のかかる田沼の施策は廃止し、生産に役立たない商業を抑え、それに代って重農主義で米の生産をふやして、倹約令で消費を抑えれば世の中はよくなると思ったが、結局は景気が下がり、物資・金の廻は悪くなり、米の値も乱調子となった。結果、景気の建て直しや物価調整は幕府役人の力ではどうすることも出来ず、有力商人などを勘定所に登用して見たが、改革の理想と現実の矛盾が年を追って著しくなった。