東久邇宮内閣から幣原内閣へ

2019年09月28日 | 歴史を尋ねる
 新外相には、67歳の元駐英大使吉田茂が就任した。貴族趣味の硬骨外交官として知られ、重光前外相の九歳上、総司令官マッカーサー元帥よりも2歳年長だった。マッカーサー元帥と話の出来る外相との期待を込めた人選だった。しかし重光前外相の観察では、首相とその周辺は、ひたすら戦犯逃れの対策に終始している。9月25日、ニューヨークタイムズ特派員の天皇インタビュー記事が掲載された。実際は直接取材ではなく、提出済みの質問に対する回答書の形だが、そこでは真珠湾のだまし討ちについての宣戦の大詔に利用されたがどう思うか聞かれ、それは自分の意図ではなかった、との天皇の答えを得たにとどまった。重光はインタビューそのものが不要だと判断していた。すると、27日、天皇がマッカーサー元帥を訪問し、室内に立つ二人の写真が二日後の新聞のトップをかざった。腰に手をあててごう然とした感じの開襟シャツ軍装の元帥と並ぶ、モーニング姿で直立する天皇の姿は、日本国民に衝撃を与えた。会見は、日本で最高の権威者でありかつて訪問されたことはあっても訪問したことのない天皇。その天皇に往訪させて総司令官の権威の方が上であることを日本国民に知らせる、という元帥の意向で設定された。政治顧問代理のアチソンも、過度にならない限り、天皇がある程度面子を失うことは望ましい、と会見の狙いを述べている。そのような事情を知らない重光は、天皇の元帥訪問は政府側の申し入れによるものと想像し、いかにも日本流の媚態による浅はかな企図であり、皇室の威厳と国家の権威を自ら放棄したに等しい。日本の将来は魂をなくして建設し得るか、気魄を失っては第二のフィリピン人になるだけだと、前外相はうめいた、と児島襄は記述する。
 
 一方で総司令部も、東久邇宮内閣に不満であった。表向きには、日本は平和国家になる、民主国に変る。ポツダム宣言を忠実に履行する、ともいう。が、その宣言が求める「民主主義的傾向の復活強化」、「言論、宗教および思想の自由」などについては、さっぱり具体的な施策が見られない。ただ頭を下げて約束をごまかそうとしている様だ、との批判の声も高まっていた。しかし、東久邇宮内閣にしてみれば、ウソをつくつもりも違約をする下心もない。ただ、国家の民主化といっても、七十余年間つづいた政治体制に慣れ、それ以外を知らぬ以上は、民主主義も「宣言」も主義は理解できても、具体的にどの体制をどのように変革すればよいのか、とっさには分からない。東久邇宮内閣としては、総司令部に日本側の政治事情も説明して相談しながら、徐々に且つ順次に改変を進めようとしていた。だが、民主主義といえば米国型民主主義が最良だと信じ、その概念は普遍的だと考える米国側にしてみれば、日本が知らないとは思えない。意にかなう改革が実行されないのは、あえてサボっているのではないか、と疑うのであった。特に総司令部は、山崎巌内相が天皇・マッカーサー元帥の並立写真を掲載した新聞を発禁処分にしたことに、激怒した。言論、思想の自由を求めるポツダム宣言に反攻するものではないか。写真は、総司令部検閲課長フーバー大佐の抗議で、再掲載されたが、総司令部は、さらに10月4日、「政治、信教並びに民権の自由に対する制限の撤廃」と表記された覚書を政府に示達した。
 思想、宗教、言論、人種などに関する差別あるいは制限の全廃を指示し、その中には天皇、皇室、政府に対する自由討議を妨げる法令の廃止も、含まれた。さらに治安維持法その他の法令の廃止、政治犯の釈放、特高警察の廃止のほか、内相、警視総監、警保局長ら約四千人の警察関係者の罷免も要求した。総司令部が、これまでの日本側の施策を待つ「委任型間接統治」方式を、何をなすべきかを指示する「指導型間接統治」に切り替えた感じであった、と児島襄。「覚書」は、内務省と警察の艦隊命令にひとしい強制力を持つ。東久邇宮首相は、実行したくないと考えた。内閣はこれら多数の官吏を見殺しに出来ないといって、翌日の閣議で、東久邇宮内閣は総辞職した。

