イソップ物語(狼来る)

2015年12月08日 | 歴史を尋ねる
 昭和7~10年期の繊維工業の発展は、関連産業の発展を促し、両者相まって、優秀な近代装備を自給的に最も低廉に建設し得るに至った。例えば、紡績機械の自給化によって最新設備が他国に比して有利に可能となった。トヨタ自動織機などの高能率織機が発明され普及した。この間国民の教育は向上し、職工の技術水準が向上した。企業経営の合理化が著しく向上した。しかし、日本のライバルであったイギリス・ランカシャーは従来の独占にあぐらをかき、伝統に安住して、立ち遅れた。高橋が注目するのは、工業がある点まで発達すると、関連産業の発達を促し、両者相まって、これまで夢想もされなかったような高成長力を持つという事である。戦後日本の重化学工業の発達が、昭和30年に起り、それまで想像されていなかった飛躍的発展を可能にしたことと一脈通じると、高橋。まあ、これは日本的美質かもしれない。
 昭和7~10年期の日本経済の飛躍は、その他に重化学工業の長足の発達があった。それは、世界のブロック経済体制と軍部の軍需工業育成の要求とが相合して、強力な保護育成政策が採られた。輸入制限、高関税、軍の高価買入れ、企業の合同合併の誘導、カルテルその他統制の強化、所要資金の政策的供給など。功罪、批判もあるが、昭和30年代の重工業、化学工業発達の強力な種がまかれる結果となった。政府のやり様一つで、産業の発達がある程度まで可能のことを実証している、と。

 日本経済の発展と併行して、当時少なからぬ公債発行政策が連年続き、それが経済発展を容易にした。それは、日本の農業は破滅の危機に瀕していた(米、生糸などの暴落)のでこれを救済するため大規模な公債政策が採られた。その他に、満州事変が進展して、満州国の建国とその開発費などに巨額を支出した。その上、軍部は軍拡を主張して、財政支出も著増した。金本位制の尺度からは、インフレ危機が声高く叫ばれ、大蔵省・日銀方面からしきりに発せられた。しかし、当時世界は、生産の一大過剰と物価の崩落、設備の過剰問題、大量の失業者に悩んでいた。この大危機を克服する方途は、財政金融政策を通じて、大規模の消費を喚起する(一大インフレ政策の断行)ほかなく、世界は現に、リフレーション政策を実行しつつあった。ケインズ教授が「蓄積は罪悪、消費は美徳」という警句を吐いた時代であった。日本においてもそうした頭の切り替えが必要だった。高橋たち民間エコノミストが金再禁止を主張した根本は、そうした、リフレーション政策を実行するためであった。しかし、当時の日本は、リフレーション政策が、経済再建目的の下に意図的、計画的に実行されず、軍部の強大な軍事財政支出という形で、軍部に引きずられて結果的に進行した。軍事予算の公債政策が、結果においてリフレーション政策の役割を果たした。この事は、軍部に、軍事予算的公債発行政策の本質を誤解させ、公債政策が無限に国民経済の発展と両立しうるかに錯覚させ、他日に無軌道な軍事公債政策に走らす重要な因子となった、と。

 軍事的公債政策が、間接的ながら結果においてリフレーション的作用をしている限り、巨額の公債発行にも拘わらず、インフレ現象は起らなかった。大蔵・日銀両当局はインフレ激成の危険があると絶叫し続けたのであったが、この見解は金本位的尺度でものを見ていた。この時点での公債発行は、これまで過度に欠乏していた現金通貨を豊富に供給(日銀引受の公債発行)し、金利水準を引下げることを可能とし、しかもインフレが起らなかった。それは、当時多大の物資と設備、労力との過剰遊休があったからだ。この範囲ならば、公債発行や金融緩和政策は、リフレーション作用を及ぼすのみで、インフレ作用を起こさず、逆に、経済の繁栄を招いた。しかし、昭和10年前半の頃には、軍事公債予算のリフレーション作用は、すでに限界に来ていた。というのは物資、設備、労力の過剰は一巡してすでになくなり、かつ、世界の日貨排撃の中で輸出は不利となり、国際収支の黒字は消滅していた。巨額の軍事予算を賄うためには、新たに巨額の設備投資を必要とし、国民消費の増大も輸入増につながった。従って、この段階での軍事公債発行は、インフレを誘発する恐れがあった。この期においては、大倉当局は文字通り必死に、インフレの危険を叫び、その防遏に努めた。これが二・二六事件で高橋蔵相暗殺となった、と。これはどういうことか。高橋はかく言う。「昭和7~9年期において当局の繰り返し叫んだインフレ警告が、実際はインフレにならず、逆に国民経済の繁栄を伴ったという事実のため、軍部は11年予算期の大蔵当局の真の警告も、従来の脅しと同視してこれに従わなかった。私(高橋)は、これを、イソップ物語の狼来るの寓話そのままだと、当時批判してきた。慎重の名において早くから大きく警告しておれば間違いない、という単純な考え方は、大失敗に陥る大きな危険のあることをしみじみと考える。父親が常に口やかましく言っていては、スワ大事の時の叱責も、軽く見られ無視される危険があるのと同じだ」

 この重大な時期に、昭和11年2月、二・二六事件が起った。これを境に日本の政治は実質上軍部独裁となり、経済は準戦時経済体制に一変した。資本主義的自由経済を否定する全体主義に、急速に突入した。この過程で、自由経済的立場から、企業側から各種の抵抗があり、軍部も紆余曲折を余儀なくされたが、大筋には二・二六事件を画期にして、経済のあり方、運営の仕方は一変した。昭和12年7月の支那事変勃発には、名実ともに、戦時統制経済に突入した。