太平洋戦争に臨んだ日本海軍の軌跡を相当追いかけた。当事者意識の薄い指導部に随分もやもやな思いをさせられたが、戦後大分たって、第11代海上幕僚長中村悌次は海上自衛隊内で講演を行っている。そして海軍の反省を行っている。これをもって日本海軍の功罪の纏めとしたい。
中村の経歴を振り返ると、1980年代以降の海上自衛隊とアメリカ海軍の緊密な関係を作り上げた海上自衛隊中興の祖の一人と言われている。1939年(昭和14年)海軍兵学校第67期を首席で卒業。重巡洋艦「高雄」乗組みを経て駆逐艦「夕立」に水雷長として乗組む。スラバヤ沖海戦では水雷長として魚雷発射の指揮をとり敵艦に向け魚雷を8本発射するが、発射した魚雷のうち半分が目の前で自爆し、敵艦には1発も当たらず悔しい思いをしている。その後の第三次ソロモン海戦では、敵艦に少なくとも2本の魚雷を命中させている。しかし、自身も艦橋に命中した敵弾の弾片を受け負傷し、「夕立」も沈没する。その後、戦艦「長門」分隊長、兵学校教官として勤務したのち、本土決戦に備えて結成された横須賀鎮守府第一特攻戦隊第十八突撃隊特攻長として千葉県で終戦を迎えた。
戦後、幹部学校に入校、学校教官等を経て1960年(昭和35年)7月から1年間、アメリカ海軍大学校に留学した。帰国後の勤務でも「カミソリ中村」と評されたその頭脳をフル回転させて、水上艦艇のコンピューター化や「プログラム業務隊(現・艦艇開発隊)」新編などの「ハイテク海上自衛隊」の基礎を築き、海上幕僚監部防衛部長、護衛艦隊司令官、呉地方総監等を務め、1974年(昭和49年)7月、自衛艦隊司令官に就任。1976年(昭和51年)3月16日:第11代 海上幕僚長に就任。(昭和52年)9月1日:退官。退官後は財団法人水交会第10代会長を務める。
海軍として反省すべき教訓 1、戦術面さらに狭い術科面に集中し、戦略的発想、特に国家戦略という着意がほとんどなかったこと。当時海軍大学校校長であった及川古志郎大将は、昭和18年高山岩男京都大学教授に対し、日本が海洋大国の米英両国を敵に回すようになった主因の一つは、「我が陸海軍が軍人を教育する場合、専ら戦闘技術の習練と研究に努力したことであった」と述懐し、戦争の基本というべき戦争哲学を「戦理学」と名付け、その研究を依頼した。同教授は後年、海軍はバトルを研究したが、ウォーは研究しなかったと述べている。開戦時軍令部参謀であった佐薙毅大佐(後航空幕僚長)は、「我が海軍の多年の対米作戦計画は、米艦隊の早期に渡洋来攻することを対象とし、漸減邀撃艦隊決戦主義に凝り固まり、人的物的軍備及び訓練その他万般に亘ってこれに偏重し、その他のことを疎かにしていた。これに対し米海軍否米国は、国家戦略として、日本が無資源の海洋国である最大弱点を衝くため、封鎖―海上交通破壊ーによって生命線を断つこと、及び航空攻撃によって我が戦力、国力を完膚なきまでに粉砕することを大戦略にしていた。このような大誤算は、ロンドン条約以後対米艦船比率に拘泥しすぎ、万事が戦術的事項に偏重し、広い視野に立った、戦略的判断、思考、計画を疎かにした結果に他ならない」と、回想している。さらに進んで、本当に対米戦は不可避なのか、陸軍はソ連、海軍は米国をそれぞれ仮想敵国として、両者に備えるのが果たして適当か、日本はその負担に耐えられるのか、それが無理であればどうすればよいのかなどの、国家戦略の基本を研究することはなかった、と。
不思議なのは、日本が戦争に追い込まれた米国による経済制裁なども少しも研究した形跡がない。アメリカに突きつけられて飛び上がった。自らの弱点は見たくなかった、としか思えない。ただ、これは軍部だけでもなさそうだ。日本政府自身、日本国民もそうだったかもしれない。
