政変の裏表

2010年05月30日 | 歴史を尋ねる

 天明6年(1786)は丙午(ひのえうま)の年であった。その8月、将軍家治がわずらって病状が進み、意次は古い老御典医では心もとないと実力ある漢方医を2名推挙して立ち合わせたが、翌日二人は退けられた。家治の死は20日であったが秘して喪を発せず、27日老中田沼意次は罷免された。その頃の政治は万事三家三卿らの相談によってきめられており、その頃最も権勢を振るったのは新将軍家斉(当時14歳)の実父一橋治済(当時36歳)で、その中に田安家を代表して松平定信らもいた。意次の罷免は「諸々の悪事露見」という曖昧な理由であったが、当時田沼罪案なるものが流布された。その内容は、上様は小児同様の愚君になった、親族縁者のみを登用するのはけしからん、上様への膳部、召物粗末過ぎた、火消屋敷の修理もせずに粗末であった等であった。

 天明5年(1785)松平定信は「溜間詰(たまりのまづめ)」になった。この役は老中と同席して政務に加わり、時に将軍の顧問となって、意見具申する役柄である。当時29歳であった。そして家治葬送後の天明6年10月、三家三卿らは次期首班に定信を推薦したが、彼の老中就任は簡単に実現しなかった。それは田沼を支持する吏僚が多数残っていたし、大奥も田沼の減刑運動をしていた。その間、定信は将軍宛に意見書を差し出したが、同様に意次も上奏文を出している。この史料は残されているが、対照的な内容となっている。まず定信の意見書では、自身が意次を刺し殺そうとしたが容易でないとみて、今度は田沼邸に金銀を運び、膝を屈してようやく溜間詰になったと語っている。一方意次の上奏文は漢文で書いてあるが「予を誹(そし)り予を悪(にく)む人々に、意次厘毫も虚妄(うそいつわり)せざる趣きを知らし目、世の雑説を捨て、怨親平等の思いを成さしめ賜え」と書いている。これらを読んだ後藤一朗氏は長い間定信を教養高き文学者とたたえ、意次を新参成り上がりの無教育者ようにさげすむ者が多かったが、二つの上奏文を比較して、いかに今まで世に誤り伝えられていたかを知ることができると記している。

 寛政改革というのは、天明6年田沼失脚と同時に反対政権の手で大転換した政策で1791年ごろまで及んでいる。その内容を見てみると、1、印旛沼干拓、利根川江戸湾を結ぶ掘割工事の中止、2、北海道開発事業の中止、3、千島・カラフトの調査打切り、4、諸藩のための金融機関「貸金会所」の中止、5、表意通貨の鋳造をやめ、旧通貨制度へ逆戻り等々、従来政策の禁止・廃棄・抑圧政策に転換し、前向きな政策はごくわずかであった。結局、寛政の行政は、金のかかる田沼の施策は廃止し、生産に役立たない商業を抑え、それに代って重農主義で米の生産をふやして、倹約令で消費を抑えれば世の中はよくなると思ったが、結局は景気が下がり、物資・金の廻は悪くなり、米の値も乱調子となった。結果、景気の建て直しや物価調整は幕府役人の力ではどうすることも出来ず、有力商人などを勘定所に登用して見たが、改革の理想と現実の矛盾が年を追って著しくなった。                                                                                                                             


天明蝦夷地調査隊の顛末

2010年05月23日 | 歴史を尋ねる

 東蝦夷地調査隊は、まず4月松前を出発して北海道東岸からキイタップ、ノサップからクナシリ島に渡り、さらにエトロフ、ウルップへと出来るだけ遠くの島々まで見て廻る計画であったが、8月クナシリまで渡って、エトロフ、ウルップに渡るつもりで通辞を先行させたが、風波が激しい季節となり、来年を期してひとまず引き返した。一方西蝦夷地調査隊は松前から宗谷まで到着、この地は飛騨屋久兵衛の交易場所で商い小屋があり、それより先のカラフトに渡ったものは伝承のみで記録は一切残っていない。ここで調査隊は二手に別れ、一手が宗谷から知床を巡る奥蝦夷地、もう一手がカラフト島に渡ることとした。カラフト隊はカラフトを海岸伝いに90里ほど進んだが、食料補給に問題が出てきて、やむを得ず宗谷に引返し、宗谷で越冬する試みをした。

