近代日本の思想的二面性、文明開化路線と維新精神継承路線

2024年01月28日 | 歴史を尋ねる

 中国の実態をもっともっと知りたい、その上で中国脅威論を緩和させたい(知らないが上の虚像をおそれるという漠然とした脅威論の解消)というのが、最近の項目のテーマであるが、先日ユーチューブ(ゆっくりさよならC国)を見ながら、トランプを通した習近平の言動に驚いた。トランプが安倍さんにこう言った、という。「『世界で一番残虐なのは日本兵だ』とナチスドイツの軍人が言っていたそうだ。その日本に100年も支配されていたのだから、中国人が反日感情を持つのは無理はないだろう」と。そこで安倍さんは、誰からそんなことを聞いたのかと尋ねたそうだ。すると、トランプ氏は「先日、習近平が言っていた」と答えた。だから安倍さんは、中国からの脅威が如何に深刻かを説いた。それでトランプ氏の対中政策は決まったという、と。安倍さんが働きかけるまえは、欧米各国が不自然に中国を評価していたのも、例によって中国のプロパガンダが功を奏していたと言ってもいい。彼らは日本の歴史を捻じ曲げて各国首脳に広げていた。それがバレたのはトランプ大統領が正直に語ってくれたからだった。このエピソードは何を意味するのか。習近平は日米離間策の為にこのようなプロパガンダをトランプに言ったのか、はたまた、習近平自身も歴史をそのように理解していて、言葉にしたのか。習近平がプロパガンダで言ったとしたら、まだいい。しかし後者であるなら、ことは深刻だ。習近平が中国共産党の中で学んだ歴史は、後者ではある可能性が高い。プロパガンダの情報しかないのだから。そこから出てくる政治的判断は恐ろしいものとなる。
 もう一つ、垂前駐中国大使のプライムニュースでの発言は興味深い。垂 秀夫氏の今の中国を理解する視点は三つあるという。①共産党のレジティマシー(正当性)、②習近平体制の統治、③国家戦略目標の変化。このブログで特に注目するのは、①である。レジティマシー(正統性(せいとうせい、英: legitimacy))とは、ある政治権力が支配者として確立し、権威化されることの正当性をいう、という。垂氏が言うには、「民主主義、選挙に対応していない中国にとって中国がなぜ共産党が統治しなければならないのか、なぜ共産党なのか、を常に答えなければいけない、ならない、人民に対して。それには、その時代、時代の指導者が答えなければいけない。例えば毛沢東は抗日戦争の勝利、あるいはフトウチ、あるいは建国したという答えを持っていた。その後の文革を経て毛沢東の考えについていけなくなった時、鄧小平は改革開放、近代化をいい、共産党に付いてくればみんなが豊かになれる、昨日より今日、今日より明日が豊かになれるというのが共産党のレジティマシーになった。鄧小平がなくなった後もしばらくはこの答えが続いてが、習近平になって経済成長も陰りが出てきて、社会のひづみが沢山出て来た。例えば腐敗汚職、あるいは経済格差、公害問題等が出て来た。鄧小平時代と同じ答えではだめだ。そこで習近平が提起したのは、強い中国、中華民国の偉大な復興という答えを出した。そして更に③の国家戦略目標を経済建設から国家の安全に重点を移した、と。レジティマシーの為に、中華民国の偉大な復興というテーマを掲げる。周辺国から見れば迷惑な話だ。そのためにいろいろな課題を突き付ける。中国では外交よりも内政問題が優先される、と言われる。国際協調路線は中々難しい国だ。

