朝鮮戦争の実態に及んだので、その後の北朝鮮経済の行方についても、知っておきたい。参考にするのは、今村弘子著「北朝鮮 虚構の経済」と木村光彦著「日本統治下の朝鮮」、三浦洋子千葉経済大学教授論文「朝鮮半島の人口転換とその変動要因の分析」、文浩一ジェトロアジア経済研究所論文「朝鮮半島の都市、人口と都市」そして睡夢庵「日本と朝鮮の人口推移と身分制度」等。
1945年12月、米英ソ中による五カ年の信託統治の後に南北統一政府を発足させるというモスクワ協定が締結されたが、その後の米ソの角逐から、この協定は実行されなかった。南部では米軍の軍政が敷かれ、北部ではソ連軍民政部の指導のもと、金日成を委員長とする北朝鮮臨時人民委員会が結成された。朝鮮半島の分断によって、南北ともに均衡のとれた経済発展が阻害された。朝鮮半島北部には鉱物資源が豊富で、朝鮮総督府時代に製鉄所など重工業の設備が多く建設されていた。反対に農業や軽工業は南部で盛んで、「南農北工」「南軽北重」と呼ばれていた。半島全体の工業総生産額のうち北部は60%、中でも採掘業(78%)、化学工業(82%)であり、発電量は92%を北部が占めていた。反対に水田の75%は南部に位置し、紡績や食品工業など軽工業は南部に集中していた。
朝鮮併合(1910年)当時、朝鮮の総人口は1323万人(朝鮮総督府調査)、1944年は2592万人(北朝鮮959万人、韓国1633万人:朝鮮総督府国勢調査資料より文浩一氏調べ)、35年間でほぼ2倍に増えている。人口増加の主な理由は自然増加であった。疫病が大流行した1918~19年の死亡率を除くと、出生率の増加と死亡率の低下は明白だった。当時の朝鮮総督府の施策は農村振興であり、その結果としての食料不足の解消だった。朝鮮米増殖計画によって米を日本へ輸出し、その代価で低廉な満州産の粟や外米を購入し、飢饉の頻発によって大量の餓死者が出ていた李朝時代に比べれば、農民たちの食生活は量的には改善されていった。当時作成された「食料需給表」によれば1927年の一人一日の供給熱量は2700キロカロリー、90%がでんぷん質食糧で占められていた。ちなみに日本の同年の供給熱量は2300キロカロリーであった。さらに公衆衛生の改善と医療制度の確立、コレラ、天然痘、ペストなどの伝染病予防やハンセン氏病患者の収容などで、死亡率低下に大きく貢献した、と三浦氏は解説する。一方、日本や満州へ向けて朝鮮人の流出も多く、1910~45年までに327万人の移動があったと言われている。さらに半島北部の工業化が進み、南部から北部への移動も1935年以降活発化した、と。
日本統治下、朝鮮経済は大きな変化をとげた。その変化は、20世紀前半の世界で異例なほどであった、と木村光彦氏はいう。内容は、いわゆる非農化、農業主体から非農業主体の経済への急速な移行であった。(1910年の総督府統計では、朝鮮の全戸口の80%を農業戸口が占めた。日本では1870年代初期の農林業人口比は70%程度であり、朝鮮経済が明治初期の日本以上に、農業に依存していた。北朝鮮の農業は一年一作の畑作を主とし、焼畑(火田)・休閑地も多かった。これに対して南朝鮮では一年二作が普通で、表作は米、裏作は麦などが盛んに行われた。北朝鮮で最大の栽培面積を占めたのは粟で、東部では大麦に稗(ひえ)、大豆、西部では米、大豆の栽培が多かった。南朝鮮では米作が最多で、大麦作と大豆作がこれに次いだ。しかし米作の生産性は低かった。灌漑設備が少なく、田の大半は天水田、またはそれに近い状態の田が多くを占めた。肥料は農家の自給自足だった。畑作では無肥の場合も少なくなかった。)
