ノーベル平和賞 ハル国務長官

2017年12月25日 | 歴史を尋ねる
 ハワイ空襲・第一次攻撃は、現地時間12月7日午前7時35分の急降下爆撃隊の投弾に始まり、午前8時25分ごろに終った。その頃にはすでに嶋崎重和少佐指揮の第二時攻撃隊167機がハワイ上空に到着し、次々に帰投する第一次攻撃隊に代って攻撃を続けた。そして、午前9時45分、日本機はハワイの空から姿を消した。一時間五十分の空襲は、戦闘時間としては長いものではないが、平時体制のまま予期しない攻撃を受けたハワイの将兵、市民にとっては、無限の長さとも一瞬の夢魔とも感じられたに違いない、と児島氏。
 「エア・レイド・オン・パールハーバー、ジス・イズ・ノー・ドリル」(真珠湾空襲中、演習にあらず) ハワイ海軍航空部隊司令官パトリック・ベリンジャー少将は、空襲開始直後にそう放送し、その後も、繰り返し放送し続けた。ホノルル放送も午前八時過ぎには敵襲を伝え、市民の外出禁止、防火用意、冷静さの維持などを訴えた。だが、真珠湾上空をおおう火煙、八方から落下する高射砲弾片、次々に口伝される流言などは、一般市民を興奮させ、動揺させた。

 空襲により、米太平洋艦隊は真珠湾在泊艦艇94隻のうち、戦艦8隻を含む18%が撃沈破され、陸海軍機479撃墜破され、死者2404人、負傷者627人の被害を受けた。混乱は日本機が退去した後に激しく、日本総領事館が所在するホノルル市ヌアヌ通りは、夜に入るまで「狂乱状態」になった市民の群れでごった返した。
 南雲機動部隊は、ハワイ時間7日午後1時50分ごろ、第一次、第二次攻撃隊の収容を終わり、24ノットで北上して戦場を離脱した。損害は第一次攻撃隊9機、第二次攻撃隊20機、ほかに別動隊として真珠湾口に潜行した特殊潜航艇5隻であった。

 野村大使は、来栖大使と共に国務省から大使館に帰ってきて、はじめて真珠湾空襲の報告を受けた。国務省を退出するとき、玄関付近に新聞記者らしい十数人が群がり、口早に質問を浴びせてきた。その態度は異常に冷たく、かつ質問の内容も異様であった。ハル国務長官との会見、あるいは日本政府の対米回答について尋ねるよりも、日本は米国を騙したのか、日本は勝てると思うのか、など、まるで戦争が始まったことを前提にしているような質問であった。大使館に帰着して、海軍武官横山大佐の報告によって事態が承知できたが、野村大使は、そうか、と答えると、居間に閉じこもった。
 陸軍武官磯田少将は、野村大使の労をねぎらうため部屋に入いったが、発言は途切れ、双眼に涙が溢れた。野村大使がどれほど純粋かつ純心に日米交渉の妥結を望み、そして日米戦争回避を念願していたか、知悉していた。着任以来十か月間、大使はまるで日米両国政府に懇願するように平和を訴え続けた。策略も謀略もなく、ひたすら善意を拠り所とし、また相手の善意の発露を期待しながら、希望を捨てまいと努力していた。

 職業外交官からみればその姿はあまりにナイーブにすぎ、苛酷な国際政治の実態を知る者からはその仕事ぶりは素人すぎると判定されるかもしれない。ミスキャストだという評言も、容易だろう。だが、純心な善意だけで戦争は阻止し得ないにせよ、無雑な善意という細い一本の糸が戦争を引き留めるために存在し続けた事実は、貴重である、とここまで日米交渉の事実関係を調べ上げた児島氏はいう。

 来栖大使も、自室で黙想していた。来栖はこの朝、事態の好転を期待する気持ちであった。ニューヨークの『三井物産』支店長宮崎清の斡旋で財界の有力者バーナード・バルークとコンタクトしていた。12月3日、バーナード・バルークはルーズベルト大統領と会談した、といい、「タラ、という魚は、餌をみると気づかないふりをしながら、突然に食いついてくる。大統領にもそういう癖がある。10日に再開する約束をしたよ」と来栖に電話してきた。たしかに、手応えがあった、とバルークは告げた。
 バルークは、日米戦争が結局は共産主義国を援ける結果にしかならぬと判断し、大統領の天皇宛親電工作、米国の譲歩と対日十億ドル借款をルーズベルト大統領に進言した。大統領が天皇あてに親電を送ったのは、そのバルークの進言が実現しはじめたものと来栖大使は理解し、6日夜は、とくにバルークとの連絡係、寺崎成一一等書記官と共に祝杯をあげた。それだけに、開戦のニュースは事態転換寸前の一撃を受けた想いだった。

 だが、感慨に身をひたしている余裕はなかった。友好国に居住していたが、一転して敵国に身を置くことになった以上、それに即応した措置が予想される。大使館では、機密書類の焼却と暗号機械の処分が急がれた。新聞記者二、三十人が強硬にインタビューを求め、館内に入って来た。大使館前の群衆も、中には火炎瓶を用意するなど、ひどく不穏な様子であったが、警官が大声で、東京のグルー大使の安全も考えろ、と叫んで、解散させた。

 野村、来栖両大使と大使館員は、そのまま大使館で籠城生活を送った後、12月29日、バージニア州山中のホット・スプリングスのホテルに収容された。開戦と共に、「有害危険な敵国人」として逮捕された在留邦人は3,933人で、司法省移民局管轄の収容所と陸軍省管轄の収容所に抑留された。翌年6月12日スウェーデン船に乗船して皆が乗り込み、アフリカの交換地モザンビークの港に到着、7月22日、日本からの交換船が駐日米国大使グルーをはじめアジア各地の引き揚げ連合国民を乗せて交換港に入港、そこで乗船の交換が行われた。

 帰国した野村、来栖両大使は、8月21日、天皇に拝謁、日米交渉の経過を奏上した。来栖大使は、天皇の下問があれば奉答すべく、野村大使のそばに控えていたが、下問はなく、「ご苦労であった」と、慰労の言葉を述べた。次いで8月31日、首相官邸で東条首相主催の夕食会が開かれ、食後、東条首相は参謀総長杉山元対象と共に来栖大使を応接間の一隅に招き、声を潜めて、言った。「この度はまことにご苦労でしたが、ついては、こんごはこの戦争を一刻も早く終結するようご尽力を願いたい」 来栖大使は、東条首相の主張の「余りの単純さ」にびっくりした。東条首相としては、折から、ミッドウェー海戦での海軍の敗退のあと、ソロモン群島ガダルカナル島に予期以上に早く米軍が反抗してきている戦況に鑑み、いずれは戦争終結の機会を探索せねばならぬと思い、来栖大使にささやいたのだった。だが、来栖はそのような戦況は知らない、知ったとしても感慨は同じに違いないと児島氏。来栖大使は、東条首相が戦争という国家の大事を、まるで電灯のスイッチをひねるように簡単な仕事と考えているのか、と感じ、「総理、和平工作は戦争を起すように簡単にいかぬものですよ」、ぷすりとそういうと、失礼、といって立ち上がった。

