支那(日華)事変への途 3

2016年02月24日 | 歴史を尋ねる
 1937年(昭和12)12月、在華ドイツ大使トラウトマンは蒋介石と会見して日本の和平条件を伝えた。蒋はその条件に大体異存はない。しかし戦争を続けながらの和平交渉は成功するものではない。目下南京に向かっている日本軍の進撃を止めてほしい。まず停戦して、それから交渉に入ろうと言った。しかし日本軍は進撃を停止するどころか、南京に突入して暴虐の限りをつくすに至った。首都が蹂躙されては、蒋介石の面目は丸つぶれである。その上日本軍の強硬派は首都の占領に気を良くして、蒋の運命も極まったと称し、それが軍の大勢を制するに至った。その結果政府も軍の大勢に押し切られて、和平条件を苛酷に改め、これに対する蒋介石の回答が曖昧なのは、蒋の和平に対する誠意がない証拠だとして、翌1938年1月、「爾後国民政府を相手にせず」という有名な近衛声明を発するに至った。和平の放棄であった。

 しかし中国の戦意は少しも衰えず、日本も戦争によって中国を屈服させるだけの戦力もなく、国力を消耗するだけである。また北京に樹立した新政権に民心が靡く様子もなく、新政権による事態の自主的収拾も見込みはない。ここで、軍・政首脳部の和平派が再び台頭するに至った。近衛首相は再び和平に向かい、5月内閣を改造し、和平を強く主張する宇垣一成大将を外相に、また和平に賛成した板垣征四郎中将を陸相に迎えた。かくて宇垣は、香港を通じて国民政府との和平交渉に入り、交渉は順調に進展した。しかしこの和平交渉を阻害したのは、事態の自力収拾を目指す軍強硬派の動きであった。自力収拾派は、香港における和平交渉の開始を知るや、猛然と交渉の破壊に乗り出し、やがて彼らの主張が軍の大勢を制するに至った。近衛首相も板垣陸相も、ともに大勢順応主義だから、大勢が和平反対となればその方に靡く。宇垣は熱意を込めてその反省を求めても耳を貸さず、香港を通じての和平交渉は一歩も進められなくなった。

 そのころ軍の一部が謀略として進めた重慶の汪兆銘との連絡が進展し、汪の重慶脱出がほぼ確実視されるようになった。汪は一貫した和平論者であった。政府首脳部は汪を引き出すことにより重慶内部を撹乱し、それによって事態の打開を図ることになった。これが1938年(昭和13)7月の五相会議決定の「対支謀略」であった。他方、北京新政権の体制が進むにつれ、革新官僚の間には、新政権強化論が出て、新政権に消極的な外務省に、中国問題を任せてはおけない、「対支院」のような新機関を創設し、広く人材を集め、軍に協力すべしとの議論が強くなり、ついに政府は対支院設立案を五相会議に提出した。しかし宇垣外相は、これに絶対反対で、満州国においてさえ民心は政府に靡かず苦労している、まして中国本土を第二の満州国化しても、民心が離反して持ちこたえられない、反対に日本がつぶれるというのが外務省主流及び宇垣の見解であった。しかし五相会議や閣議も、「対支院」に賛成で、宇垣は全く孤立無援となり、和平交渉も進められなくなったので、宇垣は10月末外相を辞するに至った。その結果11月1日閣議は対支院(その後興亜院)の設置を決定した。日本は全く成功する見込みのない道を進み、破滅への道をたどるにいたったと上村氏。
 宇垣外相が辞任し、後任が決定するまでの間、近衛首相が兼任したが、その僅かな間に近衛兼任外相は軍の圧力に屈し、在独陸軍武官大島浩をドイツ大使に任命した。大島は枢軸同盟推進の急先鋒として知られていた。大島が大使になってからは、同盟締結の機運が急速に進み、日本はドイツを中心とする世界戦争に巻き込まれる運命のもとに置かれた、と。

 汪兆銘は日本との約束通り重慶を脱出して、まずはハノイに仮寓した。汪は中国人だから中国ナショナリズムを理解し、日本の傀儡とみられては国民が離反することを知っているので、日本の占領地域に立ち入るつもりはなかった。汪は自分が重慶を脱出すれば、自分の後を追って脱出する要人も少なくないい筈だし、雲南の竜南を始め広東、広西の軍閥も、反蒋の旗を掲げて自分を歓迎するものと踏んでいた。しかしその目算はすべてはずれ、汪に続いて重慶を脱出する要人もなければ、地方軍閥で汪を迎える者もなかった。そのうえ、汪の故郷であった広東は日本軍の占領するところとなり、そのうえハノイには重慶に刺客団が潜入して汪の命を狙い、フランス当局は汪に対して極めて冷淡で、ハノイが安住の地でないことがはっきりした。汪は身の置き所に窮し、万やむを得ず日本占領下の上海に至り、そのに居を定めた。そうなれば日本軍がすでに作り上げた各地政権を統合して南京政府を樹立、その頭に座った。かくて汪兆銘は中華民国国民政府を樹立し、重慶の国民政府と対立することになった。これは決して汪の意図したところでなかった。汪が危惧した通り、中国国民からは日本の傀儡政権と見られて民心は離反し、治安は乱れて日本軍の厄介になるほかなかった。汪政権の日本軍に頼る比重が増せば、それだけ日本の傀儡化も進み、中国国民から見放される、日本軍にとって、汪政権が負担になり、占領地の治安維持さえ思うにまかせない、蒋介石に対する積極作戦などできるはずもなく、長期持久戦にの蒋介石のペースにはまって、消耗を続けるだけになった。そこで日本では、またも和平論が出て、対蒋打診も行われたが、汪政権の存在が対蒋和平の障害となり、しかも日本としては一旦樹立した汪政権もそう易々と解消することも出来ず、汪政権樹立が日本の命取りとなった。ふーむ、ここまでくると、蒋介石に完全に足元を見られ、大きな撤退しか解決策はない。そしてそんな決断は誰も出来ないということか。