(朝鮮にはもともと地主ー小作制が広がり、1910年代、農家数の七割が自作兼小作農と純小作農。耕地面積の半分が小作地であった。田に限ると小作地は七割に近い。朝鮮人地主の多くは、農業に無関心な不在地主だった。一方、併合前から、日本人が農業経営に進出していた。耕地を買収し、小作人を使って特に米作経営を行った。なかには、数百から数千町歩の田を所有する個人や会社も存在した。1908年に設立された国策会社、東拓はこの種の最も大規模な会社であった。こうした個人や会社は率先して優良品種を採用、目的は小作料として徴収した米を日本向けに販売することだった。優良品種の普及は朝鮮人所有田でも起こった。急速なコメ増産の背景は、貨幣経済の進展があった。日本からの工業製品の流入、租税その他公費負担、販売肥料の購入などは、農村住民に貨幣獲得への強い誘因となった。米は重要な換金作物になった。1920年、総督府は「産米増殖計画」をスタートさせ、朝鮮内の米需要の増加に備えるとともに、農家経済の向上と日本の食料問題の解決に資することであった。内容は、土地改良(灌漑改善、地目変換、開田)と農事改良によって、米の大幅増産を期した。また畑作ではジャガイモ、トウモロコシ、陸地綿、養蚕を推奨、貴重な食糧作物と換金作物を伸長させた。) 以上、朝鮮経済が大きな変化をとげる移行過程で、農業自体の変化を追った。総督府の政策と貨幣経済の進展が、農法の改良、作付転換を引き起こした。農業生産は全体として、継続的に増大した。
工業化の端緒は、原料の単純加工を行う中小工場の勃興だった。加えて1910年代には早くも、近代工業とくに製鉄業が興った。(三菱合資会社は併合直後、北朝鮮南西部兼二浦の鉄山を買収、無煙炭鉱の買収も続け、兼二浦製鉄所の建設工事を1914年開始、1918年溶鉱炉二基の火入れ式を行った。1919年には平炉と圧延設備を加え、銑鋼一貫生産体制を整えた。鋼材生産の目的は、海軍艦艇用の厚板と大型形鋼を三菱造船所に供給することであった。1934年製鉄大合同の結果日本製鉄が成立し、兼二浦製鉄所は日本製鉄に移管された。北朝鮮東部では1910年半ばから、利原鉄山の開発が行われ、八幡製鉄所に原料鉱を供給した。さらに東アジアでも最大級の鉄山といわれた茂山鉄山も開発され、1939年、日本製鉄が清津製鉄所の建設を開始した) 1920年代から30年代には、民間企業によって、電源開発を基礎に巨大化学コンビナートが建設された。(併合後、総督府は水力電源の調査を積極的に進めた。その大部分は北朝鮮の鴨緑江・豆満江の本・支流に存在した。1926年、野口遵が資本金2000万円で朝鮮水力発電株式会社を設立し、大規模な電源開発を行った。第一発電所は1929年に漸く完成、同様の方式によって電源開発を行い、野口の最終目的は、豊富・安価な電力を利用して北朝鮮で化学肥料会社を建設することであった。1927年朝鮮窒素肥料株式会社を設立、北朝鮮東部の興南で化学肥料会社を建設、工場はアンモニア合成、電解、硫安製造、工作、触媒の各工場からなった。硫安製造能力は日本内の工場を上回った。野口はつづいて同地区に化学工場を建設、苛性ソーダ、塩安、カーバイト、石灰窒素などを大量に製造した。野口の事業は興南に止まらない。1932年北朝鮮北東部に石炭乾留工場を建設、付近の褐炭を利用して、タールから揮発油、水性ガスからはメタノールとホルマリンを製造、ホルマリンは火薬やべークラウトの原料だった。さらには石炭液化事業も始め、石炭を原料とする液体燃料開発の事業化で、液化油製造能力は年間五万トンに達した。)
併合から1935年までに、石炭生産は8万トンから200万トンに激増、鉄鉱石生産は14万トンから23万トンに増大した。さらに、黒鉛、重晶石、タングステンなどの各種の鉱物採掘が進んだ。ほかに、アンンチモン、雲母といった希少鉱物の鉱区が開かれ、1930年代にはマグネサイト鉱の採掘も始まった。埋蔵量数億トンの高品質鉱で、世界有数といわれた。