 野村大使は昭和17年12月辞職、昭和19年5月枢密顧問官に就任した。戦後は公職追放令の適用を受けて閑居していたが、追放令が解除されると、昭和28年3月、日本ビクター社長に就任、その年10月に渡米した。12年ぶりに米国を訪ねた野村は、プラット海軍大将、スターク海軍大将、ニミッツ元帥をはじめ、フーバー元大統領、ルーズベルト大統領夫人など、かっての知人を歴訪した。野村はハルも訪ねた。ハルはすでに隠退生活に入っていた。往時を回顧する対話をかさねるうちに、野村はハルが1945年のノーベル平和賞を受賞したことを思い出した。受賞の理由は、日米交渉における努力を中心とした平和外交の推進ということになっている。お祝いをいい、当然の受賞と思う、と野村が云うと、ハルはうなずいたが、急いで応えた。
 「世界の情勢は変わりましたな。日本の再建が成功することを祈っております」 ノーベル平和賞のことには触れてもらいたくない・・・といった風情であった。

 児島襄戦史著作集第Ⅳ巻 開戦前夜 はこう締めくくっている。児島氏は万感の思いでこのフレーズを探し出したのだろう。

ハル長官「恥知らず、虚偽、歪曲・・・」

2017年12月24日 | 歴史を尋ねる
 南雲機動部隊は、ハワイ北方約500カイリの洋上で日没を迎えた。現地時間12月6日午後5時18分。すでにハワイ米軍哨戒圏内に身をさらしている。ホノルルのラジオ放送も明瞭にキャッチしている。米軍が索敵機を飛ばせば、間違いなく発見される環境にあるだけに、一刻も早く夜陰に姿を隠したかった。「時間を睨みつつ日没を待つ迄の時間の永かりしこと、一日千秋の思いなりき」第八戦隊参謀藤田菊一中佐の手記であった。そして、機動部隊は、「天祐と神助を確信」しながら、夜の海を南下して行った。
 その四時間後、外務省電信課は対米通告の最後の部分、第十四部を発信し、つづいて30分後、通告をワシントン時間七日午後一時に手交せよとの指示を発電した。これら秘電は、それぞれ発信直後シアトル市に近いペインブリッジの米海軍通信基地でキャッチされ、ワシントンにテレタイプで直送された。暗号解読は、陸海軍双方でおこなわれ、第十四部及び手交時間指示電は共に午前7時過ぎに解読を終わり、陸軍マジック配布責任者であるブラットン大佐は海軍側の配布役クレーマー少佐と連絡を取り、「午後一時に米政府に手交せよ」という時間指定の意味について話し合い、日本の武力行動開始時間に密着した時刻に違いないと推定、二人はそれぞれ陸海軍首脳者に電話、将軍及び提督たちは、何れも連絡を受けると、「オーケー」または「オーライト」と承知の旨を伝えたものの、誰の動作もゆったりとしていた、と児島襄氏はそれぞれの行動を詳細に記述する。マーシャル大将はアーリントン公園で乗馬を楽しみ、なかなか捕まらなかった。

 同じころ、日本大使館でも、海軍武官補佐官実松少佐が、ブラットン大佐とまったく同様の憤懣の言葉をつぶやいていた。日曜日の朝とはいえ、対米通信電の到来は予定されており、情勢は緊迫をきわめている。「なんだ、このざまは、みんなたるんでる」時刻は九時半に近い。 ハワイ時間では7日午前4時に近づき、南雲機動部隊は予定の発艦地点に近づき、6隻の空母の甲板には次々に攻撃部隊の各機が勢ぞろいしていた。

 その頃、東京ではルーズベルト大統領の天皇宛親電が届き、グルー大使は電報の暗号解読と浄書を済ませ、12月8日、午前零時15分、外務省に到着した。大使は大統領親電を朗読し、写しを外相に手渡して、天皇に直接伝達したい、と述べた。東郷外相は、大使に希望と大統領親電を上奏すると答えた。東郷は東条首相と木戸内大臣に連絡、荘重な書き出しで始まる親電は、しきりに平和維持の必要を強調しながらも、そして仏印からの日本軍撤兵を求めながらも、これまでの日米交渉内容にはふれず、ハルノートには言及せず、保障や譲歩もない抽象的なものであった。東郷は一読して、危局を救いうるものとは認めがたいと判定し、東条首相、木戸内大臣も同感の意を表明した。東郷外相は、東条首相と協議して決めた簡単な天皇の大統領あて返事の裁可を仰ぐこととして深夜、宮中に参内。天皇は大統領親電を黙然と聞き、大統領あての回答に「よろしい」との一言で裁可を与えた。

 南雲機動部隊は、グルー大使が東郷外相と会見した頃、計画通りハワイ・オアフ島北方250カイリの攻撃予定地点に到着し、東郷外相が東条首相と話し合っていた頃、ハワイ時間7日午前5時30分、まず直前偵察のためゼロ戦2機を発進させた。ついで午前6時、第一次攻撃隊183機を発艦させ、午前7時15分、第二次攻撃隊167機が発進した。午前7時49分、攻撃隊総指揮官・淵田実津雄中佐は奇襲成功を確認し、モールス信号の連送で、「全軍突撃せよ」の命令を下した。
 その時刻、ワシントン時間午後1時49分、日本大使館では、野村大使と来栖大使が玄関でじりじりしていた。大使館では実松少佐が出勤して間もなく、一等書記官奥村勝蔵が対米通告十三部のタイプ浄書をはじめ午前11時頃、一応のタイプ浄書を終えた。しかしもともと奥村は草案のつもりであったので、もう一度はじめからタイプすることにした。2回目を本番と心得ていた。
 その頃米国側は、通告文14部と手交時間指示電の両方が、陸海軍と政府首脳者に承知されていた。ルーズベルト大統領も、午前十時ごろ寝室で通告文第14部のマジック情報を読んだが、「日本はまさに交渉を打ち切ろうとしているようだ」と副官ベアドール大佐に語っただけだった。
 ハル国務長官は、ノックス海軍長官とスチムソン陸軍長官を迎えて、午前十時半から会議を開いていたが、通告文第十四部は会議開催の数分前、手交時間指示電は皆具が始まって15分後に伝えられた。
 マーシャル参謀総長は午前11時少し前陸軍省に到着した。大将は全文に眼を通すと、部屋に集まった幹部に意見を訪ねた後、「諸君、本職は日本軍が本日の午後一時、またはその直後に攻撃を開始すると確信する」と言明した。大将は、ハワイ、フィリピン、パナマ、サンフランシスコ入港の陸軍部隊指揮官に緊急警報電を発信するよう指示。ところが、他の地域宛は三倍優先の緊急電で発信されたが、ハワイに対してだけは、少なくとも八時間も要する電信会社の普通電で発信された・・・。なぜ遅延措置がとられたのか、この点は米国側が日本海軍のハワイ空襲計画を察知していたとの推測の根拠にみなされながらも、なお解明されないままになっている、と児島氏は1973年当時の記述時、解説している。

