戦後初の総選挙

2020年01月30日 | 歴史を尋ねる

 4月10日、戦後初めての総選挙・第22回衆議院議員選挙が行われた。「けふだ! さあ行こう投票所へ 世界の眼、結果を見守る」とは朝日新聞朝刊の見出し。世界の眼も注がれていたが、とりわけマッカーサー元帥以下総司令部は格別の関心を寄せていた、これまでに実施した日本改造政策が、憲法改正と共に日本国民に受け入れられるかどうか、占領政策の成功が保証されるかどうか、選挙結果が告示する筈だから。選挙は、大選挙区制限連記制により全国53選挙区で466議席が争われたが、名乗りをあげた政党は363、立候補者は2,770人を数えた。文字通り乱戦かつ混戦状態で、圧倒的多数を獲得する政党はないと見込まれた。前年12月、選挙法が改正され、新たに婦人と25歳以下の有権者名簿が作られ、復員軍人と引揚者の名簿が加えられた。有権者数3,615万人、うち2,025万人が女性であり、男性よりも大分多い。総司令部も、この有権者事情に危惧を持った。「『民主革命』の出発点、生かせ、この一票」 新聞がしきりに唱える「民主主義」は、たぶんソ連型民主主義すなわち共産主義と同意語に思える。現に「革命」とも言っている、と。

 平均投票率は72.75%。棄権率は男性21.48%、女性は33.07%。結果として定まった政党の獲得議席数は、自由党140、進歩党94、社会党92、協同党14、共産党5、諸派38、無所属81、計466(未定2)。予想通り安定多数を獲得した政党はなかったが、共産党は惨敗した。マスコミの熱狂的支援と豊富な資金にも拘らず、天皇制廃止を主張する共産党は、日本国民に顔を背けられた、と政治顧問部員エマーソン。アイケルバーガー司令官は日誌に「選挙は健全な結果をもたらした。日本にはまだ民主的政党が成長する時間がない。日本人がその点を理解して、党より人物に注目して投票したのは賢明である」と。

 元帥は4月13日、統合参謀本部を通じて、SWNCCの指令文書を受け取った。表題は「日本天皇制の処理」。共和国である米国としては、日本国民が望むのであれば、日本に共和政体が誕生するのを歓迎する。しかし、日本国民は天皇制の全面廃止を欲していない、としてマッカーサー元帥に方針を指示した。最高司令官は、米国の対日政策にかない日本人大部も賛成する平和な立憲君主制への移行を支援すべきである、日本国民に対して天皇制の役割に関する早期決定を強制すべきではない、天皇が普通人と変わらぬことを日本国民に示し、大御心などが表明されないようになることが望ましい、と。マッカーサー元帥は喜んだ。内容は目新しいものではなく、これまでの対日方針の指示の反復であったし、選挙結果は元帥による日本占領の成功とみなす表意と理解できた。続いて統合参謀本部は極東委員会からの電報を伝えて来た。委員会は、憲法改正問題について協議するため、総司令部の担当将校の派遣を要求した。いかなる憲法も日本国民の自由に表明された意志に基づいて採用されねばならぬとの原則にしたがい、①改正憲法採択の手続き、日本国民の参画の程度について、元帥が応えてくれることを委員会は期待する、と。マッカーサー元帥は、怒った。まるで待っていたかのように干渉と介入を企図しているとしか思えない。議長マコイ少将は何をしているのか、この動きを統制するのが仕事ではないか、と。結局少将は、バーンズ国務長官の承認を受け、委員会の不必要な介入を回避するためには、委員会を突然憲法案が議会を通過して天皇の裁可を得るという事態に直面させないこと、それには日本国民側の万全の討議と審議を行い、時間をかけて憲法を成立させてほしい、憲法が総司令部製だと思わせないことが重要だ、本職は貴下の側背を防御すると、元帥をなだめた。

 4月22日、幣原内閣が総辞職した。内閣の退陣は、本来なら総選挙直後に行われる筈だが、予想外に手間取った。4月11日、自由党総裁鳩山一郎は、自由党内閣の成立を予期して、厚相芦田均に内相または内閣書記官長のいずれかの就任を求める意向を固めていた。だが政権担当といっても、小党分立の中で自由党も過半数を獲得していない。不足分93議席をどうするか。進歩、社会一党だけとの連立では、不安定。他の一党を中立ないし友党的野党として政局を乗り切る方策を、構想せざるを得ない。しかし、総選挙の翌日、内閣書記官長楢崎渡が、幣原内閣は総辞職せずに新議会に臨むと、発表した。その理由は、政界のキャスティング・ボートを握るのは進歩党で、社会党と自由党とうまくやれる、更に自由党総裁鳩山一郎の追放問題であった。その間の経緯は詳細に亙るのでここでは割愛するが、22日、午後7時首相は参内して天皇に閣僚の辞表を奉呈した。「後はどういう事になるのか」天皇は下問し、首相は、三党首会談で政局安定の方策が纏まり次第報告する、と応え退出した。

 