工場総数は1912ー39年間、およそ300から6500に増加した。とりわけ朝鮮人工場の増加率が高く、1932年には日本人工場の数を上回った。朝鮮人工場の大半は従業員50人未満の零細工場だったが、比較的規模の大きい工場も現れ、1939年には従業員200人以上の工場が15工場にのぼった。
比較経済史の観点から見ると、工業化の進展は欧米の植民地にはない特異なものであった。とくに本国にも存在しない巨大水力発電所やそれに依拠する大規模工場群の建設は、日本の朝鮮統治と欧米の植民地統治の違いを際立たせる。とりわけ強調すべきは、産業発展に非統治者の朝鮮人が広く関与したことであった。総督府の政策と日本からの資金・技術・知識の注入は、大きな役割を果たした。しかし同時に、朝鮮人の側に、外部刺激に対する前向きな反応、自発的な模倣・学習、さらには創造性・企業家精神が明瞭に見られた。驚異的な発展は、統治側・非統治側の双方の力が結集して起こった、と木村光彦氏は指摘する。 木村氏の実証研究の目玉はここにあると思うが、当時の朝鮮で、統治・非統治の意識がどの程度日常的になっていたのか、李朝朝鮮時代からの人々は、社会の価値観の変化に圧倒されていたのではないか。あれほど圧倒的な力を持っていた両班階級が少なくとも表面に現れなくなった。李朝の王族も、併合後、日本の皇室に続く地位を得ていた。統治・非統治の意識は日常生活上は薄かったのではないか。欧米型の植民地という考え方があれば、日本人もここまで半島に投資しなかった。人類皆兄弟、天皇の下に皆平等の精神は日本人だけだなく、台湾人や朝鮮半島の庶民にはある程度受け入れられたのではないか、と筆者はひそかに考えている。
この辺で、タイトルのテーマとかけ離れたので、もとにもどしたい。北朝鮮が朝鮮総督府の下でどの程度の経済的レベルに達したのか、それがどの程度引き継がれ、その上でどうして現在の経済的苦境に陥っているのか、何とか解くほぐしたい。
1937年の支那事変勃発以降、帝国日本は戦時体制、さらには総力戦体制に入っていく。政府にとって、産業各部門の生産性向上、とくに軍事工業の拡張が至上命題となり、あらゆる政策が動員され、経済は統制強化であった。これは朝鮮でも同様で、総督府の行政も戦時体制に転換した。総督府の機構は1935年以降、さらに拡張され、1942年人員は総数10万人を超えた。日本人が5.7万人、朝鮮人が4.6万人、朝鮮人の増加率が高かった。
まずは食糧増産計画だった。増産実現のため総督府は、農民の組織化、精神力の鼓舞を図った。内地の大政翼賛会と連携する国民総力朝鮮連盟が結成され、農山村生産報国運動に発展させる役割を担った。また、朝鮮における本格的な米穀統制、すなわち価格統制と出荷・集荷統制を開始した。1939年総督府は小作料統制令を制定、地主は小作料の変更が出来なくなった。また地主から小作米(地主取得分)の供出が命じられ、土地所有権に帰属する財産と収益の自由な処分権を大部分、総督府に譲る形となった。
