占領軍の検閲と戦後日本 江藤淳

2020年06月27日 | 歴史を尋ねる

 江藤淳著「閉ざされた言語空間」について、語られる場面に度々出会うが、本物を読む機会はこれまでなかった。特に有名なのは、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program)で、太平洋戦争終結後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQと略記)による日本占領政策の一環として行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」である。このプログラムで江藤は、その嚆矢である太平洋戦争史という宣伝文書を「日本の「軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析。また、「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいない」とも指摘している。以上はウキペディアの解説であるが、江藤はもう少しそもそも論に目を向けている。

 昭和54年、江藤は国際交流基金の派遣研究員としてウイルソン研究所に9カ月間赴き、米占領軍が日本で実施した検閲に関わる文書の検索と通読に没頭。この検閲の全貌を、一次史料によって跡づけようと試みた研究は、江藤の知見の及ぶ限り今日まで一つも発表されていなかった。江藤が寄稿した論文を、合衆国内では事実上全く知られていない検閲システムについての実証的研究と評価されている。江藤はいう。米占領軍が戦後日本で実施した隠微な検閲の苛烈さは、いわゆる言論の自由について深刻に反省する材料を、少なからず米国の読者にも提供するに違いない、と。日本の読者に対して江藤が望むことは、人が言葉によって考えるほかない以上、人は自らの思惟を拘束し、条件付けている言語空間の真の性質を知ることなしに、到底自由にものを考えることが出来ない、という原則である。つまり今(江藤の言う昭和50年代)の言語空間は占領軍の検閲の中から形成された、その性質をよく理解しておくことが重要だ、ということである。

 通説によれば、日本は敗戦・占領と同時に連合軍から「言論の自由」を与えられたことになっている。しかし実際には昭和20年9月14日、同盟通信社が24時間の業務停止を命じられた。業務再開を許されたとき、同社の通信は日本のみに限られ、社内に駐在する米軍によって100%の検閲を受けることになった。9月20日、朝日新聞は48時間の発行停止処分を受けた。英字新聞ニッポン・タイムズも24時間の発行停止処分、東洋経済新報の9月29日号が回収断裁処分を受けた。この時期を境にして、占領下の日本の新聞、雑誌等の論調に一大転換が行われた。この時日本人の心の内外に何が起ったのか、江藤は能う限り正確に知りたいと思った。その当時起こったことが現在も尚起こり続けている、という不可思議な感覚を、どうしても拭い去ることが出来なかった、と。江藤は当時文芸時評を書いていたが、自分たちがその中で呼吸している筈の言語空間が、奇妙に閉ざされ、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを感じた。いわば作家たちは、虚構の中でもう一つの虚構をつくることに専念していた。江藤はいう。

 GHQは、米国の統合参謀本部の命令(1944年昭和19年)11月12日付)により、日本において検閲を準備し、実行した。実行にあたっては、「日本における太平洋陸軍民間検閲基本計画」が立てられた。これによると、民間通信(すなわち、郵便、無電、ラジオ、電信電話、旅行者携帯文書、及びその他一切)の検閲管理、秘密情報の取得などを使命とし、国体の破壊、再軍備の阻止、政治組織の探索、海外との通信阻止などを主眼とし、後に新聞、あらゆる形態の出版物、放送、通信社経由のニュース、映画なども民間検閲の所管としてこれに加えられた。

実行には民間検閲支隊があたり、検閲は隠蔽された。日本の戦時特別統制下では法律により検閲が定められていて、それは国民一般に広く知れ渡っていた。しかし、GHQが行った検閲は、そのことに言及したり、また、伏字で埋めたり塗り潰すなどの痕跡を残してはならず、秘匿を徹底させられたため、言論統制された情報であることを国民は認識できなかった。検閲は峻厳を極めた。違反したと判断された場合、発行停止の処分や回収裁断などがなされた。さらにGHQは、マスメディアひいては日本の言論を完全なる掌握下に置くために指令を発し、政府による検閲を停止させ、通信社を解体に追い込んだ。

