外資の直接投資

2013年06月26日 | 歴史を尋ねる

 日本における外人の直接企業投資は、日清戦争以前は、居留地内に限られた。鉄道、電信、鉱山等への外人投資は禁止され、居留地以外の土地所有権も認められていなかった。それでも、居留地とその周辺では、外人経営の商館、汽船、銀行等の貿易関係企業が早くから発達しており、工業分野においても、造船関係事業のいくつかが神戸大坂を中心に欧米人によって経営されていた。しかしいずれも中小企業に留まっていた。外国資本の直接投資が本格化したのは、日清戦後、特に北清事変以降、しかし、それがいよいよ本格的段階に入ったのは日露戦後だという。その要因の第一に外資が日本に対する認識を深めた。①政情の安定、②国民が勤勉で、大企業組織を運営する能力がある、③国際的立地が、清国、インドとアメリカの中間にあって貿易発展の衝路にある、④近代経済発達の余地が大きい。第二に財界の外資誘致努力。当時の三井物産社長益田孝は、日本に大いに工業を起さねばならない、日本人がやろうと西洋人がやろうと、誰でもかまわぬ。日本に工業を植付けることが出来ると、芝浦製作所とGE社の提携を進めた。第三は関税改正で輸入税率が高くなったことで、外資の直接投資が刺激された。注目すべき特徴として、単なる資金導入だけでなく、先進国の技術導入という積極的意図のもとに、大規模な内外合弁会社を設立する動きとなった。芝浦製作所を筆頭に、日本製鋼所、東京電気etc。さらに有力外人会社のの日本進出を見るや、英、米、仏等の間に、有利な事業を求めて一種の対日投資競争が起きた。明治40年以降急騰しているという。

 明治30~大正2年期の外資導入(輸入)は当面、国際収支の赤字の補填ー正貨準備補充の役割を演じた。しかしその効果は国際収支を即効的に改善するものではなかった。近代設備の輸入、満州への投資に因る正貨流出、外資の支払利息の累増などで、外資の流入による国際収支の補填は、他方で国際収支の次の段階での赤字増大をもたらすことになった。そして政府は支払い能力の不足をさらに外資導入でやりくりした。借金の利払いのために借金するにいたった。この事態になって政府自身は外債募集の名目がなくなり、都市や、満鉄、民間企業に対し外債募集を進めることになった。しかし償還期限の到来した外債の借換えが次第に困難になって来た。この状態に、外国の対日投資家は警戒的になり、ロンドン市場の日本の国債価格の急落を招くこととなった。日本は、明治44~大正3年期に深刻な正貨危機に直面し、不況に脅かされたが、その性格は、日露戦後の政府の拡張政策の反動と見るべきものであると高橋亀吉は語る。大正2年当時日銀総裁であった三島弥太郎は次のように語っている。「交換中止(兌換中止)の如きはかりそめにも口に出すべからず。これを行う時は電光石火の如くなすべし。日本銀行の正貨準備は兌換券発行の半分である。この上正貨が減少すれば、対外信用を失うばかりでなく、兌換券の基礎を危うくする。しかも貿易は入超、貿易外も外債利子を払わねばならない。実に我が財政は行き詰まった。」 しかし一大僥倖というか、天の助けというか、大正3~7年の第1次大戦が、以上の外資政策の禍を転じて福に一変させるにいたったと、高橋は解説する。


井上馨と小村寿太郎

2013年06月25日 | 歴史を尋ねる

 今は明治の経済史を辿ろうとしているが、エドワード・ハリマン(1848~1909)の提唱した日米共同経営構想は気になるのでもう少し深追いしたい。それにしても井上馨はこのブログにはよく登場する。しかし不思議に彼の生涯を辿る著作本は見当たらない。どうも明治初期に尾去沢銅山事件で井上が私腹を肥やすとの嫌疑を受けたことが尾を引いてか、当時から評判が芳しくない。維新の元勲だったにもかかわらず、唯一総理大臣になれなかった。大隈重信の井上評は「井上は道具立ては喧しくない。また組織的に、こと功を立てるという風でない。氏の特色は出会い頭の働きである。一旦紛糾に処するとたちまち電光石火の働きを示し、機に臨み変に応じて縦横の手腕を振るう。ともかく如何なる難問題も氏が飛び込むと纏まりがつく。氏は臨機応変の才に勇気が備わっている。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%A6%A8 渡部昇一氏が平成9年正論に「明治の元勲 井上馨に学ぶ真の国家指導者」という論説を載せている。渡部氏が岡崎久彦氏に「日本が大東亜戦争に参入を食い止め得るとしたらどの時点までなら可能か」との質問に、岡崎氏は「第1次大戦までだ」と答えたという。岡崎氏は「アメリカは同盟国でもなかったのに派兵して血を流した。日本はヨーロッパに陸兵を派遣しなかった。そのため講和会議や国際連盟の論議でイギリスもフランスもアメリカの言い分を取り上げた。それ以後日本の孤立化を救う手はなかった。したがって第1次大戦以前だ。」そして渡部氏は日露戦争後のこのハリマン鉄道王の事例を取り上げる。