 奥村書記官が第二回目のタイプに取り掛かって間もなく、午後一時に米国政府に通告文を手交せよ、という電報が翻訳された。途端に、大使館の空気は一変し、奥村書記官はタイプ浄書を督促された。第十三部迄を前夜のうちにタイプしておくか、あるいはタイピストを使うなとの指示であっても、タイピストに打たせてその後は機密保持のためタイピストを監禁しておてば、手交時間は守れた筈である、と児島氏。緊張すれば素人タイピストの奥村の指さばきは円滑さを欠き、結城課長も手伝ったが、打ち間違いなどで時間が経過した。

 午後一時40分、ハワイではその15分前から、第一次攻撃隊の突撃が開始され、太平洋艦隊司令部から日本軍攻撃の第一報がワシントンに到着した。第一報を受けた海軍作戦部長スターク大将は、すかさずノックス海軍長官に電話したが、「そんなバカな。そりゃフィリピンじゃないのか」と仰天。ルーズベルト大統領と一緒に報告を受けた顧問ハリー・ホプキンスも、とっさに「これはなにかの間違いに違いない。日本はホノルルを攻撃したりしないはずだ」。このノックス、ホプキンス両人の発言には根拠があった、と児島氏。前日、大統領指示のオトリ船工作の準備が完了し、その一隻が出航する、とワシントンに報告して来ていた。このオトリ船の艦長は、インドシナ半島カムラン湾沖をパトロールして日本艦船を偵察せよと、命令された。だから、日本機の空襲と聞いて、ノックス長官もホプキンズもやられたのはこのオトリ船、場所はフィリピン沖ととっさに判断した、と。それだけに、ハワイ空襲の事実は米国政府を驚倒させたが、その頃、日本大使館では、ようやく奥村書記官のタイプ浄書が終わり、野村、来栖両大使は通告文をもって国務省に向かった。

 国務省に到着したのは午後2時であったが、二人の大使は待たされ。午後2時20分、ハル長官にあった。ハル長官は、二人の大使が国務省に到着した時、ルーズベルト大統領から電話で真珠湾空襲を告げられた。ハル長官はウェルズ国務次官とホーンベック顧問を呼び、二人の大使との会見を拒否すべきかどうか協議し、やはり会うべきだと二人に勧告された。二人の大使が待たされたのは、そのためであったが、ハル長官は冷たさをあらわにした態度で、二人を迎えた。「はっきり申し上げるが・・・私は50年の公職生活を通じて、これほど恥知らずで虚偽と歪曲に満ちた文書を見たことがない・・・」ハル長官は、手渡された通告文をペラペラと二、三項めくるとそういい、ドアの方角に顎をしゃくった。
 二人の大使はまだ開戦を知らない。野村大使は、なぜ、ハル長官がそれほど極端な非難の表現を採用するのか、隻眼を見張ったが、無言でハル長官に握手を求めた。差し出されたハル長官の手を強く握ったが、長官の手はだらりとしたまま、なんの反応も示さなかった、と児島氏はこの項を結ぶ。戦後、野村はハルと再会を果たしたが、そのエピソードは次回としたい。

対米最後通牒

2017年12月21日 | 歴史を尋ねる
 東郷外相は、野村大使にこれまでの日本側主張にしたがって交渉するよう指示したが、同時に外務省は各地の大公使館に暗号機械と暗号書の処分を指示した。12月4日、大本営政府連絡会議は「対米最後通牒」を審議した。条文は外務省亜米利加局長山本熊一が起草したが、内容はこれまでの日米交渉の経緯と米国側提案「ハル・ノート」を拒否するゆえんを述べた長文のもので、末尾には次のように結論された。「帝国政府は合衆国政府の態度に鑑み、今後交渉を継続するも妥協に達するを得ずと認めるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」 外交打ち切りを表明しているが、はっきり武力行動に出る旨は述べていない。海軍省軍務局で異見が述べられ、「帝国は必要と認める行動の自由を保留する」と書き加えたが、外相は必要ないと答えた。宣戦通告を明確にすべきことは、ヘーグ条約で確立された国際的遵守事項であるが、自衛戦争の場合は適用されないと理解されている。挑発された側は不要だといえる。1939年9月、ドイツのポーランド侵攻に際してフランスが、ポーランドに対する義務を遂行すると通告して対ドイツ戦争に立ち上がった。「(米国が)日本に先ず手出しせしむるように仕向けた。これを挑発と云わずして何と云おうか」だから、最後通牒文は外交打ち切りだけで必要かつ十分であり、相手側には宣戦通告だと明確に理解されるはずだ、と東郷外相は、強調した。案文は外相一任となり、最後通告は日本時間12月8日午前二時半、ワシントン時間12月7日午後零時半に、米政府に提出することになった。ハワイ空襲部隊の攻撃は、日本時間12月8日午前三時三十分と予定されていた。ヘーグ条約では、宣戦通告は戦闘行為の前に行うことと規定しているだけで、何時間前にとの指定はない。一時間前であれば十分に事前の意義は認められる筈である。

 すると翌日軍令部次長伊藤整一中将は参謀本部第一部長田中新一少将と共に外務省を訪ね、最後通告手交時間を三十分繰り下げて欲しいと要請した。のちに語ったところによると、大規模な艦隊行動は計画よりも20分遅れとなる、そうなれば敵に余裕を与えすぎるとの判断だった。東郷外相には攻撃時間は機密事項として教えて貰えなかった。
 海軍としても奇襲を希望していたが、機動部隊は、ハワイ時間12月5日午前11時にはハワイ北東600カイリ、午後3時には500カイリに到達、ハワイの哨戒圏内に入る。敵にいつでも発見される可能性がある。さらに大編隊の空襲部隊がハワイに接近すれば敵が気ずくであろうし、まして攻撃開始30分間前にハワイ上空に先着する偵察機は、間違いなく発見されるに違いない。軍令部も連合艦隊も機動部隊も、攻撃部隊は攻撃開始一時間乃至三十分前には敵に探知される、だから奇襲ではなく強襲による攻撃となるものと、予想した。
 いずれにしろ、最後通告の手交時刻も確定し、日本側はその時刻を持つだけとなった。南雲機動部隊は、相変わらず24ノットの速力でハワイに向けて航行を続け、山下奉文中将が指揮するマレー・シンガポール攻略を目指す輸送船団も、12月4日海南島を出発、東シナ海を進んでいた。

