日本海軍の太平洋戦争総括

2019年07月30日 | 歴史を尋ねる
 太平洋戦争に臨んだ日本海軍の軌跡を相当追いかけた。当事者意識の薄い指導部に随分もやもやな思いをさせられたが、戦後大分たって、第11代海上幕僚長中村悌次は海上自衛隊内で講演を行っている。そして海軍の反省を行っている。これをもって日本海軍の功罪の纏めとしたい。

 中村の経歴を振り返ると、1980年代以降の海上自衛隊とアメリカ海軍の緊密な関係を作り上げた海上自衛隊中興の祖の一人と言われている。1939年(昭和14年)海軍兵学校第67期を首席で卒業。重巡洋艦「高雄」乗組みを経て駆逐艦「夕立」に水雷長として乗組む。スラバヤ沖海戦では水雷長として魚雷発射の指揮をとり敵艦に向け魚雷を8本発射するが、発射した魚雷のうち半分が目の前で自爆し、敵艦には1発も当たらず悔しい思いをしている。その後の第三次ソロモン海戦では、敵艦に少なくとも2本の魚雷を命中させている。しかし、自身も艦橋に命中した敵弾の弾片を受け負傷し、「夕立」も沈没する。その後、戦艦「長門」分隊長、兵学校教官として勤務したのち、本土決戦に備えて結成された横須賀鎮守府第一特攻戦隊第十八突撃隊特攻長として千葉県で終戦を迎えた。
 戦後、幹部学校に入校、学校教官等を経て1960年(昭和35年)7月から1年間、アメリカ海軍大学校に留学した。帰国後の勤務でも「カミソリ中村」と評されたその頭脳をフル回転させて、水上艦艇のコンピューター化や「プログラム業務隊(現・艦艇開発隊)」新編などの「ハイテク海上自衛隊」の基礎を築き、海上幕僚監部防衛部長、護衛艦隊司令官、呉地方総監等を務め、1974年(昭和49年)7月、自衛艦隊司令官に就任。1976年(昭和51年)3月16日:第11代 海上幕僚長に就任。(昭和52年)9月1日:退官。退官後は財団法人水交会第10代会長を務める。

 海軍として反省すべき教訓 1、戦術面さらに狭い術科面に集中し、戦略的発想、特に国家戦略という着意がほとんどなかったこと。当時海軍大学校校長であった及川古志郎大将は、昭和18年高山岩男京都大学教授に対し、日本が海洋大国の米英両国を敵に回すようになった主因の一つは、「我が陸海軍が軍人を教育する場合、専ら戦闘技術の習練と研究に努力したことであった」と述懐し、戦争の基本というべき戦争哲学を「戦理学」と名付け、その研究を依頼した。同教授は後年、海軍はバトルを研究したが、ウォーは研究しなかったと述べている。開戦時軍令部参謀であった佐薙毅大佐(後航空幕僚長)は、「我が海軍の多年の対米作戦計画は、米艦隊の早期に渡洋来攻することを対象とし、漸減邀撃艦隊決戦主義に凝り固まり、人的物的軍備及び訓練その他万般に亘ってこれに偏重し、その他のことを疎かにしていた。これに対し米海軍否米国は、国家戦略として、日本が無資源の海洋国である最大弱点を衝くため、封鎖―海上交通破壊ーによって生命線を断つこと、及び航空攻撃によって我が戦力、国力を完膚なきまでに粉砕することを大戦略にしていた。このような大誤算は、ロンドン条約以後対米艦船比率に拘泥しすぎ、万事が戦術的事項に偏重し、広い視野に立った、戦略的判断、思考、計画を疎かにした結果に他ならない」と、回想している。さらに進んで、本当に対米戦は不可避なのか、陸軍はソ連、海軍は米国をそれぞれ仮想敵国として、両者に備えるのが果たして適当か、日本はその負担に耐えられるのか、それが無理であればどうすればよいのかなどの、国家戦略の基本を研究することはなかった、と。
不思議なのは、日本が戦争に追い込まれた米国による経済制裁なども少しも研究した形跡がない。アメリカに突きつけられて飛び上がった。自らの弱点は見たくなかった、としか思えない。ただ、これは軍部だけでもなさそうだ。日本政府自身、日本国民もそうだったかもしれない。

 中村氏はもう少し掘り下げている。対米不戦の国家方針が示されないかぎり、有事に備えるのが、責任当局の責務である。金もなく、国力も不足し、必要とする物資の大半を米国に仰ぐ日本が、その米国を相手にして、どこから物資を入手するのか、備蓄資材の尽きない間の短期決戦が望ましいが、敵艦隊の来攻する時期も方法も総て主導権は相手にあり、短期決戦を強いる手段は何もない。決戦に勝つ決め手はなく、仮に勝ったとしてもその後どうなるのか、それで戦争が終わる保証は全くない。戦争を終わらせるのは相手の戦意の阻喪を待つほかはないが、それを促す自主的な手段はない。このような解き得ない難問に直面したことが、日本海軍の思考を戦争より、戦略に、戦略より戦術に限定し、戦闘あるを知って戦争あるを知らない体質を育成する一因にもなったように思える。加藤友三郎のような優れた洞察力と決断力を持った人物が、その後海軍になかったわけではないが、必要なとき、必要な職務に配されなかったのは、海軍だけでなく、日本にとっての不幸であった、と中村氏は振り返る。

