伊藤博文と内閣制度の創設

2013年01月29日 | 歴史を尋ねる

 明治22年(1889)2月11日大日本帝国憲法が発布された。午前中まで雪が降った東京では、憲法発布の大典が行われ、街は世紀の祭典を祝う人々であふれたそうだ。盛り場はどこでも品物が飛ぶように売れ、ご祝儀相場となった株価は、天井知らずに上昇したようだ。明治23年(1890)11月25日第一会議の招集に合わせて、明治憲法は施行された。その憲法であるが、行政について独立の章はなく、「国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任ず」とあるだけで、内閣についての規定はない。そして明治18年(1885)12月伊藤博文が初代内閣総理大臣になっている。現代の議院内閣制ではないからおかしくないが、なぜ明治18年なのか、疑問が残る所でもあり、その経過について追ってみたい。

 明治6年の征韓論騒動に依る政変騒ぎで、板垣退助は立憲政体を目指したが、伊藤博文は政府側にいて、立憲政体を目指すことになった。政変後参議一同は政体取調の担当者として伊藤博文と寺島宗則を選任した。これは立憲制度導入のための調査であった。その後の伊藤の軌跡を坂本一登氏の著書でサントリー学芸賞受賞作である「伊藤博文と明治国家形成」によって、追って行きたい。従来の研究の空白を埋めるものでもあると著者はいっている。まず、概略の経過を記して置きたい。

 明治10年~12年:天皇の政治的活性化を求めて、元田永孚(ながざね)ら天皇の侍補(じほ=補佐、指導)グループに依る君徳輔導の強化と天皇親政実現への動きと伊藤博文ら参議に依る天皇と内閣との結びつきを強化して政府権威を増強しようとする動きの二つがあった。大久保利通の突然の暗殺で参議間の競合が顕在化、侍補らによる天皇親政運動を誘発した。これに対し伊藤等は、天皇が独自の政治意思を持つこと、侍補グループが政策決定に影響を及ぼすことを警戒し、岩倉具視ら大臣達と協力して侍補を廃止に追い込む。
 明治13年:閣内を二分して争われた外債論・米納論で、最終的には天皇の勅諭という形で決定が下され、宮中の政治的比重の増大があった。
 明治14年:大隈重信追放を梃子に伊藤を中心とした内閣は求心力を回復し、23年を期した国会開設の表明を独自に決定した。ここで伊藤は立憲政体創設の主導権を確実にするため、憲法調査を決意する。滞欧中はあえてドイツ主義者的側面を強調して、憲法調査の意義とその成功を日本国内に浸透させる、帰国までに憲法の権威者としての威信を獲得。
 明治16年:帰国した伊藤は、立憲政体創設に備えた統治機構改革を政治課題とした。その前に、華族制度を創設し、宮中財政の確立を推進。
 明治18年:天皇の立憲君主化と、天皇と内閣との中間勢力の排除を実現させるため、内閣制度の創設を考慮する。曲折の末、急遽内閣制度の創設が実現、内閣制度の創設を機に、政策立案の権限は内閣に限定され、天皇は内閣の輔弼を待ってのみ政策決定に参与することになった。伊藤は内閣総理大臣兼宮内大臣という地位を積極的に活用し、天皇と内閣との調停者として行動、天皇の信任を得て、天皇権力の制度化を促進する「機務六条」が制定された。
 明治20年:伊藤批判、欧化政策批判が噴出、条約改正問題も発生して、首相を交代、宮内大臣も辞任。この危機を乗り切って憲法制定に取り組む。井上毅との軋轢を克服しながら、憲法草案に内閣輔弼の原則を明示し、天皇の政治争点化を避けるとともに、内閣を中心とした長期的な国家運営が可能となる体制をめざした。
 明治21年:枢密院の設置、さらに民権派にも配慮して、議会の権限を決定した。そして憲法の眼目が君主権力の制限にあることを力説し、内閣輔弼の原則を明示して、天皇の「立憲君主化」が憲法上明文化されるよう指導していった。かくして、伊藤と天皇との協調関係の下に、憲法が制定されることになった、と坂本氏は結んでいる。


民権家の離合集散と初期議会

2013年01月26日 | 歴史を尋ねる

 民権運動の研究は多くの積み重ねがあり、長い間に有力だった説は、ブルジョア民主主義革命運動とするものであった。1980年代自由民権百年を記念して開かれた全国集会では、この革命運動説を追い越し、1991年のソ連邦崩壊は、この理論を過去のものにした。かくて民権運動研究は取り残されてしまったという稲田雅洋氏は、「自由民権運動の系譜」でこの運動を立憲政体の樹立・確立を求める運動の中で位置づけるとしている。この欄も自由党の解散・激化事件の厳しい判決で民権運動は終わったとするのではなく、それらの事件を経て何に辿り着いたかが、本当に知りたい所である。運動自体の鎮静がその後どう建て直していったのか見てみたい。