民間検閲支隊(CCD)の組織は、太平洋戦争勃発後設置され戦争終結とともに解散した米国政府機関、合衆国検閲局に準拠しているとされる。昭和22年3月時点のCCDの構成員は、将校88人、下士官80人、軍属370人、連合国籍民間人554人、日本人5076人、総員6168人であった。そのうち新聞雑誌等の検閲に日本人は1500人以上従事していたと推定された。日本人で検閲官に応募してCCD入りした人々の動機は経済的なものであったに違いない、滞米経験者、英語教師、大学教授、外交官の古手、英語に自信のある男女の学生にも高級を支給した。この報酬約5000人の要員にATIS勤務の日本人を併せれば、その数は10,000人以上にのぼると思われ、後に革新自治体の首長、大会社の役員、国際弁護士、著名なジャーナリスト、学術雑誌の編集長、大学教授等々になった人々も含まれているが、そのうち誰も経歴にCCD勤務の事実を記載した人はいない、と江藤淳。

 検閲は私信にも及び、CCDの検閲の手が、個人のもっとも内密な部分から発せられた言葉に及んでいた証拠をまの当たりにして、思わず身震いしたという。江藤が発見した哀切な恋文は、CCD郵便部が取り扱っていた月平均2000万通にのぼる郵便のほんの僅かな一滴にすぎない。CCDはそのうち400万通の私信を開封し、詳細に検討していた。電話についても毎月350万通の電信について、25000件に達する電話の会話を盗聴していた。そこにこそ、日本人の本音が隠されている筈だから。昭和21年12月、抽出さるべき私信の数を各地域に割り振り、一カ月で33万通の多きに達した。その結果から、いかなる世論調査機関も果たし得ない、精密極まる日本の世論動向を把握するに至った。同じ時期日本を訪れた米国人ジャーナリストの目には、「実際、米国人の信条や慣習に関するコメントは、一般にあまりに好意的で、ほとんど阿諛追従に域に近づいている」と。この頃までに、日本のジャーナリズムは、ほぼ完全にCCD製のジャーナリズムと化していたと言わねばならない、と江藤。しかしほとんど阿諛追従の域に近づいていた新聞論調とは裏腹に、日本人の本音が依然としてある種の誇りを維持し続けていることを、CCD当局は正確に認識していた。

 日本の世論動向の把握に努めていたCCD当局が、特に注目し続けていたのは、戦犯容疑者と戦犯裁判委対する国民感情の動きであった。極東軍事裁判批判は、削除または掲載発行禁止に相当する事項の第三番目に挙げられていたが、江藤がとくに特筆するのは、CCDの提供する確度の高い情報に基いて、CI&E(民間情報教育局)が、ウォーギルトインフォメーションプログラムを数次にわたって強力に展開していた事実であった。新聞:週三回の記者会見、新聞社幹部と記者の教化、活動の大部分は民主化を強調するプログラムに充てられる。日本のあらゆる新聞は、全国的にはCI&Eを、府県別には軍政部を通じて、毎日占領政策の達成を周知徹底させられている。東京裁判が開廷されるに先立ち、CI&Eは国際検事局のために二回の記者会見、弁護団のためには一回の記者会見を開催した。裁判に関する一切の情報を日本の新聞に取得させるため、とりわけ検察側の論点と検察側証人の証言については、細大漏らさず伝えられた。新聞や雑誌の幹部に対し、公式の席上や日常の記者会見の席上で、戦前戦中の日本の報道機関の腐敗ぶりを指摘する試みが、繰り返し行われた。日本の侵略と軍国主義政府のお先棒を担いだ新聞の役割との関係は、動かしがたいものだと力説することにしていた。戦前の日本の新聞が政治上の議論に影響力を行使していたならば、東條とその一味徒党は、日本を今日のような悲惨な状況に陥し入れようとせず、またしようとしてもできなかったであろうとも新聞課長は述べている。

 江藤はCCD(占領軍民間検閲支隊)の言論検閲が、いかに戦後日本の言論空間を拘束し続けて来たかについて、ここでは詳細に記述することは出来なかったが、屢述してきた。そしてこの構造が日本の言論機関と教育体制に定着され維持されるようになれば、占領が終了しても、日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊を続け、同時に国際的検閲の脅威に曝される、と。この脅威は、現に日本国内において、しかも報道機関それ自体の手によって、歴然たる検閲が行われているという実情を体験し、入手することができた。それは皇室と日本文化の根源に関わっている、と。

