我が家では、カルフォルニア州立大学から来日する留学生(早稲田)のホストファミリーをしているが、その彼が靖国神社遊就館に行った感想が、日本はロシアに勝ったんだねが、第一声だった。10人目だったが、初めての韓国系アメリカ人(ⅰ君)。靖国神社に行ったことがあると聞いて、それでは是非遊就館に行くといいよ、と言った後のことだった。そこには開戦前の日米交渉の経緯が詳しく説明されているので、ほかの留学生にも勧めていた。もう一つ、横浜の黒船ミュージアムを勧めることにしている、彼らは日本との歴史に詳しくないから。日露戦争について、アメリカでは教えてないのか。でも、ⅰ君は素直だった。当初はソウル大学に留学したかったが、枠がなかったので、早稲田大学を選んだとのこと、来日する前は日本は怖いところ、ドイツ人みたいなイメージを持っていた。しかし来て見るとアットホームでびっくりしたとの離日の言葉。今は卒業して、カルフォルニアの日系企業に就職している。
日韓併合も結局は日露戦争に端を発している。朝鮮半島の去就を巡って、日露が開戦。歴史書は説明するが、これだけではどうも腑に落ちる説明ではない。もう少し事実関係を調べることとした。河出書房新社が発行しているふくろうの本シリーズ、図説従軍画家が描いた日露戦争、太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、を参考にしたい。 当時の日本は欧米各国からみれば極東の小さな一新興国、こともあろうに世界の列強の一角を占める大国ロシアに宣戦布告した。それだけに戦局の行方には興味津々で、日露両軍には欧米各国から多くの観戦武官や新聞記者、カメラマン、従軍画家たちが押し寄せ、戦況を世界に伝えた。日本国内のメディアも競って記者やカメラマン、画家たちを派遣し、今日の新聞や週刊誌に劣らないスピードで戦況を速報した。それにしても日本はなぜロシアと戦ったのだろうか。キーワードは朝鮮、明治維新によって近代国家の道を歩み始めた新興国日本にとって、最大のテーマは独立をいかに維持するかということだった。当時の指導者たちが最も恐れていたのは、北の帝国・ロシアだった。不凍港を持たないロシアは必ず満州に進出し、朝鮮半島をも勢力下に置こうとするに違いない、そうなると日本の独立も危うくなる。そこで明治政府は、ロシアが触手を伸ばす前に朝鮮半島を日本の勢力下に納め、本土の防衛線にしようと考えた。時代は前後するが、日清戦争の結果、清国は台湾と旅順・大連がある遼東半島を日本に割譲した。それを知ったロシアは明治28年(1895)4月、日本の満州進出を阻止するために同盟国フランスと、盟友関係にあるドイツに働きかけて、遼東半島の永久所有権を放棄するよう日本に迫って来た。受け入れなければ武力行使も辞さないという態度、結局日本は清国に遼東半島を返還した。いわゆる三国干渉であった。ところが1997年、宣教師三名が殺されたとの報道で、ドイツ皇帝は膠州湾占領を命じ、翌年99年間の租借契約を結び植民地とした。この動きを見てロシア皇帝は列強が満州におけるロシアの権益を侵害する恐れがあり、それを防止するという口実で、大連、旅順を含む遼東半島を強引に租借した。するとイギリスも九龍半島を威海衛を租借、フランスは膠州湾を租借、老大国・清国の分割化競争に拍車がかかった。だが日本は、西洋列強の極東進出を横目に見ながら、ひたすら臥薪嘗胆をスローガンに軍備の増強に努めていた。