 ワシントン時間12月4日朝、野村大使は卓上に置かれた「ワシントン・ポスト」紙を取り上げ、眼を見張った。 『ルーズベルト大統領の戦争計画!』 と大見出しで報道する記事は、9月11日に大統領の指示によって米統合参謀本部が作成した「勝利計画」のすっぱ抜きであった。統合参謀本部は、ドイツ打倒のため米国の戦備が完成するには2年後であると予測し、英国及びソ連が敗北しても、また日本が敵に加わっても、米国は勝利の能力があるお指摘し、政府筋が重大な機密漏洩事件として調査に乗り出す旨の報道もなされていた。千万人の大軍は、人員だけでなく、一万五千機を超える飛行機、1800万トンの輸送船団をはじめ、膨大な装備が伴う。勝利計画はそれが用意出来ると明言していた。野村大使は、だから日米戦争は回避すべきだ、どんな妥協でも、戦争よりはましだ、という持論をつぶやきかけが、暗然とした気持ちであった。すると海軍武官実松譲少佐は、「武官、風が吹きました。東に風雨、東の風雨・・・」、間違いなく、日米関係断絶を告げる隠語放送であった。

 日米両国政府は、もはや純軍事関係に移行したことを認識しながら、政治の微妙な活用を心がけていた。米国務省は、米海軍の無線通信で、日本、香港、仏印、タイ、重慶などの大公使館に暗号破棄準備を指示した。12月6日午前十時、大本営政府連絡会議が開かれた。議題は「対独交渉に関する件」「対米最後通牒に関する件」「対泰交渉開始時期指示の件」「開戦に伴う支那の取扱に関する件」「宣戦の詔勅」など、開戦に必要な最終的手続きのすべてを一括していた。そして、開戦日・12月8日の政府の行事スケジュールも決めた。
 東郷外相は午後八時半、対米通告文の発信を命じた。1、政府は11月26日の米側提案に付き、慎重廟議を尽くした結果、対米覚書(英文)を決定した。2、覚書は長文で全部傍受されるのは明日になるやも知れず、刻下の情勢は極めて機微であり、受領したものは極秘として扱う。3、覚書を米側に提示する時期については追って別に電報する。別電到着の上は、訓令次第何時でも米側に手交できるよう、文書の整理等、予め万端の手配を済ませておくように。本件覚書についてはタイピスト等は使用せざるように機密保持に万端を期すように。そして、対米通告文は14部に分けられ、うち13部はワシントン時間6日午前11時50分に発信し終わった。外務省電信課長亀山一二は、13部まではワシントン時間6日午後9時30分までに大使館で処理される筈だ、と予測した。
 ところがワシントンはこの予測に応えなかった。夕刻になって半分ほど翻訳作業が終わると、井口参事官をはじめ書記官たちは、予定通り寺崎一等書記官らの送別パーティを開くこととして出かけた。土曜日の夜でもあるし、全文の到着は明日になりそうだ。タイピスト以外の館員がタイプするのだから時間がかかる。たぶん東京は日曜日一杯に準備をして、月曜日に提出するスケジュールを組んでいるのであろう・・・。

 米国側はこの電文を傍受し、マジック情報が陸海軍首脳者に、つづいて午前三時過ぎ、ハル国務長官にとどけられた。ハル長官は日本の武力行動開始に関する決定的情報を入手した。午前10時45分、ワイナント駐英大使は、英海軍省からの連絡として、30隻及び10隻の輸送船を基幹とする日本船団二群が、巡洋艦、駆逐艦に護衛されてインドシナ半島南端を西進している情報が入った。次いで午後零時56分、アジア艦隊司令長官ハート大将が、同様の情報を支那方面英国艦隊司令官から入手した。スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官と電話相談したあとに、マジック情報を受けたハル長官はルーズベルト大統領に連絡し、大統領は今後の行動予定を指示した。①日本天皇に親電を送る。②天皇の返電がなければ、対日警告を発する。この警告とは、日本がタイ国をはじめ南進を続ければ適当な手段をとるという内容だった。この予定表がマレー半島、タイ国到着を7日ないし8日と見込み、ルーズベルト大統領が日本の攻撃を12月8日前後、とくに8日ごろと推定したことを、告げている。ルーズベルトは午後6時ハル長官に天皇宛親電をすぐ送るよう指示したが、ハルは特に急ぐこともなくホーンベック顧問に打電を依頼して午後7時過ぎ退庁した。

 日本側の対米通告文13部は解読され、マジック解読文が関係者に配布され始めた。陸軍側は責任者が退庁し主席課員は居残っていたが関係者への配布はしなかった。海軍側はノックス海軍長官の自宅にとどけられた。ノックス長官は解読文を読むと、ハル長官、スチムソン長官に連絡して7日午前10時にハル長官室で会議を開くことを打ち合わせた。さらにその解読文はホワイトハウスのルーズベルトにも届けられた。同席していた顧問ハリー・ホプキンスは読み終えると、これは戦争だな(ジス・ミーンズ・ウォー)、同感だ(イエス、アイ・ビリーブ・ソウ)。ホプキンスは日本が自分の都合の良い時に仕掛けてくるのが分かっているのに、「その奇襲を防止するために米国側が先制攻撃が出来ないのか、と不満を漏らすと、「ハリー、我々にはそれは出来ない。我々は民主主義国家であり、平和的な国民であり、立派な歴史を持っている」

 午後11時過ぎ。日本大使館では、ようやく対米覚書13部に翻訳が終わった。亀山課長が予測した午後9時30分訳了は、むしろ米国側解読時間に等しい結果になったが、つづいてタイプ浄書にかかれば、翌朝までには十分に出来上がる。だが、肝心の書記官たちの姿はなく、井口参事官に連絡すると、明朝でいいから片付けて来たくせよ、という。電信官たちは、指示にしたがって、あるいは宿直室に引き揚げ、あるいは夜の街を自宅に急いだ。
 その頃、マイルズ准将とスターク大将も自宅に帰っていた。マジック解読文を読んだブラットン大佐がマーシャル参謀総長に届けようかと訊ねると、マイルズ准将は、明朝全部そろっ手からにしようと答えた。スターク大将も、帰宅してホワイト・ハウスから電話があったことを知ると、直通電話で連絡したが、「日本との情勢はだいたい決定的な段階だ」とクリック大佐に話し、辞去するクリック大佐夫妻を見送り、夫人と共に寝室に向かった。のちにルーズリーフとホプキンス顧問の会話を聞いた時の印象をシュルツ海軍中尉は「我々は戦争になることを待たねばならない」と語っている。まさに12月6日のワシントンは、日米双方の関係者共に「戦争になることを待つ」形で時を過ごした。だが、その夜はすでに開戦前夜であり、日本大使館で暗号翻訳を終え、またスターク大将が帰宅した午後11時過ぎ、南雲機動部隊の攻撃隊発信のわずか12時間前でしかなかった。

