日本における外人の直接企業投資は、日清戦争以前は、居留地内に限られた。鉄道、電信、鉱山等への外人投資は禁止され、居留地以外の土地所有権も認められていなかった。それでも、居留地とその周辺では、外人経営の商館、汽船、銀行等の貿易関係企業が早くから発達しており、工業分野においても、造船関係事業のいくつかが神戸大坂を中心に欧米人によって経営されていた。しかしいずれも中小企業に留まっていた。外国資本の直接投資が本格化したのは、日清戦後、特に北清事変以降、しかし、それがいよいよ本格的段階に入ったのは日露戦後だという。その要因の第一に外資が日本に対する認識を深めた。①政情の安定、②国民が勤勉で、大企業組織を運営する能力がある、③国際的立地が、清国、インドとアメリカの中間にあって貿易発展の衝路にある、④近代経済発達の余地が大きい。第二に財界の外資誘致努力。当時の三井物産社長益田孝は、日本に大いに工業を起さねばならない、日本人がやろうと西洋人がやろうと、誰でもかまわぬ。日本に工業を植付けることが出来ると、芝浦製作所とGE社の提携を進めた。第三は関税改正で輸入税率が高くなったことで、外資の直接投資が刺激された。注目すべき特徴として、単なる資金導入だけでなく、先進国の技術導入という積極的意図のもとに、大規模な内外合弁会社を設立する動きとなった。芝浦製作所を筆頭に、日本製鋼所、東京電気etc。さらに有力外人会社のの日本進出を見るや、英、米、仏等の間に、有利な事業を求めて一種の対日投資競争が起きた。明治40年以降急騰しているという。
明治30~大正2年期の外資導入(輸入)は当面、国際収支の赤字の補填ー正貨準備補充の役割を演じた。しかしその効果は国際収支を即効的に改善するものではなかった。近代設備の輸入、満州への投資に因る正貨流出、外資の支払利息の累増などで、外資の流入による国際収支の補填は、他方で国際収支の次の段階での赤字増大をもたらすことになった。そして政府は支払い能力の不足をさらに外資導入でやりくりした。借金の利払いのために借金するにいたった。この事態になって政府自身は外債募集の名目がなくなり、都市や、満鉄、民間企業に対し外債募集を進めることになった。しかし償還期限の到来した外債の借換えが次第に困難になって来た。この状態に、外国の対日投資家は警戒的になり、ロンドン市場の日本の国債価格の急落を招くこととなった。日本は、明治44~大正3年期に深刻な正貨危機に直面し、不況に脅かされたが、その性格は、日露戦後の政府の拡張政策の反動と見るべきものであると高橋亀吉は語る。大正2年当時日銀総裁であった三島弥太郎は次のように語っている。「交換中止(兌換中止)の如きはかりそめにも口に出すべからず。これを行う時は電光石火の如くなすべし。日本銀行の正貨準備は兌換券発行の半分である。この上正貨が減少すれば、対外信用を失うばかりでなく、兌換券の基礎を危うくする。しかも貿易は入超、貿易外も外債利子を払わねばならない。実に我が財政は行き詰まった。」 しかし一大僥倖というか、天の助けというか、大正3~7年の第1次大戦が、以上の外資政策の禍を転じて福に一変させるにいたったと、高橋は解説する。