もう一度、日露戦争

2020年11月19日 | 歴史を尋ねる

 我が家では、カルフォルニア州立大学から来日する留学生(早稲田)のホストファミリーをしているが、その彼が靖国神社遊就館に行った感想が、日本はロシアに勝ったんだねが、第一声だった。10人目だったが、初めての韓国系アメリカ人(ⅰ君)。靖国神社に行ったことがあると聞いて、それでは是非遊就館に行くといいよ、と言った後のことだった。そこには開戦前の日米交渉の経緯が詳しく説明されているので、ほかの留学生にも勧めていた。もう一つ、横浜の黒船ミュージアムを勧めることにしている、彼らは日本との歴史に詳しくないから。日露戦争について、アメリカでは教えてないのか。でも、ⅰ君は素直だった。当初はソウル大学に留学したかったが、枠がなかったので、早稲田大学を選んだとのこと、来日する前は日本は怖いところ、ドイツ人みたいなイメージを持っていた。しかし来て見るとアットホームでびっくりしたとの離日の言葉。今は卒業して、カルフォルニアの日系企業に就職している。

 日韓併合も結局は日露戦争に端を発している。朝鮮半島の去就を巡って、日露が開戦。歴史書は説明するが、これだけではどうも腑に落ちる説明ではない。もう少し事実関係を調べることとした。河出書房新社が発行しているふくろうの本シリーズ、図説従軍画家が描いた日露戦争、太平洋戦争研究会編、平塚柾緒著、を参考にしたい。  当時の日本は欧米各国からみれば極東の小さな一新興国、こともあろうに世界の列強の一角を占める大国ロシアに宣戦布告した。それだけに戦局の行方には興味津々で、日露両軍には欧米各国から多くの観戦武官や新聞記者、カメラマン、従軍画家たちが押し寄せ、戦況を世界に伝えた。日本国内のメディアも競って記者やカメラマン、画家たちを派遣し、今日の新聞や週刊誌に劣らないスピードで戦況を速報した。それにしても日本はなぜロシアと戦ったのだろうか。キーワードは朝鮮、明治維新によって近代国家の道を歩み始めた新興国日本にとって、最大のテーマは独立をいかに維持するかということだった。当時の指導者たちが最も恐れていたのは、北の帝国・ロシアだった。不凍港を持たないロシアは必ず満州に進出し、朝鮮半島をも勢力下に置こうとするに違いない、そうなると日本の独立も危うくなる。そこで明治政府は、ロシアが触手を伸ばす前に朝鮮半島を日本の勢力下に納め、本土の防衛線にしようと考えた。時代は前後するが、日清戦争の結果、清国は台湾と旅順・大連がある遼東半島を日本に割譲した。それを知ったロシアは明治28年(1895)4月、日本の満州進出を阻止するために同盟国フランスと、盟友関係にあるドイツに働きかけて、遼東半島の永久所有権を放棄するよう日本に迫って来た。受け入れなければ武力行使も辞さないという態度、結局日本は清国に遼東半島を返還した。いわゆる三国干渉であった。ところが1997年、宣教師三名が殺されたとの報道で、ドイツ皇帝は膠州湾占領を命じ、翌年99年間の租借契約を結び植民地とした。この動きを見てロシア皇帝は列強が満州におけるロシアの権益を侵害する恐れがあり、それを防止するという口実で、大連、旅順を含む遼東半島を強引に租借した。するとイギリスも九龍半島を威海衛を租借、フランスは膠州湾を租借、老大国・清国の分割化競争に拍車がかかった。だが日本は、西洋列強の極東進出を横目に見ながら、ひたすら臥薪嘗胆をスローガンに軍備の増強に努めていた。

 明治32年(1899)2月、清国山東省で義和団を中心に扶清滅洋をスローガンに排外運動が起った。当時清国は欧米列強の圧力の前に租借という名目で国土を次々割譲し、半植民地化しつつあった。その上日清戦争の敗北によって、多額の賠償金を日本に支払った。日本との戦争の戦費もイギリスとドイツから借金した。ここで起こったのが列強の貸し付け強要騒動だった。露仏同盟はフランス貨で四億フラン、イギリスとドイツは三千二百万ポンドの貸付に成功した。狙いは見返りに前記租借地や鉄道敷設権、鉱山の採掘権などを手に入れた。だがこの借金は重税となって国民の肩にのしかかった。民衆の怒りは鬱積し、義和団がその怒りに火をつけたともいえる。列強は清国政府に鎮圧を求めたが、西太后は逆に義和団の行動を義挙とたたえ、積極的に支持を与えた。義和団は各地でキリスト教会を焼き払い、信者を殺し、外国人経営の鉄道を破壊し、外国人が居留する天津と北京に押し寄せた。日本をはじめイギリス、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストリアの八か国は、北京の公使館員と居留民を保護するために軍隊を派遣した。この軍隊派遣に怒った西太后は列強に宣戦布告し、本格戦争にエスカレートさせてしまった。列国は日本の一万三千名を筆頭に本国から部隊を送り、義和団と清国軍を撃滅、翌年清国は連合国側に賠償金を支払うことで講和条約を結んだ。各国は少数の部隊を残して軍隊を引き揚げたが、ロシアは逆に部隊を増強し、奉天以北の満州の要地を一挙に占領してしまった。

