石原莞爾の計算と板垣征四郎の小細工

2015年09月30日 | 歴史を尋ねる
 石原莞爾が板垣征四郎と共に練りに練った奇襲作戦の下に、わずか一万余の関東軍はたちまちに満州の中心部を制圧してしまった。中国側はもともと無抵抗主義を命令されていたが、蒋介石はたった一晩で、事情もよくわからないまま満州の主要地が関東軍も武力支配するところとなったと回想している。その後も張学良は抵抗さえしなければ事態は拡大しないと考えて無抵抗主義を維持し、それが関東軍の迅速な行動を助けることとなった。不意打ちを受けた張学良政権の要人たちは万里の長城に近い錦州に逃れ、錦州を最後の足場にゲリラ戦で失地回復を策した。北部は地方軍の指導者たちが割拠していたが中でも馬占山の行動力が抜群であった。石原は「兵を小出しにして負けた負けたといえば、支那軍はいくらでも強気になるし、日本人は負ければ意地になる国民性がある」と喝破し、石原は小部隊を引き連れて出撃した。はたして日本軍は馬占山軍の重囲に陥り、敗退した。中国では馬占山の大勝利が報道され、救国の英雄、東洋のナポレオンと呼ばれ激励や見舞金が山のように集まった。日本側は朝日新聞満州支局長が先駆けて大々的に報道し、関東軍頑張れという慰問金、慰問袋が殺到した。こうなると石原の計算通り、馬占山軍も日本軍も引くに引けなくなる。参謀本部も馬占山に徹底的な打撃を与える命令を発し、馬占山軍を正面から撃破、チチハルに入城した。その後北満州は、各地方が次々中国本土からの分離独立を宣言し、満州国独立が満州人の意思であるという既成事実が作られていった。錦州は、天津に騒擾を起こして邦人保護を口実に途中錦州の張学良軍を撃破しつつ長城まで進出する計画であったが、作戦半ばで幣原外相に注意を喚起された参謀本部の中止命令により挫折した。12月11日若槻内閣総辞職で幣原も退陣したころには日本の国内の雰囲気も一変し、政府も軍ももはや関東軍を統制しようとはしなくなった。関東軍は日本が国際連盟理事会で匪賊討伐の権利を留保したのを受けて、錦州攻撃を発した。関東軍は1月3日錦州を攻略、その勢いを駆って長城線以北を制圧した。わずか四カ月で全満州を制圧した。東京では歓呼の声はあっても、もはやこれに反対する声はなかった。

 もう西園寺公望も止めようとしなかった、と岡崎久彦氏はその著書で述べている。11月1日に来訪した宇垣一成に対し西園寺は「幣原外交については、オーソドックスで間違いなきものとして今日まで支持してきたが、いかに正しいことでも国論が挙げて非なり悪なりとするに至っては、生きた外交をするうえでは考え直さねばならぬことである」と漏らしたという。当時のことを覚えている世代の記憶では「幣原」の下に常に「軟弱外交」という言葉がついていたという。西園寺としては、何よりも大事なのは皇室の安泰であり、世論がここまで決定的に動いているのに天皇の「あまり立ち入った御指図はよくない」と考えたようで、事態を流れに任せた感がある、と。
 昭和7年1月8日の勅語は、既成事実を追認した。「さきに満州において事変の勃発するや自衛の必要上関東軍将兵は果断神速、寡よく衆を制し・・・朕深くその忠烈を嘉す。汝将兵ますます堅忍自重、以て東洋平和の基礎を確立し、朕が信倚(しんい)にこたえんことを期せよ」 おそらく参謀本部が起草したものか。もう政府がこれをとめようと思っても止められる状況ではなかった、と岡崎氏はいう。さきに在満に日本人が幣原外交恃むに足らずとして自立を宣言して以来、在満の軍と邦人は結束して、日本国籍を離脱して満州国建国を考えていた。こういう人たちが東京の命令を聞くはずもない。新満州国は、裏に関東軍がいることは明らかであるが、形式的には満州の各地指導者の意見による分離独立であり、東京が外からとやかく云えない性質の既成事実がつくられていた、という。

 満州事変以降、中国の外交戦略は一貫していた。二国間交渉で日本に力で抑え込まれないために、国際連盟に訴えて国際世論の力で日本に対抗しようとすることであった。アメリカは結局上院の反対で国際連盟に加入できなかったが、連盟はウイルソン大統領の主張でつくったものである。その過程で、世界の平和と安定を守る機構として機能しないのではないかという批判に対するウイルソンの唯一の反論は、国際世論の力に頼るということであった。第二次大戦後の国連は大国の拒否権、或は多数の独立国家の加盟で世論形成が難しくなったが、アメリカが考え出した国際世論による外交というものが実質的な効果を持った例があったとしたならば、それは満州事変の連盟決議がほとんど唯一といえるかもしれないと、岡崎氏。といって連盟の世論は初めから日本に不利だったわけではなかった。少なくともリットン調査団の派遣を決めた12月の連盟決議成立までは、会議の雰囲気は「多くの場合においてわが方の主張を容れ、支那側を抑えつける傾向であった」(当時の外務省調書)といえるぐらい日本に好意的だった。当時押しも押されもしない大国で、国際法に通暁した外交官を揃えている日本と、まだ国家の統一も出来ず、その国民の行動について責任も持てない中国とでは、自ずから国際社会の尊敬の度が違った。また不平等条約の撤廃を急ぐ中国の態度に対して、日本と英国などはこれに対抗するという共通利益をもっていた。
 世界の外交官が知恵を絞って出した種々の妥協案は、一言で言うと、少しでも早く停戦して、日本軍を満鉄付属地内に撤退させようということであった。しかし関東軍の行動は一歩一歩先回りするので、すべて無意味になっていった。その意味で、リットン調査団の設置決議の成立は、日本にとって「外交上の勝利」であった。停戦とか撤退とかは一応棚上げにしたまま、まず調査団を送ろうという話で、関東軍が既成事実をつくるには好都合の状況をつくった。調査団設置というのは、国際会議でニッチもさっちもいかなくなったときの常套的な知恵で、この時も各国代表団は、それでクリスマスの休暇にはいれるので歓迎した。フムフム、さすがに専門家の見る見方は違う。日本政府にも知恵の出し方があったということだろう。しかし理由はともあれ若槻内閣が12月11日総辞職した。世界も中国もびっくりしたことだろう。

 しかしその間、軍はひとつ余計なことをした。それが上海事変(1月18日)であった、と岡崎は嘆くし、先の重光葵の上海―東京間の奔走に繋がっていく。戦後の関係者の証言では、満州から列国の注意をそらすために上海で事を起こすという板垣の策謀によるものだったという。ところが連盟は演説会(事変に関する各国の)に疲れてしばらくの休暇に入っているのだから、まったく余計な事であった。連盟の雰囲気の微妙な変化など知る由もない現地の無用の小細工であった、と。
 上海事変は、中国軍の頑強な抵抗により、中国のナショナリズムは昂揚し、後年、日本軍に対抗する自信の源になった。また、列国の経済利益の集中する上海での軍事行動は列国の非難を浴び、国際連盟の雰囲気も一転し、2月19日、傍聴席には新聞記者で満席の理事会で日本は完全に世界世論の前に孤立無援となったと佐藤尚武代表が報告している。また外交技術的な問題ではあるがと岡崎氏は前置きし、リットン調査団が単なる調査ではなく、勧告をも行うこととなったのもこの時からであった、と。中国は上海事変を機に、中日紛争に規約第十五条(紛争解決方法の勧告も行い、その勧告が無視された場合第16条の経済制裁にもつながる条項)の適用を求め、連盟は承認した。結局リットン調査団は勧告を出す作業を行い、受諾できなかった日本は連盟を脱退した。

犬養新内閣と上海事変(戦争)

2015年09月27日 | 歴史を尋ねる
 重光葵中国公使は犬養新内閣の政策に不安を懐き、芳沢謙吉新外務大臣の意中を測り兼ねたので、辞職をも辞せざる心組みで、許可を得て東京に帰った。芳沢外相の就任後一週間、1932年1月初旬であった。新大臣は満州建国の当面の問題に没頭して、上海問題に注意を払う暇なく、重光公使との会見は督促にも拘わらず日一日と遷延された。重光は当局者に対して上海の形勢の重大にして危険なことを説いて、政府のこれまでの誤解せしめた態度を一新して、日本政府の公正なる方針を明瞭に公然声明することを強く進言したが、政府はこの対支全局の問題を処理する余裕はなく、満州建国問題に関する協議にひたすら忙殺されていた、という重光の歯ぎしりが聞こえてくる。

