明治22年(1889)2月11日大日本帝国憲法が発布された。午前中まで雪が降った東京では、憲法発布の大典が行われ、街は世紀の祭典を祝う人々であふれたそうだ。盛り場はどこでも品物が飛ぶように売れ、ご祝儀相場となった株価は、天井知らずに上昇したようだ。明治23年(1890)11月25日第一会議の招集に合わせて、明治憲法は施行された。その憲法であるが、行政について独立の章はなく、「国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任ず」とあるだけで、内閣についての規定はない。そして明治18年(1885)12月伊藤博文が初代内閣総理大臣になっている。現代の議院内閣制ではないからおかしくないが、なぜ明治18年なのか、疑問が残る所でもあり、その経過について追ってみたい。
明治6年の征韓論騒動に依る政変騒ぎで、板垣退助は立憲政体を目指したが、伊藤博文は政府側にいて、立憲政体を目指すことになった。政変後参議一同は政体取調の担当者として伊藤博文と寺島宗則を選任した。これは立憲制度導入のための調査であった。その後の伊藤の軌跡を坂本一登氏の著書でサントリー学芸賞受賞作である「伊藤博文と明治国家形成」によって、追って行きたい。従来の研究の空白を埋めるものでもあると著者はいっている。まず、概略の経過を記して置きたい。
明治10年~12年:天皇の政治的活性化を求めて、元田永孚(ながざね)ら天皇の侍補(じほ=補佐、指導)グループに依る君徳輔導の強化と天皇親政実現への動きと伊藤博文ら参議に依る天皇と内閣との結びつきを強化して政府権威を増強しようとする動きの二つがあった。大久保利通の突然の暗殺で参議間の競合が顕在化、侍補らによる天皇親政運動を誘発した。これに対し伊藤等は、天皇が独自の政治意思を持つこと、侍補グループが政策決定に影響を及ぼすことを警戒し、岩倉具視ら大臣達と協力して侍補を廃止に追い込む。
明治13年:閣内を二分して争われた外債論・米納論で、最終的には天皇の勅諭という形で決定が下され、宮中の政治的比重の増大があった。
明治14年:大隈重信追放を梃子に伊藤を中心とした内閣は求心力を回復し、23年を期した国会開設の表明を独自に決定した。ここで伊藤は立憲政体創設の主導権を確実にするため、憲法調査を決意する。滞欧中はあえてドイツ主義者的側面を強調して、憲法調査の意義とその成功を日本国内に浸透させる、帰国までに憲法の権威者としての威信を獲得。
明治16年:帰国した伊藤は、立憲政体創設に備えた統治機構改革を政治課題とした。その前に、華族制度を創設し、宮中財政の確立を推進。
明治18年:天皇の立憲君主化と、天皇と内閣との中間勢力の排除を実現させるため、内閣制度の創設を考慮する。曲折の末、急遽内閣制度の創設が実現、内閣制度の創設を機に、政策立案の権限は内閣に限定され、天皇は内閣の輔弼を待ってのみ政策決定に参与することになった。伊藤は内閣総理大臣兼宮内大臣という地位を積極的に活用し、天皇と内閣との調停者として行動、天皇の信任を得て、天皇権力の制度化を促進する「機務六条」が制定された。
明治20年:伊藤批判、欧化政策批判が噴出、条約改正問題も発生して、首相を交代、宮内大臣も辞任。この危機を乗り切って憲法制定に取り組む。井上毅との軋轢を克服しながら、憲法草案に内閣輔弼の原則を明示し、天皇の政治争点化を避けるとともに、内閣を中心とした長期的な国家運営が可能となる体制をめざした。
明治21年:枢密院の設置、さらに民権派にも配慮して、議会の権限を決定した。そして憲法の眼目が君主権力の制限にあることを力説し、内閣輔弼の原則を明示して、天皇の「立憲君主化」が憲法上明文化されるよう指導していった。かくして、伊藤と天皇との協調関係の下に、憲法が制定されることになった、と坂本氏は結んでいる。