戦火絶えざる社会をつくった根本原因と反日悔日の挑発にはめられた日本

2022年09月26日 | 歴史を尋ねる

 

 日本人の知っている中国は、漢文の世界、論語の世界、そして中華人民共和国の世界ぐらいで、最近やっとユーチューブの世界で、中国の生情報に触れられるぐらいである。中国の歴史を学んだとしても、易姓革命の中国の歴代国家の変遷を知るぐらいで、後は遣隋使、遣唐使での文物の導入ぐらいか。生情報に触れる機会は本当に少ない。さらに戦争中から以降はプロパガンダ情報が飛び交い、実状を知る機会が意外と少ない。そこは黄文雄氏、率直に中国の歴史を紐解いてくれるので、「日中戦争は侵略戦争でなかった」「近代中国は日本が作った」という著書を手掛かりに、もう少し中国を掘り下げていきたい。

 220~316年◆三国時代から五胡十六国時代へ 「悲惨な時代だった三国時代」という章立てで、後漢末の2世紀中ごろ約5000万人を数えた人口が三国時代の初期には3国合わせて約500万人に激減している、とある。これは『時代の流れが図解で分かる! 早わかり世界史』宮崎正勝著にある。飢饉に喘いだ時期で、184年に大農民反乱・黄巾の乱がおこり、後漢が衰退して、群雄割拠の時代に入っていった。洛陽の近辺でも「人あい食み」「老弱は道路に棄てられる」という悲惨な状態となった、と解説する。それにしても5000万人から500万人はいくら何でもないだろうとウキペディアに当った。「当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口は大きくその数を減らしている。例えば、後漢末の恒帝の永寿3年(157年)に5648万を数えた人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である。数値が減った理由として、上述の要因の他に、屯田民は地方官ではなく典農官の管轄であったため郡県の人口統計に上がらなかった、流民が戦乱を避けて流浪中に豪族の私民になり戸籍を外れた、など統計漏れが増えた可能性も指摘されている。しかしそれでも、大陸の統一が崩れてから再統一がなるまでに、それ以前の中国史上の前例である秦末(楚漢の攻防)や前漢末(赤眉・緑林の乱)とは比較できないほど時間を要していることや、この時代の少し後に大陸周辺異民族の大規模な集団移住(五胡十六国)が起きていることから、やはり、数値は額面どおりではないにしても、相当程度の人口減少と人口希薄地帯の登場が起こった、とする見方もある、と解説する。当時中国では戸籍制度が出来上がっていた。その戸籍からの推計である。この辺の解説を、黄文雄氏は次のように言う。
 中国の内戦・内訌の根源的な原因は、有限資源の争奪である。これについて早くも二千年以上も前の『韓非子』が、「昔は人口が少なく資源が豊富だったが、現代は人口が増え物不足になっている」と指摘している。中国社会では、戦国時代にすでに人口過多(推定人口約三千万)で過当競争が起きていた。それだけ紛争が絶えなかった。三国時代、魏から西晋を建国、呉を破って統一を実現したが、辺境の遊牧騎馬民が自立し、五胡と呼ばれるモンゴル系、ツングース系、チベット系の遊牧民が黄河流域を占領して次々に国を建て、五胡十六国時代に突入した。近現代においても18世紀末の白蓮教徒の乱以来、争乱が一世紀半以上も続いた。なぜそうなったか、内戦一つ一つの発端を探るよりも、当時の社会的な背景を見なければ分からない。日本列島は水と緑に恵まれ、人と自然の共生関係がうまく機能している。反対に中国では、古代から人間と自然、人間と社会との関係は均衡を失っていた。このため早くも紀元前から自然崩壊の現象が記録されている。中国の歴代王朝末期、天下大乱が起き、巨視的に見れば国家の興亡という歴史の一コマだが、この大乱の特徴は戦乱だけではなく、飢饉であった、と。ほとんどの戦乱の背後には水源、耕地、森林といった有限資源の争奪があったが、その争奪の最大の原因は山河の崩壊による資源枯渇である。とめどない森林伐採の所為で保水力を失った大地が水害を引き起こす。水害のあとは旱魃の多発、こうして大地が砂漠化してゆき、生態系が崩壊することによって人間社会、経済も崩壊に向かう。王朝の交代期には必ず飢饉があるのは、自然環境的な要因がある。中国史は、国土の生態系という角度からも見なければ分からない、と黄文雄は言う。
