内田康哉という漢

2016年09月03日 | 歴史を尋ねる
 東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務中に一時、臨時代理公使・オーストリア公使兼スイス公使・アメリカ大使・ロシア大使などを歴任し、第4次伊藤内閣の外務次官を務めた。第2次西園寺内閣、原内閣、高橋内閣、加藤友三郎内閣に於いて外務大臣を務める。特に原内閣以降、パリ講和会議やワシントン会議の時期の外相として、ヴェルサイユ体制、ワシントン体制の構築に関与し、1928年の不戦条約成立にも関係するなど、第一次世界大戦後の国際協調体制を創設した一人であった。

 1930年(昭和5年)に貴族院議員、1931年(昭和6年)に南満州鉄道総裁に就任。同年9月の満州事変には不拡大方針で臨んだが、満鉄首脳で事変拡大派の十河信二の斡旋によって関東軍司令官・本庄繁と面会したのを機に、急進的な拡大派に転向する。斎藤内閣では再び外務大臣を務め、満州国建設を承認、1932年(昭和7年)8月25日、衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と答弁(焦土演説)。質問者の森恪は武断外交の推進者として知られるが、さしもの森も仰天し答弁を修正する意思がないか問うが内田は応じなかった。1920年代の国際協調の時代を代表する外政家である内田の急転向は、焦土外交として物議を醸した。当時の外交評論家清沢洌は「国が焦土となるのを避けるのが外交であろう」と批判した。1936年(昭和11年)3月12日、二・二六事件の15日後に死去。70歳没。その生涯について、岡崎久彦氏は「彼についての記録から彼の思想信念を知ることは難しい。おそらく特に哲学のない単なる有能な事務官僚だったのだろう。したがってその行動も時流とともに変わっていく。その意味で内田の意見は、時の国民意識の変化を代表しているといえる」と評している。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない、と。外相在職期間通算7年5か月は、現在に至るまで最長である。

 日本側は中国を批判する際、統治が全域に及ばず、共産軍も跋扈していると述べることが多かったが、1932年5月、リットン調査委員会は3月に会見したばかりの犬養首相が海軍青年士官に官邸で暗殺された報を聞くことになった。軍部を抑えられない日本は、安定した政府と言えるのかと反問されれば、返す言葉のない社会不安のただ中に日本はあった。天皇は後継首班奏薦に当たる西園寺に希望を伝えた。①人格の立派なもの、②政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛出来る人格者であること、③協力内閣・単独内閣は問わず、④ファッショに近きものは絶対に不可、⑤憲法擁護、の五点であった。西園寺は斉藤実(前朝鮮総督、海軍大将)を奏薦、5月25日斎藤内閣成立、外相は内田康哉。この時期、議会は対外的に強硬な姿勢を見せた。6月14日、衆議院本会議で、政友・民政共同提案の満州国承認決議は全会一致で可決された。満鉄総裁時代から関東軍の行動に協力的であった内田外相は、早くから満州国独立・満州国承認論を論じていた。所謂焦土演説(国を焦土としても満州国を承認する)は8月25日の議会において。9月25日、日本政府は日満議定書を調印し満州国を承認した。内田は、日本の行動は自衛であり不戦条約には違反しない、また満州国の成立は中国内部の分離運動の結果であるから九か国条約に違反しないと述べた。軍の論理とまったく同じことを内田は言っている。リットン報告書の公表直前、満州国を単独承認した。挑発的ともいえる日本のやり方は、連盟の日本代表部のほか、朝鮮総督の宇垣一成などからも批判があった。しかし、日本軍を駐屯させ、交通機関を掌握し続けるためには、満州国を承認し、同国と条約を締結しなければならないという主張が、次第に説得力を増した、と。もはや後戻りできないところまで来てしまったということか。
 日満議定書は、①満州国は、これまで日支間に締結された条約、協定などによって日本国や日本人が有する権利利益を確認し尊重する、②日満両国の共同防衛のため日本国軍は満州国内に駐屯する、の二点からなっている、と。これまで頭痛の種であった、併行線禁止条項の是非に終止符を打ち、条約2条で認められていた商租権を初めて可能とするものだった。と言って、議員たちに、満州国承認、連盟脱退のストーリーまで考えていた訳ではなかった、と加藤陽子氏はいう。外交官から衆議院議員に転じた芦田均は、満州国承認は当然としても、日本は勧告に応じないと毅然としていれば良い、と。東京帝国大学教授で宮内省や外務省の法律顧問であった国際法学者の立作太郎は、制裁の可能性を避けるため脱退すべきと説く者が多い中で、報告書に依って勧告を受けたとしても、勧告そのものに法律上の義務違反となることはない、よって日本は受諾しないとの立場を取ればよい、と。ただし、新しい戦争を始めたら、制裁が適用される、と。この論点は、熱河作戦に際して大問題となった。