 ここでのテーマは歴史を紐解いて、中国の実態に迫ろうというものだ。前回からの引続きとなる。中国革命を支援した日本の民間志士たちは一般に、「支那浪人」「大陸浪人」などと呼ばれた。その中心的存在だった玄洋社、黒龍会などの大アジア主義グループは、戦後日本では単に国家主義団体、右翼団体などと位置付けられたことで、その功績は無視された。黒龍会などは、終戦直後、アメリカ占領軍から「ブラック・ドラゴン」などと呼ばれ、マフィアのような扱いを受け、侵略主義の暴力団といったイメージが定着している。しかし本来は「黒龍」とは満露国境の大河、黒竜江から取ったもので、ロシアの侵略から東亜の平和を守るという崇高な使命感に裏打ちされたものであった。 また、今日の中国でも、日本浪人はテレビドラマでもおなじみで、「日本軍国主義の手先」といったマイナスイメージが定着している。だから中国の学者は、辛亥革命における日本人志士の友情、つまり「侵略主義者」たちの協力という史実をどう評価すべきか悩み続けてきた、と。
 1961年、中国で辛亥革命五十周年記念の学術討論会が開かれ、日本人志士は日本政府と密接な関係があり、侵略活動に関与したとして、偽りの友人であるという意見が多数を占めたが、ある学者は孫文の側近何香凝の『辛亥革命回顧録』で、宮崎滔天、犬養毅、萱野長知、寺尾亨を記録しているものを基準に評価すべきだと主張した。最近では、とくに宮崎滔天については、孫文の忠実な部下として、しばしば好意的に扱われている。しかし内田良平などは相変わらず、革命派を利用して侵略を企んだ極悪人である。利用したとはいかにも中国人的発想である。「孫中山は日本人をりようしていたのだ」という孫文弁護論がしばしば見られるが、「他人は利用するもの、騙すもの」と信じて疑わないこの民族に、「打算を越えた友情」を何より尊ぶ日本人の性格はなかなか理解できない。内田は南北妥協後、確かに反革命に回っているが、それは、これまで日本が中国に期待しながらとった「支那保全主義」や革命支援といったことに対し、中国の民族性はその好意を解さないどころか、かえって増長し、一層亡国の度合いを深めている、ならば今後は列国並みに強圧的に中国を指導しなければならない。さもなくば「徒に衰亡腐朽の隣国に対して情死的犠牲となる、と。
 中国の革命運動に馳せ参じた多くの日本の人たちは、情熱、勇気そして能力があっただけでなく、国民国家建設の経験や知識も兼ね備え、さらに武士道精神にも富んでいた。彼らが発揮した力は、中国の革命党人の及ぶところではなかった、と黄文雄氏は高く評価する。当時の日本人の生き様には敬服する。彼らは中国やアジア各国での革命や独立運動の支援活動は、多くは打算抜きの純粋な道義心から行っている。彼らの「義を見て為さざるは勇なきなり」を地でいった、生命をも顧みないあっけらかんとした冒険心は、今の若い日本人には理解することは難しいかもしれない、と。この時代にはまだ、明治維新の精神や情熱が息づいていたと言っていいのではないか、当時の日本人が持っていた「時代の精神」から、もう少し掘り下げたいと、黄文雄氏は、以下の分析をする。(国民国家を太字にしたが、後日その訳を紹介する)

 日本人は明治維新以降、積極的に海外に進出し、中国だけでなく各国における革命、独立運動を支援している。それも朝鮮、フィリピンといったアジア各地の運動だけでなく、遠くラテンアメリカでの独立戦争も含まれる。それはなぜか、と黄氏。明治日本の富国強兵という国家的大目標はもともと、幕末以来の尊王攘夷の精神から発している、と。一般には明治維新後、日本政府は「攘夷から開国に転じた」との言い方がされているが、その開国政策自体、富国強兵のためのものであり、国家防衛=攘夷の為の一手段だった。明治維新における尊王攘夷の指導者たちの思想を見ていると、中国や朝鮮で見られた単なる夜郎自大(自分の力量を知らない人間が、仲間の中で大きな顔をしていい気になっていること)の排外主義ではなく、むしろ西洋文明が弱肉強食の競争原理に基づいたものであることを見抜き、その功利を重んじる非道義性への批判を根底に置いていた。例えば西郷隆盛は「真に文明ならば、未開の国に対しては、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、しからずして残忍酷薄を事とし、己を利するは野蛮なりというべし」という有名な言葉を吐いている。折角の機会なので、西郷南洲遺訓で詳細を見ておきたい。

一一 文明とは道の普(あまね)く行はるるを賛(さん)称(しょう)せる言にして、宮室の荘(そう)厳(ごん)、衣服の美麗、外観の浮(ふ)華(か)を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蛮やら些(ち)とも分からぬぞ。予(よ)、甞(かつ)て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢゃと云ひしかば、否(い)な文明ぞと争ふ。否な否な野蛮ぢゃと畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左(さ)は無くして未開蒙(もう)昧(まい)の国に対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢゃと申せしかば、其の人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。 
(訳)文明というのは道理にかなったことが広く行われることをたたえていう言葉であって、宮殿が大きくおごそかであったり、身にまとう着物がきらびやかであったり、見かけが華やかでうわついていたりすることをいうのではない。
世の中の人のいうところを聞いていると、何が文明なのか、何が野(や)蛮(ばん)(文化の開けないこと)なのか少しもわからない。
自分はかつてある人と議論したことがある。自分が西洋はやばんだと言ったところ、その人はいや西洋は文明だと言い争う。
いや、やばんだとたたみかけて言ったところ、なぜそれほどまでにやばんだと申されるのかと力をこめていうので、もし西洋がほんとうに文明であったら、未開国に対してはいつくしみ愛する心をもととして懇々と説きさとし、もっと文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、未開で知識に乏しく道理に暗い国に対するほどむごく残忍なことをして自分たちの利益のみをはかるのは明らかにやばんであると申したところ、その人もさすがに口をつぐんで返答できなかったよと笑って話された。 