 陸軍が支那の北方で強硬手段に出ると、上海における海軍の態度も硬化した。上海にも血盟団の一味は存在した。上海の海軍陸戦隊指揮官は、禍源と見られた北停車場付近の排日本部に打撃を加えるため奇襲を海軍本省に許可申請があった。これを知った重光は、この手段に出ると、たちまち排日屋に最良の口実を与えるのみならず、直ちに日支両軍の衝突を意味する。僅か七、八百名の陸戦隊をもって、その結果起こるべき事態を如何に処置するのか、重光は反問した。海軍当局は漸く思い止まった。上海の事態が急迫してきたというので、漸く芳沢外相と会見が出来た。重光の意見に対しては、全幅的に同感の意を表し、即時帰任の上、上海に不慮の事件が起らぬように尽力するよう指示があったが、新内閣の対支方針の声明はその時期に非ずと、採用されなかった。政友会内閣が再び田中内閣時代の積極政策に復帰したとの誤解を払拭されるに至らなかった。
 上海の空気は、重光の不在中に、急激に悪化しつつあった。御題目を唱え太鼓を打ち鳴らしつつ、排日の巣窟と見做された支那街を通過しようとした日蓮宗の僧侶は、支那の暴民に打倒され、上海に流れ込んでいた日本の浪人は、これを救うためにおっとり刀で駆けつけた。その種の騒擾は益々激しく、排日運動の激化とともに日本人側の態度も極度に硬化した。

 重光が上海に到着してみると、その状況は惨憺たるものであった。上海一帯が、排日運動のためあまりに物騒で、列国の上海駐屯軍隊は協議して協同防衛の配置につき、日本陸戦隊もこれによって行動をとった。その時日本陸戦隊と支那軍とが衝突し、遂に戦争状態が発生した(1932年1月28日)。愈々戦争が起こってみると、日本海軍は、停泊軍艦からの救助部隊を合しても、千名そこそこ。数個師団よりなる第十九路軍との戦争では、到底問題にならぬ。陸戦隊は良く戦ったが、このまま放置すれば全滅の外なく、三万の居留民は、日本人の施設と共に、支那軍に蹂躙されるのは目前、居留民は乗船引揚げのために波止場に殺到していた。支那人は、日支開戦というので家財道具を満載して協同租界に避難。陸戦隊の防備線は危機に瀕し、ゲリラが日本軍の背後に出没するに至った。上海の日本人及び日本権益を防護する任務を有する海軍は、陸軍の派遣が無ければその任務を果たし得ぬ有様となり、重光公使は陸海軍側の意向を質した上、居留民の全滅を防止するために、軍隊の急派を政府に要請した。
 この戦争の勃発で、支那政府は更に日本を侵略者として国際連盟に提訴した。当時ゼネバで開会中の国際連盟理事会は、直ちにこれを取り上げた。日本は満州事変後国際的に不利な立場に追い込まれていたが、上海戦争の勃発によって、更に困難な状況となったが、重光は武装しない数万の日本人が日本の巨億の権益と共に排日軍隊のために防護する権利を有することは当然であった。軍部は、上海陸海軍機関の直接の要請によって、軍隊増遣を決定した。

 上海の急変を救うため一個師団の増援隊で十分とされたが、この兵力をもってしても第十九路軍を上海地区から駆逐することができず、更に白川大将を総司令官に任命して、三個師団を増援、遂に支那軍を上海付近より駆逐することができた。重光は直ちに停戦せねばならぬと軍司令官を説得し、白川大将は停戦命令を発出した。国際連盟総会は、上海における停戦が行われたので無事に済んだ。停戦交渉は英米仏伊の四国公使の斡旋の形で、開催された。支那側は汪精衛が顧維鈞の後を継いで外交部長となっており、外交部次長郭泰祺を全権代表に任命、日本は停戦協定という以上、統帥権の問題があるという軍の主張で、植田師団長を主席全権に任命したが、各国代表並びに支那側も応じず、重光公使が交渉相手に指名された。上海事変が起って、日本政府は非常に憂慮し始め、犬養総理と芳沢外相は個人代表として松岡洋右を派遣、松岡は重光の仕事に全幅の理解と援助を惜しまなかった。停戦協定の成立は野村海軍司令長官の理解と松岡の援助に負う所が多かったと重光は記している。

 停戦協定はほぼ成立、上海の空気も回復してきた4月29日天長節に日本軍隊の閲兵式、在日居留民による祝賀会が多数の外国来賓と共に開催された。その式場に朝鮮の左翼独立党金九一派の伊奉吉によって投ぜられた爆弾は、上海における日本側幹部全部を倒し、河端民団長や白川大将は遂に死亡した。野村司令長官、村井総領事、植田師団長、重光公使も悉く重傷を負った。しかし重光はこれに屈せず、病院より最終的交渉を計り、5月5日に協定は無事成立したという。重光は署名が終わると間もなく手術台が運び込まれ、一脚が切断された。上海の治安が回復したので、日本陸軍は間もなく上海地区から全部引上げ、すべて旧態に復した、と。

犬養内閣と上海事変前夜

2015年09月25日 | 歴史を尋ねる
 若槻民政党内閣は、満州事変の発生した昭和6年末に倒れた。この時はなお自由民主主義時代の惰性もあって、元老西園寺は政党内閣によって時局を救済しようと、田中義一の死後政友会の総裁となった、犬養毅に組閣させた。その際天皇から「軍部の不統制、並びに横暴」について犬養に注意しておくようにという言葉もあったようだ。2年前政友会に入って総裁になった犬養は、当時の新勢力たる森恪を書記官長(現在の内閣官房長官の前身)として組閣し、陸軍部内の青年将校の人気にも応えて、皇道派の首領と称せられた荒木中将を陸軍大臣に据えた。外務大臣としては、多年支那公使として経験に富む女婿芳沢謙吉大使を仏国から至急呼び返した。海軍大臣は大角大将であった。また、大蔵大臣は高橋是清が就任した。
 森恪は闘士として政友会内に相当なる勢力をなしていた。田中義一内閣時代、外務次官として軍部と連携して極端な積極政策を主張していたこと、また、彼は陸海軍部の革新運動に共鳴もし助長して、自ら進んで独裁政治実現の野心を蔵し、満州事変を拡大して、東亜における日本の覇権を樹立せんと夢見ていたと重光はその著で記す。政友会は政権維持のためには、強引な森恪を中枢的地位につけた犬養内閣を危ぶみ憂慮するものが多く、とくに支那問題の成り行きは内外注視の的となった。

 犬養総理は、元来孫文の友人として、支那国民革命に対しては少なからぬ理解をもっていた。また多年の閲歴から見ても、内外の形勢判断について、大いなる誤りあるはずはない。しかも、藩閥反対の党人として軍部には甚だしく反感をもっていて、かつて議会で軍部攻撃の大演説をやったことのある人であった。対支政策について、前田中首相とは、全然かけ離れた考え方をもっていたことは明らかで、これが西園寺公の推した重大な理由であったと重光。彼は満州事変を速やかに解決して、日支関係を回復したいと考え、その下地をつくるため、森恪等には秘密に、管野長知の如き浪人をひそかに南京に派遣したりした。政友会の一派及び軍部とは、水と油の関係が政府部内で初めから生じていた。芳沢大使は、モスクワ経由で渦中の満州を視察して、帰国後外務大臣に就任した。満州では、当時大体日本軍の軍事行動が終了して、日本軍占領下のその統治形態を如何にするかということが、当面の問題であった。関東軍は、これを独立国とするために、すでに天津に於いても土肥原大佐をして溥儀工作に着手せしめて、その承諾をも取り付けており、その結果、将来の統治腹案を具して、板垣参謀副長は、協議のため東京に帰ってきた。政府当面の問題は満州を如何にして統治するかの重大問題のため、芳沢新大臣は軍部との協議で毎日を過ごした。政府は、無論、関東軍の意見を拒否することは出来なかった、と。ふーむ、既成事実が積み上がって、内閣が交代した時点で、追認するせざるを得なかったということか。

 満州事変が勃発して、支那本土における排日運動に油を注いだ。支那における対外神経の中枢である上海は、俄然猛烈な排日風潮に襲われ、上海における最大の企業であった日本人紡績工場に対しては、共産党系の扇動する大規模なストライキが起った。1927年5月コミンテルン執行委員会第八回総会において、中国問題の審議決定が行われ、更に1928年7月のモスクワにおけるコミンテルン第六回大会は、資本主義の破綻を宣言しており、中国共産党は、全力を挙げて、支那における外国資本主義の排斥のために、直接行動にまで訴えていた。その排日運動は、従来に比して著しく政治的色彩を帯び、満州事変を拡大して日支の擾乱を誘発しようとする気構えであった。上海に駐屯している支那第十九路軍は、赤色軍閥と称せられる蔡廷鍇の率いるところで、南京中央政府の威令にも十分服さない、排日の色彩に富む左翼軍隊であった。

