大地に刻んできた歴史 6

2012年10月30日 | 歴史を尋ねる

 備中・備前の井堰   (湛(たた)井堰、田原井堰   岡山県高梁川・吉井川流域)

 中国山地に発した高梁(はし)川が吉備高原の山間部を縫いながら総社平野に差し掛かると、青い流れを横切る取水堰が現れる。この井堰は湛井堰と呼ばれる日本有数の歴史ある用水堰で、創設は800年以上前といわれている。平家物語にも出てくる妹尾兼安が奉行に命じて築造されたという。大化の改新以前、備前・備中・美作・備後はは吉備国とよばれ、出雲国や築筑紫国と並んで、政治的に、文化的にも特色ある地方を形成し、大和朝廷に拮抗する一大勢力圏であった。その後大和と吉備の交流が進み、畿内政権に取り込まれていく。吉備平野には今でも条里制地割が各地に残っている。妹尾兼安の時代には条里制も崩壊して地方武士たちが所領の新田開発や灌漑用水の確保に努めていたが、俗に「備中ひでり」といわれる寡雨地域で大規模な井堰や用水路の建設が起こるのは自然であった。平安の記録は残っていないそうだが、江戸の時代井堰の長さ234m、松丸太底枠を川底に沈めて川石を詰め、その上に上枠据えて同じく川石を積め二段構えとし、高梁川をせき止めたという。吉井川流域には田原井堰がある。こちらの創設は寛永元年(1624)頃といわれる。岡山藩主池田忠雄の治世で、用水路が開削され、その後改修・延長工事を行い、元禄の改修は多量の巨石を投入し、その規模ダンプトラック4万台に匹敵する岩石の規模であったという。吉井川中流に据えられた斜め構造の洗い堰は完成し、以来、用水路は豊かな水を供給し続けた。

 筑紫二郎を汲み揚げる   (朝倉重連水車・山田井堰    福岡県朝倉町)

 九州の大河、筑後川中流右岸沿いの朝倉町、甘木市にわたる水田地帯に、豊かな水をたたえる灌漑用水路、堀川が流れている。筑後川の山田井堰から取水した用水は700ヘクタールの水田を潤しており、堀川に揚水用の水車が3ヶ所、しかもそれぞれが二連、三連の重連構造で水を汲み上げている。流れを堰き止めた用水が羽根板にあたり水車を廻して、車の端に取り付けた柄杓が水を汲み揚げ、水路伝いにそれぞれの水田を潤している。記録によれば朝倉の水車は宝暦の頃(1760からあったが、三連水車は寛政元年(1789)に改修され、大正15年、電動用水機の導入時まで続いた。一時水車による水流の阻害が懸念されたが、昭和47年堀川水車群として県の民俗文化財の指定を受けた。山田井堰と堀川に深く関わった人物として古賀百工が、今でも郷土の恩人として仰がれている。朝倉町の庄屋の家に生まれ、水害に苦しむ農民に心を痛め、治水・利水事業に生涯を捧げた。切貫水門や堀川の拡張と水路の延長、井堰の嵩上げを指導して、73歳の時黒田藩の藩命により山田井堰の大改修に着手、成功させた。それまでの150町歩の水田が487町歩になり、その後畑地の耕地整理事業で昭和には700ヘクタールの水田となった。蛇足であるが、山田井堰の傍に御稜山と呼ぶ小高い山がそびえている。日本書紀に、斉明天皇の7年、朝鮮半島で唐・新羅連合軍の侵攻を受けた百済救援のため、朝倉町内に「朝倉橘廣庭宮」といわれた皇居と大本営を遷し、出兵の準備を進めた。だがこの地で斉明天皇が崩じ、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)はなきがらを御稜山に仮埋葬した。喪が明けて本営を今の福岡市に移し、兵を朝鮮に送ったが白村江の戦いで唐の水軍に大敗した。


大地に刻んできた歴史 5

2012年10月17日 | 歴史を尋ねる

 平成の大改修で蘇る日本最古の溜池  (狭山池  大阪狭山市)

