国防戦略の転換

2013年03月30日 | 歴史を尋ねる

 日清戦争は開戦時明治天皇も反対の意向を表明し、清国側も列強の干渉を頼んでも避けようとしたものを、巧みに戦争に持ち込んだのは陸奥宗光と川上操六であったという岡崎久彦氏の記述は、これまでの日清関係から直ちに飲み込めない。ここは村中朋之氏の論文を借りて、この間の事情を捕捉したい。日本における国防戦略は、明治40年(1907)の帝国国防方針「帝国の国防は攻勢を以って本領とす」により、建軍当初の守勢戦略から攻勢戦略へと転換した。しかしこの転換は一朝一夕になされたのではない。その端緒は、明治23年(1890)に発表された山縣有朋「外交政略論」における「我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り」にあったと村中氏はいう。つまり建軍当初の海岸要塞に代表される固定防禦による守勢戦略が、日本固有領土以外の地域への第三国の影響を排除するという攻勢戦略に転換した原因は朝鮮だったと云う訳だ。http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf05/5-100-111-muranaka.pdf

 山縣は後年明治の元勲と呼ばれるようになったが、明治維新にあたってはさほど大きな役割は担っていない。彼は長州戦争下に藩に提出した意見書「衛夜乃寝言」で有為の人材を外国に送り諸国の情勢を視察させるとともに軍事・政治を研究させなければならない、世界の大勢に後れをとらぬようつとめねばならぬと建言している。明治2年藩主の命を受け西郷従道と共にヨーロッパの視察に向った。ロンドン滞在中の木戸宛書簡で「よく行き届いている英国の政体すら今日に至りては王威は地に墜ちぬまでにて嘆かわしい」と書き送っている。帰国後兵部小輔に任ぜられ兵部卿有栖川宮熾仁(たるひと)親王の下で軍制改革の衝に当たった。西郷隆盛の首唱によって明治4年薩摩、長州、土佐から合計一万人の藩兵が親兵として新政府の兵力となった。明治5年兵部省から陸軍省、海軍省が設置され、山縣は陸軍大輔に任じられ、徴兵の詔勅が発せられた。萩の乱、西南戦争を経て明治11年参謀本部が設置されると陸軍卿から参謀本部長に転じ、明治15年軍人勅諭にも関わった。その後山縣は内相として地方制度の制定に一方ならぬ熱意を注いだといわれるが、この項は別立てにし、明治21年ヨーロッパ諸国の地方制度の調査に渡欧したが、この外遊中に伊藤博文を最初に多くの日本人がシュタインの下を訪れたが、山縣も例外ではなかった。このとき山縣が書いた「軍事意見書」について意見を求め、シュタインがこれに応えた「斯丁氏意見書」が明らかになり、山縣の「利益線」概念が「斯丁氏意見書」の「利益疆域」概念に基づくものと加藤陽子氏の手で実証された。

 シュタインは山縣の意見書を読んで、国防の論旨は正確で、日本の将来にこの上ない良策であると高く評価している。そしてシュタインは、日本は欧州諸国と違って陸続きでないから、要港の防禦を堅固にすれば、日本国土の防衛は全うできる。ロシアのシベリア鉄道の有用性には疑問を呈した。さらにシュタインは、日本が西欧国際秩序に身をおいた以上、例え自国の主権の及ばぬ領域であっても、その領域の動向が自国の及ばぬ領域であっても、その領域の動向が自国の独立にとって脅威となる場合には、自らその領域を「利益疆域」として兵力を以て防衛しなければならないという新たな防衛概念を提示したと村中氏は述べている。シュタインは日本の「利益疆域」は朝鮮なりと。ただ朝鮮を支配下に置く事ではない、あくまでも朝鮮の中立であり、それを犯す者は敵国として日本自らの手で断乎排除すべしと。

 明治23年「外交政略論」において山縣は、主権線と利益線という概念を用いて、従来の「守勢国防戦略思想」からの脱却を唱えた。


中立化か、単独保護か、共同保護か

2013年03月24日 | 歴史を尋ねる

 甲申政変(独立党)のクーデタは失敗に帰し親日勢力は瓦解したが、政変で壊滅した親清勢力が力を取り戻すことはなく、以後の朝鮮側の動きが不穏であった。清朝の政策方針は、朝鮮が琉球の二の舞になって日本に併合されると、清朝の安全に脅威となりかねない。日本の勢力減退は思惑通りだったが、ここで朝鮮はロシアとの提携に動いた。その先頭に立ったのが、清朝から派遣された外国人顧問のメレンドルフであった。メレンドルフは朝鮮政府にあって、税関長と外務次官に当たるポストを兼任し、貿易事務・外交交渉・関連する経済・教育事業も担当した。新貨幣の鋳造は関税収入の使途をめぐって、金玉均らとぶつかり、弾圧を加えている。しかしメレンドルフは、朝鮮は朝貢国であり、朝貢国であるならその内政は清朝から独立しなければならないという見解であったと、岡本氏はその著書で云う。この点では金玉均らとほとんど代らないが、その手段は大いに異なった。彼は外交実務を通して、清朝の圧力に抗しうる態勢を、対外関係で構築しようとした。伊藤博文と李鴻章の交渉を通じて、双方の軍隊を撤退に合意したが、時を同じくしてロシアから軍事教官を招く計画をたて、秘密裏に一定の諒解に達した。これまでの日清韓の三国間関係にロシアが登場し、連動してイギリスが朝鮮の巨文島を無断占領した。甲申事変の時、果断迅速な攻撃に踏み切り、たちまちクーデタを水泡にきせしめた袁世凱を、今度は総理朝鮮通商交渉事宜という任務を与え、清朝の代表として朝鮮政府に臨ませることになった。

 袁世凱は国王高宗に意見書を提出し、好悪なる人物を摘発駆除せよと論じて、保護の権は上国清国が独占すべきものと主張した。保護を清朝に仰がぬ朝鮮の行為は、属国の関係を破壊する、朝鮮国王が承認した照会に背く、内政外交の自主に基づいていたとすれば、これは弾圧しなければならない。袁世凱の肩書きは英国領インドに駐在するイギリスのレジデント(駐在官)を似せたものであった。こうした袁世凱の締め付けがある中で、1886年(明治19)朝鮮国王がロシアに保護を求める第二次露朝密約事件が起った。このとき袁世凱は朝鮮への派兵、高宗の廃位を画策したが、李鴻章はこの献策を容れなかった。