 言語として、国語をして、ただ自然のままにあらしめよ。今日の日本に、平和もあり、民主主義も国民主権もある。しかし今日の日本に、自由は依然としてない。言語をして、国語をして、ただ自然のままにあらしめよ、息づかしめよ、このことが実現できない言語空間に、自由はあり得ないからである、江藤はこう結ぶ。

 

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先回り 学生運動の歴史とその終焉

2020年06月22日 | 歴史を尋ねる

 タイトルは、文字通り先回り。躊躇するが、事態が起きた時、その背景まで記述するのは、バランスを欠く場合がある。兵本氏が実体験を踏まえながらの記述で、まず概要を押さえておくのも悪くない。従って、兵本氏の分析によって、全体像を把握しておきたい。

 どこの国でも、革命の揺籃の地は、大学である。ここで革命家の卵が孵化する。多くの学生は挫折するが、艱難辛苦を乗り越え本格的な革命家が誕生する。しかし革命家の心を悩ます問題は、苦難に満ちた革命的人生だけではない、青年にとって最も悩ます問題は、自分の階級的出自。戦前の日本で、旧制中学校、旧制高等学校、帝国大学に学んだ青年たちは、殆どが地主か新興ブルジョワジーの子弟であった。彼らが学んだ革命理論は、地主階級、資本家階級を搾取階級として糾弾し、革命的打倒を呼びかける理論である。この理論に忠実であろうとすると、自己矛盾に陥り、煩悶し、精神を病む場合も出てくる。

 日本の学生運動は、大正時代の学生運動の初期から、マルクス主義を理念とし、日本共産党の強い影響を受けながら発展してきた。敗戦後、学生運動は、戦場や職場から帰って来た学生たちの純粋な批判、反発に基づいて復活した。全学連が生まれたきっかけは、敗戦後の社会における教育復興の闘争であった。昭和23年6月、授業料値上げ反対のスローガンの下、五千人の学生が、東京・日比谷音楽堂に集まって、文部省に抗議デモを行った。そして国立、私立の全国の大学へ一斉ストライキを呼び掛け、114校でストが行われた。参加した学生は20万人と言われた。このストライキに力を得て、9月、全日本学生自治会総連合会(全学連)が結成された。終戦直後の日本共産党では、党員の約三分の一が大学生であった。全国各地に散らばっている学生党員たちが水面下で連絡を取り合いながら、全学連に強い影響力を与えていた。このストと全学連結成は、政府と文部省に強い衝撃を与え、文部省は次官名で、学校内での政治活動は許さないという通達を、国立大学に出し、さらに各大学の共産党細胞に対する解散命令を出して、学内対策を強化した。

 日本共産党は、党がモデルとしたロシアでは学生運動などはなかったので、あまり高く評価していなかったが、全学連が誕生すると、利用価値に気付いて自分の指揮下に納めようとした。しかし両者の間に絶えず摩擦、軋轢が生じた。共産党「武装蜂起の時代」がやってくると、党は徳田・野坂主流派と宮本・志賀らの分派(国際派)に大きく分裂、その影響が全学連内部の至る所に持ち込まれ、昭和27年、全学連は旧中執を追放、共産党指導に追随する玉井執行部を発足させた。共産党系が指導権を握ったため、次第に過激化する日本共産党の路線に巻き込まれ、血のメーデー事件やそのほかの騒乱事件などいわゆる軍事闘争に学生が駆り出され、無数の逮捕者を出した。そればかりではない。党の分裂は学生組織にも及び、主流派と国際派双方の他方に対する除名合戦となり、双方が相手を中傷、誹謗し合い、さらに査問と称して暴力、リンチを加える事件が続発、学生の組織と運動を疲弊させた。この軍事闘争が失敗に終わると、日本共産党は武力闘争方針を否定する総括を行い、これまた、党の方針に盲従していた学生は大きな衝撃を与えた。昭和31年、ソ連共産党大会でフルシチョフが激しいスターリン批判を行った。これをきっかけにポーランドでボズニナ事件が、ハンガリーでソ連軍との間に武力衝突が起った。一連の国際的諸事件は、青年、学生にスターリニズムとソ連の体制そのものに対する疑問を批判を引き起こした。日本共産党がソ連のこの行動を支持したことが、学生たちに党への信頼を掘り崩すこととなり、学生党員数約一万人が一挙に半減したと言われている。

