1949年アメリカ国務省がまとめた対華白書(中国白書)では、中国国民党の敗因を政治的腐敗と軍事的無能と結論付け、今後の国民党支援の打ち切りと対中国政策の転換を示唆したという。ということは、中国国民党を助け日中戦争に干渉して太平洋戦争まで発展したあの戦争は何の為であったか。1945年8月15日、天皇の玉音放送一時間前に、蒋介石は重慶・中央放送局のマイクを握り、8年間の苦痛と犠牲を回顧し、これが世界で最後の戦争のなることを希望すると共に、日本人に対する一切の報復を禁じた。のちに「以徳報怨」の言葉で呼ばれ、中華民国が敗戦国日本に対処する日本的信念となった。さらにアジアに於て、中国と日本とは「同舟共済」であり、手をたずさえて助け合っていかない限り、ともに滅びる、と。9月2日のミズリー艦上の日本の降伏調印の日、蒋介石の雪恥の日記には、「五十年来の最大の国恥と蒋介石が受けてきた圧迫と汚辱は、ここの至って、ことごとく雪(そそ)ぐことができた。が、旧恥はそそいだにもかかわらず、新恥が次々に生じている。これからの雪恥とは、まさにこの新恥をそそぐことだ、とくにこの日、記しておく」と。長年の苦闘を経て、ようやく勝利を手にした中華民国にとって、ソ連と共産党は新たな国恥の根源であった、と蒋介石秘録で本人はいう。このテーマは一度取り上げたが、当ブログの時代は今まさに冷戦が進行する中で、正面から米国の戦中・戦後の東アジア政策を取り上げておきたい。
共産党がもっとも欲しがったのは、日本軍の持っている武器弾薬の類である。その狙いは、国民政府に対して武力による反乱を起こすところにあった。日本軍の武装解除について、中国陸軍総司令部は、全土を16の受降区に分け、各戦区、各方面軍毎に日本軍の投降受け入れを実施した。しかし、共産軍はその命令に従わず、各地で勝手に日本軍の武装解除しようとし、また輸送路を破壊して、政府軍の接収地点到達を妨害した。一方、中国全土で投降を受け入れた日本の軍民は、約213万人にのぼった。中国は彼らに対して強制労働などの報復的措置をとることなく、終戦10カ月後の1946年6月までに、一部の戦犯を除く全員を日本に送還させた。
日本軍が侵略した区域は、東北四省をはじめ、河北省から広東、広西まで22省にのぼり、爆撃などの被害を受けなかったのは新疆、チベット、外蒙など辺境地域だけだった。この間の戦闘は大会戦22回を含め38,931回に達し、3,311,419人の将兵が死傷した。非戦闘員の死傷も842万人を超え、さらに一家離散、飢餓などの被害者を加えれば、その数は膨大なものになる。また、公私有財産の直接的損失は、把握できたものだけで、略奪された銀行の金銀、破壊された産業施設、交通施設など、当時の日本政府の会計支出を賠償に当てても半世紀近い年月が必要になっただろう。1952年、米英など48か国はサンフランシスコで対日平和条約を結び、その中で日本に対する賠償請求権を規定した。しかし中華民国だけは、同年、日本との平和条約で、在外資産没収を除き、すべての賠償請求権を自発的に放棄することを明らかにした。蒋介石はこの時、つぎのように考えた、と口述している。中華民国が受けた損害は、天文学的数字に達し、肉親を失った人々の悲しみは大金をもってしてもあがなえない。しかし多額の賠償を取りたてることは、戦後の日本の命を奪うに等しい。赤色帝国主義が日本を狙っている時、多額の賠償負担によって日本を弱体化するような措置は避けなければならない。アジアの安定のためには、日本が強力な反共国家であってくれなくてはならないのだ、と。フィリピン大統領が80億ドル請求の話があった時、同様の趣旨を説いた。このあと、フィリピンの対日請求は、5,5億ドルに落ち着いた。最大の被害者である中華民国が、率先して賠償請求権を放棄したことは、連合国各国にも大きな影響を及ぼし、日本の戦後の復興を助けた、と。これだけ戦略性をもった蒋介石が、アメリカの言う国民党の「政治的腐敗と軍事的無能」と片づけられるものか、何かその間に、相互の齟齬があったのではないか。
さらに中国軍の占領軍派遣中止問題にも、蒋介石は触れている。米軍による日本単独占領に、終始反対したのはソ連だった。終戦直前から、ソ連はソ連軍極東総司令官を日本占領軍最高統帥の候補に推薦するなど、日本にソ連軍を派遣しようと画策した。ソ連は派兵によって日本を分割支配し、ドイツや朝鮮と同じ様に、日本を分裂国家にすることを狙った。1945年9月10日からロンドンで開かれた米、英、仏、中、ソの五か国外相会議の席上、モロトフ外相は突然この問題を持ち出し、米、英、中、ソによる四か国共同占領に改めるよう要求してきた。この時中国外交部長・王世杰が、米バーンズ国務長官と打ち合わせ、強く反対してモロトフの要求を棚上げした。一方、中国に対して米国は、戦争終結後から、日本への派兵を要請してきた。1946年3月、ウェデマイヤーからの覚書で、6月中には一万五千人の派兵が決まったが、直前になり中国の決断で中止された。その理由は、ソ連の日本占領の野心を封じるためであった、蒋介石。もし中国軍が日本に進駐すれば、ソ連は必ず言いがかりをつけて赤軍を進駐させようとするに違いない。当時、東北に居座ったソ連は、占領下の北朝鮮で赤化カイライ政権工作を行い、次に日本を目指していた。全世界赤化を企むソ連に、日本占領の口実を与えてはならなかった。理由付けを失ったソ連は、1946年8月、スターリンから直々にトルーマンに対し、ソ連軍による北海道北部占領を公式に提案してきたが、トルーマンはこれを拒否している、と。