 明治20年(1887)10月から全国各地の代表が、当時の大きな問題である「外交失策の挽回(=条約改正反対)」「言論集会に自由」「地租軽減」を訴えるために建白書を携えて上京し、大臣たちに面会を求める三大事件建白運動が始まった。当時条約改正交渉を有利に進めるために、鹿鳴館で舞踏会を開いていることに批判的だった世論は、イギリス船籍の貨物船沈没事件でイギリス人の乗務員は全員脱出したのに、日本人とアジア人の船客は全員水死した事件で、イギリス人船長が無罪になった中で、条約改正の内容が漏れ、農商務相谷干城が意見書を提出して辞任した。この頃から条約改正反対運動が起った。日本ではじめてのデモが行われ、伊藤博文首相は、井上外相を罷免するとともに、条約改正交渉も中止した。世論の強い反対を受けて政府が政策を転換するのは、北海道開拓使官有物払下げを中止して以来、2度目の事態であった。こうした背景を受けての建白運動であった。11月には全国有志大懇親会が一道三府35県の341人が集まった。そこには、星亨、末広重恭、尾崎行雄、大石正巳などの活動家も加わった。この運動でいわゆる「壮士」と言われる者たちが存在感を示したようだ。さらに休止状態にあった地方の旧民権派の人たちは府県会・市会・町村会議員として地方政治にかかわりを持ち続けており、いざと言う時には彼らを応援する支持者もいた。このような地方の有力者に、活動の場が与えられたと、稲田氏は言っている。これに強い危機感を抱いた内相山県有朋、警視総監三島通庸は、運動を押さえ込むために保安条例を作りすぐに施行した。この条例で全国の活動家451人が危険人物とされ、皇居三里外退去を命じられた。結局運動は終息したが再び旧民権家が活動する機会を得た。

 国会は明治23年(1890)に開設されることになっていたが、旧民権派は自由党の解散と改進党の分裂以降、その準備をしていなかった。明治21年2月大隈重信が伊藤首相の工作に乗って外相に入閣すると、改進党系の者が大半がぬけて、運動はほぼ自由党系の運動となった。この時のリーダーは後藤象二郎であった。彼は地方の各地を回ったが、地方の動きは予想以上に躍動的であった。地方の活動家は新しい政社を作って活動していた。またしても後藤が黒田清隆内閣の逓信相として入閣したが、地方の組織は崩れなかった。明治22年2月、憲法発布に伴う大赦があり、福島事件、大阪事件などで入獄していた河野広中、大井憲太郎、新井章吾など多数の政治犯が出獄してきた。保安条例で首都を追放されていた者も、追放を解除された。しかし彼らが復帰したことで船頭が急に増え、運動は分裂した。結局、大同倶楽部、大同協和会、板垣グループの愛国公党の三派に分かれた。

 明治23年(1890)7月、第一回総選挙の投票が行われ、大同倶楽部55、改進党46、愛国公党35、保守派22、九州同志会派21、再興自由党17、自治党17、官吏18、中立派69、無所属2.しかしその後、各派は合同がはかられて、第一回の議会開催までには、立憲自由党130人、立憲改進党41人、大成会79人、国民自由党5人、無所属45人となった。大成会は政党ではなく、不偏不党・中立を標榜した院内会派であるが、自由・改進両党の「民党」からは「吏党」と言われた。また、当選者の出身は、府県会の議長・議員95人、農業38人、官吏・議官25人、郡長・市長・郡書記22人、代言者(弁護士)20人、実業関係者18人、新聞記者15人などであった。