 スターリン批判は、ソ連の全体主義的な国家体制とそれが不可避的に生み出す悲劇を暴き出した。そして「理想として、頭の中に描き出された社会主義」と「実際に、現実に存在する社会主義」との間には、相当の距離があることが次第にソ連の実物教育を通して明らかになって来た。しかしここで兵本氏は悲嘆する。「嗚呼、悲しいかな、当時の日本の学生の知的水準と彼らが入手し得た情報量では、マルクス主義からの撤退など、思いもよらなかった。ましてや、1990年の共産主義の崩壊などは彼らの想像も及ばなかったことであった」と。マルクス主義に深く傾倒しつつも、次第に日本共産党との対立を深めつつあった全学連の主流派は、ソ連共産党と日本共産党を共に退け、スターリンに反対したマルクス主義者・トロッキーの道、反帝反スタという第三の道というもう一つの迷路に嵌っていった、と浜本氏は解説する。昭和33年5月、全学連大会で主流派が共産党に忠実な高野派を攻撃、退場を命じた。共産党は事態の収拾を計ったが、却って乱闘事件が発生。12月日本共産党から除名されたメンバーを中心に共産主義者同盟(ブント)が結成され、翌年日本革命的共産主義者同盟(革共同)とが提携、反共産党系全学連の指導権を握った。

 昭和32年6月、岸信介首相が日米新時代の声明を発表して日米安保条約改定の意思を表明、翌年9月藤山愛一郎外相が訪米して具体的な外交交渉を開始、翌年3月、社会党、総評、原水協などが、安保改定阻止国民会議を結成して反対運動に乗り出した。安保条約そのものの評価は歴史家の判断に任せよう、兵本氏が云うのには「この闘争をきっかけに、日本の青年、学生が日本共産党やマルクス・レーニン主義から、次第に離れていった」ことが重要である、と。マルクス主義の革命的教義によると、革命が成功するためには、革命の主体的な担い手である労働者階級と共に、多数の革命の幹部(カードル)が必要である。ここでいう幹部とは、革命運動の将校、下士官のことである。これを絶え間なく補給するのが学生運動である。日本で共産主義革命を目指してきた最大の勢力は日本共産党であり続けた。日本の学生運動(全学連)が、安保闘争を機に日本共産党から離れていくことによって、日本の革命運動は、人材の補給源を失うことになった、と。ふーん、内部の事情に詳しい人でないとここまでの分析は出来ない。

 昭和45年の大学紛争は、昭和43年東大医学部のインターン制度を巡って、医学部の学生と医学部教授会との間で起きた紛争に端を発している。教授を吊るし上げたとして停学処分を受けた者の中に当日その場にいなかった学生が含まれたという事実誤認問題をきっかけに、抗議行動がエスカレートして、東大安田講堂を学生たちが占拠するという騒ぎに発展、これを排除しようとした大学側が機動隊を学内に導入したことから、紛争はさらに激化、全学部の学生自治会が無期限のストライキに入った。そして学生たちは全学共闘会議(全共闘)という組織を作った。この東大と日大の学園紛争が、全国各地の大学に飛び火し、昭和44年には全国165の大学で学生がストライキに入った。60年安保以降、日本共産党から決別した左翼グループは、四分五烈、合従連衡をしながら、社会党や日本共産党を旧左翼と呼び、自分たちを新左翼と自称した。彼らはヘルメットにゲバ棒と称する角材を振り回し、機動隊と渡り合った。警察はこれを極左暴力集団と呼び、マスコミは過激派と呼んだ。

 学生運動が盛り上がるにつれ、大学の自治会の主導権を巡るセクト同士の争いが激化し、ゲバ棒を振るっての内ゲバが激しくなり、革共同から分かれた中核派と革マル派の抗争が酸鼻を極めた。相手の幹部を金属パイプで滅多打ち、全身打撲、複雑骨折などと殺害、廃人になった者数百人という凄まじい結果をもたらした。過激派の中で最も過激路線をとったのは、共産主義同盟から生まれた赤軍派。彼らは世界同時革命を起こすため革命根拠地をつくることを思いついた。それがよど号ハイジャック事件であった。もう一つのグループが連合赤軍。武装蜂起を計画して群馬県山岳地帯で射撃訓練。これに気づいた警察が追跡、浅間山荘事件を引き起こした。事件後、連合赤軍による仲間14人の殺害というリンチ事件も発覚、社会を恐怖のドン底に陥れた。日本列島を揺るがした学生たちの反乱は、ついにおぞましい結果をもたらし、驚愕した学生たちは、学生運動から一斉に身を引いた、と兵本達吉氏。