御前会議とアメリカの深慮

2017年12月18日 | 歴史を尋ねる
 11月30日、東郷外相はワシントンとベルリンに電報した。野村大使にはハル・ノートに対する抗議を米国政府に申入れよ、と指示し、ベルリンの大島大使には日米交渉決裂必至をドイツ首脳に伝えることを指示した。この頃、海軍中佐高松宮宣仁親王が宮中に参内して、天皇と面談し、内容は不明だが、海軍部内にはなお開戦に危惧の念を持つ者があるようだとの旨を天皇に述べたようだ、と児島襄氏。これは当然で、日本がやろうとしていることは海軍が先頭に立たなければ出来ないアメリカとの戦争なので、海軍の戦闘力が一番問われるものであったが、これまで見て来たプロセスの中で海軍の意思・意見が実に不明確である。

 すでに大本営政府連絡会議は開戦決定を議決し、翌12月1日の御前会議で形式上の決議を行うことになっていた。しかし、日米戦争に主役を演ずる海軍が反対しているとあっては、開戦決定は再検討されねばならない。天皇は木戸内大臣を呼んで相談、木戸は意外な事情に眼を見張りながら奉答、「今度の御決意は、一度聖断遊ばされれば後に引けぬ重大なものであります故、少しでも御不安があれば充分念には念を入れて御納得の行く様に遊ばされねばいけないと存じます」 木戸内大臣は、東条首相の意見を求められるよう、また直ちに嶋田海相、永野軍令部総長を召致して海軍の「真の腹」を確かめられますように、と天皇に進言した。参内した東条首相は、天皇の下問に驚いた様子で、「少しも聞き及びしこともなく、海軍に御下問然るべし」と奉答。午後6時、嶋田海相、永野軍令部総長が参内してきた。天皇はまず永野総長に下問し、総長が奉答した。「いよいよ時機切迫し、矢は弓を離れんとす。一旦矢が離れれば長期の戦争となるが、予定通りやるのか」「大命降下があれば予定の通り進撃致すべく、何れ明日委細奏上仕るべきも、航空艦隊は明日はハワイの西4800カイリに達します」 天皇は嶋田海相に質問した。「大臣としても総ての準備は宜しいか」「人も物も共に充分の準備を整え、大命降下をお待ちいたしております」「独国が欧州で戦争を止めた時はどうか」「独国は元来真から頼りになる国とは思わず、たとえ同国が手を引いても、我は差し支えなき積もりに御座います」 天皇との問答はそれまでであったが、永野総長と嶋田海相は天皇の不安を一掃するように、連合艦隊の士気は旺盛であり、訓練も積まれ、山本連合艦隊司令長官も満足していることなどを言上し、最後に嶋田海相が、「この戦争は石にかじりついても勝たざるべからずと、一同固く覚悟を持している」 永野総長は古巌のような風格、嶋田海相は端正な体躯で、それぞれの声音は重厚、荘重、説得力に富むと児島氏は形容する。まして、国運を賭ける決定に対する覚悟を定めているので、奉答の片言にも気魄がこもっていた。天皇はうなずき、二人が退出すると、何れも相当の確信をもって奉答せる故、予定通り進めるよう、首相に伝えることを、木戸に伝えた。ふーむ、永野軍令部総長のやり取りはおかしい。大命降下があれば、と前提条件を付け、現況を報告したのみで、天皇の懸念に答えていない。この段階で聞かれてもともいえるが、懸念に答えるだけの材料を持ち合わせていなかった、ということだろう。

 翌12月1日、午後宮中で御前会議が開かれた。議題は「対米英蘭開戦の件」。会議は東条首相が議事進行を担当し、東郷外相、永野軍令部総長、東条兼摂内相、賀屋蔵相、井野農相が必要な事項を説明したあと、枢密院議長原嘉道が質問を行った。原議長は特に「只今からどうして戦争の結末をつけるということを考えておく必要があります」と指摘したが、会議自体はなんの支障もなく終わった。「本日の会議に於て、お上は説明に対し一々頷かれ、何等御不安のご様子拝せず。御気色麗しきやに拝し恐懼感激の至りなり」と杉山参謀総長は会議後、そう覚書に記述しているが、天皇が入御したあと、参会者一同は責任を明らかにするために次の決定に署名、花押した。 『11月5日決定の『帝国国策遂行要領』に基づく対米交渉は遂に成立するに至らず。 帝国は米英蘭に対し開戦す』

 ワシントンでは東条首相の演説が大問題になっていた。実際には、11月30日に興亜同盟主催も日華基本条約締結一周年祝賀会で演説する予定だったが、出席できずに演説しなかった。ところが、事務局が29日、首相の演説があるものと思って演説内容を記者団に発表してしまい、それがワシントンでも報道された。その中に「(米英のアジア民族搾取は)人類の名誉のために人類の矜持のために断じてこれを徹底的に排撃せねばならぬのであります」、この英訳が『人類の名誉と矜持にために、われわれは東アジアからこの種の実績を完全に一掃せねばならぬ」となってしまい、ルーズベルト大統領も休暇を切り上げてワシントンに帰ることになった。「ハル・ノート」に対する日本政府の返事であり、まさに戦争決意の表明だと理解されたからであった。このような環境になかで二人の大使はハル長官に抗議をする事態となり、これまで通りの双方の主張の繰り返しに終わり、記者たちの視線の矢を浴びながら、国務省を退出した。このあと届けられたマジック情報を読むと、ハルはホワイトハウスにルーズベルト大統領を訪ね、三日前の閣議で決まった天皇に対する親電工作と議会教書提出を延期するよう進言した。東郷外相が大島駐独大使に打電した電文は「英米両国との戦争状態の発生は極めて大、その時期は意外に早く来るやも知れず・・・」  ハル長官は、この電報は日本側が戦争を仕掛けようとしている事実を明示している、ゆえに天皇宛の親電や議会教書は待った方が良い、と述べた。「いつまで待つのかね」「日本の攻撃がほとんど開始される時までです」 米国は日本との戦争を覚悟している。あとはただ開戦名分を確保するだけだが、それには相手が引き金を絞り出した瞬間」に和平意思を表示するべきだ、と。そうすれば、最後まで平和に努力した名分が立ち、同時に相手が本当に戦争だけを望んでいることを立証できる。ルーズベルト大統領は、軽く頭をかしげて考慮する様子があったが、ハル長官の意見に同意した。

