北朝鮮の経済の行き詰まり

2021年06月25日 | 歴史を尋ねる

 朝鮮戦争の実態に及んだので、その後の北朝鮮経済の行方についても、知っておきたい。参考にするのは、今村弘子著「北朝鮮 虚構の経済」と木村光彦著「日本統治下の朝鮮」、三浦洋子千葉経済大学教授論文「朝鮮半島の人口転換とその変動要因の分析」、文浩一ジェトロアジア経済研究所論文「朝鮮半島の都市、人口と都市」そして睡夢庵「日本と朝鮮の人口推移と身分制度」等。

 1945年12月、米英ソ中による五カ年の信託統治の後に南北統一政府を発足させるというモスクワ協定が締結されたが、その後の米ソの角逐から、この協定は実行されなかった。南部では米軍の軍政が敷かれ、北部ではソ連軍民政部の指導のもと、金日成を委員長とする北朝鮮臨時人民委員会が結成された。朝鮮半島の分断によって、南北ともに均衡のとれた経済発展が阻害された。朝鮮半島北部には鉱物資源が豊富で、朝鮮総督府時代に製鉄所など重工業の設備が多く建設されていた。反対に農業や軽工業は南部で盛んで、「南農北工」「南軽北重」と呼ばれていた。半島全体の工業総生産額のうち北部は60%、中でも採掘業(78%)、化学工業(82%)であり、発電量は92%を北部が占めていた。反対に水田の75%は南部に位置し、紡績や食品工業など軽工業は南部に集中していた。

 朝鮮併合(1910年)当時、朝鮮の総人口は1323万人(朝鮮総督府調査)、1944年は2592万人(北朝鮮959万人、韓国1633万人:朝鮮総督府国勢調査資料より文浩一氏調べ)、35年間でほぼ2倍に増えている。人口増加の主な理由は自然増加であった。疫病が大流行した1918~19年の死亡率を除くと、出生率の増加と死亡率の低下は明白だった。当時の朝鮮総督府の施策は農村振興であり、その結果としての食料不足の解消だった。朝鮮米増殖計画によって米を日本へ輸出し、その代価で低廉な満州産の粟や外米を購入し、飢饉の頻発によって大量の餓死者が出ていた李朝時代に比べれば、農民たちの食生活は量的には改善されていった。当時作成された「食料需給表」によれば1927年の一人一日の供給熱量は2700キロカロリー、90%がでんぷん質食糧で占められていた。ちなみに日本の同年の供給熱量は2300キロカロリーであった。さらに公衆衛生の改善と医療制度の確立、コレラ、天然痘、ペストなどの伝染病予防やハンセン氏病患者の収容などで、死亡率低下に大きく貢献した、と三浦氏は解説する。一方、日本や満州へ向けて朝鮮人の流出も多く、1910~45年までに327万人の移動があったと言われている。さらに半島北部の工業化が進み、南部から北部への移動も1935年以降活発化した、と。
 日本統治下、朝鮮経済は大きな変化をとげた。その変化は、20世紀前半の世界で異例なほどであった、と木村光彦氏はいう。内容は、いわゆる非農化、農業主体から非農業主体の経済への急速な移行であった。(1910年の総督府統計では、朝鮮の全戸口の80%を農業戸口が占めた。日本では1870年代初期の農林業人口比は70%程度であり、朝鮮経済が明治初期の日本以上に、農業に依存していた。北朝鮮の農業は一年一作の畑作を主とし、焼畑(火田)・休閑地も多かった。これに対して南朝鮮では一年二作が普通で、表作は米、裏作は麦などが盛んに行われた。北朝鮮で最大の栽培面積を占めたのは粟で、東部では大麦に稗(ひえ)、大豆、西部では米、大豆の栽培が多かった。南朝鮮では米作が最多で、大麦作と大豆作がこれに次いだ。しかし米作の生産性は低かった。灌漑設備が少なく、田の大半は天水田、またはそれに近い状態の田が多くを占めた。肥料は農家の自給自足だった。畑作では無肥の場合も少なくなかった。)
 (朝鮮にはもともと地主ー小作制が広がり、1910年代、農家数の七割が自作兼小作農と純小作農。耕地面積の半分が小作地であった。田に限ると小作地は七割に近い。朝鮮人地主の多くは、農業に無関心な不在地主だった。一方、併合前から、日本人が農業経営に進出していた。耕地を買収し、小作人を使って特に米作経営を行った。なかには、数百から数千町歩の田を所有する個人や会社も存在した。1908年に設立された国策会社、東拓はこの種の最も大規模な会社であった。こうした個人や会社は率先して優良品種を採用、目的は小作料として徴収した米を日本向けに販売することだった。優良品種の普及は朝鮮人所有田でも起こった。急速なコメ増産の背景は、貨幣経済の進展があった。日本からの工業製品の流入、租税その他公費負担、販売肥料の購入などは、農村住民に貨幣獲得への強い誘因となった。米は重要な換金作物になった。1920年、総督府は「産米増殖計画」をスタートさせ、朝鮮内の米需要の増加に備えるとともに、農家経済の向上と日本の食料問題の解決に資することであった。内容は、土地改良(灌漑改善、地目変換、開田)と農事改良によって、米の大幅増産を期した。また畑作ではジャガイモ、トウモロコシ、陸地綿、養蚕を推奨、貴重な食糧作物と換金作物を伸長させた。)  以上、朝鮮経済が大きな変化をとげる移行過程で、農業自体の変化を追った。総督府の政策と貨幣経済の進展が、農法の改良、作付転換を引き起こした。農業生産は全体として、継続的に増大した。

工業化の端緒は、原料の単純加工を行う中小工場の勃興だった。加えて1910年代には早くも、近代工業とくに製鉄業が興った。(三菱合資会社は併合直後、北朝鮮南西部兼二浦の鉄山を買収、無煙炭鉱の買収も続け、兼二浦製鉄所の建設工事を1914年開始、1918年溶鉱炉二基の火入れ式を行った。1919年には平炉と圧延設備を加え、銑鋼一貫生産体制を整えた。鋼材生産の目的は、海軍艦艇用の厚板と大型形鋼を三菱造船所に供給することであった。1934年製鉄大合同の結果日本製鉄が成立し、兼二浦製鉄所は日本製鉄に移管された。北朝鮮東部では1910年半ばから、利原鉄山の開発が行われ、八幡製鉄所に原料鉱を供給した。さらに東アジアでも最大級の鉄山といわれた茂山鉄山も開発され、1939年、日本製鉄が清津製鉄所の建設を開始した) 1920年代から30年代には、民間企業によって、電源開発を基礎に巨大化学コンビナートが建設された。(併合後、総督府は水力電源の調査を積極的に進めた。その大部分は北朝鮮の鴨緑江・豆満江の本・支流に存在した。1926年、野口遵が資本金2000万円で朝鮮水力発電株式会社を設立し、大規模な電源開発を行った。第一発電所は1929年に漸く完成、同様の方式によって電源開発を行い、野口の最終目的は、豊富・安価な電力を利用して北朝鮮で化学肥料会社を建設することであった。1927年朝鮮窒素肥料株式会社を設立、北朝鮮東部の興南で化学肥料会社を建設、工場はアンモニア合成、電解、硫安製造、工作、触媒の各工場からなった。硫安製造能力は日本内の工場を上回った。野口はつづいて同地区に化学工場を建設、苛性ソーダ、塩安、カーバイト、石灰窒素などを大量に製造した。野口の事業は興南に止まらない。1932年北朝鮮北東部に石炭乾留工場を建設、付近の褐炭を利用して、タールから揮発油、水性ガスからはメタノールとホルマリンを製造、ホルマリンは火薬やべークラウトの原料だった。さらには石炭液化事業も始め、石炭を原料とする液体燃料開発の事業化で、液化油製造能力は年間五万トンに達した。)
 併合から1935年までに、石炭生産は8万トンから200万トンに激増、鉄鉱石生産は14万トンから23万トンに増大した。さらに、黒鉛、重晶石、タングステンなどの各種の鉱物採掘が進んだ。ほかに、アンンチモン、雲母といった希少鉱物の鉱区が開かれ、1930年代にはマグネサイト鉱の採掘も始まった。埋蔵量数億トンの高品質鉱で、世界有数といわれた。
 工場総数は1912ー39年間、およそ300から6500に増加した。とりわけ朝鮮人工場の増加率が高く、1932年には日本人工場の数を上回った。朝鮮人工場の大半は従業員50人未満の零細工場だったが、比較的規模の大きい工場も現れ、1939年には従業員200人以上の工場が15工場にのぼった。
 比較経済史の観点から見ると、工業化の進展は欧米の植民地にはない特異なものであった。とくに本国にも存在しない巨大水力発電所やそれに依拠する大規模工場群の建設は、日本の朝鮮統治と欧米の植民地統治の違いを際立たせる。とりわけ強調すべきは、産業発展に非統治者の朝鮮人が広く関与したことであった。総督府の政策と日本からの資金・技術・知識の注入は、大きな役割を果たした。しかし同時に、朝鮮人の側に、外部刺激に対する前向きな反応、自発的な模倣・学習、さらには創造性・企業家精神が明瞭に見られた。驚異的な発展は、統治側・非統治側の双方の力が結集して起こった、と木村光彦氏は指摘する。 木村氏の実証研究の目玉はここにあると思うが、当時の朝鮮で、統治・非統治の意識がどの程度日常的になっていたのか、李朝朝鮮時代からの人々は、社会の価値観の変化に圧倒されていたのではないか。あれほど圧倒的な力を持っていた両班階級が少なくとも表面に現れなくなった。李朝の王族も、併合後、日本の皇室に続く地位を得ていた。統治・非統治の意識は日常生活上は薄かったのではないか。欧米型の植民地という考え方があれば、日本人もここまで半島に投資しなかった。人類皆兄弟、天皇の下に皆平等の精神は日本人だけだなく、台湾人や朝鮮半島の庶民にはある程度受け入れられたのではないか、と筆者はひそかに考えている。

