満州国とリットン報告書 渡部昇一の解説

2022年12月17日 | 歴史を尋ねる

 呉善花氏が黄文雄氏と石平氏とが鼎談した冊子が発行されている。『日本人の恩を忘れた中国人・韓国人の「心の闇」』 「日本は隣国の韓国と中国を格別に重視して、惜しみない援助を続けてきたが、1993年、韓国に金泳三政権が、中国に江沢民政権が成立すると、両国は手のひらを返したように強硬な反日政策を取るようになった。今年は両国が提携して日本との対立を深めて行くまでに至り、日中韓関係は歴史的に最悪といえるまでの状態に陥っている」韓国・朴槿恵政権時代、中国・習近平である10年前の時代背景を受けて、三人が話し合った冊子である。その中で韓国の反日について、呉善花氏は、表立った主張は日本帝国主義の侵略、韓国の植民地統治を容認する日本人とその政府が悪いというものだが、本当に言いたいことは、戦前に日本があれほど悪いことをしたのは、「歴史的に野蛮で侵略的な日本人の民族的資質」があるからだ、ということだ 、と。だから韓国の反日民族主義は、正確に言えば「反日本民族の民族主義」で、この「日本民族の野蛮な侵略的な資質」は、古代から現代まで一貫して変わることなく続いている、というのが反日民族主義の基本的な考え方だという。そして、三つの要素で形成されている。一つは中華主義の核をなす華夷秩序の基づく世界観、二つは、祖先が受けた被害について、子孫はどこまでも恨み続け、罪を問い続けていくことが祖先への高校だという儒教的道徳観、三つめは古代に神功皇后の朝鮮征伐、中世の豊臣秀吉の朝鮮征伐、近世の征韓論を以て朝鮮侵略を企図し、ついに朝鮮を植民地化した。そこには一連の日本民族特有の朝鮮侵略史観があり、今なお変わることがないとする韓国人の歴史認識がある、と。呉善花氏は更に言う。こうした世界観、道徳観、歴史観は李朝朝鮮500年の歴史によって、骨の髄まで染み込んでいる。専制主義国家は一元的中央集権統治を万全にするため、徹底的に一元的価値を持って人々を洗脳する、情報をコントロールする、そうした体制下では、上から洗脳していくことはごく普通のことで、人々はそれを偉い人からの教えとして受け入れることを習いとしている、と。

 石氏は中国の反日政策を説明する。天安門事件が反日政策への転換点、親日的で民主改革に積極的であった党主席・総書記の胡耀邦が87年に失脚させられ、89年失意のうちに亡くなった。胡耀邦の死をきっかけにその年の6月4日、民主化を求める多数の学生・一般市民が天安門広場に集結した。このデモ隊を鎮圧するため、中国人民解放軍は装甲車を出勤させ、無差別発砲を展開するなどして多数の死傷者を出した。天安門事件。国家の威信は地に堕ちたが、政府は民主改革派の政治家たちを次々に権力の座から追放し、93年に江沢民が国家主席に就任した。江沢民は、党総書記・国家主席・党中央軍事委員会主席を兼任する初めての中国最高指導者となった。これほどの権力一元化が行われたのは、天安門事件で失墜した国家の威信を取り戻すため、国民的な求心力を取り戻すためであり、江沢民政権が愛国心を旗印に掲げ、愛国主義の教育を盛り立てていったのはそのためだった。愛国教育の重要な柱は、90年代から反日教育を行い、今では愛国教育は共産党を存続させるためのイデオロギーの基盤であり、反日政策は政権存立には欠かせない中心的な位置を占めるようになった。愛国主義は、国民の感情を煽り立て、国民の視線を外敵に向けさせるための、最重要の装置になっているので、中国共産党政権は反日を止める意思はない。反日を止めない理由の一つは日本にもある。石氏の高校時代の教科書には、南京大虐殺など全く書いていなかった。朝日新聞社にいた本多勝一は、中国に行って南京大虐殺があったと盛んに焚きつけた。彼のように、反日を増長させる日本人がいつでも絶えない。これが反日に大きな力を与えている。もし戦後の日本人が一致団結して、中国・韓国の反日攻撃にノーといい続けたら、いっさい受け付けないという態度を数十年も取り続けたら、今日のような反日の盛り上がりは中国にはなかった、と。石氏は重要なことを語っている。問題は、日本人自身の歴史観がうろうろしている、という事だ。NHKを始め日本のマスコミは、政治家が靖国に参拝したことを、その都度事細かく報道している。誰に向けて報道しているのだろう。日本人がその事実をこと細かく知りたいと思っている人はごく一部の人たちではないか、大きくは中国・韓国・北朝鮮向けとなってる。その自覚はマスコミ人にはないだろう。そして本来内政の問題であった靖国問題を世界に周知させたのも、朝日新聞だったか。石氏の指摘どうりである。