中村氏はもう少し掘り下げている。対米不戦の国家方針が示されないかぎり、有事に備えるのが、責任当局の責務である。金もなく、国力も不足し、必要とする物資の大半を米国に仰ぐ日本が、その米国を相手にして、どこから物資を入手するのか、備蓄資材の尽きない間の短期決戦が望ましいが、敵艦隊の来攻する時期も方法も総て主導権は相手にあり、短期決戦を強いる手段は何もない。決戦に勝つ決め手はなく、仮に勝ったとしてもその後どうなるのか、それで戦争が終わる保証は全くない。戦争を終わらせるのは相手の戦意の阻喪を待つほかはないが、それを促す自主的な手段はない。このような解き得ない難問に直面したことが、日本海軍の思考を戦争より、戦略に、戦略より戦術に限定し、戦闘あるを知って戦争あるを知らない体質を育成する一因にもなったように思える。加藤友三郎のような優れた洞察力と決断力を持った人物が、その後海軍になかったわけではないが、必要なとき、必要な職務に配されなかったのは、海軍だけでなく、日本にとっての不幸であった、と中村氏は振り返る。
なぜ海軍が戦争を阻止できなかったかを見てみたい、と正面から中村氏は論考する。開戦を決定した時の海軍大臣は嶋田繁太郎大将であるが、彼は戦後次のように回想している。「海軍大臣に就任してまだ十日ばかりしか経たない身として研究十分であったとは言われないが、*案がここまで出来上がるまでには、下の方から上まで十分に検討され尽くされたものに相違ない。*累次の連絡会議に臨んで軍令部総長や陸軍側の説明を聞いて見ると状況誠にやむを得ないようだ。*あのご聡明な伏見宮殿下でさえ既に諦めて居られるように拝する。*ここに私が反対して海軍大臣を辞めれば内閣は潰れるであろう。そして適当な後継者を得ることが極めて困難で、この逼迫した時期に国家として洵に大きな損失だ。また大臣就任の際の伏見宮殿下の思召しにも反することになり、恐懼に耐えない。いろいろ考えてようやく決心がつき会議に臨んだ次第だ」この回想を見て諸君はどんな感想を持つか、そして自分がその立場にあったらどうであろうか、状況中の人になって真剣に考えて貰いたい、と中村氏は後輩に設問を投げかける。当ブログでもすでに海軍大臣嶋田繁太郎の欄で取り上げている。中村氏はこう考えた。「私は国家の大事に臨む責任者として、自分の信念がなく、発想が官僚的で、枝葉末節に囚われ、国家存立の大局から、情勢を冷静に判断し、論理的に結論を求める態度に欠けているのではないか、と思う。16年11月30日、高松宮の進言により、天皇陛下が不安を抱かれ、永野軍令部総長と嶋田海軍大臣を召されて御下問があり際、「物も人も共に十分の準備を整え・・・」と奉答。ドイツが戦争をやめるとどうなるのか、とお尋ねに対し、たとえドイツが手を引いても差し支えないと答え、長官以下将兵の士気旺盛なことを申上げて、ご安心の様子に拝した、と回想している。開戦を直前に控え、今更戦争に不安があると奉答できる時期でも立場でもないが、ひたすらご心配を掛けないよう糊塗するだけでなく、戦争の困難性と早期収拾の必要性についても、ご認識を頂くことが、本当に忠実である所以ではなかったか。
彼の前任者であった及川古志郎大将は、その在任中逐次悪化する情勢に直面し、開戦を回避することに努力した。しかし三国同盟にも南部仏印進駐にも賛成し、近衛内閣最後の会議に、避戦を明言せず、総理に一任した。これらはいずれも、陸軍との正面衝突を避けた為であった。山本五十六次官が、遺書を書いて、あくまで三国同盟反対の所信を貫いたことと比較して、どちらが国の大事に任じる責任者の執るべき態度か、言うまでもないだろう、と。