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先回り 平和運動の原点と空想的平和主義

2020年06月11日 | 歴史を尋ねる

 歴史を辿るとき、時間的経過を追いながら、歴史的意味合いを理解するのは、難しい。むしろ時間を逆転させた方が、理解しやすいこともある。先が見えないときは、声の大きい方が優勢となる。しかし、歴史の審判は、声の大きさに関係ない。自ずと落ち着くところに落ち着く。ここでは、時間的経過を追っても理解し難い事象を、ここでも、兵本達吉氏の著書に依って、整理して置きたい。

 1948年6月、ソ連によるベルリン封鎖、1949年4月トルーマンは原爆の使用に言及、9月、ソ連が原爆を保有、10月、中華人民共和国が成立、1949年4月、北大西洋条約機構(NATO)が結成され、東西の冷戦は沸点に達した。危機感を抱いた知識人たちの呼び掛けによって、1950年3月、ストックホルムで開催された平和擁護せかいたいかいは、原子兵器禁止の著名運動を全世界に呼びかけた。1、原子兵器の絶対禁止、2.厳重な国際管理体制ぼ確立、3.最初に原子兵器を使用することを犯罪と認め、戦争犯罪人として扱う、という内容だった。    1950年代は、熱核兵器とその運搬手段の開発が急速に発展した時代として特筆される。1954年3月、太平洋ビキニ環礁でアメリカは水爆実験を行った。この水爆実験は広島型原爆の実に一千倍もの強烈なもので、直径が数キロもある巨大な火球が、広範囲にわたってすべての生物を絶滅させ、粉々に吹き飛ばしてしまい、地獄さながらの光景を呈した。熱風が四方八方に吹きまくり島々の樹木をことごとく吹き飛ばし、海水を蒸発させ、サンゴ礁の一部も消滅して、何億トンもの砂や土、サンゴが吸い上げられ、放射能の粒子となって空中を漂った。当時ビキニ環礁から160キロの地点で操業していた第五福竜丸に死の灰が大量に降りかかった。第五福竜丸が母港焼津に帰港して被爆の事実が報道されると、日本中が大騒ぎになった。焼津市を皮切りに全国各地の都道府県議会、市町村議会で原水爆禁止の決議が行われ、さらに婦人団体、労働団体、日本ユネスコ連盟、日本キリスト教団なども次々と決議を行った。原水爆禁止の声が高まる中で、禁止を求める署名運動が各地で自然発生的にはじまった。東京杉並区では、公民館長の安井郁の呼びかけで、原水爆禁止杉並協議会が結成された。そして全区の婦人団体、PTA協議会、社会福祉協議会、医師会、魚商組合、労働組合の殆どが参加した。これが、原水爆禁止運動の原点となった。

 日本共産党は、戦前コミンテルンの日本支部として、帝国主義戦争を内乱に転化せよというコミンテルンの指導に基づいて、天皇制の打倒と労働者・農民の革命的民主主義独裁樹立のため内乱を起すことを目指していたが、これは同時に、社会主義の祖国ソ連邦を守る戦いでもあった。戦後の日本共産党は、この点を換骨奪胎して、反戦平和の旗を高々と掲げ、あの侵略戦争に反対して命をかけてたたかった日本で唯一の党として自己宣伝に努めた。終戦直後、この点に深く感銘して入党した青年・学生は少なくなかった。戦後は、日本軍国主義の復活を恐れるソ連や中国の意向を反映して、再軍備と軍国主義の復活に反対を唱えることが、平和運動の主眼になった。その後、50年6月、朝鮮戦争が勃発すると、ソ連、中国、北朝鮮の国際共産主義と呼応して、後方攪乱の騒乱事件を引き起こし、警察予備隊、自衛隊の創設のきっかけを作った。1955年8月6日、第一回原水爆禁止世界大会が、日本の国民各層を網羅して広島で開催され、翌9月、原水爆禁止日本協議会(原水協)が組織された。日米安保条約の改定が日程に上がってきた1959年3月、安保条約改定阻止国民会議が結成され、日本原水協も総評、社会党、護憲連合などと共に幹事団体(13団体)に名を連ねた。しかし、原水協執行部が安保改定阻止を前面に押し出すに従い、政治的に偏向しているという批判が組織内外で急速に高まった。騒然とした雰囲気の中で第五回大会は開かれたが、東西融和で原水爆禁止をというスローガンを大会基調とした。しかし分科会では、当時まだ共産党系が強い影響力を持っていた全学連が、原水爆禁止運動は安保改定阻止を中心に行動を起こすべきと強く主張、共産党系の代表からは、平和の敵・アメリカ帝国主義への戦いが強くアピールされた。地域から参加した婦人団体や青年団体の代表はこれらの主張に困惑すると共に反対した。