明治32年(1899)2月、清国山東省で義和団を中心に扶清滅洋をスローガンに排外運動が起った。当時清国は欧米列強の圧力の前に租借という名目で国土を次々割譲し、半植民地化しつつあった。その上日清戦争の敗北によって、多額の賠償金を日本に支払った。日本との戦争の戦費もイギリスとドイツから借金した。ここで起こったのが列強の貸し付け強要騒動だった。露仏同盟はフランス貨で四億フラン、イギリスとドイツは三千二百万ポンドの貸付に成功した。狙いは見返りに前記租借地や鉄道敷設権、鉱山の採掘権などを手に入れた。だがこの借金は重税となって国民の肩にのしかかった。民衆の怒りは鬱積し、義和団がその怒りに火をつけたともいえる。列強は清国政府に鎮圧を求めたが、西太后は逆に義和団の行動を義挙とたたえ、積極的に支持を与えた。義和団は各地でキリスト教会を焼き払い、信者を殺し、外国人経営の鉄道を破壊し、外国人が居留する天津と北京に押し寄せた。日本をはじめイギリス、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストリアの八か国は、北京の公使館員と居留民を保護するために軍隊を派遣した。この軍隊派遣に怒った西太后は列強に宣戦布告し、本格戦争にエスカレートさせてしまった。列国は日本の一万三千名を筆頭に本国から部隊を送り、義和団と清国軍を撃滅、翌年清国は連合国側に賠償金を支払うことで講和条約を結んだ。各国は少数の部隊を残して軍隊を引き揚げたが、ロシアは逆に部隊を増強し、奉天以北の満州の要地を一挙に占領してしまった。
遼東半島を掌中にしたロシアは半島を関東省と改め、旅順を実質的に省都にして軍事基地化を推し進めた。その極東総督に就任したアレクセーエフは奉天将軍に圧力をかけロシア軍の満州駐留を認めさせ、満州領有に動き出した。この時かわした約束が、露清密約と言われるものであった。更にロシアは李鴻章を懐柔して、満州占領を合法化しようと露清条約の締結を画策した。義和団事件に出兵した各国から強い抗議の声が上がると、平和が回復し、鉄道の安全が保障されれば即時撤退すると繰り返すのみで、ロシアは一兵たりとも動かそうとしなかった。日本とイギリスは清国に厳重抗議、日本はロシアに抗議文を送ると共に、米、独、英と歩調を合わせて李鴻章に圧力をかけ続けた。ロシアは日本をなだめるべく、加藤高明外相に朝鮮の中立化構想を提案してきた。朝鮮を各国の共同保障の下に永世中立国にしよう、ロシアは満州を占領しているが朝鮮には野心がないということを見せたかった、と平塚氏はいう。加藤外相は全てはロシア軍の満州撤兵が先であると、拒否の回答を伝えた。
明治34年9月、清国公使の小村寿太郎が加藤に代わって外務大臣に就任した。翌年1月、念願の日英同盟を結び、英国に朝鮮での日本の政治・経済上の優先権を認めさせた。この日英同盟の締結はロシアにたいへんな圧力となった。ロシアは二カ月後、清国に満州を返還する還付条約を結んだ。満州撤兵は三期に分けられたが、第一期の撤兵は実施したものの二期以降の撤兵は行おうとしなかった。それどころか、第一期の撤兵の見返りとして、七カ条の新しい要求を突きつけ、撤兵の引き延ばしを計って来た。ロシアが撤兵した満州地域に、外国に租借や譲渡をしてはならないし、如何なる権利も許可をしてはならないと。更に、鴨緑江河口の朝清国境の町・龍巌浦に土地を買収して砲台を築くなど、軍事基地さえ作り始めた。日本は朝鮮政府に抗議するが、ロシアはその日本をあざ笑うように、今度は龍巌浦一帯の租借を朝鮮に要求してきた。日本の軍部内に渦巻いた主戦論は強まり、参謀総長大山巌大将は、速やかに軍備の充実・整頓を計るべしという意見書を内閣に提出、軍部内の開戦気運は一気に高まった。新聞や政治団体、学識経験者たちも開戦論を展開、世論を煽りにあおった。