 もう一つ自然現象の面から中国史を見ると、戦乱の多発だけではなく、頻発する天災の数においても人類史上例を見ない国であることがわかる、と。歴史家の鄧雲特は『支那救荒史』で統計を示している。商の湯汪18年(紀元前1766年)から1937年の3703年間、記録された水害、旱魃、蝗害、雹、台風、地震、大雪などの天災だけで5258回もあった。これを平均すると約八か月に一回の割合だ。そのうち旱魃は平均して三年四ヵ月に一回、水害は三年五か月に一回という高頻度だった。この記録のうち、比較的信憑性の高い漢帝国の成立(紀元前202年)から1936年での2142年間を見ても、災害総数は5150回に達している。水害は1037回、旱魃は1035回で、それぞれ2年に一回の頻度だ。しかも時代と共に改善されるどころか、かえって悪化している。天災の回数は紀元一世紀が69回、二世紀が171回、11世紀が263回、14世紀は391回、17世紀が507回・・・と、エスカレートの一途である。中国史をグローバルに見る場合、弧のような自然現象とそれにリンクする社会・経済の歴史的側面を見るのが非常に重要である、と。繰り返し取り沙汰される「日本軍の侵略と略奪」であるが、天災と飢餓が繰り返される中国で何を略奪したというのだろう。毛沢東自身も「一窮二白」(貧しくて文化も遅れている)と形容した極貧社会だったというのに。むしろ日本軍は占領地で住民社会の安定を図った”神”や”解放軍”として歓迎された例が少なくなかった。現に蝗害を撲滅したある部隊長が神と崇められ、軍服・眼鏡姿の神像で、守護神として祀られた例すらあった、と。

 中国の農民は戦乱のたびに難民となって流浪、逃亡し、天災、飢餓のたびに流民として噴出し、四散してきた。歴代王朝の末期には、つねにこの流民パワーが合流して巨大潮流となり、流賊・流寇の勢力となって横溢した。彼らの中から天下を睥睨する者が現れ、王朝交代、易姓革命の原動力とさえなった。しかし流民が、すべてが巨流に発展するとは限らない。ある者は中国から脱出し、周辺の化外の地に流れて化外の民となり、棄民となる。こうした棄民たちが定住した地を今度は中華帝国が狙い、「天下、王土に非ざるものなし」として呑み込む。このようにして中国の版図は拡大していった。そもそも中華の民とは、黄河の中流域の「中原」と呼ばれる地域に居住し、黄河文明と共に発展・拡大した漢民族を指す。秦・漢帝国の時代には、揚子江以南は未開の地で、「越蛮」「楚蛮」などと呼ばれた。人口の九割は黄河流域に集中していた。下って六朝・魏晋南北朝の時代になると、中原の民は北方の騎馬民族(匈奴・鮮卑・羌・羯・氐のいわゆる五胡)に追われ、江南などの拡散した。隋・唐の再統一時代には江南も帝国の版図に組み込まれ、中国化した。その後、戦乱と飢餓のたびに帝国内から流民が周辺に流れ込み、明末から清初にかけて西南の雲貴高原へ、清中期から末期にかけては東南アジアへ、清末からは満州・内蒙古へ、そして中華人民共和国の成立後は新疆へ、文革以降はチベット高原へと、弧を描いて噴出し続けた。これをA・トインビーは「平和的浸透力」と称しているが、どこが平和的なのかと、黄文雄氏は疑問を挟む。中国人流民は海を越えて西部開拓時代のアメリカにも流入、現代の改革開放後は人民公社が解体され、内陸の貧民農民が流民化し、「盲流」(のちの民工)となり、裕福な沿海都市部になだれ込んだ。