政党の結成と解散

2013年01月25日 | 歴史を尋ねる

 日本の最初の政党である自由党は、国会開設の詔勅を受けて、明治14年(1881)10月に結成されたとされているが、結成の動きは前年の国会期成同盟第二回大会前後から起っていた。河野広中(福島)、植木枝盛(高知)、内藤魯一(愛知)、山際七司(新潟)、松田正久(佐賀)らが嚶鳴(おうめい)社の沼田守一や扶桑新誌の林正明などと共に、政党結成をめざして会合を続けた。その12月の会合で自由党結成の盟約4か条を決めた。第一条は「我党は我日本人民の自由を拡充し、権利を伸長し、及びこれを保全せんとするもの、相合して之を組織するものとする」 第四条は「我党は我日本国は立憲政体の宜しきを得るものなるを信ず」であった。翌年10月に結成された組織は、東京に中央本部を設け地方に32の地方部を置く、党役員として公選の総理一名、副総理一名、常議員若干名、幹事5名置き、単に立憲政体をめざすというだけではなく、恒常的に活動する全国組織として成立した。この自由党の結成後間もなく、立憲政党(大阪に本部)と九州改進党(長崎に本部)が作られた。その後明治15年4月、立憲改進党が結成された。改進党は民権派のうちで、自由党に参加しなかった民権派がまとまって作った政党で、4つのグループからなっている。第一は慶応義塾関係者のうち、特に「報知」に依る矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄らがメンバーである。第二は嚶鳴社や東横毎日系のグループ、第三は鷗渡会系で小野梓を中心に帝大出身者が多い。そして第四が前年の政変で辞任した大隈重信とその配下、河野敏鎌、前島密らである。この改進党の結成により、広い階層が政党にかかわりをもつ機会が生まれた。

 政党が出来たことは政府にとって脅威であった。自由党が結成されて間もない11月、警視庁は集会条例に違反するとして自由党本部という表札を撤去した。さらに政党攻撃の第二弾として集会条例を改正し、演説会の規制、政治結社に支社を置くことや結社間の連絡を取ることを禁止した。さらに搦め手として、自由党・改進党の対立を煽り、自由党総裁の板垣退助を洋行させた。板垣が洋行のことを党幹部に報告すると、常議員の三人が反対し、外遊費用の出所を追及した。それに激怒した板垣は2人を常議員から辞任させ、自由新聞社説係からも解任した。この騒ぎで有力な党員が去った。これに、改進党の機関紙的存在である報知や東横毎日が疑惑を書いた。今度は自由新聞が改進党と三菱の関係を書いて、改進党攻撃を始めた。明治16年2月以降、自由党は「偽党撲滅」を掲げた演説会を開くようになった。それまでの民権運動の発展を支えてきた二大車輪とも云うべき新聞と演説会が、それぞれの党の存続を賭けて展開するバトルと化した。6月に帰国した板垣は、この実態に驚いた。さらに松方デフレが進行して、民権運動を支えてきた豪農層が政治運動に関わる余裕がなくなったこととか、激化諸事件が引き起こされ、自由党全体の動きと看做されることを心配して、10月の定期党大会で解党を決議した。一方改進党も政府の厳しい規制と自由党からの攻撃で多大の打撃を受けこちらも解散に追い込まれた。政党が解散した後、激化諸事件の裁判が行われ、民権運動関係者で凶悪犯罪人として入獄したものは合計で47人に達した。

 


明治デモクラシーの決定的瞬間

2013年01月20日 | 歴史を尋ねる

 岡崎氏の啓示によって大正デモクラシーの系譜を追っていたが、自由民権運動の渦中に足を踏み入れて少々間延びしたので、整理しながら進めたい。坂野潤治氏の「明治デモクラシー」を参考にしたい。氏は「『主権在民』の思想は1945年の敗戦によって生まれたものではない。明治13年(1880)には、この思想は国民的運動の一角を支配していた。政権交代を伴った議院内閣制の主張も、明治12年には明確な形で定式化され、昭和7年まで民主主義論の有力な一角として存在し続けた。民主主義の発達とは連続的、累積的なものである」と巻頭言で語っている。信条的には正反対の両氏が同様の考え方を言っている。更に「体制側の歴史をつなげていけば、日本近代史は『上からの改革』ずくめの歴史になる。この史観は事実に反している。そして我々に欠けているのは下からの自前の民主主義の伝統だと思い込んでしまっている」 そこを解き明かすのが本書だと坂野氏はいう。

 明治12年に民主主義思想の吸収と普及に努めた代表的人物は福沢諭吉と植木枝盛であった。福沢は45歳で欧米近代思想の移植では先達だが、植木はまだ22歳で、板垣退助の秘書みたいなものであった。その青年が民権思想普及の一方の雄になれたのは、同郷の先輩中江兆民(当時32歳)を通じて、ルソーの社会契約論を精読していたからだという。明治12年の民主化運動昂揚期に人々が直接読めたのは、植木枝盛のものだった。そして兆民や枝盛の思想を全国に普及させる橋渡しは、福島の豪農民権家、河野広中であった。河野が高知を訪問した目的は国会開設運動の全国化(先に紹介した)であり、もう一つは福島の三師社を東北から関東にかけての運動の中心として、立志社に認めてもらうことであった。そして立志社中心から全国規模の運動体にすることであった。明治12年11月愛国社第三回大会は、全国結社を一つにまとめた国会開設請願という画期的な方向を打ち出したが、他方で高知立志社と新参に地方結社の対立の萌しを見せた。