中村氏はこの点に触れていないが、対米戦争は海軍の戦いだった。この点について、及川古志郎大将、嶋田繁太郎大将、永野修身大将らはどの程度真正面から理解していたのか。そうでなければ、陸軍に引きずられる態度がどうしても理解できない。陸海軍共同で戦うと考えていたのではないか。対米戦争の本質について、海軍指導層の間で、共通の認識が出来ていなかったのではないか。ニミッツも海軍の戦いだったと言っている。
反省すべき重要な教訓 2、目的意識が薄かったこと。秋山真之が海軍大学校の教官をしていた時の講義で、「およそ戦争において軍の直接の目的とするところは、敵を屈するにある、この目的を達っせんがために取る手段は多々ある、敵の兵力の殲滅、敵の要地を占領、敵の兵資を掠奪、敵の交通を遮断する如き、何れも遂に我に屈服するを得るためである」と。しかし、このような考え方は忘れ去られ、海軍にいた頃は、典範類も教育訓練も一言も触れたものはなかった。バトルあってウォー知らず、邀撃艦隊決戦一本鎗の海軍の体質、極めて単純化された戦術、術科レベル以下の雰囲気では、このような考え方は重視されなくなったためだろうか。海戦要務令でも、意思の疎通、上司の意図の明示、協同、任務は重視されたが、その中核となるべき目標系列を通じて任務を指向するという発想はなかった。その結果ともいえようか、大東亜戦争の多くの海戦において、目的観念の不在、目標の不一致などが、作戦失敗の大きな原因となっている。その好例が、ミッドウェー海戦である。山本長官の目的は敵空母部隊の早期撃滅にあり、これをおびき出す手段としてミッドウェーの攻略を企図したが、大海令ではミッドウェー攻略を目的とし、南雲部隊では、主目的は敵艦隊の撃滅であることを連合艦隊司令部から再三強調されたにも関わらず、ミッドウェーの占領に囚われて、戦機を逃し、惨敗を喫した。また、第一次ソロモン海戦において、三川艦隊が警戒の敵水上艦を撃滅したにも関わらず、上陸船団には一指も触れず引き揚げたのも、レイテ海戦において、栗田部隊がレイテの湾口に近づきながら、幻の敵機動部隊を求めて反転したのも、目的を外した例である。
次に伝えておきたい教訓 3、情報の重視と論理的思考である。海軍では情報が重視されず、そのため多くの面で失敗した。中央では軍令部第三部が情報担当であり、その中に、米国、中国、露・独・仏等の欧州諸国、英国と英連邦と4つの課があり、優秀な人たちが情報の収集、分析、評価を行い、立派な業績を上げていた。問題はその活用にあった。作戦計画を所掌する第一部は、第三部の情報に基づいて計画を考えるのではなく、独自の見解によって計画を作っていた。部隊には情報を担当する幕僚は居らず、通信参謀が情報資料を整理するのが精一杯であった。連合艦隊に情報参謀が設けられたのも、昭和19年になってからで、情報の入手に十分の配慮がされず、偵察、索敵、哨戒などが不十分で、ミッドウェー海戦で敵空母の発見が遅れ、或いはトラックを奇襲されるなどの失敗を招いた。
情報軽視とも関連するが、戦果確認が不十分で、その後の作戦に多くの影響を与え、また正式発表に対する信頼を失わせることになった。台湾沖の航空戦がもっともよい例であるが、確認が困難で、錯誤の多い夜間航空攻撃の成果を、現場の報告を鵜呑みし、翌日の偵察等で確認をとらず、裏付けを求めた米海軍と比較して、日本海軍の甘さが顕著だった。
次に申上げたい教訓 4、教訓の蓄積と活用である。米海軍は真珠湾攻撃直後空母中心に兵力整備を転換した。また第一次ソロモン海戦後、巡洋艦・駆逐艦の戦術を検討し、訓練を励行するなど、教訓の活用は見事で、迅速だった。それと比較して、日本海軍の教訓の調査、整理、活用の態勢は誠にお粗末で、ミッドウェー海戦後、戦訓の調査も研究会も実施されず、組織的に教訓を学び海軍全般で活用する発想がなかった。