支那(日華)事変への途 2

2016年02月19日 | 歴史を尋ねる
 一方、蒋介石の最大の難題は共産軍の問題であったと、上村氏。江西省の共産軍は蒋の執拗な攻撃に耐えられなくなり、江西を捨てて西遷の途についたので、蒋介石はこれの殲滅に努力を集中し、北方における日本との衝突を回避していた。南京政府がたやすく南京勢力の華北撤退を承認した一つの理由はそこにあった。日本軍はそのあとに親日政権を樹立しようとしたが、これと思う中国人はいずれも尻込みするので、結局、蒋介石から華北の警備を任せられた南京傍系の宋哲元を口説き、無理押しして冀察政務委員会を設立させた。しかし宋哲元は中国ナショナリズムに逆らう気はなく、南京政府と日本との緩衝となる以上に進むつもりはない。また宋哲元麾下の第二十九軍はもともと赤い軍閥と言われた馮玉祥系統で、抗日色に富んでいる。それが華北に進駐して日本軍と接触し、日本軍の横暴に、いよいよ抗日的となり、日本軍との関係は尖鋭化していった。第二十九軍の首脳部主流派は、日本との関係維持に努めるが、抗日的言辞を弄する反主流派もあり、将兵は抗日的なので、首脳部の統制が利かず、そこに危険性があった。

 他方江西省を追われて西遷した共産軍は、1935年(昭和10)10月、華北に近い陝西省に入り、そこを拠点として多数の秘密工作員を華北に潜入させ、抗日宣伝に努めると共に、特に第二十九軍将兵の抗日精神を扇動することに力を注いだ。1935年8月、共産軍は抗日救国宣言(八・一宣言)を発し、一切の内争を停止して抗日のために一致団結すべしと全国に呼びかけ、これを共産党の標語とした。こうして抗日気運が高まり、11月親日派の中心人物汪兆銘が狙撃され、12月唐有壬前外交部次長が暗殺された。更に1936年(昭和11)日本では2・26事件が発生した年であるが、12月張学良による蒋介石監禁という西安事件が起ったが、これは日華関係の上に決定的ともいうべき大事件であった。蒋介石は解放されたが、蒋の心境には大きな変化が起り、事件以後の蒋介石は、共産党の主張する一致抗日に傾くようになった。これは先鋭化しつつあった日華関係に対する危険信号であった。
 そういう情勢の下にあった翌年(1937年)7月、北平(北京)郊外の盧溝橋において、ごく些細なことから、日華両軍関に小競り合いが発生した。これまで小部隊の小競り合いは珍しいことではなく、これまでは大事に至らず解決するのを常としたが、こんどは情勢が異なった。抗日気運が高まった中で、二十九軍の将兵は首脳部からの撤収命令が出ても現場を動かず、日本軍との対立が尖鋭化していった。そこには共産党工作員などの将兵に対する扇動や挑発などもあった。二十九軍の現場の将兵も動かず、日本軍も軍の名誉にかけて先に退くことが出来ず、ことは面倒になった。日華双方とも、国内の強硬論が勢いを得てい来る。日本ではすでに7月11日、内地師団の動員を決定した。蒋介石も万一に備えると称して中央軍に北上を命じた。日本が出兵すれば、全面戦争になることは必至、しかし日本の強硬派は、出兵すれば、中国側が驚いて屈服すると考えていた。そういう認識不足の強硬派が日本の大勢を制するようになり、また蒋介石の方も、これまでのような柔軟性を失っていたから、日華双方が互いに刺激し合って尖鋭化、遂に両国軍が正面衝突をみるに至った。

 ただ正面衝突といっても、日本軍が平津地域を占領し、二十九軍は戦わずに南方に撤退し、南京中央軍は遥か南方に留まったままで動かず、派遣された日本軍も華北に到着しつつある状態で、本格的衝突には至っていない。この間隙を利用して東京の陸海外務の穏健派は軍首脳部を説得して、和平による収拾案を決定し、まず民間人をして南京の反応を探らせることにした。これが船津工作であった。しかし船津が上海に赴き、南京外交部の高宗武亜州司長と会談したその日に、大山事件(第二次上海事変)が起こり、せっかくの和平構想も実を結ぶに至らなかった。しかも上海における日華の衝突は、日華双方の強硬論を煽ることとなり、大勢は全面戦争へと進むに至った。それにもかかわらず、軍の穏健派は、なお和平による事態収拾の考えを捨てなかった。日本の国力及び兵力から見、中国に漲る抗日意識の高揚から見て、中国との全面戦争を続けることは、徒に日本の国力を消耗するだけで、勝つ見込みはないからであった。
 1937年10月22日の閣議は、日華和平に関する第三国の斡旋を受けることを決定した。軍が第三国の斡旋による和平に踏み切った裏には、杭州湾上陸作戦による上海の救援に自信を得たということがあった。中国軍を潰走させ、それを背景に和平交渉を進め、事変を平和的手段で収拾するという構想であった。だが、日本軍の上陸作戦により、上海包囲の中国軍は側面を突かれ、慌てて南京に向って潰走し出した。そこで戦闘を打ち切れば和平も可能であった。しかし日本軍の最大の欠陥は統制が利かないことである。中国軍が潰走して南京に向かうと、上陸軍と上海派遣軍とは二路に分かれて中国軍を急迫し、中央の停止命令をきかず、遂に12月13日、南京に突入してしまった。しかもその翌日14日、北京に中華民国臨時政府が樹立された。これは明らかに日本の軍強硬派ぼ策謀であった。強硬派は自分の思うように中国を料理する積りだから、和平には反対であった。だから和平ぶち壊しの為に南京を占領し、北京に蒋介石政権に対立する政権を樹立したのだった。

支那(日華)事変への途 1

2016年02月16日 | 歴史を尋ねる
 歴史的事実を断片的にみると何故その時と驚かされることがある。歴史的事件には必ず原因がある。その流れを掴まないと歴史的事実の理解が深まらない。幸い、上村伸一氏が日華事変史を担当して上下2冊の「日本外交史」を書き上げているので、解題を参考に標題の概略を纏めてみたい。上村氏が中国問題に取り組むようになったのは、1928年(昭和3)の初秋、領事として上海に赴任してからであった。上村氏が上海に赴任する前年(1927年)、広東から第一次北伐の途に上がった蒋介石の革命軍が、揚子江筋に進出し、南京、漢口事件などを引き起こした。しかし南京に入った蒋介石はその年4月、南京を首都として、そこに国民政府を樹立し、1928年春には第二次北伐の途に上った。