 明治38年(1905)5月日本連合艦隊はバルチック艦隊を破った。6月セオドル・ルーズベルトは日本とロシアに対し和平を勧告、両国が受入れた。7月首相の桂太郎(井上馨の娘婿)は米陸軍長官ウィリアム・タフトと会談し、「桂・タフト覚書」を交わした。内容は米のフィリピン統治、日本の韓国支配を相互の認めよう、というものだった。第二次日英同盟も調印され、9月日露講和条約が締結された。10月桂とハリマンの間で南満州鉄道に関する予備協定覚書が調印された。この構想に長州閥の先輩や井上馨、澁澤栄一などもいい案だと賛成した。特に井上は満州のアメリカの資本参加に強い関心を示した。それは前回のブログで触れた。ところがポーツマス全権大使であった小村寿太郎は覚書の破棄を訴えた。結局小村の説得が功を奏し、さらに日清両国で満州問題を討議して、満州に第三国が資本投下を阻止する条約が結ばれた。翌年正式に桂・ハリマン覚書無効を正式に通告した。その二ヵ月後米カルフォルニア州議会で日本人移民制限決議案が採決された。さらにサンフランシスコ教育委員会は日本児童をアメリカの白人学校から分離し、東洋人学校に通学させることを決めた。

 渡部氏は井上たちの判断の中には、セオリーとかイデオロギーはない、動物的な直感であったと評している。ロシアの大軍がいつ南下してくるか分からない時に、満州でアメリカと手を結ぶのは決して不利益にはならない。確かにアメリカにも野心があるかもしれない。しかし野心があったとしても、アメリカが満州からそっくり鉄道を持ち去るわけでもない。こういう見方をしたのが、近代的学問を受けなかった維新の志士であったと渡部氏は解説する。小村寿太郎は大学南校(今で云う東大法学部)の第一回卒業生、第一回の文部省アメリカ留学生で、ハーバード大学で法律を学んだ、バリバリの大秀才であった。小村にしてみれば命懸けでウィッテと交渉して纏めたものだとのおもいだ。筋論、愛国心も尊敬に値する、しかし将来の見通しを分かっていたのは井上のほうがはるかに先見性があったと渡部氏。そして渡部氏は国家指導者としても資質を論じている。我々は歴史を後から見るから、渡部氏の論の妥当性を評価するが、李朝朝鮮との談判といい、井上のバランス感覚のよさに感心する。修羅場を潜り抜けて両方からの見方が出来る人だ。


満州利権

2013年06月23日 | 歴史を尋ねる

 明治38年9月、日露講和成立後の日本は、①政府の内外債務残高は巨額に達し、利子負担も急増して、その元利償還をどうするかが焦眉の急務、②ロシアの復讐戦に備え常備軍の増強、③これらを処するみちは経済力の飛躍的発展を期する、④その有力な手段の一つとして、ロシアから獲得した満州の利権を生かして大陸経営に力を尽くす、というはめに立たされたと高橋亀吉は概況する。そのためには巨額の資金を必要とするが、講和直後の日本は重大な資金難に陥っていた。当時の正貨準備の枯渇を高橋是清自伝は次のように伝える。「松尾日銀総裁より極秘の電報が来た。『平和談判は同慶なるも償金皆無なる故正貨準備の維持は甚だ困難』収支を以て将来を測るに、向こう20ヶ月を出ずして正貨準備は尽きる。特に今年は米作不良の模様で輸入超過免れず。衷心懸念苦心に堪えず、何とかこれを救う道無きや」 また当時の政府が資力欠乏を痛感していた事例として、元老および桂首相が、ロシアから獲得した南満州鉄道および鉱山利権等を、アメリカの大富豪ハリマンと共同経営することに仮調印した。上記自伝は次のように伝える。「ハリマンが公(井上馨)及び政府に提言したところは、①露国より受け継いだ設備不完全な東清鉄道南部支線を日米共同で経営し、ハリマンは北満よりシベリア、ヨーロッパに通ずる鉄道に交通権を獲得し、さらにパシフィックメイル汽船会社及び米国の鉄道を連結して世界一周の交通路を開く。②日本官私鉄道は総て広軌にし、その工費はハリマンが負担する。(中略)公の意見は第一に講和談判が成立したが、ハルピンに数十万人の露兵が駐屯、将来ことを構えて復讐戦に出るのは必定。これを阻止するには、第三者と共同の利害関係を持つことが極東平和の良策である。第二に国民の産業熱及び士気は高く、」その経済的発展には満蒙の新天地を始め、アジア大陸にこれを求めねばならぬ。第三に外資輸入を必要と考えたこと。公は国家百年の計を立てつつあったから、ハリマンの提言を絶好の機会として迎えた。(中略)南部支線のの日米共同経営につき予備覚書が成立した。同時に調印の手筈であったが、この時小村外相が日露講和談判より帰朝も近きにあったので、一応彼の意見も徴して確定する万全の策として、調印だけは一先ず延期することとした。然るに小村は猛烈に反対した。小村は米国滞在中、金子賢太郎の斡旋で、満州の事業及び東満鉄道支線経営等に就いて、ルーズベルト大統領の尽力で資金調達の見込みがたった、露国の鉄道譲渡はシナの同意によらねばならないという法的根拠と、国民が血を以て得た満州を外国商業との自由競争の対象とすることは国民に忍び得ないとの根拠に基づいたものであった。かくて政府は小村の議に従って前記覚書を取り消すこととした」 

