備中・備前の井堰 (湛(たた)井堰、田原井堰 岡山県高梁川・吉井川流域)
中国山地に発した高梁(はし)川が吉備高原の山間部を縫いながら総社平野に差し掛かると、青い流れを横切る取水堰が現れる。この井堰は湛井堰と呼ばれる日本有数の歴史ある用水堰で、創設は800年以上前といわれている。平家物語にも出てくる妹尾兼安が奉行に命じて築造されたという。大化の改新以前、備前・備中・美作・備後はは吉備国とよばれ、出雲国や築筑紫国と並んで、政治的に、文化的にも特色ある地方を形成し、大和朝廷に拮抗する一大勢力圏であった。その後大和と吉備の交流が進み、畿内政権に取り込まれていく。吉備平野には今でも条里制地割が各地に残っている。妹尾兼安の時代には条里制も崩壊して地方武士たちが所領の新田開発や灌漑用水の確保に努めていたが、俗に「備中ひでり」といわれる寡雨地域で大規模な井堰や用水路の建設が起こるのは自然であった。平安の記録は残っていないそうだが、江戸の時代井堰の長さ234m、松丸太底枠を川底に沈めて川石を詰め、その上に上枠据えて同じく川石を積め二段構えとし、高梁川をせき止めたという。吉井川流域には田原井堰がある。こちらの創設は寛永元年(1624)頃といわれる。岡山藩主池田忠雄の治世で、用水路が開削され、その後改修・延長工事を行い、元禄の改修は多量の巨石を投入し、その規模ダンプトラック4万台に匹敵する岩石の規模であったという。吉井川中流に据えられた斜め構造の洗い堰は完成し、以来、用水路は豊かな水を供給し続けた。
筑紫二郎を汲み揚げる (朝倉重連水車・山田井堰 福岡県朝倉町)
九州の大河、筑後川中流右岸沿いの朝倉町、甘木市にわたる水田地帯に、豊かな水をたたえる灌漑用水路、堀川が流れている。筑後川の山田井堰から取水した用水は700ヘクタールの水田を潤しており、堀川に揚水用の水車が3ヶ所、しかもそれぞれが二連、三連の重連構造で水を汲み上げている。流れを堰き止めた用水が羽根板にあたり水車を廻して、車の端に取り付けた柄杓が水を汲み揚げ、水路伝いにそれぞれの水田を潤している。記録によれば朝倉の水車は宝暦の頃(1760からあったが、三連水車は寛政元年(1789)に改修され、大正15年、電動用水機の導入時まで続いた。一時水車による水流の阻害が懸念されたが、昭和47年堀川水車群として県の民俗文化財の指定を受けた。山田井堰と堀川に深く関わった人物として古賀百工が、今でも郷土の恩人として仰がれている。朝倉町の庄屋の家に生まれ、水害に苦しむ農民に心を痛め、治水・利水事業に生涯を捧げた。切貫水門や堀川の拡張と水路の延長、井堰の嵩上げを指導して、73歳の時黒田藩の藩命により山田井堰の大改修に着手、成功させた。それまでの150町歩の水田が487町歩になり、その後畑地の耕地整理事業で昭和には700ヘクタールの水田となった。蛇足であるが、山田井堰の傍に御稜山と呼ぶ小高い山がそびえている。日本書紀に、斉明天皇の7年、朝鮮半島で唐・新羅連合軍の侵攻を受けた百済救援のため、朝倉町内に「朝倉橘廣庭宮」といわれた皇居と大本営を遷し、出兵の準備を進めた。だがこの地で斉明天皇が崩じ、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)はなきがらを御稜山に仮埋葬した。喪が明けて本営を今の福岡市に移し、兵を朝鮮に送ったが白村江の戦いで唐の水軍に大敗した。