 南京政府の誕生とほぼ同じ時期、日本では田中義一陸軍大将を首班とする政友会内閣が誕生した。田中内閣の誕生は若槻内閣(幣原外相)の対華政策を軟弱外交として攻撃してこれを倒し政権を獲得したもので、従って対華積極政策を唱え、これを宣伝した。蒋介石が第二次北伐を宣言するや、田中内閣は逸早く日本居留民の多い山東省へ出兵した。北伐の通り道であった済南で革命軍中の一部が掠奪を行い、日本軍と衝突、双方に多大の損害が発生した。当時の中国は第一次、第二次北伐と、革命気分に湧き立ち、ナショナリズムが高調に達した時機であり、日本の中国革命に対する妨害なりと大々的に宣伝したため、排日・排日貨の運動は忽ちにして中国全土を覆い、日本の経済的損害も計り知れないものとなり、日本を刺激した。
 一方革命軍は一路北京に向かったが、そこには張作霖が軍政府を樹立して、革命軍の進撃を阻止しようと息巻いていた。田中首相は張作霖に満州における日本の権益擁護に当たらせることに望みを託し、再三帰満することを勧告したが張が拒否したので、日本政府は乱軍が満州に入る場合には武装解除を行うという趣旨を張、蒋双方に通告した。張は革命軍に勝つ自信はなく、敗れれば満州に帰れなくなることを知り、ついに戦わず帰満することにした。

 関東軍の方は、すでに張作霖に見切りをつけていた。馬賊の頭目から満州の王座にまで押し上げたのに、思うように動かなくなった、張を忘恩の徒と罵り、満州からの追放論が強くなった。他方張作霖としては、中国ナショナリズムの高揚に伴い、いつまでも日本の言いなりになっていたのでは民心を失い、政権の維持も困難になる、ある程度ナショナリズムに気兼ねしなければならなくなった。日本と張作霖との間に時代感覚のズレが生じていた。
 関東軍は張作霖軍の武装解除の決定を知るや、張追放の機至れりと喜んだが、間もなく戦わずに帰ると知り、振り上げた拳のやり場に困ったところ、そこに立ち上がったのが関東軍参謀河本大作であった。1928年(昭和3)6月、奉天近くの特別列車で張作霖以下側近多数が爆死した。当時の軍部若手の間には革新の気運が台頭し、その一手段としての満州占領論も真面目に考えられていた。
 当初田中首相は爆破犯人が軍人であることが判明したら軍法会議にかけると主張したが、対外的影響を憂慮する声が強まり、田中首相はついに辞職に追い込まれた。その結果、軍の若手は政・軍首脳部の弱腰を見抜き、すでに芽生えつつあった下剋上の気風を一段と高めることになった。

 1931年、満州事変は、こうした背景の下に、関東軍参謀らの独断専行によって起こされ、中央の事態不拡大の訓令を無視して事態を拡大し、ついに中央も出先に追随するに至った。満州事変が軍部にとってはうまく行ったので、関東軍の若手は今度は華北への進出へと進むに至った。華北への進出は熱河省の攻略に始まる。熱河は満州国に隣接した長城の外にあるので、中央は熱河の攻略は認めたが、長城を超えることは厳に戒めた。しかし熱河攻略戦の進行につれ中央は出先き軍に引きづられ、ついに長城を越えて足を華北に踏み入れることを認めるに至った。その後の事態の発展はすべてこれと同じで、中央が出先きに引きづられていった歴史だった。ただ最初は、華北に入ったものの兵力が少なく、初めてのことで慎重を期し満州国境に接する華北の東北部を掌中に握っただけで、華北より撤収した。この間、関東軍は北京(北平)に親日政権樹立の工作を進めたが失敗に帰したので、その後は非武装地帯となった冀東地域(華北の東北部)を事実上関東軍の勢力下に置き、ここを根拠に引続き華北親日政権樹立へと進んだ。
 関東軍は満州国内の治安の不安に悩み、その原因を中国本土からの排日運動の満州への流入に帰し、その禍根を断つためには、華北の新日化を必要とすると信じていた。しかしそれは、満州国国民が満州国政府に靡かないのは、それが日本の傀儡であることを知っているからであった。ナショナリズムに燃える中国民族が外国の支配に靡くはずはない。日本は軍事的には満州国を掌握する体制にあり、さらに満州出身の清朝最後の皇帝宣統帝溥儀を満州国に迎え、王道楽土建設の笛を吹けども、民が踊らないのはナショナリズム故であると上村氏は見る。まして中国民族の誇り高い北京に、日本の傀儡政権を樹立しても民心はこれに靡かず、また更にその周辺の親日化を必要とし、結局中国全土を親日化しなければならない、と。

 蒋介石は、日本が満州事変の熱に浮かされて常軌を逸している間は、これを刺激しないようにして、日本が冷静にかえる日を待つに如かずと考え、華北を満州と中国との緩衝地帯とする構想の下に、華北中立化政策を進めた。しかし関東軍強硬派には中国の統一を唱えている蒋介石が華北親日化の邪魔者だとして、武力で蒋介石勢力を華北から一掃してしまった。これが1935年(昭和10)の梅津・何応欽協定であった。この年は、日華関係において最も重要な年の一つだという。この年1月、広田外相は議会の外交演説で日華親善を唱え、南京もこれに呼応して、日華関係は俄かに好転し、5月には両国公使館の大使館昇格が行われた。しかし軍強硬派はこれを喜ばず、中国統一を理想とする蒋介石は不倶戴天の敵だとして、蒋介石勢力を華北より追放したのだった。
 

脇道 ソ連コミンテルンと中国革命

2016年02月15日 | 歴史を尋ねる
 日本の外交史について、内外に多数の著作が刊行されているが、その多くは断片的で総合的一貫性を欠き、資料的にも不備、不正確で、イデオロギー的に偏向しているものも少なくなく、これを是正し外交史研究に寄与するためにと、昭和45年より鹿島平和研究所より日本外交史全33巻、別巻5冊が刊行されている。外交史の正しい理解なくしては、正しい外交政策の樹立はあり得ない、と。日支事変前後の時代担当は上村伸一(1896-1983)氏。1921年外務省に入り、カナダ、ソビエト連邦、上海、南京、ロンドン在勤、昭和9~13年本省東亜局第一課長、昭和17~20年本省政務局長、続いて在独公使となり、赴任直後終戦、ソ連軍によりシベリア抑留。戦後在米公使、トルコ大使歴任とある。前置きはこのぐらいにして、革命後のソ連と中国の関わりについて、上村氏の著書を参考にしたい。