 狭山池は「記紀」に記録されたダム型の溜池で、その古い由緒から大阪府指定の史跡・名勝となっている。『日本書紀』崇神天皇の時代の詔に、「・・・農(なりはい)は天下(あめのした)の大きなる本(もと)なり。民(おおみたから)の恃(たの)みて生くる所なり。今、河内の狭山の植田(はにた)水少なし。其れ多(さは)に池溝(うなね)を開(ほ)りて、民の業(なりはい)を寛(ひろ)めよ・・・」とのたまふ。河内狭山に多くの池を開くことを命じたこの詔には、狭山池の固有名詞はないが、この中に含まれていると研究者はいっている。平成の大改修と併せて文化財調査を行なった結果、狭山池の改修が数多く行なわれ、鎌倉期に東大寺の僧、重源(ちょうげん)の改修や豊臣秀頼の改修なども判明した。最も重要な成果は狭山池の成立年代の特定で、年輪年代測定法で、使われた木材は西暦616年に伐られたものであることが判明した。ここは、7世紀初めの推古天皇の時代で、ヤマト王権が大和、河内、山背を中心に国家的大開発を推進し、経済的な基盤を拡大していた時代でもあった。当時の開発推進者は蘇我氏で、蘇我氏と渡来系氏族との関係は密接で、彼らの技術で池溝の開発が行なわれたという。当初堤防を築く際に、木の葉や枝を敷き詰める「敷葉工法」が行なわれたことが明らかになった。これは中国の後漢時代、韓国の築堤にも使われており、渡来人の関与がうかがわれるということだ。近年出来上がった狭山池博物館は土地開発史専門の資料館で、東アジア的視野での土地開発の資料が集められ、更に狭山池創設時の古代土木技術が解る堤体断面の展示も行なわれているようだ。

 紀州流開祖の遺構  (藤崎井用水、小田井用水  和歌山県紀ノ川右岸流域)

 東西に伸びる紀ノ川右岸一帯は、古くは大和より四国に渡る重要な通路として、更に京都、難波など畿内中央との交流があり、各地に条里制の遺構や、国分寺跡、根来(ねごろ)寺などの歴史的遺産が多い。元和5年(1619)、家康の十男徳川頼宣(よりのぶ)が紀州55万石の藩主となり、以後紀州徳川家は御三家として重きをなした。頼宣は領内の殖産興業を進める中で水田開発にも意を用いて溜池の築造を進めたが、豊かな水量の紀ノ川を水源とする河岸段丘の開発は、その後、天才的な地方(じかた)巧者(在方にあって農政、勧農、土木水利などに通じた有能な人物の呼称)、大畑才蔵勝善によって実現した。才蔵は代々庄屋を務める村役人の家柄に生まれた。若くして地方の農政と勧農にすぐれた手腕を発揮し、今でも才蔵の綿密な水利土木計画の施行跡が紀北地方の各地に見られる。紀ノ川を水源とする用水路は、藤崎井、小田井を開削し、紀ノ川流域に水田が開けた。数々の用水開削に当って、才蔵は数理知識を駆使した水利土木の技術を研究し、水路勾配の精密測量に威力を発揮した。更に調査・測量に基づいて施行を行うが、彼の工法は、工区割りにして、工区毎の資材、必要人数にはじまって、一人が一日に運ぶ土量や運搬距離、堀溝や築堤の労力を算出し、工区単位の一斉着工による工期短縮を実現している。才蔵が引退した翌年、紀州五代藩主徳川吉宗が将軍になり、江戸に赴任する。その後享保の改革を行い、幕府財政立て直しの一環として積極的に水田開発を進めた。水利技術に長じた井沢弥惣兵衛為永(才蔵の技術を吸収した)を召し出して、先に触れた関東を中心に各地の水利開発を行い、才蔵さながらの技法が活かされた。こうして紀州流土木技術は関東に扶植され、全国に広まった。