金銀銅三貨制度の終焉

2012年01月30日 | 歴史を尋ねる

 貨幣とは何かという問いに対し、統一的定義はないそうだ、或は経済学者の数だけあるという。マルクスは一般的な価値形態だといい、ケインズは100%の流動性そのものといった。合意点を見出せない表現に聞こえるが、これを日常語に三上隆三氏が翻訳すると、「貨幣は所有者のいかなる要求も満たし、極端に言えば、広大な邸宅も、内閣総理大臣の地位さえも入手してくれるものが貨幣」となる。江戸時代の三貨制度は、怪力・魔力を持つ貨幣を制度として、組織的機械的に発行し流通させた。「日に三箱散る山吹の江戸の花、三ヶ所へ千金の降る繁盛さ」 箱は千両箱、山吹は金貨、三ヶ所は朝の日本橋魚河岸、昼の江戸三座、夜の吉原遊郭を指す。貨幣経済社会を代表する紀伊国屋文左衛門は、1000両で吉原を買いきって、招待した奈良屋茂左衛門に「面白いものをご覧にいれます。路上の雪を消して見せます」といって、揚屋の2階から金貨を路上にまき、遊郭従業員に裸足でそれを拾わせ、体温で路上の雪を消し去った。返礼に奈良茂は翌日紀文に蕎麦2人前を贈った。この粗末な返礼に立腹した紀文は倍にして返してやると蕎麦を買い求めようとしたが、奈良茂が江戸中の蕎麦を買占めた上での贈り物だったという話が残っているそうだが、貨幣経済が生み出した奢侈追求であった。この貨幣流通にともなう華美・豪奢の先頭を走ったのは、徳川家を代表する武士階級であった。京都に名指しの呉服商をもつ大名数は143で、江戸徳川家は七軒の呉服商を持っていたそうだ。徳川家の娘が天皇の女御に東福門院として入台した時の費用も巨大で、先般開かれた京都御所の宝物展でも、東福門院の宝物がひときわ目を引いた。また、井原西鶴は「銀が銀を儲ける時節」と表現して貨幣の恐ろしさをその経済小説で語っている。当時のGNPがどの程度であったか、経済資料があるわけではないが、貨幣の発行量、或はその流通量である程度推し量れる。当時、世界的には金銀銅が恵まれた日本であったから、貨幣に支えられた高い水準の経済活動が行なわれていたものと推定される。

 貨幣経済が発展すると、生活水準は向上して生活の華美・奢侈化が進み、江戸が火災等の災害に遭うと、その復興費用も幕府の支出となる。貨幣支出に対する鷹揚な幕府は財政悪化を加速させた。財政再建策は幾度となく繰り返されたが、究極の秘策は幕府の造幣権を行使して貨幣の改鋳による出目(でめ)政策であった。新将軍綱吉が日光参詣費にも事欠く財政難に陥った時、柳澤吉保と荻原重秀は職務上から蛮勇をふるって採用決断したのだろうと三上氏はいう。出目で生み出されたものは500万両であったという。出目産出の成否は、新旧貨幣の交換である。海外流出分を加味すると83%ぐらい回収されたという。しかしながら出目入手が2度3度となると、良貨の隠匿、インフレーションの発生で出目効果は薄れてくる。その中にあって、出目のエースとして前編で紹介した金貨単位を持つ計数銀貨南鐐二朱判、天保一分銀は幕府財政に大いなる助けとなった。具体的な出目の数値は、幕府の財政経済資料として最重要の勘定所関係の正式書類一式は、明治政府への引渡し直前小栗忠順(ただまさ)の手によって焼却されてしまった。従って文政、天保の二次史料によって分かるのはそれぞれ数百万両づつ出目が産出されている。

 幕末の財政はそれでなくとも支出が多額に上ったが、ハリスやオールコックとの為替交渉で水野忠徳の主張する1ドル=一分銀が受け入れられず、同種同量の交換を飲まされ、更に準備した安政二朱銀による防御線が簡単に破られ、当時のロンドン・タイムスは「現行レートで銀と交換した金を輸出すると、莫大な利益を生むことを知ったわが商人どもは、膨大な量の銀貨を日本当局に要求し、金に交換して、その金をヨーロッパに輸出した」と報じた。金流出額は小は一万両から大は2000万両まであって正確なところは分からない。これに驚いた幕府はハリスの勧告に従って金貨の価値を三倍に引き上げた。すると金の流出はとまったが、国内は物価上昇、狂乱物価、パニックが江戸、京、大坂など貨幣経済の発達していた地域を中心に、地方都市も巻き込みながら発生した。併せて、幕府は金貨の価格を引き上げることによって得ていた出目(改鋳益)を一気に失った。幕末の50年間改鋳益によって毎年三分の一を占めた歳入が一気に喪失し、長州征伐も掛け声倒れとなり、勝海舟が氷川清話で語ったように、金庫蔵がスッテンテンになっていた。佐藤雅美氏はこう結ぶ、「インフレによるうらみつらみの声を一身に集め、みしみしと音を立てて崩れるように幕府は瓦解した」