1937年、重要産業統制法が施行された。これによって、朝鮮商工業に対する統制が本格化した。以後、取引、価格、資金融通、賃金などの統制法が次々と出され、市場経済から統制経済への転換が進展した。統制強化とともに、帝国経済は経済計画が導入された。朝鮮では、1943年末に発足した総督府鉱工局が鉄鋼、軽金属、化学製品などの重要物資の生産・配分を統括し、主要鉱山・工場に四半期別、月別に生産目標を割り当てた。鉱工局は半島の軍需省といわれた。1930年以降、総督府は自らまたは鉱山会社や大学を督励して積極的に鉱物探索を行った。日米開戦後は、軍需に応じて新資源の探索が一層広範囲に進められ、北朝鮮では多種の希少鉱物の存在が判明した。コバルト、ジルコンなど他地域で得難いものもあった。戦時末期、とくに急要として採掘されたのは、鉛、モリブデン、蛍石、黒鉛、カリ長石、小藤石、電気石、リチウム、コロンブ石、モナザイトであった。モナザイトの主成分はリン、セリウム、トリウムの化合物で、そのほかにウランなど各種元素の化合物を含んでいる。陸軍は1940年に原爆製造の意義を認識し、翌年理化学研究所に委託、仁科芳雄博士はウラン原鉱として、朝鮮のモナザイトに注目した。北朝鮮はまた、フェルグソン石、リン灰ウラン石、銅ウラン雲母など、天然ウランを多量に含む鉱石を産する。陸軍はフェルグソン石の採掘を行い、原爆製造に必要なウラン235の半量(あとの半量は福島県)を得る計画であった。しかし陸軍の原爆製造計画は技術的な問題から打ち切りとなった。
1930年代末から、製鉄、冶金、軽金属、化学、繊維など多くの軍事関連分野で、生産拡張が行われた。朝鮮の各企業、とくに野口系企業や三井、三菱、住友といった日本の主要財閥が投資を積極化した。海軍のロケット燃料を製造する秘密工場も、新たに設置された。戦争末期には、日本の有名企業が軍の指示を受け、続々と朝鮮に工場を建設した。軍事工業化は、豊富な鉱物・電力資源、労働力を基礎に、広範囲かつ急速に進行した。北朝鮮では、近代兵器工業の核たる特殊鋼・軽合金の生産、ロケット燃料やウラン鉱の開発まで行われた。これらの事実は21世紀の今日まで殆ど知られていないが、対米戦争の中で、朝鮮がいかなる役割を担ったかを語っている、と木村光彦氏。朝鮮では米軍は空襲しなかった、そのために工場建設が急速に行われ、その工場群が敗戦時まで無傷であった、と。
帝国日本は、長期戦に備え、朝鮮における戦争経済の構築を図り、本国から自立した軍事・非軍事(繊維、雑貨、食料品など)工業の建設を企図した。政府は戦時末期、内地の設備や技術工の朝鮮移転を推進する計画を立て、一部を実行に移した。他方、鮮満一如が謳われたように、朝鮮と満州の経済的結びつきが強まった。朝鮮の諸工場は満州から燃料と工業原料を大量に購入する一方、半製品・完成品(化学製品や機械類)を販売した。水豊ダムの電力の半分は満州に送電された。華北との経済関係も同時に強まった。華北からの礬土頁岩の輸入で、朝鮮のアルミニウム生産を支えた。こうして朝鮮・満州の自立的工業の建設は、完全には達成されなかったが、帝国崩壊時までに大きく前進した。
帝国日本は朝鮮に膨大な開発成果を残した。電力、鉄道、港湾などのインフラ、鉱工業の生産設備から農業の進歩に及んだ。そしてインフラ、鉱物資源、工業設備の多くは北朝鮮に存在した。北朝鮮の発電能力は1945年、南朝鮮の6倍、一人当たりでは内地すら上回った。鉄道総延長も北朝鮮が南朝鮮を上回った。大半の重要鉱物は北朝鮮でのみ生産された。全電力の90%は北朝鮮で消費された。そのうち化学工業が80%を占めた。南が北より多かった部門は、紡績工業、機械器具工業、食料品工業だった。しかし北朝鮮は重化学工業で南朝鮮を完全に圧倒していた。
農業はその生産能力を的確に示すことは難しい。北朝鮮の米の生産は生産増加率が高かったが、南朝鮮の30~40%ぐらいであった。しかし食料作物全体(米、麦、雑穀、豆、イモ)を取ると、北の生産能力は南の半分を上回った。北の雑穀とジャガイモ生産が相対的に大きかった。1942-44年、北朝鮮の食糧生産は、全量が住民の消費に充当されれば、飢餓が生じる水準ではない。帝国日本が崩壊した後、北朝鮮には、住民に生存を保障する食料生産能力が残された、と木村氏は分析する。
