対華白書と蒋介石の戦後戦略

2020年08月27日 | 歴史を尋ねる

 1949年アメリカ国務省がまとめた対華白書(中国白書)では、中国国民党の敗因を政治的腐敗と軍事的無能と結論付け、今後の国民党支援の打ち切りと対中国政策の転換を示唆したという。ということは、中国国民党を助け日中戦争に干渉して太平洋戦争まで発展したあの戦争は何の為であったか。1945年8月15日、天皇の玉音放送一時間前に、蒋介石は重慶・中央放送局のマイクを握り、8年間の苦痛と犠牲を回顧し、これが世界で最後の戦争のなることを希望すると共に、日本人に対する一切の報復を禁じた。のちに「以徳報怨」の言葉で呼ばれ、中華民国が敗戦国日本に対処する日本的信念となった。さらにアジアに於て、中国と日本とは「同舟共済」であり、手をたずさえて助け合っていかない限り、ともに滅びる、と。9月2日のミズリー艦上の日本の降伏調印の日、蒋介石の雪恥の日記には、「五十年来の最大の国恥と蒋介石が受けてきた圧迫と汚辱は、ここの至って、ことごとく雪(そそ)ぐことができた。が、旧恥はそそいだにもかかわらず、新恥が次々に生じている。これからの雪恥とは、まさにこの新恥をそそぐことだ、とくにこの日、記しておく」と。長年の苦闘を経て、ようやく勝利を手にした中華民国にとって、ソ連と共産党は新たな国恥の根源であった、と蒋介石秘録で本人はいう。このテーマは一度取り上げたが、当ブログの時代は今まさに冷戦が進行する中で、正面から米国の戦中・戦後の東アジア政策を取り上げておきたい。

 共産党がもっとも欲しがったのは、日本軍の持っている武器弾薬の類である。その狙いは、国民政府に対して武力による反乱を起こすところにあった。日本軍の武装解除について、中国陸軍総司令部は、全土を16の受降区に分け、各戦区、各方面軍毎に日本軍の投降受け入れを実施した。しかし、共産軍はその命令に従わず、各地で勝手に日本軍の武装解除しようとし、また輸送路を破壊して、政府軍の接収地点到達を妨害した。一方、中国全土で投降を受け入れた日本の軍民は、約213万人にのぼった。中国は彼らに対して強制労働などの報復的措置をとることなく、終戦10カ月後の1946年6月までに、一部の戦犯を除く全員を日本に送還させた。

 日本軍が侵略した区域は、東北四省をはじめ、河北省から広東、広西まで22省にのぼり、爆撃などの被害を受けなかったのは新疆、チベット、外蒙など辺境地域だけだった。この間の戦闘は大会戦22回を含め38,931回に達し、3,311,419人の将兵が死傷した。非戦闘員の死傷も842万人を超え、さらに一家離散、飢餓などの被害者を加えれば、その数は膨大なものになる。また、公私有財産の直接的損失は、把握できたものだけで、略奪された銀行の金銀、破壊された産業施設、交通施設など、当時の日本政府の会計支出を賠償に当てても半世紀近い年月が必要になっただろう。1952年、米英など48か国はサンフランシスコで対日平和条約を結び、その中で日本に対する賠償請求権を規定した。しかし中華民国だけは、同年、日本との平和条約で、在外資産没収を除き、すべての賠償請求権を自発的に放棄することを明らかにした。蒋介石はこの時、つぎのように考えた、と口述している。中華民国が受けた損害は、天文学的数字に達し、肉親を失った人々の悲しみは大金をもってしてもあがなえない。しかし多額の賠償を取りたてることは、戦後の日本の命を奪うに等しい。赤色帝国主義が日本を狙っている時、多額の賠償負担によって日本を弱体化するような措置は避けなければならない。アジアの安定のためには、日本が強力な反共国家であってくれなくてはならないのだ、と。フィリピン大統領が80億ドル請求の話があった時、同様の趣旨を説いた。このあと、フィリピンの対日請求は、5,5億ドルに落ち着いた。最大の被害者である中華民国が、率先して賠償請求権を放棄したことは、連合国各国にも大きな影響を及ぼし、日本の戦後の復興を助けた、と。これだけ戦略性をもった蒋介石が、アメリカの言う国民党の「政治的腐敗と軍事的無能」と片づけられるものか、何かその間に、相互の齟齬があったのではないか。

 さらに中国軍の占領軍派遣中止問題にも、蒋介石は触れている。米軍による日本単独占領に、終始反対したのはソ連だった。終戦直前から、ソ連はソ連軍極東総司令官を日本占領軍最高統帥の候補に推薦するなど、日本にソ連軍を派遣しようと画策した。ソ連は派兵によって日本を分割支配し、ドイツや朝鮮と同じ様に、日本を分裂国家にすることを狙った。1945年9月10日からロンドンで開かれた米、英、仏、中、ソの五か国外相会議の席上、モロトフ外相は突然この問題を持ち出し、米、英、中、ソによる四か国共同占領に改めるよう要求してきた。この時中国外交部長・王世杰が、米バーンズ国務長官と打ち合わせ、強く反対してモロトフの要求を棚上げした。一方、中国に対して米国は、戦争終結後から、日本への派兵を要請してきた。1946年3月、ウェデマイヤーからの覚書で、6月中には一万五千人の派兵が決まったが、直前になり中国の決断で中止された。その理由は、ソ連の日本占領の野心を封じるためであった、蒋介石。もし中国軍が日本に進駐すれば、ソ連は必ず言いがかりをつけて赤軍を進駐させようとするに違いない。当時、東北に居座ったソ連は、占領下の北朝鮮で赤化カイライ政権工作を行い、次に日本を目指していた。全世界赤化を企むソ連に、日本占領の口実を与えてはならなかった。理由付けを失ったソ連は、1946年8月、スターリンから直々にトルーマンに対し、ソ連軍による北海道北部占領を公式に提案してきたが、トルーマンはこれを拒否している、と。