 この辺で、タイトルのテーマとかけ離れたので、もとにもどしたい。北朝鮮が朝鮮総督府の下でどの程度の経済的レベルに達したのか、それがどの程度引き継がれ、その上でどうして現在の経済的苦境に陥っているのか、何とか解くほぐしたい。
 1937年の支那事変勃発以降、帝国日本は戦時体制、さらには総力戦体制に入っていく。政府にとって、産業各部門の生産性向上、とくに軍事工業の拡張が至上命題となり、あらゆる政策が動員され、経済は統制強化であった。これは朝鮮でも同様で、総督府の行政も戦時体制に転換した。総督府の機構は1935年以降、さらに拡張され、1942年人員は総数10万人を超えた。日本人が5.7万人、朝鮮人が4.6万人、朝鮮人の増加率が高かった。
 まずは食糧増産計画だった。増産実現のため総督府は、農民の組織化、精神力の鼓舞を図った。内地の大政翼賛会と連携する国民総力朝鮮連盟が結成され、農山村生産報国運動に発展させる役割を担った。また、朝鮮における本格的な米穀統制、すなわち価格統制と出荷・集荷統制を開始した。1939年総督府は小作料統制令を制定、地主は小作料の変更が出来なくなった。また地主から小作米(地主取得分)の供出が命じられ、土地所有権に帰属する財産と収益の自由な処分権を大部分、総督府に譲る形となった。
 1937年、重要産業統制法が施行された。これによって、朝鮮商工業に対する統制が本格化した。以後、取引、価格、資金融通、賃金などの統制法が次々と出され、市場経済から統制経済への転換が進展した。統制強化とともに、帝国経済は経済計画が導入された。朝鮮では、1943年末に発足した総督府鉱工局が鉄鋼、軽金属、化学製品などの重要物資の生産・配分を統括し、主要鉱山・工場に四半期別、月別に生産目標を割り当てた。鉱工局は半島の軍需省といわれた。1930年以降、総督府は自らまたは鉱山会社や大学を督励して積極的に鉱物探索を行った。日米開戦後は、軍需に応じて新資源の探索が一層広範囲に進められ、北朝鮮では多種の希少鉱物の存在が判明した。コバルト、ジルコンなど他地域で得難いものもあった。戦時末期、とくに急要として採掘されたのは、鉛、モリブデン、蛍石、黒鉛、カリ長石、小藤石、電気石、リチウム、コロンブ石、モナザイトであった。モナザイトの主成分はリン、セリウム、トリウムの化合物で、そのほかにウランなど各種元素の化合物を含んでいる。陸軍は1940年に原爆製造の意義を認識し、翌年理化学研究所に委託、仁科芳雄博士はウラン原鉱として、朝鮮のモナザイトに注目した。北朝鮮はまた、フェルグソン石、リン灰ウラン石、銅ウラン雲母など、天然ウランを多量に含む鉱石を産する。陸軍はフェルグソン石の採掘を行い、原爆製造に必要なウラン235の半量(あとの半量は福島県)を得る計画であった。しかし陸軍の原爆製造計画は技術的な問題から打ち切りとなった。
 1930年代末から、製鉄、冶金、軽金属、化学、繊維など多くの軍事関連分野で、生産拡張が行われた。朝鮮の各企業、とくに野口系企業や三井、三菱、住友といった日本の主要財閥が投資を積極化した。海軍のロケット燃料を製造する秘密工場も、新たに設置された。戦争末期には、日本の有名企業が軍の指示を受け、続々と朝鮮に工場を建設した。軍事工業化は、豊富な鉱物・電力資源、労働力を基礎に、広範囲かつ急速に進行した。北朝鮮では、近代兵器工業の核たる特殊鋼・軽合金の生産、ロケット燃料やウラン鉱の開発まで行われた。これらの事実は21世紀の今日まで殆ど知られていないが、対米戦争の中で、朝鮮がいかなる役割を担ったかを語っている、と木村光彦氏。朝鮮では米軍は空襲しなかった、そのために工場建設が急速に行われ、その工場群が敗戦時まで無傷であった、と。
 帝国日本は、長期戦に備え、朝鮮における戦争経済の構築を図り、本国から自立した軍事・非軍事(繊維、雑貨、食料品など)工業の建設を企図した。政府は戦時末期、内地の設備や技術工の朝鮮移転を推進する計画を立て、一部を実行に移した。他方、鮮満一如が謳われたように、朝鮮と満州の経済的結びつきが強まった。朝鮮の諸工場は満州から燃料と工業原料を大量に購入する一方、半製品・完成品(化学製品や機械類)を販売した。水豊ダムの電力の半分は満州に送電された。華北との経済関係も同時に強まった。華北からの礬土頁岩の輸入で、朝鮮のアルミニウム生産を支えた。こうして朝鮮・満州の自立的工業の建設は、完全には達成されなかったが、帝国崩壊時までに大きく前進した。

 帝国日本は朝鮮に膨大な開発成果を残した。電力、鉄道、港湾などのインフラ、鉱工業の生産設備から農業の進歩に及んだ。そしてインフラ、鉱物資源、工業設備の多くは北朝鮮に存在した。北朝鮮の発電能力は1945年、南朝鮮の6倍、一人当たりでは内地すら上回った。鉄道総延長も北朝鮮が南朝鮮を上回った。大半の重要鉱物は北朝鮮でのみ生産された。全電力の90%は北朝鮮で消費された。そのうち化学工業が80%を占めた。南が北より多かった部門は、紡績工業、機械器具工業、食料品工業だった。しかし北朝鮮は重化学工業で南朝鮮を完全に圧倒していた。
 農業はその生産能力を的確に示すことは難しい。北朝鮮の米の生産は生産増加率が高かったが、南朝鮮の30~40%ぐらいであった。しかし食料作物全体(米、麦、雑穀、豆、イモ)を取ると、北の生産能力は南の半分を上回った。北の雑穀とジャガイモ生産が相対的に大きかった。1942-44年、北朝鮮の食糧生産は、全量が住民の消費に充当されれば、飢餓が生じる水準ではない。帝国日本が崩壊した後、北朝鮮には、住民に生存を保障する食料生産能力が残された、と木村氏は分析する。

 では、朝鮮総督府の治世下からいわゆる解放された北朝鮮は、どうなったのか、ここでも木村光彦氏の研究を参考にしたい。 ソ連軍政下の北朝鮮で採られたのは、戦時期に帝国日本が追及した統制政策だった。ソ連軍政当局は1946年8月、主要な旧日本企業をすべて国有化した。中小商工業者には、当初営業を許可した。土地改革は、小作農民の共感を得るため、進歩的民主主義社会の物質的土台であると宣伝、政府による土地取り上げを連想させる社会主義という言葉は、意図的に避けられた。当時の北朝鮮の内部文書にはっきり書かれていると木村氏はいう。農地の売買・貸与が禁止されただけでなく、作物の選択や収穫物の販売に厳しい制限が課された。ソ連軍政の目標は経済全般の統制強化、全資産の国有化であり、土地改革はその重要かつ大きな一歩であった。国家樹立後、金日成政権はこの政策の継承・発展を図った。朝鮮戦争後には、農業および中小商工業の集団化を推進し、経済の全部門を国家の支配下に置いた。
 ソ連軍政とそれに続く金日成政権の経済建設の柱は、帝国日本が残した軍事工業の活用と発展だった。ソ連占領軍は一時工業設備を解体し持ち去ったことのあったが、規模は限定的であった。その後は抑留日本人技術者を使役し、産業の復興を図った。(野口系の企業には内地人技術者が217名もいたが、その中の一人、宗像英二は朝鮮石灰工業への配属転換を命ぜられて渡鮮、アルミニウム原料のアルミナ抽出技術の開発に取り組み、京城帝国大学で化学技術の講義を行った。北朝鮮を占領したソ連軍は内地人技術者の帰国を認めず、工場の稼働に彼らを使役した。宗像も興南肥料工場の技術指導者となり、生産回復に協力した。その後1946年末に海路、北朝鮮を脱出、日本に帰還した。帰国後、宗像は旭化成取締役に就任し、人絹工業の復興に尽力、1962年日本原子力研究所理事を務めた。) 金日成はソ連軍と共に北朝鮮に入ると、日本が残した諸工場を精力的に視察、いち早く平壌兵器製造所に注目し、その拡充を企てた。国家成立後、金日成政権は軍備拡充に多大な努力を傾け、1949年には、元山造船所で初の海上警備艦を建造している。警備艇の鉄板を製造したのは黄海製鉄所(旧日本製鉄兼二浦製鉄所)であった。1949年3月、金日成はソ連を訪問、朝ソ経済文化協力協定を結んだ。これには秘密協定が付属し、ソ連は北朝鮮への大量の兵器の供給に同意、TNT火薬工場、地下兵器工場の建設にも、支援を約束した。金日成は他方で鉱物、とくに鉛・亜鉛の増産を命じた。国産兵器の原料として必須であったばかりでなく、対ソ輸出品としても重要だった。ソ連は兵器、資本財、技術指導を無償で提供したのではなかった、その対価を要求した。金日成政権はその支払いのために、鉛・亜鉛の対ソ輸出を増やさなければならなかった。同様に、モナザイト、コロンブ石も大量に輸出された。ソ連は北朝鮮産のウラン鉱を原爆製造に利用した、とロシア政治専門家の下斗米伸夫著「アジア冷戦史」は語っている。
 金日成は核開発に強い関心を抱いた。それは彼の軍事優先主義、対南赤化統一政策の下では当然で、ウラン鉱開発と重化学工業という帝国日本の遺産によって、この事業が十分に実現可能と映った。朝鮮戦争後、金日成はソ連との間で、核研究協力に関する合意文書に調印し、何人かの研究者をモスクワ郊外の核研究所に派遣した。また、1957年ごろ、戦前日本で学んだ物理学者が、東京大学に原子力研究の共同開発を申し入れた(公安調査月報による)。これらの情報は、金日成が1950年代後半、すでに核開発を構想していたことを裏付ける、と木村氏はいう。そして木村光彦氏はこう結論付ける。「戦後北朝鮮は帝国日本から、巨大な産業遺産と共に、戦時体制(全体主義)と統制経済を継承し、これを社会主義または共産主義の名のもとに、国家運営の基礎とした。政権は軍事攻撃による南への体制拡張に失敗した後も、テロや政治工作を通じて対南攻勢を継続する。政権の継承者、金正日は先軍政治を掲げ、いっそうの軍事強化とくに核ミサイル開発に邁進した。この間、日本統治期の産業遺産とくに大規模発電所、化学コンビナート、製鉄所は北の経済の根幹であり続けた。しかし軍事に偏重した非生産的投資と統制に伴う非効率は、経済を長期停滞に陥れた。加えて政権は、各部門に無秩序な増産命令を乱発する一方、自らは奢侈的および権力を誇示する消費をくり返し、その結果、経済の計画化は名ばかりとなり、市場経済抑圧の下で、住民の間では生活維持のため、自給自足への退行が生じた」 木村光彦氏の分析は一々最もであるが、さらに軍人上がりの金日成にとって、北朝鮮には帝国日本の軍事産業が沢山残っていることに目がくらみ、北朝鮮を軍事強国にしようと野望が沸き上がったのではないか、軍国主義日本の負の遺産も引き継いだ、ともいえる。

 「北朝鮮経済はなぜ破綻したのか」 今村弘子氏は中国での北朝鮮研究から得たものから、その著書「北朝鮮「虚構の経済」」を著わしている。その第一章がこのテーマである。   かって「自立的民族経済」を標榜していたこの国の経済は、なぜ破綻したのか。そこには社会主義国が共通に抱える問題とともに、北朝鮮独自の問題があった。北朝鮮は建国直後の時期を除いて、社会主義国でありながら計画経済が機能しない「計画なき計画経済」国家であり、また「自立的民族経済」といいながらその実態は援助の上に成り立つ「被援助大国」であり、対外経済関係ではボーダレスには程遠いボーダフルな経済国家だった、と今村氏はいう。社会主義を名乗っている以上、北朝鮮も長期経済計画を策定し、それにしたがって経済を運営してきた。しかし計画自体が野心的すぎ、整合性もなかった。中国、ソ連からの援助の減少や、軍事費の負担の増大という外部要因も重なり、長期計画そのものに意味がなくなった。また、北朝鮮経済の特異性としては、南北朝鮮の軍事的緊張と軍事費の経済への圧迫であった。1969年以降、大規模な米韓合同軍事演習が定期的に行われてきたが、北朝鮮はその期間中、民間も含めて非常態勢を敷いていた。韓国も米韓合同軍事演習の狙いについて、北朝鮮に脅威を与えることだと語っている。金日成はホーネッカー書記長に、われわれはその都度対抗措置を取らねばならない、攻撃に備えるため、多数の予備役兵を正規軍に補充しなければならない、これによって毎年一カ月半の労働シフトを取っていると、説明していた。フーン、ソビエトロシアが対アメリカ冷戦対策で経済の破綻に追い込まれた経緯と相似する。こうした国際環境の中で北朝鮮は国防費に膨大な予算を割かざるを得なかった。北朝鮮経済が逼迫した90年代半ば以降も、軍事予算の減少額は少ない。生産活動を犠牲にして、国防を優先させている。米軍備管理軍縮局の推計ではGDPに占める割合は95年で29%、99年で19%。こうした軍事優先の政策が北朝鮮経済の発展を阻害した。さらに援助に依存した経済構造は、経済成長の持続が発表されていた70~80年代も、結局改善されることがなかった。このためソ連の崩壊によって援助が激減した、中国が改革開放政策以降、政策の変更によって援助が減少させたことから、朝鮮の経済困窮度は一層深刻になった、と今村氏はいう。

