真珠湾の真実 中編

2022年01月31日 | 歴史を尋ねる

 ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実」は、原題が『DAY OF DECEIT   THE TRUTH ABOUT FDR AND PEARL HARBOR 』。監訳者 妹尾作太男氏は副題を「ルーズベルトの欺瞞の日々」としている。訳出の仕方は実にうまい。思わず本を手にしたくなる。
 前編では「1941年を通じて、日本を挑発して明らかな戦争行為をとらせるようにすることが、ルーズベルトの対日主要政策であったように見える。明らかな戦争行為という語句を含む陸海軍の司令が太平洋方面の指揮官に送られた」までだった。ここからがスティネットの発見し、分析した結果である。前回記したマッカラムの戦争挑発八項目のうち、最も衝撃的な項目は、日本の領海内または領海付近に米艦を故意に配備するという項目であった。ホワイトハウスで秘密会議が行われた時、ルーズベルトはこの項目は自分が担当すると語った。彼はこの挑発行動をポップアップ(飛び出し)と呼び、自分はそれらの巡洋艦があちこちでポップアップ行動を続けて、ジャップに疑念を与えるようにしたい。そのため巡洋艦を一隻は二隻失っても気にしないが、五隻は六隻を失う破目に陥りたくない、と。1941年3月から7月にかけて、ホワイトハウスの記録によると、ルーズベルトは国際法を無視して、ある部隊を日本海域に派遣した。最も挑発的な行動の一つは、瀬戸内海に通じる豊後水道への出撃だった。豊後水道のその先には日本海軍の本拠地江田島があり呉基地があった。日本海軍省は東京駐在のジョセフ・グルー米国大使に抗議した。「7月31日の夜、宿毛湾に停泊中の日本艦船は、東方から豊後水道に接近するプロペラ音を捕らえた。当直駆逐艦が探索して、船体を黒く塗装した二隻の巡洋艦を発見した。当直駆逐艦が向かっていくと、二隻の巡洋艦は煙幕に隠れて南方方向に見えなくなった。その船はアメリカ合衆国巡洋艦であったと信じている」と。

 マッカラムが覚書を作成した翌日の1940年10月8日、日本と極東に関する二つの重要な決定が下された。第一は、国務省が米国人に対して極東から可及的速やかに立ち去るよう告げた。第二は、大統領執務室で合衆国艦隊司令長官ジェームス・リチャードソン大将と前海軍作戦部長のウィリアム・リーヒ大将と時間を延長した午餐会で、大統領はマッカラムの6項目目、ハワイ海域を基地とする合衆国艦隊を維持する件を議題に乗せた。リチャードソンはこの提案を聞くと、合衆国艦隊を危険にさらすルーズベルトの計画を承認しなかった。彼は挑発のため軍艦を犠牲にすること、遅かれ早かれ日本は米国に対し明白な行為をとるだろう、米国民は喜んで参戦するだろう、というルーズベルトの語ったことに強く反対した。
 米海軍は1941年2月、大幅な再編成が行われた。リチャードソンは艦隊司令長官より外され、ルーズベルトは大西洋艦隊と太平洋艦隊を創設・承認した。この再編成により、ルーズベルトは先任海軍将校たちを飛び越えてハズバンド・キンメル少将を太平洋艦隊司令長官に抜擢し、大将に進級させた。キンメル提督がマッカラムの戦争挑発計画を知っていた証拠はない。「アメリカに対して第一撃を加えるよう日本を操るルーズベルトの戦略は、われわれには知らされていなかった」と、キンメルは1955年に刊行した著書の中で語っている。キンメルは「海軍省が入手可能な関係情報すべて、特に暗に真珠湾在泊艦隊への攻撃を示す情報を残らず自分に迅速に提供してくれるだろうとの確信を抱いて、私は太平洋艦隊を指揮することを引き受けた」と。
 アーサー・マッカラムは1940年2月23日、最初の諜報報告をホワイトハウスに送った。その報告は二通とも外交暗号だった。最初の電報でルーズベルトは、日本が蘭領東インドの東方、チモールのポルトガル領における石油の輸出権利を獲得するために外交的圧力をかけていることを知った。二通目は日本陸軍がボリビアに対してすず資源を獲得するために顧問を派遣するものだった。ルーズベルトは傍受電報の原文を読んだが、手元には置かなかった。返却されワシントンの無線監視局USにある、マッカラムの金庫に収納された。政府が真珠湾攻撃を阻止するのに失敗したことについて議会が質問を開始したとき、ホワイトハウスの文書回覧記録簿と秘密内容を含む日本の無線電報傍受記録は、すべて海軍通信将校が管理する地下金庫にしまい込まれた。