 明治13年11月の第二回国会期成同盟大会は、明治14年10月に東京会議をひらく、来会には各組憲法見込案を持参、自民党は別に立つの3点を決めて閉会。この会期中愛国社グループは同社を解散して、自由主義一大政党を組織することを決定、地方結社は愛国社というこれまでの指導部から取り残された。この時期、福沢諭吉と交詢社グループは一大飛躍の機を迎えた。明治政府内部の有力参議が、政府主導の国会開設を考え始めて、福沢諭吉に接近した。事の発端は13年12月下旬、大隈重信邸に伊藤博文、井上馨の三参議が福沢に政府系新聞の編集を依頼した。熟慮の末これを断ると、井上は「しからば打明け申さん。政府は国会を開くの意なり」と。更に井上が語ったことは、単に国会開設に同意しただけではなく、福沢の持論である政権交代を伴った議院内閣制にも同意した内容であった。しかし福沢の方は新聞編集という間近な事柄と早合点し、井上は漸進を以て設立と云っている。愛国社が自由党結成に突き進むだけの活動家を擁していたのと同じく、福沢には慶応卒の門下生が官界にも言論界にも多数いた。彼らもこの楽観にもとづいて、イギリス流の憲法草案の起草に着手し、さらに大隈重信に議院内閣制の効用を吹き込んだ。福沢の高弟の矢野文雄が起草した大隈参議の憲法意見は、2年前の福沢の見解と同趣旨のもので、急進的なものであった。大隈がイギリス流の議院内閣制を左大臣に秘かに提言したのと時を同じくして、明治14年4月、交詢社がそれと同内容の主張を、憲法草案という形にまとめて発表した。

 福沢が井上馨を捨てて大隈を選んだことが誤算であったように、にわか仕立ての議院内閣論者になったことは、大隈にとっても誤算であった。彼は反国会派の黒田からも、国会論者の井上馨からも機会主義者として反発された。薩摩の大久保の後継者で北海道開拓長官の黒田清隆は、民営化に迫られて北海道開拓使官有物払下事件で、大隈の影響下にあった郵便報知新聞や東京横浜毎日新聞に、払下の閣議決定を暴露し攻撃された。黒田は大隈の裏切りに激怒し、伊藤や井上も誘った。ここは、大隈参議を中心に政府改革を断行し、上からの国会開設に進もうとする福沢諭吉や交詢社が掴むのか、私立国会としての自由党結成を目指す板垣退助と愛国社が握るのか、あるいは両派が一時的に大同団結して、今やドイツ派に転向した伊藤博文や井上馨の明治政府に当たるのか、明治14年9月は明治デモクラシーの決定的瞬間だったと坂野氏いう。ちょうどこのとき自由党結成に向う板垣が高知を出て東京に着いた。呉越同舟の歓迎であったが結果は福沢派と板垣派の対立が鮮明になった。明治政府が参議大隈重信を罷免し、同時に9年後の1890年を持って国会を開設するという勅諭を出したのは、板垣が東北に向けて出発してからわずか二週間後であった。それから旧愛国社などが自由党を結成したのはそれからまた二週間後であった。


国会開設期成同盟と私擬憲法の出現

2013年01月16日 | 歴史を尋ねる

 高知の自由民権運動の中で、植木枝盛は特別な人物であった。高知藩士の子として生まれ、はじめ藩校致道館、上京して海南私学で学んだ。板垣の演説を高知で聞き、これをきっかけに民権思想に目覚めた。翻訳書を通じて欧米近代政治理論、法律知識等を学び取って、自由民権運動の理論家として、中江兆民や馬場辰猪に伍してすぐれた業績を残した。建白書の起草や愛国社の再興のために活躍、ルソーの民約論をベースにした「民権自由論」という著書も発行した。

 明治12年(1879)11月、立志社では板垣の提案により国会開設願望の建議案を決議して、愛国社第三回大会で片岡らが提起し、国会開設請願書を出すことが決議され、これを成功させるため全国を10区に分けて、各地政社から遊説員を出すこととした。翌明治13年3月、第四回大会を開き、合計2府22県8万7千人の総代114名が参加し、愛国社の名前を国会開設期成同盟と改め、国会願望書の起草を決議し各委員を決めて閉会した。その4月、片岡健吉・河野広中は2府22県8万7千人の委託を受けて、「国会開設允可(いんか)を上願する書」を太政官に奉呈したが、結局これも却下された。この上願書をつらぬく思想は国民主権の原理であり、実現しようとしているのは君民協治の立憲君主政体であった。その内容は植木枝盛の思想に近いものであった。