 10月9日幣原喜重郎内閣が誕生、二日後、マッカーサー元帥を訪ねた。マッカーサー元帥は、日本民主化のためには次の五項目の実践が必須だと、幣原首相に告げた。①参政権の賦与による婦人の解放、②労働組合の組織の奨励、③学校教育の自由主義化、④秘密審問司法制度の廃止、⑤経済制度の民主化、独占の是正。首相は、何れも実行できる、と即答した。実は、首相は親任式後の初閣議で政府が直ちに取り組むべき課題として、八項目を決定していた。①民主主義の確立、②食糧問題の解決、③復興問題、④失業問題、⑤戦災者の救護、在外同胞および軍隊の処理、⑥行政整理、⑦財政および産業政策、⑧教育および思想。幣原首相は、八項目を説明し、日本には戦前に「民主主義の潮流」があった、必ず実現する、と述べた。愛想よく首相を送り出した後、元帥は渋面をあらわにした。元帥は五項目を提示する前に、民主化のための社会改革を求め、憲法の自由主義化を包含すべき、と主張していた。元帥の要求は実質六項目で、とりわけ憲法改正を最重要テーマとして指摘したが、首相はそれに触れず去った。憲法改正に言及せず日本的デモクラシーを強調する首相に、不安感をさそわれた。幣原内閣も東久邇宮内閣に似て、口先で民主化を唱えながらも、実行となると逃げだすのではないか、と。
 ポツダム宣言は、宣言の要求が実行され、日本国民の自由意思で選ばれた平和的で責任ある政府が誕生したら、占領軍は引き揚げると規定している。逆に言えば、日本側が国民の意思とは離れた非平和的で無責任な政府を、次々に繰り出して宣言の実行をサボれば、占領は長引くことになる。元帥は、対敵情報部長ソープ准将に民心の動向を訊ね、准将は、民主主義の基盤である個人主義の伝統は、日本には存在しない、日本人は民主化を価値観の変化と理解し、「お互い様」なる標語を案出して、秩序を無視しようとしている。ニュ―ギニアに煮ています、と。

 第八軍司令官アイケルバーガー中将は、日増しに日本国と日本人に好感を持った。「日本、四等国に転落」とは東京朝日新聞の表現である。多くの日本人は、汚れたよれよれの服装で焦土をうろつき、闇市で怪しげな飲食物にむらがっている。だが、こと占領軍に対しては、日本国民は極めて従順であり、タバコ、菓子をねだることはあっても奪取しようとする者は皆無。抵抗又は反抗するものもなく、一般車両が混雑していても、お互い様だとがら空きの進駐軍車両に乗り込んでくる市民はいない。中将の観察では、日本人は決して蛮人でもなければ四等国でもない。来訪する政、官、財界人や旧軍人は何れも格調高い英語を話し、教養をうかがわせる話題に事欠かない。モンペ姿の夫人が新聞を読んでいた。識字率が100%を裏付ける姿だ。新聞を読める米兵は70%以下である、と。箱根ホテルに出かけた時、元帥付きのコックを連れて行った。ところが調理場に入ったコックが飛び出してきた。冗談じゃない、オレが弟子入りしなければならないコックが6人もいちゃ、と。
 食は文化なり、という表現に従えば、日本は四等国どころか、一等文化国ではないか、中将はつくづく思った。第八軍参謀長ベイヤース少将は、総司令部に寄せられる日本人の投書の苦情は、すべて日本政府を対象にしたものばかりだ、と中将に報告し、「奇妙なことだが、日本人は占領を歓迎しているようです」と。

 反発も紛争もなく日本人が占領を歓迎し、女性が米兵と腕を組むのは、結局は、単なる事大主義や敗者の媚態ではなく、日本人が民主主義を理解する能力を持ち、それを好むからではないか。なんとなく、民主国米国が民主国日本と戦ってきたようだ、との感慨も涌くが、日本国民の民主的傾向の掘り起こしに米軍が寄与したとすれば、占領の成果と誇ってよい。中将は10月中旬、夫人に手紙を書いた。「われわれはこの7週間に日本で膨大な仕事をやり遂げ、やることは僅かしか残っていないと思う・・・・日本人の精神的変化、これこそ我々の最大の成果ではないか」と。
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児島襄著:戦後日米関係の起点「講和条約」