 第一次大戦末期に成立したソ連共産政府は、史上初めての共産主義政権だったので、その実態がつかみかねた上に、共産革命の企図はドイツその他の隣国にも波及したので、これを警戒してソビエト革命の干渉、封じ込め政策へと進展し、大戦で疲弊していたソ連は、窮迫の度を増した。レーニンは十月革命(1917)の翌年凶漢に狙撃され1924年1月静養先で死去した。共産党書記長だったスターリンはトロッキーとの峻烈な権力闘争に勝利し、スターリン独裁体制の基礎が築かれた。スターリンはソ連の直面する内外の困難な情勢に対処するため、極めて柔軟な政策を採り、国内においても新経済政策(ネップ)を採用、ある程度資本主義経済の制度を温存し、大戦と革命とにより荒廃した国内経済の建直しと民心の安定を図る過渡的便法をとった。当時を上村氏は振り返って、果物を含む食料品は豊富で値段を安く、街のレストランや商店なども私営が多かったから、サービスもよく快適な生活だったという。その後、社会主義経済への移行準備が進められ、企業統制などが行われ自由の抑制で前途の苦難が感じられたと註を記す。対外的にも柔軟な政策を採り、経済開発のため資本主義国からの資本及び技術の導入も厭わなかった。日本に対しても、北樺太の石油、石炭利権やシベリアの森林利権、漁業利権なども許与していた。

 しかし一方でソ連はコミンテルンを結成して、世界共産化の準備を進めていた。レーニンが革命早々、「共産革命の将来は東方にある」と喝破し、植民地主義の桎梏に目覚めて来た東方民族に対する働きかけに努力を傾け、1920年「東方人民会議」を招集して植民地主義打倒、民族解放の狼煙をあげた。1921年1月モスクワにコミンテルン極東民族大会が開かれ、中国からは共産党系のほか国民党系も参加、「国民革命の発展と革命的ブルジョア民主主義との共同戦線の形成が重要視され、「人民戦線戦術」の萌芽を見せた。更に中国の影響が外蒙古にまで十分及んでない実情に着目、1921年7月モンゴル人民共和国の樹立を宣言させ、11月ソ蒙修好条約を締結、モンゴルは中国から独立してソ連の勢力下にはいった。そして中国本土では、中国共産党の結成援助に努力した。
 中国においては、1919年に起った五・四運動以前から、各地にマルクス主義の研究会が生まれ、共産主義熱が高まって来たが、この運動の進展に伴い、北京、上海、長沙などにおいて労働補習学校などを設立して労働者への組織化へと進んでいった。1920年、コミンテルン極東部長ヴォイチンスキーが中国に派遣され、陳独秀、劉少奇、李大らと会談、各地に共産主義グループがつくられた。1921年7月各地のグループを代表する毛沢東、董必武ら12名が上海に集まり、中国共産党第一次全国代表大会を開催、労働運動の推進に努力することを決議した。
 他方、中国に派遣されたヨッフェは孫文に近づいて幾度となく会談をかさね、孫文も革命に未だ前途の見込みの立たない現状で、ソ連の援助を得ることに前進、ヨッフェ・孫文共同声明となった。さらにコミンテルンは今度はボロディンを派遣して、国共合作実現を推進、1924年1月国民党一全大会において「連ソ、容共」の政策が正式に決定され、国民党中央執行委員24名の中には共産党の3人が入り、共産党員はその党籍を保持したままで国民党に入党、国民党及び政府の要職を占めるに至った。

 これより先、孫文はソ連の招待に応じ、1923年8月、ソ連の軍事事情研究のため蒋介石を首班とする視察団を派遣した。孫文は軍閥と提携して革命を達成する道を進んできたが、軍閥は全く頼りにならず、革命党は革命精神の充実した自己の軍隊を持つことが必要だとして、革命軍創設の意向を以て派遣した。蒋介石は滞ソ4カ月、ソ連の長所・短所をえぐり出して報告すると共に、軍官学校の創設も進言、黄埔軍官学校を革命軍基幹将校養成の方針で翌年設立された。校長の蒋介石は自ら率先して厳格な規律を実行し寝食を忘れて訓育に努めたので、卒業生の多くは、蒋介石をまたとない恩師と尊敬、後日蒋介石を支える勢力を形成した。
 1924年10月、孫文が客死し後継者争いが起ったが、4人の後継者の中で、汪兆銘と国民党軍を握っていた蒋介石が、崩壊の危機に瀕した国民党及び広東政府で大きな存在となっていった。国民党入りした共産党は国民党左派の協力を得て、広東の国民党党務は、事実上共産党書記長の陳独秀に握られ、共産党の勢力は抜き難いものとなった。国民党と共産党は、その根本思想において相容れないものであるにもかかわらず、共産党は国民党に内部に入り込むといういわゆるトロイの木馬戦術に出ていた。蒋介石も早くから気づいていたが、しかし孫文亡き後の蒋介石にとって最大の事業は北伐であったし、国民党内の意見もこれを支持した。
 1926年1月、汪兆銘は中央政治会議に対し、北伐決議案を提出し、満場一致で採択され、2月に入ると、蒋介石を国民党軍総司令に任命した。そして国民政府は、張作霖、呉佩孚が全国統一会議の開催を拒否したことを理由に、北伐宣言を発した。

 しかし広東の情勢は、形式的には国民党が主導権を握っているが、実質的には共産党及び国民党左派の勢力が優勢、それはソ連が背後に控えているからでもあった。先にも記したように広東の国民党党務は陳独秀が握っており、軍官学校の学生も左右両派に分かれ、共産党員の学生はひも付きで、学校内で浸透作戦に努めている、それに感化される学生も少なくなかった。蒋介石にとって、迂闊に北伐の途に上がると足許の広東が乗っ取られる虞があり、北伐に躊躇していた。そんな折広東粛清の機会を捉えて、蒋介石は間髪を入れず実力を発動しクーデターを敢行、広東の国民政府は蒋介石の影響下に置かれ、ここに蒋介石と共産党は敵対関係に入った。広東を逃れた共産党は、国民党左派と共に武漢に拠り、武漢国民政府を樹立して国共合作を継続したが、やがて武漢政府の国民党左派も、共産党の陰謀に気づき、1927年の夏、共産党を追放するに至った。その結果、共産党の領袖は各方面に散っていったが、毛沢東は井岡山に立て籠もり、共産党の育成に努めた。この間、蒋介石による共産党の討伐は執拗に進められたが、満州事変の勃発により共産軍討伐の手も緩められた。毛沢東は満州事変の機会を捉え、1931年11月7日、江西省瑞金に中国ソヴィエト政府を樹立して、自ら政府主席に就任した。
 