 この運動の盛り上がりに驚いた政府は、その4月集会条例を公布し、政治に関する演説会や集会は、三日前に警察署に届出て認可を受ける、結社する場合は社則や名簿を添えて届出て認可を受ける、尋問されたら社中のことは何でも応えなければならないなどとした。その年の11月、期成同盟の有志は願望書を拒否された善後策を講じるため、元愛国社支社に集まった。当時の調査によると、3月の時の代表者は66%が士族であったが、11月13万余の代表者は53%が平民であった。このことは運動の指導権が士族から豪農層へと移ってきたを示していると糸屋氏はいう。まず会の名称を、大日本有志公会とした。これは期成同盟が集会条例のため、名目的には自然解散に追い込まれたので、今後は解散しないことを申し合わせ、国会期成同盟合議書が決議された。更に翌14年10月に大会を開くこと、各組憲法見込案を持参すること、全国を8区に分け、区本部を設けることなどが定められた。同盟大会の決議に随って、民間の憲法草案、「私擬憲法」が続々と出現した。現在わかっているものだけでも40余あるようだ。それらは立憲君主制を志向する多数の草案と君主権を縮小、一院制と人権保障を強く主張した、より民主的な植木枝盛らの草案があった。遠山茂樹氏の分析だと、①立憲君主制の立場をとっていたが、広義の主権在民説。②欽定憲法に反対し、国民の代表者による憲法制定会議で制定する。③国民による政府弾劾権を認めた。④行政府に対する議会の優位を主張。

 自由党と称する政党結成の直接の契機は、11月の国会開設請願の全国代表者の懇親会の席で、松田正久からの発言がきっかけだったようで、翌朝の朝野新聞に、「この懇親会は特に国会の事に限らず、日本全国の改進を主義とする論士と相親和するを目的とし、これを自由党懇親会と称し、以て之が永続をはかるべしとのことに決し、本月11日を以て自由党懇親会をこの会場でひらく」という報道が最初だと内藤正中氏の研究では書かれているそうだ。


民撰議院の建白と愛国社の再興

2013年01月14日 | 歴史を尋ねる

 明治10年(1877)5月、片岡健吉を総代に、立志社の民撰議院建白書を京都行在所に提出することとした。この建白書は植木枝盛・吉田正春が起草し、武内綱が手を入れたもので、板垣退助は賛意を示したが、大阪にいた林有造はいまさら建白などという手ぬるいことは不賛成だが、立志社の決議であれば止むを得ない、後藤象二郎の検閲を受けて決めたらよかろうとの返事であった。6月、片岡は三条太政大臣に面会して建白の趣旨を伝えようと伺候したが、書記官が対応し、後日呼び出され建白書の返戻を受ける。しかしこの建白書はたちまち印刷に付されて全国に撒布され、人心に訴え、後の大運動に役立ったから、片岡たちの苦労は徒労ではなかった。建白書は14000言に及ぶもので、政府の専制主義が国利民福を損なう所以を述べ、失政八か条を上げてその責任を追求しつつ、民撰議院の設立と立憲政体の基礎確立の必要を述べたものであった。

 一方挙兵策を進めていた林有造は、高知に戻るとありあわせの銃と同士で決起しようと唱えたが、すでに小銃と火薬は陸軍省買い上げの名義で押さえられ、大阪に持ち去られた。密偵の口から情報がつつぬけに漏れていたからである。薩軍に連絡に行った2名が捕縛されたのをはじめとして、林有造らが次々に拘引され、陸奥宗光までもが捕らえられた。これを高知の大獄と称されているが、明治11年8月大審院の判決が下った。林有造らは禁獄10年、元老院幹事で和歌山県人の陸奥宗光は禁獄5年の刑が執行された。