では、朝鮮総督府の治世下からいわゆる解放された北朝鮮は、どうなったのか、ここでも木村光彦氏の研究を参考にしたい。 ソ連軍政下の北朝鮮で採られたのは、戦時期に帝国日本が追及した統制政策だった。ソ連軍政当局は1946年8月、主要な旧日本企業をすべて国有化した。中小商工業者には、当初営業を許可した。土地改革は、小作農民の共感を得るため、進歩的民主主義社会の物質的土台であると宣伝、政府による土地取り上げを連想させる社会主義という言葉は、意図的に避けられた。当時の北朝鮮の内部文書にはっきり書かれていると木村氏はいう。農地の売買・貸与が禁止されただけでなく、作物の選択や収穫物の販売に厳しい制限が課された。ソ連軍政の目標は経済全般の統制強化、全資産の国有化であり、土地改革はその重要かつ大きな一歩であった。国家樹立後、金日成政権はこの政策の継承・発展を図った。朝鮮戦争後には、農業および中小商工業の集団化を推進し、経済の全部門を国家の支配下に置いた。
ソ連軍政とそれに続く金日成政権の経済建設の柱は、帝国日本が残した軍事工業の活用と発展だった。ソ連占領軍は一時工業設備を解体し持ち去ったことのあったが、規模は限定的であった。その後は抑留日本人技術者を使役し、産業の復興を図った。(野口系の企業には内地人技術者が217名もいたが、その中の一人、宗像英二は朝鮮石灰工業への配属転換を命ぜられて渡鮮、アルミニウム原料のアルミナ抽出技術の開発に取り組み、京城帝国大学で化学技術の講義を行った。北朝鮮を占領したソ連軍は内地人技術者の帰国を認めず、工場の稼働に彼らを使役した。宗像も興南肥料工場の技術指導者となり、生産回復に協力した。その後1946年末に海路、北朝鮮を脱出、日本に帰還した。帰国後、宗像は旭化成取締役に就任し、人絹工業の復興に尽力、1962年日本原子力研究所理事を務めた。) 金日成はソ連軍と共に北朝鮮に入ると、日本が残した諸工場を精力的に視察、いち早く平壌兵器製造所に注目し、その拡充を企てた。国家成立後、金日成政権は軍備拡充に多大な努力を傾け、1949年には、元山造船所で初の海上警備艦を建造している。警備艇の鉄板を製造したのは黄海製鉄所(旧日本製鉄兼二浦製鉄所)であった。1949年3月、金日成はソ連を訪問、朝ソ経済文化協力協定を結んだ。これには秘密協定が付属し、ソ連は北朝鮮への大量の兵器の供給に同意、TNT火薬工場、地下兵器工場の建設にも、支援を約束した。金日成は他方で鉱物、とくに鉛・亜鉛の増産を命じた。国産兵器の原料として必須であったばかりでなく、対ソ輸出品としても重要だった。ソ連は兵器、資本財、技術指導を無償で提供したのではなかった、その対価を要求した。金日成政権はその支払いのために、鉛・亜鉛の対ソ輸出を増やさなければならなかった。同様に、モナザイト、コロンブ石も大量に輸出された。ソ連は北朝鮮産のウラン鉱を原爆製造に利用した、とロシア政治専門家の下斗米伸夫著「アジア冷戦史」は語っている。
金日成は核開発に強い関心を抱いた。それは彼の軍事優先主義、対南赤化統一政策の下では当然で、ウラン鉱開発と重化学工業という帝国日本の遺産によって、この事業が十分に実現可能と映った。朝鮮戦争後、金日成はソ連との間で、核研究協力に関する合意文書に調印し、何人かの研究者をモスクワ郊外の核研究所に派遣した。また、1957年ごろ、戦前日本で学んだ物理学者が、東京大学に原子力研究の共同開発を申し入れた(公安調査月報による)。これらの情報は、金日成が1950年代後半、すでに核開発を構想していたことを裏付ける、と木村氏はいう。そして木村光彦氏はこう結論付ける。