 なぜ海軍が戦争を阻止できなかったかを見てみたい、と正面から中村氏は論考する。開戦を決定した時の海軍大臣は嶋田繁太郎大将であるが、彼は戦後次のように回想している。「海軍大臣に就任してまだ十日ばかりしか経たない身として研究十分であったとは言われないが、*案がここまで出来上がるまでには、下の方から上まで十分に検討され尽くされたものに相違ない。*累次の連絡会議に臨んで軍令部総長や陸軍側の説明を聞いて見ると状況誠にやむを得ないようだ。*あのご聡明な伏見宮殿下でさえ既に諦めて居られるように拝する。*ここに私が反対して海軍大臣を辞めれば内閣は潰れるであろう。そして適当な後継者を得ることが極めて困難で、この逼迫した時期に国家として洵に大きな損失だ。また大臣就任の際の伏見宮殿下の思召しにも反することになり、恐懼に耐えない。いろいろ考えてようやく決心がつき会議に臨んだ次第だ」この回想を見て諸君はどんな感想を持つか、そして自分がその立場にあったらどうであろうか、状況中の人になって真剣に考えて貰いたい、と中村氏は後輩に設問を投げかける。当ブログでもすでに海軍大臣嶋田繁太郎の欄で取り上げている。中村氏はこう考えた。「私は国家の大事に臨む責任者として、自分の信念がなく、発想が官僚的で、枝葉末節に囚われ、国家存立の大局から、情勢を冷静に判断し、論理的に結論を求める態度に欠けているのではないか、と思う。16年11月30日、高松宮の進言により、天皇陛下が不安を抱かれ、永野軍令部総長と嶋田海軍大臣を召されて御下問があり際、「物も人も共に十分の準備を整え・・・」と奉答。ドイツが戦争をやめるとどうなるのか、とお尋ねに対し、たとえドイツが手を引いても差し支えないと答え、長官以下将兵の士気旺盛なことを申上げて、ご安心の様子に拝した、と回想している。開戦を直前に控え、今更戦争に不安があると奉答できる時期でも立場でもないが、ひたすらご心配を掛けないよう糊塗するだけでなく、戦争の困難性と早期収拾の必要性についても、ご認識を頂くことが、本当に忠実である所以ではなかったか。
 彼の前任者であった及川古志郎大将は、その在任中逐次悪化する情勢に直面し、開戦を回避することに努力した。しかし三国同盟にも南部仏印進駐にも賛成し、近衛内閣最後の会議に、避戦を明言せず、総理に一任した。これらはいずれも、陸軍との正面衝突を避けた為であった。山本五十六次官が、遺書を書いて、あくまで三国同盟反対の所信を貫いたことと比較して、どちらが国の大事に任じる責任者の執るべき態度か、言うまでもないだろう、と。

 中村氏はこの点に触れていないが、対米戦争は海軍の戦いだった。この点について、及川古志郎大将、嶋田繁太郎大将、永野修身大将らはどの程度真正面から理解していたのか。そうでなければ、陸軍に引きずられる態度がどうしても理解できない。陸海軍共同で戦うと考えていたのではないか。対米戦争の本質について、海軍指導層の間で、共通の認識が出来ていなかったのではないか。ニミッツも海軍の戦いだったと言っている。

 反省すべき重要な教訓 2、目的意識が薄かったこと。秋山真之が海軍大学校の教官をしていた時の講義で、「およそ戦争において軍の直接の目的とするところは、敵を屈するにある、この目的を達っせんがために取る手段は多々ある、敵の兵力の殲滅、敵の要地を占領、敵の兵資を掠奪、敵の交通を遮断する如き、何れも遂に我に屈服するを得るためである」と。しかし、このような考え方は忘れ去られ、海軍にいた頃は、典範類も教育訓練も一言も触れたものはなかった。バトルあってウォー知らず、邀撃艦隊決戦一本鎗の海軍の体質、極めて単純化された戦術、術科レベル以下の雰囲気では、このような考え方は重視されなくなったためだろうか。海戦要務令でも、意思の疎通、上司の意図の明示、協同、任務は重視されたが、その中核となるべき目標系列を通じて任務を指向するという発想はなかった。その結果ともいえようか、大東亜戦争の多くの海戦において、目的観念の不在、目標の不一致などが、作戦失敗の大きな原因となっている。その好例が、ミッドウェー海戦である。山本長官の目的は敵空母部隊の早期撃滅にあり、これをおびき出す手段としてミッドウェーの攻略を企図したが、大海令ではミッドウェー攻略を目的とし、南雲部隊では、主目的は敵艦隊の撃滅であることを連合艦隊司令部から再三強調されたにも関わらず、ミッドウェーの占領に囚われて、戦機を逃し、惨敗を喫した。また、第一次ソロモン海戦において、三川艦隊が警戒の敵水上艦を撃滅したにも関わらず、上陸船団には一指も触れず引き揚げたのも、レイテ海戦において、栗田部隊がレイテの湾口に近づきながら、幻の敵機動部隊を求めて反転したのも、目的を外した例である。

 次に伝えておきたい教訓 3、情報の重視と論理的思考である。海軍では情報が重視されず、そのため多くの面で失敗した。中央では軍令部第三部が情報担当であり、その中に、米国、中国、露・独・仏等の欧州諸国、英国と英連邦と4つの課があり、優秀な人たちが情報の収集、分析、評価を行い、立派な業績を上げていた。問題はその活用にあった。作戦計画を所掌する第一部は、第三部の情報に基づいて計画を考えるのではなく、独自の見解によって計画を作っていた。部隊には情報を担当する幕僚は居らず、通信参謀が情報資料を整理するのが精一杯であった。連合艦隊に情報参謀が設けられたのも、昭和19年になってからで、情報の入手に十分の配慮がされず、偵察、索敵、哨戒などが不十分で、ミッドウェー海戦で敵空母の発見が遅れ、或いはトラックを奇襲されるなどの失敗を招いた。
 情報軽視とも関連するが、戦果確認が不十分で、その後の作戦に多くの影響を与え、また正式発表に対する信頼を失わせることになった。台湾沖の航空戦がもっともよい例であるが、確認が困難で、錯誤の多い夜間航空攻撃の成果を、現場の報告を鵜呑みし、翌日の偵察等で確認をとらず、裏付けを求めた米海軍と比較して、日本海軍の甘さが顕著だった。