 壬午軍乱後の交渉に参事院議官として渡韓を命じられた井上毅(こわし)は、日朝関係は清韓関係と関わらない、日本は清朝の言動に関係なく、朝鮮を独立国と遇すれば足る、という立場であった。彼は帰国早々、「朝鮮政略意見案」を起草、清朝の上国をひとまず是認、しかし上国をもって朝鮮に対する干渉、保護を意味しない、内政外交が自主なら属国ではなく独立国である。内政に対する干渉は認められないけれど、治安が悪化した朝鮮を保護する必要性もあった。清朝の独占的な干渉・保護を代替する措置として、条約締結国間で朝鮮を保護しながらベルギー・スイスにならって、干渉しえない永世中立国とするにあった。井上毅の中立化構想は外務省当局を通じて清朝やアメリカに打診を試みたが、機が熟していないのか芳しくなかった。

 第二次露朝密約事件をきっかけに、清朝と露国の秘密交渉で朝鮮半島の相互不可侵で合意した。イギリスは多国間の保護、日清共同保護の見込みもなくなったので、清朝単独の朝鮮支配を促し始めた。しかし李鴻章は、朝鮮はもとより、日本・ロシアとの関係が決裂して、収拾のつかなくなるおそれを心配して、旧来どおりの属国自主にこだわった。曲りなりにも、一種の均衡状態、日清の相互撤兵、露清間の相互不可侵、清韓の属国自主が拮抗していた。

 


「属国自主」の形成と自主の追求

2013年03月20日 | 歴史を尋ねる

 明治12年(1879)日本が琉球藩を廃して沖縄県とした事件は、清朝からすれば、琉球という属国の滅亡であって、清琉間にあった宗属関係の解体消滅だった。岡本隆司氏の「世界のなかの日清韓関係史」では当時の三者の関係を世界史規模で俯瞰している。清朝にとって重大なのは、日本が朝鮮併呑の危険性を感じる契機をなした。そして琉球の轍を踏まないため、朝鮮に西洋諸国との条約締結を勧める事だった。清朝の総理衙門は李鴻章に委ねて、アメリカとの実質的な条約交渉は天津で李鴻章の主導の下に行い、まとまった条約案の調印は朝鮮で行うこととした。さらに条約草案も金允植と事前に相談し「朝鮮は清朝の属国であり、内政外交は朝鮮の自主である」と謳い、この文面を略して「属国自主」と呼ぶこととした。アメリカ全権シューフェルトと李鴻章の交渉ではここが争点となった。交渉事務は馬建忠に移った。朝鮮での調印時、属国自主の条文は復活できなかった。そのため朝鮮国王がその文面を明記した親書(照会)をアメリカ大統領に送付する、この日付を繰り上げ記入、交渉段階での照会事項との工作を施した。照会の本来の狙いは、西洋諸国に自明でなかった「属国自主」を確認せしめるにあった。

 イギリス、ドイツとの条約交渉を終えた段階で、壬午軍乱が起った。襲撃の矛先は日本公使館にも向けられ、日朝の重大な外交問題に発展した。日本政府は軍艦四隻をつけて花房公使を再度の朝鮮赴任を命じた。花房公使と大院君との交渉が決裂するや、機を逃さず、馬建忠は大君院を拉致して中国へ送った。直ちに朝鮮政府を日本との交渉テーブルにつかせ、閔氏政権を復活させた。天津で李鴻章、馬建忠は朝鮮使者趙寧夏、金弘集らと開港後の朝鮮の対外関係および清韓関係の有り様を協議した。その結果借款供与、税関設置、鉱山開発を取決め外国人顧問メレンドルフと華人スタッフを派遣した。いずれも結果的に見て、朝鮮の清朝への従属化を強める施策で、属国の実体化であった。しかも朝鮮側の自主として選択させたところが馬建忠の苦心があったと、岡本氏は云う。

 明治15年(1882)朝鮮国王高宗は前国王の女婿である朴泳孝に修信大使として日本に派遣する。日本への公式訪問だけでなく別命として日本に駐在する各国大使に条約の承認批准を要請することであったが、駐日イギリス公使パークスに対して、「朝鮮は内政・外交ともに自主である。朝貢関係は儀礼的なもので、清朝は内政に干渉してこなかった。最近の清朝の行為は旧例に反する」「清朝は今になって朝鮮の内政・外交にあらゆる手を尽くして干渉を進め、国王からはその主権を、政府からは行動の自由を奪いつつある」との記録を残させている。朴泳孝・閔泳翊・金玉均らが言うように朝鮮の「独立した地位」とは照会によって確約されている。現状は理不尽な干渉を受けている。だから一刻も早く、西洋諸国と直接に通交する関係に入りたい、それが実現すれば、朝鮮の自主を承認、尊重しない国はなくなって、不当な現状は正されるだろうと言うのが彼らの希望であり、見通しであった。しかしそれでも、清朝の圧力は弱まる気配を見せない。そんな清朝の態度に応じて、朝鮮側もいっそう明確な出方が迫られた。攘夷は論外、開国も規定路線、開化派はその路線を推し進めるに当たって、内部分裂を引き起こし、事大党・独立党、もしくは穏健開化派・急進開化派という色分けが鮮明になった。

 急進開化派が起した甲申事変、金玉均のクーデター決行の翌日、改革方針の宣言の第一条のは、大君院の帰国を求めるのに付記して「朝貢の虚礼は、議して廃止を行う」という一文があった。清朝の圧力を絶つためには、その口実をなす属国、「朝貢の廃止」こそ、否定しなくてはならない。その思いの宣言だったと岡本氏は解明する。


井上馨外務卿による「朝鮮弁法8か条」

2013年03月16日 | 歴史を尋ねる

 甲申政変、甲申の変、金玉均の乱(クーデター)、とかいろいろに称されている明治17年朝鮮事変は、事実関係が分かりにくい事件であるらしい。史料の提示がない後世の伝記や解説本、それの孫引きの文書があふれているようだ。清と朝鮮の書簡や始末書に至っては論外であるという。従って、公式文書から推測するしかない。ここでは外交の責任者だった井上外務卿を追って、日本側の姿勢を見ておきたい。

 甲申クーデターの翌月、1885年(明治18)1月9日、特派全権大使井上外務卿と左議政全権大臣金弘集の交渉を通じて、日本と朝鮮との間に漢城(日朝講和)条約が結ばれた。李朝側は最初、交渉よりも事実究明が先だと抵抗を示し、袁世凱も強硬姿勢をとった。しかし李鴻章は平和的解決を望み、北洋副大臣呉大徴を派遣して李朝政府に譲歩するよう説得させた。また、李朝政府は金玉均・朴泳孝らの引渡しを再三日本政府に要請したが、日本政府は一貫して「彼らは政治亡命者である」として拒否し続けた。