 今村氏は解放直後の北朝鮮の経済状況も触れている。 1946年8月、日本国、日本人および親日企業家が所有していた企業や鉱山、鉄道、銀行、商業施設など1034の重要施設が無償で没収され、国有化された。工業分野の大部分を所有していた日系企業が接収されたことにより、46年末には国有企業など社会主義経済形態の占める割合は、工業総生産額の72%に達した。一年余りで生産財を国有化する社会主義経済化が急速に進められた。47年と48年には各々一ヵ年計画が立てられ、増産突撃運動が行われた。工業総生産は47年には前年比54%増、48年には64%増となり、食料生産も増産され、経済回復の足取りは早かった、と当時の北朝鮮公式報道を示している。さらに49~50年には二か年計画が行われ、食糧生産は300万トン、工業生産は1944年の96%の水準(出所:朝鮮中央年鑑)まで回復した。木村氏が分析した朝鮮総督府の達成した経済状況が一先ずうまく引き継がれているのが分かる。
 ところが金日成は南北統一を武力で実現しようとした。1953年7月漸く停戦を迎えたが、この戦争の被害は甚大だった。朝鮮人の死者だけで南北あわせて150万人とも400万人ともいわれ、南北離散家族も1000万といわれる。3年に亙る戦争の間に北朝鮮の8700の工場が破壊され工業生産は戦争前の64%の水準まで減少した。直後の経済的損失は4億ドルで49年のGNPの6倍に達した。朝鮮戦争の結果、南北は軍事的緊張の下で国造りを再開、南北の経済建設に深刻な重荷を負わせることになった。とくに北朝鮮にとって、軍事力の強化という至上命題は、その経済を歪ませた。
 朝鮮戦争が終わった直後の53年8月、党中央委員会総会で「重工業の優先的な発展を保障しながら、同時に軽工業と農業を発展させる」という方針が採択された。これに対し人民生活が苦しいのに重工業に偏っているという反対意見は、教条主義、修正主義として切り捨てられ、反対派は一掃された、という。この辺が金日成政権の限界なのだろう。まず武力統一戦争を引き起こしたことが金日成の誤りで、その後の南北朝鮮の軍事的緊張が続いたのは朝鮮戦争の結果であり、さらに軍事力強化の道を選んで、重工業の優先的な発展を方針とした。軍事力強化の悪循環である。朝鮮総督府時代に北朝鮮地区に開発した重工業の遺産が、結果的に軍事力強化の後押しをしたと言えるのではないか。アメリカを敵に回したら、当時国際的交易の分野に進出することは無理だろう。朝鮮総督府が切り開いた北朝鮮地区の鉱工業遺産は、軍事力強化の道にしか使われず、北朝鮮の人々の経済発展に貢献しなかった。北朝鮮も韓国も朝鮮総督府の残した遺産の上に、歴史は積み上げられるのは誰も変えようがない。両国とも李朝朝鮮からの物的遺産(例えば経済的遺産)を引き継いでいないことでも、そのことが云える。
 もう一つ重要なことで触れられなかったことは、北朝鮮に人口問題である。朝鮮戦争勃発時の北朝鮮の人口は国連の推計値で972万人、戦争終了時、北朝鮮中央統計局によれば849万人、差引120万人の減少である。その後人口は1970年には1500万人、1980年代末には2000万人に到達した。90年代後半からは、経済難・食糧難により人口増加率が急減し、2000年の人口は2218万人といわれている。朝鮮総督府時代の北朝鮮地区は、人口1000万人弱で食糧の自給がやっとだったと木村氏のデータは伝えている。この人口問題に北朝鮮政権がどう対処したのか、80年代に「全国土の棚田化」によって樹木の乱伐が行われ、山林の保水力が減退していたため、ちょっとした大雨でも、すぐに洪水や鉄砲水が起る有様で、90年代後半に北朝鮮を襲った大水害や干ばつなどの自然災害で、耕地の半分以上が被災、北朝鮮は国際社会に食料援助を求めるに至った、という。ここで要請されているのは治世力であって、軍事力、共産主義ではない。朝鮮総督府時代と比較してみると、その違いがどこから出てくるのか、自ずと分かる。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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朝鮮戦争と権力闘争

2021年06月14日 | 歴史を尋ねる

徐大粛著「金日成」の原書が出版されたのは1988年、ソビエト連邦が崩壊する前で、ソ連秘密文書が公開がされる前だったが、朝鮮戦争についても基本線はしっかり押さえられていると言っているのは、文庫本「金日成」の解説蘭を担当する和田春樹氏だ。朝鮮戦争の経緯については、ソ連秘密文書で公開された事実も加味した、ふくろうの本「図説 朝鮮戦争」田中恒夫氏の著作に依ることとし、全体の流れは、徐大粛氏に語って貰う。

 徐氏はいう。1948年、北朝鮮に正式な単独の政権が樹立されると、党派間の合従連衡が目立ち始め、どの党派も新たな状況の展開に対して、体制を整えそれぞれの主張を始めた。もっとも世帯が大きかったのは国内派であったが、国内派は38度線の北での表舞台の活動と南での地下活動とを共に抱えていたため、その力が分散された。中国大陸から戻って来た延安派は、ソ連占領軍により武装解除されていた。ソ連派はソ連当局により支えられて、金日成のパルチザン派と協力関係にあったが、もともとは異なった集団だった。金日成は政府を樹立してから2年とたたぬうちに自ら創建した軍隊を用いて南への武力攻撃の挙に出た。朝鮮戦争に関しての研究では多くは国際的要因に原因を求めているが、国内的要因を検討することも重要、金日成の何よりの目的は、軍事的手段を用いてでも分断された国土を統一することにあったから。しかし金日成の企ては、結局は国連および他の多くの国々を巻き込む国際紛争へと発展した。祖国解放戦争のつもりであったものが、金日成の手に負えない一大戦争となってしまった。中国人民義勇軍が登場すると、戦争の遂行自体が金日成ン手を離れ、休戦協定もアメリカ軍と中国軍との合意によってもたらされた。
 金日成にとってさらに深刻であったのは、不首尾に終わった戦争の結末の端を発した、指導者としての地位を揺るがす権力闘争だった。戦争のさなかも休戦後も、各党派は金日成に揺さぶりをかけたが、金日成はこうした挑戦に対抗するばかりか、逆に逆手にとって、敵対する党派を潰し自分の権力をいっそう強固なものにした。まず国内派が攻撃した。そしてソ連で非スターリン化の動きが始まると、延安派およびソ連派の一部が金日成の追い落としを図った。しかし金日成はこれらの挑戦をすべて容赦なく退けた、と徐氏は解説する。なかでもソ連派からの批判は由々しき事態だった。ソ連派は党、軍、政府、党の機関紙、幹部養成学校等の主要ポストを握っていた。ソ連派の許カイは朝鮮労働党の副委員長であった。ソ連軍は撤退しており、朝鮮戦争が始まっても北を支援しに戻ってこなかったため、結局ソ連派の力は大きく後退した。延安派で党および政府の要職に就いていた者も、1958年に中国軍が撤退する頃までには、その地位を追われた。10年以上の年月がかかったが、パルチザン派を除くすべての党派は跡形もなく消し去った。1961年9月、朝鮮労働党第四回党大会を開催し、残ったのは金日成に無条件に忠誠を誓う者のみであった。こうして金日成はパルチザン派の同志を要職に登用し、自らの抗日武装闘争を朝鮮の唯一正しい革命の伝統であるとして、この伝統を継承する新しい共産主義的人間作りを始めた、と。

 ここからは、ソ連秘密文書で公開された事実も加味した田中恒夫氏の朝鮮戦争の解説である。 1948年10月ソ連軍撤退、その際大量の軍需品や装備を北朝鮮に譲渡した。この時朝鮮人民軍は約6万の兵力を有していたが、その後もソ連からの借款によって小銃、野砲、戦車、航空機、弾薬などの装備の充実を図った。 一方48年末に米軍が撤退し、韓国軍が38度線の警備を引き継ぐと、南北両軍は直接対峙することになり、49年には両軍の間で国境紛争(三八線衝突事件)が頻繁に起こるようになった。これらの事件は、米や食料の略奪のための侵入、砲撃、攻撃、高地の争奪戦などであるが、北朝鮮軍にとっては韓国軍の戦力の探索という目的もあった。戦いは優越した武器を投入した北朝鮮側が優勢で、訓練の練度も北の方が上であった。当時韓国軍はゲリラ討伐に手を焼いており、国境紛争に没頭する余力はなかった。韓国軍は北朝鮮軍が出てこなければこちらから積極的に仕掛けることはしないとの方針で対処するようになった。フーム、こんなところにも、北朝鮮からの侵略の誘惑を起させていたのだ、今の尖閣諸島の状況も酷似している。日本はしたたかに対処しているが、誘惑だけは起こさせている。
 国力、軍事力が優位に展開しつつある情勢を背景に、48年12月頃、ソ連軍事顧問団と金日成一派のごく少数による北朝鮮指導部内で武力南侵が密かに合議された。翌49年3月、モスクワを訪れた金日成は、スターリンに南侵を打診したが、スターリンは時期尚早であり、韓国から先制攻撃があった場合のみ反撃を認めるとして金日成の申出を拒否した。その後8月、金日成は平壌駐在の大使を通じて南侵を提議したが、これもスターリンは拒否、北朝鮮による挑発行為を容認しているとして大使を叱責した。田中氏はコメントしていないが、米国が出て来た時、第三次世界大戦に発展する可能性をスターリンは恐れたのだろう、米国は核兵器を保持しているから。 このソ連の姿勢が変化するのは1950年に入ってからだった。1月17日、金日成は大使に熱っぽく南侵の承認を訴えた。その旨を知らされたスターリンは、1月30日付電報で、スターリンはこの件について金日成を支援する用意が出来ていることを伝えよ、シトゥイコフ大使に伝えた。金日成はこれを南侵の事実上の承認と受け取った。

 なぜ一転して承認したのか。スターリンは5月14日付毛沢東宛ての電報で、国際情勢の変化を挙げている。①ソ連による核実験の成功(49年8月)、②社会主義中国の誕生(49年10月)、③アチソン演説(50年1月)、④中ソ友好同盟相互援助条約の締結(50年2月)、⑤在韓米軍の撤退(49年6月)。 米国による核独占は崩れ、在韓米軍も撤退、東アジアの防衛ラインから韓国を除いた(アチソン演説)という事実と、米国は国共内戦で台湾の国民政府を助けなかったが、朝鮮でも同じではないかという読みであった、と田中恒夫氏。スターリンは米国が介入しないことが大前提であり、後は中共がこれを承認するかという問題が残り、これを南侵承認の条件に付けた。スターリンは平壌にいる軍事顧問団首脳に代わって、独ソ戦を戦い抜いた中将、少将に交代させた。
 3月11日、金日成はワシリエフ中将や3人の軍事顧問団首脳と会談し、南侵の決意を示すとともに、計画作成をソ連軍事顧問団に依頼、金日成自身は3月末から4月にかけてモスクワを訪れ、スターリンから最終承認を得ると共に、スターリンの示した中共の同意を得るため、金日成と朴憲永は5月13日に北京を訪れ、中共の同意を取り付けた。また南侵計画は顧問団によって作成され、朝鮮語にも翻訳された。6月10日、北朝鮮軍は秘密軍事作戦会議を開いて、機動演習の名目で38度線に展開する命令を下達、12日から各部隊は陸続と南下を始めた。