 このハリマンとの共同経営につき、徳富蘇峰は「この組立は、日本の金融業者が明治31年以来繰り返し声高したもの。日本の技巧と熟練を以て、米国の資本を使用し、極東におけるシナの市場を開拓せんとする趣旨に相応している」ものと評価している。日露戦争によって獲得した唯一の宝「満州の利権」(その後の大陸発展は南満鉄道をその有力の足場としたもの)を共同出資の名において、アメリカ大資本経営に任せてもかまわない、とした所に、当時の資力の逼迫感がいかに深刻だったかうかがい知れると、高橋亀吉は云う。


テイクオフ促進の国際関係

2013年06月19日 | 歴史を尋ねる

 金本位制を辿ると一気に昭和期に突入してしまうので、暫く休憩してもう一度高橋亀吉の「日本経済発達史」に戻りたい。日本の近代経済は明治20年を画期として本格的発展(テイクオフ)の情勢が整ってきたと前回までの経緯であった。しかし自立的蓄積だけに頼るほかないと仮定すると、明治期の歴史が示した経済的発展は期待できなかったという。高橋は経済の発展を促進した五大国際要因を挙げる。①国際的銀価下落、②外資導入、③関税自主権の獲得、④日清戦勝、⑤日露戦勝。

 先ず銀価の下落:世界の銀相場は明治6年ぐらいまでは安定していたが、その後ドイツ、アメリカ、スウェーデン、ノルウェーが金本位に転じ、銀貨の自由鋳造を制限した国は多くにのぼり、銀の通貨需要は激減した。他方、銀の生産はアメリカの新富鉱の発見などで大きく伸び、銀貨は持続的低落となった。さらに明治26年、銀貨国インドが金本位制への移行に着手すると、暴落期を迎えた。日本にとって、金貨国に対し輸出産業を有利にした。当時の主要輸出品は生糸、綿糸、織物の繊維品と、銅等の鉱業品であり、当時日本の産業の基幹であった。また、輸入費価格の高騰で輸入代替品の自国生産を促した。生糸輸出額は明治17年と比較して明治25年には3.5倍。また当時本格的に発足したばかりの綿糸紡織業も保護育成効果をもたらした。明治30年銀本位制を金本位制に変える問題で、当時澁澤栄一は「銀本位を金本位に変えると利益を失う。金貨国に対する貿易は銀の下落する毎に利益を生み、貿易収支にも都合よく、近代日本の商工業を発達させたのは、主として是に因る。紡績事業を例に挙げると、インドのルピー貨が高騰し、インドのシナにたいする貿易は不利となって、その分だけ注文は日本に来る」といっている。しかし先に見たように松方正義の決断で明治30年金本位制に移行するが、当時のロンドン・エコノミスト誌は「日本が貨幣制度を変えたのは銀本位の弊害ではない。目下財政上外資導入が必要で、そのために金本位として外国の信用を高めること、もう一つは日本の政治家が、日本を世界の一等国として比肩する資格を備えるためである」と評しているそうだ。

 続いて外資輸入(導入):日本は経済建設上最も資金を必要とした明治7~29年の23年間、外資を頑固に忌避し続けた。その理由は欧米の後進国投資に侵略性があったことと、基幹産業に外人掌握を免れたことなどが挙げられる。しかし外資排除にも限界があった。近代経済建設には巨額の機械、資材を必要とするが、当時の日本はそのほとんどを輸入に頼っていた。明治27~28年の日清戦争以降に於ける経済の本格的発達は戦費や軍備拡張の影響もあって連年巨額の輸入超過を続けている。これらの支弁は清国からの賠償金以外は総て外資に頼った。日清戦後、外資輸入が当時の資本形成に大きく寄与した。明治30~大正2年期、近代経済の発達はデータで見るように多くの外資の輸入に依存した。しかも外資導入が簡単に運んだわけではなく、不平等条約時代にやしなわれた外資排外思想、日本の法律も外人の土地所有権、鉄道敷設権、鉱山採掘権等を許さぬ内容であった。こうした国内的な阻害要因を克服しながらの導入であった。明治35年日英同盟の締結は、ロンドン市場での信用を高め、日露戦中募集した日本国債に対する信任の確立に繋がった。