毛沢東と蒋介石と周恩来

2016年02月12日 | 歴史を尋ねる
 毛沢東は蒋介石に追われて北方の延安に逃れ捲土重来の機を窺っていた。毛沢東の戦略は人民戦争論である。当時の汪兆銘などの対日協調論の根底にあるのは、日本の軍事力には到底勝てないという情勢判断があり、いたずらに抗戦を叫んでは無辜の人民を苦しめるばかりだということであったが、毛沢東はそれを「唯武器論」(戦争では武器を豊富に持っていることも重要ではあるが、これだけで勝敗が決定するわけではない。勝敗を決定するのは物ではなく人間である。持久戦に持ち込めば敵側の武器弾薬が消耗したり士気が阻喪したり日本国内の厭戦や国際世論の非難などから日本が不利になり最終的には中国は勝てる)と呼んで批判した。 1938年、毛沢東は「日本は元が宋を滅ぼし、清が明を滅ぼしたような甘い夢を見ているのであろうが、今日の中国では、過去の歴史になかった新しい要素が生まれている」として、中国ナショナリズムの覚醒と、それに基づく遊撃戦論(日本軍はその装備や兵員の質的優位があっても量的優位があるわけではなく、これが弱点となりうる。遊撃戦争が敵の兵站を破壊し、戦闘部隊を牽制し、全国人民の民心掌握に成功すれば、戦略的に正規戦争に呼応することが可能となる)、いわゆる人民戦争論を新しい要素として挙げている。そして、岡崎久彦氏の著書「重光・東郷とその時代」は、当時の日本・中国リーダーの戦略比較や中国内リーダーの戦略比較を行っている。

 他方、蒋介石もまた大戦略家であった、と。1934年(昭和9)、軍内の論説で、「軍事力では日本は強大で、その力は三日のうちに沿岸諸都市を占領出来るぐらいであり、近代軍の条件をほとんど具備していない中国軍がいま起つことは自殺行為である。しかし日本陸軍の目標はソ連、海軍の目標は英米であり、日本はいずれは負けることの確実な大戦争を引き起こすと予想する。その時こそ中国にとって民族復興の最善の機会である」と、述べている。そして万一、中国が単独で日本と衝突した場合でも「日本は、武器以上の重要なる要素である経済、内政、統帥などの重要な要素が完備していないから、国際的規模においては決して最後の勝利を得ることは出来ない」といっている。
 日本はこうした大戦略家二人を相手に戦ったのである。中国の方が伝統的に日本人より優れた戦略家だということは一般論としてはいえるかもしれない。それに加えて、国家と民族が存亡の危機に立つような状況では、誰しも、ここまで突き詰めて考えるであろう。日清。日露戦争の時の日本もそうだった。しかし、昭和の日本の戦略は、外務省と陸海両省が鉛筆を甞めた作文の上で妥協した大綱とか方針であり、そして、それに関係ない、功名手柄切り取り勝手次第の出先の軍の行動なのであるから、戦略の面ではじめから勝負になっていなかったのである、と岡崎氏。やせ細った昭和の思想と司馬遼太郎は云っていた。

 この毛、蒋二人の戦略論を実際の歴史に照らして検証してみると、日本の敗因を的確に予想したのはむしろ蒋介石であった。毛の人民戦争は、華北の戦線の膠着状態をつくったが、それはむしろ日本側の作戦が持久戦に移行したからであり、戦局の大勢には関係ない。結果から見て、蒋介石が見通したとおりの過程で日本帝国は滅びる。中国共産党の最終的な勝因は、毛沢東戦略よりもレーニン、スターリンが固守した原則、「われわれと資本主義世界との不可避な戦争を、資本主義諸国同士が戦う時まで遅らせること」を守り、それを実行する手段として、国民党の鉾先を中共ではなく日本に向けさせる統一戦線方式を一貫して追求したことにある。この意味で、中国共産革命を達成した功は、ゲリラ戦を唱道した毛よりも、西安事件で国共統一戦線をつくらせ、支那事変を誘発させた周恩来の方により多く帰せられるべきであろうと岡崎氏はいう。確かに、こうした大きな戦略をつまびらかにしていくと、当時の出来事が非常に判りやすく飲み込めていく。そして前にも触れたように、国共合作ではなく、日中(国日)合作を仕掛けるタイミングもあり得たかもしれない。しかしその為には、満州にあまりにも拘り過ぎたともいえる。

 蒋介石は、自他ともに許すソ連通であり、そんな戦略は百も承知だった。昭和9年6月の演説で、蒋は「外国の侵略は中国の国力充実とともにいつでも擊攘できる。しかし共産主義がひとたび民族の内部に浸透すると、それは不治の病となり回復不可能となる」といい、翌10年の論文では、「日中が衝突して共倒れになるのを狙っているのは誰か? 日中両国の心ある者はいまや面子などにこだわることなく、難局の打開に邁進しなければならない」と、今から思い返しても深い洞察力のある戦略論を展開している、と。この蒋の戦略に打撃を与えたのが西安事件であった。陝西省の延安に逃れた共産軍は山西省に進出しようとしたが、蒋はこれを駆逐し、さらにその掃滅を図った。そして満州を失った張学良を掃共副総司令官に任命して前線に配置した。ところが張学良軍は満州望郷の念が強く、共産軍に対して戦意なく、「一致抗日」のスローガンを掲げる共産軍の宣伝工作に対して甘かった。やがて、張学良軍と共産軍との間に相互不攻撃の了解が成立したとの噂が流れ、事態を憂慮した蒋介石は自ら張と話し合うために、昭和11年暮れに西安に赴いた。張学良は早朝蒋介石の宿舎を襲い、蒋を捕えて軟禁し、内戦を停止して挙国統一政府をつくることを要求した。国民党指導部は蒋の即時釈放を張に要求し、逆賊討伐の為に二十個師団を動員した。その間スターリンは蒋の釈放を毛沢東に指令したという。南京からは、蒋介石夫人宋美齢、留守中の行政院長代理の孔祥熙が西安に飛び、他方共産党は周恩来が乗り込んで蒋介石の説得にあたった。周恩来がなくなったとき、その優れた統一戦線手腕がたたえられたのはこの時の功績が大きかった。蒋介石解放に至る蒋・周の話し合いの内容は、いまだに歴史の秘密ヴェールに包まれている。その後の蒋の談話や回顧録にも何ら触れていない。また張学良は軍法会議で十年の禁固刑を受け、蒋介石の請願により特赦されるが、その後は軟禁状態で、もはや実力者ではなくなった。

 しかし、その後の国民政府の行動は明らかに違ってきた。明けて昭和12年1月早々に、知日派の張群外交部長が辞任し、粳米留学で反日的な王寵惠がそのあとを継いだ。共産党は、その後あたかも蒋介石が国共合作に同意したことを既成事実のように行動し、南京政府内にも、もう共産軍討伐を継続する雰囲気はなかった。3月1日、周恩来を代表とする共産党と国民党との間に内戦を停止し抗日のために一致協力する合意が行われた。7月の盧溝橋事件を四カ月後に控えて、中国内の情勢はここまで変貌していた。