 この頃韓国では、5月30日の第二回総選挙で李承晩の支持勢力は大敗し、その政権維持も危ぶまれる状況となった。また軍はこの年の4月と6月に高級幹部の人事異動があり、すべての師団長が交代した。また6月中旬の部隊改編によって編成は混乱しており、未だ新任地に到着していない部隊もあった。韓国軍は北朝鮮による不穏な動きについてある程度把握していた。だが政府や軍全体に切迫した危機感はなかった。
 1950年6月25日北朝鮮は38度線全域に亘って一斉射撃を開始、十数万の大軍が怒涛の南侵を開始した。この時韓国軍は38度線南側に四個師団と一個連隊、後方に四個師団を配置していたが、各部隊は装備の三分の一を整備中で、ほとんどの部隊の兵士は休暇・外出中で、38度線沿いには大隊級の部隊が就いているだけだった。ソウルの軍中枢部も同様だった。急いでソウル防衛を指示したが、28日午前零時北朝鮮軍戦車が爆破しなかった鉄道橋を渡り始めソウルに突進、ソウルでは漢江大橋の爆破を命じ、韓国軍主力の撤退やソウル市民の避難については考慮されてなかった。韓江北岸に取り残された将兵の多くは苦労して韓江を渡り、投降した者は北朝鮮軍に編入された。また大半のソウル市民は北岸に取り残された。やがて北朝鮮による苛酷な統治が始まった。
 こうして首都ソウルはわずか三日で陥落した。韓国軍の戦力は半減した。ところがソウルを占領した北朝鮮軍は、漢江を渡河して南侵を続けるという当然の行動を採らず、なぜか三日間もソウルに停止したままだった。兪成哲(北朝鮮軍作戦局長)は「我々の南侵計画は三日以内にソウル占領で終わることになっていた。我々は首都ソウルを占領しさえすれば、全土が手に入るものと錯覚していた」「ソウルを占領すれば南の全域に潜伏している20万の南労党員が蜂起して、南の政権を転覆するという朴憲永の大言壮語を頭から信じ切っていた」と。 (人民蜂起は何故起きなかったか:韓国のゲリラ活動は、1946年10月の大邱暴動の鎮圧を逃れた左翼同調者が野山に集まり、野山隊として活動するようになった。その後各地で起こった暴動を韓国軍や警察が鎮圧すると、逃走者は山岳地帯に集まり、南労党はこれを組織化していった。1949年、南北朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党となると、これらを朝鮮人民遊撃隊として再編し、韓国でのゲリラ闘争を統制していった。その責任者は朴憲永などの旧南労党の幹部であった。だが党ゲリラはその活動に統一性、計画性がなく、各個に蜂起して韓国軍の討伐に遭い、勢力を減退させていた。一方北朝鮮は1948年10月から幾度となく遊撃隊を南に送り込んだが、その都度韓国軍の討伐に遭った。北朝鮮が南侵にあたって遊撃隊の擾乱と蜂起を期待したが、壊滅状態でその力はなかった)

 北朝鮮軍の侵攻に対して、国連安全保障理事会は25日、これを侵略行為と規定し、速やかな撤兵を要求し、加盟国による決議の実行を決議した。しかし北鮮軍はこの決議を無視して攻撃を続けた。トルーマン大統領は、マッカーサー元帥からの韓国軍崩壊の危機、李承晩大統領の救援要請、北朝鮮軍の攻勢は計画的な全面侵攻であるとの在韓国国連朝鮮委員団による報告などを考慮して、27日、極東海・空軍に対して北鮮軍への海空からの攻撃を指令した。 米極東海軍は、第七艦隊の一部を台湾海峡に派遣すると共に、主力で朝鮮海域に出動、海上封鎖、艦砲射撃、海上輸送、掃海に任じるとともに、空母艦載機による航空作戦を行った。 米極東空軍は朝鮮上空に進出して航空作戦を開始、瞬く間に38度線以南の制空権を獲得、B-29爆撃機で平壌飛行場を爆撃、35機の北朝鮮軍機を破壊した。 6月27日国連安全保障理事会は「北朝鮮の侵攻を撃退するため加盟国は韓国が必要とする軍事援助をあたえる」という決議を採択、米国が行った海空軍の投入を追認した。しかし米軍は地上軍の投入には躊躇した。ソ連の介入の恐れもあったが、崩壊しつつある韓国軍の戦力と戦意が問題だった。そこで29日、マッカーサー元帥は、飛行機で東京を発ち、水原飛行場から漢江南岸のソウルを視察、その結果地上軍投入の必要性をワシントンに打電、これを受けてトルーマン大統領は30日、米地上軍の投入を発表した。(マッカーサー元帥は視察が終わった後、傍らにいた韓国軍軍曹に「いつまで漢江が守れるのか」と尋ねた。その軍曹は不動の姿勢で「閣下、私は兵隊です。中隊長が守れと命ずれば、死ぬまでこの丘を守ります。中隊長が下がれと命ずれば、さがります」と答えた。その返答を聞いて、マッカーサーは満足そうにその軍曹に握手を求めたという。この軍曹の名前はわかっていないという)

 7月7日、国連安全保障理事会は国連軍の創設を決議し、その司令官を米大統領に委ねた。トルーマン大統領はマッカーサー元帥を国連軍司令官に推薦し、10日正式に任命された。史上初めて国連軍が誕生した。問題は韓国軍と国連軍の関係だった。李承晩大統領は臨時措置として韓国軍の指揮権を国連軍司令官に委譲した。戦況は北朝鮮軍の釜山占領が早いか、それとも国連軍の増援が早いか、まさに時間との戦いになった。この点、米軍が日本に駐留していることが大きな意味を持った。米軍は日本に駐留している部隊を韓国に派遣し、その後米本国から逐次韓国に投入した。こうして日本には北日本の第七師団しか残らないことになったため、マッカーサーは日本の治安維持のため7月7日、日本政府に警察予備隊創設の書簡を送った。また、補給面でも、国連軍も韓国政府も軍需支援体制の確立を急いだが、このため先ず在日在庫品を輸送することによって当面の需要を満たし、不足分は米本土と日本で生産して輸送することにした。一方、北朝鮮軍にとっては、南下するにつれて補給線は延び、兵力の消耗も増加し、補給や補充が追い付かなくなっていった。時間との戦いは、補給と補充のスピードの戦いでもあった。
 国連軍の地上部隊は第八軍司令官のウォーカー中将が率いた。(前の司令官はアイケルバーガー中将で憲法9条下の日本の安全保障面をいつも心配してくれていたが、その後任がウォーカー中将で、日本から今度は朝鮮半島に渡って来たのだ。)北朝鮮軍が洛東江にせまりつつあった頃、第八軍の西側面にはわずかな兵力が配置されているだけだった。ところが七月末まで行方の分からなかった北朝鮮軍第六師団が突如晋州正面に進出し、一気に釜山を突こうとする姿勢を示した。これは第八軍ばかりでなく東京の国連軍司令部、さらにはワシントンをも驚愕させた。この危機に際してウォーカー中将は全部隊に洛東江陣地への後退を命じ、所定の陣地を占領した。これが後に釜山橋頭堡あるいはウォーカー・ラインと呼ばれる陣地線であった。ウォーカー中将は「韓国から撤退はしない。韓国にダンケルクはない」「1インチでも奪われれば、多くの戦友を失うことになる。我々は最後まで戦う」と決意を述べた。Stand or die とマスコミにセンセーショナルに報じられた。国連軍は背水の陣に追い詰められた。この戦いが一カ月半もつづくことになった。

 仁川上陸作戦は、マッカーサー元帥の強い意思のもとに行われた作戦であるが、上陸作戦自体が目的ではなかった。元帥は地上軍を韓国に投入した時から、北朝鮮軍を韓国南部のどこかで阻止し、新たな部隊を北朝鮮軍の背後に上陸させてスレッジ(鉄床)を作り上げ、第八軍はハンマーとなって反撃に転じ、鉄床の上に北朝鮮軍を叩き潰すという構想を抱いて、国連軍参謀長アーモンド少将に上陸地点の検討を命じた。釜山橋頭堡の攻防がたけなわの8月12日、第一海兵師団の来援の報せを受けると仁川上陸の腹を決めた。仁川を上陸地点にすることは抵抗が多かった。仁川の干満の差は10m内外に達し、海岸は干潟で上陸用舟艇が到達するのは不利、従って大潮の満潮時に制限されるが、時間的にも制約される。だがマッカーサー元帥は皆が実行不可能と挙げた点は、それだけ奇襲効果が大きいとして自説を譲らなかった。作戦命令を下達、9月15日を上陸作戦日としてスレッジ・ハンマー作戦は動き出した。
 上陸そのものは順調に進み、ソウルへの進撃、奪還を目指した。北朝鮮軍の執拗な反撃に遭いながらも、28日になってソウルの敵兵掃討を終えた。第一海兵師団に続いて上陸したのは第七師団で、主な任務は南方からソウル地域への北朝鮮軍の増援の阻止並びに水原付近の要衝を確保しスレッジを拵え、洛東江戦線から反撃してくる第八軍と提携して北朝鮮軍を撃滅することだった。北朝鮮軍は国連軍が仁川に上陸したことを知らず、陣地を死守することを命じ続けた。しかし攻勢転移6日目になって、第八軍は各所で突破するに至った。9月22日、ウォーカー中将は総攻撃の好機と判断し全軍に突進を命じた。金日成は、25日に全軍に防勢転移の命令を下したが、そのとき既に北朝鮮軍の組織は崩壊しており、やがて各部隊ごとに壊乱して敗走を続け、九千人余りの兵士が捕虜になった。だが国連軍は北朝鮮軍を袋のネズミにしたにも拘らず、その主力部隊を完全に補足することは出来なかった。洛東江戦線にいた北朝鮮軍約10万人のうち、国連軍の包囲を逃れて北へ逃れた兵力は二万五千から三万五千人と推定された。約6万の兵士は霧散していた。(北朝鮮軍は撤退にあたって反共人士の粛清、有能な人材の北送、施設の破壊など多くの傷跡を残した。北朝鮮占領下で粛清されたソウル市民は9500人と推定され、二万から三万人が北に連行されたという。それらの人達は政治家、大学教授、医師、文人、技術者などすべての分野を含み、大物政治家もいた。)

 国連軍が38度線を越えるべきか否かという問題が浮上してきた。北朝鮮軍撃退後の行動について米国内でも意見の相違があり、国務省でも国連軍の共同行動によって朝鮮の統一を図るべきだという極東局の意見と38度線で停止して政治的解決を図るべきという政策企画室の意見が分かれた。マッカーサー元帥は北朝鮮軍も撃滅が第一で、そのためには38度線突破も止むを得ないという考え方で、この考えに引きずられる形で国務省の統合参謀本部も北進論に傾いた。統合参謀本部は、9月27日、「国連軍の軍事目的は北朝鮮軍の撃滅にある。このため38度線以北への進撃を許可する。ただし、ソ連や中共の介入の事実も意図もない場合に限る」「北朝鮮への進撃計画を立案せよ。ただし実行は大統領の命令による」 9月21日、ソ連のビシンスキーが38度線での停戦を呼びかけ、25日には中共がインド大使を通じて「米国が38度線を突破することを見過ごすことは出来ない」と警告した。一方、韓国の立場は複雑だった。李承晩大統領は、北が南侵して来た以上、もはや38度線は存在しないと表明し、この際、国連軍の北進によって統一の悲願を達成しようとしていた。9月29日韓国軍は38度線に達しようとしていた。李承晩大統領は参謀総長に韓国軍の38度線突破を命じた。しかし韓国軍は国連軍司令官の指揮下にあり米第八軍司令官の作戦統制を受けている。参謀長は熟慮の上、止むを得ず38度線を突破したという形を作った。結果的には米国が突破を決定していたので、独断突破は問題にならなかった。しかし国連軍は決議によって北進を開始したという政治的姿勢を示したかった。国連安保理では、38度線突破提案がソ連の拒否権によってその都度葬られ、米国は総会に提議した。「朝鮮の統一、独立、民主的な政府樹立のために、国連の後援下に選挙の実施を含む、あらゆる合法的措置を取る」ことを柱とする決議案を、賛成47、反対5、棄権7、不参加1で可決した。マッカーサー元帥は、10月9日、北朝鮮軍に降伏を勧告したが反応はなかった。これによってマッカーサーは第八軍に北進を下命した。国連軍は東海岸最大の良港で戦略上の要衝だった元山、北朝鮮の中心平壌を攻略し鴨緑江へと追撃が急展開で行われた。しかし10月25日、国連軍は運命の日を迎えた。