 前置きが長くなったが、満州事変についても、リットン報告書を通じて、歴史の位置づけをハッキリさせたい。「リットン報告書」は、1931年に勃発した満州事変についての国際連盟から派遣された調査団による調査報告書、ところがこの報告書の邦訳は当時数種類が刊行されただけで、専門家を除けば、全文を読んだことのある人が限られるという。日本の満州侵略を国際社会がこぞって非難したレポートだという印象を持っている人が極めて多いが、本文を通読すれば、報告書は相当程度日本の立場を認めている、と渡部氏はいう。満州事変と聞けば直ちに日本の大陸侵略と決めつけ、満州国と耳にすれば即座に傀儡国家と反応する、朝日新聞その他の左翼マスコミよりずっと正しい歴史認識を示している。満州を巡る問題は極度に複雑だから、満州事変も単に日本軍が侵略したというような簡単な事件ではないと、ハッキリ断言している。その歴史的背景について十分な知識のないものは口を出す資格がない、と。従って、事変が起きてしまった今、満州の状態を事変以前にもどすことは現実的でないというくだりもある、という。それもそうだろう、報告書が提出された日時は1932年9月、すでに満州国は成立して、その満州国の仕組みも報告書に記載されているから。満州国成立のプロセスは報告書で見ていきたい。
 「1931年9月18日の事件の結果、奉天市と奉天省の行政は完全に破壊され、その他の二省の行政に至るまで影響をこうむった。奉天に対する攻撃があまりに急速だったため、同市はシナ人民の間に恐慌を引き起こすに至った。著名な官公吏、教育界や商業界の主要人物の大多数はただちに家族とともに逃亡した。警官や監獄看守に至るまで失踪した。行政は崩壊し、公共事業会社、乗合自動車、市外電車並びに電話・電信業務は一切停止した。至急を要するのは行政の復活だが、これは日本人によって着手され、土肥原大佐が奉天市長に就任し、三日以内に正常な市政が復活した。数百人の警官や監獄看守の大部分は省長の援助によって復帰し、公共事業も回復した。大部分は日本人からなる非常時委員会が土肥原大佐を援助した。大佐は一カ月間その職にとどまり、10月20日、市の行政は趙欣伯を市長とする一定の資格を持ったシナ人たちの手に戻された。
 次の問題は三省の各省政を再建することであった。奉天の省行政は有力者の多くが逃亡し、シナ人による省行政は錦州において継続された。従って遼寧省の省政組織が出来上がったのは三カ月後のことであった。省長だった臧式毅将軍は独立政府樹立の援助を拒絶、日本の軍事当局は元省長である袁金凱とシナ人住民8人に治安維持委員会を組織することを進め、9月24日組織された。袁金凱はその後独立宣言をする意思はない事を表明。治安維持委員会は遼寧自治委員会に改名され、11月7日、遼寧省自治委員会は臨時遼寧省政府となり、旧東北政府及び南京中央政府から分離・独立を声明した。臨時遼寧省政府は同省内の各地方政府に対して、発布した命令を守ることを要求し、今後省政府としての権限を行使すると発表した。
 自治委員会が臨時遼寧省政府に改造されると同時に、最高諮議委員会が于沖漢委員長の下に創設された。于沖漢は最高諮議委員会の目的を、秩序の維持、悪税の廃止による施設改善、租税軽減並びに生産・販売組合の改善、と。委員会はさらに臨時省政府を指揮監督して、伝統的かつ近代的要求に準拠して省自治政府の発展を助成する。11月20日、省名は奉天省と改正され、12月15日、袁金凱は臧式毅将軍と交代した。臧式毅将軍は監禁から釈放され、奉天省長に就任した。
 吉林省を樹立する事業は容易だった。9月23日、多門中将は張作霖将軍の不在中、省長代理である熙洽中将と会い、省長就任を勧めた。将軍は会見後、多くの政府当局者や公共団体を集め、新省政府樹立に対して反対表明がなく、9月30日布告書が発表された。
 東清鉄道の特別区行政官・張景恵将軍は9月27日、ハルビンの事務所で会合を催し、特別区の非常時委員会の組織について議論、同委員会は張将軍を委員長とし、その他8人の委員から構成された。1931年1月、張景恵将軍が黒龍江省長に任命されると、相長の資格で同省の独立を宣言した。
 黒龍江省に於いて張海鵬と馬占山の抗争で形勢は複雑化していたが、2月日本軍と和睦し、張将軍から黒龍江省の職を受け継ぎ、他の省長とともに新国家の建設に協力した。
 熱河省は満州における政治的変動に対して中立を維持してきた。熱河省は内モンゴルの一部分である。300万人以上のシナ人が省内に住み、遊牧モンゴル人を北方に追いやりつつあったが、100万を超えるモンゴル人は旗人組織の下で生活していた。モンゴル人はシナ人と同化しなかった。ジンギス汗の偉業やモンゴル武人の元朝を記憶していたから。3月1日の満州国建国に当たり、熱河省は新国家に組入れられたが、同省政府は何ら決定的措置をとることはなかった。