 ヒトカップ湾を出撃して以来、南雲忠一中将が指揮する機動部隊は、順調に北太平洋を東進していた。幸運にも海上は予想外に穏やかで、まさに天祐だと喜んだが、その夜12月2日開戦日を指令する「ニイタカヤマノボレ1208」電が受信された。「開戦と来るか、引き返せと命ぜられるか、一抹の不安はぬぐい切れなかったが、いまやこの電報により作戦一本に没頭できることになった、晴天に白日を望むような気持になった」とは、機動部隊参謀長草鹿龍之介少将の回想であった。
 その頃、米海軍作戦部長H・スターク大将はルーズベルト大統領の指示で、極秘電をマニラのアジア艦隊司令長官T・ハート大将に送った。小型船三隻をチャーターし、最小限の米海軍兵員と武器を載せて米海軍籍に編入したうえ、一隻は海南島と南部仏印のユエの間に、他の一隻はカムラン湾とセント・ジャックス岬との間に、最後の一隻はインドシナ半島南端・カマウ岬沖に配置せよ、と。つづいて野村、来栖両大使を迎えたウェルズ国務次官は、南部仏印に増強されている日本軍は、フィリピン、蘭印、マレー、タイに進出する意図を持つのではないか、と日本政府宛の質問書を手交した。日本がそれら地域に進出すれば米国は相手方を援助することを示唆していた。このウェルズ国務次官の覚書とルーズベルト大統領のアジア艦隊あて指示と組み合わせると、米国の方針も明確である、と児島氏。米国史を振り返ると、独立戦争、米西戦争、第一次大戦という米国の戦いは、すべて船舶の沈没を開戦または参戦の口実にしている。船を沈められれば、米国は戦う、と。日本の開戦行動に合わせる形で、米国側も具体的には戦争への道を歩み始めた。

ハル・ノートと開戦前夜

2017年12月15日 | 歴史を尋ねる
 二人の大使が一読して顔色を変えたハル・ノートの内容はどういうものだったか。そこではまずハルの「四原則」を再確認したのち、日米両国が採るべき十項目の提案を列記していた。そして、そのうち次のような条項が含まれていた。A、日米両国政府は英、蘭、ソ、タイと共に多変的不可侵条約の締結に努む。 B、日本政府は支那及び仏印より一切の軍隊を撤収すべし。 C、両国政府は重慶政府を除く如何なる政権をも軍事的、政治的、経済的に支持せず。 D、両国政府は支那に於ける治外法権を放棄し、他国にも同様の措置を慫慂すべし。 E、両国政府は第三国と締結している如何なる協定も本協定の根本目的、即ち太平洋全地域の平和確保に矛盾するが如く解釈せられざることに付き同意す、と。
 Aは日本がこれら各国の包囲下に置かれることを意味し、BCDを併せれば、日本は満州国を含む支那大陸全域から完全に引揚げることになり、Eは日独伊三国同盟の実的廃棄を求めている。明らかに「乙」案などまったく無視し、アメリカ側が提示した「6月21日」案にもない苛酷な要求を盛り込んでいる、と児島襄氏は解説する。日米が戦争をした訳でもないのに、敗戦国のような法外の要求を突きつけたということか。内容的にも、先の財務省特別補佐官H・D・ホワイトの『解決案』に酷似し、その時の考え方がベースになっているのだろう。

 日本時間11月27日午後、大本営政府連絡会議が開かれ、出席者は一様に憮然とした表情を並べた、という。~これでは「九か国条約」時代に逆戻り、~最後通牒とみなすべきでないか、~米国側はすでに対日戦の決意をしたから、この覚書を出したとしか思えない、~いったい、今までなんのために交渉してきたのか、この結論を引き出すためだったら、まったくの時間をムダであった。意見は失望と憤りに彩られた声音が飛び交い、次の結論に到着した。「日米交渉は失敗した。いつ米国から攻撃をうけるかも測られぬ」 会議の雰囲気は気落ちした暗さに支配され、開戦手続きが議決された。1、連絡会議に於て戦争開始の国家意思を決定すべき御前会議議題案を決定す。2、連絡会議に於て決定したる御前会議議題案を更に閣議決定す。3、御前会議に於て戦争開始の国家意思を決定す。
 「ハル・ノート」全文は27日夜に到着したが、内容を読めば読むほど東郷外相は落胆し、その夜は陸海相とも連絡せずに就寝した。東郷外相が寝ている時間、ワシントンでは野村、来栖両大使がハル同席のもと、ルーズベルト大統領と会談した。両大使はハル・ノートの苛酷なことを訴え再考を求めたのに対し、大統領は、日本が一方で武力進出を心がけ、また三国同盟を掲げながら平和と物資の供給を望むのは信頼感を失わせる言動だ、と首をふるだけであった。大使は、大統領が日支和平の紹介者になるといったではないか、ステーツマンシップの発揮を希望する、と述べたが、「明金曜日静養に赴き、来週水曜日帰るので、その間もし何らかの局面打開に資する事態が発生すれば結構である」と。

 その数時間後、スチムソン陸軍長官の部屋で行われた陸海軍首脳会議は二つの問題を討議した。①日本からの攻撃の脅威に如何に対処すべきか。②極東派遣陸海軍指揮官に如何なる警告を発するべきか。会議は、できればフィリピン防衛強化事業が終わる翌年3月まで対日戦を回避したい、警告は明白で最終的なものにすべきだと結論した。しかしルーズベルトは第一テーマの結論は拒否した。第二のテーマはオーケーだと回答した。27日夜、マーシャル参謀総長はフィリピン、ハワイ、カリビア海、サンフランシスコ方面の陸軍指揮官に警報を打電した。「対日交渉は、残すところ日本政府が回答し交渉継続を申出ることだが、これは極めてかすかな可能性があるに過ぎない。日本の将来の行動は予測し難いが、敵対行動がいつでも予測できる。もし敵対行動を避けることが出来なければ、米国は日本が最初の明白な行動に出ることを希望している・・・」 続いてスターク海軍作戦部長から、ハワイの太平洋艦隊司令部とフィッシュ・キャンペーンのアジア艦隊司令部に警報が打電された。「日米交渉はすでに終り、日本の侵略的行動がここ数日以内に予期される。・・・日本軍はフィリピン・タイ・クラ海峡・ボルネオに対して、陸海共同の遠征作戦を行う意図を持っているように考えられる・・・」 この二つの警告を見比べると、陸軍は「第一発を日本側に撃たせろ」という政治的配慮に重点を置き、海軍は日本側の進出目標を東南アジアだと判断し、より軍事的配慮に重点がある相違がみられる。しかしいずれも、日米交渉を終結させた旨を明言し、日本側の行動開始に備えて、所要の部隊に待機を命じている。そして陸海軍とも、警告電の中で「必要と思われる偵察及びその他の措置」、あるいは「適切な防衛のための展開」を指示していた。ノックス海軍長官に言わせれば、銃の安全装置を外して相手に銃口を向けて待つ態勢をとれ、という指令であり、発砲一歩前の命令でもあった。
 その翌日、11月28日午後、政府首脳会議(ルーズベルト、ハル、スチムソン、ノックス)を開いた。ルーズベルトは陸海軍の戦争警告指令についての報告を聞いたあと、開戦手続きを議題に選んだ。日本の交渉期限迄あと二十時間だが、われわれはどうするか、①何もしない、②もう一度最後通牒的警告を行う、③直ちに開戦する、という三案を提示した。スチムソン長官第三案を主張したが、結局は第二案に落ち着いた。そしてルーズベルト大統領は天皇に対する警告電を発することを発案した。また、議会対策として、危機の切迫と米国の対策を述べた大統領特別教書を議会に送ることも、決められた。