 葦津珍彦(あしづうずひこ)は『明治維新と東洋の開放』の中で、日本政府が西洋諸国の反対を撥ね付け、横浜に停泊中のペルー船籍の奴隷船マリア・ルーズ号の船長を裁判にかけ、同船に監禁されていた中国人苦力230名を解放した1872年のマリア・ルーズ号事件を引き合いに出し、「事件は明治維新の外交精神を端的に示している。それはアジアを植民地化し、奴隷化しようとする白人の勢力に反発して、東洋の独立と開放を求める精神である。尊攘の精神の発展である。東洋の独立と解放のためには、まず日本の国権を強くせねばならない。日本の国権を強化し、拡張することは、そのまま東洋の解放に通じると考えられた。日本の国権の拡張こそが、日本人民の民権確立の基礎であり前提であると信ぜられたのである。維新時代の日本人が、そのように考えたのは当然であって少しも怪しむに足らない」 
 日本の攘夷の思想とは、太平の世、人の和を尊ぶ日本人の民族性にもとづいた平和防衛の思想である。それを無知蒙昧な排外主義とあざ笑う向きもあるが、それは文明開化以降に定着した、西洋至上主義(科学主義、功利主義)から来る偏見に過ぎない。日本人にはもともと自ら戦いを求めるような好戦性はない。しかも中華思想から来る中国人のような排外思想も持っていない。むしろ外国の文物を好み、尊ぶという大らかさが民族性だ。ただ日本人には、日本(あるいはアジア)の静謐を奪おうとする外国勢力に対しては、命をかけて立ち向かうという民族的特性が見られる。それが攘夷の精神だ。明治以降の日本軍人の世界に冠たる勇敢さも、その精神の発露と見なくては説明がつかない。特攻隊が攘夷精神の権化であることは彼らの遺書を見れば分かる、と。
 明治以降、官界、学会など国家指導者層に西洋至上主義が蔓延する中、そのような維新の精神を地下で継承していたのが、西郷隆盛の道統を継ぐ頭山満、内田良平など、在野民間の志士たちである。頭山や内田は、西郷の征韓論さながら、対露防衛のためシベリア、満州、朝鮮を睨んだ。頭山、犬養、内田は朝鮮独立運動にも深く関わっている。宮崎滔天は自由民権運動に参加した後、アジア各地を飛び回っている。彼らが中国革命の支援に乗り出したのも自然の流れだった。中国を立て直して列強の侵略から救出し、日中提携による強力なアジアを建設しようとしたのが、彼らの道義心であり、愛国心だった。ふーむ、黄文雄氏の見解は、戦後の史家にこうした見方はあまりないが、慧眼かもしれない。
 戦後の史家には、征韓論を朝鮮侵略論と堂々とすり替える人(ウキペディアを書いた人)もいるが、その人に聞いてみたいものだ。当時日本が朝鮮を侵略してその先どうしようとしていたのか、その見解を言うことが出来るだろうか。 参考までに、東洋経済オンラインで、常井宏平氏は征韓論について一文を掲載している。「西郷が明治政府の名目上の首班である太政大臣・三条実美に送った「朝鮮国御交際決定始末書」という意見書には、次のような内容が記されている。「かの国(朝鮮)はわが国に対してしばしば無礼な行いをして、通商もうまくいかず、釜山に住む日本人も圧迫を受けています。とはいえ、こちらから兵士を派遣するのはよくありません。まずは一国を代表する使節を送るのが妥当だと思います。暴挙の可能性があるからといって、戦いの準備をして使節を送るのは礼儀に反します。そのため、わが国はあくまで友好親善に徹する必要がありますが、もしかの国が暴挙に及ぶのであれば、そのときはかの国の非道を訴え、罪に問うべきではないでしょうか」 西郷が乱暴な手段を好まず、外交によって朝鮮との関係を構築しようとしたのは、上記の意見書の要約を見れば明らかだ」と。 ここで罪を問うべきとは何か? もちろん武力に訴えることは想定していたかもしれない。それが即侵略に結びつかないのが、当時の感覚ではないか。侵略に結びつけるのは戦後の史家の感覚である。確かに三韓征伐という言葉もあるが、侵略ではなかった。むしろ懲らしめると言った用法ではなかったか。西洋諸国のアジア進出に対して、共に立ち上がることを諭すことにあった。それが西郷南洲遺訓の精神である。その考えを踏まえて、黄文雄氏は『頭山や内田は、西郷の征韓論さながら、対露防衛のためシベリア、満州、朝鮮を睨んだ』と記している。黄文雄氏の方が、戦後の史家より、当時の日本人を正確に理解している。更に黄文雄氏は言う。戦前の民間右翼の本流だった玄洋社、黒龍会を「日本帝国主義の手先」「中国侵略の尖兵」などとするのは大きな間違い。この誤った認識は、戦後の右翼=アジアの敵という思潮のなかでうまれたものであって、もちろん戦前には見られなかった。実際彼らは国家権力をもっても御し得ない、反体制の草莽サムライ集団だった、と。