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公務員の争議権とマッカーサー書簡

2020年08月23日 | 歴史を尋ねる

 1948年7月当時、日本の労働法では非現業公務員には争議権は認められておらず、現業公務員にのみに争議権が認められていた。1947年初頭に二・一ゼネストがGHQによって中止になったことで労働運動は一時的に鎮静化したが、激しいインフレ下の生活不安のもとで、同年夏以来再び公務員を中心とする労働運動が高まった。1948年8月7日には現業公務員及び非現業公務員の双方が参加するゼネストが予定されるなど、既に禁止されている非現業公務員による争議行為も、あたかも公然と認められるかのように捉えられる状況であった。特に公務員を中心とする労働運動には政党中心の政治的イデオロギーが強かったため、GHQでは全ての公務員の争議権を速やかに否定するべきであるとの声が高まった。その結果、1948年7月22日にGHQから公務員の労働権を制限する制度を求めたマッカーサー書簡が芦田均内閣総理大臣に発せられ、それを受けて同年7月31日に芦田内閣は政令201号を公布して、即日施行した。GHQはどう動いたか、芦田内閣はどう対処したのか、「講和条約」に戻ろう。

 7月22日、総司令部民政局長ホイットニー准将が芦田首相を訪問した。「最高司令官マッカーサーの書簡を持ってきた。眼を通して貰いたい、それから話そう」と。その内容は、政府関係の労働運動は極めて制限された範囲内で行われるべきで、主権を行使している行政、司法、立法各機関の代用になったり、それに挑戦することは許されない。労組の判断を各機関に押し付け議会の権能を侵害することは、民主主義理念に反する。従って、非現業官公吏は、争議行為もしくは政府業務の能率を阻害する紛争手段に訴えてはならない。また、公衆に対してかかる行動をに訴えて公共の信託を裏切ってはならない。そして書簡は次の措置を要求している。①政府職員に対して団結権は認めるが、団体交渉権、争議権は認めない。②官吏の給与は議会で定める。③官公労組の意見の申し立て先は人事委員会に限定する。④現業と非現業を分離し、鉄道、通信、専売などの現業を公共企業体にする。

 戦後の労働運動の中核は、つねに官公労であり、その運動は政治性の強いものであった。政府はその対策を考慮したが、片山内閣、それにつづく芦田内閣は何れも労働者の権利の伸張を政治綱領にする社会党を基盤にするだけに、官公労を抑制しきれない。公務員法の改正が論議されたが、与党である民主、社会両党の意見の食い違い、非現業職員のスト禁止の精神を案文に盛り込む以上には策定できない状態だった。総司令部民政局は、官公労が9月の臨時国会に焦点をあてて8月7日にストを準備していることを知ると、阻止能力がない日本政府に代わって、ある種の秩序回復手段をとるべきだ、と決意した。経済科学局労働課長キレンは、公務員も他の労働者に認めれれている権利は公務員にも認められるべきと、民政局の非常手段に反対したが、マッカーサー元帥の前で両者は7時間にわたって激論し、元帥は民政局側に軍配を挙げ、書簡の発出に至った。芦田首相は、「官公労の組合の行過ぎを締め直す必要があると考えていた。しかしことは社会党左派の地盤を解体させ、官僚組織を衣替えさせる急進政策となる、政治的波紋は大きいと思う」と。

 准将 この書面の趣旨は労働問題を要点とはしていない。政府使用人の規律の問題である。 首相 その点に誤解はない。公務員の問題は政治的生命をかけても解決する値打ちのある問題である。これをやらねば日本の再建は出来ない。 准将 その通り。吾々は全面支援する。 そして書簡の至急発表と官公労との団体交渉の打ち切りを要求した。社会党の反対はできまい。社会党、共産党などの左派勢力は、日本の敗戦を機会に蘇生しただけのものではない。米国の日本民主化政策に基づいて、占領軍がその存在を容認したからである。ただし、米国の対日政策は日本を米国型民主主義国家に改造することであり、社会主義国または共産主義国にするものではない。占領軍が認める左翼の活動は、民主国日本の枠内にとどまる。それを逸脱したり転覆させる気配がみえる場合は、断固とした抑圧手段が取られてきた。ただ、占領は間接統治方式なので、左派勢力が国内で政府を目標にする政争を試みるのは自由である。占領軍はギリギリ、占領政策が阻害されると判定されるまでは干渉しない立場をとっているので、内閣が崩壊することもあり得る。

 翌、7月23日、閣議でマッカーサー書簡の日本語訳が提示された。全閣僚がショックを受けた様子であったが、とくに社会党閣僚は顔色を変え、労相加藤勘十は、進退を決しなければならぬかもしれない、と呟く。次の閣議までによく検討しようとなり、閣議後の書簡が発表された。同時に政府発表も行われ、行政機構及び公務員全般にわたる官僚的惰性を排除する方策を考究する、とした。社会党としては、書簡を命令ではなく勧告と受け止めることもできる、勧告ならば法改正で労組の不満をなだめることができるのではないか、と。7月26日、総司令部キレン労働課長は、労働次官江口美登留を招いて示達した。①マッカーサー書簡の指示事項は即時実施されるべき。②政府職員の争議権、団体交渉権は、同書簡により消滅した。③組合が争議を強行すれば情勢は悪化する。書簡は命令であるに等しく、政府側の要請にこたえた通告である。社会党側は委縮した。首相は日誌に、「官公労は腰が砕けて思案投げ首。社会党も片山君がマッカーサー書簡を呑み、解散風も棚上げ。マッカーサー書簡は内閣を強くした。吾々はこの機会に官公労を叩き直す必要が会うと思う」