2019年09月20日 | 歴史を尋ねる
 このブログでは、江戸幕末を控えて水戸藩で静かにわき起こった尊王攘夷のルーツから歴史探索はスタートした。黒船襲来から日米修好通商条約締結、慶喜の大政奉還から戊辰戦争を経て、明治新政府誕生、廃藩置県から岩倉使節団遣欧米視察、地租改正から西南戦争、自由民権運動から国会開設、憲法発布から日清戦争、日露戦争から経済体制の発展、韓国併合から関税自主権の確立、第一次世界大戦参戦とシベリア出兵、ワシントン会議から昭和金融恐慌、世界大恐慌発生と満州事変起る、国際連盟脱退から二・二六事件発生、盧溝橋事件発生から日独伊三国同盟調印、真珠湾攻撃からポツダム宣言受諾。ほぼ10年、歴史の細部に拘って、歴史的事実関係を追って来た。そして経済的側面を出来るだけ拾い上げ、歴史的事実の背景をクリアにしようと心がけた。日本人がどう考えどう行動してきたか、大づかみには理解出来た。その結果の一つの破綻がポツダム宣言受諾だった。日本は振り出しに戻ったのか。どうもそうではなさそうだ。今につづく日本の起点となった戦後を、再度尋ねていくこととしたい。その手掛かりを、児島襄の著書、「講和条約」に求めたい。

 昭和20年9月1日、神国の栄え行くなる一里塚 ならぬ堪忍する日の来りぬ 外相重光葵は一句を日誌に記録した。日本はポツダム宣言受諾して降伏したが、降伏条件は、①日本軍の完全武装解除、②日本国民を世界征服に駆り立てた勢力の永久除去、③戦争犯罪人の処罰、④日本国民の民主主義的傾向の復活強化、⑤言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重。結構ではないか、と重光外相はうなずく、こう児島襄は記述する。
 外相の観察によれば、天皇と国民の間に「軍部階級」が介在するようになったため歪み、国民の精神面にもひずみを誘った。重光は戦時中の東條英機内閣の末期、つづく小磯国昭内閣の外相を務めたが、米軍飛行士処刑その他捕虜処遇問題に悩み、日露戦争当時のロシア捕虜と比較して、「日本人は堕落した・・・戦争は物質力に於いて負けたが、すでに軍紀、軍隊の常識においても敗けて居たのであって、日本は精神的に叩き直さねば、世界に顔を出すことは出来ぬ」と。
 「宣言」は、その軍部階級勢力の一掃①②と、旧指導者の退陣③を規定している。実行すれば、日本は本然の姿を回復できる。「宣言」の履行以外に日本は立ち直れない。日本にとっては、たまった垢(あか)を皮膚ごと削ぎ落す痛みを伴う、新生に似た再生の作業でもある。重光が苦痛に耐える「堪忍」の覚悟を詠んだゆえんである、と児島。ただし、日本の改造は自己改造でなければならぬ。強制されたから渋々やるというのでは、いずれは旧態に復する。「宣言」は日本の政治改革を条件にした和平勧告であり、その受諾で両国の合意が成立した。となれば、敗北して占領されても卑屈になる必要はない。日本のための日本による自己改革を、毅然として行えばよい。外相は首相東久邇宮稔彦大将に、占領軍対処作法を進言した。「何れの場合も、ディグニティ(威厳)を持つを要す」と。

 だが、占領軍にはどのように対応すべきか。降伏文書に、「天皇及び日本国政府の国家統治の権は、・・連合国最高司令官の制限の下に置かれる」 一週間後の9月9日に発表された、占領軍総司令部の日本管理方針も、「天皇および日本政府は、マッカーサー元帥の指令を、強制されることなく実施するためのあらゆる機会を提供される」 ここでは国家元首・天皇と政府を認め、それを通ずる間接統治型の占領方式を明らかにしている、と。ドイツは最後まで戦い、首都は攻略され、元首の総統A・ヒトラーは自決した。降伏時には政府は存在しなかった。日本の場合は、本土戦の前に降伏したので、元首も政府も存続した。だから、重光は、日本はドイツのように国家滅亡状態になったのではないのだから、政府としても国民としても威厳を失うな、と。ふーむ、こういう指導者を当時持てて日本は良かった。 でも、児島はつづける。しかし、重光の理解は、ほとんどの日本国民に共有されなかった。日本は、敗戦も被占領も初体験だが、逆に、相手を国家として敗北させたことも占領したこともない。過去の戦争は、勝敗も占領も戦場の事であり、相手国そのものが対象ではなかった。敗国の政治改革をするために占領するという例は皆無である。米国側の声明は、占領が政治的なものであり、戦地占領とは違う旨を告げている。だが、結局は占領は戦争状態の一部であり、米軍も日本軍と同様の所作に出るのではないか。内務省は、終戦直後の8月18日、進駐軍慰安施設の設置を、全国の警察に通達した。特殊女性を性の防波堤として一般女性を守り、併せて米兵を懐柔する。重光外相の発想とは裏腹の着想であった。