 1940年9月下旬か10月の第一週にかけて、陸海軍の暗号解読班は日本政府の主要な暗号システムを二つ解読した。それは主要外交暗号の紫暗号と海軍暗号の一部であった。海軍暗号は29種からなる別々の海軍作戦暗号で、艦艇、商船、海軍基地及び大使館付海軍武官にも暗号化され使用された。真珠湾の真実は外交暗号ではなく、海軍暗号の中に見出される。1997年12月の米海軍協会が発行している雑誌「海軍歴史」は、ミッドウェーの勝利は、米海軍の暗号解読員たちが、日本海軍暗号二十九種のうちの一つ、D暗号を破った結果、もたらされたものであった、記述されている。D暗号を五数字暗号と呼んでいた。その理由は、五つの数字の組み合わせで、日本語の一字か一句を表していた。ハワイ攻撃日本機動部隊旗艦赤城を表す五桁の数字は28494であった。彼らは五数字暗号の外に、別の三つの海軍暗号を解読していた。一つは海軍商船番号、二つ目は各種の日本軍艦、部隊、将校及び日本商船に付与された呼出符号、三つめが軍艦、商船、個人が自らの到着、出発、目的地を報告する海軍発着信通報暗号であった。日本海軍はこれら四つの海軍暗号を真珠湾攻撃以前から太平洋戦争が終わるまで使用した。アメリカが解読に成功したことは、厳重に秘匿された国家機密であった。ルーズベルト大統領は解読翻訳された日本電報の写しを規則正しく受け取っていた。
 アメリカの暗号解説者たちは、日本の四つの海軍暗号の解読を成功した時期については、未だに議論が絶えない。数度にわたる真珠湾調査で得られた証言では、日本海軍の暗号は1942年春まで解読されなかったと示唆している。スティネットの調査結果はこれと異なり、解読に成功したのは1940年の秋にはじめ、アーサー・マッカラムの覚書が大統領執務室に届けられたのと、大体同じころだった、と分析する。海軍作戦部長ロイヤル・インガルソン少将は、太平洋艦隊の二人の指揮官宛ての1940年10月4日付書簡で、日本海軍の戦略と戦術を探り出して予見する能力を米国が得たことを明らかにしていた。日本海軍の主要暗号である「作戦通信暗号(五数字暗号)」の解読は難題であった。解読できることは十分はっきりした、とインガソルが述べている。しかし時間がかかった。時間を短縮するため、米海軍は特別の暗号解読機をを開発した。この機械は国立公文書館に引き渡されていない。海軍の入手した五数字暗号の傍受暗号文も国立公文書館に引き渡されていない。この異常というべき秘密主義は、ルーズベルトが日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたのではないか、という疑いから遠ざけることを意図した措置である、とスティネット。

 1940年11月5日、大統領選挙の開票結果の第一報は、ウィルキーの勝利を暗示していたが、間もなくルーズベルトが有利となり、一般投票で票を稼いだルーズベルトはウィルキーに大差で圧勝した。書斎から現れたルーズベルトは「わが国は困難な状況に立たされていますが、皆さんが選んだ大統領はフランクリン・ルーズベルト、今までと変わりありません」 共和党は引き続き孤立主義を貫こうとしていたが、チャーチルが率いる英国政府は、全く異なる見解を示していた。海軍作戦部長のスターク提督はマニラにいるハート提督に「イギリスはルーズベルトの再選後、数日でアメリカは戦争に突入するだろうと予想している」と電報を打った。
 新年を迎え、マッカラムの戦争挑発行動八項目のうち、潜水艦24隻をマニラに派遣する、米主力艦隊をハワイ諸島周辺に配置する、日本が石油や原料を要求しても拒否するよう、オランダを説得する。海軍情報部は日本の外務大臣松岡洋右が1941年1月30日に発信した外交暗号電報を傍受解読して、日本の外交政策の変化を捉えた。「二国間の関係が危機的状況にあることを考慮に入れて、われわれは最悪の事態に対して準備を整えなければならない」 松岡はワシントン駐在の日本大使に米国内の諜報網の組織化、広報宣伝活動の変更を命じ、艦隊の動きと陸軍の演習とに関する詳細な報告を求め、航空機と艦艇の生産量について詳細な情報収集を指示した。