 遼東半島を掌中にしたロシアは半島を関東省と改め、旅順を実質的に省都にして軍事基地化を推し進めた。その極東総督に就任したアレクセーエフは奉天将軍に圧力をかけロシア軍の満州駐留を認めさせ、満州領有に動き出した。この時かわした約束が、露清密約と言われるものであった。更にロシアは李鴻章を懐柔して、満州占領を合法化しようと露清条約の締結を画策した。義和団事件に出兵した各国から強い抗議の声が上がると、平和が回復し、鉄道の安全が保障されれば即時撤退すると繰り返すのみで、ロシアは一兵たりとも動かそうとしなかった。日本とイギリスは清国に厳重抗議、日本はロシアに抗議文を送ると共に、米、独、英と歩調を合わせて李鴻章に圧力をかけ続けた。ロシアは日本をなだめるべく、加藤高明外相に朝鮮の中立化構想を提案してきた。朝鮮を各国の共同保障の下に永世中立国にしよう、ロシアは満州を占領しているが朝鮮には野心がないということを見せたかった、と平塚氏はいう。加藤外相は全てはロシア軍の満州撤兵が先であると、拒否の回答を伝えた。

 明治34年9月、清国公使の小村寿太郎が加藤に代わって外務大臣に就任した。翌年1月、念願の日英同盟を結び、英国に朝鮮での日本の政治・経済上の優先権を認めさせた。この日英同盟の締結はロシアにたいへんな圧力となった。ロシアは二カ月後、清国に満州を返還する還付条約を結んだ。満州撤兵は三期に分けられたが、第一期の撤兵は実施したものの二期以降の撤兵は行おうとしなかった。それどころか、第一期の撤兵の見返りとして、七カ条の新しい要求を突きつけ、撤兵の引き延ばしを計って来た。ロシアが撤兵した満州地域に、外国に租借や譲渡をしてはならないし、如何なる権利も許可をしてはならないと。更に、鴨緑江河口の朝清国境の町・龍巌浦に土地を買収して砲台を築くなど、軍事基地さえ作り始めた。日本は朝鮮政府に抗議するが、ロシアはその日本をあざ笑うように、今度は龍巌浦一帯の租借を朝鮮に要求してきた。日本の軍部内に渦巻いた主戦論は強まり、参謀総長大山巌大将は、速やかに軍備の充実・整頓を計るべしという意見書を内閣に提出、軍部内の開戦気運は一気に高まった。新聞や政治団体、学識経験者たちも開戦論を展開、世論を煽りにあおった。

 しかし日本政府と軍首脳は慎重だった。戦争に訴えず、ロシアとの直接交渉によって、ロシアの朝鮮への進出を食い止めようとしていた。小村外相はロシアの満州占領が朝鮮に及ぼす危険を説き、ロシアの満州での現状と権益を認める代わりに、朝鮮での日本の権益と紛争鎮圧のための出兵を認めさせようとした。ロシア側は討議の対象を朝鮮だけにすべきで、満州に関しては日本は無関係だから口に出すなという態度をとって来た。そこで日本は満州を日本の利益範囲外というなら、ロシアも朝鮮に対して同様の保障を与えるべきだと譲歩案を提示して交渉を続けたが、ロシア側はいたずらに交渉の引き延ばしを図った。ロシアは極東の新興国が何を言うか、よもや戦争を仕掛けてくるとは夢想だにしなかった。しかし日本はロシアの南進は国家存亡の危機と捉えていたから、最後は開戦もやむなしという覚悟はできていた。とはいえ、当時の日本政府や軍首脳自身、ロシアと戦争して勝てると思っていた者は一人もいない。満州軍総参謀長児玉源太郎大将さえ、開戦前は良くて五分五分と見ていたくらいであった。その日本が敢えて開戦に踏み切った裏には、欧米列強間の複雑な対抗関係もあった、と平塚氏。その基本は英国とロシアの対立であった、と。そもそも英国が日本と軍事同盟を結んだのも、伊藤博文らを中心に日露協商を結ぼうという動きがあったため、あわてて英国は日本と同盟関係になった感が強い。更に複雑なのは、露仏同盟に脅かされているドイツが日露戦争でロシアを支持したのに対して、アメリカはスペインとの戦争後手に入れたフィリッピンの植民地経営に乗り出したばかりで、日英同盟側についた。日露戦争は日英同盟と露仏同盟の代理戦争と見る歴史家もいるぐらいだ、と。現に日本は戦費総額の半分近いお金を、英米で募集した外債出賄った。英米金融筋からの借金がなかったならば、日本はとても十九カ月もの戦争は出来なかった。