 上海の南京路事件(1925年5月、上海にある日系資本の内外綿株式会社の第8工場にて、ネオ・ラッダイト主義を標榜した暴動が発生。これに対し工場側当事者が発砲し、共産党員の工員願正紅が重症を受け、翌日死亡。また10人以上の重軽傷者が出た。これが発端となり、上海では学生らを中心としてビラ配布、演説等の抗議活動を行い、また願正紅を殉教者として大規模な葬儀が行われた。中国国民党上海執行部は運動の代表者らに対し、30日に大規模なデモを決行するよう呼びかけた。 だが、その当日の30日朝、抗議活動の中心となっていた学生15人が南京路にて租界の警察機関である上海公共租界巡捕房に連行された。これに反発した民衆が学生らの釈放を求め、数千人規模のデモを組織した。上海租界当局および日本、イギリスなど租界の諸外国は強硬に対処し多数の逮捕者が出た。また警察もデモ隊に発砲し、参加していた学生・労働者ら13人が射殺され、40人余りが負傷した。これをきっかけに、全市規模のゼネストに発展した。この事件は、例えば運動の中心が学生から労働者へ変わったなど、中国の民衆運動が五四運動から次の時代・段階に入ったことを示す画期的な事件であるとされる。また1925年7月の広東(広州)国民政府成立を後押しする大きな力となったとも評価されている。)以前から、共産党の排日ストライキに対しては、長らく苦しめられていた上海の日本人は、益々神経質になって来た。満州における軍事行動の成功は、日本人の意見を硬化させ、これまで穏健なる意見の持ち主であった大会社の支店長等に至るまで、上海土着の人々の意見と同じく、この際排日運動に対しては断固たる態度をもって臨むべしと主張し、重光公使の隠忍自重論には耳をかさなかった。重光は飽くまで彼らを説得して擾乱誘発の謀略に陥らぬよう軽挙を戒めたが、彼らはついに代表者を満州に送って、芳沢新外相の帰朝途上で、重光公使の排斥運動を行う有様であった。他方、内閣書記官長森恪は盛んに公然乱暴な強硬論を発表して、犬養新内閣は支那に対して何か新しい積極的強硬政策を遂行するもののごとき印象を与え、日支関係は危機をはらむ事態に立ち至った。

五・一五事件とその影響

2015年09月21日 | 歴史を尋ねる
 昭和5年ごろから徐々に高まったファシズム的風潮は、昭和7年5月の五・一五事件によってその頂点に達した。後の二・二六事件はほとんど陸軍の軍隊だけであったのに対し、五・一五は一応陸、海、民間連合勢力によって企てられた。そしてこの事件を契機に、中間層を広く動員した急進ファシズムの熱気は減退し始め、その内部に派閥抗争を孕み、全体としては軍部が主導権を確保して、逐次国政の中核を占拠する形に転移していった、と云う。木下半治教授は、この五・一五事件に参加した諸勢力を四つのグループに分けている。第一は古賀清志、中村義雄、三上卓海軍中尉らを中心とする10名の海軍青年士官、第二は陸軍士官候補生11名からなる行動隊、第三は茨城県の愛郷塾頭橘孝三郎を首領とする農民決死隊、第四は大川周明、、本間憲一郎、頭山秀三、長野朗らの民間における援助者(主に武器供与)。クーデター全体の指揮は藤井斉大尉が当たる予定であったが、藤井は上海事変に出征中戦死したので、古賀中尉がその後の行動計画の作成に当たった。
 三月までにまとまった第一期計画案では、まず第一組が首相官邸及び牧野内大臣を襲撃した後、東郷元帥を立てて戒厳令を布く、第二組は日本工業倶楽部と華族会館を襲撃の後、権藤成卿を擁して首相官邸に入り国家改造の衝に当る。第三組は政友会、民政党本部を襲い、次いで血盟団員を刑務所から救出するという手筈になっていた。その後計画は三転、四転し、5月13日最終計画が決められた。この計画の特徴は、行動のスケジュールまではかなり綿密に決められたが、事態収拾のプログラムに欠けていたこと、東郷元帥の引き出しなどは事前の打ち合わせはないアンバランスなものであった。
 5月15日朝四時半、予定通り靖国神社に集合した第一組は、首相官邸に侵入して犬養首相を射殺したが、第二組は目標建物内に手榴弾を投げ込み、宣伝ビラをまきながら疾走する程度に留まり、一同はその日の夕方までに憲兵隊へ自首した。変電所襲撃組に至っては、電気知識の不足からまったく効果を挙げることができず、電灯線は何らの影響も受けなかった。警視庁は警官一万人を動員し、陸軍も近衛師団から兵450名を出勤させたが、15日夜半までに東京は平穏に帰し、市民の多くは翌朝の新聞で事件を知るという散発的効果に終わった。

 五・一五事件をクーデタの面からとらえると、児戯に均しいものという批評を免れないが、社会の各方面に与えた衝撃の深さは、三月、十月事件とは格段の相違があった。事件によって蜂起した青年将校たちへの熱烈な同情(減刑請願など)などが形となって現れ、そのエネルギーが組織化されるには至らなかったものの、反政党、反財閥の世論の中で崩壊した政党内閣制は、敗戦後までその復活を見なかったし、財閥は三井を先頭に続々転向を表明し、国民の怒りを緩和させようとした。
 次に法廷闘争の過程で、農村の惨状が広く認識され、陸軍の強硬な主張によって、農村救済事業が着手され、満州事変の進行に伴う景気の上昇に助けられて、農村の経済は好転し始めた。
 しかしなによりも大きな影響は、これによって軍部、主として陸軍の政治的進出が一段と強化された。それは犬養内閣が総辞職した後、斉藤内閣が成立するまでの陸軍の動きに示された。事件直後から陸軍首脳部の間では、政党単独内閣の出現に反対する空気が弱く、この動きをとらえた木戸内大臣秘書官長は牧野内大臣に、斎藤実海軍大将を首班とする挙国内閣を組織し、併せて詔書の渙発を仰ぐべきであるという意見を提出していたが、荒木陸相は5月18日、上京中の西園寺公に陸軍は政党内閣の出現に反対であるという趣旨を伝え、更に秦憲兵司令官が公に面会を求めて断れると、今は国家非常時ですぞと大喝して佩剣をガチャつかせたと伝えられた。
 新内閣の組織に当って、海軍側が事件の責任を取って海軍大臣、次官、軍務局長を交替させたので、陸軍側も荒木陸相が辞職するかもしれないと予想されたが、次期陸相候補の含みで招請された林朝鮮軍司令官は、結局教育総監に転じ、荒木はそのまま留任した。こうした状況の下で開始された五・一五事件の公判は、陸軍当局とりわけ憲兵隊の暗黙の好意と、一部の世論に支援された青年将校団の声援に包まれて進行し、陸軍側被告は反乱罪とは云いながら、最高禁錮四年という軽度の処罰に終わった。

 ここで秦郁彦氏は事件の参加者たちを蜂起に駆り立てた思想的背景と具体的目標を次のように分析している。思想的背景については、権藤成卿(明治政府の国家主義や官僚制,資本主義,都会主義を批判し、農村を基盤とした古代中国の社稷型封建制を理想として共済共存の共同体としての「社稷国家」の実現と農民・人民の自治および、東洋固有の「原始自治」を唱えた)と橘孝三郎(郷里茨城で農業に従事するかたわら、講演活動を行い、昭和4年に愛郷会を結成。農本主義にもとづく青少年教育を目指し、昭和6年に勤労学校愛郷塾を設立。設立にあたり風見章と知己となり、資金援助を受けた。また、井上日召と知己となり、五・一五事件では塾生7人を率いて東京の変電所を襲撃。爆発物取締罰則違反と殺人および殺人未遂により無期懲役の判決を受けた)の農本主義思想の影響が著しく、その人間的面白さと一人一殺、破壊即建設の単純な理論が青年将校や事を好む学生を引き付けたと云われる。とりわけ陸軍士官候補生は、優秀な兵士の供給源である農村を保全しようと意識からであるが、東北農村の惨状を知ったことが、直接行動への動機になったと告白し、日本ファシズムの特徴である著しい農本主義への傾斜を示している。こうした救国済民の、彼らなりの真剣な発言は、国民に純真な青年将校というイメージを与えて広汎な同情を呼び、荒木陸相をして、手段はよくないが志において諒という言葉を吐かせた。農本主義の裏返しとして、資本主義、工業主義、都会中心主義への反発、さらに政党、財閥への憎悪、農民・漁民・中小企業者への同情に導かれるが、それがどのような社会、経済体制に結びつくのかが不明であり、したがって建設計画への展望を困難にした。
 クーデター全体の計画作成者であった古賀中尉は次のように述べたという。「我々が建設の役をしようとは思わなかった。ただ破壊すれば何人かが建設をやってくれるという見通しはあった。戒厳令を布いて軍政府が樹立されれば、荒木陸相を首脳とする政府が改造の段階にもっていくと信じた」ふーむ、国を思うといいながら、いざのところは他人に依存する。明治の先人たちが国を運営する仕組みを必死に構築してきたのに、そう簡単に再構築はできるはずがない。明治維新の時代と昭和維新の時代の国家の在り様、運営ははるかに高度化して、複雑化している。日本の近代化プロセスと世界或いは東アジアの中の日本を俯瞰できる青年将校はいなかったということか。