 次に申上げたい教訓 4、教訓の蓄積と活用である。米海軍は真珠湾攻撃直後空母中心に兵力整備を転換した。また第一次ソロモン海戦後、巡洋艦・駆逐艦の戦術を検討し、訓練を励行するなど、教訓の活用は見事で、迅速だった。それと比較して、日本海軍の教訓の調査、整理、活用の態勢は誠にお粗末で、ミッドウェー海戦後、戦訓の調査も研究会も実施されず、組織的に教訓を学び海軍全般で活用する発想がなかった。
 兵術的研究調査に任ずべき海軍大学校は解散同様で配員がなく、各術科学校も、術科面からの戦訓を、調査研究する配員もなかった。

 次に申し残したいこと 5、驕り症候群である。人間はとかくうまくいくと思い上がり、まずい時は落ち込む傾向があるが、日本人はその幅が大きいのではないか。真珠湾攻撃の成功によって、国家総動員態勢のスタートが遅れたのはその一例である。アメリカにいた駐在武官が日本に引き揚げてきて、米海軍省が非常勤務態勢に比べ、我が海軍省も軍令部も、定時出勤、定時退庁、平時そのままの執務状況に驚いたこと、イギリスにいた武官が、首脳部にイギリスを風前の灯火と見ているのは間違いであるとして、経済力・精神力・戦争指導等の実例を挙げて報告した際、多くは居眠りをしていて反応がなかったことなどから、その一端が窺われる。 実行部隊の方も、真珠湾攻撃前の虎の尾を踏むような慎重さと、今度はミッドウェー攻略前の油断の差は顕著であった。この時は兵力も錬度も遥かに敵に優っていた。暗号が解読されて、手の内を全部読まれていたが、まともに戦闘すれば決して負けることはあり得ない筈であった。その敗因のうち、
* 敵機動部隊が待ち受けていることなど全く考えなかった(潜水艦による哨戒線配備の遅れ)(杜撰な捜索計画とその形式的実施、敵空母存在の通信情報の不通達)(敵艦隊攻撃のため控えていた航空機の陸上攻撃への転換)
* 敵空母の存在を知ってからの緩慢な処置、などは、まさに驕りが招いた事態であった。

 次に、6、攻撃と防御の考え方に触れる。海戦要務令で「戦闘の要旨は攻勢を取り、速やかに敵を撃滅するにあり」と定められ、攻撃を最良の防御とし、先制と奇襲を金科玉条とする考えは、海軍に深く浸透し、作戦計画にも教育計画にもすべて適用されていた。攻撃重視の思想は、創設以来劣勢兵力を以て国防にあたる宿命に置かれた日本海軍としては、必然ではあったが、それが行き過ぎて防御軽視、さらに防御無視にまで至ると、多くの問題が生じる。防御軽視の顕著な例としては、毎上交通保護、沿岸及び港湾防備、防空、対潜、対機雷などに対する、中央当局や艦隊中枢部の無理解で冷淡な態度、或いは艦艇、航空機の装備の偏向などが挙げられる。レーダー開発の進言に対し、消極的な防御兵器は帝国海軍には不要であるとして、却下した軍令部の狭い硬直した見解、零戦や中攻には、搭乗員や燃料に対する防弾装置を欠き、ワンショットライターと言われて、多くの犠牲を出したこと、艦艇応急に対する関心と熱意に欠いたことなどはよく知られている。

 次に、7、年功序列の人事と信賞必罰を欠いたこと。(省略)

 次に、思想の統一と柔軟性について。(省略)

 次に、同じ柳の下に泥鰌はいないという戒め。(省略)

 最後に最も重要なことの一つ、日本海軍にはロジスティクスという観念がなかったこと。
 燃料や食料の補給、艦船や装備の補修、航空機や部品の生産整備、施設整備、輸送などは極めて重視され、個々の組織もよく整えられ、立派な人材も配されたが、それらを総合して作戦を支援するという考え方はなく、ロジスティクスが作戦の成り立つ前提であり、その成否を支配するということに考えが及ばなかった。基地航空部隊の作戦にしても、基地の獲得整備は考えても、その後如何にして基地機能を維持し、作戦を継続発展させるのかの発想(基地防空、部品や燃料弾薬の補給備蓄、施設の修理復旧、搭乗員の休養交代等)が不十分であった。つまり海軍は航空作戦の総合的検討が十分であったとは言えなかった。これを重視しなかったことは、自らの作戦に支障をきたすだけでなく、敵のロジスティクスを攻撃する発想を欠き、大きな不利を招いた。ハワイの第二撃問題、潜水艦の用法、敵輸送部隊の攻撃や後方施設の破壊の軽視、などはその例である。
 もし海軍が真剣にロジスティクスに取り組み、さらに国家のロジスティクスを考えたとしたら、果たして開戦に踏み切ることができたであろうか。

謬(あやま)られた御前会議の真相 豊田副武

2019年07月20日 | 歴史を尋ねる
 当ブログ「最高戦争指導会議と軍令部総長豊田副武」に触発されて、あの戦争は何だったのか、海軍指導部はどう動いたのか、それがわからないと豊田副武を結果論から批判しても建設的でないと考え、一年近く、あちこちを渉猟した。そして文藝春秋社が昭和25年本人に証言させているので、これも参考にしながら、豊田がどうして最高戦争指導会議で戦争継続的(ポツダム宣言無条件受諾反対)な主張をしたのか、整理して、当時の軍部の実態をクリアにしておきたい。