 独立を達成する組織は奉天に出来た自治指導部であった。首長はシナ人だが大部分の職員は日本人だったという。主な目的は独立運動を進めることであった。自治指導部から発せられた布告は、東北部はいまや満州とモンゴルに於いて新独立国家の建設のため一大民衆運動を起す必要がある、と告げた。張学良を打倒し、自治協会に加入し、清廉な政府を設立し、人民の生活状態を改善するため協力すべき、と訴え、「北部及び東部の組織よ。新国家へ。独立へ」という言葉で結んでいた。自治指導部長・于沖漢は省長・臧式毅とともに新国家の計画案をつくりつつあった。馬将軍が黒龍江省省長に就任すると、新国家の基礎を協定する会議は、2月奉天で開かれ、5人(東3省の省長、特別区長官、趙欣伯博士)の会合で、①新国家を建設すること、②東北行政委員会を組織すること、③委員会は遅滞なく新国家建設のため必要な準備をすることが決議された。会議の二日目にはモンゴル王族も出席した。2月17日、最高行政委員会が組織され、委員長・張景恵中将、奉天、吉林、黒竜江および熱河の省長並びにモンゴル地方代表が委員となり、新国家は共和制を採用する、構成各省の自治を尊重すること、執政に摂政の称号を与えること、四省及び特別区長官、全旗代表・チワン親王及び黒竜江省ホロンバイン代表・クイエフが、署名した独立宣言を発すること、決めた。関東軍司令官は同夜、新国家の幹部のため公式の晩餐会を催し、成功を祝すると共に必要の際には援助を与えると確言した。
 独立宣言は2月18日、発布された。宣言は永遠の平和を享受しようとする人民の熱烈な願望と人民によって選ばれた各施政官が人民の願望を満たすべき義務がある。新国家樹立の必要に言及し、そのため東北行政委員会が設置された。国民党および南京政府との関係は破棄され、人民は善政を享受できると約束した。続いての会合で、共和国を建立すること、憲法の中に権力分立主義を規定すること、前・宣統帝に執政就任を請うことを決議した。つづいて、首都は長春(新京)、年号は大同、国旗の図案も決定された。
 独立宣言と新国家建設計画が発表されたのち、自治指導部は民衆を組織して支持を表明させるについて指導的役割を演じた。そして促進協会が設立され、宣伝に努め、各団体の会長や著名会員等を集めて人民代表の会議を開き、決議を表明させた。また会合は宣言書を発して、旧圧政軍閥の没落と新時代の黎明に対する奉天省住民の喜びを表明した。吉林省、黒竜江省もそれぞれ独立宣言をした。各省が新国家建設計画に賛同すると、奉天で全満大会を招集した。この大会には各省やモンゴル地方の代表が集まり、また朝鮮人や満州及びモンゴルの青年同盟支部など、種々の団体の代表者も集まり、満場一致で宣言および決議が可決された。また新国家の臨時元首として前宣統帝を推挙する決議も採択された。溥儀氏は最初これを拒否したが、29名の代表者たちが一年を期限として承諾を取り付けた。3月9日、新都・長春で就任式が行われ、溥儀氏は執政として、新国家の政策は「道義、仁慈、愛撫」を基礎とすることを約束すると宣言した。」