 ワシントンでその会議が終わった頃、東京では宮中で政府と重臣の懇談会が開かれた。最後の決断を下す前に重臣たちの意見も聞きたい、という天皇の発案によって開かれたものであった。若槻礼次郎、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、林銑十郎、阿部信行、岡田啓介、米内山たちの八人の重臣は、東条首相兼陸相、嶋田海相、東郷外相、賀屋蔵相、鈴木企画院総裁から事情説明を聞いた。八人の重臣のうち、若槻、平沼、近衛、岡田、米内の五重臣はなお隠忍して戦争を回避すべき、と述べ、広田、林、阿部の三重臣は積極的行動を主張し、とくに岡田、阿部両重臣がそれぞれの立場の主唱者であった。
 懇談会のあと重臣たちは天皇の陪食を済ませ、さらに天皇と会談した。若槻、岡田、平沼、近衛の四重臣は、長期戦に対する物資能力について不安を表明し、若槻はとくに、単に大東亜共栄圏の確立などという理想に捉われての戦争は危険だ、と述べた。米内重臣は「ジリ貧を避けんとしてドカ貧になるべきではない」といい、また広田重臣は、開戦後といえども外交交渉による解決の方途を求めるべきだ、と指摘した。林、阿部両重臣は、すでに政府と軍部との充分な協議があったと思うので、結論に信頼すると述べた。これらの重臣の意見に対して、東条首相は細かに説明と反駁を行い、天皇は無言のままで聞いていた。この会合が終わると、大本営政府連絡が開かれ、戦争決意に関する御前会議の運営、ドイツ・イタリアに対する外交措置、具体的な開戦手続き、日米交渉の打ち切り方などが議論された。

 ワシントンと東京の様子を比較すると、アメリカはすっかり臨戦態勢に入っているが、日本はまだ逡巡する様子が窺がわれ、東条首相を筆頭とする政府と軍部がなんとか意思統一を図ろうとする状態だ。戦況の先行きを占うような両国当事者の行動様式である。 

 

日米交渉決裂の裏(チャーチルの役割)

2017年12月02日 | 歴史を尋ねる
 野村大使は来栖大使と共に11月20日、ハル長官を訪ね「乙」案を提示した。この乙案に対するハル長官の反応は、長官の渋面と冷たい論評だった。乙案の内容をすでにマジック情報で承知し、外交戦術上の対策まで考究中のハル長官としては、あまり強い反応を見せないように発言を制限したと、後日回想している。「蒋介石政権に対する援助打ち切りは困難だ」「とにかく日本の政策が明確に平和政策になることを切望する」などと、事態の発展には無意味な感想を述べて、二人の大使を送り出した。
 二人の大使が大使館に戻った時、のちに米国議会が真珠湾攻撃の調査のために設けた「上下両院調査委員会」が『ウインド・メッセージ」と呼んだ秘電が届いていた。電文は、外交関係が断絶して国際通信が途絶えるような非常事態の際は、暗号を持たせた天気予報を日本から短波放送で挿入して知らせる、というものであった。交渉期限が25日までとあるが、交渉とは無関係にぐんがうごいていると、来栖大使は予感した。その予感は的中し、陸軍の場合、南方攻略部隊を指揮する軍司令官五人が11月6日親補され、マレー・シンガポール攻略を担当する山下奉文中将は、15日サイゴンに到着した。必要資材は台湾、インドシナ各地に続々と集積され、開戦と同時にインドシナからタイを経てマレーに兵員、物資を運ぶが進められた。海軍もハワイに向かう攻撃部隊は、主力である空母六隻を基幹とする機動部隊のほかに、小型特殊潜航艇を運ぶ潜水部隊に分かれるが、18日までにそれぞれの基地、母港を離れて待機地点に向かった。

 風電報をマジック情報解読で承知したハル長官は21日朝、国務省幹部と陸海軍首脳者を招集して対策を協議した。①回答を出さずこのままにして置く、②日本側の提案を拒絶する、③反対提案を行う、この三方針のどれを選ぶか、ハルは提議した。一同はあっさりと第三案に同意した、一案、二案は米国側の誠意について疑わせ、日本側の開戦口実に利用される恐れがある、陸海軍の要求は、ヨーロッパ参戦を有利に行い対日戦略の強化で日本を圧伏させるために、できれば六か月、少なくとも三か月の準備期間が必要だという。ハル長官は、「三か月暫定協定案」に「全面協定案」をつけることとして国務省案を作成する、と述べた。
 その夜来栖大使がハル長官のホテルを訪ねた。さらに翌22日、土曜の夜だったが野村・来栖両大使がハル長官のホテルを訪ねた。東郷外相は、乙案を全部受諾させるよう説得せよ、乙案は「真に忍び難きを忍んで敢えてした提案であり、右以上の譲歩は絶対不可である」と、二人の大使を励ました。ハル長官がマジックを利用しての演技外交を展開すれば、東郷外相はまっしぐらにイエスかノーかを迫っている。とにかく譲歩しても交渉を纏めたいと念願する野村大使にとっては、米国側のマジック情報も知らないだけに、ハル長官の頑固さもさることながら、東京の督促は得策でないとしか思えなかった。野村大使と来栖大使がハル長官と会談を終えたのは22日午後11時で、日本時間は23日午後一時であったが、機動部隊は全兵力がヒトカップ湾に集結を終わった。

 11月25日米国政府の主要閣僚のうち、国務、陸軍、海軍長官三人による恒例の三相会議が開かれ、ハル国務長官は、日米交渉の「三か月」延期を期待する暫定協定案と全面的解決案の二つを提示し、同日か明日に日本大使に手交するつもりだと述べた。スチムソン陸軍長官はチャーチルや蒋介石が承知すうだろうかと質問したが、暫定協定案はすでに英、蘭、支那各国に内示して、やがて返事が届くはずだと答えるとうなずき、散会となった。続いて正午からホワイトハウスで、ルーズベルト大統領、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長の六人で、議題は対日問題に絞られた。ルーズベルトは、日米関係の切迫を指摘して、「日本人は警告せずに奇襲を行う伝統を持っているから、あるいは次の日曜日に攻撃を受ける可能性もあると思う」 日本はかつて日露戦争の開始日を日曜の旅順港攻撃で開始した実績がある。そこで議論の中心テーマは、「われわれがあまり大きな危険にさらされずに日本側に最初の第一発を撃たせよう、どうやって彼らをその立場に追い込むか」であった。議会民主主義の国・米国としては、開戦という重大決定は米国民の支持がなければおこなえず、国民の支持は、「日本人が最初に攻撃したのであり、侵略者が誰か、について疑念の余地がない」場合のみ、完全な形で入手できる。どうすれば第一発をうたせられるか。ハルはやはり暫定協定案が最も有効だと述べた。ヨーロッパ戦線では、ソ連軍はロストフを奪回して対独反撃に移り、明らかにドイツの対ソ攻勢は頓挫している。東南アジアでも、フィリピン防衛は12月中に飛躍的に強化され、一方、日本海軍は8月以来、一滴の石油燃料も入手していない。戦争せずに日本を経済封鎖で屈服させられれば、これに越したことはない。仮に暫定協定で日本が幾分の物資輸入で一息ついたところで、それも三か月間のことである。その間に米国の戦備は充実するのだから、日本はあきらめるか、あるいは戦争に訴えても米国は容易に処理できる、10月末に開かれた大本営政府連絡会で田中新一少将が心配した筋書きと同じである。結局、英国、オランダ、支那の反応を見てから決めることにして会議はおわった。時刻は11月25日午後一時半、日本時間では26日午前三時半であった。その二時間半後、南千島ヒトカップ湾に集結した南雲機動部隊は、旗艦・空母「赤城」のマストにかけあがった信号機を合図に出撃を開始した。

