1884年(明治17)12月4日、金玉均、朴泳孝らは、郵便局開局の祝宴を利用してクーデターを決行した。事変混乱のなか金玉均は高宗に日本公使に保護を依頼すべきと奏上し、高宗自ら「日本公使来護朕」と記して、竹添公使への伝達を命じた。翌5日独立(日本)党は新政府樹立と閣僚名簿を発表し、漢城駐在の各国代表にその旨を通知した。昼近くなって竹添公使が日本兵を宮殿に駐屯させるわけにも行かないので、撤収すると言い出したが、金玉均に引き止められ、そのまま駐屯する。それから間もなく袁世凱が600の兵を率いて宮殿に到着、清軍から一通の封書が竹添公使宛に届けられて間もなく、銃声が鳴り響いた。結局、竹添公使率いる日本軍と金玉均らは仁川に落ちのびる。
12月21日、事態の収拾に竹添公使が対応困難に陥り、問題解決の為に日本政府は井上馨外務卿を特派全権大使として朝鮮に派遣することに決定した。井上馨外務卿は1月31日に、事変についての総括とも言える内容の書簡を京城駐在の近藤臨時代理公使に送って公使弁理の心得を内達している。長文であるが、当時の日本政府はこの事変をどのように見たのかということが端的に理解できると思うので澤田獏氏の力を借りて掲載する。
「そもそも今回の事変の原因は、独立党、事大党との軋轢に胚胎するものである。
独立党なるものは日本党とも言い、多分にその党中にある者はかつて我が国に来遊し、我が国の開化の進むを見て朝鮮国を我が国に見習って開化を企画し、清国政府の干渉を避け、その独立を保持せんとの主義を執るものである。
事大党なる者は支那党と称し、多分にその党中にある者は概ね支那国を母とし事(つか)え、その政府の命令を遵法し、我が国に対しては小を以って大に事える主義を執り、現在各国と対等の条約を締結するにも拘わらず、ひそかに支那政府に従属してその職位を保有するものである。
従来、この両党の間は確執して相容れない様相であったが、事大党は(政府内で)要所を占めるゆえに常に独立党を圧倒して死地に陥らせんとする企画があった。しかし昨年竹添公使が赴任するにあたり、去る十五年に花房公使が済物浦に於て締結した条約書に基づき、領収すべき補填金五十万円の内四十万円を返還すべき特旨を奉じてこれを国王に返還するにあたり、独立党の者はその景慕するところの日本政府がこのように好意を表するので、その党人などが暗に尽力したもののような感覚を朝鮮政府内に生じさせ、にわかに国王の信任を得て支那党と共に政府内で並立せんとするに至った。
これをもって支那党人らは独立党を嫉み嫌うことが甚だしく、ひそかに支那の武官らと通じて彼らを駆除せんと謀った。しかしこの事を独立党は早くもすでに察し、むしろ座してその策中に陥り死地につくよりは過激な手段を以って反対党である支那党を駆除して政府の全権をその掌中に収めんと事を謀ったものであることは、事実として明瞭であるようである。
政党が政権の与奪に関して平和の手段を以ってその中心を争うのは、全く最近各国において政治社会の常習であって決して怪しむものではない。しかるに今その独立党なるものは、この常習に反して平和の手段を用いずに過激粗暴の手段を用い、ついに兇党の名を負うに至ったのである。ゆえにその党の行為に関しては、もとより我が政府は味方しないだけでなく、我が公使に彼らを保護させるなどの訓令を付与しなかったのは至極当然の理である。
しかるに今回の事変において彼の国の乱民などが我が方に暴虐を加え日清両兵の闘争を起こしたのは、専ら我が公使が彼の兇党に与し国王を擁して暴殺を行わせたとの疑惑によるものである。
よって我が政府が特使を派遣して本件を弁理するにあたってその対処の準拠を持つとするなら、専ら竹添公使の行為如何によらないわけにはいかないことである。
我が公使の行為進退が適度であったなら、我が方は真っ直ぐであり彼の政府が曲となる。(ゆえに)彼の政府に求めるのにどのような重責をもってするももとより当然である。
しかしもしこれに反して我が公使の行為が適度でなかったなら我が方はまさにその責めを受けないわけにはいかない。
実に我が公使の行為進退が適度であれば即ち「保護」となり、その度を超せば「干渉」となるような、そのような間一髪容れられないような機に際して会したのである。
