新外相には、67歳の元駐英大使吉田茂が就任した。貴族趣味の硬骨外交官として知られ、重光前外相の九歳上、総司令官マッカーサー元帥よりも2歳年長だった。マッカーサー元帥と話の出来る外相との期待を込めた人選だった。しかし重光前外相の観察では、首相とその周辺は、ひたすら戦犯逃れの対策に終始している。9月25日、ニューヨークタイムズ特派員の天皇インタビュー記事が掲載された。実際は直接取材ではなく、提出済みの質問に対する回答書の形だが、そこでは真珠湾のだまし討ちについての宣戦の大詔に利用されたがどう思うか聞かれ、それは自分の意図ではなかった、との天皇の答えを得たにとどまった。重光はインタビューそのものが不要だと判断していた。すると、27日、天皇がマッカーサー元帥を訪問し、室内に立つ二人の写真が二日後の新聞のトップをかざった。腰に手をあててごう然とした感じの開襟シャツ軍装の元帥と並ぶ、モーニング姿で直立する天皇の姿は、日本国民に衝撃を与えた。会見は、日本で最高の権威者でありかつて訪問されたことはあっても訪問したことのない天皇。その天皇に往訪させて総司令官の権威の方が上であることを日本国民に知らせる、という元帥の意向で設定された。政治顧問代理のアチソンも、過度にならない限り、天皇がある程度面子を失うことは望ましい、と会見の狙いを述べている。そのような事情を知らない重光は、天皇の元帥訪問は政府側の申し入れによるものと想像し、いかにも日本流の媚態による浅はかな企図であり、皇室の威厳と国家の権威を自ら放棄したに等しい。日本の将来は魂をなくして建設し得るか、気魄を失っては第二のフィリピン人になるだけだと、前外相はうめいた、と児島襄は記述する。
一方で総司令部も、東久邇宮内閣に不満であった。表向きには、日本は平和国家になる、民主国に変る。ポツダム宣言を忠実に履行する、ともいう。が、その宣言が求める「民主主義的傾向の復活強化」、「言論、宗教および思想の自由」などについては、さっぱり具体的な施策が見られない。ただ頭を下げて約束をごまかそうとしている様だ、との批判の声も高まっていた。しかし、東久邇宮内閣にしてみれば、ウソをつくつもりも違約をする下心もない。ただ、国家の民主化といっても、七十余年間つづいた政治体制に慣れ、それ以外を知らぬ以上は、民主主義も「宣言」も主義は理解できても、具体的にどの体制をどのように変革すればよいのか、とっさには分からない。東久邇宮内閣としては、総司令部に日本側の政治事情も説明して相談しながら、徐々に且つ順次に改変を進めようとしていた。だが、民主主義といえば米国型民主主義が最良だと信じ、その概念は普遍的だと考える米国側にしてみれば、日本が知らないとは思えない。意にかなう改革が実行されないのは、あえてサボっているのではないか、と疑うのであった。特に総司令部は、山崎巌内相が天皇・マッカーサー元帥の並立写真を掲載した新聞を発禁処分にしたことに、激怒した。言論、思想の自由を求めるポツダム宣言に反攻するものではないか。写真は、総司令部検閲課長フーバー大佐の抗議で、再掲載されたが、総司令部は、さらに10月4日、「政治、信教並びに民権の自由に対する制限の撤廃」と表記された覚書を政府に示達した。
思想、宗教、言論、人種などに関する差別あるいは制限の全廃を指示し、その中には天皇、皇室、政府に対する自由討議を妨げる法令の廃止も、含まれた。さらに治安維持法その他の法令の廃止、政治犯の釈放、特高警察の廃止のほか、内相、警視総監、警保局長ら約四千人の警察関係者の罷免も要求した。総司令部が、これまでの日本側の施策を待つ「委任型間接統治」方式を、何をなすべきかを指示する「指導型間接統治」に切り替えた感じであった、と児島襄。「覚書」は、内務省と警察の艦隊命令にひとしい強制力を持つ。東久邇宮首相は、実行したくないと考えた。内閣はこれら多数の官吏を見殺しに出来ないといって、翌日の閣議で、東久邇宮内閣は総辞職した。
10月9日幣原喜重郎内閣が誕生、二日後、マッカーサー元帥を訪ねた。マッカーサー元帥は、日本民主化のためには次の五項目の実践が必須だと、幣原首相に告げた。①参政権の賦与による婦人の解放、②労働組合の組織の奨励、③学校教育の自由主義化、④秘密審問司法制度の廃止、⑤経済制度の民主化、独占の是正。首相は、何れも実行できる、と即答した。実は、首相は親任式後の初閣議で政府が直ちに取り組むべき課題として、八項目を決定していた。①民主主義の確立、②食糧問題の解決、③復興問題、④失業問題、⑤戦災者の救護、在外同胞および軍隊の処理、⑥行政整理、⑦財政および産業政策、⑧教育および思想。幣原首相は、八項目を説明し、日本には戦前に「民主主義の潮流」があった、必ず実現する、と述べた。愛想よく首相を送り出した後、元帥は渋面をあらわにした。元帥は五項目を提示する前に、民主化のための社会改革を求め、憲法の自由主義化を包含すべき、と主張していた。元帥の要求は実質六項目で、とりわけ憲法改正を最重要テーマとして指摘したが、首相はそれに触れず去った。憲法改正に言及せず日本的デモクラシーを強調する首相に、不安感をさそわれた。幣原内閣も東久邇宮内閣に似て、口先で民主化を唱えながらも、実行となると逃げだすのではないか、と。