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日本国民の関心「虱(しらみ)と新円と総選挙」

2020年01月23日 | 歴史を尋ねる

 昭和44年11月、児島襄は、元総司令部政治顧問部員シーボルトに占領時代の回想を求めるため、米国フロリダ州を訪れた。新憲法案、総選挙などが政治課題になった昭和21年春が話題になると、当時の日本国民の関心は、虱と新円と総選挙だった、総司令部は総選挙の結果を心配していた、とシーボルト。ウィロビー元情報部長は共産政権の登場さえ予想した、と。

 虱の脅威は、その媒介する発疹チフスの蔓延だった。旧日本軍の軍用毛布の密売が発生源だった。虱は不潔な環境に生育する。当時の日本国民は、焼け跡の防空壕や仮小屋に住む者が多く、ろくに掃除もしない場所で着た切り雀の生活を送っていた。被災しない家屋に暮らす者も、入浴や着替えがままならぬのは、同様だった。軍用毛布に付着した虱は、買った市民にたかり、市民の移動につれて、汽車、船、学校、会社、工場その他の木部にひそみ、近づく男女に這い移った。病原体は45℃、虱は60℃で死滅する。そこで衣類の煮沸による虱退治が奨励されたが、評判が悪かった。第八軍アイケルバーガー司令官は、3月7日から日本全国に「DDT」散布を指令した。具体的には、DDT粉末を、保健所員が対象物に噴射する。男性はズボン、女性はモンペの中にもDDTを射入された。日本人は白くなったが、評判は良くなかった。DDTは効かないという噂も流れ、4月5日、都民政局は患者が1704人に達したと発表した。

 新円も当時の国民の生活苦を表象するものだった。新円は、それまで流通していた円に代わる新紙幣を発行し、昂進する一方のインフレを停止さえようとする金融対策だった。通貨の裏付けになる生産に被害を受ければ、戦後の経済は紙幣の増発に依存することとなる。日本は敗戦直後からインフレの渦に巻き込まれた。大蔵省はインフレ原因を7つ挙げた。①赤字戦費による名目的購買力の累積、②戦後赤字財政の継続、③中央銀行の民間貸出の累増、④市中銀行の貸出の累増、⑤中央政権の不確立、⑥投機思惑の激化(動産及び不動産)、⑦巨大な賠償および補償の負担。更に戦後要因として、児島襄は、⑧財産税その他の税金逃れのための換物、⑨人心の弛緩、⑩生産業の不活動、⑪食料不足。このような悪条件の中で、企業と個人の生活を維持するためには、銀行は融資と預金の引出しに応ぜねばならず、それは紙幣の乱発と金融恐慌に繋がる。大蔵省は文書を発行し、破局的インフレーションの到来を予想し、政府の緊急な対策を要望した。折から、仏、伊、ベルギーなどでは新紙幣発行して旧紙幣との交換を制限する形でのインフレ対策が行われていた。大蔵省は新紙幣発行と新税を組み合わせて通貨を吸収するインフレ対策、実質的な支払猶予を含むデノミ(紙幣切替)による耐乏生活でインフレを乗り切ろうとした。2月26日、渋沢敬三蔵相は「政府の今度の金融政策は、ギブスのベッドであります。苦しい、しかも不自由極まる療法です。然し、この苦しみを耐え抜けば悪性インフレの病気は治るのです。この大病は国民全体の大病です。従って、富める者も、国民全体の自衛の為に、全国民と一律の生活に徹して頂かなければならぬのである。私は、このことを強く要請したいのです」 ひと月一人五百円での一律生活の要請だった。政策が実施されるとの噂は前年末から流れ、2月中旬になると、闇市での換物売買が激化した。第八軍憲兵司令部は、新橋の闇市場でわずか十分間に280円の作業着が1850円に跳ね上がり、銀座の闇市場ではゴム長靴が一足2500円の高値を呼んだ、と報告した。

 日銀券発行高は2月18日、618億円を記録したが、それをピークに下がり始め、新円生活が開幕した3月3日には497億円、3月12日152億円に急減、敗戦時の300億円の半分に減少した。しかしお札が減っても、生活苦は減少しなかった。新円も物の裏付けがない点は旧円と変わりがない。交換前の旧円消費ブームによる物価上昇は、新円時代になってもそのまま維持された。五百円生活は飢餓生活に他ならない、との声も高まった。3月下旬朝日新聞は重患者に与えられる牛乳1本もままならぬ、と嘆く病院長の談話や、一合七円と聞いて乳飲子を抱えて泣き伏す母親の姿を報道する。総司令部は事態を容易ならぬものと理解した。新聞の論調は新円政策の失敗として日本政府を攻撃しているが、同時に、それは日本政府を支持する総司令部に対する非難にもなる。日本国民の心理が新聞に影響されれば、総選挙で左翼が進出して反米政権が誕生する可能性も、否定しきれない。もし、総選挙で左翼政権が登場したら、総選挙介入を諦めた極東委員会が、それを足掛かりに憲法問題に干渉してくるのは、必至と見込まれる。