 加藤陽子氏は当時の内田康哉外相の真意を次のように推察する。内田の対満政策は強硬だったが、対中政策全体は強硬であったことを意味しない。内田は中国内部の権力対立を注視していた、と。32年4月、先に行政院長であり立法院長であった孫科は「抗日救国綱領」を発し、連米、連ソを唱えていた。5月、汪兆銘が行政院長を務める行政院は、国民党中央政治会議に、即時対ソ復交を求めた。しかし国民党中央政治会議は、当面不可侵条約だけをソ連と締結し、ソ連の対中宣伝を阻止する案を決定し、行政院の案を退けた。更に蒋介石は6月中旬、政・軍首脳部を秘密裏に集めた会議で、「攘外必先安内(共産軍を打倒した後、日本にあたる)」方針を決定し、帰任する蒋作實駐日公使を呼び、「日本に対しては提携主義を採る」との方針を日本側に伝えさせていた。6月、蒋介石は第四次剿共戦を再開した。8月24日、蒋介石は蒋作實に対して「もし日本当局に方針を多少変更し中日間の親善を改めて図る転機があるなら、中国は直ちに交渉を開始することにする。(略)私は責任を持ってこのことに当たる」との極秘電報を送った。内田はこうした蒋介石の意向を知ったうえで、焦土演説をした、と加藤氏。内田は、ソ連に融和的な孫科などの勢力を排し、蒋・汪合作政権が満州国を事実上認める線での日中直接交渉へと誘導されるのを期待していた。また、中国側が連盟の頼りにならないことを承知しつつも、国民の手前を繕う必要がなくなるよう、中国側を日中直接交渉に誘導すべく、連盟の日本代表に指示を与えていた、と。松岡洋右が首席全権としてジュネーブに到着以前の経緯であった。松岡は事前に承知していなかっただろう。

 連盟特別総会は32年12月に開かれた経緯は前回触れた。12月9日の総会討議を踏まえて、早い解決案を提出するよう十九人委員会に求めた。15日、委員会は決議案の草案を書き上げた。連盟の日本代表が、米ソを加えた和協委員会案での解決を政府に具申したが、内田は一カ月以上も反対し続けた。内田にしてみれば、米国が出てくれば、せっかくの国民政府内の直接交渉気運が吹き飛ばされると、懸念した。内田の一月の電文は、支那側の他力主義を刺激する、米露招請は愚策と決めつけた。陸軍代表の建川美次さえ賛成した妥協案を内田が葬った瞬間であった、と。内田は脱退せずに済ます自信があった。天皇にそのように奏上した。天皇は信用しなかったが。連盟事務局による妥協案や英国外相サイモンによる最後の妥協案も日本の反対にあい、2月6日、十九人委員会の採択を経た第15条の勧告は和協案よりも厳しいものになった。中国のボイコットに対して、満州事変以降のボイコットは「復仇行為」として認定、中国側に一切責任はなかったとした。
 政党も内田外相も、連盟脱退は考えていなかった。松岡も連盟との妥協を追及していた。専門外交官の中に、脱退論が早くから見られた。小国の意向に拘束される連盟を離れ、事態の鎮静化するのを待って、満州問題の解決は大国間の協議で進めるのが良い、と。歴史の事実は、各国がすぐさま満州のことを忘れた。戦債支払いをめぐる英仏の対立、ヴェルサイユ体制へのドイツの異議申立て、軍縮をめぐる英仏の対立など、問題は山積していた。もう一つの脱退論は、国際法学者立作太郎の第16条制裁問題であった。第15条の和解や勧告を無視して新しい戦争に訴えた場合にだけ、16条の適用が始まる。問題は関東軍が満州国を完成させるため、彼らの認識において満州国の領域に入ると見做してた熱河省で戦闘を始めたらどうなるか。中国は勿論英米列国もまた、熱河省での戦闘は新しい戦闘と見做すだろう。そうなると制裁や除名の恐れが出てくる、このように考えた斎藤内閣の内側から、脱退論が急速に高まった。

 33年1月13日の閣議で、斉藤内閣は熱河限定での作戦を了承した。内田外相も熱河問題は純然たる満州国内部の問題であるとの見解を帝国議会で述べている。既定の計画内であるとの感覚は、参謀総長と天皇の間にも共有されていた。参謀総長の上奏に対して、天皇が許可を与えた。事態は2月8日に動いた。連盟の手続きが和協案から勧告案へと移行したことが内閣に伝えられると、斉藤首相は、熱河攻撃は連盟の関係上実行し難いので、内閣として同意できない、午後の閣議で相談すると、天皇に伝えた。斉藤の奏上に驚いた天皇は、取り消しを命じようとした。侍従武官長の奈良は決定が間違ったならば、内閣が天皇に頼ろうとするのは筋違い、閣議決定を修正すればよいと答えている。熱河作戦は撤回できない。第16条の適用もありうるかもしれない。ならば速やかに脱退すべきだとの方針を内閣は取った。2月20日の閣議は、連盟総会が勧告を採択した場合の脱退を決定した。22日、日本軍は熱河侵攻を開始、24日、総会出の勧告案採決は、賛成42、反対1、棄権1。3月4日、熱河省の省都・承徳を陥落させた。
 

 
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松岡洋右という漢 | トップ | 脱退を日本人は大喜びした »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありがとうございます。 (sakesaku)
2019-08-17 10:48:26
参考になりました。
内田外相と松岡洋右の関係性を調べています。
この情報は独自の編集した文章でしょうか?
どちらかの出典による情報でしょうか?
教えて頂ければ、ありがたいです。
今後とも勉強させてください。
よろしくお願い申し上げます。
Unknown (Unknown)
2019-08-25 15:50:02
返事が遅くなり失礼しました。まだこのブログの使い方もよく分からず、掲載しています。引用文献を探していましたが、不明です。図書館の文献を頼りに、構成しています。手がかりとしては、1、岡崎久彦著「重光・東郷とその時代」 2、渡部昇一監修・編「リットン報告書」 3、福井雄三著「よみがえる松岡洋右 昭和史に葬られた男の真実」などです。今わかるのは以上ですが、もう少し時間をかけて調べておきます。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

歴史を尋ねる」カテゴリの最新記事