 満州事変の直前にあたる1928~30年の西北大飢饉については、当時の日本政府も重大視し、二つの調査団を派遣している。陝西省救済委員会の調査報告では、この間、37県の婦女のうち土地を離れた者が百余万人、売られた者が七十余万人、陝西省だけでも人口の六分の一にあたる約二百万人が流民となって省外へ流出している。なお、中華民国政府の公報によれば、この大飢饉による餓死者は一千万人だったという。陳振鷺の被災民調査統計によれば、1927年の華中水害で九百万人、28年の西北大旱魃で三千四百万人、29年の華中水害で五千四百万人、30年の風害・蝗害で三千万人、31年の水害で八千万人、32年の冷害・旱魃で六千万人の被災民が出ている。これらの被災民は流民として四散するか、売られて奴隷労働をさせられるか、もしくは兵士か匪賊となった。このように満州事変から盧溝橋事件前夜にかけての時期、華北と華中は文字どうり絶え間ない天災と飢餓に晒され、これに実質上の無政府状態と相俟って社会は崩壊していた。日本軍はこうした状況の下で中国側の罠にはまり、内戦に引き込まれていく、と黄文雄氏。
 伝統的に中国には三つの社会があった、と。一つは国家権力が支配する都市、もう一つは地主が支配する農村、そしてもう一つが水滸伝に描かれる江湖の社会という義侠・盗賊が跋扈する世界だった。現代中国で農民革命の英雄になっている唐末の黄巣、明末の李自成も有名な流賊、清政府は太平天国軍を「粤匪」、孫文ら革命党の中心人物を「四大寇」と呼んだ。国民政府も共産党を「共匪」「毛匪」あるいは「朱毛匪幇」と呼んでいた。
 十九世紀に入ると、中国の戦乱と飢餓は加速的に拡大した。1810年の山東大旱魃、河北大洪水、浙江大地震、湖北雹害で死者九百万、翌年甘粛大疫病、四川大地震により死者二千万人。1849年の全国的な大飢饉が千三百七十五万にたっし、1876年から78年の大飢餓では九百五十万から千三百万が餓死したと記録されている。二十世紀に入ってからも大飢饉は年々全国各地を襲い、1930年~32年の西北大飢饉では死者が一千万人を超えた。1960年前後の大躍進政策の失敗から文化大革命発動までの時期にも、一千万から二千五百万の餓死者が出たと推定されている。こうした大飢饉で見られるのが食人現象だった。1930年の陝西、甘粛での大飢饉当時の中華民国政府公報によると、「住民ははじめ樹皮を食らい、続いて子女を売り、ついに道端の屍肉を切り取って食べた。最後は生きている人間までも食べた」という。日中戦争中、米国人記者の著書にも書かれているし、パールバックの小説「大地」にも書かれている。魯迅の小説「薬」は血饅頭をテーマにしたもので、「狂人日記」のテーマも食人であった。

 日中戦争の原因について中国人が関心を持つのが日本の陰謀論である。たしかに日本の情報機関は様々な画策をしていたが、国としては対中戦争の計画も準備も皆無だった。日露戦争以降、中国の政治・軍事指導者はみな、中国は日本軍の一撃に耐えられないと観念していた。それは国力の問題であり、内戦を抱えているという事情もあった。だから蒋介石の「先安内、後攘外」は現状分析にもとづいたものだった。日本にとっての最大の仮想敵国は、中国の北方で虎視眈々と構えているソ連だった。日露戦争後、日本の国家戦略は、対英米でもなく対中でもなく、ひたすらソ連に向けて構築されていた。それは当時、世界中で猛威を振るっていた共産主義への防衛を最優先していたからだともいえる、と黄文雄氏。しかし日本側の事情はどうであれ、中国では日本が保持する山東半島の権益に対する返還要求が、学生を中心に北京や上海などの大都市で排日・悔日運動が慢性的に継続され、広がっていった。キッカケは第一次世界大戦後の講和会議で返還要求が否認され1919年の五・四運動だった。各地の集会では「対日宣戦、永久反日」の標語が登場、国民党中央常務委員会では「少年義勇軍」、「青年義勇軍」が組織された。