 元々中共は、朝鮮戦争は朝鮮の内戦であると考えていた。だが、6月27日に米国が海空軍の投入を決め、第七艦隊を台湾海峡に派遣すると、これに米国の侵略意図を感じ、朝鮮、台湾、ベトナムの三方向からの脅威を現実のものと認識し始めた。共産党指導部は予定していた台湾解放作戦を延期し、7月13日に東北辺防軍を創設して東北地方の防備を強化し、状況に応じては朝鮮に出兵することを決めた。また、ベトナムのホーチミンへ軍事支援を行ってフランス軍を撃退し、ベトナム国境を安定化させ、朝鮮に専念する態勢を整えた。さらにマッカーサーが7月29日に台湾を訪れたことに反発し、朝鮮に介入することに決めた。この頃、東北辺防軍は、米軍の包囲殲滅を構想し、短期間に勝利を収めるものと思っていた。ところが仁川上陸作戦が始まると、米軍の近代作戦の様相に驚き、短期決戦は不可能と判断し、短切な反撃を反復しつつ全般として持久を図るという作戦方針に変更した。10月1日、金日成から救援要請、10月7日国連が北進を議決、9日周恩来がモスクワに飛んで中共軍の参戦を告げ、同時にソ連空軍の出勤を要請した。ソ連は難色を示し、毛沢東は軍の派遣を見合わせるよう彭徳懐に指示した。しかし万一米国が朝鮮を支配することになれば重大な脅威になると感じ、10月13日、政治局拡大会議はソ連空軍の掩護がなくても参戦することを最終的に決めた。さらに金日成の使者が来た時、北朝鮮軍の指揮権を奪うことに成功した。10月19日、中共軍は鴨緑江を渡って北朝鮮に入った。かくして米中は朝鮮で直接ぶつかることになった。
 中共軍の介入を認めたマッカーサー元帥は、中共軍の進出と補給を阻止するため、鴨緑江に架かる橋の爆破を企図したが、ワシントンはこれを認めなかった。だがマッカーサーの強い抗議によって11月6日爆撃が許可されると、8日爆撃が開始され、この時初めてミグ対セイバーというジェット機同士の空中戦が起った。元帥は更に満州の爆撃を要求したが、ワシントンはこれには断固拒絶した。中共軍の攻撃要領は、国連軍陣地の翼や間隙から潜入し、側背と正面から攻撃しつつ同時に退路を遮断するのを常とした。国連軍は火力によってこれを粉砕しようとしたが、雲霞の如く溢れる人海の波に吞み込まれて陣地は逐次に崩壊し、第八軍は各部隊に後退を命じた。平壌防衛に中共軍は平壌を包囲し、第八軍主力を撃滅しようと企図した。ここに至って、マッカーサーは、38度線への総退却を決断した。
 その頃ワシントンは、中共軍の介入は制限された目的のもので、38度線で停止するのではないかという希望を抱き、休戦を考慮するようになった。一方マッカーサー元帥は、新たな戦争に対応するには政治的決定が必要であり、海空軍をもって中共全土を攻撃することを要請し、さらには台湾軍の朝鮮派遣についても要請した。だがワシントンはこれを拒否、ワシントンと東京の間に激しい応酬が続いた。一方北京では、軍事作戦の成果に自信を深め、作戦構想を大きく転換しようとしていた。前線の彭徳懐からは補給の限界と部隊の疲労による整備の必要を訴えたが、毛沢東は好機を逃すなと38度線を越えて南進することを強く要請した。国連軍は中朝軍の兵力を約44万、その他満州に待機している者65万、中国本土から満州に移動中のもの約25万と見積もった。これに対して国連軍は戦闘戦力は24万と劣勢であり、制海空権を掌握していることだけが救いであった。中朝軍は正月攻勢を開始した。12月23日、ウォーカー中将は車両事故で殉職し、後任にリッジウェイ中将が就いた。リッジウェイは1月3日、ソウルからの撤退を決心、

 1951年1月13日、西欧諸国は国連に於いて朝鮮における即時停戦を提議した。これは休戦間に朝鮮問題の解決策を探求し、朝鮮から外国軍隊を撤退し、台湾問題と中国の国連代表権問題の討議機関を設定するというもので、米国にとって屈辱的な敗北に他ならなかった。だが米国はこれに賛成票を投じた。ところが軍事的優勢を確信した中共は17日回答を出したが、休戦には同意するものの、中共の国連加盟を即時認めるという内容で、米国の認められるものではなかった。ところが戦線では、偵察の結果、中共軍の戦力は著しく低下して防勢に移っていることが明らかになった。この軍事情勢の変化は国連にも敏感に反映し、総会は中共を侵略者と規定した。そして米国は再び戦う決意を固め、国連軍の作戦目的も、侵略者を韓国から撃退するという当初の目的に戻った。
 国連軍の創設以来、マッカーサーと米政府との間に考えの相違があった。トルーマンは38度線を回復した以上、国連軍はその使命を果たした。これ以上の北進は泥沼に陥る危険性が大きく得策でない。また、中共本土の爆撃、原爆使用、国府軍の参戦も、西側諸国の離反、ソ連の反発、第三次大戦の誘発などの恐れもあり、失うものの方が大きい。こうして国務省は、休戦を呼びかける大統領声明を起案した。ところが3月24日、ワシントンとの事前協議もなしに、国連が国連軍に課している制限事項を撤廃すれば、中共を軍事的に崩壊させ得るという声明を発表した。ここに至ってトルーマンはマッカーサーを解任する決意を固めた。マッカーサーは、彼の北進計画に基づき、38度線の北側への進出を命じる作戦を発令した。その直後の4月11日、マッカーサー元帥は解任された。後任にはリッジウェイ中将が任命され、第八軍司令官にはバンフリート中将が任ぜられた。
 中朝軍の五月攻勢による国連軍の損害は3万5千人、これに対して中朝軍の死傷者は約8万5千人、中朝軍の5月攻勢の参加兵力30万人のうち三分の一近くが死傷者・捕虜になっていた。その突撃兵力はほぼ全滅したという計算になる。ともかく中朝軍の人的損失は莫大で、中共に衝撃を与えた。もはや軍事的勝利によって戦争目的を達成することは不可能であり、その軍事的勝利の希望も失われた。頼みのソ連は米国との全面的対決を恐れて交渉のテーブルに着くよう勧めてきた。こうしてソ連代表マリクが安全保障理事会で停戦提案を行い、中共も人民日報を通じてこれに同意した。
 国連側は交渉は一カ月もあれば妥協すると予想したが、会談は難航を重ねその後2年近くもつづき、その交渉の行方に応じて作戦も展開された。

 1,953年1月、米国に新大統領アイゼンハワーが就任した。ところが3月、ソ連のスターリンが急死した。スターリンは共産側最高の戦争指導者であり、戦争を継続し、米国に打撃を与えるよう督促していた形跡がある。そのスターリンが死去すると、共産側の軟化が現れ、4月26日休戦交渉は再開された。金日成は彭徳懐とソ連大使の三者で会談した。金日成はソウルを占領したあと停戦しようと述べたが、彭徳懐は反論し、ソ連政府が彭徳懐の意見に従えとたしなめ、ケリがついた。李承晩は休戦になれば今後韓国の安全保障はどうするか悩み、米国の反応も否定的だった。李承晩は最後の抵抗として、捕虜収容所から2万5千人の反共捕虜を釈放した。米国は怒り、困惑した。米国は特使を派遣して18日間の協議の末、米韓安全保障条約の締結、韓国軍20個師団増設、戦後復興の援助を与え、休戦の約束をした。1,953年7月27日、板門店で休戦協定が締結された。こうして戦闘行動は停止したものの、その後の政治会談は決裂し、休戦は南北の分断、対立を固定化し、継続するという異常な事態の始まりであった。
 朝鮮戦争をここまで詳しく見てくると、当事者がまわりを引き込んでのっぴきならない戦争に至るケースは、明治の時代、日本が嫌というほど経験したことであった。日清戦争然り、日露戦争然り。ジョージ・ケナンは回顧録の中で「われわれは、日本がこの半島に於いて大陸の勢力を封じ込めるために長い間担って来た負担を、自ら肩代わりする事態に直面することになった」と述べている。極東の歴史的背景を理解できる人がいたことは大変喜ばしいことであるが、アメリカの政治家でここの部分を理解できる人はいるのかな、日本のためでなく、アメリカの国のために。

 

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金日成と北朝鮮の政治体制

2021年06月09日 | 歴史を尋ねる

 北朝鮮の政治体制成立を調べるのは難しい。一方では独立運動に貢献した偉大な革命家金日成、といい、一方では金日生は朝鮮独立運動に関係を持たないソ連の傀儡だという評価もあるが、徐大粛(ハワイ大学教授)はその著書「金日成」で、金日成がどのような現実に直面してどう課題を自らに課してどのような政治体制を作り上げたかのかということ自体を知るために既述したという。歴史的事実を淡々と述べているこの著書によって、朝鮮総統府から解放された北朝鮮の成り立ちをこの項では整理したい。
 ソ連軍の主力は8月、東海岸の雄基および清津に上陸し、8月26日平壌に入城した。金日成の帰国に関しては、金日成自身は自分の部隊もソ連軍と共同作戦を展開し、潰走する日本軍を駆逐しつつ祖国の地を踏んだと語っている。しかし、金日成が帰国したのは9月19日、日本軍降伏後かなりの日数がたってから元山港に上陸した。朝鮮に戻って一カ月の間、金日成は曺晩植をはじめとする朝鮮国内で抵抗運動を続けていた指導者のもとを訪れたが、誰もさしたる印象を受けた様子ではなかった。解放後南北を問わず朝鮮全土に雨後の筍の如く生れた多くの委員会、政党、疑似政府組織のどれをとっても、金日成を指導者に加えるものはなかった。共産主義者の中でも、金日成はまったく物の数に入っていなかった。これは、金日成には朝鮮国内での共産主義運動に参加した経歴が全くなかったからだった。従ってソ連軍当局にしても、金日成を朝鮮の民族的英雄として人々に披露するには困難を伴った。(金日成のそもそもの名前は成柱だった。満州で生れた中国人による抗日パルチザン部隊の中で朝鮮人を主力とする部隊に身を置き、その間に名前を金成柱から金日成にかえたと、徐大粛はその説を採用している。当時の金日成神話を利用して帰国時に変えたという有力な説も一方である) 金日成がかの満州の華々しき抗日闘争の指揮官であったことを信じる者は少ない。一つは金日成が当時33歳の若さだったため。民衆の多くは本物の金日成はずっと年を取っている筈だと考え、眼前の金日成をまがい物と見做した噂は南で広まった。金日成の政治的未来はまったく予断を許さなかった。

 ソ連軍当局は、東ヨーロッパと全く同じ方法で北朝鮮をソ連型社会に変えようとしていた。占領軍司令官は有能な信望の厚いチスチャコフ大将、民政部門は名うての行政官ロマネシコ少将、ひときわ重要な役割を果たしたのがイグナチェフ大佐だった。イグナチェフは、数多くの朝鮮人指導者と接触しつつ、金日成を操って権力の座に据えた。占領軍自体は1948年には帰国して一部残留部隊を残したが、1948年12月26日には完全撤退を果たした。しかし、イグナチェフ大佐は帰国しなかったばかりか、1948年9月に朝鮮民主主義人民共和国の樹立が宣言され、10月にソ連大使館が開設されると、顧問としてソ連大使館にとどまった。レベチェフの回想によると、北朝鮮にソ連型社会へのレールを敷いた中心人物はイグナチェフにほかならず、金日成を最高権力の座へ祭り上げたのもイグナチェフとロマネンコの二人であった、と徐大粛は強調する。
 スターリンが朝鮮占領軍の司令官を決めたのは1945年6月、チスチャコフ司令官の主たる関心は日本軍の駆逐にあって、占領後の北朝鮮を如何なる社会にするかは第二の問題だった。日本軍の駆逐にソ連軍は朝鮮人の助けを一切必要とせず、北朝鮮をソ連型社会にすることに関しても、ただ看板となる朝鮮人が必要なだけだった。またモスクワにも、朝鮮国内の共産主義運動の地下組織とつながりのある朝鮮人はいなかった。国内で革命運動に従事し民衆に名の通っていた共産主義者は、ソ連による占領統治が始まっても、ソ連軍当局に対して積極的に協力を申し出ることはなかった。ソ連軍は日本軍への作戦行動を準備していた沿海州で、とりあえず一人の朝鮮人(金日成)を選んでいた。ひとたび金日生に決めるや、金日成を押し立てて宣伝に努めた。曺晩植を別にすると、民族主義者にしろ共産主義者にしろ、名の知れた指導者たちはすべて38度線の南にいて、米軍政庁とのつばぜり合いに手一杯であった。
 ソ連軍は1945年8月26日、平壌に入るや、「朝鮮人民よ、朝鮮は自由の国になった、あなたたちは自由と独立を求めたが、今はすべてのものがあなたたちのものになった。朝鮮人民自身が自己の幸福を創造するものにならねばならない。ソ連司令部はあらゆる援助をするであろう」という内容の布告を発表した。9月7日のマッカーサー司令官の布告と比べると著しい対照をなしているが、実際には両者の違いはそれほどなかった。米軍当局のそうした布告にも拘らず、国外にいた革命家の大半は南に戻った。また、南に行く難民も後を絶たなかった。