 

 


日本の貨幣経済その2

2012年01月20日 | 歴史を尋ねる

 明和五匁銀と明和南鐐二朱判とは、計数銀貨とはいえ、その性格は決定的に違っていたと三上氏はいう。五匁銀は秤量貨幣の世界に所属するコインであるのに対し、南鐐二朱判は銀貨でありながら伝統的な単位の貫・匁体系から離脱し、その量目にかかわることなく、その一個片が金貨二朱の購買力を持つ金貨の世界に所属するものであるというのである。銀貨における質的大転換が起こっている。明和南鐐の表面には「以南鐐八片 換小判一両」との刻印がある、明治に発行された明治銅貨上の「換」と一緒で、一円金貨との兌換・交換を意味した、従って金貨の補助貨幣に位置づけられるものであった。しかし幕府は「換」の文字の意味にもかかわらず、これを小判と交換する意志をもっていなかった、金貨同様のものと心得、その通り使用せよと命じた。幕府は南鐐貨が金貨に対する補助貨幣第一号ということもあって、金貨特有の呼称・美称となっている「判」を態々つけて、南鐐二朱判と命名した。さらに、金貨単位を持つ銀貨という特異性に対する庶民感覚が麻痺し、日常化するのを見計らって、天保8年(1837)に鋳造された銀貨に、明確に「一分銀」の文字を鋳込んだ。補助貨幣の完成品である。この時期になると、庶民もこれに対して全く異を感じることはなかったという。

 天保一分銀の貨幣価値は、金貨である一分金と等価とされ、したがって1/4両に相当し、また4朱に相当した。この天保一分銀は、文政南鐐二朱銀2枚分の量目4.0匁と比較して42.5%の大幅な減量であり、文政南鐐一朱銀4枚分の量目2.8匁に対しても約18%の減量である。銀量の減少と引換にさらに精錬の度合いを上げた花降銀(はなふりぎん)を使用し、表面に「花降一分銀(はなふりいちぶぎん)」と表記することを計画したが、水野忠邦の反対に遭い単に「一分銀」と表記し、周囲の額に桜花を20個配置することになった。

 このことについて三上氏は次のように解説している。補助貨幣はその価値が素材価値に拘束されない、理論的には計数銀貨の銀量がどれほど削減されようと、通用価値にはいささかの支障もきたさない。削減量に比例して幕府財政は潤沢となる。本位貨幣の金貨における金量削減は、インフレーションとして跳ね返るが、補助貨幣の銀貨にはその心配はない。小判の金量が堅持されれば、計数銀貨の発行による出目がインフレーションによって相殺されることはない。正味の安定した出目が幕府にもたされることで、ここに幕府の財政秘策の成功が見られることになる、と。1857年から5年間医師として長崎に滞在したポンペは「天保一分銀は銀製の兌換券のごときもので、・・・・大変頭の良い日本の財政担当大臣の案ではなかったかと思う」と、驚きをもってその本質をとらえていた。まことに天保一分銀は、衆知を集めた日本錬金術の成果だと三上氏は解説を結んでいる。当時の幕府財政の立直しはこの銀貨による出目(貨幣発行益)に大きく依存していた。そして、明和南鐐二朱判にはじまる一連の補助貨幣は、実質的金本位制度のスタートだという。(英国は金塊本位制でこれは金貨本位制と命名している)

 安政6年(1859)イギリス総領事宛の書簡には「金は原(もと)の貨にして、銀貨是に代りて只極印のみに力あり。仮令に云はば紙或は革を以て造りたる極印の札に等し」とあるそうだ。佐藤雅美氏の「大君の通貨」はまさしくこの点を突く歴史経済小説であった訳だ。更に付け加えれば既述した荻原重秀の「貨幣は国家の造る所。瓦礫を以て之にかえるといえども行なうべし。今鋳るところの銅は薄悪といえども、なお紙紗に勝れり。之を行いとぐべし」との思想を発展させたと、三上氏も語っている。