兵術的研究調査に任ずべき海軍大学校は解散同様で配員がなく、各術科学校も、術科面からの戦訓を、調査研究する配員もなかった。
次に申し残したいこと 5、驕り症候群である。人間はとかくうまくいくと思い上がり、まずい時は落ち込む傾向があるが、日本人はその幅が大きいのではないか。真珠湾攻撃の成功によって、国家総動員態勢のスタートが遅れたのはその一例である。アメリカにいた駐在武官が日本に引き揚げてきて、米海軍省が非常勤務態勢に比べ、我が海軍省も軍令部も、定時出勤、定時退庁、平時そのままの執務状況に驚いたこと、イギリスにいた武官が、首脳部にイギリスを風前の灯火と見ているのは間違いであるとして、経済力・精神力・戦争指導等の実例を挙げて報告した際、多くは居眠りをしていて反応がなかったことなどから、その一端が窺われる。 実行部隊の方も、真珠湾攻撃前の虎の尾を踏むような慎重さと、今度はミッドウェー攻略前の油断の差は顕著であった。この時は兵力も錬度も遥かに敵に優っていた。暗号が解読されて、手の内を全部読まれていたが、まともに戦闘すれば決して負けることはあり得ない筈であった。その敗因のうち、
* 敵機動部隊が待ち受けていることなど全く考えなかった(潜水艦による哨戒線配備の遅れ)(杜撰な捜索計画とその形式的実施、敵空母存在の通信情報の不通達)(敵艦隊攻撃のため控えていた航空機の陸上攻撃への転換)
* 敵空母の存在を知ってからの緩慢な処置、などは、まさに驕りが招いた事態であった。
次に、6、攻撃と防御の考え方に触れる。海戦要務令で「戦闘の要旨は攻勢を取り、速やかに敵を撃滅するにあり」と定められ、攻撃を最良の防御とし、先制と奇襲を金科玉条とする考えは、海軍に深く浸透し、作戦計画にも教育計画にもすべて適用されていた。攻撃重視の思想は、創設以来劣勢兵力を以て国防にあたる宿命に置かれた日本海軍としては、必然ではあったが、それが行き過ぎて防御軽視、さらに防御無視にまで至ると、多くの問題が生じる。防御軽視の顕著な例としては、毎上交通保護、沿岸及び港湾防備、防空、対潜、対機雷などに対する、中央当局や艦隊中枢部の無理解で冷淡な態度、或いは艦艇、航空機の装備の偏向などが挙げられる。レーダー開発の進言に対し、消極的な防御兵器は帝国海軍には不要であるとして、却下した軍令部の狭い硬直した見解、零戦や中攻には、搭乗員や燃料に対する防弾装置を欠き、ワンショットライターと言われて、多くの犠牲を出したこと、艦艇応急に対する関心と熱意に欠いたことなどはよく知られている。
次に、7、年功序列の人事と信賞必罰を欠いたこと。(省略)
次に、思想の統一と柔軟性について。(省略)
次に、同じ柳の下に泥鰌はいないという戒め。(省略)
最後に最も重要なことの一つ、日本海軍にはロジスティクスという観念がなかったこと。
燃料や食料の補給、艦船や装備の補修、航空機や部品の生産整備、施設整備、輸送などは極めて重視され、個々の組織もよく整えられ、立派な人材も配されたが、それらを総合して作戦を支援するという考え方はなく、ロジスティクスが作戦の成り立つ前提であり、その成否を支配するということに考えが及ばなかった。基地航空部隊の作戦にしても、基地の獲得整備は考えても、その後如何にして基地機能を維持し、作戦を継続発展させるのかの発想(基地防空、部品や燃料弾薬の補給備蓄、施設の修理復旧、搭乗員の休養交代等)が不十分であった。つまり海軍は航空作戦の総合的検討が十分であったとは言えなかった。これを重視しなかったことは、自らの作戦に支障をきたすだけでなく、敵のロジスティクスを攻撃する発想を欠き、大きな不利を招いた。ハワイの第二撃問題、潜水艦の用法、敵輸送部隊の攻撃や後方施設の破壊の軽視、などはその例である。