 平壌では、解放直後地元の活動家たちによっていち早く朝鮮建国準備委員会の平南支部が組織されていて、ソ連軍が入城してくると、同支部の代表がソ連軍を歓迎するために平壌駅に出向いている。その日のうちに、建準支部は15名の平安南道人民政治委員会の委員のリストを、ロマネンコおよびイグナチェフに提出した。それに対してソ連側は、そのリストに15名の共産主義者を加え、委員の人数を二倍にする様命じた。この平安南道人民政治委員会が、実質上平安南道の日常の行政にあたる最初の組織となった。そして、これに類似した組織が人民委員会という名称で、北朝鮮の五道全域に組織された。
 10月8日、北朝鮮五道人民委員会の連合会議が開催されたが、会議は一日で閉会とされ、四つの分科会議で提案された議事項目の検討をつづけることとし、この会議の結果は11月19日に発表された。それは民族主義者の曺晩植を長とする、10局からなる五道行政局であった。金日成はこの会議には出席しておらず、どの局の長にも選出されなかった。しかし、信託統治の是非をめぐる論争が全国に沸き上がり、連合が崩れてしまった。イグナチェフは曺晩植委員長をはじめ行政局の委員たちに対し、連合国が提案した五年間の信託統治に賛成するよう説得したが果たせなかった。結局、共産主義者は賛成し、民族主義者は拒否し、五道行政局は二つの陣営に分裂してしまった。こうした事態は南朝鮮も同様で、共産主義者以外は、ほとんどの指導者が信託統治そのものを認めようとしなかった。米軍当局は朝鮮民衆の即刻独立の願望に折れ、信託統治案を早々とあきらめた。
 北朝鮮の民族主義者たちは、東ヨーロッパ諸国の場合と違って、ソ連軍当局に対して正面から立ち向かおうとはしなかった。決意に欠けていただけでなく、いつでも南に活動を移すという選択の道が残されていた。また、曺晩植がソ連軍当局の説得に応じないとみると、結局逮捕されて拘禁生活を強いられ、朝鮮戦争の勃発前後に処刑された。

 五道行政局が解体すると、ソ連軍当局は1946年2月8日、北朝鮮臨時人民委員会を組織し、金日成を委員長に据えた。金日成を委員長とするこの臨時人民委員会は矢継ぎ早に六つの民主的改革に着手した。先ず土地改革を布告して、農地の50%以上を再配分し、労働法を公布して8時間労働をスタートさせ、その他重要産業の国有化、農業現物税の導入、男女平等法、新選挙法等を次々と制定した。一連の改革は、六か月もかからずに完了した。占領軍当局は民衆に広く協力を呼びかけ、各種団体、組織から人材を登用した。しかし、人目につくだけの地位と権限を持った地位との間には明確な一線を引いて、ソ連国内から引き連れてきた朝鮮人を優遇し、大きい権限を持った地位につけ、一連の社会主義化政策の遂行に当たらせた。金日成自身は行政の経験がなく、有能な人材が欠くなかで、ソ連軍と共に本国に帰国した朝鮮系ソ連人を登用し、不足分を補った。解放後に本国に戻ったソ連生まれの朝鮮人の正確な数は不明だが、彼等は解放後のおよそ10年間に亘って、北朝鮮の政局に極めて重要な役割を果たした。
 1948年2月、金日成はソ連軍当局の支援の下で朝鮮人民軍を創設した。この軍の創設で、北朝鮮社会のソヴィエト社会化への過程は確固たるものになった。朝鮮人民軍の編成には特にパルチザン出身者が中心的役割を果たした。ソ連軍当局は他の朝鮮人武装集団が金日成に対抗し得る事態にならぬよ取り計らった。当時対抗し得る唯一の集団は中国延安で活動していたおよそ2000名と推定された朝鮮義勇軍であったが、祖国の地に足を踏み入れる時、占領軍当局の命令を盾に、武装解除に成功した。そして金日成の率いるパルチザン派は、朝鮮人民軍を始め、保安・警察組織を総て牛耳った。

 しかしながら、金日成は朝鮮にある共産党の党組織はどうすることも出来なかった。朝鮮共産党は1925年4月の結党以来、日帝の弾圧の網をかいくぐって戦ってきた歴史に金日成は無縁だった。朝鮮共産党は解放されると直ちに朴憲永を中心に再建され、南北を問わず各地にその支部が組織された。北部朝鮮分局を組織する使命を帯びて平壌に派遣されたのは玄俊赫であった。玄俊赫は平安南道出身で、国内の活動家たちには名の知れた経歴の持ち主だった。南朝鮮では朝鮮共産党が民族主義者や米軍当局との手を取り合って活動していたことに倣って、北に派遣されるや曺晩植およびその他の民族主愚者と共に活動することにした。ところが玄俊赫は、1945年9月28日、ロマネンコの会談を終えての帰り道で暗殺され、北部朝鮮における党組織の指導は、金日成に引き継がれた。しかし金日成はソウルに再建された朝鮮共産党からは独立した別(分局)組織をつくろうとした。この協議は、北部朝鮮五道人民委員会に続いて開催された責任者大会で、行われた。
 1945年10月12日、北朝鮮駐屯ソ連軍司令官名で五項目の声明が発表された。・反日民主団体の結成およびその活動を許可する。 ・朝鮮民衆に職業同盟およびその他保険会社、文化啓蒙協会などの非政治的団体を組織する権利を与える。 ・教会における宗教活動を許可する、その場合綱領、会則、責任者と会員名簿を地方自治機関および軍司令部に報告する。 ・軍事組織の武装を解除し各人民委員会独自の保安隊を組織することを許可する、等々だった。こうして平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が組織されたことが正式に発表された。分局の責任者に選ばれたのは金鎔範で、金鎔範が玄俊赫の跡を継いで北部朝鮮における朝鮮共産党の指導的地位についた。分局はソウルに本部を置く朝鮮共産党の支部として組織され、党中央委員会から承認を受けた。また、11月15日には分局の第二次拡大執行委員会が開かれ、北朝鮮の全ての政治団体およびそれに類する団体が共同戦線を構築することが決められた。金日成が分局の責任秘書に選出されたのは第三次拡大執行委員会においてであった。金日成は分局を支配下に収めるや、ただちに分局をソウルの朝鮮共産党から分離しようとして強い抵抗を受けた。結局、1946年6月22日に開催された第七次拡大執行委員会で分局の名称を北朝鮮共産党と変え、ソウルの朝鮮共産党からの独立を宣言した。金日成はイグナチェフの指図に忠実に従い、一方イグナチェフは、分局の拡大執行委員会には常に顔をだし、あらゆる議論に加わった。
 翌月の第八次拡大執行委員会では、中国から帰国してきた共産主義者たちが主力となって結成した朝鮮新民党と北朝鮮共産党とを合体させて、北朝鮮労働党をつくるよう命じられた。この合体はイグナチェフの画策で、東ドイツでは社会統一党、ポーランドではポーランド統一労働者党、そして朝鮮では朝鮮労働党といったように、複数の政党を無理やり合同させて大衆政党をつくるやり方は、ソ連の占領政策に著しく共通した政策であった。ロマネンコとイグナチェフは、北朝鮮にソ連型社会を作り出すために、金日成を巧みに操縦した、当の金日成はソ連軍当局の手足となって、言われるがままを忠実に実行した、と著者の徐大粛は解き明かす。こうしてソ連占領軍当局は、民衆の抵抗がないことを十二分に利用して、短期間のうちに朝鮮をソ連型社会に移行させるという難題を解決した。こうして軍政による直接統治を行うことなく、北朝鮮社会のソヴィエト化を成功した、と。

 今日の北朝鮮では、朝鮮労働党は金日成主席の英明なる指導のもとに、1945年10月10日に創建されたものとされ、毎年10月10日が朝鮮労働党創建記念日として祝われている。しかし実際には、朝鮮労働党はソ連占領軍当局の指示により、1946年8月28日~30日まで開かれた創立大会において、朝鮮新民党と北朝鮮共産党とが合体して初めて作られた。結党当時は北朝鮮労働党と呼ばれていた。南部朝鮮でもそれと軌を一にして、朝鮮共産党、南朝鮮新民党そして朝鮮人民党が同じ様に合体し、11月23~24日の二日間結党大会を開催して南朝鮮労働党を結成した。南北の労働党が正式に合体したのは、南北労働党連合中央委員会が開かれた1949年6月30日だった。両党の合同といっても、北労党が南労党を吸収したのが実際のところだった。
 ここでは北朝鮮労働党の創立大会の詳細について、徐大粛氏の著書から見てみたい。創立大会は1946年8月28日に平壌で開催され、366,339名の党員を代表する801名の代表が出席した。初日は金日成が司会し、大会運営の各委員を選出した。続いて六項目の議事日程を採択、スターリン大元帥を大会名誉議長に選び、創立大会の名でスターリンに宛てた公開書簡が読み上げられた。その中身は、朝鮮を解放したスターリン元帥およびソ連赤軍に感謝し、今後とも独立した統一朝鮮の樹立に向けて支持を求めるものであった。続いて各団体の代表による祝辞が読み上げられた。
 第二日目は金鎔範が司会し、まず801名の詳細な報告が行われた。代表は中等教育を終えた30歳代の青年が半分を占め、職業は半分が事務職を占めた。国内で闘争経歴を持つ人数と国外で闘争歴を持つ人数とはほぼ拮抗し、逮捕・拘禁された持ち主とそうでないものとでは、後者が多かった。主要は議事は北朝鮮共産党責任秘書の金日成と朝鮮新民党中央本部委員長金科奉による基調報告であった。金日成は金九および李承晩を含む南の民族主義者に対する激しい非難、米軍軍政下におかれた南部朝鮮の状況分析だった。さらに労働党を結成する理由を説明し、その目的は勤労大衆の権利を代表し擁護する国家を建設するために、勤労大衆の民主的力を結集することにあると述べた。金科奏もまた、金日成同様、両党の合同に反対した新民党内の一部の党員を非難し、新民党の高い教育を受けたインテリ革命家が共産党員を批判するのは当たらないと演説した。その後15名の代表が二人の演説を巡って討論し、金日成が締めくくりの意見陳述を行なった。その後、勤労大衆のための単一政党をつくること、その名を北朝鮮労働党とする決議が採択され、新民党の指導者から党綱領草案が提案され、採択された。
 第三日目は党規約の採択、機関紙「労働新聞」の発行が採択され、最後の中央委員会の委員の選出だった。金日成はあらかじめ準備した43名のリストを提出、一人づつ紹介されて評決に掛けられた。そして43名全員が満場一致で承認された。大会は朝鮮に民衆に向けた公開書簡を発表して、幕を閉じた。