 松前に帰着した奥蝦夷地調査の佐藤玄六郎は東蝦夷ち調査隊の情報とも交換し、江戸に持ち帰って勘定奉行松本秀持に出頭して前節の蝦夷地事情を報告した。この報告を基に、次年度の調査計画と蝦夷地開発計画が田沼意次に提出され、伺い通りの実施が承認された。調査の目的はカラフトからサンタン(シベリア本土?)、千島からロシア本土への渡り口を探ることであった。尚、この計画ではカラフトは蝦夷人つまり弐本の領地、また千島はクナシリ・エトロフまでが日本、シムシル島以北は赤人、その間にあるウルップ島は両者の交易場との認識であった。次に蝦夷地の開発計画であるが、松前藩が藩の財政政策上アイヌに漁猟その他に専念させようとしたため農民化を禁止していた関係上、まずこれをやめさせて、さらに本土から農耕者を入植させる必要があった。そこで弾左衛門配下の・7万人ほどを入植させる計画が進んだ。

 これら大事業について、江戸にいる田沼意次、松本秀持ら幕府首脳や調査隊の佐藤玄六郎以下の面々は非常な情熱を燃やしていた。第二回調査が出発して、昨年来より越冬していた宗谷では多くの犠牲者が出ていたが、再度カラフトに渡って前年の数倍北まで行くことができ、最後は東海岸調査隊と合流して松前に引き揚げた。ちょうどその頃江戸の中央政界では、田沼意次を刺殺して権力を奪回しようと考えていた政敵松平定信が、江戸城の一角に橋頭堡を確保、天明6年(1786)将軍家治が発病すると、意次も病気という理由で老中職を罷免された。そして意次によって進められていた印旛沼の開発、蝦夷地開発の計画などが次々中止となり、蝦夷地調査隊も全面的に中止となった。日本北方探検史上輝かしい成果も思いかけない惨めな結果に終わった。記録書も長く秘蔵されしまいこまれていた。天明6年10月、意次は隠居、領地没収、なお、田沼家の家督は孫に許され陸奥の国に一万石が与えられた。さらに田沼意次の配下の者たちは調査隊のメンバーも含め処分、召し放し、報われないままとなった。

 後日談としてその後を追っかけると、松平定信は日本の範囲は北は津軽・南部藩までとし、蝦夷地は交易権を松前藩に任せたが、それは島津藩に於ける琉球、対馬宗氏の朝鮮と同様であるといった考え方、また、当時の儒者中山竹山に経世策の講義を受けているが、その弟中井履軒の著書の中で「蝦夷地は北風や火よけ蝦夷ヶ島といえり。今更経営して人民繁昌なさしめるとするは大なる失策なめり。これは後世の害をことさらに始めるなり」と言っている。その後の政権でも諸種の対応策を打ち出すが、1857年西周(にしあまね)は一橋慶喜の見識を買って、「蝦夷地開発論」を上程している。結局現実問題として着手されるのは明治2年(1869)明治天皇から蝦夷地開拓のことについて諮詢があり、北海道開拓使を置いて開拓に着手した。


田沼の社会・外交政策

2010年05月16日 | 歴史を尋ねる

 印旛沼・手賀沼の干拓事業は、8代将軍吉宗が巨費を投入して着手したが、充分な成果をあげることが出来なかった。田沼意次は一時下総国香取郡・匝瑳郡に領地を持っていたことで関心が高かったか、老中になると直ぐに現地の名主を呼んで新田開発の調査を命じ、安永9年(1780)計画が出来上がった。その計画は沼に沿って掘割を作り、水位を下げて4000ヘクタールの水田をつくり、その水を東京湾の検見川に落とすものだった。これは江戸と利根川を結ぶ運河ともなり、さらに利根川氾濫の水害を救う狙いでもあった。天明6年(1786)半分出来上がったところで、その年の一大豪雨に見舞われ、工事が大打撃を受けるとともに、さらに田沼が失脚して事業は中断してしまった。

 蝦夷人(アイヌ)はもと本土にも散在していたが、大和族のために次第に北方に追われ、平泉藤原氏滅亡後、多くは北海道に渡り,古くからいた原住エゾ人と合流し、一部は千島・樺太まで住んでいた。徳川幕府は松前氏を島主に認め、松前藩を興させた。しかし彼の力の及んだところは西南端地方に限られた。そこに目をつけたのが田沼であった。この地に植民して、米作の一翼をになわせることは、飢饉に苦しめられる当時として、大きな魅力があった。それに、すでにロシアが北辺を虎視眈々と窺っていた。そのためにも、植民を急ぐ必要があった。田沼は腹心松本伊豆守に蝦夷地開発案を立てさせた。