 「私が連合艦隊司令長官から軍令部総長に転じたのは昭和20年5月29日のことであった。(ということは戦艦大和がニミッツ流のいい方では水上特攻に出撃してあえなく沈没した後で、沖縄戦も最終局面を迎えている頃だ)前任者及川古志郎大将との間には、密接に連絡を取り合っていたので詳細な事務引継ぎはなかった。この時、戦争終結の話が出た。それは最高戦争指導会議の構成員だけで極秘に話し合っていたことで、要するに外務省で広田氏を介して駐日ソ連大使のマリク氏に連絡し、日ソ国交調整にためという名目で、特派大使をモスクワに送るというものであるが、真意はソ連に終戦の仲介を依頼するということだった。しかしその当時は広田・マリク両者の連絡がうまくいかずサッパリはかどらないとということだった。
 6月6日に最高戦争指導会議が開催せられ、構成員として鈴木首相、米内海相、東郷外相、梅津参謀総長、阿南陸相と私の6人、ほかに豊田貞次郎軍需相、石黒農商相、迫水内閣書記官長、秋水調査局長官及び陸海軍両軍務局長とこれだけ集まって、戦争遂行を如何にすべきかという問題を審議した。
 しかしこんなに多勢が集まっていろいろ話合うということになると、腹の中に持っている不安とか疑念とかいうものを露骨に口に出して言う人は一人もいない。結局最後に話をまとめて文章に綴ってみると、不可能を可能にして戦争を遂行しなければならん、国民の士気を大いに振興して一億挙って聖戦完遂に邁進するを要する、しからば必ず有終の勝利を得ることができるといった非常に強いものになってしまって弱音は一つも出ていない。その日一日中かかって審議したが、結局は右の如く決して当時の客観的情勢を如実に反映しているものとは言えず、結論も実現の可能あるものとも考えられず極めて形式的なものにすぎなかった。もちろん、この有様ではとても戦争継続は出来ないから、何とか終戦のことを考えなくてはならぬというようなことは、誰一人としておくびも出さなかった」と豊田副武。

 ふーむ、指導会議の当時の雰囲気はこの証言で分かるが、豊田も会議の評論家となっているのがわかる。海相、軍令部総長、陸相、参謀総長はまさにこの会議の当事者である。そして海軍は、当時の戦況を一番わかっているものである。会議の趣旨が終戦に関わる会議だとわかっているならば、海軍から見た戦況、陸軍から見た戦況を遡上に乗せるのが、責任者の責務だと思うが、少しもそんな気配は、この証言からは伺えない。現状を直視できない上官は、この戦闘中、よく出て来た。そして損害を小さく発表、この心理状態と相通ずる。

 「6月22日に突然、陛下が最高戦争指導会議の6人を宮中にお召しになって、御前会議というよりは、むしろ御諮問があった。最初に陛下からお言葉があって、戦争はだんだん長引いて行く状態にあり、今後とも軍部は勿論のこと国民全般この戦争目的の完遂に努力することは当然のことであるが、それかといって戦争終結ということを全然考えずに荏苒日を延ばして行くのも考えものではないか、政府も統帥部も終戦のことを考えたことはあるかという御諮問である。
 この御下問に対して首相より、実はよりより我々六名の間で思召しのような趣旨を体して審議を致しておりますから、その経過を海軍大臣から言上するのが宜しいと思いますと申し上げた。ところが米内海相は、この終戦工作の問題はもっぱら外交に関することなので、外務大臣が責任を持って処理しておりますから東郷外務大臣から言上した方が適当だと申し上げた。外相からは経過と現状を申上げ、結論としては、折角マリク大使に連絡してやっておりますから、今後もこの線でやっていきたいと申上げた。すると、陛下から、それではいつ頃大使を送るようなことになるのか、見通しはどうかという御下問があり、これに対し外相は、出来ればソヴィエト首脳部がポツダムへ出発する前にしたい、7月上旬には話を決めて特派大使を送りたいと思う、と奉答した。
 次いで、陛下から書く構成員に一々御指名があって、皆それぞれお答えしたが、米内海相は外務大臣の言上した点に全く同意で、その線で話を進めるのが適当であります、ということだった。阿南陸相は、戦局を収拾することには異議はないが、功を急ぎ過ぎて我が方の弱みを暴露してはなりません、慎重に考慮を廻らす必要があると思いますと奉答、結局、無条件に戦争終結には賛成し難いという風に受け取れた。続いて梅津参謀総長は陸軍大臣とほぼ同趣旨を言上、最後に私は御指名にはならず、他に意見のある者はないかといわれたが、私は海軍大臣と同じ意見であって特に申上げることもないので黙っていた。陛下は、それでは予定の方針で交渉を進めるようにとのお言葉で、それに対して鈴木首相から、思召しを体して十分努力いたしますという奉答があって、会議は終わった」と。

 ふーむ、ソヴィエトとの交渉がうまくいっていないのに、誰も口にしない、外相もその辺の事情について説明もしない、ということは責任を持って交渉ができるということか。そして多勢だから率直な意見交換ができないと前回会議で感想を述べた豊田副武はまるで発言がない。陛下が終戦終結についてわざわざ率直な意見交換の場を作ったのに、儀礼的な奉答しかしていない。

 「陛下はちゃんと、7月上旬までに特派大使を送りたいという外相の奉答を覚えてお出でになって、その期限の切れる今日の十日に首相を御召しになって、その後例の件について音沙汰はないが見通しはどうか、早速送るようにしたらどうかと言われる。しかし早急に送るといっても、まだソ連との話合いも出来ておらず、また人選も決まっていない。よしんばすぐ行くとしても、こっちの飛行機でモスクワまでとんでいくわけにも行かない。まずはソ満国境まで送ってそれから先は向うの飛行機を頼むというような事務的の手続きも必要であるし、とても今直ぐにというわけにはいかないということになった。」

 ひどい不作為だな、それぞれが自分のことしか考えていない。これだけ戦争の被害が広がっているのに。東郷外相も頭が固い。たしか佐藤駐ソ大使から意見具申があっているにも関わらず。

 「正式にポツダム宣言を議題にして対策を講じたのは翌28日の最高戦争指導会議であって、当時の模様は、戦後出たいろいろの記録を見ると、軍部が強いて首相に宣言黙殺ということにさせたようになっているが、その席では誰もポツダム宣言受諾すべしと口に出したり、出さないまでも気配に見せたりしたものはなかった。問題にはならんじゃないかという大体の空気であった。しかし、この宣言は国民にとってやはり相当大きなショックであるから、政府としては確乎とした意思表示が必要であるという結論になった。すると迫水書記官長が、ちょうど今日、前からの予定で首相が記者団と会見することになっているから、その席上で記者団からポツダム宣言を一体どうするのかという質問をして貰って、それに対する政府の所信を述べて、結局黙殺することにしようということになった。それで翌日の新聞にそれが掲載されたわけである。この結果、黙殺という言葉がサイレント・キルドと直訳され、ソ連参戦の因となったことは周知の通りである」