 米軍も日本人を恐れていた。グルー元駐日大使ら日本を知る人々は、日本が立憲君主国であり、文化、教育レベルが高い法治国家であり、世界に先駆けて官吏、軍人の公開登用を実施している進んだ国であることを、承知していた。しかし知日派は少数で、ほとんどの米国人にとっては、日本と日本人は完全な未知の国、まったくの異人種、異教徒、異文化の民でしかなかった。昭和17年夏、米海兵隊に配布されたパンフレット「敵を知れ」で「奴らは人間ではない。狼男だ」と記述、いらい、米兵はそう認識して戦ってきた。しかし、捕虜になると一転して情報を告げる日本兵の姿も見た。日本兵の戦意は日本に近づくにつれて高まり、比例して米軍の損害も増え、陸軍参謀総長マーシャル元帥は、「日本人は天皇が自決するまで戦うだろう。米軍の損害は百万を超え、日本人も二千万人が死ぬだろう」と予測。日本人が天皇の命令で降伏したとはいえ、戦意を喪失したとは思えない。進駐について、米兵に与えられた「太平洋戦争の手引き」には、日本占領後一年間はゲリラ戦を予期せよ、特に日本人には単独で面接するな、と特記されていた。マッカーサー元帥も進駐前夜は不安で眠れず、ズボンのポケットに拳銃を入れて、日本に向かった。
 厚木飛行場に到着した第八軍司令官アイケルバーガー中将は、日本軍機がすべてプロペラを外し、出迎える日本軍将校が何れも丸腰姿であるのを見て、眼を見張った。先遣隊長の報告によれば、横浜地区の日本軍は完全に武装を捨て、大森海岸には米軍専用の慰安婦施設が用意され、歓迎準備が整っているという。中将は唖然とした。降伏条件と占領目的の第一眼目は、日本軍の武装解除であるが、それを日本側が自発的に済ませている。「われわれの仕事はなくなりましたな」と。
 日本側も驚いた。略奪暴行をほしいままにする鬼畜と教え込まれていた米軍が、陸兵も水兵も、陽気で明るくスマートな印象を受ける。身体も大きく、服も上等で、見たこともない武器を持ち、ジープを乗り回し、チューインガム、チョコレート、キャンディ、タバコを惜しげもなくばらまく。米兵が投げ与える菓子にむらがる市民も目立ち、新聞は批判した。重光外相も慨嘆、「上下を挙げて、媚態は遺憾なく日本民族の事大主義を表白し、心あるものをして顰蹙せしめつつある」と。外相がとくに残念に思うのは、政府首脳の姿勢であった。東久邇宮首相は、全国民が総懺悔することが日本再建の第一歩だと述べていたが、マッカーサー元帥と会見して「大西郷と勝との会見の如く、腹を割って万事解決」するのはどうか、と外相に言った。重光は憮然とした、いかにも国際感覚、国際認識がなさすぎるのではないか。外相は、米国側の空気もよくない感じなので見合わせるべきだと返事すると、戦争犯罪人の逮捕が近いとの噂に関連して、総司令部側は内閣に不満はないか、と質問。「これに頓着する必要なし」と即答。重光は、「上に立つ指導者、政治家は、戦争責任に問われて敵の手の身に及ばんことを恐れ、戦争責任の転嫁に汲々たる有様、最高責任者より財界も実業家も新聞も、右翼陣営も同様であるのは、奇観である」と手記している。外相にしてみれば、敗北という禍も、ポツダム宣言の実行で福ー日本再生ーに転化できると信じている。頓着無用とは、その含意もあった。しかし、戦争犯罪人は、日本の戦争指導の責任者だとされるが、そうなると、各界のトップ、準トップはすべて含まれる。全員が処罰されれば、国政の機能はマヒする。首相が不安を持つのは、その種の事態を懸念するためであり、保身だけではなかった。また、一方で毅然たる態度を主張しながら、他方でひたすら総司令部の意向を優先してポツダム宣言の実行にいそしむ、その姿こそ戦犯逃れの媚態ではないか、閣内では外相に対する不満がくすぶっていたが、9月9日、総司令部との窓口である外務省外局・終戦連絡中央事務局を内閣に移管することを提議、外相は入閣の際に外交統一を条件に承諾を得ていたが、これは総司令部に対して外相よりも積極的に働きかける人物を選ぶ、首相側の戦犯回避工作だ、と推理した。14日、東久邇宮首相はAP通信東京支局長の質問書に回答し、「米国民よ。どうか真珠湾を忘れて下さらないか。われわれ日本人も原子爆弾による惨害を忘れよう。そして、全く新しい平和国家として出発しよう。米国は勝ち、日本は敗れた。戦争は終わった。互いに憎しみを去ろう。これは私の組閣当初からの主張である」
 日本の降伏からわずか一カ月、米国内には、日本はナチス・ドイツと同じ侵略国家だ、真珠湾攻撃はだまし討ちだ、日本人はイエロー・バスタード(黄色いならず者)だ、という戦時思想が消えていない。国務次官アチソンが、AP電を一読して直ちに声明すると、マスコミも一斉に非難と批判のトキの声を挙げた。-日本は戦争を反則を数え合うレスリング試合と混同している。第一、真珠湾が原因であり、原子爆弾は結果である。-ヒガシクニはポツダム宣言も降伏文書も読んでいないか、読んでも理解できぬイディオット(痴呆)である。-占領政策が手ぬるい。だから、まだ処罰もすまないのに、日本は増長するのだ。