昭和維新をめざすファシストグループと血盟団事件

2015年09月19日 | 歴史を尋ねる
 十月事件は、それまで桜会が中核となっていた国家改造運動の分岐点となった。三月・十月事件の同調者であった中央部幕僚将校の多くは、満蒙問題の武力解決が満州事変の成功によって一応達成され、事件を契機に軍部の政治的比重が高まり、急激なクーデターによらなくとも、合法手段をもって漸進的改革が達成し得る見通しがついたので、暴力的な改造方式を放棄した。これに対し、事件の途中から橋本一派の不純な行動を嫌悪して離反した青年将校たちのうち、井上日召にひきいられた海軍グループは血盟団、五・一五事件というテロリズムの方向に突進し、他方陸軍グループは、最初皇道派の荒木一派に望みを託し、荒木陸相を通じる急進的改造を主張したが、やがて荒木一派の衰退後勢力を拡大してきた軍務局の幕僚グループ(統制派)の漸進主義と鋭く対立し、北、西田税の指導の下に真崎を推して永田軍務局長を殺害し、更に二・二六事件を引き起こした。そして軍ファシストグループの分裂と対立は、大川、井上、北、西田らを通して、民間ファシストグループの編成替えに影響を及ぼした、と秦氏は分析する。

 民間側での動きとしては、昭和6年(1931)3月、大川周明らが中心となり、黒龍会系、経綸学盟系の諸団体を糾合して全日本愛国者共同闘争協議会が組織され、6月には内田良平の率いる黒龍会を中核に、大日本生産党が、右翼団体の大同団結と大日本主義の旗幟の下に、昭和維新を断行するという目的を掲げて生れ出た。また8月、陸海民各代表約40名の会合(郷詩会)には、西田税の司会で民間からは西田、井上日召、橘孝三郎ら、陸軍から菅波三郎、大岸頼好、野田又雄中尉ら、海軍からは藤井斉、三上卓、山岸宏、浜勇治中尉らが参加して各派の統一行動について協議している。西田税の背後に北一輝、菅波たちは桜会、大川周明に繋がっていたことを思えば、十月事件は当時のファシスト・グループの各派を網羅する規模であった。郷詩会の会合後、菅波、野田、末松中尉の仲介で、橋本たち桜会幹部と西田派の提携が成立し、在京部隊の青年将校のほか、戸山学校、歩兵学校、砲工学校の学生が大量に十月事件計画へ加入した。ふーむ、いつの時代も学生は洗脳されやすい存在だ。しかし橋本たちの不純な言動(権勢欲)を純真な青年将校たちは嫌い、決行の時期が近づくにつれて、両者の関係は冷却化し、クーデターの功労者に勲章を授与するという話を聞いて憤激し、乱闘騒ぎまで起した。いずれにしても陸海軍の青年将校たちは、橋本・大川派の言動を嫌い、「捨石主義」の考え方が浮上をしてきた。

 昭和6年(1931)12月、若槻内閣が瓦解した時、元老西園寺公は協力内閣説及び若槻再組閣論のいずれも取らず、政友会総裁犬養毅を後継内閣の首相候補として推し、政友会の単独内閣を組織させた。陸軍大臣候補には、陸相代理の経歴を持つ温厚な阿部信行と青年将校に人望のある荒木貞夫の二人が挙げられたが、犬養首相は熟慮の末、陸軍の革新運動を鎮静化させる意図から後者を起用し、荒木は青年将校のみならず、一般国民の歓呼を浴びて華々しく登場した。荒木は期待通り、革新運動の鎮静に役立つかに見えたが、いっぽうでは、犬養内閣がその成立と同時にとった金輸出再禁止の措置が、それを見越して思惑的なドルの買いつなぎを行った三井などの諸財閥に不当な(?)利益を得させることになり、財閥のドル買いとして国民の憤懣を買い、右翼勢力の活動を力づけた。この問題は、その後の一連のテロリズム、特に血盟団のターゲットとして財閥の代表者がかかげられる直接の原因となった。
 昭和7年2月、衆議院の少数政党である政友会は、議会を解散して総選挙を施行し、圧倒的な勝利を収めたが、その最中に、井上準之助前蔵相(若槻内閣)は、応援演説に駆けつけた駒本小学校で小沼正に、三井合名理事長団琢磨は、3月白昼に三井銀行前で、菱沼五郎によってそれぞれ暗殺された。警視庁の捜査により、二人の背後には井上日召を盟主とする血盟団のあることが明らかになり、関係者は続々と逮捕された。その結果、暗殺計画はこの二人に止まらず、西園寺公望、牧野内大臣、床次鉄相、若槻前首相、幣原前外相、池田成彬(三井)、郷誠之助(三菱)をはじめとして住友の八代則彦、安田、大倉財閥にまで亘っていたことが判明した。血盟団のテロ計画は、すでに昭和5年頃から熟しつつあった。ロンドン条約問題に憤激した彼らは、ロンドンから帰国する財部全権を襲撃しようと企てたし、十月事件の時には、西園寺公、牧野伸顕伯、一木喜徳郎、鈴木貫太郎の暗殺を分担する事になっていたともいう。
 しかし血盟団だけで直接行動に出たのはなぜだったのか。クーデターの実行には陸海軍とくに陸軍の兵力に期待をかけていたが荒木陸相と登場で直接行動に積極的でなかった、また、1月下旬上海事件が発生し、海軍側同志は出征するものが続出、共同行動を取ることが不可能となったため、第一陣として、いわゆる一人一殺主義をとって直ちに行動を開始したのだった。

満州事変と十月事件

2015年09月10日 | 歴史を尋ねる
 昭和6年2月、議会で幣原首相代理がロンドン条約批准に関し失言したのを、政友会森恪が追及して議場は混乱に陥り、予算委員会は数日間休会となったことに引続き、三月初め政友会の要求で浜口首相が重傷加療中の身を押して登院するなど、政友会を中心とする倒閣運動は激しく、一方無産三派も労働組合法の議会上程をめぐって政府を糾弾しつつあり、経済恐慌の深化と相まって、各方面に政党政治不信の声が高まった。
 2月下旬、橋本は小磯の紹介で大川周明を宇垣に面会させ真意を探った。大川は単純に宇垣が全面的に乗り出す決意を固めているものと信じ、その旨を橋本中佐に報告した。橋本、重藤、大川らは既に事がなった如く狂喜し、連日待合で気炎を上げていたが、あらかじめ了解を得たと思われていた陸軍上層部及び課長級将校の意向は必ずしも明確でなく、永田、岡村、鈴木らは計画の具体的な内容が判明するにつれて反対派に転じ、二宮、杉山、小磯らも動揺した。特に首相に予定していた宇垣陸相は3月大川より蹶起の手紙を受け取ると、直ちに計画の中止を命じた。こうして三月事件は未発のまま終わり、計画自体は幼稚極まるもので、広く国民の耳目に伝わらなかったが、後に与えた影響は少なくなかった。中堅将校だけでなく、軍首脳部がこの様な計画に半ば公然と加担し、しかも首謀者たちが何等の処分を受けなかったことは、却って軍ファシストたちの国家改造運動に拍車をかける結果になった、と。