金貨の流通が見られない金本位制 続続

2013年06月17日 | 歴史を尋ねる

 明治30年の金本位制導入が、日英同盟の締結(明治35年)とあいまって、日露戦争の巨額の外資発行に大いに役立った。金本位制が導入されていなければ、戦費の不足から日露戦争で軍事的勝利を収めることは出来なかったと松元氏はいう。日露戦争の戦費調達の外債発行の責任者として白羽の矢が高橋是清(当時日銀副総裁)に立てられた。高橋は固辞したが桂首相をはじめ時の重鎮に説得され引受けざるを得なかった。「承知しました」というと、同席した皆は「ああ良かった」と皆で泣いている姿を、料亭の女将が証言しているという。日露戦争が日本にとって綱渡りの戦争だったことを物語っている。伊藤博文や井上馨は最後まで戦争に慎重で、明治天皇も最後まで躊躇した。伊藤はロシアと満韓交換論を唱えて開戦を回避しようとした。日露戦争の戦費は最終的に明治36年度の一般会計予算の7倍近くにも上った。この戦費調達のために先ず大増税が行われた。当時政党首脳に対する大蔵次官が「こと今日に至っては皆悪税です。適正な良い税は、悲しいかな国が小さいからありません」と説明、党側は「次官が悪税というのだから同意するほかないじゃないか」として同意を得たそうだ。また増税だけでも到底賄えず、戦費の大半は公債で賄えることとなった。軍需品の多くを輸入に頼っていた状況下で、正貨確保のための外債発行が戦争継続にとって死活問題であった。しかし政府は外債発行のために日銀券の兌換停止を行わなかったことから、正貨の流出が始まった。この外債発行の責は高橋是清であった。

 満州軍総参謀長の児玉源太郎は、戦争を始めた人間は戦争を止めることが出来なくてはならないと政府中枢に直言して回った。明治38年のポーツマス条約受入の御前会議で、寺内陸相は「士官が欠乏して、これ以上戦争できない」と発言、曽禰荒助蔵相は「これ以上金を出せといわれても出来ぬ相談なり」と発言して講和受入を決めた。こうして結ばれた講和は、ロシアから賠償を獲得することは出来なかった。ロシア全権大使のウィッテは「賠償金は戦勝国に支払われるものであるがそのような状況にはない。敵はロシアの国境の外にいるではないか」と敗戦国ではないとの姿勢を貫き、日本の賠償要求を一蹴した。日露戦争が戦争としてみた場合日本軍の勝利だったことは疑いないところであるが、財政的に見ればそれは負け戦であったと、松元氏。日露戦争後の日本の財政は、膨大な公債残高の償還問題を抱えることとなった。明治39年度の国債費は歳出の33%で伊藤博文が心配しているようにかっての松方財政時代を思わせるレベルになった。このような国の台所事情を知る由もなかったのが国民であった。日清戦争後の三国干渉によって余儀なくされた臥薪嘗胆の時代を我慢して、ようやく大国ロシアに勝ったという国民意識からすれば当然の思い込みだが、現実との間には大きなギャップがあった。

 日露戦争後の財政的負け戦状況で、明治41年の反動不況の頃から、金本位制採用に反対していた渋沢栄一らが心配していた「正貨流出問題」が深刻化していった。日露戦争後の反動不況期を迎えた政府が第一に行ったのは戊申詔書を出して国民に節約を訴えるとともに、予算の実行予算を縮減することであった。次に行われたのが低金利政策であった。日銀副総裁であった高橋是清は低金利政策の重要性について、「今日では金利が安いといっても中流の工業者が借りるのは一割乃至一割五分くらい。外国では五分乃至七分程度、これでは外国と競争が出来ない」と述べていた。産業振興に貢献する低金利政策そのものは反対しないが、ここに正貨流出問題が登場することによって、明治政府内部で大きな政策対立軸になった。正貨流出を防ぐためには金融引き締めを必要と考えた。この争いはずっと尾を引き、このままでは金と円との交換停止(金本位制からの離脱)を行わなければならないと日銀総裁が考えるほど深刻化した。実際には「大正の天佑」といわれた第1次世界大戦の勃発による輸出増によって正貨流出問題が突然解消されたためお蔵入りとなった。


