回り道 ジョセフ・グルーの日記「世界で最も激しやすい人間」

2016年12月27日 | 歴史を尋ねる
 1933年(昭和8)3月、日本は国際連盟を脱退した。グルーの推測は完全に外れた。この事態にグルーは次のように考察した。「連盟脱退を決意したことによって、日本は諸外国のあいだの最も重要な橋を焼き捨てる手段に出た。これは日本国内の穏健分子が根本的に打ちのめされ、軍部が完全に優位に立ったことを示している。・・・熱河侵略に陸軍が困難を来しても、長城を超えて南に進出することはしないだろう。だが楽観は禁物だ。予測を超えて、日本軍が北平・天津を攻略する危険は消えたわけではない。そんなことになれば、諸外国の権益は即刻、直接日本と衝突する。国際連盟が制裁を加えようとしても、日本は北支を占領してそれに対抗する能力を持っている。これが将来の潜在的危機だ。ここで留意すべき点は、いつかアメリカ、ソ連と戦端を開くのは不可避だと、日本国民の相当部分が信じていることである。軍機能は着々強化され、海軍もますます好戦的になって来ている。こうした状況で世論を激昂させる事件が何か起これば、日本は先の見通しもなく極端な行動を起こす危険がある」と。グルーの鋭い分析と予想はかなり正確に的中、証明されることとなった。

 グルーは5月、連盟脱退の役割を終えて帰朝したばかりの松岡洋右と会談、その強烈な個性に打ちのめされ、毒気にあてられてしまった。会談のあいだ、のべつまくなしに自分が一方的に喋りまくり、相手にしゃべる暇を与えない。英語は完全だが、うぬぼれの塊と映った。グルーは松岡を一刀両断し、こき下ろす人物評を記しているが、松岡はそれほど単細胞ではないし、独善家でもなかった。冷徹なリアリストであり、世界情勢を大局的に捉えることの出来る外交戦略眼を持ち合わせているが、グルーの松岡に対するこのような誤解が、その後の日米関係に暗い影を落としたのは残念とは福井雄三氏の弁。ドイツから来日した新任の大使にも、凶暴・独善・鈍感と決めつけている、と。ローズベルト大統領・ハル国務長官はグルーと相通じ合う同志だった。この三人に共通して見られるのは、ドイツに対する徹底的な憎悪であった。グルーが東京から本国に発した報告は、その後のアメリカの対日・対独外交を形成する大きな要因となった、と福井氏は言うのである。これとは逆に、広田弘毅に対しては直感的に好感を抱いたようだ。広田の実直で飾らぬ朴訥な人柄から、グルーは非常にいい印象を受けた。グルーが「日米親善を妨げている主な障害の一つは、全然架空の立場に基づいて間断なく不信と猜疑心を掻き立てる新聞だ」と述べると、広田は「そのことについては今後二人でとくと話し合いましょう」と答えた。
 グルーの親友であった牧野伸顕伯爵はグルーを回想して、「じつに公平に正しく日本を見、且つ理解してくれた至誠の人物であり、日本に対して終始一貫した親切心と同情心を示した、日本の真の友人、すぐれた友人」と絶賛している。しかし1924年にアメリカが制定した日本移民排斥法を、グルーがこの法案を強力に支持して事は、あまり知られていない。この法案を廃棄すれば、アメリカの弱みを世界に示すことになり、それが日本の軍国主義者をつけ上がらせ、世界の平和は脅かされる。更にグルーは「日本の天命は世界を征服して支配することであると、日本の陸海軍人や国家主義者は考えている」と指摘し、日本のこのような拡張的野心の実現を阻止するために、アメリカは極東で断固たる態度をとらねばならぬ、と主張した。これは世に名高い田中義一の上奏文の内容そのままである。田中上奏文とは、中国国民党が日本を中傷誹謗するために世界に流した、名も葉もない偽造文書であり、悪質な宣伝ビラと一笑に付されていたものであるが、グルーは信じていたのかと福井氏。近くではオバマ大統領が当初安倍首相を右翼歴史修正主義者と考えていたのと同じ事例なのだろう。