ポツダム宣言は、宣言の要求が実行され、日本国民の自由意思で選ばれた平和的で責任ある政府が誕生したら、占領軍は引き揚げると規定している。逆に言えば、日本側が国民の意思とは離れた非平和的で無責任な政府を、次々に繰り出して宣言の実行をサボれば、占領は長引くことになる。元帥は、対敵情報部長ソープ准将に民心の動向を訊ね、准将は、民主主義の基盤である個人主義の伝統は、日本には存在しない、日本人は民主化を価値観の変化と理解し、「お互い様」なる標語を案出して、秩序を無視しようとしている。ニュ―ギニアに煮ています、と。
第八軍司令官アイケルバーガー中将は、日増しに日本国と日本人に好感を持った。「日本、四等国に転落」とは東京朝日新聞の表現である。多くの日本人は、汚れたよれよれの服装で焦土をうろつき、闇市で怪しげな飲食物にむらがっている。だが、こと占領軍に対しては、日本国民は極めて従順であり、タバコ、菓子をねだることはあっても奪取しようとする者は皆無。抵抗又は反抗するものもなく、一般車両が混雑していても、お互い様だとがら空きの進駐軍車両に乗り込んでくる市民はいない。中将の観察では、日本人は決して蛮人でもなければ四等国でもない。来訪する政、官、財界人や旧軍人は何れも格調高い英語を話し、教養をうかがわせる話題に事欠かない。モンペ姿の夫人が新聞を読んでいた。識字率が100%を裏付ける姿だ。新聞を読める米兵は70%以下である、と。箱根ホテルに出かけた時、元帥付きのコックを連れて行った。ところが調理場に入ったコックが飛び出してきた。冗談じゃない、オレが弟子入りしなければならないコックが6人もいちゃ、と。
食は文化なり、という表現に従えば、日本は四等国どころか、一等文化国ではないか、中将はつくづく思った。第八軍参謀長ベイヤース少将は、総司令部に寄せられる日本人の投書の苦情は、すべて日本政府を対象にしたものばかりだ、と中将に報告し、「奇妙なことだが、日本人は占領を歓迎しているようです」と。
反発も紛争もなく日本人が占領を歓迎し、女性が米兵と腕を組むのは、結局は、単なる事大主義や敗者の媚態ではなく、日本人が民主主義を理解する能力を持ち、それを好むからではないか。なんとなく、民主国米国が民主国日本と戦ってきたようだ、との感慨も涌くが、日本国民の民主的傾向の掘り起こしに米軍が寄与したとすれば、占領の成果と誇ってよい。中将は10月中旬、夫人に手紙を書いた。「われわれはこの7週間に日本で膨大な仕事をやり遂げ、やることは僅かしか残っていないと思う・・・・日本人の精神的変化、これこそ我々の最大の成果ではないか」と。
一方で総司令部も、東久邇宮内閣に不満であった。表向きには、日本は平和国家になる、民主国に変る。ポツダム宣言を忠実に履行する、ともいう。が、その宣言が求める「民主主義的傾向の復活強化」、「言論、宗教および思想の自由」などについては、さっぱり具体的な施策が見られない。ただ頭を下げて約束をごまかそうとしている様だ、との批判の声も高まっていた。しかし、東久邇宮内閣にしてみれば、ウソをつくつもりも違約をする下心もない。ただ、国家の民主化といっても、七十余年間つづいた政治体制に慣れ、それ以外を知らぬ以上は、民主主義も「宣言」も主義は理解できても、具体的にどの体制をどのように変革すればよいのか、とっさには分からない。東久邇宮内閣としては、総司令部に日本側の政治事情も説明して相談しながら、徐々に且つ順次に改変を進めようとしていた。だが、民主主義といえば米国型民主主義が最良だと信じ、その概念は普遍的だと考える米国側にしてみれば、日本が知らないとは思えない。意にかなう改革が実行されないのは、あえてサボっているのではないか、と疑うのであった。特に総司令部は、山崎巌内相が天皇・マッカーサー元帥の並立写真を掲載した新聞を発禁処分にしたことに、激怒した。言論、思想の自由を求めるポツダム宣言に反攻するものではないか。写真は、総司令部検閲課長フーバー大佐の抗議で、再掲載されたが、総司令部は、さらに10月4日、「政治、信教並びに民権の自由に対する制限の撤廃」と表記された覚書を政府に示達した。