学生たちは蒋介石の対日姿勢を弱腰として批判し、宣戦布告を要求した。もちろんその背後には中国共産党の扇動もあり、あるいは反蒋各派の実力者の影もちらついた。蒋介石による1926年の第三次共産党包囲討伐作戦のさなか、棍棒を持った学生デモ隊が「打倒日本、打倒国民党」を叫びながら国民党中央本部に押し入り、軍が出動する騒動もあった。その後、五・四運動以来の反日学生運動は国民党によって撲滅されたが、1935年の北支自治運動を受けて復活する。スローガンや手口は共産党のそれと符合しており、同党の使嗾(しそう:そそのかし)があった事は疑いない、と黄氏。この年12月9日、北平(北京)で行われた学生デモは警察と大衝突し、これをきっかけに全国に抗日運動が盛り上がった。
 中国の排日運動を象徴するものとして、湖北救国界の「排日十大方針」が挙げられる。①日貨を買わず・用いる、②日貨を積まず、③日本船に乗らず、④日本人と往来せず、⑤日本人に雇われず、⑥日本人を雇わず、⑦日本系銀行に預金せず、⑧日本人に食料を提供せず、⑨日本に留学せず、⑩日本で商売せず、などだった。一見して、一方的・差別的な日本人排斥運動だった。こうした反日機運が高まるにつれて、ラジオは朝から晩まで抗日一色、国民運動のほか、講演、映画、学校教育、唱歌を通じてマインドコントロールが行われた。全国規模の大飢饉が発生し、四川省などで餓死者が出て、各地で土匪が蜂起した時も、「日本軍国主義の仕業」との噂が流され、民衆の戦意はますます高揚、激発する有様だった。
 満州事変(1931年)は反日感情に新たな火を点けた。それから盧溝橋事件(1937年)までの六年間は、中国にとって抗日戦争の準備期間、反日運動はエスカレートし、日本製品の不買だけではなく、「日本人を見つけしだい殺せ」と書かれたビラなどが撒かれ、実際日本人へのテロ事件が発生するようになった。1936年8月4日、四川省成都を訪れた大阪毎日新聞特派員と上海毎日新聞記者が大群衆に襲撃され、殴り殺された。二人は身ぐるみ剥がされ、顔面はつぶされた(成都事件)。続いて9月3日、広東省北海市で進駐してきたばかりの第十九路軍所属の「抗日救国軍第一師」が市内で「打倒日本賊」「打倒蒋介石漢奸」と書かれたビラを撒き、その一部が丸一洋行を襲撃し、日本人店主を殺害した(北海事件)。翌4日には漢口で日本領事館勤務の巡査が白昼狙撃され、死亡した。中国政府がこうした動きを取り締まれず、日本人居留民を保護できない以上、日本軍みずから出動する以外に方法はない。このようにして日本はまんまと中国の挑発に嵌められた。
 当時の日本政府は、これら一連の事件にも拘らず両国関係を改善すべく、直ちに中国側と国交調整交渉に乗り出した。交渉は駐支大使・川越茂と外交部長(外相)・張群によって行われ、諸事件の前後処理のほか、日支防共協定の締結や中国側の反日運動の取り締まりなどについて話し合われた。しかし同じ36年11月の「綏遠事件」の発生で、両国政府の努力は挫折した。綏遠事件とは、反漢主義から蒙古自治を目指して関東軍に接近した徳王(モンゴル族の王公の一人)の内蒙独立軍と反蒋派軍閥・王英の軍で編成された蒙古軍が、南下して綏遠の軍閥軍を攻撃したものの、惨敗を喫した戦いを指す。この蒙古軍に関東軍の田中隆吉参謀が個人的に関与していたことから、「関東軍撃滅」と宣伝され、中国国内を狂喜させた。反日世論は頂点に達し、国民党が対日攻撃を宣言する事態にすら発展した。こうして中国政府内では張・川越会談の中止を求める声が圧倒的になった。また、「反日」「抗日」は、反蒋介石勢力にとって格好の大義名分になった。とりわけ敗色濃厚だった共産党にとって、「抗日」を全国に呼び掛け、民衆に反日行動を扇動するのはサバイバルの絶対必要条件、窮余の一策だった。