 ホイットニー民政局長は元帥に対策を献言した。「極東委員会に対する姿勢を明確にする必要がある。それには三日後に開かれる対日理事会を利用すべきだ。それには国務省の出先機関である政治顧問部を味方にして、国務省を動かすのが得策である」 マッカーサーは即座に受け入れた。元帥は政治顧問部を外交局に改組、名実ともに国務省の代表機関になる、そして対日理事会の活動に関し最高司令官に勧告することとした。対日理事会は、極東委員会で拒否権を持つ米、英、ソ、中国四か国の代表で構成され、その機能は最高司令官に対する助言に限定されているが、極東委員会を背景にしている以上、影響力は皆無とは言えない。マッカーサーはその影響力を除去するため、攻撃を決意した。4月5日、第一回対日理事会が丸の内で開かれた。議長は連合国最高司令官が務めることになっていた。取材を許された内外記者団も会場内に陣取った。「対日理事会の機能は、連合国最高司令官に勧告し、その諮問に応ずることである。日本管理における唯一の権威者たる連合国最高司令官の責任を分担するものではない」「総てを公にされた日本民衆は、吾が目的の誠実と吾々の示す方針に対し、全幅の信頼を寄せるであろう」そのあと、元帥は自身の占領政策の成果を自賛した。「日本政府が来るべき議会に提出せんとする憲法案は、自由主義的かつ民主主義的なものである、連合国の政策に合致する民主的日本建設の根幹をなすものである。特に重要なのは、戦争放棄条項であり、これは日本の潜在的戦争能力の破壊の理論的結果であると共に、それ以外に戦争を防止する手段がないことを訴える、世界への平和アピールである。皮肉屋は、かかる行動を空想的理念による子供じみた信念の表示とみるだろうが、現実家は、その中に深い意味を発見するだろう」 元帥は第三次世界大戦を恐れている、各国が交戦権を自国の存立権と認めている以上は国連の機能も限定される。その意味でも日本の戦争放棄が普遍化されねばならぬ、と説いた。以上を一方的に述べると、元帥はマーカット総司令部経済科学局長を議長代理に指名して、退席した。

 児島襄氏は説明する。これまで日本のマスコミの多くは、共産党指導者野坂参三に対する肩入れが示すように、共産主義も民主主義と見做して、米国は日本が社会主義国家になっても容認するだろうとの見方を流布してきた。その傾向は、検閲用に提出されたマッカーサー演説の報道記事にも見て取れる。朝日新聞は、「世界も戦争を捨てよ」「反動多き場合再選挙」などを見出しにして、元帥の対ソ対決態度については、触れていない。だが国民は演説内容を読み、将軍がソ連と共産主義を敵視していることを理解した。マスコミは困惑したかもしれないが、日本国民はその主人の意思を知った。ホイットニ民政局長とケーディス次長はマッカーサー演説の効果について検討した。ケーディス大佐は、これまでの経緯に照合して、日本国民が元帥の意向に従うのは明らかである、総選挙にもそれは反映されるだろう、と述べた。

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憲法案発表と極東委員会

2020年01月22日 | 歴史を尋ねる

 3月7日、日本国民は驚愕した。どの新聞も第一面に「憲法改正草案要綱」を報道していたが、それまで洩れ伝えられた「松本案」と180度違うもので、「これは、幣原内閣単独の力のよくなし得る所でなく、おそらく連合軍最高司令部、就中アメリカの強力な助言が役立っていると見るべき」とは朝日新聞社説の指摘だが、一般国民も同様な感触ではなかったかと、児島襄氏は推測する。この日の新聞には、要綱と共に勅語、首相談話、マッカーサー元帥声明が掲載され、勅語には「すなわち国民の総意を基調とし基本的人権を尊重するの主義に則り、憲法に根本的の改正を加え、以て国家再建の礎を定めることを希う」とある。首相談話:(天皇の)非常なる御決断を以て・・・茲に政府は、連合国総司令部との緊密なる連絡の下に、憲法改正草案の要項を発表する。マッカーサー元帥声明:この原案は、五か月前余より内閣に対する指示があって以来、日本政府と総司令部の関係当局内の忍苦に満ちた調査と数回にわたる会合の後に、初めて生まれ出たものである。以上の文言の中から、草案は米国製、少なくともそこから誕生したものである事情が浮かび上がってくる。

 総司令部政治顧問部も、びっくりした。顧問部は2点について危惧を持った。その一つは、新憲法が米国製だということ、もしこの事実が最終的に明らかにされた場合、日本国民の態度は大幅に変化するに違いない、再改正の叫びが高まり、政情の混乱が予想される。もう一つの危惧は、戦争と軍備の放棄を規定した第九条の効果であった。この衝撃的条項が、時の試練と国際間の緊張に耐えられるかどうか。自衛手段を持たない国家が、その安全を保持しようとすれば、外界に保護を求めねばならない。日本を国際紛争の渦から守る外力とは何か。政治顧問部の見解は分裂した。日本に自衛力放棄の憲法を強制したのは、総司令部民政局すなわち陸軍である。それなら日本防衛は陸軍が責任を取るべきだ、費用は日本に出させればよい・・・。しかし米軍である占領軍が日本軍化する政策は、アメリカ政府も議会も国民も承知する訳がない。国連が、との意見も出たが、賛成者はいなかった。ビショップ部員は「われわれの第一印象は、日本の非武装化だけを考える軍人の浅慮と短慮の産物だ」と。