しかし日本政府と軍首脳は慎重だった。戦争に訴えず、ロシアとの直接交渉によって、ロシアの朝鮮への進出を食い止めようとしていた。小村外相はロシアの満州占領が朝鮮に及ぼす危険を説き、ロシアの満州での現状と権益を認める代わりに、朝鮮での日本の権益と紛争鎮圧のための出兵を認めさせようとした。ロシア側は討議の対象を朝鮮だけにすべきで、満州に関しては日本は無関係だから口に出すなという態度をとって来た。そこで日本は満州を日本の利益範囲外というなら、ロシアも朝鮮に対して同様の保障を与えるべきだと譲歩案を提示して交渉を続けたが、ロシア側はいたずらに交渉の引き延ばしを図った。ロシアは極東の新興国が何を言うか、よもや戦争を仕掛けてくるとは夢想だにしなかった。しかし日本はロシアの南進は国家存亡の危機と捉えていたから、最後は開戦もやむなしという覚悟はできていた。とはいえ、当時の日本政府や軍首脳自身、ロシアと戦争して勝てると思っていた者は一人もいない。満州軍総参謀長児玉源太郎大将さえ、開戦前は良くて五分五分と見ていたくらいであった。その日本が敢えて開戦に踏み切った裏には、欧米列強間の複雑な対抗関係もあった、と平塚氏。その基本は英国とロシアの対立であった、と。そもそも英国が日本と軍事同盟を結んだのも、伊藤博文らを中心に日露協商を結ぼうという動きがあったため、あわてて英国は日本と同盟関係になった感が強い。更に複雑なのは、露仏同盟に脅かされているドイツが日露戦争でロシアを支持したのに対して、アメリカはスペインとの戦争後手に入れたフィリッピンの植民地経営に乗り出したばかりで、日英同盟側についた。日露戦争は日英同盟と露仏同盟の代理戦争と見る歴史家もいるぐらいだ、と。現に日本は戦費総額の半分近いお金を、英米で募集した外債出賄った。英米金融筋からの借金がなかったならば、日本はとても十九カ月もの戦争は出来なかった。
最後に再度岡崎久彦氏の分析で締めくくりたい。日本がロシアと戦争するなどは狂気の沙汰だった。それでも、開戦に慎重だった明治天皇や伊藤博文まで、最後には皆、もう戦争するしかないと覚悟を決めたのは、ロシアの意図を正確に把握していたからだ、と。北清事変を機に、ロシアは満州に進撃、チチハル、長春、奉天を占領して全満州を制圧した。ロシアは満州を永久占領する意図はないことを公式文書で声明したが、この時小村寿太郎駐露公使は早くも電報で、ロシアは完全かつ永久に満州を管理することとなるであろう、と分析、報告している。小村はそれより先、日露両国で、朝鮮と満州がそれぞれの勢力範囲であると認め合うべきだと、本省に意見具申している。ロシアにとって良い取引だったが、当時のロシアは弱小日本など相手にしない。ウィッテの反応は、ロシアは満州を取ろうと思えば何時でもとれる、日本の承認など必要としない、むしろ満州を併合すると朝鮮は隣接利域になるのでロシアの方が日本より大きい利害関係を持つようになる、今度は朝鮮が領土予定地として必要になる、という返事だった。ここで割り切りの早い小村は、ロシアと話しても無駄だ、満州を取らせたら、つぎは朝鮮をとりくくる、ここは見きわめてロシアと戦うしかないとほぞを固めた、と。ロシアの地政学的位置は、バルト海に出てもその先にデンマーク海峡があり、黒海を制圧してもダーダネルス海峡がある。東は日本列島に出口を押さえられている。ウラジオストックの出口を扼する朝鮮半島は絶対に日本に渡せない、というのはロシア皇帝も含めてロシア側が陰に陽に洩らしていたところだった。日本の心配はそれだけではなかった。文書に残る公式文書にはないが、口伝に残る当時の雰囲気では、朝鮮半島を取られたら、次に北海道も対馬も取られると思っていた。たしかにロシアが朝鮮半島を完全に制圧すれば、その後は、いずれそれが正確な判断になったでしょう、と岡崎氏は記述する。