もし海軍が真剣にロジスティクスに取り組み、さらに国家のロジスティクスを考えたとしたら、果たして開戦に踏み切ることができたであろうか。
中村の経歴を振り返ると、1980年代以降の海上自衛隊とアメリカ海軍の緊密な関係を作り上げた海上自衛隊中興の祖の一人と言われている。1939年(昭和14年)海軍兵学校第67期を首席で卒業。重巡洋艦「高雄」乗組みを経て駆逐艦「夕立」に水雷長として乗組む。スラバヤ沖海戦では水雷長として魚雷発射の指揮をとり敵艦に向け魚雷を8本発射するが、発射した魚雷のうち半分が目の前で自爆し、敵艦には1発も当たらず悔しい思いをしている。その後の第三次ソロモン海戦では、敵艦に少なくとも2本の魚雷を命中させている。しかし、自身も艦橋に命中した敵弾の弾片を受け負傷し、「夕立」も沈没する。その後、戦艦「長門」分隊長、兵学校教官として勤務したのち、本土決戦に備えて結成された横須賀鎮守府第一特攻戦隊第十八突撃隊特攻長として千葉県で終戦を迎えた。
戦後、幹部学校に入校、学校教官等を経て1960年(昭和35年)7月から1年間、アメリカ海軍大学校に留学した。帰国後の勤務でも「カミソリ中村」と評されたその頭脳をフル回転させて、水上艦艇のコンピューター化や「プログラム業務隊(現・艦艇開発隊)」新編などの「ハイテク海上自衛隊」の基礎を築き、海上幕僚監部防衛部長、護衛艦隊司令官、呉地方総監等を務め、1974年(昭和49年)7月、自衛艦隊司令官に就任。1976年(昭和51年)3月16日:第11代 海上幕僚長に就任。(昭和52年)9月1日:退官。退官後は財団法人水交会第10代会長を務める。
海軍として反省すべき教訓 1、戦術面さらに狭い術科面に集中し、戦略的発想、特に国家戦略という着意がほとんどなかったこと。当時海軍大学校校長であった及川古志郎大将は、昭和18年高山岩男京都大学教授に対し、日本が海洋大国の米英両国を敵に回すようになった主因の一つは、「我が陸海軍が軍人を教育する場合、専ら戦闘技術の習練と研究に努力したことであった」と述懐し、戦争の基本というべき戦争哲学を「戦理学」と名付け、その研究を依頼した。同教授は後年、海軍はバトルを研究したが、ウォーは研究しなかったと述べている。開戦時軍令部参謀であった佐薙毅大佐(後航空幕僚長)は、「我が海軍の多年の対米作戦計画は、米艦隊の早期に渡洋来攻することを対象とし、漸減邀撃艦隊決戦主義に凝り固まり、人的物的軍備及び訓練その他万般に亘ってこれに偏重し、その他のことを疎かにしていた。これに対し米海軍否米国は、国家戦略として、日本が無資源の海洋国である最大弱点を衝くため、封鎖―海上交通破壊ーによって生命線を断つこと、及び航空攻撃によって我が戦力、国力を完膚なきまでに粉砕することを大戦略にしていた。このような大誤算は、ロンドン条約以後対米艦船比率に拘泥しすぎ、万事が戦術的事項に偏重し、広い視野に立った、戦略的判断、思考、計画を疎かにした結果に他ならない」と、回想している。さらに進んで、本当に対米戦は不可避なのか、陸軍はソ連、海軍は米国をそれぞれ仮想敵国として、両者に備えるのが果たして適当か、日本はその負担に耐えられるのか、それが無理であればどうすればよいのかなどの、国家戦略の基本を研究することはなかった、と。
不思議なのは、日本が戦争に追い込まれた米国による経済制裁なども少しも研究した形跡がない。アメリカに突きつけられて飛び上がった。自らの弱点は見たくなかった、としか思えない。ただ、これは軍部だけでもなさそうだ。日本政府自身、日本国民もそうだったかもしれない。