 4月3日から天津では伊藤博文と李鴻章が会談し、18日日本と清国の間に天津条約が結ばれた。ところで、日本政府としては何故伊藤博文を選んで派遣したのであろうか。3月27日に清政府の王大臣と会談した時に伊藤自ら次のように言っている。「本大臣の職務は常に宮廷に参じ、直接に陛下の命を受けて事を執る者である。本大臣を派遣されたのは、永遠の両国和好を厚くし遠謀を以って将来を計り誤りなくするためであって、ただ両国間の案件を談判するだけではない」 伊藤博文は当時宮内卿である。つまりは天皇の明確な意思によるものと知らしめるための格別の配慮があったということであろうと澤田氏は記している。朝鮮問題で日清関係にいかに心を砕いているか推し量れる。結ばれた主な内容は次の通り。①日清両国は四ヶ月以内に朝鮮からいっさいの兵を撤収する。②日清両国は朝鮮国王に兵士を教練して自ら治安を護ることを勧める。日清両国は人を派遣して朝鮮において教練をしない。③日清両国は重大事変が発生して軍隊を派遣する場合には、お互いに事前通告すること。事変が平定されればすぐに軍隊を撤収して駐留しない。http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi045.html 条約の結論を見るまでの伊藤と李のやり取りは厳しいものであるが、「伊藤の議論に於ける応酬というものは殆ど隙のないものであったと思う。 伊藤は議論の中で屡言う。「全く貴政府の内事であって、本大臣の与り知るところではない」「本大臣は朝鮮の全権大使ではない」「素より朝鮮の内事に属することで、本大臣の更に与り知るべきところではない」などなど、相手の議論の流れを切って捨てて容赦がない。 要するに、相手に対して下手な思い遣りなど微塵もないのである」 伊藤博文の人物を見るのに良いブログである。

 天津条約は李朝にとって、朝鮮半島から外国軍隊が撤退したことが収穫であった。しかし李朝の自立が確保されたわけではない。清国は朝鮮に対する内政干渉を強化していった。政変後の権力回復を目指す閔氏一族は、清国の横暴ぶりに愛想がつき、日本も頼りにならないと考え、当時世界最強とも言われたロシアの軍事力に依存しようと考えた。新たな事大主義の誕生であった。しかし朝露密約が発覚し、清国が反発する。ロシアが朝鮮半島の進出情報が出るとすかさずイギリスアジア艦隊が巨文島に集結、しかもその旨を李朝ではなく中国大使に連絡、李朝を清国の属国とみなす立場からであった。こうした動きに対して、日本は日清協力へと動き、李朝に対して柔軟路線を敷くように方針を大きく転換していった。1,885年(明治18)6月井上外務卿は「朝鮮弁法8ヶ条」を清国に提案した。その内容は

「第一 朝鮮に対する政策は全て最高度の秘密の手続きをもって、常に李鴻章と本官(井上馨)と協議の上で李鴻章氏がこれを施行すべし。

第二 朝鮮国王に今のような政務を執らせずに且つ内官の執権を剥いで、その政務に関する途を絶つべし。

第三 国内第一等の人物を選んで政務を委任し、これを進退するには国王は必ず李鴻章の承諾を得るべし。

第四 右の第一等の人物は、金宏集、金允植、魚允中の如き人なるべし。

第五 出来るだけ速やかにモルレンドルフ氏を退け至当の米国人を以ってこれに代わらせるべし。

第六 陳樹棠は篤学の人であるが力量足らず、他の有力者と代わらせるべし。

第七 陳樹棠の後任者を李鴻章から任命し、米国人を朝鮮に推薦した上は将来の政策についての十分な訓令を与えてその者を日本に送り本官と面会させるべし。

第八 陳氏の後任者は京城に在留の日本代理公使と深く交誼を結び、諸事協議して事を執るべし。

 右は全くアジア州全体に虎狼の侵襲を防ぐを以ってその静謐安寧を保全する一点から出るものであって、朝鮮政府の政治に干渉することを主意とするものではない。その趣旨を李中堂には明らかに諒知されるように御陳述ありたい。」で、あった。

 ここでは朝鮮を自主の国と扱うのを転換し、王権の専制を改め両国がコントロールしやすい政府によって国内改革を行わせようとする提案であった。しかしこの提案を清国は受け入れず、日本介入の拒否する態度をとり続けた。


井上馨外務卿の朝鮮派遣

2013年03月15日 | 歴史を尋ねる

 1884年(明治17)12月4日、金玉均、朴泳孝らは、郵便局開局の祝宴を利用してクーデターを決行した。事変混乱のなか金玉均は高宗に日本公使に保護を依頼すべきと奏上し、高宗自ら「日本公使来護朕」と記して、竹添公使への伝達を命じた。翌5日独立(日本)党は新政府樹立と閣僚名簿を発表し、漢城駐在の各国代表にその旨を通知した。昼近くなって竹添公使が日本兵を宮殿に駐屯させるわけにも行かないので、撤収すると言い出したが、金玉均に引き止められ、そのまま駐屯する。それから間もなく袁世凱が600の兵を率いて宮殿に到着、清軍から一通の封書が竹添公使宛に届けられて間もなく、銃声が鳴り響いた。結局、竹添公使率いる日本軍と金玉均らは仁川に落ちのびる。

 12月21日、事態の収拾に竹添公使が対応困難に陥り、問題解決の為に日本政府は井上馨外務卿を特派全権大使として朝鮮に派遣することに決定した。井上馨外務卿は1月31日に、事変についての総括とも言える内容の書簡を京城駐在の近藤臨時代理公使に送って公使弁理の心得を内達している。長文であるが、当時の日本政府はこの事変をどのように見たのかということが端的に理解できると思うので澤田獏氏の力を借りて掲載する。

 「そもそも今回の事変の原因は、独立党、事大党との軋轢に胚胎するものである。
 独立党なるものは日本党とも言い、多分にその党中にある者はかつて我が国に来遊し、我が国の開化の進むを見て朝鮮国を我が国に見習って開化を企画し、清国政府の干渉を避け、その独立を保持せんとの主義を執るものである。
 事大党なる者は支那党と称し、多分にその党中にある者は概ね支那国を母とし事(つか)え、その政府の命令を遵法し、我が国に対しては小を以って大に事える主義を執り、現在各国と対等の条約を締結するにも拘わらず、ひそかに支那政府に従属してその職位を保有するものである。