日本の貨幣経済

2012年01月18日 | 歴史を尋ねる

 「大君の通貨」では、オールコックに対して「日本は金本位制をとっている。日本の銀貨は刻印を打って通用させている金貨の代用貨幣だ」と水野忠徳は云ったことになっているが、英国でゴールドスタンダード(金本位制)という考え方が生まれたのは19世紀はじめのようだ。この著書の底本となったオールコックの「大君の都」にはさすがにその言葉は使われていない。しかしオールコックが日本の当時の通貨制度を説明する時、内容は佐藤氏の「大君の通貨」に書かれていることと同じだ。むしろ、当時のハリスやオールコックの理解を超えた通貨制度を日本では運用していたこととなる。なぜ当時、高いレベルの通貨制度を操っていたか、尋ねることとしたい。

 日本の貨幣の歴史について、三上隆三著「江戸の貨幣物語」の力を借りて整理したい。日本経済は平安末期の武士階級の台頭とともに、農業の生産性が向上し、徐々に貨幣流通を必要とするようにになった。日本列島は銅に恵まれているものの、火山国であるため、その多くは黄銅鉱のような硫化銅で使えなかった。硫黄分を抜き取る技術は、ようやく16世紀はじめ摂津の銅吹屋新左衛門の山下吹によって開発された。抽出が容易であった赤銅鉱のような酸化銅は金剛大仏の鋳造にすっかり使われ、もはや入手が困難であった。貨幣経済発展の最初のピークは室町時代であったが、明銭を輸入して、明の権威のもとに渡来銭を全国的に流通させた。当時来日した朝鮮回礼使の見聞報告書で、日本がいかに貨幣経済化されているか記述が残されていることは既報済みである。また、近代銀行の租はイギリスのゴールドスミス(金匠)といわれているが、日本でも土倉・酒屋と呼ばれる預金・貸付の業務を行なっていた。こうした当時の貨幣経済の内容は、質と量からも、世界水準であったことを窺わせる。さらに、三好氏の研究によると、室町幕府の進めていた通貨政策を、経済感覚の鋭い織田信長は1歩進めて金銀使用の督励、これを体系的な貨幣制度に仕上げたのは徳川家康であったといわれる。これは戦国時代、軍資金確保のために各地で金銀山の開発が進み、これを信長、秀吉が収集し、徳川の手に渡って、これに銅が加わって、有名な金銀銅による三貨制度がスタートを切ることになった。「大君の通貨」で佐藤氏はハリスとの交渉責任者となった老中間部詮勝(まなべあきかつ)に、「われわれ大名は、これまで金銭のことなど取扱ったことなどござらん」と言わしめたが、金銀銅の通貨政策に当時のトップリーダーが直接関わったことを勘案すると、いかに重要政策(国家経営戦略)であったかかが推し量れる。 三貨制度成立には徳川家康が深く関わっているが、その詳細は別項に譲って、先を急いで金本位制(当時の言葉で「金は原(もと)の貨」)になぜ辿り着いたかを追いたい。

 1765(明和2)年、田沼意次は勘定吟味役の川井久敬を遣い、それまで丁銀と豆板銀に限られていた銀貨に加え、まったく別の新しい貨幣を発行させた。「明和五匁銀」と呼ばれたこの貨幣は、初めて額面を明示した計数貨幣としての銀貨が生まれた。明和五匁銀」が広く流通すれば日本国内での商取引が今以上に円滑に行われるはずだった。しかし江戸・大阪・京都などの両替商が抵抗した。金と銀が独立した貨幣であり、日々相場が動くことにより、交換手数料を収入とする両替商には、手数料収入が減るのは目に見えていた。両替商が取った抵抗策は、この「明和五匁銀」に対しても丁銀・豆板銀と同じ相場を立て、田沼意次が意図した、「明和五匁銀」12枚=金1両との相場を採用しなかった。このため1772(安永元)年までの8年間に1,800貫目の鋳造をしたのみでその生命は終わった。そしてその年の9月、新たな貨幣「南鐐二朱判」を発行した。この貨幣は銀でできてはいるが、金で鋳造されている二朱金と同一通貨であり、実体は「明和五匁銀」の理念をさらに進めて、これは「銀で造った金貨」であった。この「南鐐」という言葉は「舶来の良質銀」という意味で、事実五匁銀(品位46%)に比べ、98%ときわめて高く、純銀と言っても差し支えなかった。しかしそれでも両替商はその普及に対して抵抗した。幕府はこの使用を命じたが、両替商達は受け入れなかった。そして田沼意次失脚後、松平定信は両替商たちの主張を入れ、この鋳造を停止した。しかし「二朱判」は時代の要請に合うものだったので、松平定信が解任された後、寛政12年に鋳造が再開された。この計数銀貨の鋳造には大量の丁銀が鋳潰されたため、1830年代になると銀貨の約9割を計数銀貨が占めるようになった。