 最後に再度岡崎久彦氏の分析で締めくくりたい。日本がロシアと戦争するなどは狂気の沙汰だった。それでも、開戦に慎重だった明治天皇や伊藤博文まで、最後には皆、もう戦争するしかないと覚悟を決めたのは、ロシアの意図を正確に把握していたからだ、と。北清事変を機に、ロシアは満州に進撃、チチハル、長春、奉天を占領して全満州を制圧した。ロシアは満州を永久占領する意図はないことを公式文書で声明したが、この時小村寿太郎駐露公使は早くも電報で、ロシアは完全かつ永久に満州を管理することとなるであろう、と分析、報告している。小村はそれより先、日露両国で、朝鮮と満州がそれぞれの勢力範囲であると認め合うべきだと、本省に意見具申している。ロシアにとって良い取引だったが、当時のロシアは弱小日本など相手にしない。ウィッテの反応は、ロシアは満州を取ろうと思えば何時でもとれる、日本の承認など必要としない、むしろ満州を併合すると朝鮮は隣接利域になるのでロシアの方が日本より大きい利害関係を持つようになる、今度は朝鮮が領土予定地として必要になる、という返事だった。ここで割り切りの早い小村は、ロシアと話しても無駄だ、満州を取らせたら、つぎは朝鮮をとりくくる、ここは見きわめてロシアと戦うしかないとほぞを固めた、と。ロシアの地政学的位置は、バルト海に出てもその先にデンマーク海峡があり、黒海を制圧してもダーダネルス海峡がある。東は日本列島に出口を押さえられている。ウラジオストックの出口を扼する朝鮮半島は絶対に日本に渡せない、というのはロシア皇帝も含めてロシア側が陰に陽に洩らしていたところだった。日本の心配はそれだけではなかった。文書に残る公式文書にはないが、口伝に残る当時の雰囲気では、朝鮮半島を取られたら、次に北海道も対馬も取られると思っていた。たしかにロシアが朝鮮半島を完全に制圧すれば、その後は、いずれそれが正確な判断になったでしょう、と岡崎氏は記述する。

 

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日韓併合100年日韓知識人共同声明の検証

2020年11月02日 | 歴史を尋ねる

 戦後の朝鮮半島の成り立ちを見て来たが、韓国歴史家は国としての成り立ち・歴史の正統性を探して、日韓併合は不法なものであった、韓国は一貫して自主独立運動の中から生まれた、という歴史を編纂しようとしている。他国の歴史をとやかく言うのは内政干渉の批判を浴びそうだが、しかしそのために、日本の歴史が捻じ曲げられるのは、受け入れがたい。2010年発表された表題の共同声明に立ち入って、どこがおかしいか、見てみたい。

 共同声明はこう切り出す。国の歴史家は、日本による韓国併合が長期にわたる日本の侵略、数次にわたる日本軍の占領、王后の殺害と国王・政府要人への脅迫、そして朝鮮の人々の抵抗の圧殺の結果実現されたものであることを明らかにしている。近代日本国家は1875年江華島に軍艦を送り込み、砲台を攻撃、占領するなどの軍事作戦を行った。翌年、日本側は、特使を派遣し、不平等条約をおしつけ、開国させた。1894年朝鮮に大規模な農民の蜂起がおこり、清国軍が出兵すると、日本は大軍を派遣して、ソウルを制圧した。そして王宮を占領して、国王王后をとりことしたあとで、清国軍を攻撃し、日清戦争を開始した。他方で朝鮮の農民軍を武力で鎮圧した。日清戦争の勝利で、日本は清国の勢力を朝鮮から一掃することに成功したが、三国干渉をうけ、獲得した遼東半島を還付させられるにいたった。この結果、獲得した朝鮮での地位も失うと心配した日本は王后閔氏の殺害を実行し、国王に恐怖を与えんとした。国王高宗がロシア公使館に保護をもとめるにいたり、日本はロシアとの協定によって、態勢を挽回することをよぎなくされた。」 当ブログでは、明治維新後の日韓の関りについて、かなり詳細に追いかけてきた。日本も当時お節介を焼き過ぎた感があるが、欧米からの極東への進出に対する日本の危機意識がかなりなものであったのだろう、現在の日本人には理解が出来ないが。共同声明の中身は、当時のいわゆる帝国主義的東アジア情勢(アジア分割)について、何のコメントもない。日韓の当時の歴史的事実の力関係を並べて、知識人という言葉の力を借りて、日本が不当だと言い募っている。