 従来、この両党の間は確執して相容れない様相であったが、事大党は(政府内で)要所を占めるゆえに常に独立党を圧倒して死地に陥らせんとする企画があった。しかし昨年竹添公使が赴任するにあたり、去る十五年に花房公使が済物浦に於て締結した条約書に基づき、領収すべき補填金五十万円の内四十万円を返還すべき特旨を奉じてこれを国王に返還するにあたり、独立党の者はその景慕するところの日本政府がこのように好意を表するので、その党人などが暗に尽力したもののような感覚を朝鮮政府内に生じさせ、にわかに国王の信任を得て支那党と共に政府内で並立せんとするに至った。

 これをもって支那党人らは独立党を嫉み嫌うことが甚だしく、ひそかに支那の武官らと通じて彼らを駆除せんと謀った。しかしこの事を独立党は早くもすでに察し、むしろ座してその策中に陥り死地につくよりは過激な手段を以って反対党である支那党を駆除して政府の全権をその掌中に収めんと事を謀ったものであることは、事実として明瞭であるようである。

 政党が政権の与奪に関して平和の手段を以ってその中心を争うのは、全く最近各国において政治社会の常習であって決して怪しむものではない。しかるに今その独立党なるものは、この常習に反して平和の手段を用いずに過激粗暴の手段を用い、ついに兇党の名を負うに至ったのである。ゆえにその党の行為に関しては、もとより我が政府は味方しないだけでなく、我が公使に彼らを保護させるなどの訓令を付与しなかったのは至極当然の理である。
 しかるに今回の事変において彼の国の乱民などが我が方に暴虐を加え日清両兵の闘争を起こしたのは、専ら我が公使が彼の兇党に与し国王を擁して暴殺を行わせたとの疑惑によるものである。

 よって我が政府が特使を派遣して本件を弁理するにあたってその対処の準拠を持つとするなら、専ら竹添公使の行為如何によらないわけにはいかないことである。
 我が公使の行為進退が適度であったなら、我が方は真っ直ぐであり彼の政府が曲となる。(ゆえに)彼の政府に求めるのにどのような重責をもってするももとより当然である。
 しかしもしこれに反して我が公使の行為が適度でなかったなら我が方はまさにその責めを受けないわけにはいかない。

 実に我が公使の行為進退が適度であれば即ち「保護」となり、その度を超せば「干渉」となるような、そのような間一髪容れられないような機に際して会したのである。
 これを以って本官が彼の地に臨むや、その事績と事情について念入りに竹添公使の行為を調査すると、未だ全くその適度を得たと言えないものがある。

 すなわち駐在国の国王が自らその危急を述べて外国使臣の保護を懇請する場合においては、使臣たる者はこれを拒絶してその危急に陥るを座視するのはまったく友国の義ではないので、この場合においては我が公使は、宜しく次の三条により進退すべきである。
 第一、国王の懇請があれば、国王自ら公使館に臨幸してその危急を避けさせること。
 第二、国王から入宮の懇請があれば、先ず各国の公使に協議して共同一致してその危急を赴援すること。
 第三、もし右の二案に依らずに国王の懇請に応じて入宮すれば、各公使領事が王宮を去ると同時に公使館に引き揚げること。

 しかるに竹添公使の行為は、これに出ずに専ら国王を救うに急で徒にその請嘱に心ひかれ、保護の程度を超越するものがあったと言わざるを得ない。

 朝鮮兵民及び清国の武官が、竹添公使が兇党と進退を共にして謀議通じている、と疑惑するのを、これを弁明せんとすれば却ってその進退の適否の点を交渉議題とせずを得ない。その論点で交渉する時は、我が方は自らその弱点に触れないわけにはいかず、且つ両国の談判に臨んでその事実を厳に調査してその証跡を挙げようとすれば、却って我が公使の体面を損じて主客の地位を転じ、彼の政府に充分なる論拠を与えるに至ることも測られないことである。

 今もし我が公使の地位にわずかの瑕疵でもあるとするなら、単に今回の要求をすることが出来ないだけでなく、清国政府に向かって談判するにあたっても幾分かの薄弱を示すことになり、内外に対して我が行為の不是を表明するに等しく、国辱となることは実にこれより甚だしいことはないであろう。

 これは今回我が使臣が朝清両国に対してこの事を弁理するのに最も至難な部分である。

 また、今回の争乱は前述のように独立党の粗暴から出たものと雖も、また我が政府が去る明治十五年以来この国に向かって施用する政策に幾分か依るものであると認めざるを得ない。

 何故ならば、去る15年の京城に於いて変乱を生起し花房公使に命じて締約させた後に、我が政府の清韓に対する政略を議定されるにあたり、朝鮮国の独立を認めるや否やの議となり、ついにその独立を養成させるべしとの政略が定められた。以来我が政府は外交の手段を以って欧米各国に派出する我が公使をして間接直接にそれぞれの国に説かせ、以って朝鮮国を扱うに独立国としてこれと条約させる事に努め、他の一方に於てはその国力を養成させるために兵器を贈与し兵式を教授させ、またその国から我が国に留学するところの生徒は特に官学校に入学するのを許し、漸次にその国内政治を改良させ、そして遂に四十万円の償金を返還するの挙に至った。
 これは廟議の決定によって我が政略を実行するのに要用の順序を踏んだことに他ならない。

 もし(この後も)この政略を実行するなら、その度に必ず支那政府との確執を生じ、支那政府を遵奉する者と独立を喜ぶ者との間で多少の紛争が生ずるのは早晩免れられないこともしばしばであろう。

 このような紛争を全くなくさせるには宜しく我が政府は始めからその独立に干渉すべからず。
 このような理由から考えて見れば、京城の事変は兇党の所為に出るものと雖も、その遠因を論及すれば我が政府が幾分かの関係がないとは断言出来ないのである。

 (このように)事変に関して我が事跡と我が政略とから考察したときには、前述のように我が政府の位置は実に困難でありデリケートであり、弁理上においても色々の事情を酌量して朝鮮政府に対する要求をなるべく寛大に減らし、一つは以って我が政府の政策の事変以前に異ならないことを示し、一つは以って内外に対して我が公使の兇党に関係を有しない事実を表明するものである。」

 以上が内達事項である。井上馨外務卿による極めて精妙な分析である。ここまで見ると、金玉均に対する、井上外務卿、竹添公使の見通しは誤っていなかった。非難さるべきは福沢らである。他国との交わりは本当に難しい。参考までに文献資料による事実解明の難しさも。http://www.geocities.jp/salonianlib/history1/femmes_fatales_15.html