金貨の流通が見られない金本位制 続

2013年06月14日 | 歴史を尋ねる

 江戸時代は、両、分、朱を単位として、各藩が発行した藩札も流通する金銀複本位制を、新たに円、銭、厘を単位とした全国統一の金本位制に改めようとの試みが行われたのが、明治4年、大隈重信による新貨条例であった。政府に金準備が無く、民間から持ち込まれた金による金貨鋳造も、国際的な銀に対する金の価格上昇もあって海外流出の事態になった。国内で流通するようになったのは不換の政府紙幣の明治通宝であった。明治通宝はニセの太政官札を一掃する目的で発行され、明治7年には旧貨幣の大部分が通用禁止とされて、広く流通することになった。国内の通貨制度を確立しようとした最初の試みは明治5年の国立銀行条例であった。これは国立銀行に金兌換銀行券の発行を認めるものであった。しかし金貨への兌換の殺到で経営難に陥った国立銀行は兌換制度の見直しを求め、資本金制度をも直して金の準備は有名無実化した。結局明治18年から発行が始まった日本銀行券に交換されて、ほとんど流通しないままに終わった。

 当初日本銀行券は銀兌換券として発行された。それは江戸時代の藩札発行の最も一般的な発行形態であった。通貨供給の実際は、国際的な銀価格低落の流れの中で、銀安(円安)メリットを受けて経済の成長に伴う成長通貨の供給は順調に行われた。このように実質的な銀本位制となっていた日本が、世界の流れに添って金本位制を導入したのは、明治30年、日清戦争による清国からの賠償金であった。当時円安メリットを放棄して金本位制を導入することに対して、福沢諭吉や安田善次郎、伊藤博文らが強硬に反対した。金本位制導入について、自由党系が外国為替が安定し外国からの借款が得やすくなり、物価も安定して産業の着実な発展基盤が確立するとして賛成したのに対し、進歩党(大隈系)系の政治家や澁澤栄一など経済人は紡績などの輸出産業が打撃を受け、正貨不足によって緊縮政策を余儀なくされると慎重論を唱えた。松方正義は、貨幣価値が変動すると人々は投機に走り産業の発展が阻害され、また正貨の海外流出が起って国力が失われるので金本位制のもとで物価を安定させるとこが重要としていた。この論争は、後の正貨流出問題の論争につながるもので、この時の政党間の論争が対立軸となって昭和の金解禁論争にまでつながっていくと、松元氏は解説する。最終的には首相兼大蔵大臣だった松方正義が「世界の算盤に明るい連中が金を採用しているのだから、学者がなんと言ってもこの方が得に違いない。損なら、あの算盤高いイギリス人なりアメリカ人が採用する気遣いはない」として金本位導入を断行した。

 明治30年の金本位制導入論争において、外国からの借款がやりやすくなるという理由は注目すべきことだと松元氏はいう。昭和6年大久保は戦争になれば外債に頼らざるを得ず、それは英国の属領になる道だと反対した。元米国大統領グラント将軍は明治天皇に、エジプト、スペイン、トルコの例を挙げながら欧米列強が融資を通じて支配を目論んでいると忠告した。明治14年の政変の背景にも紙幣整理の財源を外債に求める大隈重信に対する反発があった。明治30年の論争に外資導入の心配が見られなかったことは、日清戦争に勝利して、もはや欧米列強からの属領化を恐れる必要がなくなたことを意味した。それはその後の清国が辿ったような列強争奪の対象になったことからも分かる。その意味で、明治維新政府が富国のためにも強兵策を取らねばならなかったのがこの時期の現実だったと松元氏。

 さらに留意する点は、松方正義による金本位制導入が、昭和の金解禁の時と違って新平価でなされたという。国際的な金高の本での金本位制導入は幕末と同様に金の流出を招くことが心配された。これに対して松方は、金の交換レートを高騰した国際価格の実勢に合わせて切り上げた上で予定通り導入を行った。この結果、金の流出という不測の事態は発生せず、円滑な導入が行われた。このとき、新平価での金本位制導入を提案したのが横浜正金銀行本店支配人だった高橋是清であった。高橋は松方蔵相に対して、金本位制を実行する好機であること、その際は金評価を2倍にして実行すべき旨を述べた建白書を提出した。


金貨の流通が見られない金本位制

2013年06月13日 | 歴史を尋ねる

 内閣府事務次官松元崇氏は主計局時代「ファイナンス」という広報誌に「明治憲法下の財政制度」を長期に連載していた。それをベースにいくつかの書籍を出版し、「さきの戦争は何だったのか」に迫っている。タイトルの「金貨が流通しない金本位制」は明治期のことをさすが、そのルーツは江戸期からだという。江戸期は金銀銅の三貨制度が出来上がったことは前に触れたhttp://blog.goo.ne.jp/tatu55bb/d/20120118 が、その実態はどうだったのか松元氏の著書を参考にしたい。