 この会議も、豊田の説明する内容だと、不思議な会議である。この重大な決断の時期に、先送りの判断。陛下から戦争終結について考えているかと質問されたら、首相は思召しのような趣旨を体して審議している、思召しを体して十分努力いたしますと、首相は構成員を代表して奉答している。なのに、ポツダムから具体的な宣言が発進されると、黙殺する。ということは、具体的な戦争終結のあり方を検討していない、詰めていないことが露呈したということだ。軍部も今の戦況を直視できていない、まだ未練があるといった心理状態か。ものの本によると、鈴木首相、東郷外相、米内海相は秘密裏に終息への方策を模索していた、とあるが、ここまでの具体的な条件迄、詰めていなかったのか、アメリカのトルーマン大統領はこれを最後通牒と見做していた。返事がなければ、引き続きの空襲に加え、原爆の使用、ソ連の参戦もやむを得ない、と。そして、8月9日早朝、急に最高戦争指導会議構成員6人の召集があり、ポツダム宣言受諾の可否を審議した。

 「とにかく三日前には広島の原爆のニュースがあり、そしてその朝にはソヴィエトの参戦という訳で、皆非常にメンタル・ショックを受けている際だったので、ちょっとおいそれと口を出す者もなく、数分間重苦しい沈黙が続いた。そのうちに米内海相から、黙っていても仕様がない、ポツダム宣言受諾となれば、ただ無条件で鵜呑みにしてしまうのか、それとも何かこっちから希望条件を提示するかいずれになるだろうが、もし希望条件を付するとなれば、審議対象はこんなところではあるまいかといって示したのが、第一に国体の護持、以下ポツダム宣言の中にある主要事項で、戦争犯罪人の処罰、武装解除の方法、占領軍の進駐問題である、これをどうするかという提案があった。これに対して東郷外務大臣は、この際ポツダム宣言受諾ということになれば、国体の護持は別としても、それ以外の条件を付けることは交渉の円満な進捗に非常に妨害となるからやめた方がよいという意見であり、米内海相も大体同じ意向であった」

 第一の国体護持については満場一致で取り上げることに決定。第二の戦争犯罪人の処罰は、相手側だけで裁判するような不公正なことにならない様日本の立場を擁護するような主張をすべきと梅津参謀総長。第三の武装解除の問題は、これまで日本の軍隊はこれまで降伏を許されていない、命令は無視され交戦状態となる公算がきわめて大きいから、各戦線局地で協定をして武装解除する手順を申入れすべき、と梅津参謀総長、阿南陸相、豊田軍令部総長。第四の占領軍の進駐は、出来るだけ小範囲小兵力に制限する様向うに了解を求めると、梅津参謀総長、阿南陸相。この条件面で一致点がでず、一時中断して、陛下のご聖断を仰ぐことになった。
 「夜十一時半頃になって突然、御前で最高戦争指導会議を開くといって来て、夜中に会議が開かれ、翌日の午前二時半まで続いた。この御前会議には、先刻の六名の他に、平沼枢密院議長、迫水内閣書記官長、池田内閣調査局長官、陸海軍省軍務局長が参列し、また蓮沼侍従武官長が陪席した。そこで首相から、その日の朝の構成員が参集してポツダム宣言受諾の可否を検討したが、遂に全員の意見が一致するに至らず、これ以上時日を遷延するようなことになっても大変なので、はなはだ恐懼に堪えぬがご聖断を仰ぎたいという意味の言上があり、議案として甲案(四つの条件付与)と乙案(国体議事だけの付与)の二つが出された。」「これで発言が終わったので陛下から自分としてはこれ以上戦争を続けて無辜の国民に苦悩を与えることはどうしても忍び得ないからポツダム宣言受諾もやむを得ないと考える、その条件としては国体問題だけを条件にした乙案をとると、結論的なご聖断がくだったのである。なおそれに付け加えて、最後まで本土決戦とか戦争継続とかいうけれども、戦備は一体出来上がっているのかとの御詰問があって、陸軍の九十九里浜の新配備兵団の装備が、六月頃には完成するという話だったが一つも出来ていないじゃないかという強いお叱りもあった。ご聖断に対しては何人も奉答する者なく。御前会議は翌十日午前二時半終了して、諸事ただ聖旨を奉じて取り運ぶことになった」
 「ここで終戦前後の軍令部内の空気というか、状況を述べると、私が五月に軍令部に行ってから間もなく、米内海相から私に、これで終戦に導いて軍令部の者は騒がずに済むかという質問を受けた。そのそも私が軍令部に転じたのは別に作戦上の必要があってのこととは考えられない。私は自分で、米内海相が考えるところがあって、終戦工作の相棒として私を引っ張ったのだろうと解釈していたから、為すべきことは何であるか良く判っていたので、この質問には即座に、責任を持って引き受けると確約したのである」「たまたま私の耳に入って来たのは、米内海相がもっぱら終戦工作をやっているということだが、そんなことをしていると今に、米内海相の身辺だって決して安全とは言えんだろうなどという不穏な蜚語である。半分脅迫のようなものだが、当時は苦戦の昂奮から皆血眼になっている時なので、私はこれは非常にむつかしい局面だ、単に対内的によほどうまくやらないととんだ不祥事件が起こるぞと感じておった次第である」「しかしあの時私が直截に米内海相と同じ行動をとっておったら、はたしてどういうものになったであろうか。海軍部内だけはよし押さ得ても、陸軍対海軍の関係というものは非常に深刻になって、何が起こるか分からない。海軍が挙げて崩れてしまったということになると、海軍を一つ鞭撻せねばならんといったような声が陸軍に起こらんとも限らない。私の本当の考えは、強い言葉でカモフラージュして鋭鋒を逸らすということに苦心していたのである。これはいささか言い訳のようになるけれども、あの当時としては私の言動はどうもやむを得なかったという風に今日でも考えている次第である」と豊田副武。