脱亜論

2013年03月09日 | 歴史を尋ねる

 福沢諭吉の言葉と紹介される「脱亜論」「脱亜入欧」という言葉はまことに奇妙な経緯を持った言葉である。詳細はウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96をご覧になって頂きたいが、明治の当時を語る言葉として、教科書には定番で出てくる言葉であるが、その根拠は曖昧で、むしろ戦後の歴史学者の造語の感がある。さらにこの言葉をもって、韓国・中国が日本の「アジア蔑視および侵略肯定論」であると取り上げられているそうだ。これは歴史学者に解決してもらわなければならないことであるが、この言葉を離れて、福沢諭吉の朝鮮近代化の入れ込みに付いて、日本公使を花房義質から引き継いだ竹添進一郎と比較して考えてみたい。

 壬午軍乱(朝鮮事変)後に結ばれた済物浦条約で、李朝は日本に対し50万円の賠償金を支払うなどの取決めをしたが、そのなかに日本への使節の派遣があった。一行は20名の名が連ね、金玉均も参加した。福沢宅へも訪問し、彼らが「独立・自主の真の意義」についてさとったのは、福沢諭吉を通してだったと言われている。そして彼らは洋書を解読する語学力はなかった。金玉均は帰国するとすぐに、40数名の青年たちを日本に留学させ、福沢諭吉に依頼している。福沢は彼らを、慶応義塾、陸軍戸山学校、各種の技術学校に就学させた。金玉均らの活動は閔氏一派から要注意人物とされ中央の要職は与えられず、東南諸島開拓使兼捕鯨使となった彼は捕鯨権を担保に日本政府に300万円の借款を国王の委任状つきで進めたが、閔氏側の阻止策で実現せず。このとき井上外務卿との面談議事録が残っている。井上は金玉均に対し「江華島事件や米国との条約締結で独立の傾向があるが、清国とは三百年来の関係もあるので、今断乎として独立の態をなさんと欲する時は、到底干戈を持って清国と争うことは避けられない。そこで万事急激に走らず、徐々に各国から独立の助けに与るに乗じて、純粋無傷の独立を謀るべき」と述べると、金玉均は「急激ではまずいことは我が政府の者も承知していることで、今すぐ清国の干渉を断つことを得られるとは考えていない。たとえこれを望むとも行い難しことで、急激に走られない」と応えている。その前に日本公使となった竹添進一郎は井上外務卿に対して、「およそこの清韓貿易章程は朝鮮国を清国管轄の下に置き、専ら清国の利を謀るものであるが、もともとは三百年来の一定した主属の名義に基づいて制定したものであり、俄かに独立国の例を以ってこれを律するべきではないようである。もし独立国の例を以ってこれを律すると欲するなら、その初めに立ち戻って清韓両国の関係を詳らかにして朝鮮国の分限を定めることが至当の順序であると思考する。このへん篤と議論を尽くされますよう強く望むものであります」と書面を提出している。

 一方福沢は彼らから聞く朝鮮の原状は、門地門閥によって身分が固められ社会的上昇など思いも及ばなかった「三十年前の日本」である。門閥制度は親の敵で御座ると記した旧制度に対する思いが、自分を頼ってくる朝鮮人に救いの手を差し伸べることが自分の責だと感じたようだと渡辺利夫氏は推測する。政権獲得に参加しなかった者は政権に入る資格なしとして幕臣福沢は明治政府を傍観者としてやり過ごした。しかし、自らの思想の実現の場を朝鮮に求め、朝鮮の開花派も福沢に支援を求めた。日本滞在時福沢の紹介で、井上馨、澁澤栄一、後藤象二郎、大隈重信、伊藤博文などに面会し、金玉均の得た結論は「日本の朝鮮に対する根本概念は開戦に非ず、侵略に非ず、征韓に非ず、ただ提携し、協力し、以て支那の圧抑を排斥するに在るを洞察し、日本は朝鮮の現状打開を援護する唯一の友邦」であった。


日本、友好の品を贈る

2013年03月06日 | 歴史を尋ねる

 修好条規を締結した明治9年2月から20ヶ月後は、修好条規第五款の新開港約束の期日であった。新たな港の候補地は見つからないまま期日は迫って、外務大書記官兼代理公使花房義質(よしもと)を京城に派遣することに決定。談判は紆余曲折を経て、ようやく元山津を開港することとなった。相手が誠意ある態度を見せれば、こちらもまた誠意で応えたい。これが日本人の根底にある心情であり、朝鮮が元山津開港を決断した事により、明治13年(1880)1月、花房義質は政府に建議を提出した。これはアジ歴(http://www.jacar.go.jp/)の資料をつぶさに読み込んだ澤田獏氏の「きままに歴史資料集」からの編集である。「朝鮮国との修交以来、日朝間の交渉はとかく硬直した議論が相次ぎ、友好平和の気運に欠けるところがあるところから、また、朝鮮国が新たな開港に応じたことからも、日本としても好意を表して朝鮮が歓ぶことを考え、今、特に武備に関心を寄せている事から、日本から銃砲を贈り、また蒸気機関にもなにかと試みているところから、小蒸気船一隻を贈るなどすれば、交際上の懇親に足ることになり、また貿易を進める手立てともなると思う。」と花房。そして贈った兵器は、16連ヘンリー銃、騎兵ツンナー銃、砲兵ウリソン銃、雷管打スタール銃、騎兵レカルツ銃、シャッフル銃、小口径レミントン銃、一番形蟹目打ヒスドル銃、スナイトル銃、エンヒール銃、それぞれ5挺、計50挺であった。それに対して朝鮮政府からの答礼として、朝鮮人参40斤、熊胆5部、虎皮5枚、蜂蜜100斤、正鉄1千斤が贈られた。また、小蒸気船は当初見合わせられたが、明治15年5月に朝鮮王高宗の世子(後継者としての息子)の冠婚式があり、その時に花房は謁見して日本政府からの祝賀として一艘を山砲2門と共に贈っている。しかし、京城の日本公使館が襲撃されて日本人が7人も殺されるという大事件(壬午の軍乱:朝鮮事変)はこの直後(7月)に起こった。

 1882年(M15)7月19日旧軍兵士が京城で反乱をおこした。担当官僚は首謀兵士を死刑にした。これに憤慨した各駐屯地の軍兵たちが救命運動に立ち上がったが、次第に激しさを増し、壬午の軍乱に発展(7月23日)した。詳細はhttp://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi030.htmlに譲るとして、澤田獏氏は当時の残された詳細な書類類から次の様に纏めている。澤田氏の私見が入ってはいるが、事件の概観を見るのに便利である。少し長いが引用する。