 橋本を中心とする桜会の先鋭分子と大川周明は、宇垣の中止命令により、取り敢えずクーデターを断念したが、初志を捨てたわけではなく、三月事件の教訓を生かして直ちに新たなクーデター計画の準備に取り掛かった。大川は五・一五事件公判の陳述で、三月事件は無意義でなかった。一つは青年士官のみならず上官までが政党政治にあきたらず、日本改造の意あることをはっきりと知ったこと、もう一つは年より連中は改造の考えがあるにせよ、結局引っ張ってゆくに限る、下から引きずってゆかねば駄目だ、と。橋本ら急進派の言辞が過激になり活発化すると、佐官級の幕僚将校は脱落するものが続々現れた。これに対して地方部隊の陸士28期生以下の青年将校層に運動を拡大し、予想以上の成功を収めた。折から万宝山、中村大尉事件などが起って満蒙問題が注視の的になり、陸軍が世論喚起のため積極的な宣伝活動を開始すると、桜会の運動は満蒙問題の積極的解決運動と合流する形になった。
 満州に於ける陰謀計画は、関東軍の一部参謀と特務機関(板垣、石原、土肥原、花谷、今田)らを中心とする少数者間でこの年の春ごろから進められ、中央部では建川第一部長、重藤、橋本、根本らが共同謀議に加わっていた。事変は、外務省の出先機関が陰謀を探知して、幣原外相に報告したため、予定より約十日早く9月18日に開始された。関東軍は一夜のうちに奉天を占領し、予定されたプログラムに従って戦火を全満州に拡大しようとしたが、若槻内閣は国際連盟に与えた保証を考慮して軍事行動の不拡大を方針としたので、金谷参謀総長、南陸相ら陸軍首脳部は内心では関東軍の行動に同情していたものの、幣原外相に押され、表面は不拡大方針をとった。橋本たちは関東軍の独立説を流布して政府の不拡大方針を牽制するなどの役割を演じたが、更にこの機をとらえて事変遂行を妨害する若槻内閣を打倒し、構想を練っていた軍部内閣を樹立しようとする第二のクーデター計画(十月事件)を企てた。

 十月事件の計画
 決行時期:10月21日
 参加兵力:将校約120人、兵は歩兵10中隊、機関銃2中隊(近衛、第一師団)
 外部からの参加者:大川周明、西田悦、北一輝ら、海軍抜刀隊約10名、海軍爆撃機13機
 攻撃目標:1、首相官邸の閣議を急襲、首相以下を斬撃 2、警視庁の占領 3、陸軍省、参謀本部を包囲、幹部に同調を強要する 4、報道、通信機関の占領等
 新内閣の陣容:宮中に東郷元帥を参内させ、予定内閣に大命降下を耕作する(予定名簿には荒木貞夫首相兼陸相、建川外相、橋本内相、大川蔵相、長警視総監など)

 起案者の橋本は、三月事件が軍首脳や民間人に頼ったため失敗したと考え、今回は参加者の範囲を極めて限定し、軍幹部、民間右翼のみならず桜会の穏健派には詳細を知らせず、自ら命令を起案して腹心に行動部隊の青年将校各員に手交する程に注意したが、彼らは料亭に連日のように会合が開かれ、美妓を侍らせ盛宴が続けられた。さながら明治維新の志士に似ていた。当然憲兵隊や警視庁の注意を惹き、橋本は終始密偵の尾行を受けるなど、機密保持は極めてルーズであった。宮中方面では10月5日頃不穏計画が噂され、木戸内大臣が陸軍省井上三郎大佐に注意を促した。
 田中清大尉はこの計画を掴んでその時期ではないと今村均大佐(参謀本部作戦課長)直訴、今村は建川第一部長にその真偽をただした。桜会を設け時局に関する研究と相互の意思疎通をはかりたいというので有意義なことだと思い同意したが、今はその時期ではない橋本に会い絶対に止めさせると答えた。10月16日橋本を呼んで計画の中止を命じたが、橋本はさらに荒木貞夫教育総監部本部長の下に現れ、蹶起を要請した。荒木は事前に話しは聞いていなかったが、荒木は直ちに橋本に計画を中止するよう説いた。
 陸軍省では主要部局課長及び外山憲兵司令官以下が集まり、荒木中将の出席を求めて対策が協議された。出席者の中には、検束を主張するもの、これに反対するもの、中には橋本一派に同情するものもあって、なかなか結論が出なかった。荒木が説得に行くことになったが彼らの決心を変えるまでに至らず、南陸相は憲兵司令官に全員検束を命じ、夜明けを待って参内、天皇へ委細を上奏した。
 検察当局は直ちに幹部12名を検束収容したが、丁重な収容を行った。従って彼らの処分も容易に決まらず、陸軍当局は橋本から一札を取り付けたうえ一か月未満で謹慎を解き、異動で左遷したが、地方転任を命じられたものの中には、直ちに任地に赴かず、なお画策を続ける者もあるという無統制ぶりだった。また橋本が執筆した事件の計画書は、血判連判状、中央部将校の思想傾向及び詳細な行動計画を含んでいたが、吉本参本庶務課長の手でロシア班の金庫から取り出され、回覧ののち焼却された。

 南陸相は十月事件の経緯を報告した閣議の席で、「今回現役将校中、一部に於いてある種の策謀を企てたり。然れども是れ憂国概世の熱情より井でたる者にして他意存するに非ず。唯々これを放置すると外部の者の策動に利用せられ、又軍規を破壊するの行為となり易きを以って保護収容せり云々」
この発言は首相以下を斬撃するという計画を進めていたテロリストの集団を、半ば公然と弁護するのみか、それを逆用して、若槻内閣を威嚇したとさえ、受け取れるものであった。政・財界の巨頭は事件の内容を洩れ聞いて恐怖におののいたが、11月頃関東軍の行動に対する内閣の掣肘が著しく弱まったこと、安達内相が軍部に迎合して協力内閣運動を推進し、やがて内側から若槻内閣を倒して、十月事件の首相候荒木中将を陸相とする犬養内閣が成立した一連の過程は、未発のクーデターが示した無言の威力を物語っている、と秦氏は解説する。そして次のように日本の軍ファシズム運動の特徴を述べている。
 1、橋本、大川らは、宇垣、荒木のような軍内の長老、部課長級幹部との「なれ合い」革命方式を採用した。軍部内の階級的秩序はほぼ踏襲された。従ってそれは革命というより一揆の名でよぶのがふさわしい。
 2、両事件とも破壊主義に終始して、具体的な建設計画を持たなかった。永田軍務課長は計画自体を取り上げ、志は諒とされてもこんな杜撰極まる案で大事を決行しようと考えた驚くべき頭脳の幼稚さと批判した。この様は傾向は五・一五事件、二・二六事件に承継されていく。
 一方陸軍は、政治権力を掌握するために、桜会と三月、十月事件を最大限に利用したが、事件計画者に対する処分は形式的で、闇から闇に葬られた。この事は、満州事変を強行した関東軍参謀の場合と同じように、陸軍内の規律を弛緩させる原因になり、下剋上傾向を助長し、外に対しては中央部の統制に復しない侵略の拡大、内に対しては部内派閥抗争の激化を招いた、と。
 

 
 

桜会の誕生と国家改造熱

2015年09月08日 | 歴史を尋ねる
 若槻首相や幣原外相が嘆いた軍部の下剋上とはいったいどのようは状況だったのか、秦郁彦氏の著書「軍ファシズム運動史」を参考に、辿ってみたい。
 昭和五年、金解禁による正貨の流出に加えて、世界恐慌の波及は深刻なデフレーションをもたらし、民政党内閣(原ー若槻)の産業合理化計画過程における中小企業の没落と農村の惨状は目にあまった。他方中国本土統一を目指す国民党の民族主義に呼応した張学良による排日運動の激化は、かって10万の生霊と20億円の国費を投じた満州の地に対する国民の生命線意識を刺激し、更に第一次五カ年計画に着手して、飛躍的発展を遂げつつあるソ連の脅威に対する憂慮は、秘かに陸軍内部に満蒙問題を武力で解決しようとする主張を生んだ。また、第一次世界大戦後の滔々たる軍縮の風潮は、ワシントン条約による海軍兵力の削減と、陸軍の山梨、宇垣両軍縮を経て昭和五年のロンドン海軍軍縮に於いてその頂点に達し、政府の受諾した削減兵力量をもっては、国防の安全を期し得ないとする海軍統帥部及び大多数の海軍中堅青年士官の見解は、陸軍内部にも多くの共鳴者を得た。しかも政・財界の腐敗は慢性化し、相次ぐ汚職の報道はますます国民の政党政治に対する信頼感を失わせた。こうした情勢に不満を感じて、国家改造をめざす軍ファシズム運動はロンドン条約の衝撃に巻き込まれた海軍に於いて最初に発生し、直ちに陸軍に波及して急速な成長を遂げた。陸軍に於いて最初のファシスト団体である桜会が誕生したのは、このような時期であった。