1933年、蒋介石軍による五回目の包囲討伐を受けた彼らは、瑞金中央ソヴィエトから脱出し、翌年6月中旬「北上抗日」を宣言したが、蔣介石軍の追撃や爆撃を受け、進路を西南に変え、大迂回して四川、陝西へと敗退した。この逃避行を共産党は「長征」との美名で呼ぶが、実際には国民党の言うごとく、「大流鼠」に他ならなかった。崩壊寸前の共産党は、何としてでも蒋介石と「先安内、後攘外」の方針を改めさせ、「共同抗日」によってこの内戦を停止させたかった。同時に蒋介石に抵抗する二大勢力、西北軍の慿玉と山西軍の閻錫山も「反蔣抗日」を全国に打電して呼び掛け、中華安国軍を組織して独立を宣言した。そして綏遠事件発生後のひと月後、1936年12月12日、「西安事件」がおこった。

 共産党軍の討伐に当っていた張学良を督戦するため陝西省西安を訪れた蒋介石は、張学良と西北軍の楊虎城の造反にあって逮捕監禁され、共産党との「一致抗日」を迫られた。西安には共産党の周恩来や葉剣英らも乗り込んできた。この時共産党が蒋を殺さなかったのは、天下に号令できる実力者は彼を措いて他にいなかった、と黄文雄氏は推察。中国の赤化を望むソ連にしても同じ考え方だった。ここで蒋に死なれては、抗日戦はおぼつかない。まずは戦わせ、そのあとで共産党に天下を取らせたかった。だからスターリンも「蒋を殺すな」と共産党に打電している。結果、蒋介石は生き延びて、周恩来らと「共産党討伐の中止」と「一致抗日」を約束させられた、と。実際、この事件によって蒋介石は共産党への攻撃をやめ、第二次国共合作が成立した。国民党内では親日派が後退し、張群外交部長も罷免され、代わって親ソ派が台頭した。それまで国民党内では「中国の敵はソ連か日本か」との議論が続いていたが、ここに至って蒋介石ははっきりと日本を敵と定めたのだった、と黄文雄氏。ここで、黄文雄氏は「中国の敵はソ連か日本か」との議論が続いていたと記述している。この記述は、日本の史家では、いないのではないか。蒋介石の「先安内、後攘外」という方針は、蒋介石の本当の思いは、「中国の当面の敵はソ連が先で、日本が後」という意味だったと解釈できる。そう解釈すると、蒋介石の軍事行動は理解し易い。日中戦争勃発当時の米国駐支大使N・ジョンソンは、後年、「西安事件が日中戦争の引き金だった」と指摘している、という。
 黄文雄氏は、もうひとつ、興味深い見方を紹介する。これまで見てきた排日悔日運動は、中国国内の複雑奇怪な事情が絡み、日中戦争(支那事変)の最も大きな原因の一つだと黄文雄氏はみるが、排日悔日に狂奔する中国人を押しとどめるには、何がもっとも効果的な手段だったろうか、それは徹底的に無慈悲な弾圧を、一度でも行うことだ、という。中国史を眺めると、中国人は外国からの強力な一撃ですぐに屈服し、その統治に甘んじてきた。モンゴル人も満州人も、一度徹底的な弾圧を加えて見せ、数百年間彼らを上手に統治している。しかし日本人はそれが出来なかった、あるいは中途半端だった、と。これこそ日本の中国進出における失敗の一大原因だという。イギリスはこの点を日本より良く理解していた。1926年に発生した万県事件、イギリスの商船が揚子江を遡り、中国側とトラブルの末、拿捕された。イギリス側は商船奪回のため砲艦二隻を派遣して砲撃を加え、万県の町を徹底破壊した。これによって中国人は縮み上がり、長江一帯の反英運動は終息した。そして民衆の排外のエネルギーははけ口を求めて、反日運動へと向かっていった。