 最後に豊田はこう付け加える。「結論を述べると、終戦の時の御前会議で我々無条件受諾に反対する立場の者が粘ったのが、手前味噌ではないが、終戦を無血に円満に遂行できた一つの動機になっていると考えている。何も言わずに無条件で行っておったら何事かが起っただろうと思う。また国内の作戦部隊には、本土決戦のスローガンに刺激されてどこまでも戦争するのだ、やりさえすれば勝つのだという盲目的んさ信念を持った者が相当いたのだから、それに政府なり統帥部なりが無条件で武器を棄てるのだということになると、相当の急変が起ったと思う(略)」

 当初、豊田がポツダム宣言受諾に条件を付けることに拘ったことに相当違和感を感じていた。あれほど完敗した海軍の軍令部総長が、猶も粘っている、不思議だ、と。でも時系列で見て行くと、粘った後は、その夜のご聖断で見事に外された。国民にとって、実害はなかった。そして後でわかったことであるが、外務大臣から連合国側に宣言受諾の公文と同時に、別に武装解除の問題について連絡文書を出していたそうだ。
 「これが物を言ったものと見え、いずれの前線でも無断で武力進駐した部隊はなかった。すべて連絡の指揮官が来て打ち合わせをやって時機と場所を決め、武装解除をやっている。だから私が最後まで戦争継続を主張し、武装解除の方法で無理難題をいったように言われているが、これは誤解であって、決してそうではない。また私一人で言ったのでもなく、梅津君や阿南君も同意見で三人で主張したものが、外務省を動かして外務省からそういう連絡が出ておったものと思う」と。
 

ニミッツ米太平洋艦隊司令長官の見た日本の敗北

2019年07月12日 | 歴史を尋ねる
 太平洋戦がその避けがたい終末へ進んでゆくにつれ、連合軍の首脳部はどうすれば日本をもっと速やかにかつ損害が少なくして降伏させ得るかについて各種の案を提出した。潜水艦関係者はUボートがもう一息で英国の息の根を止めるところまで行ったように、潜水艦だけでその仕事を引き受けてみせるという見解を抱いていた。原爆製造計画に関与した科学者や陸軍当局は、ひとたび原子爆弾が出現したら、日本はとうてい長くは持ちこたえられまい、特に原爆携行可能のB29の完成の暁には、また米軍が南部マリアナを攻略して飛行場を手に入れ、そこから目標への到達も可能となった後では、すでに時期の問題にすぎないと信じていた。ドイツの敗北か、ソ連の満州進撃かが、日本にこれ以上の抗戦はもはや無益だと思い知らせる最後の一大痛撃になると指摘した人々もいた。
 陸軍は、日本の抗戦意思を破砕するには日本本土進攻は是非必要と見做していた。この陸軍説は、米軍がサイパンを攻略した後改めて強く信じられるようになった。そこでは、自決した在留邦人は降伏した人数よりずっと多数であった。この種の狂信的行為は、多くに士官たちに日本に戦争を止めさせる一番の近道は、日本本土を現実に占領する以外にはないと信じ込ませた。
 海軍は、封鎖の手段によって日本を敗北させようというものである。日本は英国と同様にその海上交通線の攻撃に対して脆く弱い。人口が過剰なうえに近代戦をやるには国内資源が乏しく輸入依存度が高い。日本は戦略的重要物資である石油、ゴムその他の東インドの産物を入手する権利を売るために、アジアでかち得たすべてを賭して、敢えて対米戦を始めた。しかし米軍のフィリピンの奪回とそれに伴う日本海軍力、空軍力の壊滅と共に、連合軍の航空、水上及び水中各部隊はルソン島を基地として作戦し、南方資源地域からの物資の流入を切断し得る。かくて日本を戦闘不能に追い込むことができる。
 空軍は、日本の都市と工業地帯を間断なく爆撃することによって、ついには戦争を継続する意思も手段も奪い取り、日本を敗北に至らしめるにあった。マリアナを基地とする爆撃機は東京に達することも出来るが、戦略爆撃の最大の効果を上げるには、さらにもっと日本に近い飛行場を占領しなければならない。
 統合参謀本部は敵を敗北させるあらゆる手段を実行に移す作戦を指令した。そして、実際に日本本土に進攻する計画を除いて、すべてが実施された。

 レイテ攻防戦 1944年10月、日本の最高統帥部は陸軍のもっとも卓越した指揮官で、シンガポール攻略者であった山下奉文将軍をフィリピン派遣軍指揮のため満州から呼び寄せた。米軍がどこに進攻主力が向けられるか判らなかったので、山下は387,000名の兵力を全島に分散させた。米軍が10月20日に上陸した時、レイテにはわずか22,000名の日本軍が配備されているに過ぎなかった。山下はレイテの増援に奔走、機動部隊もレイテへの集中を始めた。10月下旬から11月にかけて、米軍第三艦隊の飛行士たちは主としてルソン地区及び飛行場、ルソンへの途上にある日本艦船への攻撃を加え、日本機約700を撃墜破し、巡洋艦3、駆逐艦10、多数の輸送船その他補助艦を撃沈した。また、護送船団を攻撃、約10,000名の日本増援兵力を溺死させた。11月、マッカーサーは航空兵力の不足を補うため、ソロモンの海兵隊航空群に援護を求め、日本の夜間爆撃機を追い払うため、ペリリューの海兵隊機の借用も行った。しかしこうした努力にも拘らず、レイテ上空の制空権は収める事が出来なかった。神風機が第三及び第七艦隊への攻撃を実施した。ハルゼー艦隊では巡洋艦が損傷を受け、キンケイド艦隊では戦艦2、巡洋艦2、攻撃輸送艦2、駆逐艦7が神風機の命中を受け、そのうち駆逐艦一隻が沈没した。日本軍の方は、甚大な損害にも関わらず、11月半ばまでに約70,000名の兵力をレイテに集め、100,000名にのぼる米軍に対抗していた。12月1日までに、日本軍の死傷は増援兵力を遥かに上回ったが、レイテのアメリカ軍兵力は、実に183,000名に増強された。マッカーサー将軍はクリスマスの日にレイテ島の組織的抵抗は全く終わりを告げた、と宣言することができた。