 新聞はどうであったか。朝日新聞は憲法製作者の疑義につづいて、第九条に関する疑意も表示した。「日本が一方的に戦争放棄を憲法に規定しても、それだけで世界の平和が維持できぬことは言うまでもない。世界の現状は、平和を脅かすような事象が、なほ余りにも多く存在しているのではなかろうか」 ところがさらにチャーチル首相の3月5日の鉄のカーテン演説に見られる東西冷戦の発言に不安を表明し、日本の将来を委託できるのは国連だ、といいながら、真に依存できるのは「完全雇用の世界」以外にないと、詳述した。政治顧問部のビショップ部員は、「第九条の非現実性に注目しながら、非現実的なユートピアに解決を求めている・・・なんとも訳が分からない論説だ」と。

 政党の反応はどうであったか。共産党:天皇制が維持される限りは戦争はなくならない。 社会党:なお天皇の大権が存続していること、議会の会期及び参議院の性格と構成が不明確であることを除くと、新憲法案は評価できる。 進歩党:進歩、自由、社会各党の憲法案よりも進んでいるものであり、天皇条項も、国体変更の変更を行ったというより、天皇が権力を行使しなかった歴史的事実に即した改正であり、日本の国家組織を明確にするものである。 自由党:①天皇制の維持、②基本的人権の尊重、③戦争放棄の三大眼目は、わが党の憲法改正原則と完全に一致する。  まずは、無批判の賛意、新憲法案の賛歌に、総司令部政治顧問部は拍子抜けの想いをさそわれた。なぜ、日本人は、このように伝統に異質で押し付けと分かるような憲法案に、唯々として賛成するのか、顧問部は首をひねった。日本国民が歓迎しているのか、一時的偽態であるのか、意見が分かれた。

 3月8日、新憲法案英文はハッシー中佐が持参して、国務相に配達された。そのとき勅語とマッカーサー元帥声明も用意されていたので、中佐が運び、何れも3月11日に極東委員会に受理された。日本の民主化の基礎になる憲法改正が委員会の審査権限内の問題であることから、極東委員会はその権限の行使を決定した。①憲法審議の経過を逐一報告させる。②議会で議決され発効する前に委員会の審査が必要。③新憲法案に対する司令官の声明は個人のものであること、として、マッカーサー元帥に指示するよう国務相に要求した。更に、総選挙で新憲法案が論争の対象になるとすれば、検討に時間がないだけに草案支持政党の不利になる可能性を心配、①元帥は以上の極東委員会の危惧に同意するか。②同意する場合、元帥は総選挙の延期が可能且つ望ましいと考えるか。③同意しない場合、元帥は、今回の総選挙は日本国民の責任ある民主的政府を生み出す能力テストであり、後日さらに総選挙が行われる旨を声明する用意があるか、陸軍省経由で元帥に回答を求めた。元帥は極東委員会の質問に回答した。第一問:ノー。第二問:ノー。第三問:「全く不要。総選挙を延期しなくても自分には議会解散と再選挙を命ずる権限がある」 委員会は直ちに会議を開いたが、米国代表の議長マコイ少将が一同をなだめ、ソ連代表が留保条件を付けただけで、ほとんどの委員は同意した。マッカーサー元帥の鼻息の勝利だった、と、マコイ少将は感想を漏らした。

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斯くの如くして、敗戦の憲法案は生れる。今に見てろという気持ち抑えきれず

2020年01月10日 | 歴史を尋ねる

 2月22日、可能な限りの抵抗を試みるため、閣議後、松本国務相、吉田外相、白州次長が民政局に出かけた。草案の7項目について質問し、条文のうち絶対に必要な条文の明示を要請したが、ラウエル法規課長は、どの章、どの条文も一体をなすもので削れない、と。結局、議会の一院制を二院制にする以外はすべて拒否された。吉田外相が草案に沿った憲法案を作成し、26日の定例閣議で作業の目途をつける、と述べ、会談は終わった。首相官邸に戻り、幣原首相に報告して、松本は自身が草案をもとに憲法改正案を作ると告げた。「一応大なるイガを取り、一部皮を剥ぐ程度に、試案を作り、更に改案の余地を残す」と。

 2月26日、民政局に約束した定例会議の開催日。この日はじめて民政局草案の外務省仮訳文が閣僚に提示された。概要は承知していたが、条文現物を見てショックは格別だった。閣僚たちはこのまま押し付けられては大変だという感想を述べ、松本は「かくなる上は、日本の案をつくることになると思うが・・・」発言すると、閣僚たちは是非そうして貰いたいと賛成、法制局佐藤達夫部長を助手に3月11日に総司令部に提出ことで合意。閣議後松本は佐藤部長を呼んで、基本原則、基本形態を厳格に守って日本案の作成を指示した。すると、3月1日、民政局から強硬な督促を受けた。3月4日午前10時に必ず日本案を持参してほしい。間に合わなければ、日本文でもよい、と。民政局としては、極東委員会が3月7日に設定され、その日に日本憲法問題が討議される可能性があり、前日までに確定した憲法案をワシントンに届けたい、と考えた。

