貨幣とは何かという問いに対し、統一的定義はないそうだ、或は経済学者の数だけあるという。マルクスは一般的な価値形態だといい、ケインズは100%の流動性そのものといった。合意点を見出せない表現に聞こえるが、これを日常語に三上隆三氏が翻訳すると、「貨幣は所有者のいかなる要求も満たし、極端に言えば、広大な邸宅も、内閣総理大臣の地位さえも入手してくれるものが貨幣」となる。江戸時代の三貨制度は、怪力・魔力を持つ貨幣を制度として、組織的機械的に発行し流通させた。「日に三箱散る山吹の江戸の花、三ヶ所へ千金の降る繁盛さ」 箱は千両箱、山吹は金貨、三ヶ所は朝の日本橋魚河岸、昼の江戸三座、夜の吉原遊郭を指す。貨幣経済社会を代表する紀伊国屋文左衛門は、1000両で吉原を買いきって、招待した奈良屋茂左衛門に「面白いものをご覧にいれます。路上の雪を消して見せます」といって、揚屋の2階から金貨を路上にまき、遊郭従業員に裸足でそれを拾わせ、体温で路上の雪を消し去った。返礼に奈良茂は翌日紀文に蕎麦2人前を贈った。この粗末な返礼に立腹した紀文は倍にして返してやると蕎麦を買い求めようとしたが、奈良茂が江戸中の蕎麦を買占めた上での贈り物だったという話が残っているそうだが、貨幣経済が生み出した奢侈追求であった。この貨幣流通にともなう華美・豪奢の先頭を走ったのは、徳川家を代表する武士階級であった。京都に名指しの呉服商をもつ大名数は143で、江戸徳川家は七軒の呉服商を持っていたそうだ。徳川家の娘が天皇の女御に東福門院として入台した時の費用も巨大で、先般開かれた京都御所の宝物展でも、東福門院の宝物がひときわ目を引いた。また、井原西鶴は「銀が銀を儲ける時節」と表現して貨幣の恐ろしさをその経済小説で語っている。当時のGNPがどの程度であったか、経済資料があるわけではないが、貨幣の発行量、或はその流通量である程度推し量れる。当時、世界的には金銀銅が恵まれた日本であったから、貨幣に支えられた高い水準の経済活動が行なわれていたものと推定される。
貨幣経済が発展すると、生活水準は向上して生活の華美・奢侈化が進み、江戸が火災等の災害に遭うと、その復興費用も幕府の支出となる。貨幣支出に対する鷹揚な幕府は財政悪化を加速させた。財政再建策は幾度となく繰り返されたが、究極の秘策は幕府の造幣権を行使して貨幣の改鋳による出目(でめ)政策であった。新将軍綱吉が日光参詣費にも事欠く財政難に陥った時、柳澤吉保と荻原重秀は職務上から蛮勇をふるって採用決断したのだろうと三上氏はいう。出目で生み出されたものは500万両であったという。出目産出の成否は、新旧貨幣の交換である。海外流出分を加味すると83%ぐらい回収されたという。しかしながら出目入手が2度3度となると、良貨の隠匿、インフレーションの発生で出目効果は薄れてくる。その中にあって、出目のエースとして前編で紹介した金貨単位を持つ計数銀貨南鐐二朱判、天保一分銀は幕府財政に大いなる助けとなった。具体的な出目の数値は、幕府の財政経済資料として最重要の勘定所関係の正式書類一式は、明治政府への引渡し直前小栗忠順(ただまさ)の手によって焼却されてしまった。従って文政、天保の二次史料によって分かるのはそれぞれ数百万両づつ出目が産出されている。
幕末の財政はそれでなくとも支出が多額に上ったが、ハリスやオールコックとの為替交渉で水野忠徳の主張する1ドル=一分銀が受け入れられず、同種同量の交換を飲まされ、更に準備した安政二朱銀による防御線が簡単に破られ、当時のロンドン・タイムスは「現行レートで銀と交換した金を輸出すると、莫大な利益を生むことを知ったわが商人どもは、膨大な量の銀貨を日本当局に要求し、金に交換して、その金をヨーロッパに輸出した」と報じた。金流出額は小は一万両から大は2000万両まであって正確なところは分からない。これに驚いた幕府はハリスの勧告に従って金貨の価値を三倍に引き上げた。すると金の流出はとまったが、国内は物価上昇、狂乱物価、パニックが江戸、京、大坂など貨幣経済の発達していた地域を中心に、地方都市も巻き込みながら発生した。併せて、幕府は金貨の価格を引き上げることによって得ていた出目(改鋳益)を一気に失った。幕末の50年間改鋳益によって毎年三分の一を占めた歳入が一気に喪失し、長州征伐も掛け声倒れとなり、勝海舟が氷川清話で語ったように、金庫蔵がスッテンテンになっていた。佐藤雅美氏はこう結ぶ、「インフレによるうらみつらみの声を一身に集め、みしみしと音を立てて崩れるように幕府は瓦解した」