 明治10年8月立志社社長片岡健吉が捕縛されたが、これを知った立志社社員一同は腕力によって奪還しよう、政府に向って質問しようと衆議紛々たる状況であったが、「・・・その時板垣社員に言いて曰く、方今腕力と質問とは反って片岡の不利を醸成するに至るべし、依って先ず我立つ志の民権を一町より一区に及ぼし一区より一県に及ぼし各県全国に及ぼし衆力一致の上大政府に向って為す所あるに如かずと。一社その議に服して一決せり。・・・」と政府の探偵報告書は伝えているそうだ。事実、片岡の判決は西郷軍へ連絡謀議に行った立志社員に旅費5円を貸した廉(かど)で禁獄100日の判決を受けている。西南の役を最後にして武力反抗の時代はすでに終わった。民権論以外に道はない。9月、東北では板垣ほどの人望がある河野広中が福島から高知にはるばるやって来た。いまやるべきことは、「民撰議院を立て、憲法を定め、全国人民の権理を確定する」ための行動だと板垣に説いた。河野の見解は、立志社の建白について、「惜しむべきは、この議が全国の志士より出でずして海南の一隅土佐より出でて、而もそれが土佐の一部たる立志社の志士から出でし事である。さればこそ当局の却下する所ともなったのである。若し全国各地の同士を糾合し、結社の代表社及び人民の代表者を以て建白せしめたならば、政府如何に頑迷であっても、薩南に事変があり全国の民心動揺しつつある時であるから、必ずその建白を受理しその意見に耳を傾けたに相違ない・・・今後はこの建白を全国に公表し、国民の世論を喚起し、天下の同士を糾合して、国会開設の国民的運動を起しその大目的を達し、公議政体を確立しなければならぬ」と説いた。板垣はこの意見に対して、「今にして思えば、この点において欠点のあるのを覚えた」と反省している。

 明治11年(1878)4月、立志社は愛国社再興を決定し、同時に愛国社再興趣意書を発表した。遊説員は旧の縁を辿って西日本各地を回ったが、その5月に大久保利通が暗殺される事件が起り、政府の警戒は厳重を極め、一般の世情は、自由民権を唱導するものを謀反人と同視する空気があって、遊説員に会うことを避けようとするものもあった。9月大阪で愛国社再興大会が開かれた。11県46人であった。いざ愛国社を「維持する経費となると、結局立志社が負担せざるを得ず、すべて立志社に支えられるというのが実情だった。


西郷隆盛と板垣退助

2013年01月13日 | 歴史を尋ねる

 明治10年(1877)1月、陸軍省は鹿児島に貯蔵している兵器・弾薬の一部を三菱会社の汽船で大阪に運ばせた。これに私学校党は刺激されて政府所管の倉庫並びに蔵を襲って武器・弾薬を奪った。更に政府の警官二人をとらえ、拷問にかけて、私学校党をつぶし西郷を暗殺することをはかったと自白させた。そして西郷に決起を懇請した。西郷は自分の命を諸君にあずける、存分にするがよいといった。2月1万5千の士族を率いて征途についた。西南の風雲を告げたとき、陸軍卿山形有朋は、「南隅一たび動かば、之に応ずるもの両肥・久留米・柳川。南海は阿波・土佐。山陽山陰は因備。東海北陸は彦根・桑名・静岡・松代・大垣等々」と三条太政大臣に上書した。その中でも政府がもっとも憂慮していたのは、ほかならぬ土佐の民権派立志社の動向であった。

 今こそ政府転覆の絶好の機会であるとしたのは林有造と大江卓であった。林は直ちに銃器・弾薬を入手する運動に着手し、大江は後藤・板垣・陸奥の間を往復して彼らの説得に奔走した。そして同士の会合を催し、その席では、年来の民撰議院設立の目的を達するには、この期をおいて外にないことで衆議一決。秘策は京都において木戸を説き、鹿児島征討の勅命を請わしむることであり、これに後藤象二郎が自らあたる。土佐の同士を集めて軍隊を組織するのは板垣が当たることの方針が決まった。この席上板垣はこう話した。「この戦は西郷の負けである。何故ならば西郷という人は策略のない人である。且つ鹿児島の士族が強いことを余りに信用しすぎているようである。百姓をかり集めた徴兵を打ち破るのは易い事と考えている。そこが西郷の負けの所以である。一時突破して官軍を破ることは何でもないかしれない。しかし熊本城に押しかかったとしたならば、どうであろうか。要害堅固な城を守っている谷干城は退くに妙を得た将校である。薩摩隼人が考えるように手軽には落城しまい。西郷は大軍を率いて熊本城を包囲し、全力でここを集中するに相違ない。するとここで数ヶ月は費やすこととなる。これがため薩軍の運命は茲に極まる。もし西郷が兵略家あるならば僅かに一二隊を残して、自分は本隊を率いて海路下関に打って出て、中国路を攻め上げる方策を立てねばならぬ。中国にはこの勢力を防ぐべき備えがない。恐らく西郷はこのに出ないだろう。これが西郷の負けであるという所以である」と、大江卓の回想談に残されているそうだ。