番外編3 呑噬(どんぜい)の志を逞しくする

2012年01月11日 | 歴史を尋ねる

 幕府は横浜で1日1万イチブのドルとの同量交換をはじめた。外国商人のイチブ両替要求はすさまじかった。それを得れば大儲けのできる錬金のタネ、イチブをできるだけ多く獲得しようと目に色を変えて両替所の役人に詰め寄った。外国商人の手に渡るイチブの数が激増した。そうするとコバング(小判)の値が四イチブであったのが八イチブに撥ね上がった。一両の売値が倍になると、退蔵されていた江戸の小判が浮き上がって、横浜に流れ始めた。あわてて幕府は外国人に小判を売り渡すのを禁じたが、あの手この手で横浜へ小判を運んだ。ジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵の自伝には詳しく当時の情景が描かれている。横浜はカルフォルニア、オーストラリアにつぐ、ゴールドラッシュに沸き返る町になった。

 両替要求は、各商人が紙片に額を書く込むことになっていたが、中には天文学的な数値を書き込むものも現れ、サインを求めると読めないこといいことに、「ばか者と泥棒の共同経営」商会といった名を書き連ねるケースもあり、物狂い状態であった。しかしさすがにコバングが九イチブと高くなると、今度は商品が安いとこちらを買いあさった。利にさとい外国商人は、今度は絹や海産物、魚油などの商品買い付けに奔走した。つられて貿易と関係ない物の値段まで引きずられるように騰がっていった。便乗値上げで、幕末のけたたましい物価上昇、インフレーションはこういう形ではじまった。

 小判の流出、商品の買い漁り、便乗値上げなどの騒ぎがはじまって、担当閣老の間部は井伊に激しく責め立てられた。間部は井伊の忠実な部下だったが、しかしながら大名、金銭等のことは何も分からない。そんな時に江戸城本丸が焼失した。とりあえず騒ぎの元凶の一分銀の供給を停止した。どうしてよいか分からずに水野に頼ろうとしたが、今度は騒ぎの責任者として井伊は水野を閑職においやった。そんな折にオールコックが軍艦を背景とした恫喝まがいの条約遵守を迫った。間部が病気と称して引き籠ると、間髪をいれず、井伊は脇坂に交代させる。しかしこの脇坂は間部に輪をかけて通貨問題が分からない。結局ハリスの主張に沿って金貨(小判)の引き上げに向った。水野は今度は脇坂に向って、「いま金価格を引き上げると、蝋燭、紙、油、織物類等、日常品が高騰する。商人は値上げに応じて便乗値上げできるが、価格転嫁できない武士や町人は窮迫し、国そのものが疲弊する」と、訴えた。年が明けて安政7年(1860)、脇坂は水野の進言を無視し、金価格を3.375倍に引き上げると発表した。そしてその1ヵ月後、井伊直弼は桜田門外で水戸の浪士に打たれた。井伊が斃れた後の政権は久世大和守広周と安藤対馬守信正の二人であった。政治路線は井伊路線の変更、朝幕関係の修復、その先に「皇妹和宮の降嫁」、引き続いて「両港両都開港開市延期」であった。そしてこの開港開市延期問題は幕府と外交団との間で外交官に両替特権を認めた。あの「一外交官の見た明治維新」を書いたアーネストサトウも「まことに慙愧の念に耐えない。私の唯一の弁解は、梯子の最下段にいて、事務当局が渡してくれる分け前を受け取っていただけだ。」

 江戸の時代、攘夷論者であった澁澤栄一は明治の世になって、次のように言っている。「物価とみに騰貴し、一定の俸禄に衣食する士人は最も困難を蒙れり。外夷は無用の奢侈品を移入して、我が日常生活の必需品を奪い、我を疲弊せしめて、遂に呑噬(どんぜい)の志を逞しくするものなり。この禍源を開けるは幕府なりと、天下を挙りて罪を開港に帰し、ひたすら幕府と外人を嫉視するに至れり」 生活に苦しむ武士は、その怒りを外国人と幕府にぶっつけた。相次いで起きた外国人殺傷事件もこのことと無縁でなかった。「万民を苦しめ候段不届至極につき、不日(そのうち)買占め候もの残らず天誅を加うべきもの也」といった張紙もでてきて、一気に世相も不安を増した。