・明治維新後の政府の朝鮮との外交方針は一貫していた。すなわち「永遠の善良なる交際」である。これはかつての黒田全権派遣時においてもその意とするところは同じであり、日本公使館を焼かれ日本人の命が奪われた朝鮮事変時において尚そうであった。また外交方針の基本となるものは「万国公法と情誼(友好の精神)」であり、花房公使に付与された訓条はそのことを如実に語るものであった。

・国家の近代化の過程で様々な内乱を経験して来た日本政府は、朝鮮事変もまた朝鮮が近代化する過程でありがちな一つの事変であると冷静に見ていた。

・もちろん、朝鮮政府の過失責任は免れないことである。故に日本政府は次の箇条の要求書を提出することにした。要求書は、1、文書を以って謝罪。2、15日以内に犯人逮捕と処分。3、日本人被害者への補償。4、条約違反と出兵用意の経費賠償。5、今より5年間、公使守衛として十分な兵員を置くこと。6、日本人商人のために市場を開くこと。

・また、「其の責に軽重の区別あるべきの情理にして、もし其の責軽ければ我が要求も従って軽からざることを得ず。其の責重ければ我が要求も従って重からざることを得ず。」とあるように、朝鮮政府の責任の軽重又その出方によっては対応も変えざるは得ないことである。その責任が重大な時は、7、巨済島または鬱陵島の譲与を以って謝罪の意とすること。8、政府内に兇徒を庇護する者があった時は罷免して相当の処分をすること。9、朝鮮政府の出方によっては臨機に応じる。であった。

・これらは例えば、要衝の諸島を占領して以って要償の抵当とすることは、万国公法上の許すところであったが、それら強償処分に出る程の過失ではなかったのでそこまでには至らなかった。

・このような日本政府の行動に対して、清国は軍艦と兵員を派遣して調停したいと言った。しかし内部的には「中国もまた使節を送り派兵をして朝鮮を鎮圧し凶徒を懲罰し以って謝罪させるべし」との在日本清国公使の意見もあった。また米国も軍艦を1隻派遣して、その実情を詳しく知ることを求めた。

・日本政府は万国公法に基づき清国の調停申入れを断ることが出来る。しかし清国は、属国で起きた事件であるから兵を送って日本公使を保護したい、或いは朝鮮政府に謝罪させ、或いは又大院君を斥けて国王を助けたい、と言ってきた。また米国も朝鮮は清国の属藩であると承認した上で米朝通商条約を結んでいた。

・また朝鮮事変の遠因は米朝通商条約を無理に結んだことにあるとも言える。守旧派は日本とは3百年の交際があると認めていたが、西洋人と交際することは最も嫌悪していたからである。いわば大院君たちの八つ当たり(この軍乱は事件を利用した大君院の策動)に遭ったようなものと言える。

・仁川の済物浦(さいもっぽ)に先着した日本外交官は、真っ先に仁川府の墓地に埋葬されている日本人被害者の検死をした。その結果、朝鮮政府は「手厚く埋葬した」と文書で言っていたが、戦死者を見慣れているはずの日本軍人すら異常に思えるほどの残酷で無情な死体状況と扱い方をされていた。「その為すところ、刑人を処するが如く、実に拙者等をして憤怒に堪える能わざらしめたり。」共に死線をくぐってきた大庭永成の激昂の検死報告であった。

・すでに清国の軍艦が展開する済物浦に到着した花房公使は、直ちに護衛部隊を引き連れて京城を目指した。途中、朝鮮政府の者が「宿の用意が出来ていない、数日間待ってほしい」などと何度も止めようとしたが、花房公使はそれを斥けて仁川、楊花鎮、そして京城と向かった。当時の日本政府が朝鮮との外交において一番注意していることは、朝鮮の時間引き延ばし戦術である「遷延の策」には決して乗らないことであった。決定したことは前に前に進むことこそが解決の唯一の道だったからである。

・公使と共に来た開化派の金玉均(日本に留学中)は、しばらく上陸して開化派の何人かを連れて戻り、京城潜伏は無理であると日本に救護を求めた。国政の独力改革の志を日本人に披露する金玉均はその理想と現実の違いをどうもよく理解できていないように(澤田氏には)思われた。


朝鮮の門戸を押し開いた日本

2013年03月03日 | 歴史を尋ねる

 大院君が政権の座についた当時の李朝には、日本の徳川幕府が1856年までに欧米五カ国に対して開港したこと、1860年には英仏連合軍が北京に侵入して北京条約が結ばれたことが伝わっていた。また朝鮮半島沿岸には西洋諸国の船舶がしきりに出没するようになっており、国民の間には外国からいつ侵略を受けるかもしれないという危機意識が高まっていた。これに対して大院君は、あらためて徹底的な鎖国政策の貫徹を取った。日本では黒船ショックを契機に、西洋の文物を積極的にとり入れて産業を興し、国家の近代化を推進し、欧米列強に対抗する力を早急につけるべきだという考えが主流になりつつあった。また中国でもそうした意見がしだいに芽生え始めていた。しかし李朝にとって、そうした隣邦の変化はおよそ想像を絶するものであった。そして李朝は侵攻する洋夷をことごとく撃退してしまった。中国や日本が欧米列強の圧力に屈して開国したにもかかわらず、さらに国力の劣る李朝が攘夷をすることができたのはなぜか。いつでも開国させられるが、いまは頑強な抵抗を屈服させるだけの力を割いている余裕がない、そのために一時的に退却する――それが彼ら欧米列強の情勢判断だった。それぞれ中国・日本・沿海州・インド・ベトナムにと、新たに獲得した領地や権益の運営に乗り出したばかりで、そちらへ力を注ぐことが、彼らの当面のアジア戦略であったと、呉善花氏は言っている。

 李朝朝鮮との書契問題のスタートは、徳川幕府から明治新政府に政権が交代した通知文書の授受の問題であった。この交渉は次第にエスカレートして明治9年(1876)参議・陸軍中将黒田清隆が全権特派大使として総勢800名を乗せた艦隊を率いて江華島に上陸した。これに対して武力によって日本を退けるべきだとする大君院・攘夷派儒生たちによって暴動が発生、攘夷派の者たちは農民や一般市民を駆り出して、日本全権の宿舎を取り囲ませた。日本軍は400名の兵士と四門の大砲で対峙。江華島は一触即発の緊張に包まれた。それでも日朝交渉が始まった。その席上李朝側は、なぜいまさら条約を結ばなくてはならないのか、という疑問を提起した。従来からの交隣関係を持続するとの確認をすればよいではないか。日本側は近代的な国際法に基づく条約の意義を説明し、全権委任の確認が国家間の協定では必要条件であることを説いた。翌日日本側は条約案を提示し、10日間を期限とする回答を求めた。李朝政府はこれを検討した結果、文章上の修正を要求して、基本的には受け入れることにした。これは現在不平等条約を押し付けられたと韓国史家から非難される条約締結の経緯である。

