1928年(昭和3)の春から夏、昭和金融恐慌の最中、蒋介石の第二次北伐、済南事件、張作霖爆死に至る情勢の激変の時期に、ケロッグ・ブリアン条約と呼ばれるパリ不戦条約が提案され、日本もこれに署名した。この不戦条約は、国際紛争解決のための戦争を非とし、手段としての戦争を放棄することを各国の人民の名に於いて宣言するものであり、現日本国憲法第九条の「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という表現の源(第一條 締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス )をなすものだという。そしてもう一つ忘れてならないのは、東京裁判(極東国際軍事裁判)に於いて、キーナン首席検察官は、裁判の劈頭陳述で、ケロッグ・ブリアン条約によって締結国は国際紛議解決のため戦争に訴えることを非難し、戦争を国策遂行の具とすることを否認している。国策遂行の具としての戦争を排撃することによって締結国は侵略戦争の方法が違法であると明確に考え、従って日本の行為(太平洋戦争及びそれに先行する満州事変、日支事変)を、パリ不戦条約によって侵略戦争と認定した。
発端は当時の時流である平和主義であり、パワーポリティックスの否定からきているという。キッシンジャーによれば当時フランスが渇望したのは英米との同盟であったが、それに代わって押し付けられたのは英、仏、独、伊の四カ国条約であり、それに東欧諸国などを加えたロカルノ条約体制であった。日本が日英同盟を切られて、ほとんどなんの役にも立たない日、米、英、仏の四カ国条約を与えられたのに似ている。それでもフランスのブリアン外相はケロッグ米国務長官と相談し、米国は多数国間条約にすることを提案した。キッシンジャーによると同盟は仮想敵対して互いに協力して防衛しようとするが、集団安全保障というのは、皆で平和を約束すれば平和になるという考えで、この二つは180度違う概念だという。歴史的事実からは、日本が与えられた四か国条約、ヨーロッパのロカルノ条約は、紛争解決にも、戦争防止にもなんの役にも立たなかった、と。
この不戦条約は留保が付けられた。自衛権の発動と既存条約上の義務から生じる行動は除外された。英国はそれに加えて、英国にとって特別かつ緊密な利害関係がある場合、その地域の自衛の行動に自由を留保した。日本としても、満州における居留民や権益を守る日本の行動の障害とならないよう、内田康哉全権に各国を歴訪させ説明させた。山東出兵の最中であったが、列国はそうした問題を条約との関連で取り上げることはなかった。日本としては一応手を打っていたが、敗戦国になったとき、米英仏や日本が行った留保などの細かい議論はもはや問題とされず、条約の精神違反を糾弾されることになった。
田中内閣は不戦条約の「人民の名において」が日本の国体に背くという議論が批准を難航させたものの、そうした個別の問題は政治力で乗り切っていたが、結局張作霖事件が命取りになった。田中は初め事件の真相を知らなかった。宇垣一成の手記によれば、真相を知ったとき宇垣を私邸に呼んで「何たる馬鹿どもだ。親の心子知らずとはこの事だ」と繰り返したという。西園寺は田中に、「断然断罪して軍の綱紀を粛正しなければならない。一時は評判が悪くても、それが国際的信用を維持する所以である」と励ました。12月、田中は天皇に事件の調査が終われば真相を公表して厳重に処分すると言上している。ところが閣内で陸相をはじめ各閣僚はこれに反対し、田中は孤立してしまった。この時点では、青年将校の独走をとめる力がないといった理由ではなく、ただ外に向かって恥ずかしいようなことを態々公表しなくてもよいではないか、という程度のことだったようだと岡崎久彦氏はその著書で云う。うむ、この時大勇を発揮できなかったのが田中の限界か、翌3月、白川陸相は天皇に参上して、関東軍高級参謀河本大作の犯行であることを認め、内容を暴露すれば国家の不利となる恐れがあるので、そうした不利を惹起しないような形で軍紀を正したいと言上した。田中は、この白川の上奏で天皇も納得されたと思っていたが、それが思い違いであった。6月田中が処分案を上奏すると、昭和天皇は、それでは前の話と違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で言った。田中は弁明しようとしたが、弁明は聞く必要がないと拒絶された。誠忠な陸軍軍人として天皇の信任を失った以上、辞職のほかなかった。閣僚は辞職を反対したが、田中は黙れ!と一喝して歩き去ったという。