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日本の戦後貿易の実情と総司令部の貿易許可宣言

2020年08月18日 | 歴史を尋ねる

1)総司令部(GHQ)による直接的貿易管理の時期(敗戦~1947年8月15日)
 戦後の日本貿易は,アメリカ合衆国の占領の下,アメリカ合衆国を中心とした世界経済構造,そして国際貿易・通貨体制の下で,その復興を開始することになる。1950年代初頭までの戦後復興期の日本貿易は,アメリカ占領軍による管理下におかれていた。
 これを時期区分すると、まず,1945年8月15日~1947年8月15日までのアメリカ総司令部(GHQ)による全面的・直接的貿易管理の時期,次に,1947年8月15日~1949年4月25日の制限付民間貿易の再開時期,さらに,1949年4月25日~1950年6月25日のドッジ・ラインによる単一為替レートが設定された時期,そして,1950年6月25日~1954年7月27日の朝鮮戦争による特需時期,それ以降の朝鮮戦争休戦とMSA体制の時期である。
 占領軍による直接的貿易管理の時期では,総司令部の事前の承認なくして,一切の商品輸出入も許可されなかった。戦争と敗戦による食糧危機のために,何よりもまず食料輸入が求められた。これに対して総司令部は「物資輸入に対する方針」を示し,日本政府に輸入物資を取り扱う機関の設置を求め,1945年11月24日の閣議で貿易庁の設置が決定された。貿易庁は商工省の外局とされ,交易行政(商工省),食料輸入(農林省),塩輸入(大蔵省)を総合的に所管し,特別会計で輸出入支払いがされることが決まった。この時期はもっぱらアメリカの対日援助に支えられた「生存のための貿易」に他ならず,「いっさいの商品輸出入,外国為替および金融取引にたいしては統制が実施される」という1945年9月22日の『降伏後の日本に対するアメリカの初期の政策』が実施されたものであった。
 この期の貿易の特徴は,輸出入の大部分がアメリカ合衆国と行われたことである。1945年9月~1946年12月までのアメリカ合衆国に対する輸出は金額で全体の77%,輸入は98%に達していた。輸出品は,アメリカ合衆国政府が輸出奨励の筆頭にあげた生糸が全体の55.1%,金属・鉱産品が14.1%,石炭9.6%,機械5.1%などとなっている。生糸以外の3つの品目は,戦時中のストックの指令輸出であった。しかし生糸は,ナイロンの発達,価格の暴落で売れ行きは戦前のようにならなかった。他方輸入品は,食料品が圧倒的に多く55.7%,繊維原料(綿花など)34.7%,石油3.4%,肥料3.1%などになっている。食料輸入は援助という名前の下におこなわれたアメリカ合衆国の過剰農産物輸入という側面があり,また綿花輸入はアメリカ合衆国政府所有の過剰ストックを割り当てるとともに,生産された綿糸のうち内需は20%に限定されるという輸出入がリンクされた,完全な管理貿易でもあった。
 この時期のもう一つの注目すべきことは,財閥の解体である。貿易庁の下部組織である4つの貿易公団(鉄工品貿易公団,繊維貿易公団,食糧品貿易公団,原料貿易公団)が貿易公団法によって1947年に発足するとともに,三井物産と三菱商事の解体は非常にきびしく行われた。

2)制限付民間貿易の再開(1947年8月15日~1949年4月25日)
 1946年以降,東西の関係は冷却し,1947年6月にはアメリカ合衆国のマーシャルプランが発表される。またそれに先立つ3月3日には,アメリカ合衆国の財務・陸軍・司法3省によって,「対日本およびドイツ通商統制の緩和」が発表される。さらにマーシャルプランの立案者である国務省企画室長ジョージ・ケナンは,日本を早期にアメリカ合衆国の与国として復興させ,その潜在的な経済力や軍事力を発揮させるべきだと考えた。日本占領初期の非軍事化政策からアジアの反共拠点として日本を再編する政策転換が,制限付民間貿易の再開の背景にある。総司令部は,1947年6月10日に,同年8月15日に対日経済封鎖を緩和し,制限付民間貿易を再開する,そのため400名規模の民間貿易団が来日する旨の特別発表を行い,さらに8月11日に,極東委員会が7月24日に決定した「対日輸入暫定政策」,いわゆる「対日貿易16原則」を公表した。これらの発表によって8月15日より民間貿易が再開されることになったが,その措置は対日経済封鎖を緩和する程度にとどまり,外国為替レートは設定されず,取引履行に関する責任は日本政府が負うが輸出入価格決定など貿易に関わるすべてを総司令部が直接管理するなど,実質的に総司令部の権限に変化があるものでなかった。総司令部の価格決定は以下のようにされていた。日本から輸出される商品は,アメリカ合衆国で販売される価格がまず決定される。次にアメリカ合衆国汽船の運賃,アメリカ合衆国保険会社の海上保険料,アメリカ合衆国貿易業者の利潤,その他諸経費を差し引いた価格で日本から買い上げられた。他方,日本に輸入される商品価格は,アメリカ合衆国での市場価格に,アメリカ合衆国汽船の運賃,アメリカ合衆国保険会社の海上保険料,アメリカ合衆国貿易業者の利潤,その他諸経費を加算した価格で引き渡された。しかも,汽船の運賃は独占的地位によって戦前のそれの数倍~10数倍の高さにまで引き上げられた。
 また高額になる輸入品には輸入補給金が,安い輸出品には輸出補給金が,貿易資金特別会計を通じて支出された。しかし,表面上は複数為替レートになっていたために,この補給金支出は現れてこなかった。輸出入補給金の資金源としてアメリカ合衆国の援助物資の払い下げ代金があてられていたが,補給金支払いに払い下げ代金は到底追いつかず,貿易資金特別会計はたえず赤字となっていた。その結果,日本銀行からの借入金が増大し続け,借入限度額の更新がたえず行われる結果となった。
 さて,1947年1月25日には復興金融金庫が業務を開始し,石炭・鉄鋼・肥料・電力といった超重点産業に低金利資金を供給した。また同時期に,石炭・鉄鋼を超重点的に生産する「傾斜生産方式」が政府によって開始された。傾斜生産方式の本格的実施は,1947年6月に社会党の片山哲内閣が成立してからであった。