日本の外交政策の中心は大東亜共栄圏と呼ばれる経済戦略であった。これは東アジア諸国を日本の通貨で統一しようという趣旨の経済政策で、アメリカ・イギリス・オランダなどの経済的な支配から、日本経済を保護するもので、天然資源に乏しい日本にあって、この地域の豊富な資源を確保しようという狙いもあった。そして最悪に事態を迎えた場合、交戦もやむを得ないというものだった。アーサー・マッカラムは、戦争挑発行動八項目を実施すればいつでも、この最悪の事態を招くことが出来ると確信した。最後の八項目目、日本経済を締め上げ全面的な通商禁止が実施されれば、やがて、最悪の事態は本当に訪れる、と。
 1940年当時、中部太平洋の日本軍事基地は、戦闘には全く適していなかった。それらの基地は、軍事的建造物は何もない、水深の深い錨地で構成されていた。燃料保管庫もなければ、乾ドックも修理工場もなかった。格納庫、燃料補給設備、飛行機などの航空機用諸設備は全然なかった。中部太平洋地域の軍事通信設備も、旧式のものであった。日本の真珠湾攻撃が計画され始めたのは1940年秋で、マッカラムの覚書がホワイトハウスに送付された一か月後のことであった。及川古志郎海相は実行に移すのが早かった。11月中旬、彼は山本五十六を海軍大将に昇進させ、日本帝国連合艦隊の指揮を命じた。及川と山本は英米と開戦する場合の戦略について話し合い、真珠湾を空から奇襲することにより開戦すべきであるということで、二人の意見が一致した。1941年1月半ば、山本は主要幕僚を任命して戦術を検討させた。山本が信頼している海運将校たちに真珠湾攻撃計画を打ち明けて間もなく、東京の米国大使館に真珠湾計画が漏れた。三等書記官ビショップがシティバンクの東京支店で両替しているとき、ペルーの日本駐在公使シュライバー博士から、「日本は軍事的資産をすべて投入して、真珠湾攻撃を計画している」と。ジョセフ・グルーは翌日国務長官ヨーデル・ハルに連絡した。ハルはこの電報を陸軍情報部と海軍情報部に配布した。マッカラムは米艦隊のハワイ駐留が日本を戦争に引き込みつつあることを太平洋艦隊に警告する代わり、太平洋艦隊司令長官に就任したばかりのキンメル大将に、「海軍情報部はこの情報を全く信用していない。日本陸海軍の現在の配備と使用とに関する既知にデータから、真珠湾への移動が差し迫っていなければ、予見しうる将来、計画されてもいない」と。

 1941年2月1日、米海軍の全面的組織替えが実施された。新しい太平洋艦隊には、展開される戦争挑発政策の監視役が組み込まれたが、この変化に気づいたものはほとんどいなかった。ルーズベルトはこっそり海軍情報部長ウォルター・アンダーソン大佐を少将に進級させ、戦艦部隊司令官という肩書で、太平洋艦隊所属の全戦艦に対する指揮権を与えた。アンダーソンは1939年6月から40年12月まで、海軍情報部の部長を務め、つねに政策決定の中心にいた。大統領と直接連絡を取り、連邦捜査局のフーバー長官とも、週に一度は会っていた。最も重要な点は、アメリカが日本の軍事暗号と外交暗号を破ったことを承知していたことだ。アンダーソンが旗艦を訪れた時、キンメルにそのことは伝えていない。キンメル大将同様、ハワイに陸軍司令官ウォルター・ショート中将にも暗号解読の秘密は明かされなかった。日本の外交暗号はショート将軍の指揮所から、ほんの数歩しか離れていないところで傍受されていたが、ここで傍受された暗号電報は無線でワシントンに転送され、海軍傍受局USのパープル暗号機械で解読された。キンメルは艦隊の指揮を執って間もなく、情報網から締め出されていることに気づいた。キンメルはスタークに機密性の高い情報についてその責任を果たすよう要請した。さらにキンメルは情報網に入り込もうとして手を打った。しかしこれも守られなかった。1941年7月末頃には、キンメルはワシントンの情報網から完全に排除された(1941年7月15日から12月7日までの分について、それをタイムリーに解読する手段がなかったようだ。1941年当時、アメリカの暗号解読班がすぐに読んでいたか否かは、1999年現在も議論が絶えない。その是非を証明する方法もなく、また五数字暗号の解読方法も公表されていない。そのような議論は議論するに値しないと著者は考えている。なぜならば、その答えは全く明らかであるから。政府当局はキンメル大将とショート中将らハワイの司令官に、自分たちとは無関係に日本の真珠湾計画を知られて、日本の明白な戦争行為を阻止されたくなかったのだ、と)。