 3月4日午前10時、指定時間に松本国務相、佐藤部長、三辺秘書が民政局を訪れた。民政局側も女性1人、男性6人の翻訳者を用意しており、早速持参した日本案と説明書の英訳が開始された。作業は難航した。民政局側にとって予想外だった、翻訳の渋滞より日本案そのものだった。草案十一章九十二条を九章百九条にまとめていた。大なりイガを取り一部皮を剥いだ成果だが、民政局側は憤然とした。草案の日本語訳にひとしいものと期待していたが、届けられた日本案は随所に骨抜き工作が施されていた。一カ条ごとに相違点を指摘し、苦情を述べた。松本国務相の憤然とした。草案に沿って日本案を作れというから、そうしたのに、これでは一字一句変えるなということにひとしい。それではなぜ日本案を作成させたのか。松本国務相は不快感を抑えきれず、総司令部を退出した。午後四時頃、説明書の英訳が出来上がった。これで日本政府の憲法改正に関する意図を知ることができた。ホイットニー局長とケーディス大佐は協議し、松本が極度の保守主義者で、頑迷な封建思想の持ち主だ、彼にやらせていては、到底、最高司令官の意図を実現する民主的な憲法を完成できない、と。極東委員会の会合日は3月7日に決定、その前に憲法案を届ける計画は不動になっている。徹夜で作業を進める以外にない。午後6時、大佐は白州に告げた。「今夜中に確定案をつくることになった。ホイットニー局長は24時までに出来なければ、明朝6時まで待つ、と言っている」佐藤部長は仰天した。松本を呼びに行ったが、松本は決裂になることを恐れ、然るべくやって欲しい、と佐藤部長に伝えた。

 民政側は、日本案が抜いたイガ、剥いだ皮を出来るだけ元に戻すのが狙いで、佐藤部長と逐条交渉を開始した。民政局側は、佐藤部長の意見にも耳を傾ける様子を示したが、譲れないものは絶対だといって、はねつける姿勢を示した。そのうち、日本案と草案は相違しすぎているとして、草案に戻って作業することを提議、部長は反対した。結局草案を活かすことを趣意にする討議が行われた。佐藤部長は奮闘した。松本国務相が削った土地国有規定を、民政側に同意させた。日本を社会主義国にしたいのか、と佐藤部長がつめ寄ると、削除を承知させた。また草案には「残酷若しくは異常なる刑罰」を科さないという規定があったが、残酷でなく異常な刑罰とは何か、と部長が質問すると、民政局側は黙り込み、削ることに賛成した。民政局側の総動員態勢もあって、作業は急ピッチで進んだ。佐藤部長は日本に相応しくない部分、法律的に不適当な箇所を発見しては、異議を唱え、修正・削除・配列の順序の変更などを要求、翌日午後四時頃作業は終了した。とたんに、ホイットニー局長がニコニコして入室してきた。局長は佐藤部長、白州次長ら日本側の一人一人に握手を求め、最大級の賛辞でその労をねぎらった。

 首相官邸では午前10時閣議が開かれ、佐藤部長が届ける作業成果について、論議が重ねられた。骨抜きにしたはずの日本案が、どんどん修正され草案に近づいていく。午後4時半ごろ、白州次長から作業終了の報告があがり、確定案の成立が祝福されていると、次長が述べた。松本国務相はこのままでは重大な事態になる、といい、首相の即時の総司令官との引き延ばし交渉を提言した。だが、閣僚たちが沈黙する中で、首相の非声がひびいた。「もう一日でも延びたら、大変なことになります。ほんとうに大変なことになりますよ」 首相の両眼に涙が盛り上がり、頬を流れ落ちた、児島襄はその著「講和条約」で記述する。この時期に、佐藤部長が帰還し、作業経緯の概要を報告すると共に、総司令部が「確定案」の速やかな公表を希望している、と伝えた。

 午後5時35分、幣原首相と松本国務相は、宮中に参内した。松本国務相は出来るだけ事務的に内奏をおこなった。しかし敗北報告であるとの自責の念は消えず、時に胸が詰まって声がつかえ、説明が終わって敬礼した国務相の頭は、しばらく上がらなかった。次いで幣原首相が、閣議決定による勅語の下賜を要請した。今示される聖慮が、敗戦時のものと同じ苦渋に満ちたものであろうことも推察できた。予想通りの天皇の言葉が聞えた。「仕方がなければ、それよりほかないだろう」 大日本帝国憲法の改正手続きのうち、天皇の裁可が得られた。