 上記は、関西大学政策創造学部教授奥和義氏の関西大学商業論叢に掲載された論文「戦時・戦後復興期の日本貿易:1937~1955」の一節である。戦後まもなく日本は貿易もままならなかった。総司令部の事前許可が必要だった。その後民間貿易が再開されても制限付きであった。日本の復興プロセスは、1944年に発効されたIMFにも加盟できず、GATTにも参加できず、極めて覚束ない足取りだった。さて、児島はこの辺をどう記述しているか、講和条約に戻ろう。

 昭和23年5月、国際社会への復帰は連合国側との講和条約の締結が必須であるが、米国から講和なしでも日本を実質的に自立させようという政策の基づく励声が聞えてきた。朝日新聞ニューヨーク通信員は、米国の対日感情が急速に改善されている旨の報告と町の意見が聞えてきた。「日本の経済的復興に賛成する。彼らが自活できればわれわれの負担がなくなり、反対する米国民は一人もいないんじゃないか」と。陸軍次官ドレイパーはテキサス州ダラス市の米国綿花輸出業者協会で演説、「もし極東を繁栄させようとするならば、日本人に抱く憎しみと偏見を捨てよ。もし日本に経済的自立を達成させようとするのであれば、極東その他若干の地域に対する相当量の輸出を許可せよ」 次官はそう叫び、日本の貿易は現在の七倍、十四億ドルに拡大させるべきだ、と主張した。同日総司令部ニューヨーク貿易事務所は、日本の貿易代金は半額をドル、半額は他国通貨に交換可能のポンド貨または商品で決済することにする、と発表した。後者の対象になるのは英連邦、中国、ソ連を含む十九か国または地域。これは日本に対する欧米、アジアでの貿易再開の許可宣言に等しいと児島襄氏。 一方、英誌エコノミストは、米国の新対日経済政策は日本をアジアの工場として復活させようとするものだが、被侵略国は不安を感じている、と指摘。極東委員会で、ソ連代表駐米大使パニューシキンは、米国は太平洋戦争における旧連合国の意見や感情を無視してはならない。日本の経済復興が恐るべき新戦争誘発の能力の保持に繋がらない保障措置が必要である。米国の日本工業復興策は、あまりにも大規模且つ急ぎ過ぎの印象を受ける、と。英外務次官も、日本が将来極東でいかなる地位を占めるかの問題であり、日本だけでなく極東その他の諸国もそれを知る必要がある。十分慎重に検討する機会を与えられるべきだ、と。オーストラリア政府も、日本の経済復興が日本の戦争能力復活に直結する可能性があるとの懸念を示し、マッカーサー元帥の措置は極東委員会の権限を超越する疑いがある、と声明。うーむ、どこも厳しい。日本が復興することに、迷惑がっている。

 総司令部は反駁した。日本は自給自足出来ない国である。現人口約8千万人は1950年には約92百万人に増加すると予想されるが、耕地拡張計画が達成されても、必要食料の四分の一は輸入に頼らざるを得ない。この食料を買うための貿易が認められない限り、絶え間ない飢餓の脅威にさらされ、米国の援助も永遠につづくことになる、と。ふーむ、この状況のきめ細かい把握は、米軍が日本で占領政策をしているから理解できることだ。この点では、占領政策に感謝しなければならない。元総司令部顧問のハーバード大学教授アッカーマンも報告書を発表し、日本は食料の不足、原料の不足、人口の増加、天然資源の枯渇の四つの脅威に晒されている。その解決には次の五策しかない。①工業活動に対する制限の緩和、②海外市場の拡大、③技術援助、④賠償の軽減、⑤新魚区の開発。この解決策が実施されなければ日本人の生活水準は下がる一方であり、彼らは民主主義と別の政治体制に魅力を感じるだろう、と。陸軍次官ドレイパーも米下院軍事委員会で、日本の経済復興は米国民の負担を軽くしアジア諸国に利益をもたらす一石二鳥策だ、日本の貿易手段は繊維品輸出である。陸軍は、日本の繊維生産能力をが来年末までに戦前の四分の一に回復することを希望している、と。本当に不思議だ、日本のことについて、これほどまでに考えて呉れていることには、驚きだ。

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日本は自衛の第一歩を踏み出した、アイケルバーガー中将

2020年08月17日 | 歴史を尋ねる

 日本の行く末は、歴史はアメリカ占領軍が決めている、それがポツダム宣言受諾の中身だった。その不思議な時代を児島襄は、「講和条約 戦後日米関係の起点」で丁寧に跡付けしている。文庫本で全12巻、日本の戦後体制がこうして決められたのか、知らないことづくめ、大変興味深いが、時間がかかる。対日講和条約の調印日は1951年(昭和26年9月8日)、このブログにとってはまだまだ先。日本の内政の歩みも見なくてはならないので、現段階でもどうしても外せない事柄を見届けて、日本自身の歩みに戻りたい。

 まずは神戸(朝鮮人学校)事件。事件の背景は、1947年(昭和22年)10月、連合国軍最高司令官総司令部総司令官ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本教育基本法学校教育法に従わせるよう」に指令した。このころ在日朝鮮人の子供たちは、日本内地の教育により、朝鮮語の読み書きが充分にできなかったため、日本各地で国語講習会が開催され、文字と言葉を知ったものが先生となり、在日朝鮮人の子供たちに朝鮮語を教えた。教材は独自に作成された。国語講習会は在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)事務所や工場跡地、地元の小学校校舎などを借りて開かれた。その後、国語講習会は朝鮮人学校に改組され、学校は全国に500数十校、生徒数は6万余人を数えた。1948年1月24日文部省学校局長は各都道府県知事に対して、「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出し、朝鮮人学校の閉鎖と生徒の日本人学校への編入を指示した(朝鮮学校閉鎖令)。