 重光は米国の反響を知ると、近衛国務省の同席の下に、内閣も首相だけ残って他の全閣僚が退陣し、各省の局長級の新人を登用して次に四項目を新内閣の政綱にすべきだ、と提案した。①ポツダム宣言の徹底履行、②行政機構の整理半減、③経済統制の廃止、④公平選挙の実施。首相は賛意を示し、実行を考慮するとこたえたが、近衛国務省、緒方書記官長の反対を受け変心、二日後、「まず重光外相に退官して貰い、マッカーサー元帥と話の出来る外相を据え、マッカーサー元帥の意向等を参酌して第二弾の改造を行いたい」と内大臣木戸幸一に告げ、その上で、首相は風当たり強き貴大臣がやめてほしいと重光に述べ、重光は即座に辞表を提出した。
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「八月の嵐」:日ソ戦争とアメリカ

2019年09月09日 | 歴史を尋ねる
 8月30日の午後二時、マッカーサーは日本へのドラマチックな上陸を果たした。9月2日の日曜日の朝、アメリカ軍の代表者は連合国の代表者と共に、東京湾に停泊したミズーリ号の艦上で日本国代表団の到着を待っていた。午前8時55分、鈴木内閣辞職後に成立した東久邇内閣の外務大臣、重光葵を団長として、軍の代表である梅津美治郎参謀総長を含む十一人の日本代表団が到着、指定された位置に立つと、太平洋艦隊司令官ニミッツ提督とアメリカ第三艦隊司令官ハルセイ提督を両脇に従えたマッカーサーが式場に入って日本代表団に向かって立ち、宣言した。「われわれ、主要な戦争当事国の代表者は、平和を回復させる厳粛な協定を結ぶためにここに集まった」 重光と梅津が三つの降伏文書に署名、続いてマッカーサーが連合国を代表し、アメリカ代表のニミッツ、ソ連代表デレヴィアンコ、中国、イギリス、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表者が署名、降伏の署名式はたったの十八分で終え、三年八カ月続いた太平洋戦争が終結した。マッカーサーが勝者と敗者の宥和の必要を強調する感動的なスピーチを行った後に、アメリカの中継していた放送局は、マイクを東京からワシントンのホワイトハウスに移してトルーマンの戦勝演説を放送した。「アメリカ人に告ぐ。すべてのアメリカの、またすべての文明世界の思いと希望は今夜戦艦ミズーリ号に集中された。東京湾に投錨したこのアメリカの領土の小さな一角でたった今、日本人は公式に武器を置いた。彼らは無条件降伏の条項に署名した」「アメリカ合衆国の大統領として、私は、この日をⅤ-Jデーと宣言する。これはアメリカが、もう一つの日(真珠湾攻撃の日)を恥辱の日として覚えているように、この日を報復の日として思い出すであろう」