 フィリピンの解放 ルソン急襲は、マニラ北方のリンガエン湾内の地点で行われることになっていた。そこは3年前に日本軍が上陸した地点だった。1945年1月、リンガエン急襲の先鋒は、164隻の大兵力よりなる支援部隊であった。ところが神風特攻隊の攻撃を一手に引き受ける形となり、前衛部隊に突入して相果てる結果となった。リンガエン支援部隊に対する日本機の攻撃は、第三艦隊が事前に台湾の飛行場を乱打していたので、北方からの増援がなく、ハルゼー空母機群は予定通りルソン地区の飛行場を猛爆、さらに第三艦隊・第七艦隊の護衛空母機群、陸軍航空部隊の航空機の連合兵力が大挙し、日本飛行場を全く作戦不能となるまで叩きつけた。今や日本軍は、フィリピン方面から引き揚げ得る航空兵力は全部撤退させる決意に迫られた。1月7日以後、連合軍部隊に対する組織的空襲はほとんど跡を絶ち、ときどき一機か二機が思いついたように連合軍の船舶を攻撃する程度であった。1月9日、ハルゼー提督は大胆不敵にもルソン海峡を突破して、第三艦隊を南シナ海奥深く侵入させ、カムラン湾に潜伏している戦艦「伊勢」・「日向」を含む日本艦隊を攻撃することによって、ミンドロ―リンガエン間の補給路を安全にしようとした。マッケーン部隊の空母機群は延べ1500回も出撃して、仏印沿岸を残りくまなく飛び回り、日本艦隊がいないことを確認した。日本部隊はいち早く気配を察知してしばらく前に、リンガ泊地から姿を消していた。しかしそのあたりは日本船が集まっており輸送船12隻、軽巡44隻を一網打尽に撃沈させた。今度は、香港、台湾にも空襲を行い、戦果を挙げた。
 第一軍団がリンガエン湾北東の丘陵地帯にで山下部隊を牽制している間に、第十四軍団はマニラを目指して進撃、ここは16,000名の海軍陸戦隊と5,000名の陸軍部隊によって防衛されていたが、白兵戦が一カ月続き、日本守備隊の最後の一人が捕らわれの身となって終わりを告げた。さらに山岳地帯に後退した山下フィリピン派遣軍の残存部隊も、軍事作戦で失うよりもはるかに多数の戦闘員を飢餓や病気で失った。終戦の降伏迄に生き残ったのは元の守備隊の何分の一という少人数であった。

 硫黄島の占領 1944年11月、サイパンを基地とする第21爆撃部隊のB29は早くも東京方面の空襲を始めた。しかし、空襲の結果は満足すべきものではなかった。3000マイルの往復行程で積み込む爆弾は10トンから3トンに切り下げねばならなかった。戦闘機がついていけないので、燃料を食う8,500メートルまで高度を揚げねばならず、精密爆撃は望めなかった。1944年10月早々、統合参謀本部はニミッツ提督に対し、マッカーサーのルソン進攻への掩護が終わったら、硫黄島及び沖縄攻略を続けるよう指令を発した。日本側はマリアナ撤退後、米軍が小笠原攻略を始めるだろうと考え、精強な戦闘部隊である陸軍14,000名と海軍陸戦隊7,000名よりなる守備隊を張り付けた。総指揮官は栗林忠道陸軍中将だった。栗林は島の高地に400以上の機銃陣地と大トーチカが構築され、溶岩をくりぬいた地下道によってお互いに交通できるようにした。マリアナからのB24編隊が74日間も連続空襲を行ったが地下要塞の完成を急がせるだけだった。海兵隊所属のB25編隊は日本艦船攻撃に昼夜出撃したが、日本側は依然として諸資材を島内に運び込み、第三番目の飛行場建設に取り掛かった。Dデーの2月19日、従来の緩慢な砲撃から、100機以上の大編隊群がロケット弾や機銃弾を雨のように降り注ぎ、普通爆弾やナパーム爆弾を投下して、艦隊がこれに代って艦砲射撃を再開、併せ500隻に近い上陸用舟艇が海岸線に向かう。圧倒的な兵力による急襲で上陸できたかに見えたが火山灰のため思う様に進めず、お互いに衝突して思わぬ大混雑を来たした。双方甚大な損害を出しながら激戦死闘がひと月も続き、3月15日全島の確保が宣言された。