 同士は東京を離れて神戸に着き、後藤は在洛の木戸を訪問して鹿児島征討を進言し、木戸は土佐鎮撫を後藤に説いて、2人の意志は頗る疎通したという。このとき板垣の心境は複雑で、政府を助けて西郷を討つ事は本意でなく、といって西郷に応じて兵をあげたとて、立憲制の実施にどれほど効果があるか、むしろ動かず形勢を傍観して居たかったのではないかと、糸屋氏は推量している。板垣と一緒に土佐に帰った林は早速立志社の幹部会を開き彼の挙兵計画を説明して賛成を求めた。そのうち薩軍の戦況悪化が伝えられると、挙兵中止説を唱えるものも出てきが、林等激派は西郷軍の成敗如何に関わらず即時奮起すべしと、その勢い制しがたし。この時期にあたり、板垣は立志社の幹部と謀って、郷土自衛兵の設置を県令に願い出た。このことによって少壮社員を統制し、その暴発を制止しようとしたのではないかと、糸屋氏は云う。一方林有造ら武力策の一派とは別に、立志社の少壮社員植木枝盛らは挙兵に反対し、民撰議院の建白を主張していた。こうして武力蜂起に関わる戦術転換が協議され、建白書提出案が局面の打開策として決定された。


板垣の果敢な行動

2013年01月12日 | 歴史を尋ねる

 福澤諭吉は木戸・板垣の政府入りを立憲政体への前進とうけとり、「木戸・板垣再勤、政府を改革、左右院を廃して元老院を置いたり。いよいよ以て立憲政体と相成候事なり。固より事の初歩なれば必ず不都合も可有之候得共、何れにもよき方えは赴候義」と明治8年4月の書簡に述べている。入閣した板垣は、大阪会議での木戸との協定に反して積極的に行動し、政府部内ではやくも新しい対立が生まれた。まず元老院議官13人の任命のうち、板垣と関係の深い後藤象二郎・福岡孝弟・由利公正・陸奥宗光等が任命され、書記官には古沢滋が任命された。

 ここでちょっと寄り道すると、新たに設置された元老院であるが、議長は左大臣の兼務とされたが実際には一度もその事例は無く、設置当初は議長は空席で副議長の後藤象二郎が議長の職務を代行した。明治8年(1875)11月の改正に伴い、これを補佐するために幹事が新設されて陸奥宗光・河野敏鎌が幹事となった。熾仁親王が議長に就任すると、岩倉具視の要請で明治9年(1876)9月に国憲(憲法)草案起草の勅命が元老院に対して出された。これに基づいて2度の「国憲草案」(1876年10月及び1878年10月)が作成されたが、正院側からは酷評されて採用されなかった。また、このころの元老院の議論は低調で1878年1月20日付の「輿論雑誌」には、元老院でまともに議論をしているのは両幹事(陸奥・河野)と中島信行・細川潤次郎の4名だけと揶揄されている。しかも追い討ちをかけるように6月には幹事の陸奥宗光が立志社の獄の容疑者とされて元老院を追放されたのを機に、正院側から元老院の権力を抑制しようとする動きが現れ、以後正院の干渉を受けるようになった。1880年以後、定数は事実上無視されて知事や政府高官経験者が次の役職を得るまでの待機ポストの色合いを強める。廃止時には定員が91名にまで増員され、その多くが元老院廃止後にそのまま貴族院議員に転身する。自由党史によると、元老院はその権限狭隘にして立法府として不十分であったが、弾劾権があってその面目を保てた。しかし政府が之を削ろうとし、板垣は断乎止めさせた。板垣が政府を去って之は削られたという。板垣は之を養老院といっている。

 一方地方官会議が、上下の民情を通じるため、6月開催された。5議案中地方民会の案が最も関心が高く、傍聴人からも建言書が議場に提出された。木戸は始めは抑制、進歩に随って漸次にひろめる方向で会議に臨み、一方板垣派は民権論を主張して政府に迫るという流言が当初より流れ、当時の新聞も呼応し、更に板垣宅に県令を招きいれ、民権論を扇動したという噂も立った。木戸議長も腕をこまねいていたわけではなく、議事の前各幹事他主だった者を予め自邸に招き、議案の賛成を求めて、承諾せしめ置いたり、議場では反対論を攻撃させるという御用議員も用意していた。地方官会議は会期を三日間延長し、審議の結果39対21で公選民会を排して官選区戸長会に決した。こうした地方官会議の地方民会問題をめぐって新聞輿論が高揚し、新聞や演説による政府攻撃が激化した。政府はその対策として新聞条例・讒謗律という法律を会期中に作って世論を抑えようとした。更にその9月、出版条例を改正し、出版物は許可制から事前届出制に強化された。

