回り道 陸大閥

2016年07月14日 | 歴史を尋ねる
 大正13年(1924)6月、加藤高明を首相とする護憲三派連合内閣が成立した。日本の内閣史上初めて、総選挙に勝利した第一党の党首が政権を担当することになり、これから8年近く、昭和7年の五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されるまで、政党内閣制、二大政党時代の扉を開いた。しかしその裏で、加藤内閣に陸軍大臣として留任した宇垣によって、宇垣軍縮の名の下に、軍隊は減らした代わりに、軍隊の外で学校教練、青年訓練を組織化し、文字通り国民皆兵を実現した。当時の宇垣の日記に「国民の国防精神を高揚し、国防実力の充実を図らねばならぬ。即ち国民の協同一致の精神、国家皆兵の精神、国家総動員の精神の実現を図らねばならぬ。軍備の縮小さるるだけ、その反対にこの精神は高潮せねばならぬ」と。
 加藤高明内閣は、功罪両面を併せ持った内閣だったと、永原実氏は解説する。25歳以上の男子なら、誰でも選挙権を持てるようにした普通選挙法を実現したが、悪名高い治安維持法を作ったのもこの内閣だった。従来国税10円以上納付者が選挙権を有していたが、この納税制限を取っ払ったので、有権者は一挙に4倍に増えた。従来は氏素性の正しい者が選挙権を持っていたのに、これでは共産主義者、無政府主義者も議会に出てくる、こうした枢密院や貴族院の反対をかわすため、危険思想の取り締まりは厳罰で抑えると、抱き合わせで造られたのが治安維持法だった。
 もう一つ見逃してならないのは、陸軍上層部が派閥抗争にしのぎを削っている間に、新しい勢力、陸軍大学校卒業生による陸大閥が生まれたことだと、永原氏。昭和の日本を支配したのは陸軍軍閥だったが、その実態は陸大閥で、満州事変、支那事変、太平洋戦争と戦火を広げていったのも、陸大の出身者だった、と。陸軍大学校は日本陸軍の最高学府で、士官学校出の成績優秀者に参謀教育をする学校だった。ここを出れば将軍は約束されたのも同然と云われたエリート集団で、陸軍省や参謀本部の部長、課長といった主要ポストは全員が陸大出、職務権限を握った者が横に連絡を取り合いスクラムを組んだから、陸軍を動かす大きな力を持った。そしてこの陸大閥の誕生のきっかけが、バーデん・バーデンの密約といわれるもので、永田鉄山、小畑敏四朗、岡村寧次の三人の少佐だった。いずれも軍刀組と云って、陸大を優秀な成績で卒業し天皇から恩賜の軍刀を授けられた者ばかりだった。
 大戦後のヨーロッパをその目で見た三人は、戦争が国家のあらゆる資源を動員しての総動員戦争、全体戦争の時代になったことを実感、日本もそうした戦争に勝ち抜ける体制を作らなければダメだ、それには陸軍を改革することだ、先ず第一に派閥の解消、長州閥の打破を申し合わせ、陸軍の人事を刷新する、自分たちが陸軍省や参謀本部の中心に座ろう。ライプチヒにいた一期下の東条英機も取り込んで、帰国した四人組は相次いで陸大の教官となり、陸大から長州出身者を徹底的に締め出した。長州締め出しがどのくらい徹底していたか、陸大の卒業生名簿を見ると大正11年から昭和8年まで11年間、長州出身者は一人もいなかった。

 ヨーロッパから帰国した永田たちは同志20人を集めて二葉会という研究会を作った。さらに若手の研究会木曜会に声をかけ、会員42名の一夕会という大きな組織となった。大きな特徴は、全員が陸大卒業生、それも優秀な成績で卒業した者ばかりであった。第二が幼年学校卒業生で固めた。第三に陸軍省や参謀本部などの勤務者。第四は長州出身者が一人もいない。大正デモクラシーの出発点となった護憲運動のスローガンは「閥族打破」、この「二葉会」も「一夕会」も、スタートは「長州閥打破」。そういう意味では陸軍の革新を考えた彼らも時代の子だったかもしれないと永原氏。そして宇垣も陸大閥も共に総力戦を勝ち抜くための国家総動員体制を目指したのに、宇垣が一夕会から排斥されたのは、宇垣が田中義一に可愛がられ、長州閥の跡目を継いだと見做された。この時期一夕会は、宇垣軍縮の中で孤立している真崎甚三郎、荒木貞夫を盛り立てて行こうと申し合わせた。やがて「一夕会」は永田と小畑の主導権争うから分裂し、統制派と皇道派の対立に発展、青年将校たちが皇道派将軍の真崎や荒木を担いで二・二六事件へと発展する。陸大閥はみんな頭もよく、国を憂える気持ちも人一倍強かったが、それが陸軍部内の主導権争いならコップの中の嵐ですむが、日本の不幸は、彼らが政治を動かし、日本を動かそうとしたことにあったのだと永原氏はいう。関東軍が満州軍閥の張作霖の乗った列車を爆破した「張作霖爆殺事件」、この事件を起こした河本大作大佐も「二葉会」会員だったし、満州事変を起した関東軍参謀の板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐も「一夕会」の会員だった。