 この日スターリンも戦勝演説を行い、翌日の新聞に掲載された演説は、日本に対する戦争を正当化するために、ドイツと日本のファシズムを同一化した、と長谷川氏。「日本の侵略はわれわれの連合国である中国、アメリカ、イギリスに損害を与えたのみではない。われわれにも大きな被害をもたらした。したがってわれわれは日本に対してわれわれの恨みの代償を支払わせなければならない」「よく知られているように、1904年2月に、日本とロシアとが交渉している時に、日本はツァーリスト政府の弱みに付け込んで、突然に裏切って、宣戦布告なしにわが国を攻撃した」「日本はツァーリスト・ロシアの敗北に付け込んで南サハリンを奪い取り、クリーク諸島に堅固な橋頭堡を確保し、太平洋並びにカムチャトカとチューコトカの港への出口を塞ぐことによって、われわれを閉じ込めた」 長谷川毅氏はいう。スターリンは歴史事実を歪曲している、と。日本は日露戦争の結果クリール諸島を獲得したのではない。1855年にロシア政府と締結した下田条約は、現在日本が「北方領土」と呼んでいる南クリークを日本の領土に、北のクリーク諸島をロシアの領土に分割した。1875年の千島・樺太交換条約で、ロシアは南サハリンを自国の領土とするのを引き換えに北クリールを日本に引渡し、全クリールは日本の領土となった。日露戦争の結果、日本が獲得したのは南サハリンであって、日本のクリール諸島の領有は日露戦争とは無関係であり、カイロ宣言での「暴力と貪欲」によって獲得した領土には当てはまらない。
 続いてスターリンはシベリア出兵(1918年)、張鼓峰事件(1938年)、ノモンハン事件(1939年)など、ソ連に対して過去の日本が行ってきた侵略行為を並べたてた。「われわれ古い世代はこの汚点を四十年の間取り除こうと待っていた。この日がついにやって来た。今日、日本は敗北を認め、無条件降伏の文書に署名した」「これは南サハリンとクリール諸島がソ連に引き渡され、今後ソ連を太平洋から孤立させるのではなく、またわが極東への日本の攻撃の基地として利用されるのではなく、ソ連をこの大洋と結びつけ、わが国を日本の侵略から防衛する基地となることを意味する」 この演説の中に敷衍された考え方が、ソ連政府とソ連の歴史家が対日戦争を解釈する基礎となった、と。

 9月2日、日本が降伏文書に署名した後も、戦争はまだ終わっていなかった。ソ連軍は、日本が正式に降伏した後にも気づかれないようにクリール作戦を継続した。歯舞諸島での作戦は9月2日に太平洋艦隊司令部から直接チチェーリン海軍少佐に委任された。9月3日の午前11時に国後の古釜布湾から掃海艇と上陸用の船の2隻が出港、すべての島の偵察を完了した後、日本軍の抵抗がないことを確かめて、部隊はそれぞれの島に上陸、9月5日午後7時までに、すべての日本軍が降伏し、武装解除された。そして歯舞作戦が完了した。ソ連軍の極東での軍事行動は、アメリカとの軋轢をもたらした。しかし、アメリカもソ連も、全体的には、ヤルタ協定の条項が守られたことに満足した、長谷川毅氏はこう結論付けた。

 ふーむ、この時点に立つと、トルーマンやマッカーサーにとって、歯舞諸島の事は重要ではないし、日本の戦後処理を如何にするかが、最大に課題であった。長谷川氏の云う様に、米ソともに満足のいく終結だったのだろう。しかし、日本では今なお、ソビエト・ロシアに対して、課題が残された。それはロシア側が嫌がる北方領土問題である。この淵源は、この時点に遡らなくてはならない。そして、ロシア外相ラブロフは現在こう主張する。
 「本日私たちが確認したのは、1956年の宣言に基づいて作業を始める用意があるということでありますが、何よりもまず、日本側が南クリル(北方領土のロシア側の呼称)の島々はすべてロシアに主権があることも含めて、第2次世界大戦の結果をすべて認めることが第一歩です。それについては議論の余地はありません。そのことは、国連憲章や大戦終結に関する大量の文書、1945年9月2日の一部の文書で確定されています。それが私たちの基本的な立場であり、(日本側の)譲歩がない限り、次の問題を前に進めることはとてもむずかしい」と。ラブロフ外相は、第2次世界大戦の結果をすべて認めろと言っている。ここではその是非について論じる力はない。淡々と当時の歴史的事実を振り返っておきたい。