 ロシアと日本との接触は、寛政4年(1792)ラスクマンが伊勢の漂流民大黒屋幸太夫らを護送して根室に来航し、国使として通商を求めてきた。ロシアの東進は1581年ウラルを越えてシベリアの地に踏み込んだ。1650年、黒竜江に到達、清国軍と戦う。以降ベーリング海峡を経て南下し、明和4年(1767)択捉島まで到達。ロシアはピョートル大帝以来東進に熱心で、1705年日本の漂流民を首都に招いて日本語学校を開設、さらに規模を拡大して1753年シベリアのイルクーツクに開設。日本への接触はますます盛んになり、安永・天明の頃のエカテリーナ2世の治下、択捉・国後からさらに東蝦夷地の要港、厚岸こうに現れた。

 その頃紀州藩に工藤平助という医者がいた。長崎に出てオランダ人に世界事情を聞き「赤蝦夷風説考」という本を著した。「ロシアは次第に版図を広げた。漂流の日本人を撫育して日本語を研究している。魔手は伸びて千島・樺太に及び、今では日本周辺を乗り回して地勢を見届けている。この際これを打ち捨て置くべきでない。まずは要害を固めるべき。密貿易は禁止すべきだが、今の場合は表立ってロシアと交易を開くのはどうか。蝦夷に金山あり。世界尾情勢も判る。長崎の中国・オランダ貿易も不当の利をむさぼられない。このままにしておけば、エゾがロシアの命令を聞くようになり、そのときは大きな脅威である」と。田沼の屋敷はかねてより蘭学者が多く出入りしていて、意次も海外事情に通じていた。1777年択捉島で島民とロシア人の衝突があり、松前藩からも出兵するという事態から、田沼は北方対策に乗り出した。

 天明5年(1785)田沼意次は蝦夷地調査隊を派遣した。調査隊は東蝦夷(千島を含む)調査隊、西蝦夷(樺太を含む)調査隊。調査隊は地理の不明の中、寒気と食糧不足に襲われ死者も出しながらの困難な調査のなかで現地を踏破し、ひとまず帰国して報告書を持ち帰った。その中に「蝦夷地は広大、地味が良く農耕に適しているが、松前藩は蝦夷人に農耕をさせない、穀類を作ることを禁止している。赤(ロシア)人は毎年ウルップ島に来て絹綿の類、砂糖、薬種などの交易をしていく。米タバコ等を現地は作りたがっている」と。こうした調査結果などにもとづいて勘定奉行松本秀持より開発計画が提出され、承認された。


田沼の経済政策

2010年05月09日 | 歴史を尋ねる

 江戸中期の学者新井白石は、徳川の初めから5代綱吉没するまでの167年間で外国の金銀の額を、金959万両、銀149万貫と推定している。その理由の一つは、海外の金銀相場を日本で知られておらず、彼らはそこに目をつけ、貿易品特に生糸・絹織物を持って来て、日本の金銀を持ち去った。そこで田沼はまず、中国貿易に銀を用いることをやめて銅と俵物(アワビ・イリコ・フカひれ・昆布等)で決済する事とした。中国貿易には、日本の海産物が重要な地位を占めていたので、幕府は増産に勤めた。そして田沼は中国・ヨーロッパの金銀貨の輸入を図り、小額であったが外貨獲得に成功した。

 またそれまでの通貨改革は質を良くしたり落としたりとする方法しか取られなかったが、明和2年(1765)従来目方を量って取引された銀(丁銀、豆板銀)を秤にかける必要のない通用価を定めた五匁銀、さらに2年後金貨との交換価値を定めた銀貨を発行。明和9年(1772)当時の技術としては最高の銀貨(南鐐二朱判)をつくり、金貨との交換値を刻印した。当時の日本は金が通用する関東・東国・中部地区と銀が通用する畿内・西国・日本海地域があり、二つの違った経済圏の融合を目指したものだ。従来金銀の交換レートは変動性でありここで両替商が潤っていたので、この通貨政策に猛然と反対した。したがって構想通りにはゆかなかったが、現在の通貨制度に向う第一歩となった。

 田沼の経済政策は、新貨幣増発と経済成長政策を見て、インフレ政策を見る史家も多いが、米価でみる当時の物価は前後の時代と比較すると、最も安定している。また田沼は重商主義だとの批判もあるが、米価のグラフからは米穀増産と出廻りが順調であったことが推定される。吉宗時代に各地ではじまった殖産興業(綿・たばこ・菜種・茶・桑・藍などの商品作物の栽培、養蚕など)も一段と盛んになり、幕府・各藩の財政悪化対策としての年貢増徴も一揆の多発で困難を極め、田沼は商品流通に課税して税の不足を補う間接税(運上金または冥加金)の採用を図った。この原資を活用し、さらに積極策を取っていく。