 1940年秋から41年初めにかけて、マッカラムの二つの項目が実行に移された。一つは「蘭領東インド内の基地施設の使用並びに補給物資の取得に関する、オランダとの協定を締結」と、もう一つは米国が「日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張する」ことであった。1940年9月、日本はオランダが石油などの対日輸出をじわじわと絞めてくるのを感じて、石油製品その他の天然資源の日本への流れを維持するため、ジャワ島での外交会議をオランダに申し出た。日本代表団を率いるのは商工大臣小林一三で、オランダの代表はムック経済相であった。小林とムックとの間で行われた外交交渉は過熱し、日本代表団は怒って、オランダ代表団はワシントンの傀儡に過ぎないと主張した。卓上には、蘭領東インドの膨大な石油資源から石油と石油製品を獲得するための権利が含まれた、日本の提案書が置かれていた。日本はオランダに対し、最低でも年間三百十五万トンの石油を提供するよう要求した。そして五年間という条件を追加した。ムック経済相は小林を𠮟責し、日本の石油要求は非常識だ、石油製品の生産と販売はオランダの会社が行っており、オランダ政府は管理しているにすぎないと主張した。その後1941年6月まで、期間を延長して外交交渉を続けたが、オランダから石油を入手することはできなかった。傍受電報は蘭領東インドへの日本経済使節団に言及し、また可及的速やかに蘭領東インドを占領することに、日本が関心を抱いていることを明らかにしていた。しかしアメリカは蘭領東インド問題で参戦するだろうか、ルーズベルトは疑問に思った。東南アジア問題への介入を、アメリカ国民はほとんど支持しない、と彼は感じていた。10月8日、ホワイトハウスでリチャードソン大将は昼食を共にしたとき、大統領の回答を語っている。「私は大統領に参戦するのか、と尋ねた。日本がタイ、クラ海峡、蘭領東インドのいずれかを侵略しても、われわれは参戦しない。彼らがフィリピンを攻撃しても、参戦するか、疑問に思っている。しかし、彼らは常に過失を避けることはできないだろうし、戦争が続き、作戦地域が拡大すれば、遅かれ早かれ、われわれは参戦することになるだろう、と大統領は答えた」 
 米国海軍通信将校のマッカラムと駐米オランダ大使館付海軍武官ヨハン・ランネフト大佐は緊密に協力関係が出来ていた。1940年12月、小林使節団に関わる傍受電報に関しマッカラムはランネフトに電報の写しを渡した。ランネフトはロンドンに亡命中のオランダ政府に報告、日本への土地貸与は拒否された。オランダの暗号解読班は、ジャワ島バンドンにあるカーメル14で日本海軍の通信を盗聴していた。12月7日までの期間、アメリカ・イギリス・オランダの三か国間で、海軍秘密情報について緊密な協力と情報交換が実施されていた。フランク・ノックス海軍長官は、極東の米海軍情報当局者が特に重要な情報を交換することで、イギリスとオランダの海軍情報部に協力していると、ハル長官に語っている。941年の春から夏にかけて、ホワイトハウスが日本とオランダの石油交渉を裏で操っていた。3月19日、オランダ外相クレフェンズ博士とルーズベルトはホワイトハウスで会談し、オランダ外相は会談後、日本のあらゆる要求を拒否してきたし、今後もこの態度を貫くつもりである、と。1941年、クレフェンズ外相とランネフト大佐、日本の軍事及び外交情報を交換しながら、ルーズベルト政権との密接な関係を維持した。