 第七回世界大会でh、有力メンバーである全国地域婦人連絡協議会と日本青年団協議会が共産党系の主張に反対して原水協は独善的という批判する声明を出すなど波乱のうちに開かれた。結局、平和の敵はアメリカ帝国主義であることをはっきり示し、軍事同盟・軍事基地反対の戦いを重視せよという意見が共産党系から繰り返し出され、大会の宣言・決議・特別決議・国民へのアピールなど全ての文書に採択された。こんにち、最初に核実験を再開する政府は、平和の敵・人類の敵として糾弾すべきであるという文書を作成したが、この時、核実験再開の準備を進めていたのはソ連であった。大会が終わった直後から、ソ連は空中、水中、地表などの実験で、実に59回も実験を行った。核実験の全面的禁止を求める国際世論の高まりで、1963年7月、米、英、ソ三国は大気圏及び水中の核実験を禁止する「部分的核実験停止条約」の仮調印を行った。日本共産党は、大気圏内外の核実験を再開する余地が残されているとして、条約に批准に反対した。当時中国が核実験の準備をしており、国際共産主義運動における中ソ対立の中で日本共産党が中国側に加担したため、このような態度をとったと、今日では理解されている、兵本氏はいう。

 ソ連の核実験による混乱によって運動は停滞した。この混乱を克服するためん、総評、社会党、日青協、地婦協の四団体は、いかなる国の核実験にも反対という基本原則を打ち出し、原水協全国理事会で決定された。しかしこの年の大会でも、核実験の全面的禁止と軍縮に向けて幅広く展開するか、それとも平和の敵を明らかにして反米民族運動を強化するのか、路線対立は止まなかった。結局、第九回大会では、総評などが独自の集会を開催し、ついに分裂に至った。この時原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が設立された。こうして、日本の統一的原水爆禁止運動は、日本共産党が党独自の階級闘争理論を強引に運動に持ち込もうとして分裂してしまった。

 ここからは、兵本達吉氏の独白である。兵本は、戦争を扇動する者より、平和を愛好する者を好む、平和・平和と言ったからと言って、別に悪いわけではない。しかし、憲法に平和と書けば、平和になるのであれば、憲法に台風は来るなと書けばよいという哲学者田中美知太郎の言葉通り、戦争が避けられない社会情勢というものがある。台風という自然現象と戦争という社会現象を混同する暴論だという人もいるが、戦争でないと解決できない問題もある。対立する双方に正義がある場合、戦争は避けられない。具体的にはパレスチナ紛争がそうだ。だから、国連が調停しようと、アメリカが調停しようとどうにもならない。よく話し合いで解決せよと言う。しかし、このような主張をする人は、話し合いで解決できない紛争を戦争というのだ、ということを理解していない。物事を具体的に考えた時、内容が一層明確になる、と。北朝鮮の核とミサイルの開発に関し、六か国協議ないし米朝協議が、不調に終わった場合、我々は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我等の安全と生存を保持する(憲法前文)ことが出来るかどうか、試されている。戦前の行き過ぎた軍国主義の対極として、戦後の平和運動の効用はある。しかし、戦後を風靡した平和主義も、見方によると、空想的平和主義の所産にほかならなかったのではないか、と。抑止力を持った自衛力と防衛同盟条約が必須ということか。