 桜会は陸軍省、参謀本部の少壮将校が中心となり、国家改造を目論み建設されたもので、桜会なる名称は便宜上久しく後につけられたものと説明されている。発起人は橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長)、坂田義朗(陸軍省調査班長)、樋口季一郎(東京警備司令部参謀)の三中佐以下約二十数名で、綱領・宣言などの起案は田中清大尉(陸軍省調査班)らが担当した。桜会結成の原動力になったのは、昭和5年6月、ケマル・パシャの革命と改革を日本に実現しようという意気に燃えて、トルコ(駐在武官)から帰国したばかりの橋本であって、坂田、樋口は間もなく運動の中心から遠ざかり、事実上橋本を首領として活動した。
 橋本は、玄洋社の伝統を持つ福岡県の出身で、陸軍ではロシア情報の専門家として育ったが、周到な思索家というよりは、志士的、侠客的な人情と決断を本領とする行動家で、理論や建設計画はもっとも苦手とするところで、彼の信奉するケマル主義なるものは、軍部クーデターによる政権奪取という形式を取り除けば、幕末・明治的一揆主義に似ていた。当面の関心は対外膨張より国内改革にあり、同じように革新を志向していた関東軍などが、満蒙問題の武力解決を主眼(満州先行主義)にしたのと立場を異にした。橋本一派は三月事件が失敗すると、関東軍の陰謀計画に参画して、国内から満州事変の実行を援助したが、基本的には国内改革先行主義に立っていたと、秦氏は分析する。

 桜会の設立第一回会合は昭和5年10月1日、九段の偕行社とも富士見軒とも云われているが、当時の参加者は5,60名、海軍からも若干名が出席した。
目的:国家改造を以て終局の目的とし之がため要すれば武力を行使するも辞せず
会員:現役陸軍将校中にて階級は中佐以下国家改造に関心を有し私心なきものに限る
目的達成のための準備行動:1、一切の手段を尽して国事将校に国家改造の必要なる意識を注入 2、会員の拡大強化(6年5月、150名まで増えたがこの時期がピーク) 3、国家改造のため具体案の作成
趣意書の内容:国勢の衰運を嘆ずることに始まり、左翼思想を排撃し、ロンドン条約につづいて軍縮が陸軍に波及するのを警戒し、ついで政党政治の腐敗を攻撃して、その結果が、農村の荒廃・失業・不景気・不健全文化の台頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の自己保全主義を生んでいることを強調した後、わが国の取るべき政策として、対外協調外交(幣原外交)を捨て、積極的に対外進出を行って、人口食料問題を解決することを提唱している。
 ふーむ、趣意書を一瞥すると、当時の世界恐慌への理解、世界・東アジアの政治情勢への理解が殆ど語られず、政党政治の腐敗が当時の社会問題を惹起させているとの認識で、これまた実に内向きな問題意識の提示である。彼らの問題意識は当時の世相を反映したものであり、メディアを含めて、世界で生起している事象の情報が不足して、結果として内向きな問題意識が肥大化したのだろう。

 ところで橋本は性格的に破壊以外に関心が薄く、国家改造の具体案を作成する場合、建設計画、中でも経済計画の必要性が痛感され、昭和6年1月早々から改造案の作成に着手、六名の委員が選ばれたが、研究の中心になったのは、東大西洋哲学科に学んだ田中清大尉であった。田中は以前から、参謀本部作戦課の鈴木貞一少佐を中心とする研究会に出席して、渡辺秀人、岩畔豪雄、山岡道武各大尉らと満蒙問題及び国家改造案の研究を行い、桜会が結成された時も四人そろって入会し、会を暴力化させないことに努力した。しかしその後、山岡はソ連、渡辺は中国に転属、山畔は任を辞したので、到底満足のものは出来ないと田中は考えたが、その上は彼らに理論及び具体案の必要性と作為の難事を分からせる道具にしようと考えた。田中の手記によれば、会そのものは分裂する性質を帯び、1、破壊を第一義として建設の如きは破壊の上に自然的に発生すると為す一派。 2、建設を主とし、理論を準備して後、破壊をその範囲に留めんとする一派。 3、前二者の中間に立ち、日和見主義の一派。大体三派に分かれて鼎立状態であったが、積極的に動いたのは第一派で、ともすれば桜会全体を直接行動に引っ張ろうとしつつあったという。

 桜会は一種の秘密結社であったが、その存在と活動状況は薄々陸軍上層部や部外にも知られるようになり、警視庁の某課長は6年1月頃憲兵司令部の一課長を訪れ、「近時軍隊内、特に中央部将校中に錦旗共産党(右翼と左翼の混淆)なるもの組織され天皇を奉じて変革を企図せんとする在りとの風評あり、真相如何」と質問し、また年頭の閣議の席上で、安達内相が宇垣陸相に対して「近時現役将校中に政治を云々するもの多くこれがため結社さえ結成されたという、真相如何」と聞いている。当然軍人勅諭に違反している。
 陸軍部内で桜会に対する賛否はまちまちで、永田軍事課長、岡村補任課長らは自身がすでに一夕会という結社に参画していた経験があって干渉しにくい立場であって、宇垣陸相は田中義一の場合のように、軍をバックにして政界に進出する野心があり、そのため桜会のような動きに寛容であったと云われ、二宮参謀次長、建川第二部長、小磯軍務局長らは、積極的に桜会を支持していたと見られるふしがあった。6年1月に、「国防は政治に先行する」という要旨で陸軍が政治に干与する意図を暗示した宇垣陸相の部内通牒は、桜会を中心とした革命分子に刺激的効果を与えるものであったと秦氏はいう。また昭和5年の参謀本部第二部情勢判断の中に、従来の慣例を破って、「積極的に満蒙問題を解決しようすれば必然的に国家の改造を先行条件とせざるを得ず。之がためまづ国家の改造を決行すべし」との項目が加わったのは、橋本、根本ら桜会会員の主張が通ったためといわれている。こうして軍上層部の黙認を得た桜会の急進派は、具体的行動計画の作成に着手すると共に、更に外部団体との協力をはかった。

 大川周明は橋本と親しく、自ら連絡役を買って出て、社会民衆党や全国労農大衆党幹部と会合を重ねた。また、橋本らは、ロンドン条約反対派の巨頭、加藤寛治大将、末次信正中将を通じて、岡敬純中佐、石川信吾少佐ら海軍の革新士官に働きかけ、星洋会を組織して意見を交換した。海軍の中堅幕僚層には、桜会が期待したような国家改造熱の高揚は見られなかったが、やがて藤井斉ら青年士官層との提携に路がひらかれた。

満州事変の勃発(昭和6年9月18日)

2015年09月05日 | 歴史を尋ねる
 重光の進言は東京では採用されなかったが、如何なる不測の変が突発しても、日本政府は国内的にも国際的にも、確乎たる立場に立って処理し得るだけの準備をする必要がる。政府は、軍部は、国内を統制して不軌を戒め、極力日支関係の悪化を避けつつ、世界に日本の公正なる態度を理解せしめる為全力を挙げねばならぬ。支那の革命外交の全貌が明らかになった今日、そして日本政府の対応策の欠如する今、日支関係が行詰まることは明らかであり、行詰まるとすれば、外交上日本の地位が世界に納得させられるようにして置くことである。
 満州に於いて、万宝山の朝鮮人圧迫事件や、中村大尉暗殺事件などが起き、張学良の日本に対する態度は、強硬で侮辱的であった。この事態を救うため、当時南京政府の中枢人物であった宋子文財政部長と協議、満州における緊張緩和を計ろうとした。宋子文と重光は、ともに満州に到り、現地の調査を親しく行って、解決方法を見出そうと相談し、宋部長は途中北京に立ち寄り、滞在中の張学良を説得して、日本に対する態度を改めしめ、更に大連において、内田満鉄総裁と三人で、鼎座して満州問題に関する基礎的解決策を作成することに意見がまとまった。重光は政府の許可を取り20日上海から海路北行することになったが、すでに18日事変は突如勃発した。重光はこれに屈せずなお折衝を続け、事変を局地化するために宋子文と共に満州に到って、事を処理してその目的を達せんとしたが、日本政府の訓令を待つ間に、事態は燎原の火の如く急速に拡大し、支那は事件を国際連盟に提訴して、外交的措置を講ずるほかに余地なきに至らしめた。