 当時の日本人、福沢諭吉と山県有朋、陸奥宗光の言葉を引く。まず諭吉。「日本はアジアの東端にあるが、日本国民の精神は欧化に親しんでいる。日本の隣の中国と朝鮮は、西洋文明が東漸し影響力を大きくして来ると、独立を維持するだけの方策がないだろう。列強などの文明国に分割されるだろう。日本には中国や朝鮮の開花を待って一緒にアジアを担っていくだけの時間がない。むしろ、中国と朝鮮から離れて西洋列国と一緒になり、中国と朝鮮に接する方法もある」と。山県有朋は明治21年、明治期の地方制度調査のためヨーロッパ諸国を歴訪した。翌年6月、オーストリアのウイーン大学ローレンツ・シュタインと巡り合い、シベリア鉄道が出来たら日本はどうなるか質問した。「シベリア鉄道の影響は直接的には少ないだろう。しかし、ロシアが朝鮮を占領しようと思ったとき、重要な役割を果たす。ロシアはアジアに海軍を興すことができる、海軍の根拠地を朝鮮半島の東側に置きうる」と。山県はシュタインに会う前からすでに「日本の政治と戦略は、中国の影響力から朝鮮を引き離し、ヨーロッパの強国(特にロシア)が朝鮮を領有してしまわないようにすること」を考えていた。シュタインは日本が取るべき道に関して、主権の及ぶ国土の範囲を主権線とし、国の存亡に関係する外国の状態を利益線として説明し、朝鮮を中立に置くことが日本の利益線になると、語った。中国に代わって、日本が朝鮮の中立を補償する、担保するという考え方がでてきた。ついで、日清戦争が始まった後の閣議に陸奥宗光は対韓政策4案を提示した。(1)日本政府はすでに朝鮮が独立国で内政改革の必要性を唱えている。日清戦争終了後も、朝鮮を自主放任し、干渉することなく将来の朝鮮の命運を自力で一任する策、(2)将来朝鮮を独立国とするも、日本は間接直接にその独立を扶植し、外国からの侮りを防ぐ労をとる策、(3)朝鮮は自力で独立を維持できない場合、朝鮮領土の保全は日清両国が担当する策、(4)日清両国で領土の保全について共同の望みがない場合、ヨーロッパのベルギー、スイスの如く各強国担保の中立国と為す策の4案。閣議では日清戦争の形勢が定まらない中で不動の方針は出せないとの判断で閣議決定には至らず。ここに陸奥の「蹇蹇録」から引いたのは、当時の情勢を日本側はどう考えていたか、知るためであった。ここには具体的に書いていないが、李朝朝鮮が清国の華夷秩序の中に埋もれていたら、ロシアに領有される恐れがある、或いはヨーロッパの強国に分割される恐れがあることを前提に、日本側の対韓政策が練られていることを窺わせる。ひいては日本の存立が脅かされる。日本は何で日清戦争、日露戦争という、きわどい戦争を行ったか。日清戦争では戦死者1万4千人、傷病者28万6千人。日露戦争では戦死者8万5千人、傷病者14万3千人。日韓併合のために、これほどの犠牲を払う筈がない。共同声明に名前を連ねるいわゆる知識人と言われる人は、日本人の辿った先人の努力を少しも理解できないのだろう、日韓で世界が回っていると言いたいのか。