 1941年12月初旬、ランネフトは日本の空母兵力が移動していることを知った。この報告はワシントンの海軍情報部から入手した。ランネフトの日記によると、一か所はハワイの真西であり、もう一つは日本から東に向かう空母の動きだった。その詳しい位置情報について、日記の中では触れていない。しかし太平洋の海図を見れば、ハワイから真西はその先にマリアナ諸島があり、さらにフィリピン海に達する。実際は日本の第三航空戦隊と第四航空戦隊が、フィリピン海で東南アジア進攻の準備中であった。問題は、日本から東寄りに進路を取っている日本空母部隊について、ランネフトがその位置を指摘したことであった。12月2日、ランネフトは海軍情報部を訪ねた際、海軍諜報航跡図に日本を出港して東寄りの航路を進んでいる二隻の空母の航跡が記入されているのを見た。その週の12月6日、彼は海軍情報部が記録を続けている、日本艦船の最新の航跡図を見た。この時マッカラムと彼の上官で海軍情報部長のウィルキンソン大佐は日本空母部隊を指さして、ホノルルの西方への分離を指摘した。日記の記述は「1941年12月2日、海軍省で会議。日本を出港し東寄りの航路を進んでいる二隻の日本空母の位置が、海図上で私に指し示された」 米海軍の公式記録もランネフトの日記の記述を支持している。
 太平洋には11の米海軍傍受局がありハワイ・オアフ島には傍受局Hと無線監視局HYPOが設置されていた。HYPOはH局の傍受電信員たちが受信した、日本海軍の電報を解読・翻訳した。H局で受信した電報と、H局のそれら電報の無線日誌とは、アメリカが真珠湾攻撃を事前に知っていたことを示す、有力な証拠である。しかし記録の多くは、1941年から46年にかけて行われた何回もの真珠湾調査及び1995年の議会による調査委員会からも除外された。最も有力な証拠は11月25日、第一航空艦隊宛ての山本連合艦隊司令長官の電報である。当時31隻の艦隊は千島列島の単冠湾に錨泊して、出撃する指令を待っていた。山本は第一報で「機動部隊は極力その行動を秘匿しつつ、11月26日朝単冠湾を離れ、12月3日午後、北緯42度東経170度の地点に進出し、速やかに燃料補給を完了すべし」 第二報では、「機動部隊は極力その行動を秘匿しつつ、対潜対空警戒を厳にしてハワイ海域に進出し、開戦劈頭、在ハワイの敵艦隊主力を攻撃し、これに致命的打撃を加えるものとする。最初の航空攻撃はX日の明け方とする。正確な日時は後令する。空襲終わらば機動部隊は緊密に連携を保ち、敵の反撃に備えつつ、速やかに敵海域を離れ、内地に帰投するものとする。対米交渉成立の場合、機動部隊は警戒態勢を維持しつつ帰投し、再編成を行うものとする」 これら二通の電報は、日本側の通信データはすべて取り除かれ、傍受局がどこかも示されずにワリン中将『真珠湾』と合衆国戦略爆撃調査団海軍分析課編集『太平洋戦争の会戦』という二冊の米海軍歴史書に、1941年に米海軍無線監視局で傍受されたまま、日本海軍の電報形式に則った形で掲載されている。
 無線傍受局Hの記録によると、山本は11月24日午後1時から26日午後3時54分の間に呼出符号で13通の無線電報を打っている。1979年、ジミー・カーター大統領が国立公文書館に公開を指示した傍受日本海軍電報ファイルの中から、これら13通の電報は行方不明となっている。日本艦船の航路通報は傍受局Hが傍受した暗号電報記録により、発信されたことが実証されているが、それらのうち一通も、1946年の上下両院合同調査委員会にも、1995年の国防総省の調査委員会にも、提示されなかった。それどころか、日本艦船は無線封止を続けていたので、アメリカの無線情報部は日本艦船を見失ったと、議会で証言した。キンメル司令官の情報参謀レイトンもこの主張を支持した。1946年、レイトンは公聴会で、真珠湾攻撃までの25日間、日本空母部隊・空母部隊指揮官に対する日本の使用していた周波数帯域での無線通信は聞かれなかった、と証言した。しかし、レイトンは隠蔽工作を行った、とスティネット。日本軍の暗号電報傍受記録は入手可能であったのに、レイトンは日本艦船の単冠湾への移動について、キンメル司令官への報告を怠った、と。コレヒドール、グアム、ハワイ、アラスカにある海軍無線監視局は、確かに無線暗号電報を受信していた。機動部隊、31隻の艦船とその司令官たちは、11月12日から12月7日の奇襲まで25日余りの間、無線封止を破って発信し、また東京から電報を受け取っていた。
 ランネフトの記述によると、傍受電報と海図上に記入された航跡は、日米との衝突が差し迫っていることを暗示していた。彼はこの件について次の通り語った。「われわれの間では誰もホノルルが攻撃される可能性について、言及しなかった。私自身も、そのことを考えなかった。なぜならホノルルにいる各人が、海軍情報部にいる者と同様、100%警戒している、と私は信じていましたから」