 さて、このタイトルは日本が押し開いたと記述するが、本当に押し開いたのか、そして日本はなぜそこまでしなくてはならなかったのかである。呉善花氏は、日本にとってあくまで華夷体制を頑迷に守ろうとする隣国の李朝は日本の安全を根本から揺るがしかねない存在となってしまった。そこで李朝も日本のように早急に開国して近代化と富国強兵を推し進めなくては、またたくまに西欧列強の支配下におかれることになってしまうだろう。そうなれば隣国日本は窮地に立たされることになる。そのために、武力を持ってしても強引に李朝を開国させるべきだ、と考えが出てきてしまったと呉氏はいう。この当時、日本側はそこまでの戦略性を持っていたのか、当時の文書を見るとやや後付け解釈に感ぜられる。ときの太政大臣三条実美が黒田に出した内示書面の一部である。http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi015.html

一  我が政府は専ら朝鮮国と旧交を続き、和親を敦くせんことを望を以て主旨とせるが為に、朝鮮の我が書を斥け、我理事官を接せざるに関らず、仍ほ平和を以て良好なる結局を得んことを期したるに、何ぞ料らん、俄に雲揚艦砲撃の事あるに逢へり、右の暴害は当時相当なる防戦を為したると伝へども、然れども我が国旗の受けたる汚辱は、應に相当なる賠償を求むべし。

一  然れども朝鮮政府は未だ顕はに相絶つの言を吐かず、而して我が人民の釜山に至る者を待遇すること、旧時に異なることなし、又其砲撃は果して彼の政府の命若くは意に出たる歟、或は地方官弁の擅興に出たる歟も未だ知るべからざるを以て、我が政府は敢て親交全く絶えたりと見做さず。

一  故に我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、今全権使節たる者は、和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ふときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること、使臣の委任に在り。

 当時日本自身、李朝王朝の内部事情にそれほど通じっていた訳でもなく、新政権発足以来行き違った和交を復旧し、さらに一歩進めて修好を深めたいと言う所が、当時の状況ではなかったか。

 


「朝鮮事情」

2013年03月02日 | 歴史を尋ねる

 国力(国家の元気度)を測るバロメーターは現代ではGDPであったりするが、歴史上の国家、民族のパワーを推し量るのは、経済活動の状況だとして、このブログは出来るだけ具体的スケールを求めてきた。日本の場合は通貨発行量であった。この方法で李朝朝鮮を推し量る方法として、先に紹介したシャルル・ダレの「朝鮮事情」を参考にしたい。併せて、歴史上における李朝王朝の位置付けもして見たい。この本は本来は「朝鮮教会史」(1874)の序論部分の邦訳書で東洋文庫に収められている。朝鮮教会はこのとき80年前から無数の熱心なキリスト崇拝者がいるが、絶え間ない迫害を受け、すでに数千人の犠牲者を出している。宣教師たちの試練と殉教の舞台となったこの国で、彼らが記した朝鮮人の特徴、彼らが克服しなければあらゆる艱難を知らせるために本書は書かれたという。法王ピオ9世の祝辞とシャルル・ダレの聖母マリアに捧げる序文が収めれれている。早速商業に関する記述を見てみたい。

 「朝鮮人は科学研究の分野でほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では数世紀の間、有用な技術は全く進歩していない。この立ち遅れの主な原因の一つは、人びとがすべての手工業を各自の家でまかなわなければならず、必需品を自分の手で作らねばならないという現実がある。・・・朝鮮の商業がほとんど発達していない。自分の家で店を開いている商人はごくわずかで、ほとんどすべての取引が、定期市で行なわれている。この定期市は政府によって指定されており、商品のためにはテントが張られている。」「商業の発達の大きな障害になっているものの一つに、不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在しない。」「合法的に流通している唯一の通貨は銅銭である。それでも亜鉛か鉛が混じっており、その価値は僅かである。真中に穴が開いており、一定数を集めて紐を通す。相当量の支払をするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。」「朝鮮の金利は法外である。年三割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるものと同然だと思っている。最も一般的なのは、5割、6割で、ときには10割もの利子が要求される」「清朝の隷属下におかれてからというもの、朝鮮王朝は貨幣の鋳造権を剥奪された。長い間に時効となって今ではその権利は確保されているが、最近では次々悪貨が鋳造されている。急速に質が落ちている。しかしそこで売る利益は政府ではなく鋳造業者が検査の役人と利得を分け合っている」「商取引におけるもう一つの障害は交通路のみじめな状態である。航行の可能な河川は非常に少なく、いくつかの河川が船を通すが、それもごく制限された区域の航行しか許されていない。一方道路を作る技術はほとんど知られていない。したがってほとんどすべての運搬は、牛か馬、もしくは人の背によって行なわれた」

 金銀の資源はあるようだが、貨幣が発達していない。とにかく禁制が多い。「もともと朝鮮人は外国人を敵視する国民ではない。むしろ中国人より彼らの方が外国人に対して好意的かもしれない。彼らは中国人ほど横柄ではなく、改良や進歩に対して敵対することもなく、外の世界に住む人に対して、中国人ほど自己の優越性を狂信していない。しかし政府は、おのれの保持のためには必要であると信じているこの鎖国を、細心に固守しており、いかなる利害や人道上の考慮をもってしても、これを放棄しようとしない。1871年、1872年の間、驚くべき飢餓が朝鮮をおそい、国土を荒廃した。信者たちは宣教師たちに図を描いてどの道にも死体が転がっていると訴えた。しかし、そんな時でも、朝鮮政府は、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ」 ふーむ、今でも似た国があるかな。