「大事を化して、小事とし、・・・」

2016年02月09日 | 歴史を尋ねる
 塘沽(タンクー)停戦協定によって、満州の国境線は事実上確定し、東アジアには暫時の平和が訪れた。しかし、この協定によって満州国境沿いに、中国側の軍事力の及ばない空白地帯が出来てしまった。平津(北京、天津)の地には、中国伝来の権謀術策を身につけた失意の政客や軍閥の片割れが暗躍し、満州事変の功績に洩れた日本の軍人らが一旗揚げようと活動をつづけた、と岡崎久彦氏は記述する。そして、伊藤正徳(時事新報記者、のち共同通信社理事長、日本新聞協会理事長、時事新報社長を歴任)「軍閥興亡史」の挿話を紹介する。昭和11年秋、戦争指導課長であった石原莞爾は、関東軍が満州建国後も内蒙古や華北に進出しようとしているのを止めようとして、何度も不拡大を命令したが、関東軍は云うことを聞かない。そこで自ら長春に乗り込んで昔の部下たちに訓示をした。訓示が終ると、武藤章は「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と得意の毒舌で反論して同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。武藤は二・二六事件の時は石原と共に断固討伐を主張し、「陸軍に武藤あり」と言われたほどの人材であり、昭和16年の日米交渉では軍務局長として、体を張って日米間の妥協達成のために努力した。しかし支那事変に至る過程では、石原の意に反して常に積極的進出派であった。武藤ほどの人物にしてそうであったという一事が、当時の軍内の大勢に動かしがたいものがあった、と。伊藤正徳は「かつて統制を破って名を成したものが、のちに自ら統制者となってこれを強いようとしても、人はもはやそれに従わない。下剋上の弊は、かつてそれを犯したものを厳罰にして見本を見せない限り根絶することはない。いわんや、その犯人が出世栄達するにおいてをやである」と慨嘆している。

 昭和10年6月、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定が結ばれ、日本軍の勢力は河北、チャハル方面に大きく拡大された。その後も軍は地方当局に次々と強硬な要求を出して、南京政府の影響力を排除し、反日運動を抑制させようとして、11月冀東政権を成立させた。冀とは河北省の別名で、塘沽協定で取り決めた河北省東部の非武装地帯をそのまま南京政府から独立した政府とさせようとした。ここでは南京側も政治的妥協を計って、河北省とチャハル省を管轄する冀察政務委員会を設け、この両省に南京政府とはある程度距離をおいた日中間の緩衝的政権を作ろうとした。しかし、翌昭和11年1月、北支処理要綱は北支に自治区域を作ることをはっきりと政策目標と掲げ、満州建国と同じ功名を求めている軍の華北分離工作にお墨付きを与える形となった。

 こうした状況にもかかわらず、中国側が隠忍自重して妥協を重ねたのは、蒋介石が安内攘外の方針を堅持して掃共作戦に専念添田からであり、その間の対日外交は汪兆銘行政委員長(総理)に委ねられた。汪兆銘は、日露戦争時代の日本の情熱に打たれて感奮興起し、親日派になった数多いアジア人の世代の一人であった。明治37年、広東政府の官費留学生として来日、日露戦争の真最中であった。当時東京にいた一万を超す中国人は心から日本を支持した。日中両国は相和することが出来ないという説をなす者があるが、その度に東京で過ごした当時を思い出すと後日の講演で語っていた。信頼し合えば、いかなる困難も克服できるという東洋思想を最後まで捨てなかった人だった。しかし、日本帝国主義を憎悪の目でしか見ない澎湃たる中国ナショナリズム、目的のために手段を選ばない共産主義イデオロギー、そいて単純な拡張主義を信じて上司の命令をも無視する現地日本軍人の独断専行の前には、汪兆銘の夢見た東洋的相互理解の世界は実現するすべもなかった、とは岡崎氏のコメント。
 
 蒋介石は、1928年(昭和3)北伐に成功したが、国民党の中では若輩であり、孫文以来の革命派の実力者たちは容易に蒋介石の下風につこうとしなかった。なかでも汪兆銘は孫文が最も信頼した部下であり、孫文の「政治遺嘱」と呼ばれる遺書は、汪が孫文の口述を筆記したとも、もともと汪たちがつくって孫文が了承したとも云われている。蒋介石が北上したあとも広東には汪を首班とする広東政府が蒋と対立していたが、満州事変後、大同団結ということで南京、広東両政府は合併し、汪が行政院長(首相)、広東派の陳友仁が外相となり、蒋介石は軍の実権を握りつつも役職は単なる軍事委員長にとどまった。
 日本との協調は、汪だけでなく蒋の信念でもあった。上村伸一(昭和時代の幕開けを革命進行中のソビエト連邦駐在中に迎え、満州事変以降は中国外交の現場で奔走。満州で敗戦を迎え、その後のシベリアで抑留された。復員後外務省に復帰)自身に蒋介石が語ったところによれば、蒋は「大事を化して、小事とし、小事を化して、無事とする」ことを目標とし、お互いに事を荒立てず自ずと事なきに至るのを望んだという。ここで大事を満州と考えると蒋介石の日中関係打開構想も自ずから見えてくる。しかし、その後の日本の対中政策は、事態の拡大か不拡大かがその都度致命的な争点となるたびに、出先の強硬方針がつねに勝って、小事をことごとく大事と化してしまっている、と。

 昭和10年初頭、広田外相の議会外交演説がきっかけとなって、その年の秋、広田三原則が外務省と陸海両省の間で合意された。その内容は、満州国を中国に承認されなくとも事実上の国境地域の関係を調整し、中国には排日運動を取り締らせ、共産主義の脅威に対しては日中協力するということで、中国側からすれば厳しい内容であったが、蒋、汪としては話し合いに乗れないものではなかった。しかし、如何に政府首脳が合意した政策でも出先の軍の独走を抑えられず、すでにその前に軍の華北分離工作は着々と進んでいた。この間の汪兆銘の苦衷は真に同情に値すると岡崎氏。6月に「邦交敦睦令」を公布して、友邦を挑発する者を厳罰に処するなど、日中国交調整に努力するが、政府内外から猛烈な反対と攻撃を受けた。汪はのちに、漢奸として対日迎合を非難されるが、反日運動が燃え上がるなかで、自らの生命の危険を顧みず行動した。1935年11月、国民党六中全会に際して、刺客は汪に銃弾を連写、汪は従容として三弾を受けたという。幸い急所を外れて一命をとりとめたが、対日工作の右腕と頼んでいた唐有壬も12月暗殺され、汪は日中国交調整はもはや終焉を告げたと記していた。