 幣原首相と松本国務相は、首相官邸に戻り、閣議を継続した。閣議で改めて「米国製憲法」を日本の憲法にする当否、対応策の有無、条文の再修正などについて論議が続いた。だが、今となってはすべて愚痴に似た空論で、論議は尻つぼみになった。民政局から確定案をこの日のうちに発表してほしい、との意向が伝えられたが、幣原首相は、字句の整理、勅語の用意などの都合で翌日に延ばす旨を返事し、民政局側も承知した。

 3月6日、10時、民政局ハッシー統治課長が首相官邸を訪ね、閣議に出席中の楢橋内閣書記官長を呼び出し、英文「確定案」が日本政府案の「正式英訳」である旨の確認書に署名を求め、書記官長がサインすると、ハッシー中佐はこれからワシントンに行くといって、立ち去った。午後四時「要綱」の審議が終了し、一時間後、政府は発表した。民政局には歓声がひびき、連絡役の白州次長はその声を聞きつつ、日誌に既述した。「斯くの如くして、この敗戦最露出の憲法案は生る。『今に見て居ろ』という気持抑え切れず。密かに涙す」

 

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憲法草案の道

2020年01月09日 | 歴史を尋ねる

 日本側で民政局の憲法案を知る者は5人だった。松本国務相、吉田外相、白州終戦中央連絡事務局次長、通訳・外務省嘱託長谷川元吉と報告を受けた幣原首相。他の閣僚に知らせず、草案コピー15部は厳重に保管されていた。しかし日本国内では憲法改正論議が盛んであった。焦点は天皇制の存廃で、廃止を主張するものが多かった。すべての元凶は天皇制で、悪裁判、悪官吏も天皇の責任であるといった論も横行した。外国に嗤われる短絡的論法だと、重光元外相は慨嘆と憤慨の思いを手記していた。建国以来の屈辱である降伏文書の調印によってあらゆるものを喪失する日本民族にとって、最後に残されたのが天皇制であり、それは日本の誇りでもある。日本も米国並みに大統領制を採用せよとの声があるが、米国型大統領制は自己主張を基調とする民主主義の極致である。軍閥の盛んな時は軍閥に追従し、進駐軍が来れば直ちに之を謳歌する事大精神を持つ日本国民には、その制度の運用は不可能だ。天皇制は無血で終戦を迎えたように、大統領制には見られない国政を円滑に政治闘争を緩和する作用がある。日本においては、天皇制が右も左も均しく政治的に活動し得る、民主的政治を動かし得る唯一の制度かもしれない、従って、重光外相は憲法改正には第一条と第三条が不可欠だと判定した。この想いは、松本国務相も共有した。

 松本国務相は、草案を熟読し、受諾不可能の判断を強め「押し戻し」を決意した。天皇条項や軍備放棄条項はむろんのこと、そもそも国家の基本法である憲法を、十分な研究と国民の意見を求めず決することは出来ない。共産党独裁体制のソ連でさえ、52万回の討議を経て、43ヶ所の修正を行って可決した。民主国日本の憲法は、より一層、民意のふるいにかけられるべきだ。この道理を米国側、民政局にもわかるはずだ、として、白州次長に書簡を民政局に届けさせた。これに対して民政局は、日本側の改革に対する勇気の欠如の告白にすぎぬ、と判定され、ケーディス大佐が直ちに返書を送った。

 民政局草案には、天皇制を保持し、日本国民に対する基本的人権と日本が国際社会での道徳的リーダーシップをとる機会を与える、というマッカーサー元帥の意図が盛り込まれている。もしこの草案に措置がとられなければ、外部から別の憲法が押し付けられる可能性があり、その場合の憲法はよほど苛酷なものが予想される、日本の伝統と体制さえも洗い流してしまうものになる、と。松本国務相は説得の希望を捨てなかった。抽象的な脅しにすぎない。松本は憲法改正案説明補充を書き、2月18日、その英訳を民政局に届けた。民政局草案をひっこめて松本案を討議してほしい、と。ホイットニー局長は、怒った。まるで、マッカーサー元帥と民政局の努力が、鼻の先であしらわれた、と。局長は、元帥は先日手交した民政局草案の諸原則についての日本国民の判断を求めている、それらの諸原則が48時間以内に内閣によって国民に提示される通告を受けない限り、最高司令官は、直接日本国民にこの憲法を示し、来るべき総選挙の主要論点にされる、と。局長は背を向け、次長は横を向いてアゴをしゃくり、白州次長の退席を促した。48時間の期限付き最後通告であった。

 2月19日、臨時閣議が開かれ、全閣僚が顔を揃えた。閣僚に概要を告げただけで衝撃を与えた。まるで開戦前のアメリカの最後通告なみじゃないか、と。幣原首相は、自分としては受諾できない旨を述べた。民政局草案を日本語に訳してそのまま日本憲法にすることは誰も予想も想像もしてこなかった。アメリカ案を反駁するには、他の閣僚も意見を述べて、内閣案を作ったら、党首会談を開く余裕はない、アメリカ案を基礎にした修正案をもう一度作る、と論議はつづいた。結局幣原首相がマッカーサー元帥に直接談判することとして、期限の延期をホイットニー局長に申し出た。局長は即諾した。