 講和後の日本の安全保障に並々ならぬ関心と理解を持つ第八司令官マイケルバーガー中将 ―日本の安全は、第八軍が担当している、日本の危機は第八軍の危機にほかならない。自身の帰国が決まった直後、幕僚たちに朝鮮半島で南北衝突が発生した場合を想定した図上演習をさせた。結果は、北朝鮮のソ連が訓練して旧日本軍の武器で装備した12万5千人が、アッという間に形ばかりの南朝鮮軍と絶望的に貧弱な補給線しか持たぬ米軍とを圧倒し、米軍は敗北して日本に逃げ込めるかどうかも危うい、という結論。もし、ソ連が北から日本を攻め、同時に朝鮮半島で発火し、日本国内でも左翼勢力が蜂起すれば、日本がどうなるかは明らか、従って中将は講和の成立時期に関係なく、第八軍が日本に存在する限りは安全対策を用意しなくてはならないー 中将の眼から見れば、在日朝鮮人は単なる居住外国人、それなのに戦勝国民を自称して日本の治外法権者のようにふるまい、前年は朝鮮人関係の犯罪が一万件を突破した。文部省は一月、全国に任意に設立され学校放棄を無視している朝鮮人学校の閉鎖を命令したが、いらい朝鮮人連盟指導の反政府デモが頻発している。中将は不安感を強め、最近の日本の社会的混乱は朝鮮人の権利に対する不幸な誤解に基づいている、朝鮮人は日本の法律に従うべきである、と警告を発した。

 4月23日、朝鮮人約千百人が神戸市兵庫県庁に押し掛け、三百人が庁舎に入り知事面会を強要、全員検挙方針の下に795人を逮捕、デモ隊を解散させた。大阪でも児童約千人を含む朝鮮人約一万五千人が府庁に押し寄せた。代表70人が知事と交渉するうち、外のデモ隊が乱入、駆け付けた警官三千人との間に乱闘騒ぎが発生、200人が検挙され、デモ隊は退去した。4月24日、再び朝鮮人デモ隊約7千人が大阪府庁を包囲、動員された警官と小競り合いを重ねるうち、警官側が空に向けて拳銃を威嚇射撃、デモ隊は四散した。しかし千五百人が神戸に向かい、兵庫県庁に突入、知事ら幹部を一室に軟禁してつるし上げ、閉鎖命令の撤回、前日逮捕された朝鮮人の釈放を要求、知事に容認させ、引き揚げた。これを聞いて中将は、事件は単なる騒擾ではない、日本と米国に対する公然たる反乱だと激怒、神戸地区司令官に断固たる措置をとるよう下命した。司令官は直ちに神戸市内に非常事態を宣言、宣言が発せられると、自動的に日本側警察は米軍憲兵司令官の指揮下に置かれ、被検挙者は占領政策違反容疑で米軍法会議にかけられることになる。26日中将は伊丹空港に到着、地区司令官たちに、なぜ朝鮮人をやすやすと県庁に乱入させたのか、と質し、声明を発表した。「本事件は、自己の選択で日本に在住し生計の道を立てている外交人が、正当に選ばれた日本人の代表者に暴行を加え、これによって文明の基本的要素そのものを傷つけた。法と秩序をもたぬ文明はなく、法の執行と法の遵守を伴わない法と秩序はあり得ない」と。中将はさらに県庁を視察した後、逮捕者の中に神戸市議会議員ら日本共産党員8人が含まれていた、と報告を聞き、記者会見を行い、今回の事件は日本共産党の扇動によるものだ、と言明、さらに根こそぎ朝鮮に送り返すに巨船があればよいと思うとまで付け加えた。そのあと法務総裁鈴木義男が現地に派遣され、中将と会談した。この種の国内事件は日本警察が処理すべきと中将が言うと、すかさず総裁は、「そのためにはせめて拳銃ぐらいは十分に警官に支給していただきたい」 尚政府も声明を発表した。「政府は、日本人たると朝鮮人たるとを問わず、法と秩序の遵守を否定するものに対しては断固たる措置をとる方針であり、全国民が支持することを確信する、尚この政府方針は、連合国最高司令官の政策に完全に合致する」と。中将は司令部に帰ると、鈴木総裁の拳銃支給要請を伝えると、司令部参謀長は、日本警察の武装問題は総司令部でも研究中だが、特別対日理事会で、日本の会場保安庁設立問題がソ連代表が反対した。海の警察力強化が認められなくては、陸の警察力増強問題に移り難い、という。ウーン、これには驚きだ。日本の警察に拳銃を持たせるのも、自分では決められないとは。

 海上保安庁設立は三年越しの懸案だった。終戦後の日本近海は無法地帯に等しく、日本漁船は頻りに拿捕され、密入国、密輸も相次いだ。その対策のために日本側は、1946年早々、運輸省海運総局船員局長大久保武雄を通じて、総司令部に米海軍による漁船保護と日本水上警察の強化を要望した。総司令部は応諾し、船員局に不法入国船舶監視本部の設置を許可した。総司令部は旧海軍駆潜特務艇28隻と旧軍人三千人の使用を認め、1947年10月、日本政府は「海上保安政府機関設置法案」を作成した。これに異論をとなえたのが民政局だった。本計画の承認は準軍事的訓練の正式認可となり、日本海軍の実質的建設の中核として利用されかねない、と。日本側は、そこで、隻数、総トン数、速力、人員などを大幅に縮小した案に修正、総司令部の承認を受け、海上保安庁設置法が国会を通過した。4月28日の対日理事会で、ソ連代表は、海上保安庁の創設は日本警察力の強化であり、日本軍復活につながる、それを最高司令官が勝手に許し支援していたのは連合国の対日政策違反だ、と反対、結局、極東委員会の承認を得るまで海上保安庁の発足は見合わすことになった。翌日の極東委員会では海上保安庁保留が評決されたが、米代表が拒否権を行使して決定を無効にし、海上保安庁は5月1日に発足することになった。中将のその日の日記に、「日本は自衛の第一歩を踏み出した」。