 さらに共同声明は次のような歴史を語る。「義和団事件とロシアの満州占領ののち、1903年には日本は韓国全土を自らの保護国とすることを認めるようにロシアに求めるにいたった。ロシアがこれを峻拒すると、日本は戦争を決意し、1904年戦時中立宣言をした大韓帝国に大軍を侵入させ、ソウルを占領した。その占領軍の圧力のもと、2月23日韓国保護国化の第一歩となる日韓議定書の調印を強制した。はじまった日露戦争は日本の優勢勝ちにおわり、日本はポーツマス講和において、ロシアに朝鮮での自らの支配を認めさせた。伊藤博文はただちにソウルに乗り込み、日本軍の力を背景に、威嚇と懐柔をおりまぜながら、1905年11月18日、外交権を剥奪する第二次日韓協約を結ばせた。義兵運動が各地におこる中、皇帝高宗はこの協約が無効であるとの訴えを列国に送った。1907年ハーグ平和会議に密使を送ったことで、伊藤統監は高宗の責任を問い、ついに軍隊解散、高宗退位を実現させた。7月24日第三次日韓協約により日本は韓国内政の監督権をも掌握した。このような日本の支配の強化に対して、義兵運動が高まったが、日本は軍隊、憲兵、警察の力で弾圧し、1910年の韓国併合に進んだのである。
 以上のとおり、韓国併合は、この国の皇帝から民衆までの激しい抗議を軍隊の力で押しつぶして、実現された、文字通りの帝国主義の行為であり、不義不正の行為である」 共同声明に名を連ねる歴史家は、日本の歴史を我が物顔で糾弾する。

 歴史とは人間の営みであり、時の勢いがある。いま振り返ると、保護国化でとどめておくのが良かったかもしれないが、併合迄進んだのは、当事者のそれこそ歴史的判断があったのだろう。二度と、日清戦争や日露戦争を起したくないと。ここでは詳細にその事実関係に立ち入ることは止めて、呉善花氏の「韓国併合の道 完全版」を参考にしておこう。呉氏は韓国側の事実関係を主に追いかけている。そしてこう結論付ける。

 李朝朝鮮は次のような政治的伝統を持っていた。①世界に類例を見ない硬直した文治官僚国家体制、②中華主義に基づく華夷秩序の世界観、③大国に頼ろうとする事大主義、④儒教国家を保守する衛正斥邪の思想。 こうした李朝正統の流れに対して、唯一改革への可能性を示し続けたのが実学の流れだった。実学の流れは金玉均らの急進開化派と金弘集らの穏健開化派の流れに分かれ、両派壊滅以後は、東学の流れと愛国啓蒙運動の流れに命脈を保った。それらに対して李朝正統は、需生らの衛生斥邪派が義兵の中心勢力として最後まで力を持ち続けた。併合を前にして、この三つは大同団結することはなかった。それは李朝の統一が、横のつながりを失った無数の極小集団がそれぞれ自己の利益を目指して、中心に向かって猛然と突き進む力学の統一性による伝統と無縁でなかった。また、すべての非正統的活動を執拗に排除しようとする嫉妬深い中央集権主義の伝統とも無縁でなかった。李朝朝鮮は最初から最後まで、この二つの伝統を乗り越えることが出来なかった。上からの改革の芽を自ら摘み取り、なおかつ下からの改革の条件である挙国一致体制を生み出すことが出来なかった。韓国併合ではなく韓国独立への道を自らの手で開くことが出来なかったのは、何よりもそのためである。・・・日本の保護国となってから併合されるまで、最も強固に抵抗を示したのは、儒生や旧将兵らが農民を組織した義兵闘争だった。農民蜂起の根本にあるのは生活の疲弊である。政権が親清だろうと親日だろうと親露だろうと、農民たちが疲弊していたことには何ら変わりもなかった。油が注がれればいつでも爆発した。彼らは伝統的に書院を根拠地とする地方儒生や地方両班たちの影響下にあった。そして地方両班たちもまた疲弊していた。しかし、彼らはその共通の疲弊に依ることなく、衛正斥邪の大義によってしか農民たちに決起を訴えることがなかった。しかも地域に根を張る彼らは、ついに地域を越えた有効な横の連帯を生み出すことがなかった。

さらに呉氏はいう。「現在の韓国では、いまだ併合をもたらした自らの側の要因への徹底的な解明への動きが始まってはいない。いまなお、李朝の亡霊の呪縛から完全に脱することが出来ていないことを物語っている。韓国が自らの側の問題解明に着手し、さらに反日思想を乗り越え、小中華主義の残存を切り捨てたうえで、日本統治時代についての徹底的な分析に着手した時、韓国にようやく李朝の亡霊の呪縛から脱出したといえる状況が生まれるだろう。私がいうのもおこがましいが、日本はそうした方向へと韓国が歩むことを期待すべきであり、その方向にしか正しい意味での日韓の和解はないことを知るべきだろう」 呉氏にも誤解して貰いたくないが、多くの日本人はまさしく、そのように考えていると思う。

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