 日本のポツダム宣言受諾に対して、トルーマン大統領は前線司令官に日本軍に対する攻撃作戦停止を命じたが、ワシレフスキー元帥はソ連軍に、日本軍に対する攻撃作戦を継続することを命じた。天皇の声明は単に無条件降伏の一般的宣言で、日本軍が軍事行動を停止する命令ではなかった、と。天皇によって軍事行動を停止し、武器を置くことが命令され、この命令が実行されたときにのみ、日本軍は降伏したと認められる、と。日本側の事情を見ると、天皇が終戦の詔書をラジオ放送したと言え、日本軍が降伏するには大本営からの休戦命令が出されなければならなかった。理由が不明だが、休戦命令が出されたのは二日遅れの8月17日だった。その詔書は、さらなる命令があるまでは現在の任務を遂行するが、積極進攻作戦は中止するよう命じた。そして一切の武力行使を停止させる命令を大本営が発令したのは8月18日だった。
 関東軍総司令部は8月15日正午、終戦の詔勅を短波放送で聞いた後、大本営からの命令を待った。しかし大本営からの命令は曖昧だったので、16日総司令部は独自に命令を発し、全部隊が戦闘を停止し、武器をソ連部隊の司令官に引き渡すことを命令した。17日朝、山田乙三関東軍総司令官はソ連第一極東方面軍司令部に打電して停戦を提案した。ワシレフスキーはこの提案を日本軍の降伏について触れていないとして拒否、その代わり、ソ連軍に対するあらゆる軍事行動を8月20日午後12時までに停止すること、すべての武器が引渡せること、すべての兵士が捕虜としてとらえられることを要求した。この日の朝、秦彦三郎関東軍参謀総長はハルピンのソ連領事館を通じてソ連軍との停戦交渉に入ることを申入れ、秦はただちにワシレフスキーと会見し停戦の合意と武器引き渡しを行うことを提案、交渉は19日までに開始されると合意、これに対する回答をソ連側は二日遅らせ、19日休戦協定が成立した。一方でソ連軍司令部はソ連軍支配下の領土を拡大しようと全力を尽くした。20日までに長春、21日までに奉天とハルピン、遼東半島は28日までに占領することが命令された。スターリンはこんなスローペースには満足しなかった。ワシレフスキーを飛び越してマリノフスキーに大連と旅順を22日から23日までに占領せよと命令を出した。ソ連軍は関東軍に勝利した。しかしスターリンの最大の目的はヤルタ条約で約束された領土と、それ以上の獲得であった。

 日本領の南サハリン(樺太)は、日本の第八八師団によって防衛されていた。8月10日、満州での作戦が成功裏に遂行されていることに自信を得て、ワシレフスキーはブルカーエフに南サハリンに侵攻させ、その占領を22日までに完了させる命令を出した。南サハリンを占拠することは、北海道と南クリール作戦を遂行するためであった。15日日本軍は終戦の詔勅を聞いた。しかし樺太の日本軍を管轄する札幌の第五方面軍司令部は、ソ連軍が北海道侵攻の為に南サハリンに兵を終結させることを正確に予見し、第ハ八師団に最後まで樺太を防衛せよとの命令を出した。19日、大本営は第五方面軍にすべての軍事行動を提出してソ連軍司令官との休戦交渉を開始せよと命令、20日第五方面軍司令部は前の命令を覆して、すべての軍に休戦・武装解除の交渉を開始せよとの命令を発した。ソ連軍はこれにより三日遅れで南サハリンを占拠した。
 ヤルタ条約はソ連の参戦と引き換えにクリールがソ連に引き渡されると規定していたが、そのクリールについて厳密な定義はなかった。ポツダム会談での共同軍事会議でソ連参謀本部とアメリカ統合参謀本部は、クリール諸島が北端の四島を除いてアメリカの軍事行動の範囲であることで合意していた。しかし、ソ連はオホーツク海は共同軍事行動の範囲であることをアメリカに認めさせることによって、クリールへの足掛かりをつくることに成功していた。したがって、スターリンはアメリカがどう反応するかを見極めながら、クリールを出来るだけ速やかに占拠するというデリケートな課題に直面した。