 出先の軍隊が勝手に火をつけて騒ぎを起こし、拡大して行く。昭和の日本を戦争へと引っ張った一番大きな罪は、この陸大閥にあったが、それは陸軍大学校という非常に狭い、限られたエリート選抜システム、その制度に欠陥があったと永原氏。
 欠陥の第一は、卒業生が毎年三、四十人と非常に少ないから、結束も強い代わりに、身内同士のかばい合いが生まれた。昭和3年の張作霖爆殺事件で河本大佐を軍法会議びかけようとした時、強硬に反対したのが二葉会だったという。昭和天皇に関係者の厳罰を約束した田中義一首相は、陸軍の反対でそれが出来ずに内閣総辞職に追い込まれた。河本大佐を軍法会議にかけて、厳正に処罰していたらその後の陸軍の暴走は防げた、一度越権行為を見逃せば、次々と発生する越権に歯止めが利かなくなってしまったというのが歴史上の反省点として、一般化している。なぜ田中義一首相がその時決断できなかったか不思議に思っていたが、長州閥である田中には軍部を抑えるだけの力が既になくなっていた、そこまで陸大閥が力をつけていた言えそうだ。
 欠陥の第二は陸大教育の欠陥、ここでは実践にすぐに役立つ参謀教育を重視したため、教えたのは69%が戦略、戦術で、後は戦史だった。政治に関する学科はゼロだった。第一次大戦で帝国主義が否定され、紛争の平和的解決機関として国際連盟が出来た。そうした国際政治の流れは常に教えていなければいけなかったし、大局的な物の見方を育てるべきだった。ところが陸大では一旦固めた決心を断固貫く、妥協を排する考え方を良しとしたが、政治も外交も妥協が付き物です。妥協を排し、戦って勝つことばかり教わってきた人たちが軍の中枢を握り、政治に口出しするようになったから、陸大教育の欠陥は大きかった。
 欠陥の第三は、陸大閥イコール幼年学校閥の弊害、幼年学校の語学はドイツ語、ロシア語、フランス語の三か国語に限られ、英語は教えてなかった。日本の陸軍は最初はフランス式、やがてドイツ式に切り替わり、ロシアは常に仮想敵国であった。英、米は海軍国だし、英語は中学から士官学校に入る者で十分だと考えられた。結果的には陸軍の主流を占めた陸大閥は、幼年学校閥でもあったので、ドイツ崇拝、英米軽視の風潮が強くなってしまった、と。陸大卒業生のうち、成績優秀な一割くらいが諸外国に行った。ドイツが150人と圧倒的に多く、フランス90人、ロシア80人に対し、英国は55人、米国は40人と、極めて米国に薄い海外駐在システムだった。

 第一次大戦後、総力戦の体制作りは、世界の指導者の常識となった。それは宇垣や陸大閥が考えたように軍事優先、軍部の都合のいいような体制づくりではなく、ワシントン会議をまとめた加藤友三郎は、国防は軍人の専有物に非ず、戦争は軍人だけでは出来るものではない、民間工業力を発展させ、貿易を奨励し、国力を充実させておかなければならないといった、と。フランスの首相クレマンソーは「戦争、そんな大事なことを軍人なんかに任せておけるか」と。総力戦になればこそ、外交がますます大切になる。まず戦争をしないですむ努力が必要だし、政治、経済、社会のあらゆる方面に配慮し、調整して行かなければならない。それは政治が軍事をリードして、初めて出来ることだ、と。力のある政治家が相次いで姿を消したことが残念だったと永原氏は振り返る。原が健在だったら、恐らく陸海軍大臣の文官制が実現したでしょうし、政党政治ももっとシンのある、しっかりしたものになったでしょう。実行力のある山本権兵衛内閣がシーメンス事件で倒れたのも痛かったし、見識のある加藤友三郎が病気で、短命内閣に終わったのも残念だった、と。

 

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1 コメント

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Unknown (奥 雅貴)
2024-07-06 01:53:07
はじめまして。私は陸軍の派閥に関心がありまして、調べ物をした際にこちらのブログにたどり着いた次第です。主さんのお考えを伺いたく質問コメントさせていただきました。ご対応いただけると幸いです。

1.東条英機らは長州閥排除を目指しバーデンバーデンの密約を交わしました。密約によりしばらく長州からは陸大試験合格者が出ませんでした(当時東条らは陸大教官)。仮に山県有朋や寺内正毅が存命でも密約の実行は可能だったのでしょうか。

2.また、当時の陸軍上層部の長州出身者には田中義一や長谷川好道などがいました。彼らが陸大試験の結果に口を挟んでくるおそれはあったのでしょうか。

よろしくお願い致します。
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