中村氏はもう少し掘り下げている。対米不戦の国家方針が示されないかぎり、有事に備えるのが、責任当局の責務である。金もなく、国力も不足し、必要とする物資の大半を米国に仰ぐ日本が、その米国を相手にして、どこから物資を入手するのか、備蓄資材の尽きない間の短期決戦が望ましいが、敵艦隊の来攻する時期も方法も総て主導権は相手にあり、短期決戦を強いる手段は何もない。決戦に勝つ決め手はなく、仮に勝ったとしてもその後どうなるのか、それで戦争が終わる保証は全くない。戦争を終わらせるのは相手の戦意の阻喪を待つほかはないが、それを促す自主的な手段はない。このような解き得ない難問に直面したことが、日本海軍の思考を戦争より、戦略に、戦略より戦術に限定し、戦闘あるを知って戦争あるを知らない体質を育成する一因にもなったように思える。加藤友三郎のような優れた洞察力と決断力を持った人物が、その後海軍になかったわけではないが、必要なとき、必要な職務に配されなかったのは、海軍だけでなく、日本にとっての不幸であった、と中村氏は振り返る。
なぜ海軍が戦争を阻止できなかったかを見てみたい、と正面から中村氏は論考する。開戦を決定した時の海軍大臣は嶋田繁太郎大将であるが、彼は戦後次のように回想している。「海軍大臣に就任してまだ十日ばかりしか経たない身として研究十分であったとは言われないが、*案がここまで出来上がるまでには、下の方から上まで十分に検討され尽くされたものに相違ない。*累次の連絡会議に臨んで軍令部総長や陸軍側の説明を聞いて見ると状況誠にやむを得ないようだ。*あのご聡明な伏見宮殿下でさえ既に諦めて居られるように拝する。*ここに私が反対して海軍大臣を辞めれば内閣は潰れるであろう。そして適当な後継者を得ることが極めて困難で、この逼迫した時期に国家として洵に大きな損失だ。また大臣就任の際の伏見宮殿下の思召しにも反することになり、恐懼に耐えない。いろいろ考えてようやく決心がつき会議に臨んだ次第だ」この回想を見て諸君はどんな感想を持つか、そして自分がその立場にあったらどうであろうか、状況中の人になって真剣に考えて貰いたい、と中村氏は後輩に設問を投げかける。当ブログでもすでに海軍大臣嶋田繁太郎の欄で取り上げている。中村氏はこう考えた。「私は国家の大事に臨む責任者として、自分の信念がなく、発想が官僚的で、枝葉末節に囚われ、国家存立の大局から、情勢を冷静に判断し、論理的に結論を求める態度に欠けているのではないか、と思う。16年11月30日、高松宮の進言により、天皇陛下が不安を抱かれ、永野軍令部総長と嶋田海軍大臣を召されて御下問があり際、「物も人も共に十分の準備を整え・・・」と奉答。ドイツが戦争をやめるとどうなるのか、とお尋ねに対し、たとえドイツが手を引いても差し支えないと答え、長官以下将兵の士気旺盛なことを申上げて、ご安心の様子に拝した、と回想している。開戦を直前に控え、今更戦争に不安があると奉答できる時期でも立場でもないが、ひたすらご心配を掛けないよう糊塗するだけでなく、戦争の困難性と早期収拾の必要性についても、ご認識を頂くことが、本当に忠実である所以ではなかったか。
彼の前任者であった及川古志郎大将は、その在任中逐次悪化する情勢に直面し、開戦を回避することに努力した。しかし三国同盟にも南部仏印進駐にも賛成し、近衛内閣最後の会議に、避戦を明言せず、総理に一任した。これらはいずれも、陸軍との正面衝突を避けた為であった。山本五十六次官が、遺書を書いて、あくまで三国同盟反対の所信を貫いたことと比較して、どちらが国の大事に任じる責任者の執るべき態度か、言うまでもないだろう、と。
中村氏はこの点に触れていないが、対米戦争は海軍の戦いだった。この点について、及川古志郎大将、嶋田繁太郎大将、永野修身大将らはどの程度真正面から理解していたのか。そうでなければ、陸軍に引きずられる態度がどうしても理解できない。陸海軍共同で戦うと考えていたのではないか。対米戦争の本質について、海軍指導層の間で、共通の認識が出来ていなかったのではないか。ニミッツも海軍の戦いだったと言っている。