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先回り 未来社会論と社会主義経済の構造的欠陥

2020年06月03日 | 歴史を尋ねる

 日本共産党の「六一年綱領」によると、日本社会はプロレタリアートの独裁の歴史的一時代を経過して、社会主義的な計画経済を実施し、社会主義日本では、各人の能力に応じて働き、労働に応じて報酬を受け取ることになり、そして共産主義が高い段階に至れば、各人は能力に応じて働き、必要に応じて生産物を受け取ることができる社会になる、と書かれていたと、兵本達吉氏。未来社会論である。マルクスとその信奉者たちは、資本主義という桎梏から解放されると、生産力は飛躍的に、殆ど無制限に発展すると考えていたが、何事も一挙にはいかないことを知っていたレーニンは、共産主義を二段階に分け、共産主義という高い段階に至れば、必要に応じて受け取る社会、レーニンの時代ではそれは目のくらむような社会であった。

 しかし、時代は進展して、共産主義の目標と理想を乗り越えてしまい、陳腐化させてしまった。2003年不破哲三はレーニンの共産主義社会の二段階論を批判し、「社会主義・共産主義社会」という一つの段階にまとめようと提唱、「二〇〇四綱領」が決議された。兵本氏の言葉を借りると、未来社会論は見事に換骨奪胎されてしまった、と。  兵本氏の著書では扱っていないが、折角なので、「二〇〇四綱領」の中身を覘いておく。新しい綱領のなかには、マルクス・レーニン主義については一言も書かれていない。『レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった』『現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破―日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。』 ふーむ、兵本氏は未来社会論を一つの段階にまとめたとしているが、深読みすれば、時代の趨勢にあわせた新たな二段階論を提示しているようにも読み取れる。そうすれば、党名を変更しないのも、理解できる。

 兵本氏は除名されてフリーの立場で、前回紹介したロシアのアレクサンドル・ペトラコフのインタビュ―に出かけた。ペトラコフは、旧ソ連の社会主義経済を五百日で市場経済転換しようという大変せっかちなプランの実際の立案者だと言われている。ペトラコフが兵本に力説したことは、ロシアの共産主義は崩壊したけれど、それはロシア人がその実現の仕方を間違えたからではない、と。ロシア人は74年間、社会主義の実験をやった。マルクスが考えた資本主義の後にくる社会についての構想、市場経済を廃止して何らかの形の計画経済に置き換えるという非商品社会構想は、ことごとく失敗に終わった。東ヨーロッパでも失敗した。中国でもうまくいかなかった。このシステムは、実現不可能で、作動不可能である。ロシア人は社会主義の実験に失敗したけれども、それはスターリンが悪党であったとか、ブレジネフが馬鹿であったとか、そんな個人的な問題ではなく、社会主義経済という一つの経済システムが、元々構造的に欠陥があって、このシステムによっては、経済の高度成長と豊かな社会が実現できないことがわかった。マルクスは、社会主義の後にくる、より高次の社会システムだと考えたが、実際にやってみたところ、あらゆる点で資本主義に劣るシステムに過ぎないことが分かった。ロシアは人類文化の進歩から取り残され、三等国に甘んじなければならないことが分かったので、社会主義を廃止することにした。と。

 社会主義とは、生産手段を社会化して、生産手段を何らかの形で共同所有し、計画的にモノを生産するシステムである。社会主義経済は、計画経済と呼んでよい。計画経済とはあらかじめ需要を量ってモノを生産するシステムだが、この前提条件が、実際にやってみと大変難しい。一億二千万人の日本人が、日常生活で使用する何百、何千種類というモノについて、それぞれどれだけの分量を消費するかを予め測定することは事実上不可能である。従って、計画経済の下にあっては、一方では絶えざるモノ不足があり、他方では常にモノ余りがあって、倉庫には不用品が山積みされる。市場経済のように自動的に需給均衡作用が働かない。旧ソ連では、約1200万項目のモノが生産されていたが、これを一億七千万人のロシア人が消費するとして、その需要を計算するには、最高速のスーパーコンピューターを70台使用して、全てのデータがコード化されていると想定しても、3836億年かかるとされる。専門の経済学者は全面的計画化と計算の不可能性と呼んでいる。さらに計画的に生産するためには、生産計画を立てなければならない。そのためには、モノの単位と価格が客観的に決まっていなければならない。ところが、社会主義の計画経済では、生産財は共同所有され、市場には現れないので、価格を持たない。生産財に価格がなければ、モノの価格は決められない。一つひとつのモノの価格が明示されなければ、全体としての経済計画をしっかり立案出来ない。