 1935年7月アメリカに帰国したグルーは、ワシントン極東部で大歓迎で迎えられ、三年間の労苦をねぎらわれ、日米関係良好化に尽くした功績をたたえられた。ハル国務長官・ローズベルト大統領にもしばしば面会、五カ月の休暇を終え、グルーは引き続き日本大使を続投することになり、古巣の東京に戻って来た。その直後の1936年1月、ローズベルトは議会に送った年頭教書で明らかに日独を指して、痛烈に批判した。「拡張や通商、人口のはけ口を求めている国々は、合理的かつ合法的な目的を獲得するに必要な忍耐を示すことに失敗している。これらの国は荒唐無稽な考えを抱いた。すなわち自分たちだけが使命を遂行すべく選ばれた者であって、他の諸国は自分たちから学び、自分たちに支配されねばならない、と。そして自分たちは性急に、剣を法律とする古い信念に復帰しなければならない、と。私は諸君に、世界の人々が直面する現状がどんなに重大なものであるかを強調する。平和は多くの者では少数の者によって危険に晒され、自分勝手な権力を求める者によって脅迫されている」
 このローズベルトの年頭教書は、日本の朝野に衝撃を与えた。グルーの三年に及ぶ駐日大使としての献身により、日米関係には友好的関係が訪れつつある。着実で堅実な対話と交渉によって平和を持続していける。日本側はそう考えていた。むしろ日米間に敢えて波風を立てようとしているのはアメリカではないか。ところが、グルーの日記には、このローズベルトの年頭教書を勇気ある政治的手腕と評価している。

 この年頭教書に対して広田弘毅が即座に議会演説でローズベルトの名前を伏せて、次のように応酬した。「遺憾なことに外国には、世界がいかに整頓すべきかについての個人的確信を他国に強いようと決心し、彼らの命令に反する者を、平和攪乱者として攻撃する傾きをもつらしい有名な政治家が何人かいる。自国の国家的抱負と国として負うべき義務とを知るのみならず、他国の立場をも了解し認識する者でなければ、世界平和を論じる資格はない。他国の立場をも了解し認識することは、往々にしてその国の文化と文明を了解し認識することによって遂げ得る。我々は輸入した西洋の芸術と科学を、我々の文明に付け加え適用させることによって、国力と威信を打ち立てることに成功した。いまや我々はわが国の芸術と文化を他国に輸出し、かくて国際的なよき理解と、世界文化の肥沃と、人類の平和と幸福の増進に貢献すべきときであると自分は信ずる」
 この広田の応酬に、グルーは直後の日記に次のように記した。「アメリカは平和団体と女の不戦主義によって支配される国だと、多くの日本国民が信じているようだが、それはとんでもない間違いだ。何度も横面を張られ、それもひどく張られれば、アメリカはその反対側の頬を張られるために、おとなしく差し出したりはしない時が必ずくる。アメリカはこのことを日本政府と日本国民に対して示すようになるだろう。日本人は歴史を忘れがちだと思う。歴史はアメリカ人が世界中で最も激しやすい人間の一人だということを示している。1898年、。ほとんど一晩で燎原の火の様にアメリカ全土を席捲、『メイン号を忘れるな!』のスローガンのもとに、政府・国会・一般人の多数の意思と希望に反して対スペイン戦争を引き起こした事実を、日本人は忘れている」

 ローズベルトの年頭教書は日米間の空に突如として現れた黒雲の様に、1936年初頭の太平洋を覆い始めた。その直後の2月26日早朝、日本の朝野を震撼させた大事件が、東京で勃発した。

回り道 ジョセフ・グルーの日記「滞日十年」

2016年12月25日 | 歴史を尋ねる
 支那事変を追いかけている最中だが、ローズベルトに話が及んで、アメリカの影が大きくなるところで、この時期、1932~42年までの十年間、米国駐日大使ジョセフ・グルーの日記は、アメリカ対日観の一つの典型を成すものとして、取り上げたい。福井雄三著「日米開戦の悲劇」を参考に。
 グルーが大使として日本に着任する直前に五・一五事件が発生、その後日本は国際連盟脱退、二・二六事件、支那事変を経て、ついに対米戦争に突入した。この間、東京にあって世界情勢を見続けたグルーの観察は、当時の米国知識層の本音を知ることが出来る、と福井氏。福井氏はアメリカ外交官の本音と視座を踏まえながら、日米開戦に至る昭和前史に新しい視点を提示しようという試みで本書は書かれた。

 グルーに日本大使の辞令がくだったのは昭和7年5月初め、大陸横断鉄道を乗り継いでサンフランシスコ、海路ハワイを経由して横浜を目指す。52歳、ハーバードを卒業後、外交官の道を歩み既に30年、14回目の任地、4度目の使命だった。前年9月、満州事変が勃発、現地にリットン調査団が入り世界の耳目は東洋のこの一角に注がれていた。日本が満州における投資・資産・居留民・その他重大な利害関係を、自ら放棄するとは考えられなかった。グルーの視点は次の諸点だった。1、日本はたんに満州における現在の権益を守ることだけで満足するのか、それとも朝鮮を第一の足掛かりに、次に満州によって全アジアにまたがる大帝国を建設しようとしているのか。2、日本はソ連やアメリカとの衝突を避けることが出来るのか。最も重大なのは、日本の抑えても抑えきれない衝動が、いつか全世界の反対という不動力に直面するのではないか。その結果として起こる大火事はどのような形をとるのか、それは国内の革命か、それとも戦争か。
 グルーから見れば、これらはすべて日本の出方次第、第一次大戦中のどさくさに行われた対華二十一か条要求や満州事変以降とって来た強硬態度は論外であり、アメリカとして取るべき態度は九か国条約の厳守であり、東亜の平和と門戸開放である。アメリカはこの点に関して一歩も妥協すべきでない。これが赴任に際してのグルーの信念であった。だが赴任直前、日本への旅路についたばかりの5月14日、シカゴ駅頭で日本で発生したテロ事件のニュースに接した。日本の海軍将校たちが首相官邸に押し入り、現職の総理大臣犬養毅を暗殺、浜口雄幸・井上準之助・団琢磨に続く四回目の重大な暗殺事件だった。その前年の三月事件・満州事変・十月事件などと相まって、日本の軍部はそれを引き留める手綱を引きちぎり、ファッシズム政体をめざして突進しているように、グルーには思えた、と。