反省すべき重要な教訓 2、目的意識が薄かったこと。秋山真之が海軍大学校の教官をしていた時の講義で、「およそ戦争において軍の直接の目的とするところは、敵を屈するにある、この目的を達っせんがために取る手段は多々ある、敵の兵力の殲滅、敵の要地を占領、敵の兵資を掠奪、敵の交通を遮断する如き、何れも遂に我に屈服するを得るためである」と。しかし、このような考え方は忘れ去られ、海軍にいた頃は、典範類も教育訓練も一言も触れたものはなかった。バトルあってウォー知らず、邀撃艦隊決戦一本鎗の海軍の体質、極めて単純化された戦術、術科レベル以下の雰囲気では、このような考え方は重視されなくなったためだろうか。海戦要務令でも、意思の疎通、上司の意図の明示、協同、任務は重視されたが、その中核となるべき目標系列を通じて任務を指向するという発想はなかった。その結果ともいえようか、大東亜戦争の多くの海戦において、目的観念の不在、目標の不一致などが、作戦失敗の大きな原因となっている。その好例が、ミッドウェー海戦である。山本長官の目的は敵空母部隊の早期撃滅にあり、これをおびき出す手段としてミッドウェーの攻略を企図したが、大海令ではミッドウェー攻略を目的とし、南雲部隊では、主目的は敵艦隊の撃滅であることを連合艦隊司令部から再三強調されたにも関わらず、ミッドウェーの占領に囚われて、戦機を逃し、惨敗を喫した。また、第一次ソロモン海戦において、三川艦隊が警戒の敵水上艦を撃滅したにも関わらず、上陸船団には一指も触れず引き揚げたのも、レイテ海戦において、栗田部隊がレイテの湾口に近づきながら、幻の敵機動部隊を求めて反転したのも、目的を外した例である。
次に伝えておきたい教訓 3、情報の重視と論理的思考である。海軍では情報が重視されず、そのため多くの面で失敗した。中央では軍令部第三部が情報担当であり、その中に、米国、中国、露・独・仏等の欧州諸国、英国と英連邦と4つの課があり、優秀な人たちが情報の収集、分析、評価を行い、立派な業績を上げていた。問題はその活用にあった。作戦計画を所掌する第一部は、第三部の情報に基づいて計画を考えるのではなく、独自の見解によって計画を作っていた。部隊には情報を担当する幕僚は居らず、通信参謀が情報資料を整理するのが精一杯であった。連合艦隊に情報参謀が設けられたのも、昭和19年になってからで、情報の入手に十分の配慮がされず、偵察、索敵、哨戒などが不十分で、ミッドウェー海戦で敵空母の発見が遅れ、或いはトラックを奇襲されるなどの失敗を招いた。
情報軽視とも関連するが、戦果確認が不十分で、その後の作戦に多くの影響を与え、また正式発表に対する信頼を失わせることになった。台湾沖の航空戦がもっともよい例であるが、確認が困難で、錯誤の多い夜間航空攻撃の成果を、現場の報告を鵜呑みし、翌日の偵察等で確認をとらず、裏付けを求めた米海軍と比較して、日本海軍の甘さが顕著だった。
次に申上げたい教訓 4、教訓の蓄積と活用である。米海軍は真珠湾攻撃直後空母中心に兵力整備を転換した。また第一次ソロモン海戦後、巡洋艦・駆逐艦の戦術を検討し、訓練を励行するなど、教訓の活用は見事で、迅速だった。それと比較して、日本海軍の教訓の調査、整理、活用の態勢は誠にお粗末で、ミッドウェー海戦後、戦訓の調査も研究会も実施されず、組織的に教訓を学び海軍全般で活用する発想がなかった。
兵術的研究調査に任ずべき海軍大学校は解散同様で配員がなく、各術科学校も、術科面からの戦訓を、調査研究する配員もなかった。