派閥、一族の紛争に明け暮れる社会

2013年03月01日 | 歴史を尋ねる

 こうした極端な文官独裁の文治主義政治によって軍事が軽視された結果、李朝朝鮮は軍部弱体化を招来させた。しかし朝鮮半島の国々は古代以来2000年間に、北方民族や倭寇による小規模な侵入を含めると、正史に記録されただけでもおおよそ1000回の侵略を受けている。特に高麗時代の蒙古、李朝時代の日本、清による侵略は、それまでに築き上げたものを、繰り返し壊滅に近い状態まで打ちのめされた。大戦後の韓国に外交官として駐在したアメリカの朝鮮史家ヘンダーソンは1860年前後の政治社会に触れて、「李朝はもはや経済的破産と崩壊の寸前であった。すでに軍事力は殆んどなく、政権の分裂と内紛で行政は麻痺状態となり、慢性的百姓一揆の機運に脅かされていた」と言っている。李朝衰亡の根本は、広大な領土を治めるために行使された中国式の中央集権制を、狭小な朝鮮半島内で本家の中国以上に徹底させたために、世界に類例をみないほど硬直した官僚国家が出来上がってしまった。結局は日々政治システムの維持に狂奔することが政治そのものになったと、呉善花氏は結論付ける。この徹底した規格化された制度と画一的な手段を用いての政治を、先のヘンダーソンはすべての非正統的活動を執拗に排除する嫉妬深い中央集権主義と形容している。明治維新後の日本からの書契問題もまさにこの範疇に飲み込まれる。「地域的経済成長を促進し、個人的財産を蓄積し、いろいろな海外からの影響をもたらす恐れのあった外国貿易等の経済的諸活動も、きびしく禁止または統制された」とヘンダーソン。ましてや日朝修好条規を結ぶなど、李朝王朝から見れば余分なことで迷惑千万なこととあったろう。一方日本側は西欧列強の東アジア進出を座視するわけも行かず。

 このような李朝末期、1860~1870年の社会を体験した一人の西洋人は次のように描写しているという。「一般に、政治的活気とか進歩、革命といわれるものは、朝鮮には存在しない。人民は無視され、彼らはいかなる意見も許されない。権力を一手に掌握している貴族階級が人びとに関心を向けるのは、多くの富をしぼり取ろうとするだけである。貴族たちは派閥に分かれ、互いに執拗な憎悪をぶつけ合っている。しかし彼らは政治的原理を異にするものでなく、ただ尊厳だとか、影響力のみを言い争っている。朝鮮に於ける最近三世紀の期間は、ただ貴族層の血なまぐさい不毛の争いの単調な歴史にしかすぎなかった」。著者のシャルル・ダレは当時の李朝でキリスト教の布教活動を行なっていたフランス人宣教師たちの証言をもとにこの本を書いている。李朝の国家官僚となる資格をもった文斑(文官)と武斑(武官)を総称して両斑と呼ばれたが、不毛の争いの第一の理由は両斑人口の増大だという。金で両斑の地位を買ったりニセの資格証を売ったりということが繰り返されてきた結果、両斑が膨大になった。京城帝国大学教授だった四方博氏の計算によると1690年には総人口の7%だったのが、1858年には48%にまで増加している。人口の半分が支配者階級の身分だと云う事になる。官僚以外の職につくと両斑の資格はなくなる。彼らの多くは働くことなく、ただ限られた官職獲得のための運動を日夜展開した。そして高級官僚としての両斑どうしにお争いは凄まじいものがあった。「これらの争いは、多くの場合、指導者の抹殺を期として終焉する。抹殺の方法は、武力とか暗殺によらず、国王を動かして敵に死を宣告させたり、無期の流刑に処したりする」 こうした憎悪の関係は父から子へと世襲される。屈辱を晴らすことが子孫にとって最も大きな道徳的行為であった。ふーむ、韓国ドラマにしばしば出てくるな。


文官独裁国家としての李朝朝鮮

2013年03月01日 | 歴史を尋ねる

 日韓歴史共同研究は、2001(平成13)年10月の日韓首脳会談における合意に基づいて 2002(平成14)年5月に第1期の日韓歴史共同研究委員会が発足し、古代史、中近世史、近現代史の3つの分科会で共同研究を進め、2005(平成17)年6月に報告書を公開した。第2期共同研究は、2005(平成17)年6月に行われた日韓首脳会談において合意、古代史、中近世史、近現代史の3分科会に加え、「教科書小グループ」を新しく設置し、両国の専門家が共同研究を行い、2010(平成22)年3月に報告書を公開した。この共同研究の内容についてあまり報道はなされなかったが、共同研究に参加した木村幹神戸大教授は、「仕事は厄介であった。すぐにわかったのは、日韓の間では、歴史教育の目的が全く異なる、ということだった。日本では一般的に、日本史や世界史に関わる「事実」を教えることに重点が置かれる。だから、各種の教科書から一定の「物語」を読み取ることは難しいし、また、教育現場でもその読み取りは重視されない。しかし、韓国では歴史的事実よりも、歴史に関わる「物語」に重点が置かれている。如何に韓国人が日本に抵抗したかが、重視される」とのコメントを残している。http://ameblo.jp/lancer1/entry-10195484929.html 当然韓国側から反論があると思うが、それは共同研究の報告書を読めば、自ずとその真意を汲み取ることができるだろう。ここでは韓国側の研究者があまり取り上げない李朝朝鮮の実情を、呉善花氏の著書から知識を得たい。彼女は日韓併合の歴史を振り返る時、李朝という王朝国家がどのような性格と特徴を持っていた国家だったかを知ることがとても重要になってくると言っている。

 朝鮮半島には、日本やヨーロッパのように武人が支配する封建制国家の歴史がない。中国と同じように、古代以来の文人官僚が政治を行なう王朝国家が、延々と近世まで続いた。政治システムは中国歴代の制度に由来するもので、王のもとに文官・武官の両官僚郡が合議で政務をとり行なう、高麗朝の儒教的な官僚体制を踏襲した。只、文治主義と中央集権制が極度に徹底されていたことが特徴とのこと。李朝の文治主義は極端で、全軍の指揮権者も地方方面軍の指揮官も高級文官が就任し、その他の高位の武官職もことごとく高級文官が兼任したという。李朝は全国を七つの道、その下に府・牧・郡・県をおいて地方の政治を統括した。各道には中央から地方長官を派遣し、府県の守令(知事)を監察した。李朝の地方統治では、官僚の地方権力化を防ぐため、地方官は自分の出身地に任命されない、短期間に任地を変える、特に地方長官は360日に限定されていた。また李朝は私田を没収して王室・王族・官僚群に再配分し、地方豪族化を防いだ。地域の経済成長を促進したり、個人的財産を蓄積したり、交易によって利益を得ようとするなどの経済活動は厳しく統制され、中央に対して一定の自立的力をもった地方勢力も商業勢力も育つことがなかった。

 古代の高句麗・新羅・百済の三国や統一新羅は、いずれも強力な軍事力を持ち、高麗も軍事に力を入れた。ところが李朝国家の軍事力は驚くほど脆弱であった。外国との間に生じる諸問題の解決は可能な限り政治的な外交によって処理する、国土の防衛は宗主国である中国に頼る傾向を強めた。軍人の間では不満は慢性化していたが、軍事クーデターに対して徹底した予防措置がとられ、わずかでも不穏な動きがあれば、そのたびに軍人を弾圧し、未然の鎮圧が周到に行なわれた。