これを以って本官が彼の地に臨むや、その事績と事情について念入りに竹添公使の行為を調査すると、未だ全くその適度を得たと言えないものがある。
すなわち駐在国の国王が自らその危急を述べて外国使臣の保護を懇請する場合においては、使臣たる者はこれを拒絶してその危急に陥るを座視するのはまったく友国の義ではないので、この場合においては我が公使は、宜しく次の三条により進退すべきである。
第一、国王の懇請があれば、国王自ら公使館に臨幸してその危急を避けさせること。
第二、国王から入宮の懇請があれば、先ず各国の公使に協議して共同一致してその危急を赴援すること。
第三、もし右の二案に依らずに国王の懇請に応じて入宮すれば、各公使領事が王宮を去ると同時に公使館に引き揚げること。
しかるに竹添公使の行為は、これに出ずに専ら国王を救うに急で徒にその請嘱に心ひかれ、保護の程度を超越するものがあったと言わざるを得ない。
朝鮮兵民及び清国の武官が、竹添公使が兇党と進退を共にして謀議通じている、と疑惑するのを、これを弁明せんとすれば却ってその進退の適否の点を交渉議題とせずを得ない。その論点で交渉する時は、我が方は自らその弱点に触れないわけにはいかず、且つ両国の談判に臨んでその事実を厳に調査してその証跡を挙げようとすれば、却って我が公使の体面を損じて主客の地位を転じ、彼の政府に充分なる論拠を与えるに至ることも測られないことである。
今もし我が公使の地位にわずかの瑕疵でもあるとするなら、単に今回の要求をすることが出来ないだけでなく、清国政府に向かって談判するにあたっても幾分かの薄弱を示すことになり、内外に対して我が行為の不是を表明するに等しく、国辱となることは実にこれより甚だしいことはないであろう。
これは今回我が使臣が朝清両国に対してこの事を弁理するのに最も至難な部分である。
また、今回の争乱は前述のように独立党の粗暴から出たものと雖も、また我が政府が去る明治十五年以来この国に向かって施用する政策に幾分か依るものであると認めざるを得ない。
何故ならば、去る15年の京城に於いて変乱を生起し花房公使に命じて締約させた後に、我が政府の清韓に対する政略を議定されるにあたり、朝鮮国の独立を認めるや否やの議となり、ついにその独立を養成させるべしとの政略が定められた。以来我が政府は外交の手段を以って欧米各国に派出する我が公使をして間接直接にそれぞれの国に説かせ、以って朝鮮国を扱うに独立国としてこれと条約させる事に努め、他の一方に於てはその国力を養成させるために兵器を贈与し兵式を教授させ、またその国から我が国に留学するところの生徒は特に官学校に入学するのを許し、漸次にその国内政治を改良させ、そして遂に四十万円の償金を返還するの挙に至った。
これは廟議の決定によって我が政略を実行するのに要用の順序を踏んだことに他ならない。
もし(この後も)この政略を実行するなら、その度に必ず支那政府との確執を生じ、支那政府を遵奉する者と独立を喜ぶ者との間で多少の紛争が生ずるのは早晩免れられないこともしばしばであろう。
このような紛争を全くなくさせるには宜しく我が政府は始めからその独立に干渉すべからず。
このような理由から考えて見れば、京城の事変は兇党の所為に出るものと雖も、その遠因を論及すれば我が政府が幾分かの関係がないとは断言出来ないのである。
(このように)事変に関して我が事跡と我が政略とから考察したときには、前述のように我が政府の位置は実に困難でありデリケートであり、弁理上においても色々の事情を酌量して朝鮮政府に対する要求をなるべく寛大に減らし、一つは以って我が政府の政策の事変以前に異ならないことを示し、一つは以って内外に対して我が公使の兇党に関係を有しない事実を表明するものである。」
以上が内達事項である。井上馨外務卿による極めて精妙な分析である。ここまで見ると、金玉均に対する、井上外務卿、竹添公使の見通しは誤っていなかった。非難さるべきは福沢らである。他国との交わりは本当に難しい。参考までに文献資料による事実解明の難しさも。http://www.geocities.jp/salonianlib/history1/femmes_fatales_15.html