 南雲機動部隊がハワイに向かって北太平洋を進む出したころ、ハル国務長官は、暫定協定案に対する英国、オランダ、支那の返事を受け取った。英国、オランダは条件付きで暫定協定案を賛成した。しかし、蒋介石・支那政府は強硬に反対した。蒋介石は日本に石油を一滴売ることは支那人民の血を一ガロン流させることになる、と胡適駐米大使を通じて長官に抗議し、また宋子文は同じく蒋介石総統の言葉を陸海軍長官に伝えた。「米国が対日経済封鎖と資産凍結を解除するならば、支那民衆は、支那は米国の犠牲にされたと考え、支那民衆の士気は崩壊し、支那軍全将兵の士気も崩壊するであろう」と。予想外に激しい蒋介石政府の反対はハル長官を当惑させ、相談を受けたホーンベック顧問の暫定協定案の放棄を提案した。ハル長官は考え込んだままであったが、翌26日早朝、駐英大使ワイナントから電報を受け取り、その電報は暫定協定案についてのチャーチル首相の大統領あての回答であったが、その内容は「彼はひどく貧弱な料理しか与えらられないのではないか? もし彼らが崩壊すれば、われわれの共同の危険は極めて大きくなるだろ」というものであった。 この電報を読み終わったハルは、ルーズベルト大統領に電話し、長官の用意したメモを読み上げ、日本には暫定協定案を提示せず、「包括的基礎協定案」を手渡すことにしたい、と提言した。敵をなだめるよりも、味方を失わないことの方が大切です、と。ルーズベルト大統領はハル長官の言葉が終わると、即座に、オーケー、同意する、と答えた。そして約一時間後に日本大使館に連絡して、両大使を招待、二人の大使を迎えると、遺憾ながら乙案は受諾できない、そこで米国側の6月21日案と日本側の9月25日案を照合して調整した一案を用意したと述べた。
 二人の大使は「ハル・ノート」を一読して顔色を変えた。内容はこれまでハル長官が繰り返していた「四原則」をまず確認したのち、日米両国が採るべき十項目の提案を列記していたが、明らかに乙案などはまったく無視し、また6月21日案にもない苛酷な要求を盛り込んでいる。来栖大使は憤然とした口調で質問したが、交渉打ち切りを覚悟しているハル長官は、泰然として無言でこたえるだけであった。

 ここまでは児島襄氏の著書によるが、菅原出氏の分析は最後の意思決定の部分が別の解釈となっている。チャーチルの出番ということである。菅原氏はこう記述する。
 日本と暫定協定を結び、フィリピン増援のために必要な三か月の時間稼ぎをするという決定が下されたわずか数時間後に、この決定は突如破棄された。この25日から26日にかけて何が起きたのか。25日の決定後に、胡適中国大使がハルに抗議し、国務省に蒋介石の支持者から大量のヒステリックな電報が送りつけられたことが知られているが、この事実をもってアメリカの外交政策が一夜にして変えてしまった理由とするには、余りに説得力に欠ける。実際ハルは中国の抗議に批判的で胡適大使を呼んで厳しく警告していたし、それまで中国に同情的だったルーズベルトでさえ、抗議を受け入れる様子はない、という記録が残っている。ハルはこの暫定協定案破棄の決定を下したのは自分だとのちに証言しているが、その後明らかになった資料から、この証言の信憑性は揺らいでいる、と。例えばルーズベルトの側近だったホプキンスの書きものや対日強硬派のホーンベック顧問とのやり取りのメモなどから、協定案破棄の決定者はルーズベルトだったことを強く示唆している。大統領や主要閣僚が正式に承認した政策を国務長官一人で破棄することは不自然と菅原氏。これに関して戦時中に行われたアメリカ陸軍真珠湾調査委員会は、「26日に、日本が英米に対して戦争をはじめる意図を持っているという具体的な証拠がホワイトハウスに入っている」という結論を出している。25日の深夜から26日の朝にかけて、日本の戦争意図を示す証拠がルーズベルトの下に届けられたというのだ。25日夜にチャーチルからルーズベルトに蒋介石のことを懸念する先の腹すかし電報が入っているが、それが破棄原因とは考えられない。実はもっと緊急の電報がチャーチルからルーズベルトに送られたことがイギリスのハリファックス駐米大使の日誌に記されている、と。26日の朝、ルーズベルトの長男、陸軍大佐が大統領からチャーチル宛ての電報をニューヨークの「イントレビット」の下へ携行され、「交渉は打ち切った。陸海軍は二週間以内に戦闘を予期している」と送られているが、内容から前日のチャーチルから送られた電報に対する回答であった可能性が強いと菅原氏。情報源はイギリス情報機関だと考えられるが、マレー半島攻撃を通告なしで12月1日に行われるであろうとする情報がワシントンに届いている。さらに極秘扱いされている箱が六箱中三箱も残されているという。ルーズベルトは日本の戦争意図情報をチャーチルから受取り、日本の交渉は軍事攻撃をカムフラージュするために行っていると判断し、後日批判されないよう、暫定協定案の破棄決定を下したのではないか、こう推定している。

 1942年2月15日、いまだ真珠湾の衝撃が冷めやらぬ中、チャーチル首相は全世界に向けてラジオ演説を行った。この中でチャーチルはアメリカの参戦を歓迎して、「アメリカンの参戦を夢にまで見、そしを目的とし、そしてそのために活動してきた」と喜びのあまりつい口を滑らせ、すぐさまハリファックス駐米大使から「アメリカ人の耳には聞こえが悪い」と警告を受けた。この言葉が物語るように、チャーチルはアメリカを戦争に引きずり込むために懸命に働きかけ、そして最後にその目的を達した、というのである。ふーむ、当時の日本は、蒋介石やルーズベルトだけでなく、スターリンやチャーチルなど世界史に燦然と残る人物を相手に戦いを挑んだこととなった。