 家康は金座、銀座を開設し、贋造を厳しく取り締まった。銅貨は中国製や国内で模造された永楽銭などさまざまな銭が使われていたが、家光の時代からは幕府独自の寛永通宝の鋳造が開始された。しかし以降も永楽銭や鐚銭(びたせん)が多く出回り、両替商の活躍の背景になったという。貨幣制度の確立をめざした幕府は慶長14年(1609)には、諸藩の金、銀貨の鋳造を禁止した。各藩の金銀貨の流通が最終的に消滅するのは、元禄8年(1695)の貨幣改鋳によるとされているらしい。幕府は全国統一の通貨制度を確立したが、実際の庶民の生活で多く使われたのは藩札や銭だった。藩札のついては幕府は禁止令を出したが、8代将軍吉宗の時許可制の下に認めたが、明治4年調査では244の多くの藩札が発行されていた。江戸時代の貨幣経済の実際はどうであったか。「武士の家計簿」の磯田道史氏によると、武士の俸禄は米であったが、武家屋敷に実際に持ち込まれたのは銀であった。それも銀札、つまり藩札であった。金貨銀貨は高額貨幣で、大きな取引の決済手段、日常の買い物は銭が使われた。金銀貨は両替しないと使えない。サムライは金勘定はしないイメージがあるが、生活が米の換算レートに左右されていたから、明治になって銀行員になったものには、旧武士身分が多いという。最終的に俸禄収入の支出は、米の消費13%、銭で支出34%、銀で支出53%、金で支出0%。銀は借金返済や頼母子講などの金融関係やお布施などで使われ、日常は銭を使った。

 江戸期の商人間の決済は、現金に代って手形が用いられた。特に大坂での商人間の決済は正貨(幕府の金銀貨)はほとんど無く、99%は手形であった。為替が経済生活の中でいかに一般化していたかは、明治政府が商法制定が遅々として進まなかったが、手形・為替関連法制はいち早く明治6年に整備された。また遠隔地間の決済は為替で、江戸と大阪間の商取引は活発で、それぞれの大商人を経由して為替取引が発達した。さらに送金するための手段にも利用された。また江戸の金遣い、大坂の銀遣いは為替差損益が発生し、外国旅行をしなくとも、為替レートの変動問題について、自然な認識が持たれる状態であった。また、藩札と幕府通貨との交換は為替レートの変動問題が常に連動し、国際通貨制度のミニチュア版といえるものだった。また、それに加えて米の価格が毎年の豊凶によって大きく変動し、貨幣の持っている価値に対する感覚は今日とは異なるものであった。こうした中で、両替商は活躍し、世界に先駆けて大阪の堂島に近代的な米の先物取引も始められた。大阪に先物市場が開設されたことは、大阪が天下の台所といわれ、商業の中心であったことが分かる。徳川期の経済政策は相当優れたものといえると松元氏。江戸幕府の政策は紙幣を発行しないことを祖法として守る中で、財政窮乏化対策として金貨改鋳、さらに計数貨幣の誕生、成長通貨の供給にもなった。

 明治維新政府の秩禄処分や地租改正は、それまで物納だった年貢米を金納に改め、武士の俸禄を金禄公債で整理し、政府の経済政策の主眼は、江戸時代の米価安定から通貨価値の安定へと移っていった。政府自身が紙幣を発行するようになったので、政府が通貨価値そのものの安定を図らなければならなくなった。政府の通貨価値維持政策としては、そのために準備金を設けたことが特筆されると松元氏。この準備金制度の運用は一種の管理通貨制度だったともいえるもので、西南戦争の巨額な戦費に応じるため、趣旨を外れて大規模に準備金が流用され、その穴埋めや大隈財政の積極政策のため不換紙幣が増発されるまで健全に機能していたとされている。


道草 デフレと金本位制

2013年06月09日 | 歴史を尋ねる

 高橋亀吉の著書「近代日本経済発達史」を一時返却しなければならないので、道草でデフレについて考えてみたい。大蔵省に入省して、外務省にも出向、世銀金融スペシャリストなどを歴任、現在内閣官房参与、静岡県立大学教授の本田悦郎氏が著書「アベノミクスの真実」を出している。著者は「これまで世界的に見ても、デフレを終わらせるのは戦争であるケースがほとんど。戦前の日本でも、明治中期の松方デフレは最終的には日清戦争によって終了し、第二次大戦後のドッジ・デフレは、朝鮮戦争の特需によって短期間に終わった。そんな中で、政策の力でデフレからの脱却を実現したのは、昭和6年大蔵大臣に就任した高橋是清です」といいながら、インフレ数値目標政策が必要だと解き明かしている。ここでは政策ではなく、デフレと戦争に注目して、歴史を紐解いてみたい。高橋も、経済発達史を語る上で、日清戦争、日露戦争がステージアップの契機になっているとも語っている。金融財政史をもう少しディテールに入ることによって、その実相を見てみたい。