 1927年の「南京事件」は、幣原「軟弱外交」(国際協調主義)の最盛期に起きた。これは蒋介石の国民革命軍(北伐軍)が南京を占領した時、日・米・英の領事館などを襲撃し、略奪・殺人を行った事件だ。この狼藉に対し米英は艦砲射撃で応じたが、日本はそれに加わらなかった。しかも幣原喜重郎首相は対中国不干渉主義に徹し、蒋介石の統一運動を応援するとして事件の責任追及をほとんどしなかった。しかし国民党の南京新政府は、日本の寛大な態度を見るや、反英から反日へとガラリと政策を変え、ナショナリズムの高揚を図った。中国人に対するには、徹底的に圧力をかけ、恐怖心を与えなければ、かえってバカにされる。協調姿勢をとれば付け込まれ、弱みなどを見せれば増長するだけである。これは過去だけでなく、今日に日中関係においても全く同じ、と黄文雄氏。台湾の李登輝元総裁は、この民族性を「軟土深堀」(簡単なところから始めろ; 相手の弱いこところを攻めろ)と表現し、しばしば国内の対中宥和派を批判している。日本などは中国からすれば、まさしく軟土だ、と。日中対立の歴史を俯瞰すると、日本の政策の稚拙さが目立つ、これは日本人の性善説、平和志向、優しさ、甘さ、気兼ね、正直、優柔不断という民族性が随所随所に現れているからだ、それが中国人には「与(くみ)し易(やす)さ」と映り、却って彼らに自信を与え、外交交渉に長けた列強の乗ずるところとなっていった、と分析する。
 1928年4月、一度下野した蒋介石は、訪日後再び国民革命軍総司令となり、北伐を再開した。総勢力は百万、これに対する張作霖の北軍も百万。日本居留民が虐殺された済南事件は、北上途中の国民革命軍により引き起こされた。当時交通の要衝だった済南は人口38万人の商業都市、ここに1810人の日本人居留民がおり、南軍に包囲攻撃を受けた彼らは、前年の南京事件の再現を恐れ、本国の田中義一首相に保護出兵を求めた。済南を支配していた北軍側軍閥が撤兵して、南軍が入城してきた。すでに出兵していた日本の派遣軍が蒋介石から治安確保の保証を取り付け、警備体制を解除した。しかし南軍兵士らが日本人の商店を襲撃し、約百人の日本人が虐殺、暴行、凌辱、略奪といった被害を受けた。虐殺の仕方は中国式で、酸鼻を極めた。殺害された日本人は手足を縛られ、斧のようなもので頭部や顔面を割られたり、婦女の陰部に棒が差し込まれたり、男性の陰茎が切り落とされたり、小腸・内臓を露出させられたり、皮膚が剥がされていたという。日本国民に大衝撃を与えた。「暴支膺懲」で世論は沸騰した。日本軍は関与した高級武官の処刑を含め、善処を求めたが、南軍はこれを拒否したため、砲撃により南軍を遁走させた。日本軍が蒋介石の言を信用したことも、その後の砲撃目標を限定したことも、当時の日本のスタンス(対中不干渉)を如実に伝える事実だ。しかしこの事件について中国の歴史学者は逆に、北伐を妨害するための日本軍の計画的挑発だと史実を歪曲して伝えている。さらにこの5月3日を「国辱記念日」に制定するなど、当時から日本を一方的に断罪していた、と黄文雄氏。

 1932年3月、満州国が成立し、盧溝橋事件に至る五年間は、熱河事件、綏遠事件、西安事件と、日・満や中国の国益を巡るトラブルが発生した。日中十五年戦争史観から言えば、このあたりが前半戦、前哨戦となる。満州国の南に位置し、もともと満州人の版図である熱河省を巡り、日中の緊張関係が武力行使に発展した。これが1933年の熱河事件だ。満州事変で満州から追われた張学良は、四万の部隊を熱河省に送り込み、反満抗日の拠点を構築し始めた。そこで満州駐屯の関東軍はこれを一掃することにした。第十六旅団長・川原侃少将率いる1234名の機動部隊は、三万の中国軍を追撃し、わずか四日間で四百キロを走破した。その間の損害は戦死者2名、戦傷者5名。快進撃というより機動部隊を初めて見た中国兵が、その轟音だけで戦意を失い、一目散に逃げだした。こうして、最後の満州軍閥・満福麟をも万里の長城の南、中国本部に駆逐した関東軍は、満州国の熱河省回収に成功した。日本軍が熱河の省都・承徳に入城した際、「承徳市民は日本軍を歓迎し、日満両国旗市内に充満」したという。