 両党の合同は、互いに協力しあい力を増幅し合うことを期待してであったが、実際には由々しき対立と相互不信のうちに行われた。金日成は大衆に支えられた党を作ろうと無差別に党員を狩り集めた。金日成が責任秘書の地位に就いた時点は党員数は4,530名であった。ところが創立大会時、新党の党員は366,339名、そのうち新民党はわずか6万名であった。また、党規約によると、党幹部を選出するのは中央委員会の任務であった。選出された43名の中央委員は四つのグループに分類できた。国内派 13名、延安派 12名、ソ連派 6名、不明 8名、金日成のパルチザン派 4名であった。8月31日に開かれた党中央委員会全員会議では、党委員長に延安派の金科奏が選ばれた。副委員長には金日成と国内派の朱寧河が選ばれた。
 1948年3月27日から四日間、北朝鮮労働党第二回大会だ開催された。金日成はこの大会での演説で、初めて自分が遭遇している困難と、本国に戻ってからこれまでの自分の政治指導に対する党内の敵対行為を詳細に取り上げて批判した。初日は前回同様、スターリンが再び名誉議長に選ばれ、スターリンの業績を称えるメッセージが採択された。二日目は、金日成が党中央委員会の活動報告を行った。初めて国際情勢に触れ、両極化された世界の二つの陣営の戦いとその国内状況への影響を分析した。続いて民主的諸改革に着手した党の活動を称賛し、一方アメリカ軍による占領下の南の情勢を分析、さらに改めねばならない党の欠点を指摘した。この演説の中で、国内派の指導者は北部朝鮮分局を作るときソウル中央への忠誠を誓って非協力的であったとして、玄俊赫の後を継いだ呉淇燮(金日成より9歳年長、1923年より共産主義運動に加わり、モスクワの東方勤労者共産大学に学んだ数少ない朝鮮人の一人、1932年8月に共産主義青年組織をつくる活動をしたことで逮捕、投獄された)をはじめ次々に国内派の指導者を槍玉にあげた。金日成に続いてソ連派が演壇に立ち、同様に国内派の指導者を集中的に攻撃した。延安派はこの内部抗争にだんまりを決め込んだ。呉淇燮は自分の発言の順番が回ってくると、まず自分の犯した誤りを認め、ソウル中央を支持したことを認めた。しかし自分は日帝下での闘争で労働者の利益の擁護に全力を挙げたこと、労働局の局長として国家の財産を犠牲にしてまで労働者の利益を守ろうとする労働協約は受け付けなかったこと、などを反論した。各委員の討論の最後に金日成が締め括りの演説を行い、再度呉淇燮をはじめとする国内派の指導者を批判した。こうして金日成は初めて政敵と正面から対決した。側近をなしていたパルチザン派は一切発言せず、もっぱらソ連派が国内派を激しく攻撃する役割を演じた
 金日成の最大の武器はソ連占領軍の後支えとソ連派からの支持であった。両者とも朝鮮社会に根を下ろした集団ではなかった。国内派にしてみれば、ソウルの党に代わって何の面識もない金日成およびソ連派の政治指導を支持する理由は何もなかった。国内派は金日成とイグナチェフ大佐に強く反発した。これまで北朝鮮に存在し活動していた朝鮮共産党およびその青年組織を解体して、別組織を作ってそれを支持するよう強要してきたからだった。金日成とソ連派は、自分たちの組織は、進歩的かつレーニン主義により近いものだと主張した。
 金日成にはもう一つの武器があった。それは日帝時代に日帝に協力した経歴を持つすべての人間を排斥することであった。国内にとどまって活動をつづけた国内派の多くは、厳しい弾圧を受けて最終的には日帝に屈服した過去を持つ、脛に傷のある人々であった。日帝下の朝鮮において共産主義運動をつづけることは、全く容易ならざることであった。だが、海外で活動した者たちには理解できないことであった。国内派の多くの活動家は、解放前に共産主義運動に復帰しないという一礼を取られて釈放された者たちだった。金日成はこの武器を、北朝鮮の政治のあらゆる局面で思うがままに用いた、と徐大粛はいう。ふーむ、韓国の反日も、ルーツはここからかもしれない。北に負けないように南も、と。しかし金日成にしてもどこまで反日だったのか、国内にいなかったのだから、体験もしていないので不明だ。むしろロマネンコとイグナチェフに日本の影響を徹底的に排除するよう言われ、国内派と戦うのに便利だったからかもしれない。
 党大会の最後に中央委員会の委員の推薦リストが、金日成から発表された。選出された67名の中央委員の内訳は、30名が再選で37名が新人だった。金日成のパルチザン派からは4名が新たに選ばれ、ソ連派は8名増えた。しかし中央委員会の多数派は依然として国内派だった。呉淇燮も再選された。

 1948年8月、つづいて9月に南北朝鮮は二つの分断政権の樹立が宣言されたが、長い闘争歴を持った共産主義運動の多くの古参たちは既に南から北へ逃れていた。そして彼らは北の政府の中で重要なポストを与えられた。朝鮮共産党代表であった朴憲永は、第一次内閣に於いて副首相兼外相に任命された。南朝鮮労働党委員長の許憲は、最高人民会議初代議長に選出された。しかしこの二人をはじめとして北の政府に登用された者もいはいたが、実際には南朝鮮労働党系の多くは朝鮮共産主義運動の中枢を担ったかっての面影はなくなり、単なる南からの難民扱いをされた。
 北に労働党政権の樹立が宣言される前の1948年8月、北と南の労働党の指導者が、南北労働党連合中央委員会を組織し、金日成が委員長を務め、両者は対等の関係と言いながら、北労党の金日成とソ連派が主人で、南労党の幹部は客人だった。
 1948年9月24日、党中央委員会が開かれ、党の活動を統括するための組織委員会が新たに作られ、金日成が新たに委員長に選ばれた。そして1949年3月から4月にかけて金日成はモスクワを公式訪問し、共和国政府樹立に至るまでの尽力に感謝の意を表して帰国すると、党の委員長の席を手に入れるべく行動を開始した。1949年6月30日、南北労働党連合中央委員会が開かれた。党大会を開催せず、中央委員会の顔ぶれが一新された。この委員会で朝鮮労働党という正式名称が採択され、金日成が委員長、朴憲永が第一副委員長、許カイ(ソ連派)が第二副委員長、そのほか書記、政治委員会委員が選ばれた。こうして両党が合体してみると、金日成の地位を脅かせかねない力学の存在がはっきりした。第一に、南の指導者が大挙して北に移って来た、第二に、屋台骨であったソ連占領軍が1948年12月に北朝鮮から撤退した、ソ連派もソ連軍と一緒に帰国するものもいた。しかし、金日成は新たに樹立された共和国政府の行政権を握った。内閣の首相であり、同時に朝鮮労働党の委員長も兼ねた。またイグナチェフ大佐は、ソ連軍撤退後も大使の顧問として平壌に残り、共和国政府の行く手び関わる重要な指示を変わらず金日成に与えた。従って、1949年の時点、北朝鮮はプロレタリアートの祖国たるソ連の圧倒的な影響下におかれ、衛星国家の一つを金日成は切り盛りした。

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朝鮮総督府の統治権移譲から大韓民国成立まで

2021年06月04日 | 歴史を尋ねる

 1945年8月15日、玉音放送に先立ち、朝鮮総督府は政務総監の遠藤柳作が治安維持のために朝鮮人への行政権の移譲を決め、朝鮮独立運動家の呂運亨に接触を図っていた。そのため、玉音放送を聞いた呂運亨はその日のうちに朝鮮建国準備委員会(建準)を結成し、組織的な独立準備を進めた。9月2日に日本政府が降伏文書に調印したのを受け、呂運亨は李承晩を大統領、自身を副大統領とする朝鮮人民共和国の建国を9月6日に宣言した。だが、建準は独立の方針を巡って民族主義者と共産主義者が対立して混乱した上、当時中国で活動していた大韓民国臨時政府関係者も自らが朝鮮の正当な政府と自負していたから朝鮮人民共和国への協力を拒否した。結局、米国およびソ連は朝鮮人が自主的に樹立した政府に対して一切の政府承認を行わず、早くも、9月7日、「米国太平洋陸軍最高司令官マッカーサー布告」で、米軍は北緯38度線以南の朝鮮の地域を占領し、同地域の住民に対し軍政を樹立すると宣言した。さらに布告は、発せられた命令に対し迅速に服従し、占領軍に対する敵対行為や治安を攪乱する行為をした者は厳罰に処す、と規定され、米軍は日本人と同様に朝鮮人を敵国人として処遇した。

 8月15日に玉音放送によって日本の降伏が朝鮮全土にも伝えられ、朝鮮が日本の統治下から離脱することを意味していた。これ以降、朝鮮では日本統治からの離脱を朝鮮解放ないし朝鮮光復と認識して、建国後は南北朝鮮の双方とも8月15日を祝日にしているが、歴史的事実はそう単純ではなかった。
  8月8日、ソ連は対日宣戦布告を行い、中国東北部、朝鮮半島北部へ破竹の勢いで進撃を開始した。これを受けて米国は国務・陸・海軍三省調整委員会を開き、ソ連軍による朝鮮半島全域の占領を阻止するために、在朝鮮日本軍の武装解除の分担のために軍事境界線として北緯38度線をソ連に提案、ソ連が受諾して米ソ両国による朝鮮半島の解放・分断占領が決定した。 8月12日、沖縄に進駐していた米第二十四軍団が、朝鮮占領軍と指名され、18日ホッジ中将が司令官として任命され、マッカーサー元帥はホッジ中将に南朝鮮占領の最高責任者として白紙委任を与えた。 8月30日、南朝鮮占領を控えた第二十四軍団はソウルの日本第17方面軍司令官、鎮海警備府司令官との間で無線通信を開始、9月8日まで総交信数80通に達した。この交信は降伏後の治安維持と日本軍の武装解除を主な目的とした。ただ、この交信によって、ホッジ中将は占領直前の朝鮮の政治軍事状況を具体的に認識することになった。 9月2日、日本国の降伏文書調印日であったが、同時に朝鮮半島では日本軍は北緯38度線以北ではソ連軍に降伏、以南では米軍に降伏した。同日、ホッジ中将は「南鮮民衆各位に告ぐ」というビラを米軍機から散布し、近日中に連合軍を代表して上陸することを知らせた。 米軍上陸前の9月6日、建準の発議で朝鮮人民共和国の樹立が宣言された。 翌日の9月7日、既述したマッカーサー布告が発せられ軍政が樹立した。 9月8日、沖縄を出発した米軍は仁川に上陸、占領を開始した。 9日、ホッジ中将は「南朝鮮進駐米軍司令官の声明」を発表、調印した降伏条件を履行するため、現行政府の機構を通じて施行するとし、まず朝鮮総督府を利用することを明らかにした。