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冷戦下の講和:ケナンとマッカーサー

2020年08月09日 | 歴史を尋ねる

 中国外交部長王世杰は、対日講和の前途に不安を感じた。外相会議でこれまで中国の意見は無視され、対日講和問題で英米とソ連が対決する恐れがあり、その結果、ソ連抜きだけではなく中国抜き講和が実行される可能性がある、と。駐米大使顧維鈞から、ソ連及び中国との意見相違のため、予備会談が今年中に開かれる見通しはなくなった、四国の合意が成立しない限り予備会談は召集できないとの、米政府の見解である、と。対日講和問題は外相会議の議題に含まれていないので、中国提案が討議に対象にならない、中国の工作は徒労でしかない、という警告が汲み取れた。

 11月7日ソ連革命三十周年記念日の前日、外相モロトフがこの三十年間の成果を誇示し、「アメリカの外交政策が原子爆弾の独占に基礎をおいていることは周知の事実であるが、この秘密はすでに秘密でなくなったと考えてよい」 世界は、米英を主導者にする反民主主義・帝国主義陣営と、ソ連が代表する他国の主権尊重と内政不干渉の立場をとる民主主義陣営とに分かれている。 「われわれは反帝国主義勢力を糾合し、資本主義諸国が絶対に追随できない偉大な軍隊に仕立てなければならぬ」、核軍備宣言、と受け取れる声明だった。恐怖の波紋が国際的に広がった。冷戦、東西陣営の対立は、外相モロトフがいう様に、米国の絶対兵器・核の独占を基礎にする政治ゲームだったが、ソ連が核兵器を持つとなれば事情は一変する。 鉄のカーテンは核のカーテンに変り、冷戦がいつでも熱戦に転化し得る、もし米ソ戦が勃発したら、と日本は格別の脅威を感じた。外相芦田均は予算委員会で答弁し、もっぱら講和後の日本の安全保障に論述、「日本は新憲法により一切の軍備を放棄し絶対に戦争を否認する態度を明らかにしたが、その表明を以て将来民族の経営が安全にやれるかということは、われわれの当面する問題の中で最重要なものである」「日本の安全保障は、国際連合の力もしくは連合諸国の方策によって必ず確保されるものと信じている」と。

 11月27日、10日前の中国の提案に対して、米、英、ソ、中国はポツダム宣言の決定に基づき、1945年12月、協定を結んだ。その経緯にしたがい、ソ連政府は四国外相による対日講和会議の早期開催を提案した。今回の中国案はこれまでの四国間の協定に違反し、極東における平和の回復を遅延させる。①対日講和の準備を協議するため明年一月、四国外相会議を開催、中国政府が同意すれば、同会議を中国内で開く、と提案してきた。中国案は米ソの狭間に位置する中国が両者の妥協を試みたものであったが、ソ連の逆提案はそれに対する拒否回答であった。朝日新聞は次のような論評を掲載した。中国にとって対ソ関係は死活問題である。中国が直面する大連接収、満州、朝鮮の諸問題、さらに国共紛争の解決など、すべてはソ連の動向にかかっている。しかし、ソ連は中国の仲介の手を払いのけ、米国が拒否済みの四国方式案を持ち出した。ソ連提案が米中ソ三国の歩み寄りにつながると期待できないが、場所と期日について具体案を提案している。手詰まりから一歩抜け出したともいえよう、と。この結論はそれまでの論調と矛盾している、観測の甘さがみられると、児島氏。

 12月2日、駐ソ米大使館参事官ダブロウの急電が国務省に届いた。ソ連提案に対する大使館の統一的見解だった。①ソ連の極東政策の主目標:第一次、朝鮮、満州の共産政権による支配。第二次、インドシナ、インドネシア、インドの民主政府の共産党支配。第三次、日本の共産化。②目標についてのソ連の確信:北朝鮮、共産政権の基盤は強固であり、南朝鮮の連合国撤兵で朝鮮半島の支配が可能である。満州、中国共産党は進出を遂げ、ソ連の援助なしに共産政権樹立が可能。中国本土、共産党の全国制覇は現実である。米国の援助は最終結果を延期させるだけである。日本、簡単に共産衛星国化は期待できないが、満州、朝鮮、東南アジアの事態は日本の共産党勢力を増大させるだろう。③ソ連にとって対日講和の重要性は少なくなる。米軍基地に対抗する基地を朝鮮、満州、旧日本北方領土に保持できる。④講和条約に縛られないソ連は、米軍が撤退した後の弱い日本に対して、思いのままに宣伝攻勢を行い、侵略に機会さえ見出し得る。⑤以上から、米国の利益のためには、対日講和も撤兵も急ぐべきでない。⑥長期的にみれば、講和会議そのものに施策するよりも、米国の朝鮮または中国に対する政策の成否の方が日本の最終的平和に影響がある。うーむ、先の見える外交官がいるものだ。現在の極東情勢をも見通しているように思える。電報を読了した国務長官ロベットは、時勢にかなう判断だとうなずき、ロンドンの国務長官マーシャル、東京の総司令部外交局長シーボルトに転電した。

 年が明けて昭和23年、日本では民政局次長ケーディスの強硬な介入で、片山内閣が危機を迎え、結局2月10日総辞職した。新内閣の誕生は難航していた2月16日、北朝鮮の平壌放送局が、北朝鮮人民委員会委員長金日成の声を電波に乗せ、人民共和国と人民軍が設立したことを宣言、憲法と国旗の制定、南朝鮮が参加するまで平壌を首都にすると宣言、世界に衝撃を与えた。朝鮮半島はカイロ、ポツダム宣言を通じて米、英、ソ、中国によってその独立が保証された。日本が降伏すると、北緯38度線の北、南をソ連、米国が担当して日本軍の武装解除を行い、独立準備については国連の朝鮮委員会に委ねられた。しかし、38度線は北朝鮮のソ連をバックにした人民委員会の指導力が増すにつれて政治的境界線の性格を強め、半島の単一独立国家を目指す国連朝鮮委員会の作業は難航した。ソ連は北朝鮮に傀儡政権を樹立して協定を踏みにじった、と南朝鮮米軍スポークスマンが声明すれば、委員会議長メノンは「いまや朝鮮は明確に二つに分かれるだろう。北と南で別々に政府を樹立するのは、朝鮮人にとって最も不幸なことである」と。2月18日、トルーマン大統領は中国援助のために5億七千万ドルの支出を議会に要請、米国の援助がなければ中国の国民政府は崩壊の危険があると答弁。満州、朝鮮が赤化することは、米国が日本に永久に腰を落ち着ける決意をしない限り、日本の赤化を意味する。赤化した日本が赤化したアジアの先鋒になることになれば、戦前の日本の脅威など、易しいものである、と指摘する評論家もいた。