 ここに松元崇著「大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清」がある。彼は野田総理の下で内閣府事務次官に就任、現在に至っている。著書は高橋是清といっているが、明治大正昭和前半の金融財政を概況している。「松方正義によって整備された銀行制度を背景として、明治30年、日清戦争後の清国からの賠償金を原資に導入されたのが金本位制であった。わが国の金本位制導入にとって幸運だったのは、1886(明治19)年に南アフリカで大規模な金鉱山が発見され、金本位制下における世界的なデフレの時代が終焉したことであった。19世紀後半の世界経済は、金本位制下で金の総領が制約されていたため世界的にデフレの中で成長するのが一般的であったが、大規模な金鉱発見と新たな精錬法で金の産出量が飛躍的に増大し、デフレ下での成長の時代が終わった」
 後に高橋是清による金輸出再禁止が殆んど混乱なく行われた背景は、明治30年金本位制が導入された後も、日本では金貨の流通がほとんど見られなかった。その実態は、当時の通貨制度はほとんど今日の管理通貨制度と同様であったようだ。なぜ金本位制を導入しても金貨の流通が見られなかったのか。一つの理由は金本位制導入の原資はロンドンに在外正貨として保有され国内にはなかったためでもあったが、江戸時代から金貨や銀貨がさほど流通していなかった。藩札や銭が幅広く流通しており、特に上方では商業上の決済には為替や手形が主として用いられ、金貨や銀貨の利用はごく限られていたと、松元氏は言う。
 しかし明治維新期に日本に訪れた欧米商人の金貨に対する執着は強力であった。明治維新政府が発行した太政官札を金兌換ができなくなり政府紙幣に交換しようとした際にも、激しく抵抗した。英国やフランスの商人はそれぞれの政府を通して明治政府に金兌換の約束履行を強く求めてきた。そのような外国商人の金貨への愛着の背景は、全国的な銀行券が紙屑となった18世紀のフランスのジョン・ロー事件や、18世紀の米国におけるコンチネンタル紙幣事件などがあったと考えられている。


企業の熱狂的勃興と最初の恐慌

2013年06月04日 | 歴史を尋ねる

 明治20~23年に企業の本格的勃興を見るに至ったのは、株式会社制度の理解が進んだからで、それは株式会社の先駆者として明治10年代に発足した国立銀行の多数と日本鉄道会社、日本郵船会社、大阪紡績会社等が明治18年以降好成績を残し、株価が急騰してその有利性を示したからであった。新設拡張の大資本は、株式会社制度によってのみ、資金の調達が可能であった。しかしこの期に大量の企業が誕生した裏には、投機熱の沸騰が作用していたという。そしてその理由は当時の株式会社制度に求められるという。現行は株式の全額払い込みであるが、当時は株式額面を一時に払い込ませず、何度かに分割して総会の決議により払い込ませた。最初わずかな資金で株主権を獲得し、それだけ資力不相応の投機的応募が可能だった。企業誕生の熱狂は、はじめ鉄道企業、ついで紡績に移り、さらに鉱山業を見舞って、各種の事業分野に広がった。その熱狂は加速度的に拡大し、株式応募者が予想額をはるかに上回り、権利株の売買がさかんとなって、買いあおられて暴騰し、そのことが会社の新設熱をあおる事態となった。そして23年の一大恐慌を招いた。それは企業計画そのものが不健全で便乗組が多かったこと、そして企業が健全であっても、はじめて株式投資者となったものも多く、他日の株式払込資金の用意が不十分で一時的株主が少なからぬ比重を占めていた。日銀総裁が警告を発して、銀行および経済界の自粛を要求したことからも推測される。

 株主はその資金源を過度の銀行にたより、銀行はまた新設会社の見通しが立たない新株式を担保に安易に融通する風潮が強かった。企業は設備の建設工事が進行して未払い金の一部を払い込む段階になって、株主・銀行とも資金に窮し、金融は加速度的に逼迫していった。23年にいたって設備資材の輸入激増のため貿易収支が赤字に転落、正貨流出の事態を招き、さらに金融は逼迫した。それだけでも株価の低落を招いたが、新設会社も資金難をしのぐため未払込資金の徴収を急ぎ、それが株価をさらに下げる結果となり、株価はいよいよ悪循環的に暴落させる結果となった。大阪商船など基礎の固まった企業でも株価は六割余の暴落であった。この結果は銀行貸出の回収不能、銀行破綻の危機で、数行の破綻が全国的な預金取付け騒ぎに発展した。我が国史上はじめての近代的金融恐慌の来襲となった。このとき近代的中央銀行制度としての日本銀行は、その機能をようやく本格的に発揮しはじめた段階であった。恐慌襲来に直面するや、政府・日銀は一体となって4段階の恐慌救済措置を講じ、恐慌の破局的激化はようやく食い止められた。

 わが国はじめての企業誕生ブームであっただけに、これに参加した株主も、経営首脳者も、近代企業の経営につき未経験なものが多かった。それだけにこの時の恐慌とその後の不況の経験は、株主にも経営者にも教えるところが多く、爾後の近代企業発達に貢献するところが多かった。そして日清戦争後の第二次企業勃興期の大きな道しるべとなった。