思想、宗教、言論、人種などに関する差別あるいは制限の全廃を指示し、その中には天皇、皇室、政府に対する自由討議を妨げる法令の廃止も、含まれた。さらに治安維持法その他の法令の廃止、政治犯の釈放、特高警察の廃止のほか、内相、警視総監、警保局長ら約四千人の警察関係者の罷免も要求した。総司令部が、これまでの日本側の施策を待つ「委任型間接統治」方式を、何をなすべきかを指示する「指導型間接統治」に切り替えた感じであった、と児島襄。「覚書」は、内務省と警察の艦隊命令にひとしい強制力を持つ。東久邇宮首相は、実行したくないと考えた。内閣はこれら多数の官吏を見殺しに出来ないといって、翌日の閣議で、東久邇宮内閣は総辞職した。
10月9日幣原喜重郎内閣が誕生、二日後、マッカーサー元帥を訪ねた。マッカーサー元帥は、日本民主化のためには次の五項目の実践が必須だと、幣原首相に告げた。①参政権の賦与による婦人の解放、②労働組合の組織の奨励、③学校教育の自由主義化、④秘密審問司法制度の廃止、⑤経済制度の民主化、独占の是正。首相は、何れも実行できる、と即答した。実は、首相は親任式後の初閣議で政府が直ちに取り組むべき課題として、八項目を決定していた。①民主主義の確立、②食糧問題の解決、③復興問題、④失業問題、⑤戦災者の救護、在外同胞および軍隊の処理、⑥行政整理、⑦財政および産業政策、⑧教育および思想。幣原首相は、八項目を説明し、日本には戦前に「民主主義の潮流」があった、必ず実現する、と述べた。愛想よく首相を送り出した後、元帥は渋面をあらわにした。元帥は五項目を提示する前に、民主化のための社会改革を求め、憲法の自由主義化を包含すべき、と主張していた。元帥の要求は実質六項目で、とりわけ憲法改正を最重要テーマとして指摘したが、首相はそれに触れず去った。憲法改正に言及せず日本的デモクラシーを強調する首相に、不安感をさそわれた。幣原内閣も東久邇宮内閣に似て、口先で民主化を唱えながらも、実行となると逃げだすのではないか、と。
ポツダム宣言は、宣言の要求が実行され、日本国民の自由意思で選ばれた平和的で責任ある政府が誕生したら、占領軍は引き揚げると規定している。逆に言えば、日本側が国民の意思とは離れた非平和的で無責任な政府を、次々に繰り出して宣言の実行をサボれば、占領は長引くことになる。元帥は、対敵情報部長ソープ准将に民心の動向を訊ね、准将は、民主主義の基盤である個人主義の伝統は、日本には存在しない、日本人は民主化を価値観の変化と理解し、「お互い様」なる標語を案出して、秩序を無視しようとしている。ニュ―ギニアに煮ています、と。
第八軍司令官アイケルバーガー中将は、日増しに日本国と日本人に好感を持った。「日本、四等国に転落」とは東京朝日新聞の表現である。多くの日本人は、汚れたよれよれの服装で焦土をうろつき、闇市で怪しげな飲食物にむらがっている。だが、こと占領軍に対しては、日本国民は極めて従順であり、タバコ、菓子をねだることはあっても奪取しようとする者は皆無。抵抗又は反抗するものもなく、一般車両が混雑していても、お互い様だとがら空きの進駐軍車両に乗り込んでくる市民はいない。中将の観察では、日本人は決して蛮人でもなければ四等国でもない。来訪する政、官、財界人や旧軍人は何れも格調高い英語を話し、教養をうかがわせる話題に事欠かない。モンペ姿の夫人が新聞を読んでいた。識字率が100%を裏付ける姿だ。新聞を読める米兵は70%以下である、と。箱根ホテルに出かけた時、元帥付きのコックを連れて行った。ところが調理場に入ったコックが飛び出してきた。冗談じゃない、オレが弟子入りしなければならないコックが6人もいちゃ、と。
食は文化なり、という表現に従えば、日本は四等国どころか、一等文化国ではないか、中将はつくづく思った。第八軍参謀長ベイヤース少将は、総司令部に寄せられる日本人の投書の苦情は、すべて日本政府を対象にしたものばかりだ、と中将に報告し、「奇妙なことだが、日本人は占領を歓迎しているようです」と。
反発も紛争もなく日本人が占領を歓迎し、女性が米兵と腕を組むのは、結局は、単なる事大主義や敗者の媚態ではなく、日本人が民主主義を理解する能力を持ち、それを好むからではないか。なんとなく、民主国米国が民主国日本と戦ってきたようだ、との感慨も涌くが、日本国民の民主的傾向の掘り起こしに米軍が寄与したとすれば、占領の成果と誇ってよい。中将は10月中旬、夫人に手紙を書いた。「われわれはこの7週間に日本で膨大な仕事をやり遂げ、やることは僅かしか残っていないと思う・・・・日本人の精神的変化、これこそ我々の最大の成果ではないか」と。