 関東軍司令官・武藤信義大将は、「長城を隔てる河北省は中華民国の領土である」として、関東軍の長城越えを厳禁した。逆に言えば「熱河の問題は満州の国内問題だ」という認識があり、国際法を遵守し、日中戦争を回避すべく、必死に努力していた。しかし中国側は何応欽が軍事委員会北平(北京)分会長に任命され、張学良に代わって五万の中央軍を北平・天津地区に集結させ、七千の兵力で熱河を侵すという事態が生じた。関東軍が長城線を越えられないことに乗じて事を起こした。たまらず関東軍は長城を突破し、天津と北平をも攻略する勢いを見せた。このことから、両軍の衝突再発を防止するため、5月末に関東軍参謀副長・岡村寧次少将と中国軍軍事委員会総参謀・熊斌中将との間に塘沽停戦協定(1933年5月)が結ばれた。この協定で河北省北東部の日本側占領地は非武装地帯と規定された。後にここに樹立されたのが「冀東防共自治政府」だった。この停戦協定で、日中関係は好転の兆しを見せた。しかしなお国民党の特務機関などによる反日活動が目立ったため、1935年7月、支那駐屯軍司令官・梅津美治郎中将と軍事委員会北平分会長・何応欽が梅津・何応欽協定を締結し、中国中央軍の河北撤退などが決まった。またチャハル省(現在は内モンゴル自治区の一部)を拠点とする第二十九軍軍長・宋哲元の軍が日本軍将校らを不当に拘束した張北事件や、同軍が熱河省に侵入した熱西事件など抗日謀略工作を繰り返し起こしたため、35年6月、関東軍の特務機関長・土肥原賢二少将とチャハル省主席代理・秦徳順との間で、土肥原・秦徳順協定が結ばれ、宋軍は同省を撤退、北京へ移動した。
 1936年12月の西安事件後、華北では宋哲元の第二十九軍や東北軍など41万の兵力で五千の日本軍を包囲する形となり、さらに徐州方面でも中央政府軍三十五万が北上の機会をうかがうなど、日中両軍の緊張が高まった。そのような中、日本側はあくまで、事態の不拡大方針を堅持していた。
 1933年7月7日夜、北平郊外の盧溝橋で、演習を終えた支那駐屯軍第一連隊の一木大隊に、突如、中国側からと思われる数発の銃弾が打ち込まれた。しかし不拡大方針に基づき、応戦命令は下りなかった。翌8日払暁以降、再三に亙って不審な発砲を受ける。ついに日本側は中国軍に攻撃を開始し、これを撃滅した。これが支那事変の発端、盧溝橋事件だった。この事件の処理を巡り、外務省と陸軍中央は直ちに事態の不拡大・現地解決の方針を固めた。と同時に、日本陸軍内部では、拡大派と不拡大派が対立し始めた。拡大派の主張は、中国で反日悔日の機運が高まる中、ここで逆襲しなければ彼らをますます増長させ、日中関係をこじらせるばかりか、暴支膺懲を求める国内世論も黙っていない、また来る日ソ戦では中国がソ連に加担する可能性が高く、ここで中国に一撃を加えて反省させ、反日政策を改めさせようとの「対支一撃」論だった。懸案を一気に解決しようというもので、全面戦争を求めるものでなかった。これに対し正面から不拡大を唱える不拡大派の主張は、日本が出兵したら泥沼にはまり、長期戦に陥る可能性があり、その間列強に漁夫の利を与えかねない、それより満州経営に専念し、対ソ戦に備えるべきだというものだった。石原莞爾らがその中心人物であった。7月9日、現地では両軍の停戦協議が行われた。しかし中国側は撤退するどころか攻撃を続け、その中央軍も北上も伝えられたため、日本政府は内地三個師団の派遣を閣議決定した。しかし11日、現地で停戦協定が成立したため師団派遣は見合わされた。だがこの協定も13日に中国軍に破られた。細目協定が協議される中、中国軍からの攻撃は続き、23日、日本軍が反撃を開始した。日本政府も再度師団派遣を決定したが、中国軍が撤兵を始めたため、これも見合わせとなった。しかし中国軍からの攻撃は止むことがなく、27日、内地師団に三度目の動員命令が下った。28日、日本の天津軍が中国側に開戦を通告し、北平と天津を掃討した。事件は「北支事変」と命名された。