 「楽市・楽座」「関所の撤廃」などで商業の発展・流通の自由などが図られ、同業者組合も盗品故買を防ぐ社会秩序維持に関わるもの以外禁止されていた。しかし元禄の繁栄以来物価の上昇が激しく、それを防ぐ方策が模索された。江戸町奉行大岡越前守忠相は、物価問題は流通問題だという観点から、商人を取扱商品ごとに、そして問屋・仲買・小売段階ごとに、仲間組合を作らせ、物価を抑えることを実施した。田沼意次はこの仲間組合を利用して、流通税を徴収しようとした。しかしながら、冥加金請負の仲間組合は、のち仲間の人数を固定化して営業権を独占する株仲間となって、のちに物価騰貴の元凶として、天保12年(1841)天保改革推進者水野忠邦によって解散を命ぜられる。


田沼意次の時代

2010年05月05日 | 歴史を尋ねる

 江戸の時代は家格の高い者ほどより上位の役職につくという身分制社会の中、田沼意次は、足軽相当から頭角を現して徳川幕府の小納戸頭取になった田沼竟行(もとゆき)の長男として、享保4年(1719)に生れた。16歳のとき8代将軍吉宗の世子家重の小姓となり、以後出世を重ね、10代将軍家治のもとで御側用人に老中を兼ねるという幕初以来の出世を遂げて、世にいう田沼時代を実現した。その配下で大きい役割をするのが、勘定奉行の松本秀持、さらにその下で蝦夷地調査等で活躍する勘定組頭の土山宗次郎をはじめとする勘定方の者たちであった。徳川幕府の家臣(旗本)は御目見(おめみえ)と御目見以下に区分されるが、松本秀持以下の人々は皆一様に御目見以下の出身者、つまり下級士族たちの政治であった。そして、このまま任せておくと、どうなるか判らぬと心配した譜代門閥の幕臣たちは徳川御三家藩主の下に結集し、8代将軍吉宗の孫の松平定信を担いで、非常手段で田沼政権を潰した。そのため日本の近代化は明治政権の成立までおくれた、と大石慎三郎氏はいう。

 幕府の権力構造は、草創期、有能者が将軍の信任を得て政治の枢要に参画したが、安定してくると譜代門閥層に握られ、固定化する傾向があった。しかし幕府の財政事情は当初、天領400万石の年貢収入、直轄鉱山からの金銀収入、鎖国による貿易収入の独占など、諸大名に対して圧倒的な財政優位を誇っていたが、金銀産出量の激減、貿易収支の低下などで4代家綱治世末期には、財政は底をついて非常用の金銀まで使い込む程となった。この事態に対応するため、5代将軍綱吉は政権につくや、幕府財政と天領の民政を専管する勝手掛老中を設け、その下の実務を担当する勘定奉行には下僚であっても才能あるものを登用する道を開き、更の勘定吟味役を新設した。元禄から宝永にかけて幕府財政を主宰した荻原重秀はこの制度改正によって、その才を買われ、勘定奉行まで上り詰めた。このように優れた才能を出身家格より重視する風潮は、綱吉政権下でますます強まり、側用人牧野成貞、さらに柳沢吉保の登場によってますます顕著になった。吉保は経済官僚の家に生まれ、自らも経済事務にあずかっていた経済通であって、経済重視の綱吉政権下での台頭であった。名門出の重臣ではなく、将軍の信任の厚い才のある小身者が政治の枢要を握る側近政治は、6代家宣、7代家継の時代へと続いた。8代将軍吉宗はこの側近政治に反発する譜代門閥層の期待とその支援によって登場、しかし享保という時代は、家格のよさに安住する譜代門閥層の手に負える時代でもなく、また吉宗も気兼ねして政治を誤るほど甘い人間でもなかった。吉宗は紀州時代からの二人を側用取次に抜擢、そこで練り上げた政策案を形式的には幕府の正式機関にかけて仕上げる手順を取った。これが享保改革の主導体制であるが、次第に側近側が力を伸ばし、崩れ始める。この危機感から将軍吉宗は隠居、9代家重・10代家治の時代へとつながり、ほぼ、この延長線で幕府権力構造は進んだ。この時代が田沼意次の時代だった。