 重光が政府に宛てた事変発生当時の電報の一部が紹介されている。(国際法廷記録に依る)
 1、今次軍部の行動は、所謂統帥権独立の観念に基づき、政府を無視してなせる如く、折角築き上げた対外的努力も、一朝にして破壊される感あり。国家将来を案じて悲痛の念を禁じ難し。この上は、速やかに軍部の独断を禁止し、国家の意思をして、政府の一途に出でしむることとし、軍部方面の無責任にして不利益なる宣伝を差し止め、旗幟を鮮明にして、政府の指導を確立せられんことを切望に堪えず・・・。
 2、民国側は、事態の重大さを知ると共に、軍事的には無抵抗主義をもって押し進むと共に、軍事行動ではないあらゆる他の方法をもっての対抗手段に移り、党部政府の一致の指導はもちろん、従来訓練を経ている排日の総ての機関は、活動を始めつつあり、経済断交の如きは未だしも、反日感情の悪化は、所謂21カ条問題の影響よりも甚だしく、今後は益々悪化するものと認められる。今日の状況をもってすれば、何時満州以外の地において不祥事の勃発を見る恐れもある。この点については、海軍において特に自重するよう、政府において十分注意あらんことを請う。もし万一我が軍が北満に進出したら、直ちに露国との衝突が予想され、事態は益々重大化すべし。
 3、民国政府は、急遽内争を片付けて(広東側との妥協は進展、愈々実現の模様なり)統一した力をもって、夷をもって夷を制するの伝統的政策をもって、事件をまず国際連盟及び不戦条約の筋を辿りて米国に縋り、内外宣伝の力と相まって、日本軍の撤退を強制する方策を立てること、山東還付の時と同様である。今後満州問題に関して、わが国と適当の取り決めをなし、その目的のために交渉に入り得る当局者は、民国には出現しないだろう。従って、今回の事件は、日支両国をして国交断絶の状態の下に永く放任せしめ、民国側の策動により、世界の世論に曝されることを覚悟すべき。
 我が国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途を辿って行くことは、外交の局に当っている者の耐え難きところであったと重光は慨嘆する。

 当時外務大臣であった幣原喜重郎は戦後、昭和26年、「外交五十年」という著書を出している。この当時を振り返って概略次のように語っている。  
 「満州事変については、政府や軍の首脳が優柔不断であったから、事件がますます大きくなったのだという非難がある。しかしもし鎮圧策を強行したら、日本はもっと早く軍事革命を起したかも知れない。また政府が、軍人の無謀な策動に経費の支出を拒んでおけば、戦争が出来なかったろうというのも、理屈はまさにその通りであるが、これも当時の情勢では、動乱の爆発を早めるだけである。軍の内部はいわゆる下剋上で、陸軍大臣でも、海軍大臣でも、ほとんど結束した青年将校を押さえることが出来なかった。
 これは旧帝国憲法が悪いので、軍の命令系統は参謀総長もしくは軍令部総長が握っていて、総理大臣といえども、それに関係することが出来ない。だから前に私がいったように、当時軍の粛清を図るためには、金谷範三参謀総長のような有力な将軍たちが結合して、生命を投げ出して建て直しをやるほかに道はなかったと思う。」 ふーむ、重光が言うように、時の政権に勇気と能力がなかったという言葉が、思い起こされる。内閣が一致団結し、参謀総長と連携して、場合によっては天皇にも力を借りて、何かやり様はあったのではないか、この非常時にあって、内向きな思考しかできなかったところに、限界があった。

 重光はその後を次のように記している。
 張作霖の爆殺者をも思うように処分し得なかった政府は、軍部に対して何等の力を持っていなかった。統帥権の独立が、政治的にすでに確認され、枢密院まで軍部を支持する空気が濃厚になって後は、軍部は政府より独立していた。そして軍内部には下剋上が風をなし、関東軍は軍中央部より独立した有様であった。共産党に反対して立った国粋運動は、統帥権の独立、軍縮反対乃至国体明徴の主張より、国防国家の建設、国家の革新を叫ぶようになり、その間、現役及び予備役陸海軍人の運動は、政友会の一部と軍部との結合による政治運動と化してしまった。
 若槻内閣は、百万奔走して事件の拡大を防がんとしたが、日本軍はすでに政府の掌中にはなかった。政府の政策には、結局軍も従うに至るものと考えた当局は迂闊であった。関東軍は政府の意向を無視して、北はチチハル、ハルピンに入り、馬占山を追って黒竜江に達し、南は錦州にも進出して、遂に張学良軍を満州から駆逐した。関東軍は、若し日本政府が軍を支持せず、却ってその行動を阻害する場合、日本より独立して自ら満州を支配するといって脅迫した。若槻内閣は軍の越軌行動の費用を予算より支出するほかはなかった。
 関東軍特務機関の土肥原大佐は、板垣参謀等と協議して、清朝最後の幼帝溥儀を説得して満州に連れて来て、満州国建設を急いだ。若槻内閣の、満州事変局地化方針の訓電を手にして、任国政府に日本政府の方針を大公使はそれぞれ説明したが、日本の真相を知らない外国側は、軍事行動に対する虚偽工作の如く見えた。

満州における排日と満州問題の急迫

2015年09月04日 | 歴史を尋ねる
 幣原外交(重光公使の努力)によって、日本と支那中央政府との関係は画期的に改善されたが、半ば独立の状態にあった満州の事態は、これに伴わなかった。張作霖を継いだ学良は、感情上から云っても、到底日本に対して作霖のような妥協的態度を執ることが出来なかった。彼は全く英米人の感化の下にあって成長し、現にドナルド氏という英人顧問を持っていた。その考え方は極端に排他的であった。彼は日本党と見られていた楊宇霆を自ら射殺してその態度を明らかにし、国民党に加盟し、満州の半独立の障壁を取り払い、五色旗を降して国民党の青天白日旗を掲げ、公然排日方針を立て、日本の勢力を満州より駆逐するため露骨の方策に出て来た。

 重光のこうした書きっぷりから、なんでこうした事態に立ち至ったのかとの思いに満ちているが、張作霖爆殺を計画した河本大作大佐ら関東軍部は張作霖爆殺後の満州の展望をどう考えていたのか。 佐々木到一大佐は、自伝で「張作霖爆死事件なるものは、予の献策に基づいて河本大佐が画策し、在北京下永憲次大尉が列車編成の詳細を密電し、在奉天独立守備隊長東宮鉄男大尉が電気点火器のキイを叩いたのである」と。佐々木は蒋介石の北伐軍と行動を共にし、そのため田中首相の裁断による済南出兵にも出逢い、満蒙問題を中国側から見ている。その視点からすると、張政権の敗北と崩壊は必至であり、早い機会に張作霖を抹殺して、その息子張学良に満州を譲り、その上で学良の腕をねじ上げて、日本のプログラムを実現させようというシナリオが出来上がる。佐々木はこれを河本に密電したという。ふむ、実にたわいない佐々木の自分勝手な展望だ。
 もう一人は、村岡長太郎関東軍司令官である。村岡は暗殺計画をひそかに建川駐在武官に連絡しようとしていた。この計画を部付きの竹下義春少佐が知り、これを河本に打ち明ける。河本は、かねてから張作霖の謀殺をきっかけに満州の武力制圧を考えていたので、竹下少佐に「この計画は俺が独自に立案し実行したものだぞ」と言い含めて、その旨を建川武官に報告させたという。こうなると、河本の耳には両方から情報が入ったことになる。そして彼らにとって張謀殺は、すでに武力制圧による満州問題の解決であった。
 白井勝美は「日中外交史」の中で、参謀長斉藤恒少将の日記を紹介している。事件の起こる五日前、5月30日の日記に、山本条太郎満鉄社長は奉天東拓楼に移駐した村岡司令官を訪問する。この両者会談のあと、斉藤は村岡中将から内容を聞き、日記に次のように記す。「1、作霖を倒して日本の思いの儘にするか。2、しばらく生かして言うままにするか。3、満蒙に列国勢力を入れて所謂機会均等になすか。等色々ありて首相の肚も定まらざる様なり。要するに社長には、今暫く作霖を生かして細工せんとする考えなるが如し。松井顧問も作霖を生かす考えなりと社長言う。町野もまた然り。(中略)要するに司令官の考えは可なるも首相が不決断なることが結局虻蜂とらずとなるならん」 以上から見えてくることは、選択肢は提示するがその先の展望はほとんどないか、単純な希望的観測のみを語っているに過ぎない。従って、先の戦略(展望)を持たず引起した事件の後始末は、結局重光が嘆く事態に立ち至ったというになる。
 そしてすでに既述済みであるが、爆殺後、河本は関東軍に緊急集合を命じ、張作霖の護衛部隊と交戦しようとした。参謀長・斉藤恒がこれを阻止命令をだしたが、河本はこの後「緊急集合が出ていたら満州事変はあの時起きていただろう」と、語ったという。すでにこの時、満州事変による武力制圧の動きは関東軍内に胚胎していた。従ってこの段階で摘み取る必要であり、田中義一首相による張作霖爆殺事件の真相公表と関係者処分を、当初の内奏通りに運ぶべきであった。その為の陸軍大将ではなかったか。そして張作霖亡きあとは、やはり蒋介石との交渉を模索すべきであった、満州分離は諦めて。事件のショックが大きすぎて、田中首相に良き相談相手が現れなかったということか。