最後の平和

2016年02月06日 | 歴史を尋ねる
 清朝以来、満州というのは、遼寧、吉林、黒竜江の東三省のことであった。関東軍は昭和7年中に、東三省ほぼ全域を平定したが、長城の北にはまだ湯玉麟軍閥の支配していた熱河省があった。関東軍が満州国の国防について最も関心をもったのは、支那との国境地帯、北支、内蒙古の地域であった。北支に蟠踞している張学良軍が、満州国の治安を乱す原動力であることは明らかであったが、もしソ連の勢力が外蒙古を通じて支那共産軍の勢力を利用して、北支方面に進出してくる場合には、満州国は完全にソ連によって包囲され、支那はソ連の勢力下におかれるようになる。この地域を満州国に対して、敵意を持たぬ者の勢力に委ねるように工作せねばならない、ということで関東軍は満州国の建設とともに北支内蒙の工作に乗り出した。さらに封鎖経済の世界的風潮に対抗するために、国防資源の自給自足を実現するため、満州のみにて足るかとの関東軍の質問に対し、満鉄調査部は到底満州だけの資源をもってしては足らず、北支の資源開発は、これがために絶対必要である、との意見を具申した。

 日本は国際連盟の場を強硬手段で乗り切ろうとした。リットン報告書を審議する国際連盟理事会では日本代表松岡洋右は事務総長に「日本は連盟の行動や言論に不満な場合は脱退する」という方針を伝えくぎを刺した。結局理事会では日中当事国だけが意見を戦わすにとどまった。結局十九人委員会の審議に付され、12月6日から特別総会の討論に委ねられた。総会で目立ったのは小国に発言だった。自衛の名にかりて侵略するようなことは断じて許すべきでない、報告書の処理は連盟の死活にかかわると主張した。スペイン、チェコなど四国の決議案は否決されたが、十九人委員会では英国と弱小国との意見がかみ合わずクリスマス休暇に入った。こうしたデットロックを打破したのは米国だった、と蒋介石は言う。米国ではこの11月、大統領選挙が行われ、32代大統領に民主党のフランクリン・ルーズベルトが当選(翌年3月就任)。ルーズベルトは、フーバー大統領の極東政策を踏襲し、総会議長イーマンス(ベルギー代表)に「米国は現在、日本を制する力は持っていない。しかし、決して日本の力に屈することはないであろう」と。ちょうど日本軍が山海関を占領したというニュースが伝わった矢先であった。

 山海関は万里の長城が渤海に落ち込む東端にあり、瀋陽と北平(北京)の両大都市のほぼ中間に位置する。万里の長城は北方の匈奴の侵略を防ぎ中華民族を守ってきた砦であり、なかでも山海関は、天下第一関と呼ばれる攻防の関門である。関内、関外という地域の通称も、この山海関を境に分けられていた。連盟がクリスマス休暇に入っていた昭和8年(1933)1月1日、関東軍は山海関を攻撃、3日には奪取。このニュースが伝えられて、国際連盟の空気は一変、英国の対日態度も変わり、ルーズベルトの方針を支持した。国際連盟特別一九人委員会は、ついに日本との調停を打ち切り、総会報告書案を審議可決、臨時総会を開催するよう要請、2月24日総会の採決に持ち込まれ、採決に敗れた直後松岡は手短に声明を発表、最後に日本語で「さようなら」と結んで議場から退場した。
 関東軍は熱河侵攻作戦を2月17日の閣議で決定、松岡が連盟を退出する前日の2月23日、一斉に軍事行動に入った。「熱河省は満州国の一部であり、熱河省の治安維持は満州国の国内問題である」と。その後も長城線を挟んで戦闘が続いたが、蒋介石の国民党軍は第一目標を掃共におき、関東軍との衝突を限定する用意があり、北京では英国公使が日中停戦を斡旋した。また5月19日ルーズベルト大統領が極東の平和回復を要望する声明を発表した。5月31日、関東軍の岡村寧次参謀副長と北京の軍事委員会総参議熊斌との間に塘沽停戦協定が調印された。内容は、長城沿いの南に緩衝地帯として非武装地帯を設け、日中両軍はそこから撤退することであった。

 戦後、岡村は回想している。「塘沽停戦協定は、満州事変から大東亜戦争にわたる長期のわが対外戦における最も重要な境界点であったと思う。この辺で対外積極策を中止しておけばよかった。いやおくべきであった」 この時点では、日中双方ともこれ以上の軍事衝突を望まないという意味で、ある種の均衡が達成された。その結果、満州国は既成事実となり、将来にわたって満州の国境線における日中衝突の可能性は排除された。
 塘沽停戦協定で中国は決して満州国を認めたわけではない。蒋介石の考えは「安内攘外」であった。まず国内を固めてから外国の侵略を打ち払う、とすれば統一達成後の中国がいずれは満蒙回復を図ることは必然。ここで岡崎氏は仮定のコメントをする。歴史的事実としては1949年に共産党による統一中国が成立する。もし日本が華北に進出していなければ、国共合作、統一戦線方式達成、国民党の弱体化の過程が共産党の計算通りにいったかどうかわからない。仮に国民党の下で統一が達成されても、日本の軍事力が保持されていれば、軍事的対決はずっと先のことになっただろう。とすると塘沽停戦協定以後日本が長城線にとどまっていれば、満州の国境線はほぼ二世代は安定した可能性がある、と。いずれにしても、支那事変まで四年あまり、極東には比較的平和な時期が訪れた。