 もう一つ重要なことは、この時期を契機に、近代的信用機構が近代企業とはじめて有機的連携を持った。このことがどれだけ重要かはその後大蔵大臣を経験した阪谷芳郎が回顧談を残している。「明治初年の商工業者、旧幕府時代の慣習を残して、成るだけ借金をしないで、持ち金で商売をしたい、工業がしたいと云う人ばかりで、借金などして手広く商売をするというと、世間体が悪いという考え方である。日本の商業社会なり工業社会なり総て借金を大変恐れる。しかし借金なしに商業をしよう工業をしようと云うなら大きなことは出来ない。借金が盛んに出来れば出来る程商工業を大きく運転することが出来る。そこで、維新の初めから政府はかかる旧習慣、自己蓄積の範囲に籠もる習慣を破ることに努めたが、その最も大規模な方法は全国に国立銀行を創立せしめたことだ。しかし国立銀行は沢山出来たが、当時のわが国の商工業者は借金嫌いであったから、銀行に借り手がない。そこで銀行者自ら、工業の重役になり、相談役になり、顧問役になり、社長になって、自分の資金を運転するよう従事しなければならぬという風になって来た」 銀行自らが先頭に立って工業投資をすすめ、その積極的気風は、その後大正期までもその特色をなしていたという。


日本近代経済のテイクオフ

2013年06月04日 | 歴史を尋ねる

 封建制下にあった国民にとって、近代経済は全く新規、異質のもので、その企業化には困難と障害、不安を伴った。例えば①近代経済の運営に必要な人材や技術・技能の欠如、②所要資本の不足、③運輸・通信・信用制度の不備、④これまで経験のない事業での無知。こうした諸障害が維新後の努力と経験の積み重ねによって、明治20年前後までに克服され改善されたと高橋亀吉は云う。維新政府主導の下に導入移植された鉄道・汽船・銀行・会社制度等の基礎的構造的設備・機構はその運営に熟知し、国民にその威力を知らしめていた。また、大阪紡績会社、日本鉄道会社、有力な銅山会社、石炭業者の先駆的企業がスタートを切っていた。近代経済に対する国民の認識は高まり、近代企業台頭の基盤条件はようやく整った。さらに重要なことは、他の後進国のような外資依存ではなく、専ら国民の英知と努力によって築かれた自立的発達であったと高橋は云う。

 高橋はさらに分析を進めて、テイクオフを自立的に準備できた基礎要因を次のように述べる。①在来産業による原始資本の供給:廃藩置県・武士秩禄の整理といった財政上の節約による資金の捻出、近代信用制度の導入による資金供給力のアップ。しかし根本は当時の主産業であった農業が生産性を高め、直接間接供給したことにあった。中央財政の歳入中地租の占める割合は、明治10年以前は90%、20年で尚66%、近代的施策は農業の負担力に依存して進められた。また、維新後の経済設備、兵器、学術用品などの巨額な輸入をまかなった輸出の主役は、生糸、茶その他農産品であった。輸出品目中農産品が80%~60%を占めていた。②近代経済の発達に必要な労働力の供給:良質、低廉、豊富な労働力は主として農村より供給された。農村は労働年齢に達するまでの養育、義務教育等を負担しながら、豊富な労働力を供給し続けた。③導入移植された近代産業の本来機能の発揮:鉄道は路線の延長で収益力の発揮、汽船は過度の競争時代を抜け出し拡大路線に転換、銀行・商社・紡績・製糸等の近代企業が収益を上げる段階に入った、石炭・銅・金銀等の鉱業が本格的稼動に入った。以上の企業的成功の実績は、明治14~18年の松方デフレ政策の一巡で政府民間共に積極的行動に転じ、明治19~23年の近代的企業ブームを呼び起こした。

 企業熱は農商工鉱運輸等のあらゆる産業部門にわたったが、特色として鉄道・紡績・鉱業等大資本企業が勃興してブームの中核をなした、さらにその他の分野でも株式会社としてはじめて大量に登場した。土木会社、興業会社、用達会社、物産会社、倉庫会社、航海会社、人造肥料会社、東亜貿易会社、張物会社、織機製造会社、蚕卵紙会社、中央陸運会社、産馬会社、火災予防会社、船渠会社、貨物会社、呉服太物会社、汽船会社、水道会社、陶器会社、ゴム製造会社、染物会社、扇子会社、ガラス製造会社、海産会社、酒類小売会社、板紙製造会社、銅器会社、製茶輸出会社、正米輸出会社、砂糖会社、製糸会社、為替会社、山樹会社、煉化石会社、人足会社、製薬会社、瓦斯会社、麦酒醸造会社、等々快挙に遑あらず。会社創立の風潮極めて盛んにして考えられる会社は殆んど創立し尽して余すとこなしと当時の東京経済雑誌に掲載されている。