「戦後北朝鮮は帝国日本から、巨大な産業遺産と共に、戦時体制(全体主義)と統制経済を継承し、これを社会主義または共産主義の名のもとに、国家運営の基礎とした。政権は軍事攻撃による南への体制拡張に失敗した後も、テロや政治工作を通じて対南攻勢を継続する。政権の継承者、金正日は先軍政治を掲げ、いっそうの軍事強化とくに核ミサイル開発に邁進した。この間、日本統治期の産業遺産とくに大規模発電所、化学コンビナート、製鉄所は北の経済の根幹であり続けた。しかし軍事に偏重した非生産的投資と統制に伴う非効率は、経済を長期停滞に陥れた。加えて政権は、各部門に無秩序な増産命令を乱発する一方、自らは奢侈的および権力を誇示する消費をくり返し、その結果、経済の計画化は名ばかりとなり、市場経済抑圧の下で、住民の間では生活維持のため、自給自足への退行が生じた」 木村光彦氏の分析は一々最もであるが、さらに軍人上がりの金日成にとって、北朝鮮には帝国日本の軍事産業が沢山残っていることに目がくらみ、北朝鮮を軍事強国にしようと野望が沸き上がったのではないか、軍国主義日本の負の遺産も引き継いだ、ともいえる。
「北朝鮮経済はなぜ破綻したのか」 今村弘子氏は中国での北朝鮮研究から得たものから、その著書「北朝鮮「虚構の経済」」を著わしている。その第一章がこのテーマである。 かって「自立的民族経済」を標榜していたこの国の経済は、なぜ破綻したのか。そこには社会主義国が共通に抱える問題とともに、北朝鮮独自の問題があった。北朝鮮は建国直後の時期を除いて、社会主義国でありながら計画経済が機能しない「計画なき計画経済」国家であり、また「自立的民族経済」といいながらその実態は援助の上に成り立つ「被援助大国」であり、対外経済関係ではボーダレスには程遠いボーダフルな経済国家だった、と今村氏はいう。社会主義を名乗っている以上、北朝鮮も長期経済計画を策定し、それにしたがって経済を運営してきた。しかし計画自体が野心的すぎ、整合性もなかった。中国、ソ連からの援助の減少や、軍事費の負担の増大という外部要因も重なり、長期計画そのものに意味がなくなった。また、北朝鮮経済の特異性としては、南北朝鮮の軍事的緊張と軍事費の経済への圧迫であった。1969年以降、大規模な米韓合同軍事演習が定期的に行われてきたが、北朝鮮はその期間中、民間も含めて非常態勢を敷いていた。韓国も米韓合同軍事演習の狙いについて、北朝鮮に脅威を与えることだと語っている。金日成はホーネッカー書記長に、われわれはその都度対抗措置を取らねばならない、攻撃に備えるため、多数の予備役兵を正規軍に補充しなければならない、これによって毎年一カ月半の労働シフトを取っていると、説明していた。フーン、ソビエトロシアが対アメリカ冷戦対策で経済の破綻に追い込まれた経緯と相似する。こうした国際環境の中で北朝鮮は国防費に膨大な予算を割かざるを得なかった。北朝鮮経済が逼迫した90年代半ば以降も、軍事予算の減少額は少ない。生産活動を犠牲にして、国防を優先させている。米軍備管理軍縮局の推計ではGDPに占める割合は95年で29%、99年で19%。こうした軍事優先の政策が北朝鮮経済の発展を阻害した。さらに援助に依存した経済構造は、経済成長の持続が発表されていた70~80年代も、結局改善されることがなかった。このためソ連の崩壊によって援助が激減した、中国が改革開放政策以降、政策の変更によって援助が減少させたことから、朝鮮の経済困窮度は一層深刻になった、と今村氏はいう。