 その8月、朝鮮において江華島事件が発生した。板垣はかって征韓論に反対した政府が朝鮮に軍艦を派して挑発行動をするとは何事であるかと三条に抗議し、内閣と省卿の職責を分かたなければ官紀が粛正されないことを訴え、自説が用いられないため10月辞表を提出した。左大臣島津久光も板垣の説に同調して共に野に下った。


愛国社の創立と大阪会議

2013年01月05日 | 歴史を尋ねる

 明治7年(1874)10月、板垣は上京した。時は台湾問題で大久保が自ら弁理大使として北京に渡り事態の収拾に当たっていた。軍事面における板垣の協力を三条実美より乞われたがその任にある者を差し置いては出来ないことを伝えた。大久保は対清談判の不首尾なることを恥じて野に下ることを考えていたが、船の横浜に着くや国旗が翩翻たるをみて辞職の決心を翻したと板垣は伝える。

 明治8年2月、愛国公党同盟の諸士は、一大政社創立の会議を開き、本部を東京、愛国社合議書を世に発表した。「この社を結ぶの主意は、愛国の至情自ら止むあたわざるを以てなり。それ国を愛する者は、須らく先ずその身を愛すべし。人々各その身を愛するの通義を推せば、互いに相交際親睦するには、必ず先ず同士相集合し、会議を開かざるを得ず。今この会議を開き、互いに相研究協議し、以て各その自主の権利を伸張し、人間本分の義務を尽くし、小は一身一家を保全し、大は天下国家を維持するの道により、終には天皇陛下の尊栄福祉を増し、帝国をして欧米諸国と対峙屹立せしめんと欲す」 規則は8か条で、各県各社3人を東京に出して毎月数次相開し、毎年2回総会を開くとした。この会合について、「自由党史」は次のように書いている。「当時会合の志士、総員僅かに数十名を出でず、封建の余習、猶一般の民心を腐蝕し、政府の権威を視るあたかも鬼神の如く、自由を説き、民権を唱えるを以て、乱賊の行為と信じ、一般の弊風ひとえに忌避するを免れざりしなり」 自由と民権を主張しようとした人々はいずれも後に西南の役に関係して西郷派を支持している不平士族であり、明治10年以前の士族民権的性格を示していると、糸屋寿雄著「史伝板垣退助」は言うのだが。

 在野の有志が大阪に集合して愛国社創立を商義していた時、政府側も大阪会議を開いて局面の打開を図ろうとした。当時政府は太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視を補佐して大久保利通、大木喬任、伊藤博文、勝安房、寺島宗則の諸参議がいたが、征韓論政変以来、西郷隆盛は桐野、篠原以下の諸将を率いて鹿児島に、板垣は高知の立志社を背景に立憲政体を標榜し、木戸孝允は山口に帰って動かず、天下不平の士族はこれらの形勢に望みを託し、政府の孤立感は深かった。大久保はまず木戸を起こして旧盟を温めようとし、木戸は大久保と対抗するため板垣を引っ張り出そうとした。愛国社創立で大阪に来ていた板垣を木戸が訪ね、木戸は主義において板垣に賛成したが、順序について異見があり、まず地方官会議をひらき、漸次国会開設に及ぶべきであるという意見であった。更に木戸は伊藤と共に大久保に面会し、板垣を復職させることを主張し、木戸・板垣の参議復帰が決定された。この場で伊藤が4か条の改革案を提示し承認された。①政府が数名の専権に流れるのを防止するため、立法事業を鄭重にし、且つ他日国会をひらく準備として元老院を設けること。②裁判制度として大審院を設けること。③上下の民情を通じ、漸次立憲の礎を定めんが為、地方官会議を起す事。④聖上親裁の体制を堅くし、行政の混淆を避けるため、内閣と各省を分離すること。諸元功は内閣にあって輔弼に任じ、第二流の人物を挙げて行政諸般の責任に当らしめること。

 愛国社では板垣の入閣についてその可否の議論が起ったが、明治天皇より内諭があり、翌日宮中に召されて内勅を下され、板垣も職に復することになった。かくて板垣は木戸・大久保・伊藤の諸参議と共に政体取調の命に奉じ、草案を作って奉呈した結果、4月立憲予備の詔書が発せられ、従来の左右両院は廃止されて新たに元老院が置かれ、大審院の設置によって司法権は行政権から独立して分離独立した。