 2月21日、幣原首相がマッカーサー元帥を訪問した。首相は草案について種々所見を述べた後、閣内に意見の対立があって受諾が困難である、命令または指令を発出されてはどうか、と元帥に告げた。元帥は民政局のメモに従って、「天皇の考えを聞いたか。もし聞いていなければ、聞いてはどうか」 首相は沈黙した、と。

 2月22日、首相は閣議で元帥との会談内容を報告した。ほとんどの閣僚が熱心に発言したが、結局は民政局草案は拒否できないとの結論に達した、天皇象徴と戦争放棄二つを承認しないと、さらに何かもっと大きいものを失う恐れがある、煮え湯を飲まされる気持ちで、この案に沿って考えを纏めて行こうということになった、と参席した法制局次長入江俊郎は述懐した。

 

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国家的武装解除の固定化と対日四か国管理案

2020年01月06日 | 歴史を尋ねる

 回り道をしたが、ここで本来の戦後日本の歩みの戻ろう。日本の歩みというのは適切でない。歩き方を教えて貰っている、矯正されている、といった方が当てはまるか。児島襄著「講和条約」の戻る。1921年2月13日、米国側憲法草案が日本側に手交されたまでが、前回であった。

 そのころ、対日講和条約の締結時期に関するニュースが相次いだ。ニューヨークタイムズ紙は、米国は連合国に対し、ドイツおよび日本との平和条約を今後2年4カ月以内に締結する旨の提案を行う、日本との条約は対独条約完了後6カ月以内に着手される、と報道した。すると三日後バーンズ国務長官の声明を伝えた。日本が隣国と平和状態に入り得るまでには、十五年またはそれ以上の年月を要するから、連合国の占領期間もその程度に及ぶかもしれない、と。講和は昭和22年夏までに成就し、占領は昭和35年頃まで続くだろう、と。外務省の平和条約問題研究幹事会はバーンズ声明にうなづき、同様の占領期間を想定した。

   第八軍司令官アイケルバーガー中将は新年を迎える1分前に、第六軍引き上げに伴う日本占領の軍事的責任を負わされた。第八軍自体の兵力も減少し、1月1日現在24万人の軍隊が8月には10万人になる予定。約8千万人の日本人に対してわずか10万人。総司令部参謀長マーシャル少将は、日本人は虎だと思っていたが、虎の皮を着た羊だったわけだから、中将は首をふり、虎の皮をかぶっても羊は戦えない、虎のように戦えるのは虎だけだ。15年の占領など危険すぎる、と。

 総司令部政治顧問部は、国務相の出先機関であった。バーンズ長官の一年半後講和論の実現には前提が必要だとして、2月13日、ビショップ部員が献策電を打った。過去5カ月間の占領で言論の自由その他日本の民主化の基礎措置が実現されたが、なお日本人が真の民主的良心を持てるかは不安である。日本人には次のような欠点がある。①自由の歴史的経験と個人主義の個人的体験が欠如、②米国が与える自由の未来像が理解できない、③政治的には未開発国民で、未経験の責任を負うことに躊躇し、感情に支配されがち、④他のアジア諸国民と同様に、東洋的排外主義、残存する国家主義グループ、共産主義者の武力革命運動が、民主化阻害要素になっている。以上を考慮すると、長官の早期対日講和声明の実現には、高度の政策の設定が前提となる。日本の民主的改造も制度を変えても、国民が民主心を身につけるには時間がかかる。米国として、どの程度まで負担に耐えられるか、あらかじめ策定しておく必要がある、と。

 バーンズ長官は思案した。米国の世論はまっしぐらの平時への復帰を主張し、海外派兵に反対している。この中で軍事占領を長期に継続するのが困難、同時に日本を野放しには出来ず、日本の国家的武装解除を固定化するためには、武力を伴う監視と管理が不可欠。2月22日、バーンズはトルーマン大統領に対日非武装非軍事化条約案を届けた。ドイツの四国管理にならって、講和後の日本の軍国化を防止するための対日管理条約を米、英、ソ連、中国間で結ぼうという構想だった。この条約の有効期間は25年間であった。

 トルーマン大統領は統合参謀本部に見解を求め、本部は即座に反対意見を表明した。米国にとって、対ドイツ勝利は連合国の一部としてのもので部分的であるが、対日戦は米国主体の完全勝利である。その戦勝形態の基づくものであれば、日本には当てはまらない。四か国管理はソ連が北海道、本州が米国、四国が英国、九州が中国にもなり、米国のアジア、太平洋における優位を放棄するものである、と。

 国務長官はなお自提案を留保した。問題は講和条約締結後の日本をどうするかである。①講和締結後、米軍は日本から引き揚げる、②無期限に占領軍を駐留させる、③四か国管理条約を採用する。つまり、自説の再主張であった。極秘に各国に打診を始めていた。この問題は、日本が自発的に永久に軍備を撤廃すれば解決するが、よもやその旨を規定した憲法が東京で作成されようとしているとは、バーンズ国務長官は夢想外であった。その意味で、国務長官構想は、そのシャットアウトの産物だった、と児島襄氏。