次に申し残したいこと 5、驕り症候群である。人間はとかくうまくいくと思い上がり、まずい時は落ち込む傾向があるが、日本人はその幅が大きいのではないか。真珠湾攻撃の成功によって、国家総動員態勢のスタートが遅れたのはその一例である。アメリカにいた駐在武官が日本に引き揚げてきて、米海軍省が非常勤務態勢に比べ、我が海軍省も軍令部も、定時出勤、定時退庁、平時そのままの執務状況に驚いたこと、イギリスにいた武官が、首脳部にイギリスを風前の灯火と見ているのは間違いであるとして、経済力・精神力・戦争指導等の実例を挙げて報告した際、多くは居眠りをしていて反応がなかったことなどから、その一端が窺われる。 実行部隊の方も、真珠湾攻撃前の虎の尾を踏むような慎重さと、今度はミッドウェー攻略前の油断の差は顕著であった。この時は兵力も錬度も遥かに敵に優っていた。暗号が解読されて、手の内を全部読まれていたが、まともに戦闘すれば決して負けることはあり得ない筈であった。その敗因のうち、
* 敵機動部隊が待ち受けていることなど全く考えなかった(潜水艦による哨戒線配備の遅れ)(杜撰な捜索計画とその形式的実施、敵空母存在の通信情報の不通達)(敵艦隊攻撃のため控えていた航空機の陸上攻撃への転換)
* 敵空母の存在を知ってからの緩慢な処置、などは、まさに驕りが招いた事態であった。
次に、6、攻撃と防御の考え方に触れる。海戦要務令で「戦闘の要旨は攻勢を取り、速やかに敵を撃滅するにあり」と定められ、攻撃を最良の防御とし、先制と奇襲を金科玉条とする考えは、海軍に深く浸透し、作戦計画にも教育計画にもすべて適用されていた。攻撃重視の思想は、創設以来劣勢兵力を以て国防にあたる宿命に置かれた日本海軍としては、必然ではあったが、それが行き過ぎて防御軽視、さらに防御無視にまで至ると、多くの問題が生じる。防御軽視の顕著な例としては、毎上交通保護、沿岸及び港湾防備、防空、対潜、対機雷などに対する、中央当局や艦隊中枢部の無理解で冷淡な態度、或いは艦艇、航空機の装備の偏向などが挙げられる。レーダー開発の進言に対し、消極的な防御兵器は帝国海軍には不要であるとして、却下した軍令部の狭い硬直した見解、零戦や中攻には、搭乗員や燃料に対する防弾装置を欠き、ワンショットライターと言われて、多くの犠牲を出したこと、艦艇応急に対する関心と熱意に欠いたことなどはよく知られている。
次に、7、年功序列の人事と信賞必罰を欠いたこと。(省略)
次に、思想の統一と柔軟性について。(省略)
次に、同じ柳の下に泥鰌はいないという戒め。(省略)
最後に最も重要なことの一つ、日本海軍にはロジスティクスという観念がなかったこと。
燃料や食料の補給、艦船や装備の補修、航空機や部品の生産整備、施設整備、輸送などは極めて重視され、個々の組織もよく整えられ、立派な人材も配されたが、それらを総合して作戦を支援するという考え方はなく、ロジスティクスが作戦の成り立つ前提であり、その成否を支配するということに考えが及ばなかった。基地航空部隊の作戦にしても、基地の獲得整備は考えても、その後如何にして基地機能を維持し、作戦を継続発展させるのかの発想(基地防空、部品や燃料弾薬の補給備蓄、施設の修理復旧、搭乗員の休養交代等)が不十分であった。つまり海軍は航空作戦の総合的検討が十分であったとは言えなかった。これを重視しなかったことは、自らの作戦に支障をきたすだけでなく、敵のロジスティクスを攻撃する発想を欠き、大きな不利を招いた。ハワイの第二撃問題、潜水艦の用法、敵輸送部隊の攻撃や後方施設の破壊の軽視、などはその例である。
もし海軍が真剣にロジスティクスに取り組み、さらに国家のロジスティクスを考えたとしたら、果たして開戦に踏み切ることができたであろうか。