 沖縄攻略戦 米軍がサイパンを攻略した直後、スプルアンス提督は早くも沖縄攻略を中央に進言した。沖縄を掌中に納めれば、マリアナに建設されようとしている爆撃機基地と呼応すべき飛行場がそこに出来る、と。ちょうど折も折、台湾進攻計画が作成されつつあった。ところがこの計画は、フィリピンの奪回作戦の本極まりで、取り止められた。そして、統合参謀本部は1944年10月、硫黄島と沖縄の双方を相次いで攻略せんとする指令を発した。中部太平洋部隊が侵攻を重ねたうちで最大の島要塞である沖縄の攻略は、大軍を投入、長期にわたる作戦を覚悟しなければならなかった。第58機動部隊は3月18日、進攻途上の障害を取り払うため、九州方面の飛行場、本土の南部沿岸、昔日の勢威を失った日本残存艦隊に対し、大規模な空母機攻撃隊を放った。沖縄攻略準備空爆は16機の艦上機の損失を招いたが、攻撃隊は数艦を損傷させた上、日本側にその後三週間にわたって大挙反撃できなくなったほどの大損害を九州地区の諸施設や交通機関に与えた。沖縄本島の無力化が進行中、上陸部隊は南沖縄の慶良間諸島を占領、各地から勢ぞろいしたターナー提督の統合遠征部隊の大軍は、4月1日のDデーに予定通り沖縄沖に到着した。その兵力は182,000名という大攻撃兵力を輸送する1,300隻で成り立っていた。一方連合軍を迎え撃つ日本守備隊約100,000名のうち、67,000名は帝国陸軍部隊の精鋭で、残りは海軍陸戦隊と沖縄現地徴集部隊とであった。一般の民間人でその残留の必要を認められない人々は、一人残らず島外に移るか北部に集結を命じられた。守備隊主力は、沖縄南部地区の那覇の北東方にある急斜面の丘陵の自然要塞及び狭い峡谷の中に陣地を構えた。トーチカ、洞穴、防塞などを塹壕やトンネルで連接することによって、日本軍はこの陣地を難攻不落に仕上げた。
 4月1日、太平洋のどの海岸にも加えられたことのないような猛烈な艦砲射撃の後、上陸を開始した。さらに陽動作戦として別方面からの上陸作戦を展開した。これは防衛軍を分断する偽上陸であった。日本側指揮官牛島中将は、米軍の準備砲撃に対して一発の応戦もせず、水際戦闘での消耗もしない様厳命した。従って上陸時の抵抗はほとんど散発的であった。一方、日本側の爆撃機と特攻機は、初めから沖縄沖の米艦船に対して散発的な攻撃を加えて来た。さらにこの神風特攻と呼応する第二局面で、超大型戦艦「大和」、軽巡「矢矧」及び8隻の駆逐艦による水上特攻として実施された。この日本艦隊は、本土に貯蔵されていた2,500トンの重油(沖縄までの片道分だけの分量)を積み込んで、出港。4月8日の夜明けに出来れば米艦隊の眼を逃れて沖縄到着の予定で、大和隊は海岸に乗り上げ、艦隊全部の艦砲を米陣地めがけて射って射って撃ちまくり米軍に一泡吹かせようというのがその決死的使命であった。しかし、6日日没前、九州沖を哨戒中の米潜水艦二隻に見つかり、日本艦隊発見の警報が飛んだ。ディヨー部隊は九州基地からの航空掩護圏外に誘致しようと考えたが、ミッチャー提督は7日の夜明け前この艦隊を仕留めようと攻撃機を発進させた。空母機群は圧倒的な兵力で日本艦隊に攻撃を反復し大和や矢矧を沈めた。
 1945年6月21日、日本守備軍の最後の南部拠点が奪取され、沖縄島は全島確保が宣言された。次の日、牛島将軍と参謀長は古式にのって切腹、その敗北を裏付けた。11,000名の捕虜を除く守備隊は戦死、日本軍や軍事施設の近くに留まらなくてはならなかった一般人24,000名も、犠牲になった。攻撃側にとっても犠牲が大きく、13,000名の米兵が戦死、そのうち3,400人は海兵隊で、4,000人が海軍であった。艦隊における死傷の大部分は特攻機の攻撃で生じたものであった。この高価な犠牲は、攻撃軍が南部日本の工業中心地に致命的打撃を与える地点を手に入れ、日本本土の封鎖を完璧なものにした。

 日本の降伏 1945年6月22日、最高戦争指導会議に臨んだ天皇は、責任ある地位の人々がそれまで公然と口にすることを憚ったていた事柄、戦争を収拾する方法を発見しなければならないことを発言された。だが、戦争を終わらせることは生易しいことではなかった。交渉は秘密裏に運ばなければならなかった。太平洋戦争に関しては表面上は全く中立国であったので、和平打診はモスコーを通じて行われた。ドイツを打倒した勝利者たちの間で開かれた7月のポツダム会談の際、スターリン首相はトルーマン大統領にもチャーチル首相にも、調停を求めた日本の申出を何も告げなかった。明らかにソ連側は、戦争に入り込んで果実の分け前が取れるまで、日本が戦争から抜け出すのを手伝う意図は毛頭持っていなかった。しかし、トルーマン大統領は日本の和平打診工作についてすでに承知していた。米国の情報機関が東京とモスコーの交換される無線暗号文をすっかり解読していた。
 7月26日、合衆国、英国、中国の各政府は、日本に対してポツダム宣言の中で回答を与えた。日本にとって無条件降伏とは、単に武装軍隊に対してのみ適用されるものであると明記されてあった。宣言はさらに、日本が四つの本土の島を除き、すべての海外領土の主権と権益を破棄すべきだと述べ、平和愛好的責任ある政府が自由選挙によって表明され、民意に沿って樹立されるまでは、日本国内の諸地点が占領されるだろう、とも述べた。天皇の運命や日本国体の行く末については、連合国政府はまだ結論に達していなかったので、言及されなかった。宣言後二日目に、スターリン首相はやっと平和条項に対する日本の要請を同僚の米英首脳に打ち明けた。
 原爆投下とソ連参戦が、日本政府の逡巡遅疑に終始符をうち、また最も困難な問題の解決の糸口を与えた。しかし連合国側が日本の条件を考慮し、日本側が連合国の条項を検討している間にも、第三艦隊は再び本州北部を急襲、千島列島にも攻撃を加えた。それから南下して8月13日、再び東京を猛爆した。14日、またもや天皇の発言によって受諾を決定した。15日、空母一隻分の攻撃隊が東京上空にあり、さらにもう一隻分が発進せんとした時、第三艦隊は戦闘を中止せよという命令を受け取った。
 9月2日、東京湾頭戦艦ミズリー艦上において、第三艦隊を左右に従えた中で、日本外相は天皇と政府と大本営を代表して降伏文書に署名した。陸軍元帥ダグラス・マッカーサーは連合国最高司令官として降伏受諾の署名を行った。続いて海軍元帥チェスター・ニミッツが合衆国代表としてペンをとった。