 これは「社会主義の経済計算論争」と言われ、1930年代に欧米で激しく論争され、社会主義は理論的・経済学的に見て不可能だという結論が出ていた。では、不可能だと言われた経済制度がなぜ1991年まで74年間も存続することになったのか。兵本氏がいうには、銃剣で脅しながら、労働者を強制して働かせ、生産物を分配するのも一つの経済システムであり、ソ連の経済システムは、プロレタリアートの独裁の下で銃剣による強制力によって、極めて非能率な形で維持されていたからだという。次に、計画経済の不合理性は、エネルギーと資源の配分に現れる。ところが、計画経済ではどの部門にどれだけのエネルギーと資源を振り向けるかについての指標がない。結局は計画経済の司令部の、恣意的なそして非生産的、浪費的な配分に委ねられる。さらに、市場経済が市場からのサインによって、反応する経済システムであるのに対して、計画経済は、生産者優位の経済システムで、生産者同士の競争がない点からも、科学・技術の導入に対するインセンティブを欠き、コスト意識ももたず、市場経済に常に遅れをとる。

 計画経済のシステムが、個々の労働者や経営者、流通過程に及ぼす悪影響もある。計画経済の下では、商品的・貨幣的諸関係が断ち切られる。労働者の賃金はソ連の場合、通貨(ルーブル)で支払われるが、この通貨が使える範囲は限定されており、食糧、衣類、日用雑貨などは購入できるが、住宅、自家用車、大型冷蔵庫などの耐久消費財は、基本的には配給制となっていた。また銀行に預金しても、利息が付かないため、資金はタンスに死蔵される。簡単に言うと、カネの魅力がなくなってしまった。カネの魅力がなくなってしまうと、働いて得る賃金の魅力がなくなってしまう。そうすると、労働に対する刺激と意欲が失われる。旧ソ連の労働者は、働くふりをするだけで、働かないと言われるのはそのためである、と兵本氏。企業には、党や国家から任命された経営経営者がいる。彼は上級機関から指令された通り、納期を厳守してモノを生産しなければならない。経営者は納期が遅れることがないよう、常に余剰の労働者を抱え込んで、通常必要の労働者の1.3倍の人員を抱え、原料・エネルギー・機械の部品なども余分に抱え込んだ。そしてどの企業も内部に稼働機械の修理工場を持った。ハンガリーの経済学者は、個々の企業が余剰を抱えることによって、国民経済全体は常に不足を生み出していた、と。また、物流が阻害され、行列ができるのは、モノ不足だけが原因ではなく、流通過程が整備されていなかった。その上、計画経済の下では、生産物の価格を国家が決めており、社会主義の計画経済は、計画の目標をアップする以外に、経済制度そのもののなかに、経済成長を促す内的動因は、一切存在しない。経済成長力において、資本主義に劣るのはその為だった。

 マルクスは、初期の資本主義の矛盾と困難を詳しく観察し、その解決の形式として、社会主義を構想した。それは資本主義市場経済に見られるムダやロスをなくし、合理的で整然とした経済システムとされた。このシステムは、有効需要によって制約されることはなく、資源とエネルギーにだけ制約される非商品経済である。そうすれば、殆ど無制限の経済的発展が約束される筈であった。ところが、ロシア人たちが実際にやってみたところ、驚いたことに、マルクスが考えていたことと正反対の結果が生じた。実際は、資本主義と対比して、無駄やロスが多く、経済の成長力も格段に低く、個々の労働者の労働生産性においても、著しく劣った。さらには、経済的側面だけでなく、民主主義、個人の自由と人格の尊重、人間の諸権利の尊重など、政治的・社会的な側面においても、資本主義に対して著しい劣位に立つことも明らかになった。こうして、ロシア人たちは、ゴルバチョフの時代以来真剣検討を加えた結果、共産主義の解党・解散に踏み切ったのである、と。

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