 引続き重光の著書に戻る。
 満州に於ける日支間の紛争は増加、交渉案件は山積した。南京中央政府の権威は満州に及ばず、張学良は日本側の苦情を地方的に解決する立場にないという口実で交渉を拒否した。交渉は地方においても中央においても解決できず懸案は増すばかりであった。日本は満州に於いて商租権(借地権)を取得し、鉄道付属地以外においても、土地商租の権利があるが、日本人や多年定住している朝鮮人の土地商租は、支那官憲の圧迫によって、新たに取得することは愚か、既に得た権利すら維持困難な有様であった。満州鉄道の回収運動も始まった。支那側は満鉄平行線を自ら建設し、葫蘆島の大規模の築港をオランダの会社に委託し、日本の鉄道及び大連の商港を無価値にしようと企図するに至った。これらの現象を目前に見ている関東軍は、日本の外交の無力さを見て取って、もはや武力を使用する以外に途はないと感ずるようになった。

 この事態を受けて、重光は支那本土に対する譲歩によって、満州問題の解決を図り、以て日支の衝突を未然に防ぐことに全力を尽くし、他方、紛糾する事態を国際連盟に説明して、日本の立場を明らかにすべきことを主張、さらに日本は速やかに徹底した包括的の対支政策の樹立を必要とする旨を、政府に強く進言した。1931年4月、帰朝して幣原外相に直接報告、しかし浜口首相暗殺後の後を継いだ若槻内閣は、すでに末期的様相を呈し、大いなる経綸を立てて政策を実行するの意思がないことが分かり、失望している。枢密院の賛同を得る自信がないため退けられた。
 ロンドン海軍条約の問題を巡って、軍の主張する統帥権の確立は成功し、政府は辛うじて条約の批准には成功したが、すでに右傾勢力のために圧迫され、政治力を失ってしまった。さらに幣原外交は、外交上の正道を歩む誤りなきものであったが、満州問題の如き日本の死活問題について、国民の納得する解決策を持たぬことであった。政府が国家の危局を目前にして、これを指導し解決するだけの勇気と能力に欠けた。

支那をめぐる国際環境

2015年09月01日 | 歴史を尋ねる
 引き続いて重光葵の著書より。
 支那に対しては、従来列国はアヘン戦争における英支南京条約(1842)以来、支那と各国との間の不平等条約による治外法権や、関税据置きや居留地(租界)の特権を有し、その特権は最恵国待遇約款によって各国いずれも均霑〈きんてん)していた。この列国の特権は、海関の管理や団匪議定書による軍隊の駐屯や列国の租借地設定によって、ますます積み重なって来て、支那はほとんど身動きもならぬ半植民地の状態になってしまった。北京における英国公使の指導下にある列国公使団会議は、事実支那の管理機関のような権威をもっていた。支那の民族的国民運動は、この列国の特権から支那を解放しようとする運動であって、これが時に強烈な排外運動となって、特にソ連革命後、共産党の挑発によって非常に革命的なものになった。

 重光は日本の代表者として、北京の外交団に参加することなく、南京上海の間に留まり、国民政府との間に国交の改善を計るために、両国間の懸案事項から手を付けた。そのまえ、田中政友会内閣の後を継いで、1929年7月、浜口民政党内閣が出現し、幣原外交が復活した。駐ソ大使に内定していた佐分利を、芳沢公使の後任として起用し、重光が部下として働くことになった。支那において、蒋介石の北伐がようやく奏功し(1929年6月)、間もなく孫文の遺骸は北京西山から南京に送られ盛大な慰霊祭が行われた。これを機に、各国は南京政府を承認し、政情は漸く落着き始めていた。赴任した佐分利公使は、南京の国民政府要人側と意見の交換を行い、各地を視察して帰朝し、政府に対して重要な進言を用意していたが、軍縮会議に忙殺されている外務省は、支那問題について、十分の打合せを行う余裕はなく、佐分利公使は、その間東京で時間を空費して、対支政策転換の支那側における心理的好機会を逃していた。その際に佐分利公使は箱根において自殺を遂げたことは既述済である。幣原は他殺と見たが、重光は自殺とみた。そこに、政府側の現状認識のギャップが出来ていたのだろう。幣原は後任に小幡大使を支那側に提示したが、大隈内閣当時の所謂21カ条問題の交渉時に、強硬な態度をとったと、支那側はアグレマンを拒否、左傾する国民政府(左傾軍閥憑玉祥側の人、王正廷外交部長)は、革命外交を旗幟として、その態度は強硬であった。結局日本は正式の公使を任命できぬ羽目になり、重光に代理公使として全権を賦与し、一切の交渉を当たらせることとした。

 重光の任命を支那側は歓迎し、全幅の信頼を重光に寄せた。重光も両国の関係改善に心魂を傾けた。まず関税問題を解決し、西原借款等の債務整理の問題に目鼻をつけ、不平等条約の法律問題にも及ばんとした。日支関係は急速に改善され、蒋介石はその軍隊を立て直すためにドイツの顧問を拝して日本の顧問に代え、多数の訓練員を日本より招聘した。国民軍は支那南北を統一し、日本は政府も軍部もともに国民政府と良好なる関係を樹立して、日支の関係が軌道に乗ってきたと内外に感じさせた。列国も日本の例に倣うものが多くなった。幣原外交の全盛期が実現したが、しかし長くは続かなかった。
 英国は最も保守的であって、最も進歩的である。英国公使は北京外交団に君臨していた。しかし国民政府が南京に成立し、日本公使が中支において活動を開始し、他国も中支に公使館を持つようになると、英国は、支那の新事態に適した新政策を決定した。これは支那専門家ブラット氏の起案を保守党内閣チェンバレン外相が1929年決定した。これは従来の政策を変じて国民政府を承認し、その要望を容れて、不平等条約の改定を行い、租界その他の利権を支那に返還することを商議するという画期的な政策であった。英国の新政策は、日本が行いつつある対支政策と全く軌を一にするものであった。米国も、その他の欧州諸国も、英国に同調した。
 英国の如き国が、一旦政策を樹立すると、その方針が文字通り実行に移されるに至るのは、彼らの政府行政機構の優秀性を示すものであって羨望に堪えぬと重光はコメントする。日本は折角立派な方針を立てながら、政府機構に統一がなく、軍部は干渉を恣にし、政党には外交の理解がなく、世論に健全な支持がないため、幣原外交はある限度より以上に少しも進まない。民政党内閣は、すでに反対党や軍部の圧迫のためにますます政治力を失い、幣原外交は日本内部に台頭した国粋論のために牽制され、甚だしく徹底を欠くようになった。その間英米と支那側との交渉は急速に進捗し、不平等条約改定の目鼻がついてきた。英米との交渉が成立の域に達すれば、大勢はすでに支那の制するところで、躊躇する日本との交渉はもはや支那側において重要視する必要がなくなった。

 支那における民族運動は盛んで、支那政府は改定期限の来た条約はすべて無効であるという論法を振りかざし、その期限の来たベルギーとの条約をまず廃棄した。日本は改定期限の遠くない日支通商条約の改定交渉に入ることは少しも異存はなく、すでに条約改正の予備交渉は、北京において芳沢公使と顧維鈞外交部長との間に開始されていた。そこで重光も国民政府との間にその交渉を取り上げようとした。日本側は条約改正によって、まず公正なる態度を支那側に表示することをもって、満州問題解決の前提条件とした。この順序は、支那側も十分了解していたにも拘らず、英米側との交渉が順調に進捗してから、国権回復政策遂行の速度を非常に早めてきた。
 蒋介石には外様格であった敏腕家王正廷外交部長は、すでに大勢は支那に有利であるとみてか、支那の革命外交に関する彼自身の腹案を公表した。すでに既述済みであるがもう一度整理すると、関税自主権及び海関の回収が第一期で、法権の回収が第二期、租界や租借地の回収を第三期、内河及び沿岸航行権の回収、鉄道及びその他の利権の回収を第四期及び第五期としたものであった。極めて短期に不平等条約を廃棄して、一切の利権回収を実現しようとするもので、列国との交渉が予定期間内に片が付かない時は、支那は一方的に条約を廃棄し、これらの利権の回収を断行するという趣旨であった。この全貌は詳細に新聞紙上に発表されてしまった。以上の形勢に鑑み重光は、満州問題を中心とした日支の関係の危険なることを政府に警告し、自ら帰朝して幣原外相に意見を進言することを決意し、南京における官邸に王正廷部長を往訪、満州事変の起こる半年前であった。王部長は日本公使であった重光の質問に答えて、新聞発表は真相を伝えたものであることを肯定し、外国の利権回収はもちろん、満州をも包含するものであって、旅代の租借権も満鉄の運営も、何れも皆公表の順序によって、支那側に回収する積りであるとの説明をした。この王部長の腹案発表は、内外の世論を賑わし、日本の軍部を甚だしく刺激し、幣原外交の遂行に致命的の打撃を与える事となった。