 日本到着一週間後、天皇の謁見を許された。天皇裕仁は31歳、温厚なゼントルマンだった。13年前のパリ講和会議で知己となった牧野伸顕と久闊を叙した。ひと月後日米協会で講演、「米国民が最も関心を持っている世界の出来事は何かと聞かれたら、ためらうことなく、各国が国際平和の永続的機構を建設しようとする努力であると答えよう。・・・1914年から18年にいたる暗い日々の思い出は薄らいでいくが、この四年間の経験は北米合衆国の人々に、国際平和機構を確固たらしめようとする意志を植え付けたのである」 このグルーの言葉に、二十世紀に入ってから世界の覇権国家・超大国として登場したアメリカの、揺るぎない自信と自負と野心が見え隠れしている、すでに全盛期を過ぎていたパックス・ブリタニカに代って、パックス・アメリカーナは第一次大戦の帰趨を決したが、そこには従来の列強には見られなかった新たな性格、アメリカ特有の理想主義であった、と福井氏。

 当時、国務長官スチムソンは満州事変に関し、満州国不承認宣言を行った。1932年8月、外交関係協会で行ったスチムソンの演説は、日本の新聞に発表されると、それに反発する世論は一斉に沸き立った。日本国民の間に爆発的ともいえる反感を呼び起こした。しかしグルーの見るところ、彼が接する日本人たちは誰も友誼的で、個人的な交際は最善の関係が続いたが、スチムソンは別であった。日本の新聞の論調も、スチムソン・ドクトリンが米国の対日世論を代表しているものかどうか、疑問を投げかけていた。スチムソンが国務省を去りさえすれば形勢が変わる、という観測も根強かった。このスチムソンの演説の直後、日本政府は満州国の承認とリットン調査団の報告発表であった。日本政府が満州国承認を急いだのは、リットン報告に基づく行動が起こされる前に満州国を既定事実化しようとするものであり、もう一つは、軍の独裁政治を防ぐための緩和策であった。その結果、日本の世論は沈静化した。更に日本の満州国承認に対してアメリカは行動を起こさなかった。当時アメリカは大恐慌のドン底にあえいでいて、自ら深刻な国内問題を抱えていた。グルーはその年の暮れ、スチムソン宛に報告書を当てた。「日華紛争に対するアメリカの態度は、控えめにすることが必要である。もしアメリカが強制的な態度をとれば、日本国民は間違いなく、国際連盟とアメリカ合衆国に対して一層強固な団結をするであろう。軍事的にせよ経済的にせよ、アメリカが日本に対して何らかの力を暗示すれば、日本の全国民は軍の背後に結束させるであろう。そしてそれは、日本の裏方で働いている穏健勢力を完全に打倒する結果を招くことになると、私は信じる。・・・日本に対して物質的圧迫の脅威を加えれば、我々が望むのと反対の効果を生じさせるのはほぼ確実である。従って日本に対し道徳的圧力を加える事だけが、我々に残された唯一のチャンスである」


 知日派で親日派と言われたグルーの、日本に対する寛容で穏健な見解がにじみ出ている報告であると福井氏。だがそれと同時にグルーは、「アメリカの将来の外交政策としては、ケロッグ条約(パリ不戦条約)、九か国条約、並びに門戸開放主義に対する態度を、断乎として守り続けなければならない、と述べている。この原則を譲らぬ峻厳な態度、正当性の原理・原則は、その後のアメリカの対日外交のなかに形を変えて繰り返し現れつづけ、やがて日本をのっぴきならぬデッドロックに追い込むことになると、福井氏はコメントする。ふーむ、グルーの言葉の中身自身にも相矛盾する点があるということか。