岡崎氏はその後の歴史に与えた影響を2点あげている。まず一点は、張作霖爆殺事件。これでもう軍人は、お国の為を思う純粋な気持ちさえあれば何をしてもよいことになってしまった。上司、同僚は必ず庇ってくれる。こうなっては軍紀も何もなくなってしまう。これは幕末以来、志士仁人の哲学であった陽明学の影響を岡崎氏はいう。自分が正しいと思ったことを実行するのに躊躇してはならない。その是非を決めるのは天道に沿っているかどうかだけである。上司の命令より天のほうが上である。身辺が潔白であり、精神が純粋ならば天に恥じるところは何もない。しかしそこには生死栄辱を度外視できる人間でなければならないという厳しい歯止めがあるが、懲罰されないとなるとその歯止めがなくなってしまい、中途半端な思い込み人間の跳梁を許すことになる。しかもその後の昭和史では、事件を起こした当の責任者が出世街道を歩むことになり名誉を得るに至って、あとは功名手柄切り取り勝手次第となってしまった。日本の破滅に導いた軍人の跳梁跋扈は張作霖爆殺事件に兆す、岡崎氏は明快に歴史の歯車が大きく動き出したことを指摘している。
もう一点は昭和天皇に及ぼした影響である、と。昭和天皇は1926年践祚され、1928年11月にご即位の礼を挙げられるところだった。いよいよ天皇の大権をになうという意気込みもおありだったのであろう、それがこの時のはっきりした意思表示となったのであろう。しかし、その時の言動がかえって反省の種となり、その後の天皇の行動を抑制することになる。軍の綱紀粛正が目的ならば白川陸相に対してハッキリ釘をさしておくべきだった。そうでなければ、のちの田中首相問責と矛盾する。君臨すれども統治せず、日本の皇室が手本と仰いでいた英国憲政の基本にも反する言動が、のちの御反省にもつながり、天皇の大権による軍の暴走の抑止の可能性を狭めてしまった。統帥権の独立により、軍を抑えられるものは天皇の大権しかないという条件の下で、その大権の使用に西園寺が強く反対し、天皇もその判断に従って自制されたのが、昭和史の構造的な悲劇となったと、岡崎久彦氏は結んでいる。
発端は当時の時流である平和主義であり、パワーポリティックスの否定からきているという。キッシンジャーによれば当時フランスが渇望したのは英米との同盟であったが、それに代わって押し付けられたのは英、仏、独、伊の四カ国条約であり、それに東欧諸国などを加えたロカルノ条約体制であった。日本が日英同盟を切られて、ほとんどなんの役にも立たない日、米、英、仏の四カ国条約を与えられたのに似ている。それでもフランスのブリアン外相はケロッグ米国務長官と相談し、米国は多数国間条約にすることを提案した。キッシンジャーによると同盟は仮想敵対して互いに協力して防衛しようとするが、集団安全保障というのは、皆で平和を約束すれば平和になるという考えで、この二つは180度違う概念だという。歴史的事実からは、日本が与えられた四か国条約、ヨーロッパのロカルノ条約は、紛争解決にも、戦争防止にもなんの役にも立たなかった、と。
この不戦条約は留保が付けられた。自衛権の発動と既存条約上の義務から生じる行動は除外された。英国はそれに加えて、英国にとって特別かつ緊密な利害関係がある場合、その地域の自衛の行動に自由を留保した。日本としても、満州における居留民や権益を守る日本の行動の障害とならないよう、内田康哉全権に各国を歴訪させ説明させた。山東出兵の最中であったが、列国はそうした問題を条約との関連で取り上げることはなかった。日本としては一応手を打っていたが、敗戦国になったとき、米英仏や日本が行った留保などの細かい議論はもはや問題とされず、条約の精神違反を糾弾されることになった。