 ここまでは黄文雄氏の日本側からの見立てであるが、従来から参照している「蒋介石秘録」では、中国側からの考えが読み取れる。「北平市長・秦徳純は折から北平を離れていた華北の責任者・宋哲元(冀察政務委員会委員長・第二十九軍軍長)に代わって、軍政を任されていた。盧溝橋の一報を聞いてから、8日午前3時半、宛平県城にいた第219団団長・吉星文からの報告ですでに容易ならざる事態に突入しつつあると判断、『盧溝橋および宛平県城を固守せよ、国土の防衛は軍人の天職である。宛平県城と盧溝橋を「わが軍の最も光栄ある墳墓とせよ。しかし日本軍が発砲するまでは絶対に撃つな。日本がもし発砲すればこれを迎え撃って痛撃せよ』と指示した」と。これは後から記述した秘録であるから、出来すぎな指示であるが、考えはそうだったのだろう。
 蒋介石は秦徳純らから報告を受け、『倭寇(日本軍)は盧溝橋で挑発に出た。日本はわれわれの準備が未完成の時に乗じて、われわれを屈服させようというのだろうか? それとも宋哲元に難題を吹っ掛けて、華北を独立させようというのだろうか? 日本が挑戦してきた以上、いまや応戦を決意すべき時であろう』(7月8日の蒋介石の日記)  9日、何応欽に対して全面戦争にそなえて、軍の再編に着手するよう命令、第二十六路軍総指揮・孫連仲に対して、中央軍二個師を率い、保定あるいは石家荘まで北上するよう指示、また山西省の軍を石家荘に集結するよう指示している。同時に、軍事関係の各機関には、総動員の準備、各地の警戒体制の強化を命じ、河北の治安を与る宋哲元には、『国土防衛には、死をかけた決戦の決意と、積極的に準備する精神を以て臨むべきである。談判については、日本がしばしば用いる奸計を防ぎ、わずかでも主権を喪失することのないのを原則とされたい』と、決意と警戒を促した。 10日、日本大使館に抗議文を出すと共に、同時に全軍備機関の活動を「戦時体制」に切り替えるため、緊急措置が取られた。軍隊を第一線百個師、予備軍八十個師を編成し、7月末までに大本営、各級司令部を秘密裏に組織する。現有の六か月分の弾薬は長江以北に三分の二、以南に三分の一を配置する。フランス、ベルギーから購入することを交渉し、香港、ベトナム経由の輸送ルートを確保する。兵員百万人、軍馬十万頭の六か月分の食料を準備する、以上が緊急措置であった。11日午後8時、第38師師長・張自忠は松井太久郎との間で協定を調印した。これを宋哲元も同意を与えたが、国民政府は南京の日本大使館に覚書を送り、「如何なる協定であろうとも、中央の同意がない限り無効である」と通告した。
 12日、病床の田代皖一郎にかわり、新たに香月清司中将が支那駐屯軍司令官に任命され、14日事件解決のための七項目の協定細目を、冀察政務委員会に突き付けた。現地で交渉にあたる宋哲元に単独交渉に応じてはならないと指示し、日本軍の攻撃に対し徹底的抵抗を命じてあった。しかし宋哲元は現地解決の望みに固執し、張自忠らに交渉させ、日本軍要求通りの協定細目に調印した。18日、再度宋哲元と秦徳純に電報で警告した。いわゆる”最後の関頭演説”すなわち「盧溝橋事変にたいする厳正表示」を公表し、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。その中で蒋介石は『われわれの東四省が失陥してすでに六年になる。いまや衝突地点は北平の玄関である盧溝橋にまで達した。もし盧溝橋が日本の圧迫を受け、武力で占領されるならば、わが百年の故都であり、北方の政治・文化の中心、軍事の要衝である北平は、第二の瀋陽(奉天)となろう。今日の北平が、もし昔日の瀋陽になれば、今日の冀察(河北・チャハル)もまた昔日の東四省となろう。北平がもし瀋陽となれば、南京もまた北平にならずにいられるだろうか』と。日本は少しもそこまで考えていなかったが、蒋介石はそこまで考えていた。これは蒋介石をそう思わせた日本の問題だったのか、蒋介石自身の問題だったのか。これが日中戦争(支那事変)の核心である。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする