満州事変 緒方貞子 1

2015年12月14日 | 歴史を尋ねる
 1920年代の中国大陸は、欧米列国による権益拡大競争と中国の諸軍閥間の内乱が続く状況にあった。日清・日露戦争によって既に満州に鉄道を始めとする諸権益を得ていた日本は、その一層の発展を図ることを基本的な対外政策としていた。特に関東州及び南満州にある鉄道の保護を任務としていた関東軍は、より積極的な保護と発展の機会を求める在満日本人の要求にも応え、次第に積極的な戦略論を展開するに至った。
 当時、日本政府の進路として、国際協定遵守の範囲内で大陸に発展する「幣原外交」と、軍事手段の行使と積極的な経済開発を進める「田中外交」とが競合していた。満州の治安と開発を重視する関東軍は、日本が満州の拡張に積極的に乗り出すことを希望し、中国本土からの分離政策の推進を図った。この関東軍の動向は、ひとつには在満日本人の心情を代弁するものであった。満鉄青年社員と青年実業家で構成された満州青年連盟は、中国ナショナリズムの高揚や軍閥の脅威から身を守り、権益を失わないために、日本政府に強硬な対応を求め、圧力をかけていた。

 他方、日本国内においては、不況、特に農村の疲弊は、農村出身者が多勢を占める軍内部に革新運動を引き起こした。彼らは、国内政治の改革と強硬な大陸政策の推進を求めた。民間における革新思想の高揚、若年軍人における革新陣営の拡大は、関東軍の中堅将校の思想と行動にも影響を与えるものであった。満州の状況が悪化した1931年に板垣征四郎参謀は、満州が戦略的に重要であるのみならず、国民大衆の生存にとっても貴重な役割を果たすと強調し、領土も資源も貧弱である日本にとっては、「満州を領有してはじめて日本は資源の供給地と製品の市場とを確保し、工業国としての発展を期待することが出来る」と述べている。満州の領有は、日本の無産階級にとっても重要である。この主張は、当時の関東軍の思想とも共通点が多く、関東軍の共感を得るものだった、と緒方氏。

 関東軍の軍事行動突入は、南満州鉄道で爆破事件が発生し、日本の守備隊と中国軍との戦闘が始まり、関東軍が奉天を占領したことを契機とした。(当時事変の詳細な推移は、片倉衷関東軍参謀による「満州事変機密政略日誌」で跡付けている) 関東軍が吉林、長春等南満州各地の占領を続けるが、内閣からの強い反対で北満を含む満州全域の領有計画が厳しく受け止められたことに対し、関東軍の不満は強く、陸軍大臣はなぜ政府とやり合わないのか、今や「断」の一字しか時局を収拾する方法はないと強い反発を記している。政府としてはハルピンまで拡大することを防いだものの、天津における暴動の影響を受けて、事態悪化が続き、関東軍が錦州攻略に乗出したことによって戦線が拡大すると、国際連盟では日本に対する厳しい討議が繰り返された。
 連盟理事会は、日本と中国に対し、事態の悪化を防ぐために必要なあらゆる措置を取るよう要求し、期限を設けて日本軍の撤退を求めた。それに対し、参謀総長は、天皇に拝謁して錦州に出動した部隊を奉天に引き戻すという奉勅命令を出す強硬措置に踏み切ることにした。連盟においては、正式に現地に調査団を派遣することが提案された。

 この間、関東軍は満蒙における自治体の発達を目指して、新たな指導対策の準備を開始した。関東軍は既に「満州占領地行政の研究」を作成していたが、自治体の発達を統一した原則のもとに指導し、監督するために「自治指導部」を設置し、部長には著名な政治家で長老の于冲漢の就任を図った。また、在満の日本人団体の指導者層もリーダー格で加わることになり、この「自治指導部」のもとで地方政府としての機能を整え、中国政府からの分離を宣言させるに至った。独立政府の頭首としては、既に宣統帝が待機していた。

緒方貞子の著書「満州事変 政策の形成過程」

2015年12月14日 | 歴史を尋ねる
 著者の緒方貞子氏は、1991年から2000年まで国際連合難民高等弁務官を務め、さまざまな地域紛争・民族紛争によってもたらされた難民の支援活動に心血を注いだ。緒方氏の出発点は、戦前期を対象とした日本外交史研究家であった。昭和2年生まれの著者にとって、満州事変に始まる戦争と軍部支配の時代は、物心がついて見聞きした同時代の出来事だった。更に五・一五事件で凶弾に斃れた犬養毅を曾祖父に、時の外務大臣芳沢謙吉を祖父に持つ著者にとって、満州事変の経緯を研究することは、家族が被った受難の意味を問い直す作業でもあった。

 岩波現代文庫から再出版する時解説した日本政治外交史が専門の酒井哲也東大教授は次のように語る。本書が当初出版された時、昭和30年に出版されたマルクス主義史学の立場に基づく遠山茂樹・今井清一・藤原明『昭和史』が空前のベストセラーになり、他方それは人間不在に歴史だと批判がなされ、これを機に「昭和史論争」が展開され、激しい党派対立の嵐が吹き荒れていた。しかし著者は戦後日本のイデオロギー対立から自由な環境で研究出来た。日本政治外交史を講じていた岡義武に師事したことで、実証的政治外交史の手法を身につけ、カルフォルニア大で日本政治研究の第一人者であったロバート・スラピノの助手を務め乍ら、博士論文(昭和39年)を完成・出版した。本書は英文の博士論文に加筆しながら翻訳したものである。実証的な歴史研究を行う研究スタイルは今日では一般的なものとなっているが、昭和30年代半ばの日本の学界では、少数の人々がそのような方法に基づく研究を始めたばかりだった、と云う。緒方氏の研究手法は、戦争を経験した日本人の熱い問題意識に基づきながら、戦後日本のイデオロギー的文脈から離れたアメリカ社会科学の理論装置を軸とする姿勢が、本書を息の長い書物たらしめていると、酒井氏。

 昭和41年初版出版時、緒方氏はあとがきで次のように述懐している。「未曾有の敗戦を経験して以来、日本は自己を破滅に導くような膨張政策を何故とらねばならなかったかということが、私の絶えざる疑問であった。しかし戦後の十数年間、この疑問に満足な答を与えてくれるものはなかった。いわゆる「昭和史」的な批判は、過去の指導者層を徹底的に糾弾するばかりで、その時代に生きた人々が与件として受け入れなければならなかった対内的及び対外的諸条件を無視し、かつ彼らの意図を曲解しているように思えた。「極東軍事裁判」的な解釈は、戦勝国による敗戦国の審判に過ぎず、日本の膨張を侵略的一大陰謀に起因するものという前提は、これまた到底納得出来るものではなかった。とはいえ、日本の対外政策の失敗は明白な事実であり、過去の指導者の責任も無論看過することは出来ない。本書は、このような年来の疑問に、私ながらの解答を試みたものである。ここから引き出されたいくつかの結論は、決して満足のいくものでも無ければ、また最終的なものでもなく、むしろ私にとって更に多くの疑問を産み出したのであったが、ここで読者の批判を受けることにより、自分の研究がさらに進めることが出来れば幸甚であると考え、あえて出版に踏切った次第である。」

 本ブログも昭和初期をあちこち彷徨ったが、緒方氏の著書は俯瞰的でかつ明快な見方で整理されているので、緒方氏の著書を参考に、満州事変を整理しておきたい。