 政策企画部長ケナンは、陸軍省作戦課長シャイラーと共に来日した。ケナンの献策したマッカーサー元帥との協議に、自身が派遣されることになった。協議テーマは国務長官マーシャルに指示された。①太平洋における米国の安全保障、②ソ連の参加不参加による対日早期講和の有効性、③日本の経済復興促進のための措置。これに対する元帥の考え:△ポツダム宣言は時代遅れで、宣言に基づいて設立された極東委員会は、日本情勢の現実的要求に応えていない。△対日安全保障は太平洋における米国の国防問題にほかならない。今や米国の戦略的国境は南北米大陸岸ではなく、アジア大陸の東岸である。米国の戦略の基本は、同海岸の港に侵略兵器が終結し進発するのを防止することにある。△沖縄の戦略的重要性はあまりに明白である。△講和条約が締結されたら、米国と雖も勝手に日本本土に基地を保有することは出来ない半面、ソ連その他も基地を求めてくる可能性がある。解決策は彼らを締め出すことだ。△日本の経済復興は貿易振興が前提となるが、近隣諸国には利己的で消極的な態度を示す国が多い。訪日中は進歩的姿勢をしますが帰国すると退歩する。△新憲法の軍備放棄条項は総司令部が強制したものではなく、日本自身の発案である。日本の頭脳は陸海軍に集まっていた。それらの人材が根こそぎ公職から隔離されたのは残念なことだ。占領政策は米国および東京の左翼の学術的理論家たちの影響を受けた。その種のグループは国務省にも総司令部にもいる。しかし、その連中は総司令部の担当部局から一掃する計画で、近く片づく。△対日講和に関して自分はカヤの外にいる。ソ連抜き講和が有利かどうか、自分には判断できぬ。

 ケナンは元帥の見解に対し、極東委員会の活動を衰退させることは出来る、講和は時間を与えられる方が有利、その期間に、在外資産の返還、賠償その他戦争で派生した厄介な技術的問題を出来るだけ多く処理し、講和条約そのものも交渉手続きを簡素化する、ただし長期にわたる法的問題について、ロシア人との交渉は回避した方が良い。彼らの考え方は、原始的で、複雑な法的解釈によって資産の所有権が失われるなどは理解出来ない。「短く、一般的で、非攻撃的で、新時代に向かう日本人の背をたたいて信頼のゼェスチュァを示す、そうゆう条約にした方が良い」とケナン。「ファイン、何もかも同感だ」と元帥。次にケナンは賠償問題を取り上げた。元帥はいう、今考えられている対日賠償計画は非現実性に富む、賠償の対象にされている日本の工場施設は、例外なくほとんど廃物化している。賠償物になっても運搬方法が難しい、日本に賠償を求める国で、日本にまわす輸送船の余裕を持つ国はない、仮に日本から送られても機会の山が上海の波止場で雨ざらしになっている様子が思い浮かぶ。賠償のための賠償概念は放棄されねばならない、賠償金を早く入手しようと思えば、早く日本を復興させればよく、そのためには工場と機会は日本人に活用させるのが得策だ、と。ふーむ、王世杰部長の賠償の件だな。ケナンとマッカーサーとのやり取りは、まるで米国代表と日本代表のやり取りに映る。当時の日本は、こうした形で支えられていたのだ。

 

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対日講和の延期決定 ことは極秘にされた

2020年08月01日 | 歴史を尋ねる

東京では早期講和の期待は衰えなかった。ワシントンでの予備会議が開かれることをUP電は消息筋の談話を伝えた。当時のアメリカ新聞界では、消息筋=バーで会った政府関係者、権威筋=課長クラス、信頼すべき高官筋=部長クラス、極めて権威ある政府高官=局長以上。そういう意味では消息筋はあてにならない。首相片山哲は、講和会議は現内閣で十分担当できるが、全権団は野党を含めて国民代表の形にしたいと答弁。コミンフォルム設立で米ソ対立は地球上の隅々まで拡大された、講和後の日本は非武装国家なので生存に不安がある、首相はいずれの道を指向するのかと質すと、首相は「共産主義による政治的原理を、日本国民及び国家はとっていないことは言うまでもない」と。将来の安全は、国連に参加して積極的に世界平和に貢献することで達成できる、と強調した。それ以上は言えない環境にあるが、桜講和の期待を前提にした問答であると、児島襄はコメント。

 10月24日、帰国途中の中国外交部長王世杰はマッカーサー元帥と会談した。ソ連のコミンフォルム設置に表示される西側陣営に対する攻勢と、ソ連を背にする中国共産党の優勢とに照合すれば、対日講和問題でソ連をなだめるのが中国にとって最有利、最優先課題であった。米国高官たちが、反共姿勢を顕示しながらも、こと対日講和に関してマッカーサー元帥の意見、日本の世論、政情も無視できない旨を告げたのにヒントを得て、王部長は日本工作に立ち寄った。しかし、マッカーサー元帥との会談は目論見が外れた。元帥は「世界の世論は、中国はソ連と提携して米国の対日講和推進を妨害するだけではなく、中国本土のソ連化をもたらす危険な遊戯にふけっている、と見做している」 中国にとって最も有利なのは、中国の共産主義とソ連との闘争を支援する日本を正面に立たせることである。中国が意図する中ソ提携策は日本を米国またはソ連の陣営に押しやるだけで、中国にとってプラスにならない。日本を敵視し続ける中国紙の論調は非現実的で不可解である。日本はいずれ自立する。その日本を味方にするのが中国にとって最得策の筈だ、と。王部長は「対日講和条約に於て大規模な生産賠償が保証されることを最も強く望んでいる」と。金銭又は物品による一時的賠償ではなく、中国の原材料を加工させた製品による長期的賠償を求める、日本の工業能力を中国の復興と軍備増強に活用する発想だった。元帥はすかさず反駁した。中国はすでに中国本土、満州、台湾に莫大な日本の在外資産を接収している。55%の米国の援助でその生産を賄っている状況で、どれほどの生産賠償に日本は応じられるか、日本から無限の賠償を要求できると述べる中国紙は中国民を欺き、国民を馬鹿にしている。中国政府はなぜそのような新聞論調を取り締まる措置を取らないのか、日中両国は相互に有益な貿易を行うべきで、そうしなければ経済的混乱を招くだけである、と。