 連合国最高司令官は唯一人であって、それはマッカーサーであることを不承不承に認めたスターリンであったが、ソ連が占拠した領土においてはマッカーサーの権威を認める意思は持ってなかった。「極東における日本軍に対するソ連軍の軍事行動を継続するか、停止するかの決定はソ連軍の総司令部のみが決定する事項である」と。しかしアメリカ指導部はソ連のクリール作戦展開を憂慮、ポツダムで合意された軍事行動の範囲の下で、8月14日、統合参謀本部はマッカーサーが発すべき「一般命令第一号」の草案を作成、トルーマンはハリマンを通じて一般命令第一号をスターリンに送った。スターリンはすぐに回答、二つの修正を提案した。①日本軍がソ連軍に降伏すべき地域に、ヤルタ協定に従ってすべてのクリール諸島を含むこと、②日本軍がソ連軍に降伏すべき地域に、釧路と留萌を結ぶ線を境界として北海道の北側を付け加えること。②の修正案提案理由は、日本が1919年から1922年に至るソ連の内戦期に、ソ連極東を自己の支配下におさめた。したがって、ソ連が日本本土の一部を占領しなければロシアの世論は大きな屈辱を感じるであろう、と。
 トルーマンは①案に同意した。一方でクリール諸島の一つの島でアメリカの飛行機が上陸できる基地の権利を要求した。さらに②はきっぱりと拒否した。8月22日、トルーマンの書簡の四日後にスターリンの第二の回答が到着した。スターリンの書簡では、①は怒りに満ちたトーンであった。②は北海道作戦後退の兆候が窺がえた。明らかにヤルタ協定に違反する北海道侵攻は、アメリカとの軍事衝突の危険性もあり、又この協定に基づくクリール占拠の法的根拠を弱めることを考慮したのかもしれない、と長谷川氏。このことは、将来の日ソ関係に大きな影響を与えた。第一はクリール占拠がソ連の重要な軍事目的となった。第二に、満州、朝鮮、サハリン、クリークで捕らえられた日本人捕虜の運命が決せられた。23日に国家防衛委員会は悪名高い命令「五十万の日本人捕虜の受け入れ、拘留、労働労役」を採択した。この命令で、ソ連極東とシベリアでの厳しい気候の中での強制労働に耐えうる体力を持った五十万の日本人捕虜を選び出す任務が極東のソ連軍事評議会に課せられた。長谷川氏はいう。この命令は、スターリンが北海道侵攻を諦めたことであり、北海道北部から動員しようと企てていた五十万の日本人労働者が不足してしまったからである、と。言うまでもなくこの命令は、兵士の本国帰還を規定したポツダム宣言に違反するものであった。

 トルーマンはスターリンの22日の書簡が気に入らなかった。こう反撃した。「貴下はこの要求が征服された国か、自分の領土を防衛することの出来ない同盟国に対する要求であると述べているが、貴下は明らかに私のメッセージを誤解している。私はソ連共和国の領土について言及したのではない。私は日本の領土であるクリール諸島について言及したのであり、その帰属は講和会議で決定されなければならない」 トルーマンはクリールが日本の領土であることを明確にした。トルーマンからの返答はスターリンに、アメリカはヤルタ協定の約束履行義務から後退するのではないかという疑惑を深めさせた。そしてスターリンに、日本の正式降伏までに何としてもクリール全島を占領する必要があると強く感じさせた。8月28日、太平洋艦隊軍事評議会は、南クリール作戦拡大を決定、択捉と国後に大量の援軍を増強、作戦を9月2日までに完了することにした。この命令の重要個所は9月2日で、この日は日本が降伏文書に署名して正式の降伏がなされた日であった。
 スターリンはトルーマンの返答を8月27日に受け取った。しかしスターリンは8月30日になるまで回答しなかった。この三日間は南クリール作戦にとってもっとも重要な時期であった。スターリンは南クリール諸島が間違いなく占領されていることを確信してから、トルーマンに返事を送った。これはトルーマンがクリークの帰属を講和会議によって決定されると主張したことに対するスターリンからの回答であった、と長谷川氏。その帰属は講和会議ではなく軍事行動によって決定される、書簡には書かれていないが。

 
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