 朝鮮半島の統治権移譲は、アメリカ軍のホッジス大将、キンケード中将、日本軍の阿部信行大将、上月良夫中将らとの間で行われた。朝鮮総督阿部信行大将は、8月15日、朝鮮の統治権を朝鮮人に移譲すると発表していたが、米国とソ連は朝鮮人による統治を認めなかった。9月9日、朝鮮総督府がアメリカ軍への降伏文書に署名した。 米軍は、9月9日、ソウルの朝鮮総督府から降伏を受けると総督府の統治機構を接収し、9月11日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を新設して南朝鮮の直接統治を担うようになった。しかし、米軍政庁は現地の事情に疎く、朝鮮を効果的に統治する経験も能力もなかったから、朝鮮総督府に従事していた日本人や親日派の朝鮮人をそのまま登用し、実質的には朝鮮総督府の統治機構を継承した。
 占領政策に関する文書作成担当だったボートンは、その回想録の中で「朝鮮半島の将来という複雑な問題の解決策を提案するのは、国務相にはあまりにも情報が不足し、準備体制も不十分であった。日本の植民地となった1910年以降、朝鮮半島に関する公式情報はすべて日本経由で、駐在するアメリカ領事館員は日本の役人しか接触できない状況で、知識は更に限定されていた。領事館員は日本語は堪能だったが、朝鮮語は全くできなかった」と。 米軍政の政治顧問ベニングホフは、韓国民主党(韓民党)は数百人の高学歴の保守主義者で構成され、重慶在住の大韓民国臨時政府メンバーの帰国を支持しており、最大の政治集団であると、韓民党系や警察機構からの情報をホッジ中将や国務省に伝達していた。
 10月5日、アーノルド軍政長官は、行政顧問として11名を任命した。その半数の6名は金性洙、宋鎮禹などの韓民党系人物で、キリスト教徒として呂運亨、曺晩植らが含まれたが、曺晩植は不参加、呂運亨は直ぐに辞任した。米軍政は、少数の旧政治勢力(旧親日派・保守勢力)と反共主義者(親米派)に依存し、占領統治を行う選択をした。また、ホッジ中将は韓民党系の人物から朝鮮人民共和国は共産主義者と民族反逆者によって作られた、と伝えられた。 10月10日、アーノルド軍政長官は、朝鮮人民共和国問題に関する米軍政長官の声明を発表した。この声明で、北緯38度以南の朝鮮には現在唯一の政府があるだけである。この政府はマッカーサー元帥ぼ布告、ホッジ中将の政令、アーノルド少将の行政令によって政党に樹立されたものである。自称朝鮮人民共和国、自称朝鮮人民共和国内閣は権威と勢力と実態がない。このような傀儡劇の背後には操縦する詐欺漢がいる、この人物たちが自由に蹂躙することがないようにする時が来た」と非難し、その存在を否定した。

 12月、ソ連のモスクワで開催された三国外相会議(米、英、ソ)で、朝鮮を米英ソ中4か国の信託統治下で最長5年間置くことが決定された。だが、東亜日報が「ソ連、信託統治を主張、 アメリカは即時独立を主張」と誤報したことで、信託統治に反対する大韓民国臨時政府系の右派(民族主義派)と信託統治に賛成する呂運亨ら左派(社会主義派)との対立が激化した。 1946年1月7日、李承晩が信託統治の反対声明書を発表、その直後、朝鮮信託統治案を具体化する米ソ共同委員会がソウルで開催され、信託統治下で設置する臨時政府を樹立するための協議対象に信託統治に反対する政党や社会団体を参加させるべきでないとするソ連側と、参加させるべきとするアメリカ側との意見が対立し、5月8日、無期限休会となった。事態を打開しようと中道左派・中道右派による左右合作運動が行われた。 
・信託統治及び政府樹立を巡る当時の南朝鮮における政治勢力の立場

  • 李承晩系(右派、韓国民主党、以下「韓民党」)・・・信託統治反対、南朝鮮のみの単独政府樹立
  • 金九系(右派、大韓民国臨時政府系)・・・信託統治反対、南北統一政府樹立
  • 左翼系(朝鮮共産党・民主主義民族戦線など)・・・信託統治賛成、南北統一政府樹立
  • 中間派(呂運亨、金奎植など)・・・信託統治問題については意見を保留、左右合作による南北統一政府樹立

 膠着状態となる中で、民主議院副議長の金奎植(中道右派)と朝鮮人民党(中道左派)党首の呂運亨は左右両派の穏健な勢力が共同(左右合作)して米ソ共同委員会の再開を促進すべきとして、左右合作運動を推し進めようとしていた。この動きに米軍政庁は、左右合作運動によって米ソ共同委員会の再開を促すと共に、極右や極左勢力を孤立させ、中道派を中心とした親米的政権樹立が可能との希望から、この運動を積極的に支援することになった。軍政庁のホッジ司令官の政治顧問であったレオナード・パッチ中尉の側面的支援によって合作運動が推し進められ、数回に及ぶ左右両陣営の政治指導者からなる会議で意見交換を行い、1946年10月7日、「左右合作7原則」が合意され、左右合作委員会が発足した。この「左右合作七原則」は、朝鮮共産党や韓民党など左右両派の主張を折衷させたものであるが、大地主や資本家を支持基盤としている韓民党は土地の無償分配に反対、朝鮮共産党は七原則は曖昧な中間路線であると指摘し、反対姿勢を採った。そのため韓民党や共産党は運動自体に消極的姿勢を採るようになったため、左右合作運動は次第に停滞するようになった。そして1947年3月がトルーマン・ドクトリンが発表され、米国が対ソ政策を転換したうえに、合作運動推進者で中道左派勢力の実力者であった呂運亨が同年7月に暗殺、米軍政庁も左右合作推進から単独政府樹立へと方針転換したため、運動は完全に瓦解した。

 一方、米ソ対立を受けアメリカ軍政は共産主義勢力への取締りを強め、1946年5月8日、南朝鮮警察が朝鮮共産党本部ビルを捜索させ、党員による朝鮮銀行100圓券の大量偽造が発覚、これを機にアメリカ軍政は共産党の非合法化に転じ、9月には朴憲永などの指導者に逮捕状が出た。朴憲永は北朝鮮臨時人民委員会が樹立されていた北朝鮮に越北し、平壌から南朝鮮労働党を指導して右派との抗争を行わせた。46年10月1日、大邱府で南労党の扇動を受けた南朝鮮人230万人がアメリカ軍政に抗議して蜂起し多数の犠牲者を出した。この頃から、南朝鮮では南朝鮮国防警備隊(後の韓国軍)や南朝鮮警察による共産勢力取締りが苛烈になり、極右団体の西北青年会による白色テロも公然と行われた。
 信託統治問題を巡って1947年5月から第二次米ソ共同委員会が開かれたが、10月20日に再び無期限休会となった。そのため、米国は委員会での問題解決を断念し、朝鮮独立問題を国際連合に移管した。米国は「国連の監視下で南北朝鮮総選挙を実施するとともに、国会による政府樹立を監視する国連臨時朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮に派遣する」という提案を国連総会に上程し、賛成43票、反対9票、棄権6票で可決された。これを受けてUNTCOKは1948年1月に朝鮮入りし、南朝鮮で李承晩や金九など有力政治指導者との会談や総選挙実施の可能性調査などを行った。UNTCOKは1948年2月26日、国連小総会で賛成31、反対2票、棄権11票で可決された。
 国連の議決により、5月10日にUNTCOKの監視下で南朝鮮単独で総選挙が実施されることが決定したが、それは新政府の統治が南朝鮮のみに限定され、朝鮮の南北分断が固定化されることを意味していた。そのため、朝鮮の即時独立を主張する反信託派も、南朝鮮単独政府の樹立を認める李承晩(韓国民主党)派と南北統一樹立にこだわる金九(大韓民国臨時政府)派に分かれ、政治的対立から南朝鮮は騒乱状態となりストライキや主要人物の暗殺が相次いだ。
 アメリカ軍政・韓国民主党の単独政府樹立強行の動きに対して、1948年3月12日、独立運動家の金九、金奎植、趙素昂らが南朝鮮の単独総選挙反対声明を発表し、同じく南部単独選挙に反対する北朝鮮人民委員会と協調する動きを見せた。また、4月3日には単独政権の樹立を認めない済州島民や左派勢力などによる済州島四・三事件が起きるが、アメリカ軍政は南朝鮮国防警備隊・警察・西北青年会などを送り込んで反対住民の鎮圧を図った。その際、鎮圧部隊による島民虐殺が多発したため、少なくない島民が日本に密航し、在日韓国人となった。

 タイトルのテーマからは外れるが、当時の南朝鮮のあまり語られない事実も、ウィキペディアにより、整理して置きたい。済州島の辿った歴史は、なかなか厳しい。日本との関りもあるので、参考にしたい。
 歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ密航し、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人 いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる。木村光彦氏によると、済州島四・三事件及び麗水・順天事件を政府は鎮圧したが、その後共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ないが1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされる。野口裕之(産経新聞政治部専門委員)は、韓国保守政権及び過去の暴露を恐れる加害者の思惑が絡み合い済州島四・三事件の真相は葬られているが、「不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば」「事件で大量の密航難民が日本に押し寄せ、居座った正史も知るところとなろう」「膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま移住した非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因である」と述べている

 本来のテーマに戻って、1948年5月10日、UNTCOKの監視下で、600人を超えるテロ犠牲者を出しながらも、南朝鮮では制憲国会を構成するための総選挙が実施された。制憲国会では李承晩が議長に選出し、7月17日に制憲憲法を制定したほか、大統領選挙で李承晩を初代大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた。8月15日に李承晩大統領が大韓民国政府の樹立を宣言、実効支配地域を38度線以南の朝鮮半島のみとした大韓民国の独立とアメリカ軍政が廃止された。ただし、合衆国政府による韓国の独立承認は遅れ、合衆国議会で可決されたのは1949年1月だった。

 大韓民国成立時の歴史記述について、民主化運動の闘士であった現代史研究の第一人者である徐仲錫(ソ ジュンソク)氏の記述を引用しよう。
 「1948年5月1日、満21歳以上ならば性別などに拘らず誰でも投票権を行使できる普通戦況が韓国史上初めて実施された。普通選挙の実施は外部から与えられたプレゼントではなかった。急進的共産主義者は別としても三・一運動以後、上海の大韓民国臨時政府をはじめとする独立運動団体は普通選挙による共和制政府の樹立を主張していたし、解放後も全ての政党社会団体が普通選挙の実施を当然のものと考えていた。1947年には南朝鮮過渡立法議院でも普通選挙法案をすでに通過させていた。(選挙は南朝鮮労働党の激烈な破壊工作にも拘らず、登録有権者93%という高い投票率だった。これにより198名の国会議員が選出され、5月31日、制憲国会開院式が開かれ、8月15日には大韓民国政府が樹立された:古田博司氏の記述) 5月末から活動に入った制憲国会は国号を大韓民国に定めた。議員の多数は内閣責任制を主張したが、李承晩の強引な主張で大統領中心制が採択された。憲法の既定の中の経済条項は、主要資源と重要産業の国有国営を規定するなど解放直後に支配的となっていた社会主義的平等思想が影を落としていた。国会は大統領に73歳の李承晩、副大統領に李始栄(79歳)、国務総理に李範奭、大法院長に金炳魯が任命された。8月15日、政府樹立が公布された。大韓民国憲法は朝鮮半島全体を国土として明記し、政府は自身だけが正統で相手は傀儡だと主張、12月に公布された国家保安法は、その点を明確にした。国家保安法は思想と良心、学問の自由を制限し、反共こそが国是とされ、民主主義や民族より上位の最高徳目とされた。」
 「政府樹立当初は、反共国家を建設するのは容易でなかった。一般の人々は、この時期ではまだ反共より民族や統一をはるかに重視し、反共闘士にそれほど良い感情を抱いていなかった。とりわけ李承晩の反共国家づくりで一番大きい障害要因となったのは親日派処断の要求であった。植民地時代の末期には、軍国主義者によって、防共運動が大々的に広まったが、親日警察、親日官公吏は防共運動に関与していた。解放後、米軍政が親米体制をつくるにも彼らが動員され、李承晩大統領も彼等を自身の政治的基盤とした。しかし、民族の精気を取り戻すには悪質親日派は必ず処罰しなければならないという世論が高揚した。制憲国会議員は何よりも優先して反民族行為処罰法の制定を急ぎ、1949年1月から始まる反民族行為特別調査委員会の活動によって李光洙、崔南善などが捕らえられた。しかし、2月に親日警察が逮捕されるに及ぶと、李承晩大統領は反民特委を無力化させる行動に出た。混乱を防ぐためには親日警察の技術が必要だというのだった」 以上の記述より、2点が明確にされた。日本の朝鮮併合は不法だと言っているが、解放時、朝鮮王室(李朝朝鮮)は顧みられることはなかった。さらに、国家の行政ノウハウは簡単には作れない。米軍政も李承晩政権も朝鮮総督府時代の行政システムを簡単には捨て去れなかった。また、解放後の共産主義者の活動は、日本以上の影響力があった、むしろ北と手を携える勢いだった。米軍政の力で押しとどめた、と言えそうである。

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