 対日講和問題について意見を交換したいとの王部長の招きで、首相片山哲、外相芦田均、官房長官西尾末広が、中国駐日代表部を訪れた。王部長は、中国は蒋介石主席の暴を以て暴に報いるなとの訓令にもとづき、在中国に日本軍民を一人の事故もなく帰国させ、残留希望者も優遇した、戦争中は日本人の暴虐を憎悪したが、今は忘れて日本人に対している、と。芦田外相は、蒋介石主席の公明にして高貴な精神に感銘している、われわれも同じ精神で新たな日中関係を推進したい、と。王部長は米国からの予備会議招請に関して説明後、三つの質問をした。 ①日本は民主主義体制の確立に忙しいようだが、日本国民は熱情を持っているか? : 現内閣は生命を賭して日本民主化に努力している、組合民主化もその一環である。 ②講和後の対日措置について、日本人に責任を取らす、或いは相当の保障占領を行う、日本はどう考えるか? : 平和後は、日本の民主化、平和政策の実行は日本の責任於て遂行させてもらいたい。第一次大戦後のドイツとは三つの相違点が見出せる。しかし講和後の日本の安定のためには、イ、国防:国連の保障または連合国の一、二国の安全保障。ロ、経済自立:この問題は独立国家として不可欠の要件である。 ③中国は原料を持ち日本には工業設備がある。日本に対する賠償は、中国の原料による生産賠償にしたいがどうか? : それは困る。それは裏付けのない紙幣の発行にほかならない、インフレが不可避。第一次大戦後のドイツの事態の再現になりかねない。日本としては一時的の実物賠償を希望している。 三人を送り出した後、王部長は考え込んだ。元帥も日本側も、一致して中国のソ連寄りを話題にして、中国が対日講和の邪魔をしていると見ている。このままでは敵に回す、両者の誤解を解く必要があると考えた。

 王部長は、代表部で記者会見を行った。①中国提案は東亜安定のためである、ソ連が抜けては東亜の安定に役立たない。②中国国民の80%が日本との戦争で被害を受けている。しかし中国国民は政府の指導で、日本にみじんの報復も怨恨も持たない。③日本は民主化、中国は戦災復興に励んでいる。それが成就すれば両国の貿易関係の前途は洋々たるものがある。中国の対日講和方針はアジアの安定と日中友好を図ることである、と。さらに王部長は総司令部外交局長シーボルトに出向いた。局長は、中国の新聞、政府筋は米国の日本占領政策を批判しているが何故か、王部長:それは中国のマスコミが米国の対日政策や占領問題をよく知らぬためだ、占領下の日本の状況と自国の混乱状態とを組み合わせ、米国は中国を犠牲にして日本を再建している、と感じている、と。局長:対日講和について中国はソ連と提携しているが、その意図は。部長:それは誤解だ、中国がソ連よりと見られる対日講和提案をするのは、中国が現実的立場をとり、現実を直視するからだ。米国の三分の二多数決方式がそもそも非現実的だ。十一か国のうち英連邦五か国が構成されている。最初から米国は多数を確保している。その結果中ソに不利な条項が採用される可能性がある。ソ連も中国も対日講和問題で自国の利益を主張する権利がある。局長:ソ連が中国提案を拒否した場合、中国は講和会議に参加するのか。部長:その場合、ソ連が中ソ友好条約違反を口実に、満州、新疆、内蒙古に対するフリーハンドを得たと解釈する恐れがある。ソ連抜き対日講和は間違いであり、締結しても機能しない。米国は断固かつ辛抱の政策をとって欲しい、と。

 10月29日、国務省極東局は対日講和を日本降伏処理の一部と見做しているの対し、米国政府内では、米ソ対決の冷戦状態の激化に伴い、対日講和も対ソ戦略に組み込むべきだとの考えが政策企画部長ケナンを筆頭に強まった。極東局も、日米関係より対ソ関係の一環として対日講和という視点の必要を自覚し、主務者の意見を覚書にまとめた。米国が提唱した予備会談がソ連、中国の反対で暗礁に乗り上げている現状に対応策として、静観、延期、早期開催を挙げプラスマイナスを検討、①先ず、四大国拒否権付き十一か国予備会議を英、ソ連、中国に提唱し、他の極東委員会七か国にも通告する。②次に同提案を四国外相会議に付託し検討させる。その際、外相会議がはじめから終わりまで予備会議をコントロールする旨を明らかにする、と建言した。この覚書は、元国務長官バーンズの対日二十五年非武装条約構想に触れず、ただ国際情勢に照合して早期開催の必要性を強調しただけであった。延期は不得策というだけであり、対ソ戦略の中の対日講和を力説する点でも、政策企画部長ケナンの提言に基本的に合致した。回付を受けた国務長官マーシャルもベリーグッドとうなずいた。部長ケナンの献策を原則的に承認する。マッカーサー元帥との協議に派遣する人選をせよ、と。どんなに早くても翌年一月までは対日講和に手を付けるべきでない、というのがケナンの意見であり、長官マーシャルは、極東局も早期講和の努力は要請しても時期は限定しない意見であることを知り、国務省の「当分の包括的見解」として採用した。対日講和の延期の決定であった。ただし、ことは極秘にされた。

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