 明治維新以降、日本には二つの対立する大きな思想的流れがあったと見ることが出来る、と黄氏。それを葦津珍彦の言葉を借りながら言えば、一つは政府高官の「日本を『欧州的一新帝国』とすることを目標とし、そのためには『幕末的攘夷思想=日本的土着文明』を清算せねばならない」とする文明開化路線。もう一つは民権党の在野政客や志士浪人の「日本の国権は、列強に対する抵抗を通じてのみ確保され伸張されるという信念」にもとづいた、維新精神継承路線。前者は国策の主流で、後者は官憲の取り締まりの対象であり、主流ではなかった。玄洋社も黒龍社も後者に属する。彼ら大アジア主義の一統は、一貫して政府の国際協調(アジア侵略勢力との提携)的な対列強消極外交を攻撃すると共に、アジア防衛のため中国や朝鮮に覚醒と提携を訴えた。しかし、これら夜郎自大の国々を覚醒させるためには日本勢力の扶植が必要である。そのため日本政府の「手先」どころか政府に圧力をかけ、政府が困惑するほど強硬な主張を展開し、または実践行動に打って出た。その強硬姿勢が、戦後彼らに押された烙印、「侵略主義」というものの真相である、と。確かに戦後はレッテル張りで、彼らの實相を伝えるメディアは少なかったし、戦後のGHQの報道規制も厳しいものがあった。しかし彼らの主張は優れて道義的なものだった、功利打算を拝した、大義の為なら身を鴻毛の軽きに致す純粋な姿勢のため、政府・軍部から疎まれ、恐れられた、と黄文雄氏は評価する。

 近代日本の思想的二面性、文明開化路線と維新精神継承路線を混同しては、当時の日本及び日本国民のアジア進出の歴史は正確には分からない。孫文は1924年に神戸で、「日本民族はすでに欧米の覇道文化を手に入れている上に、アジアの王道文化の本質も持っている。今後世界文化に対して、結局西方覇道の手先になるか、東方王道の牙城になるかは日本人が慎重に選ぶべきことだ」と講演しているが、それはこの二つの思潮の併存を指摘したものと言える、と。富国強兵と国権拡張こそ明治維新以降、列強に支配される国際社会に参入した日本の挙国的な大目標だった。そのため日本は富国強兵の手段として技術から制度、思想に至る西洋文明を導入し、「文明開化」と呼ばれる西洋化改革を推進した。ところが、それら西洋の文化自体に西郷隆盛の言う「野蛮」性=帝国主義が内包されていた。アジアの弱小国に過ぎなかった日本を、世界に伍し得る強大国に押し上げようと急いだ明治の当事者に、その野蛮性を批判、排除するゆとりなどなかった。確かに日本人は西洋の侵略行為を憎み、日本とアジアの平和を願っていたが、平和を確保するため、自らも西洋列強の非平和的手段を模倣せざるを得ないという矛盾した状況に陥った。孫文が「日本は欧米の覇道文化を手に入れた」と指摘したのもこの事であった。
 満州事変後の「王道楽土」や「五族協和」、支那事変後の「東亜新秩序」、大東亜戦争における「アジア開放」などの理念も、単なるご都合主義のスローガンというより、攘夷=反列強支配秩序という道義的感覚に立脚したものだった。だから当時の日本人が「聖戦」を信じていたのも、そのような自然的感覚があったからだろう、と黄氏は推測する。もしそうでなければ、諸民族の独立や自治のため、日本人はあれほど見事に戦うことはなかっただろう。今日の日本人には当時を悪し様に非難するものが多いが、少なくともあの頃は、日本民族の国家的な道義心や使命感が光り輝いていた時代だった、と。

 

 

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