今村氏は解放直後の北朝鮮の経済状況も触れている。 1946年8月、日本国、日本人および親日企業家が所有していた企業や鉱山、鉄道、銀行、商業施設など1034の重要施設が無償で没収され、国有化された。工業分野の大部分を所有していた日系企業が接収されたことにより、46年末には国有企業など社会主義経済形態の占める割合は、工業総生産額の72%に達した。一年余りで生産財を国有化する社会主義経済化が急速に進められた。47年と48年には各々一ヵ年計画が立てられ、増産突撃運動が行われた。工業総生産は47年には前年比54%増、48年には64%増となり、食料生産も増産され、経済回復の足取りは早かった、と当時の北朝鮮公式報道を示している。さらに49~50年には二か年計画が行われ、食糧生産は300万トン、工業生産は1944年の96%の水準(出所:朝鮮中央年鑑)まで回復した。木村氏が分析した朝鮮総督府の達成した経済状況が一先ずうまく引き継がれているのが分かる。
ところが金日成は南北統一を武力で実現しようとした。1953年7月漸く停戦を迎えたが、この戦争の被害は甚大だった。朝鮮人の死者だけで南北あわせて150万人とも400万人ともいわれ、南北離散家族も1000万といわれる。3年に亙る戦争の間に北朝鮮の8700の工場が破壊され工業生産は戦争前の64%の水準まで減少した。直後の経済的損失は4億ドルで49年のGNPの6倍に達した。朝鮮戦争の結果、南北は軍事的緊張の下で国造りを再開、南北の経済建設に深刻な重荷を負わせることになった。とくに北朝鮮にとって、軍事力の強化という至上命題は、その経済を歪ませた。
朝鮮戦争が終わった直後の53年8月、党中央委員会総会で「重工業の優先的な発展を保障しながら、同時に軽工業と農業を発展させる」という方針が採択された。これに対し人民生活が苦しいのに重工業に偏っているという反対意見は、教条主義、修正主義として切り捨てられ、反対派は一掃された、という。この辺が金日成政権の限界なのだろう。まず武力統一戦争を引き起こしたことが金日成の誤りで、その後の南北朝鮮の軍事的緊張が続いたのは朝鮮戦争の結果であり、さらに軍事力強化の道を選んで、重工業の優先的な発展を方針とした。軍事力強化の悪循環である。朝鮮総督府時代に北朝鮮地区に開発した重工業の遺産が、結果的に軍事力強化の後押しをしたと言えるのではないか。アメリカを敵に回したら、当時国際的交易の分野に進出することは無理だろう。朝鮮総督府が切り開いた北朝鮮地区の鉱工業遺産は、軍事力強化の道にしか使われず、北朝鮮の人々の経済発展に貢献しなかった。北朝鮮も韓国も朝鮮総督府の残した遺産の上に、歴史は積み上げられるのは誰も変えようがない。両国とも李朝朝鮮からの物的遺産(例えば経済的遺産)を引き継いでいないことでも、そのことが云える。
もう一つ重要なことで触れられなかったことは、北朝鮮に人口問題である。朝鮮戦争勃発時の北朝鮮の人口は国連の推計値で972万人、戦争終了時、北朝鮮中央統計局によれば849万人、差引120万人の減少である。その後人口は1970年には1500万人、1980年代末には2000万人に到達した。90年代後半からは、経済難・食糧難により人口増加率が急減し、2000年の人口は2218万人といわれている。朝鮮総督府時代の北朝鮮地区は、人口1000万人弱で食糧の自給がやっとだったと木村氏のデータは伝えている。この人口問題に北朝鮮政権がどう対処したのか、80年代に「全国土の棚田化」によって樹木の乱伐が行われ、山林の保水力が減退していたため、ちょっとした大雨でも、すぐに洪水や鉄砲水が起る有様で、90年代後半に北朝鮮を襲った大水害や干ばつなどの自然災害で、耕地の半分以上が被災、北朝鮮は国際社会に食料援助を求めるに至った、という。ここで要請されているのは治世力であって、軍事力、共産主義ではない。朝鮮総督府時代と比較してみると、その違いがどこから出てくるのか、自ずと分かる。
^