リットン報告と連盟の脱退

2016年02月02日 | 歴史を尋ねる
 連盟加盟諸国ならびに米国は、満州国の法的正当性の問題をはじめ満州における事態の進展に対して、リットン委員会の調査結果を尊重することとして、最終的な判断を下すことを差し控えていた。昭和7年10月2日、リットン報告の内容が公表された。結論は、満州事変の直接的原因となった9月18日・19日夜の「日本の軍事行動を以て自衛の措置と認めることを得ず」と述べ、満州の現政権が「自然的純真なる独立運動」の結果であることを否定した。この報告内容は、従来の日本の主張に真っ向から挑戦するものであった。リットン報告の最後の二章は満州問題を巡る日中紛争の解決についての勧告案からなっていた。その提示した解決方法は、東三省に特別な行政組織構成をすること、この政府は「支那の主権及び行政的保全との一致の下に東三省の地方的状況及び特質に応じる様工夫せられたる広汎なる範囲の自治を確保する」ことを条件とするものであった。満州の秩序は地方的憲兵隊により確保し外部的侵略に対する安全保障は、憲兵隊以外の一切の武装隊の撤退、具体的には日中を問わず一切の特別警察隊及び鉄道守備隊を対象としていた。満州における日本の利益は日中両国間の条約により保障されることとなってるが、この条約は満州の経済的開発に対する日本の自由なる参加を認めはしても、経済的政治的に支配する権利は否定するものであった。

 一方日本政府が採用した解決条件は、リットン委員会の提案した解決案と真向から対立するものであった。昭和7年9月15日の満州国承認で明白なように、満州に樹立された新政権を日本の権益回復ならびに拡大について交渉する当事者とみなし、世界世論に対抗して、帝国独自の立場で満州政策を遂行することに決し、新満州国により保証されることになった日本の権益は、単に経済的なものにとどまらず、日本軍の駐屯、鉄道、港湾、空路の管理、日本人顧問を通じての満州政府の指導監督にまで及んでいた。昭和7年秋には、その勧告内容は日本が自己の正当な権利であると信じているものをもはや満足させ得るものではなかった。
 日本は国際連盟との最終的な衝突を回避しようと務め、連盟に対し満州事変の解決に介入しないよう説得を続けた。そしてそもそも委員会が勧告権を有するか否かを問題とし、故意に同報告を無視する態度に出た。連盟が規約に挙げられた安全保障の諸原則を遵奉するため、満州事変の解決に努力したのに対し、日本は満州問題が極めて複雑で、世界に類例を見ないものであるから、大戦後の集団安全保障制度が直面した問題とすることを否定することによって、連盟の介入を回避しようとした。

 満州事変に関する国際連盟の最後の討議は、昭和8年(1933)2月から総会で行われた。日中紛争の解決提案の起草にあたった十九人委員会の努力は失敗に終わり、同委員会はこのような場合の措置を定めた連盟規約15条4項の規定に従って「紛争の事実を述べ公正且つ適当と認める勧告を載せた報告書」を総会に提出していた。2月24日報告書が日本だけの反対を押切って賛成42、棄権1で採択されるや、日本代表団は退場した。十九人委員会は自ら作成した結論や勧告案を提出したが、本質的にはリットン報告の線に沿ったものであった。中国の主権の下に満州に自治政府を建設し、日本軍を鉄道付属地外から撤退させ、日中交渉を開始させると共に連盟加盟国には満州国不承認政策を遵守させることを提案した。3月27日、日本は連盟に対し正式に脱退を通告した。かくて、日本は極東関係において独自の道を歩むこととなった。

 日本が連盟脱退を決意したことは国際協調関係を犠牲にしてでも満州進出という考え方が勝利を収めたのであり、閣内では荒木陸相が最も強く推進したが、支持者と反対者との間で激しく討論された結果ではなかった。首相をはじめとする政府責任者、松岡洋右をはじめ連盟の日本代表部、西園寺を中心とする宮中関係者の中で、日本を連盟から脱退させようと望みかつ画策したしたものは1人もいなかった。それでも日本が連盟を脱退するようになったのは、彼らの日和見主義或いは不決断、あるいは消極性が強硬論者に道を譲る結果となった。有田外務次官と谷亜細亜局長は、内田外相の日和見主義において、「内田外務大臣は、国論というものはいつでも少数の強硬論に引っ張られて行き易い。知識階級の議論などはいかに合理的であろうとも実行力に乏しいのだから、多少極論でも実行力の伴った強硬論を以て国力を固めた方が実現の可能性が多い、という考えから、色々な問題に対処している」と語ったといわれている。内田外相は閣議において、日本の連盟脱退を主張した荒木陸相を支持した。

 以前の当ブログ「犬養毅首相の暗殺とリットン報告書の提案」で触れた『中国に名目上の主権を与えて、実際は日本の影響下に満州を置く・・・これは、当時誰もが現実的な妥協案として考えたことであり、もし犬養が暗殺されず、自己の信ずる政策を実行できたとすれば、リットン報告書を基礎として妥協案をつくる可能性は大いにあった』という岡崎久彦氏のコメントは、ここまで経緯を追ってきた者としてどう考えればいいのだろうか。少なくとも斉藤首相、内田外務大臣の段階では、妥協案づくりなどという考え方は微塵も感じられないし、また有田外務次官、谷亜細亜局長も上記のようなコメントを残しているところを見ると、妥協案に汗をかいた様子は窺えない。8月27日に打ち出した「時局処理方針案」は一体何だったのか。リットン報告が出た後は、一気に脱退に走っているようにうかがえる。
 「昭和の動乱」の重光葵は次のように記す。「明治憲法によれば、総理大臣も、各国務大臣も均しく、天皇直属の輔弼の臣であって、総理は単に内閣を統括する地位にいるに過ぎないから、一旦国家が非常時に直面し、国家の全部について全責任を持って協力に運用するものの存在を必要とする場合には、この組織は適当でなかった。いわんや、総理の手によりすでに離れている軍部の満州建設に対しては、如何に国際大局上必要があっても、これを掣肘することは出来なかった。」 確かに、明治憲法の欠陥はここにあったが、改憲論議は殆ど聞かれない。現行憲法同様不磨の大典だったのか。それでも犬養などは何とかしなくてはと取り組んだが、世論の支援も充分得られない結果に終わった。

 天皇は連盟脱退に際し出された詔書において、世界平和の願望と共に軍部と政府とが各々その区分を守るべきであるとの趣旨を表明するようにと指示した。またこの詔書の草案には、「上、下其の序に従い」という一節も含まれていたが、詔書を検討した閣議の席上、荒木陸相が強硬に反対したため採択されずに葬られた。緒方氏はコメントする。この反対はまことに皮肉だ、陸相の反対にもかかわらず、秩序の回復をもっとも必要としていたのは陸軍であった。陸軍においては荒木自身部下の支持なしには陸相の地位を保つことすら出来ないような体制が成立していた、と。満州事変が日本の政治体制に残した遺産は、秩序の破壊、日本外交の進路の変更だった。この新しい指導者は、国内的な秩序を再建することによって、対外的に国家にとって有利な政策を実現することが可能な人々であったろうか、と緒方氏は疑問文で章を閉じる。