田中内閣は不戦条約の「人民の名において」が日本の国体に背くという議論が批准を難航させたものの、そうした個別の問題は政治力で乗り切っていたが、結局張作霖事件が命取りになった。田中は初め事件の真相を知らなかった。宇垣一成の手記によれば、真相を知ったとき宇垣を私邸に呼んで「何たる馬鹿どもだ。親の心子知らずとはこの事だ」と繰り返したという。西園寺は田中に、「断然断罪して軍の綱紀を粛正しなければならない。一時は評判が悪くても、それが国際的信用を維持する所以である」と励ました。12月、田中は天皇に事件の調査が終われば真相を公表して厳重に処分すると言上している。ところが閣内で陸相をはじめ各閣僚はこれに反対し、田中は孤立してしまった。この時点では、青年将校の独走をとめる力がないといった理由ではなく、ただ外に向かって恥ずかしいようなことを態々公表しなくてもよいではないか、という程度のことだったようだと岡崎久彦氏はその著書で云う。うむ、この時大勇を発揮できなかったのが田中の限界か、翌3月、白川陸相は天皇に参上して、関東軍高級参謀河本大作の犯行であることを認め、内容を暴露すれば国家の不利となる恐れがあるので、そうした不利を惹起しないような形で軍紀を正したいと言上した。田中は、この白川の上奏で天皇も納得されたと思っていたが、それが思い違いであった。6月田中が処分案を上奏すると、昭和天皇は、それでは前の話と違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で言った。田中は弁明しようとしたが、弁明は聞く必要がないと拒絶された。誠忠な陸軍軍人として天皇の信任を失った以上、辞職のほかなかった。閣僚は辞職を反対したが、田中は黙れ!と一喝して歩き去ったという。
岡崎氏はその後の歴史に与えた影響を2点あげている。まず一点は、張作霖爆殺事件。これでもう軍人は、お国の為を思う純粋な気持ちさえあれば何をしてもよいことになってしまった。上司、同僚は必ず庇ってくれる。こうなっては軍紀も何もなくなってしまう。これは幕末以来、志士仁人の哲学であった陽明学の影響を岡崎氏はいう。自分が正しいと思ったことを実行するのに躊躇してはならない。その是非を決めるのは天道に沿っているかどうかだけである。上司の命令より天のほうが上である。身辺が潔白であり、精神が純粋ならば天に恥じるところは何もない。しかしそこには生死栄辱を度外視できる人間でなければならないという厳しい歯止めがあるが、懲罰されないとなるとその歯止めがなくなってしまい、中途半端な思い込み人間の跳梁を許すことになる。しかもその後の昭和史では、事件を起こした当の責任者が出世街道を歩むことになり名誉を得るに至って、あとは功名手柄切り取り勝手次第となってしまった。日本の破滅に導いた軍人の跳梁跋扈は張作霖爆殺事件に兆す、岡崎氏は明快に歴史の歯車が大きく動き出したことを指摘している。
もう一点は昭和天皇に及ぼした影響である、と。昭和天皇は1926年践祚され、1928年11月にご即位の礼を挙げられるところだった。いよいよ天皇の大権をになうという意気込みもおありだったのであろう、それがこの時のはっきりした意思表示となったのであろう。しかし、その時の言動がかえって反省の種となり、その後の天皇の行動を抑制することになる。軍の綱紀粛正が目的ならば白川陸相に対してハッキリ釘をさしておくべきだった。そうでなければ、のちの田中首相問責と矛盾する。君臨すれども統治せず、日本の皇室が手本と仰いでいた英国憲政の基本にも反する言動が、のちの御反省にもつながり、天皇の大権による軍の暴走の抑止の可能性を狭めてしまった。統帥権の独立により、軍を抑えられるものは天皇の大権しかないという条件の下で、その大権の使用に西園寺が強く反対し、天皇もその判断に従って自制されたのが、昭和史の構造的な悲劇となったと、岡崎久彦氏は結んでいる。