先回り キッシンジャーとローズベルト

2016年12月18日 | 歴史を尋ねる
 支那事変を追いかけているところで、キッシンジャーのローズベルト観が出てきて、筆が止まってしまった。色々もやもやしているところで、ここまでキッシンジャーに言われると、一つや二つ、反論したくなる。そして、米中国交回復交渉時のキッシンジャー・周恩来極秘会談の公開文書を思い出したからだ。2002年8月に産経新聞が記事にしているが、当時周恩来首相は日本の経済発展に懸念を示し、非武装中立化の必要性を主張すると、キッシンジャー補佐官は「中国は伝統的に世界的視野があるが、日本は部族的で視野が狭い」と述べ、周首相も「その通り、日本は偏狭で島国根性の国民だ」とうなずくなど厳しい対日観で一致、日本の軍事力制限の必要性でも一致した、と。また、補佐官は「日本が過度な再軍備を行えば(第二次世界大戦のような)伝統的米中関係がものをいうだろう」と、日本封じ込めに米中関係が有効との見方を披露したほか、日米安保についても「核戦争の時代に条約は意味をなさず、他国を防衛するとすれば条約のためではない。(米国の)国益のためだ。日本は軍事的に貢献しておらず、我々は条約を必要としない」と、将来の条約解体の可能性にも言及した、と。日本のマスコミが一時、キッシンジャー、キッシンジャーと祭り上げていたが、彼の冷徹な日本観はこんなものだった。詳細はhttp://nippon-senmon.tripod.com/tairiku/chuugoku/kiken_na_nippon.htmlをご覧になって頂きたい。

 アメリカ人が歴史に疎い国民だというのは、アメリカからの留学生を7人もホームステイで受け入れた経験からも言える。日本にとって重要な黒船も、ペリーも知らない。グレートな大統領はローズベルトだ、アメリカ人は第二次世界大戦の話が大好きだ、と。私は必ず、彼らに言い返す。ふーん、そうだろう、勝ったから。でもその後、朝鮮戦争、ベトナム戦争とあったね、それは大戦後、東アジアに進出した結果だよ。蒋介石も台湾に逃げ込んだ。すべて大戦がもたらした結果だよ、と。大戦前は日本が大きく東アジアでバランスをとって来た。その負担を戦後はアメリカが引き取った。ここまで言うと、留学生はだいたい黙る。
 オバマ大統領が日本に来た時の日韓の言動は、これも歴史観がないと感じた。今しかない。そこへ行くと、先日のプーチンの日露交渉は、きちんとした歴史観を持っていた。この違いがどこから来るか、わからない。自国の歴史にきちんと向き合う習慣があるかどうかが、その違いを生み出すのか。トランプ次期大統領も歴史観がない。一つの中国問題で、中国を慌てさせる。歴史に引きずられすぎても問題ではあるが、歴史を無視しても問題を残す。

 話はローズベルトに戻る。高山正之氏は氏独特な歴史観を示す。「松岡洋右の研究家としても知られる三輪公忠・上智大名誉教授によると、第二次大戦中の米国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトは中国をほとんど溺愛していたという。大統領の母方の実家、デラノ家は中国へのアヘン貿易で財をなした。そのことへの贖罪意識が中国への傾斜を深めた一因になっていたと教授は言う。その反作用として大の日本嫌いになったと言われるぐらいだが、実際、大統領の中国びいきは大変だったらしい。終戦処理の際も仏領インドシナをフランスから取り上げ、中国が引き取ったらどうかと蒋介石に打診した。それだけではなく英国にも植民地香港を中国に返還すべきと迫った。相手は英外交官上がりの植民地相、あれは確か米墨戦争の頃の話ではなかったですか、と。同じ時期、米国は対メキシコ戦争で弱いメキシコから賠償としてその領土の51%を賠償として取り上げた。今のカルフォルニア州などがその戦利品だ。」 英植民地相スタンリーの言葉が意味するところは「きれいごとを並べるんじゃないよ。お互い随分汚いことをやってんだから」ということだった。これでローズベルトは黙ってしまった。

 日本の外交官もこれぐらいのことは出来たと、高山氏。満州国の建国が宣言された時、米国は満州の属領化とみて、そういう勝手は許さないとする、スチムソン・ドクトリンを打ち出した。しかし日本がなかなか承認しない。振り上げた手を下ろしかねて米国が「どうせ承認するのに何時まで待たす気だ」と詰め寄った。外務省情報部長の白鳥敏夫がこれに応えて、「日本は急がない。建設すべき運河がそこにないからだ」。ここでいう運河はパナマ運河を指し、米国は二十世紀初頭、新興国日本を警戒して大西洋艦隊を速やかに太平洋に移動させられるよう運河が欲しかった。コロンビアの一部パナマ州に目をつけ、独立運動を支援して、その代償に運河の建設用地を入手した。つまり白鳥発言は「満州はパナマみたいに陰謀で独立させたわけではありません」という痛烈な皮肉で、スチムソンもしばらくは沈黙した、と言われているそうだ。