調査団は「新国家建設の段階」という項で、以下の結論を導いている。東三省の軍事占拠は、シナ官憲の手から順次、チチハル、錦州、ハルビンを奪い、ついには満州のすべての重要都市に及んだ。軍事占領ののちに民政が回復された。1931年9月以前に於いてほとんど聞かれなかった独立運動が、日本軍の入満によって活発化した。日本の文官・将校の一団は、9月18日の事件後、満州の事態解決策として独立運動を計画し、組織し、遂行した。日本の参謀本部は当初から、あるいはしばらくしてから、自治運動を利用することを思いついた。その結果、運動の組織者に援助と指導を与えた。満州国の創設に寄与した最も有効だったのは、日本軍の存在と日本の文武官憲の活動である。従って現在の政権を純粋且つ自発的な独立運動によって出現したものと考える訳にはいかない、と。しかし、この調査団のロジックは、純粋という言葉を使って、事態を見る目を歪めていないか。ここでいう純粋とは、何を言わんとしているのか。外国勢力によって影響された独立運動だから純粋でないという事か、あるいはシナ人の手によって起こされた独立運動でないという事か。確かに、日本軍の手によって起こされたクーデターではあった。しかし満州国の国造りは、日本人のサポートがあったにしろ、曲がりなりにも自発的な国造りであった。しかも共和国は五族協和である。
 満州国の第二代総理張景恵は1943年11月5日、東京で開かれた大東亜会議で満州国を代表して演説を行った。「私は十年前に我が満州国が最初の真の東亜的なる自覚を有する新興国家として建国されたことを回顧し、深き感慨なきを得ないものである。私も抑え難き熱情を以て建国に参画したが、当時満州において最も欠けていたものは道義に基づく政治だった。民衆は何ら理想ある目標に指導され組織されることもなく、国土は荒廃し、軍閥の封建政治による無秩序な苛斂誅求が行われ、何らの自由性創造性も無き典型的な虐げられた東亜の様相を呈していた。
 当時の支配者として人民にあくなき搾取を加えつつあった張学良軍閥が、米英の東亜攪乱政策に乗ぜられて露骨なる反日態度に出たのに対し、日本が敢然起って張軍閥を打倒した結果、ここに真に国民を向上し、国土を発展せしむ自主的な道義国家の樹立に、三千万民衆の総意が翕然として集まったのは当然のことだった。
 斯くの如く建国された満州国がこの十年間、如何なる政策の下に、如何なる成果を上げたか、説明したい。第一に民族の協和である。我が満州国は、日満蒙その他多数の民族が共存しているが、従来異民族間に見られた支配、被支配、搾取、非搾取の関係ではない、相互にその特徴を発揮しつつ国家目標の達成に協力していっている。・・・第三に国民生活の安定と強く正しい国民の練成である。政府は建国後直ちに、従来紛糾を極め最も収拾困難とされた貨幣制度を、極めて急速に統一した結果、物価は安定し、今日の如き国民生活の安定を確保した。並行して行われた治安の確立であり、建国当時三十万の匪賊が国内に横行したのに比べ、現在は全く影を潜むるに至った。
 最後に重要なものは、産業の開発である。・・・以上の如き建設の成果について二、三の数字を拾うならば、国家財政は建国当初歳入歳出合計二億七千余万円であったが、十年後の今日、実にその十六倍の四十四億円に膨張し、鉄道の延長は六千キロが一万二千キロ、初等学校児童数五十万は二百五十万人になった。また石炭は四倍、銑鉄五倍に飛躍発展を遂げている」と。この演説は『大東亜会議演説集』から茂木弘道氏の著書に掲載されている。さらに張景恵首相は「この国運の隆昌を目の当たりにして痛感することは、大日本帝国の終始変わらざる杖義であります」と述べている。この十年は世界大恐慌の真っ最中であった。今の中国も海外企業の進出で世界の工場といわれた。何ら変わるところがない。これを傀儡国家というべきか、リットン調査団の時点はまだ満州国が誕生したばかりであったから、多少その点を考慮すべきとは思われるが。

 日本が満州を侵略した、という主張はどこから始まったのか。それは蒋介石政権が国際連盟に提訴したその時が出発点であり、共産党政権に引き継がれている。蒋介石秘録によると、九・一八事変(満州事変)の拡大に対し、9月21日、前線から帰った蒋介石は党、政府、軍幹部を招集、「日本の東北侵略の事実を、国際連盟および不戦条約締結国に先ず提示し、どちらに公理があるかを訴える」と指示、当時、ジュネーブでは国際連盟の定例理事会が開催中で、中華民国の施肇基は事変の翌日、外交部からの訓令に基づいて、国際連盟事務局に対し、日本軍が突如、奉天を攻撃、占領したことを通告、日本軍の退去を求めるために、連盟が適切な措置をとることを要請した。21日、施肇基は連盟に正式に提訴、事務総長に対し、連盟規約第十一条(平和擁護義務)によって理事会を開催することを文書で要求した。理事会は翌22日午後から開催、日本代表の芳沢謙吉はこの事変を「中国軍の挑発による偶発的事件である」と主張し、国際連盟の干渉に反対した。この日の理事会は「現状が悪化し、または平和的解決を害する恐れのある一切の行為をしないよう、中国および日本政府に緊急通告を送ること」を全会一致で決議、同日、理事会議長はその旨日中両国に伝えた。日本政府は24日、政府声明を発表、「事変発生当初より、日本の軍隊の行動は、居留民の安全、鉄道の保護、軍隊自体の安全確保のためと、限定されている。日本政府はあくまで事態拡大を防ぐ方針であり、日中両国間の交渉で一日も早く平和的に解決することを願っている。日本軍は現在、ほとんど南満州鉄道付属地内に復帰した。吉林、奉天など付属地外に残る若干の軍隊は、在留邦人の安全と鉄道保護のためであって、今後、事態が改善されれば撤兵する。日本政府の誠意ある態度を信頼してほしい」と。翌25日の理事会で施肇基は、日中両国の交渉は日本軍の撤兵が第一条件である、理事会から完全撤兵の勧告を出し、日本が実行しなければ、連盟は即時、現地に調査員を派遣、調査に当たらせてほしい、と。当時世界は世界恐慌の最中で、各国の関心は自国に直接影響のある欧米の経済問題に向けられていたことを蒋介石は嘆いている。30日、理事会は次を決議して散会した。①議長は両国の回答、その措置を了承する、②満州に於いて、領土的目的を有しない日本政府の声明の重要なことを認める、②国民の生命財産の保護が確保され次第、日本軍隊の撤退を実施するという日本代表の声明を了承する、④中国の地方官憲が旧に復した後、日本国民の安全と財産の保護に責任を負うという中国代表の声明を了承する、と。日本が侵略したとの考えは表明されていない。

 一方中国での抗日世論は燃え上がった。先頭に立ったのは、学生や知識人、言論界であった。9月20日、全国の主要三十大学に抗日救国会が結成され、五十人の代表が南京へ請願に赴いた。救国会は、対日宣戦と軍事訓練の実施を要求、自ら義勇軍編成要領を定めた。しかしこの運動には、共産党の手先となった一部の学生や青年が運動に紛れ込み、外交問題にかこつけて内政攻撃を目標にした。28日、南京の中央大学の学生ら四千人が授業放棄し、対日宣戦を要求して中央党部と外交部にデモを掛けた。彼らは外交部長・王正廷に面会を強要、外交部の建物になだれ込み、王正廷にけがをさせた。この事件がもとで、王正廷は外交部長の辞任に追い込まれた。
 9・18事変当時、汪兆銘は一方的に広州に国民政府を名乗り、統一の条件として蒋介石の下野を要求した。11月7日妥協案がまとまった。南京と広東はそれぞれ別個に国民党の四全大会を開く。双方中央執行委員を選び、それぞれ承認し合う。選出された中央委員は南京に集まり、全体会議を開いて政治組織の改革を決する。南京の四全大会は、蒋介石に対し日本に抵抗する責任を与えると決議したが、広東側は同意せず、主席の下野がないと、南京に行かないと応じなかった。南京では総数7万人の学生が集まり国民党中央党部と外交部を取り囲んだ、このような無秩序状態に拘わらず、広東側は尚も下野を迫り、12月15日、蒋介石は国民党のあらゆる官職を退いた。22日、国民党の新執行部は林森を国民政府主席、孫科を行政院長に選んだ。翌年1932年1月1日から新政府がスタートした。しかし学生の騒ぎは収まらなかった。学生の一部は赤い腕章をまき、赤旗を持ち、共産党万歳の宣伝ビラをまいた。背後で操っていたのは、中国共産党であった。彼らは9・18事変という国難をきっかけに、国内に混乱を持ち込み、その機に乗じて勢力の拡大を図ろうとしていた。そして共産党は9・18事変を祖国に対する侵略とみず、ソ連への攻撃、共産党への脅威と見ていた。以上、蒋介石秘録の記述であるが、国際連盟による日本制裁を申入れた中国内政の状況は混沌としていた。
 一方12月10日、国際連盟理事会は全会一致で次の決議案を採択した。「理事会は日中両当事国が、事態の悪化を避けるために必要な措置を取り、戦闘や生命の喪失を引き起こす一切の主導的行為を差し控えることを約することを了承する。国際関係に影響を及ぼし、日中両国の平和をかく乱する一切の事情について、実地に調査をし、理事会に報告するため、五人で構成する委員会を任命する。両国は委員会が必要とする一切の情報入手に便宜を与える。両当事国の交渉や軍事行動については、委員会は権限を持たない」と。この決議に基づき、翌1932年リットン卿を委員長とする、調査団を派遣することとなった。この決議案が連盟で通過した翌日、日本では若槻内閣が閣内意思不統一で総辞職した。このあと引き継いだ犬養内閣も、わずか五カ月後に五・一五事件によって倒れた。日中とも政治情勢が大荒れとなっていった。

 満州事変が起こった時の当時の情勢は以上であったが、蒋介石秘録には日本の侵略意図を日本の極秘文書から解説する。紙面の都合で詳細は省略するが、「事変の半年前、陸軍参謀本部は『満蒙問題解決方策』を決定、第一段階は、中国人をそそのかし、東北に親日政権をつくる、第二段階では、満州国として独立させる、第三段階では日本が領有するという筋書きをつくった」と。具体案を決める最初の謀議は、「事変発生後五日目、瀋陽の旅館で開かれた。出席者は関東軍参謀長三宅光治、土肥原賢二、板垣征四郎、石原莞爾、片倉衷の五人、この席で土肥原は日本を盟主とする満蒙五族共和国を策立することを提案し、これを基に議論が交わされた。この結果、実現可能なプランとして清廷最後の皇帝である宣統帝溥儀をかつぎ出し、傀儡政権を樹立させる案がまとまった」と記述する。「日本の軍部は、政府の対し、満州新政権樹立の方針を正式に決定するよう性急に迫ったが、外相・幣原喜重郎の反対で結論が出ないままに終わった」と。ウキペディアで満蒙問題解決方策を調べても、蒋介石の云うような記述は見つからない。蒋介石並みに深読みするとそう解釈できないこともない、という事か。五族共和国を話し合うのは、これが侵略とは言えない。

 渡部昇一氏の「全文 リットン報告書」の戻ろう。渡部氏はいう。リットン報告書はかなりの程度まで日本の立場を理解したレポートになっている。しかし決定的な誤りは、満州はシナの一部であるとする結論だ。満州は溥儀を最後の皇帝とする満州族が支配していた土地であり、万里の長城の外に在って、元来は漢人の立ち入りは禁じられていた封禁の地であった。レジナンド・ジョンストンの名著「紫禁城の黄昏」(出版年1934年)には満州及び溥儀について正確な記述がなされ、満州がシナの一部などではなかったことが明確に記述されている、と。「日本には一つの王朝しかない。従って、その国名はヨーロッパの国々と同じ様に用いるが、シナの用いる用語は王朝名であり、中国ではなく大清国である」 ヨーロッパでは領土の王という言い方、King of England、King of France、日本はEnperor 0f Japanとなる。ところがシナの場合、漢民族が支配したり、モンゴル民族が支配したり、あるいは満州族が支配したり、次々に支配民族が替わり、その度に領土も変化してきた。従ってKing of Chinaというものはいない。換言すればシナには近代的な意味での国家が存在したことがなく、あったのはシナ本部を支配した鮮卑族(隋、唐)や漢民族(宋、明)やモンゴル族(元)、満州民族(清)の王朝だけだった。だからシナの場合はすべて王朝で見なければいけない。従って満州という土地は清朝を興した満州民族の故郷であって、シナの一部ではない。しかも秦の始皇帝以前も以後も、シナの王朝が満州を実効支配した事実はない。満州民族は全部で百万人内外だったから、その数百倍の漢民族を支配するためには満州民族もシナ本部に移住しなければならなかった。その代わり満州は人口の過疎地になってしまったが、清朝は満州の地の純粋性を守るため、統治に失敗した場合にはそこに逃げ戻るため、シナ人が満州に入ることを禁ずる封禁政策をとった。
 もう一つ重要なことは、満州を指す東三省という呼称はいつできたのか。清朝にとって満州は普通の土地ではなかったから、省をつくらずに、チチハル、吉林、奉天に満州族の旗人である三人の将軍を配していた。ところが日露戦争のあと、軍政区を普通の政体に変え、シナ内地と同様な省にした。この東三省が出来たのは1907年で辛亥革命の四年前だった。従ってリットン報告書が「シナにおいてはつねに東三省と称していた」という記述は誤りだ、と渡部氏は解説する。

 リットン報告書がこうした肝心なポイントを理解していなかったことは、そこに溥儀がほとんど登場していないことからもわかる、と渡部氏。戦後、東京裁判の法廷に証人として姿を現した溥儀は、「満州国皇帝への就任は関東軍の圧迫によったものであり、在位期間中もつねに関東軍の監視下にあり、自由意志はまったくなかった」と証言しているが、それは当時彼が拘留されていたソ連の脅しによる偽証であった、と。1924年、共産系の将軍のクーデタで自分の命が危うくなると、日本の公使館に逃げ込んでいるし、その後天津の日本租界に身を寄せた。1931年天津事件が起こって危機が迫ると、今度は奉天特務機関長・土肥原大佐などに守られて旅順から奉天に向かった。溥儀の家庭教師で、紫禁城の黄昏の著者、レジナルド・ジョンストンは次のように記述する。「11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝が天津を去り、満州に向かったことを知った。シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意志に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じている者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。皇帝が満州に連れ去られる危険から逃れたいなら、英国汽船に乗り込めばよいだけである。皇帝は本人の自由意思で天津を去り、満州に向かった。その旅の道づれは忠実で献身的な臣下の鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった」 東京裁判に証拠文書として提出されたこのジョンストンの本が却下されることのなく採用されていれば、東京裁判は成り立たなかった、と渡部氏は残念がる。また、清朝が倒された時、溥儀が即座に自分は故郷に帰ると言って満州に帰ったら、シナと完全に別個の満州国が出来ていただろうとジョンストンは言う。満州国にはそれだけの正統性があった。従って日本の当時の連盟脱退もまずかった。満州が満州民族の正統の皇帝を首長に戴く独立国になっていた。従って報告自体も無用になった事を主張し、独立という既成事実を積み重ねればよかった、報告書などより千倍も万倍も重い。報告書が採択されても、連盟に留まるべきだった。拙劣な対応が、日本の悲劇に連なった、と。

 

 

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