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回り道 ウォーギルト・プログラムと天皇の処遇

2020年01月04日 | 歴史を尋ねる

 コーデル・ハルはフランクリン・ルーズベルト大統領の下で1944年11月に健康問題で辞任するまで11年9カ月間、国務長官を務めた。大統領は辞任に際して、「彼は平和のためにこの大きな計画(国際連合設立)を達成するために最も尽力した一人である。」と語った。そして翌年、ノーベル平和賞を受賞したことは既述済みである。しかし日本にとってはハル・ノートを提示したことで記憶に残る人物であるが、対日戦後政策に影響を及ぼしたことを、高橋史朗氏は跡づける。ハル国務長官は在任中日本の特異さを強調し、「日本の軍国主義は国民の伝統に基づいているという点においてドイツとイタリアとは異なる」ドイツのナチズムやイタリアのファシズムと日本の愛国心を区別し、日本の軍国主義は日本の伝統を区別できない、と言っている。ホルトムの「軍国主義と日本の伝統文化」の混同がハル長官にも受け継がれていた、と高橋氏。そして、ハル長官の補佐役であった中国派に属するハミルトンは、対日占領政策を検討していた委員会に、勝者(アメリカ)の考えをメディアを通して普及させる「再教育・再方向づけ」の方針を採らせた。日本への積極的介入をを良しとしない親日派・穏健派は敗れることとなった。この結果、1945年7月19日、「日本人の再方向づけのための積極的政策」という文書が出され、それが9月6日に出された文書SWNCC554「米国の初期の対日方針」に受け継がれ、9月17日GHQ情報頒布部の「日本人の再教育プラン」が発表された。

 CIE(民間情報教育局)は戦後教育改革を担当、その中でメディアを利用した宣伝活動の企画立案は企画作戦課であった。この課は日本人の戦争犯罪を徹底して強調していった。また、マッカーサーに対し、放送を活用した日本人再教育プログラムを実施する幕僚部設置を進言、これを受けてGHQの情報頒布部が出来た。そのトップに就いたのが、米太平洋陸軍情報宣伝部の心理作戦課長だったボナー・フェラーズであった。情報頒布部の最教育プランでは、例えばラジオ番組「真相はこうだ」の放送目的は、日本国民に対し、戦争への段階と戦争の真相を明らかにし、日本を破滅と敗北に導いた軍国主義者のリーダーの犯罪と責任を日本の聴取者の心に植え付けること、と書かれていた。

 また、フェラーズは天皇の処遇についても、関わっていた。高橋氏はスタンフォード大学に保存されているフェラーズ文書から発見している。日本兵の心理というレポートで、日本兵の心理は日本人の心理であり、愛国心と神道は不可分、国家的危機に際して、日本人にとって神道は純粋の形で脅威的な力となり、愛国心は他の国よりも大きな意味を持つ、そこで天皇および日本国民と軍国主義者の間にくさびを打つ必要があると提案して天皇の処遇についてマッカーサーに電報を送った。この電報によって天皇を戦犯にすることが取りやめになった、と。

 当初、アメリカ上院は「天皇を戦争犯罪人として処刑する」ことを全会一致で決めていた。そしてマッカーサーは議会から天皇に戦争責任がある証拠を集めるよう命じられた。その証拠集めを担当したのがファラーズだった。マッカーサーは調査の結論を1946年1月25日付でアメリカ陸軍省宛てに極秘電報で送った。高橋はその両方の電文を比較して、フェラーズ電文の影響がはっきり見えると分析している。マッカーサーは「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。その結果もたらされる事態を鎮めることは不可能である。連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の憎悪と憤慨は、間違いなく未来永劫につづくであろう。・・」 もう一つの事実として、マッカーサーに宛てて書かれた日本国民からの膨大な数の直訴状の存在があった、と高橋氏。日本人はすぐに直訴状を送りたがるところがあるようだ、と。何々先生は軍国主義の授業をしていましたという教職追放を求める無数の直訴状が、段ボール八箱分高橋は見た、と。そんな中で、東京西荻窪に住んでいた婦人は、毎日のように天皇に戦争責任はない、天皇の代りならば私が喜んで命を差し上げますと書かれた血判の押してある膨大な量のはがきを出していた。不思議なことに、いわゆる右翼の人たちはこういう直訴状を出していない。直訴状を送った人たちの中でとくに多かったのは婦人だった、と。マッカーサーは天皇に対する国民の直訴状だけは翻訳して見せろ、と指示していた。

 天皇の起訴を取り止めにした決定打となったのは、有名な天皇とマッカーサーの会見だった。高橋は昭和天皇に英語を教えたヴァイニング夫人から、その時の通訳者(夫人の友人)がYou may hang meを通訳した、と。天皇はマッカーサーに私を絞首刑にしてもいいから、日本国民を救ってほしい、と言った。この言葉によってマッカーサーは昭和天皇の人間性を理解し、会見前と会見後の態度が一変した。ベネディクトも象徴天皇制の維持を推奨した。タイム誌には、ベネディクトが天皇を救ったと大きく報道した、ようだ。

 

 

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