 アメリカは1920年代の初めから、日本政府の通信盗聴を続けてきた。ルーズベルト政権の軍部指導者たちは、これを「見事な配備」と呼んだ。1941年、無線傍受局は太平洋を囲むようにして、25か所に設置されていた。この中には日本の軍事暗号と外交暗号を解読した四か所の暗号傍受解読局が含まれていた。オアフ島にあるホーマー・キスナーのH局、ジョセフ・ロシュフォートのHYPO、さらにコレヒドールのCAST,シアトル近くのSAIL。無線傍受局の配置には極めて大規模な分野での努力と成功を必要としたが、これによってアメリカは日本政府の動向を多年にわたり常に把握することが出来た。ジョセフ・ロシュフォートと彼が指揮するHYPO局とは、真珠湾の悲劇と第二次世界大戦で、凄まじい暗号解読劇の主役を演じた。ロシュフォートは暗号作業に秀いで、大尉に昇進して、諜報部隊を立ち上げるのに携わり、上司が海上勤務を命じられると、ロシュフォートは担当将校となって部隊は無線監視傍受局USとなった。監視局は海軍12,陸軍4で運営され指揮権は各局に委任されていた。米海軍の日本監視プログラムは史上最大規模で、SAIL,CAST,HYPOの各局がそれぞれの地域の無線傍受統制中枢としての役割を果たした。傍受した電報の解読と翻訳とは四局、太平洋地域ではCASTとHYPO,ワシントンではUSと陸軍通信情報部で行われた。イギリスの監視局はシンガポール、香港、カナダのバンクーバー。オランダは蘭領東インドのバンドンに無線監視、暗号解読局カーメル14が置かれていた。以上が見事な配備の全貌であった。
 ロシュフォートの指揮するHYPOは約140名の無線諜報スペシャリストを抱えていた。さらに32名のスぺシャリストがダッチハーバー、ミッドウェー、サモア、オアフで無線方位測定器の操作に当った。さらにオアフ島の沿岸警備隊の暗号解読員もHYPOに傍受情報を提供した。オアフ島では毎日一千通の日本軍事情報を傍受解読し、調べる必要があった。中部太平洋情報ネットワークは、その努力を日本海軍情報だけに集中して、外交情報は収集しなかった。外交情報の収集はCASTとSAILの任務だった。ロシュフォートは任務に忠実であったが、翻訳するだけでなく、予測までした。しかし、フィリピンには陸海軍共同の暗号諜報施設があったが、オアフ島ではHYPOと陸軍無線傍受局FIVEとの間には連絡網がなかった。ウォルター・ショート陸軍中将の管理下にあったFIVE傍受電信員は日本の外交電報を受信していたが、パープル暗号解読機がなかったので、CASTかワシントンに解読を頼むしかなかった。ショート中将はFIVEで傍受した無線の重要性に気が付き、ロシュフォートに陸軍の傍受電信員に解読するよう指令を出してほしいと要請したが、ロシュフォートの反応も検閲のために明かにされていない。
 アメリカ太平洋艦隊司令官が、これら諜報コミュニティの機密情報に接触できたのは、キンメル大将が解任された12月16日」のことである。その日、一時的にキンメルの後任に就くことになっていたウィリアム・パイ中将が、南雲の845通目の電報を受け取った。電報になかで奇襲攻撃による太平洋艦隊の損害を報告していた。キンメル大将と太平洋艦隊とは「見事な配備」の受益者であるべきだった。それがUS局の局長ローランス・サフォードの意図であった。彼は6月1日まで、ロシュフォート、百四十名の暗号解読員と電信員及びキンメルに、そのように伝えていた。1941年7月15日よりHYPOは、日本海軍の活動情報を毎日、要約して報告していた。12月6日朝、キンメルがロシュフォートから最後の通信情報概要を受け取るまでに、11万2千通の日本海軍無線電報がH局で傍受されていたが、日本の攻撃を示唆する傍受電報は、一度も通信情報概要に現れなかった。また第一航空艦隊が真珠湾攻撃を計画していた時、同艦隊が発信した844通の電報のうち、どれ一つとして通信情報概要に記載されてなかった。
 1944年ルーズベルトが四期目の大統領選に出馬したとき、共和党候補のトーマス・デューイが「見事な配備」を知り、ホワイトハウスは真珠湾が攻撃されるまで日本の電報を読んでいたのなら、太平洋艦隊はなぜ不意打ちを食らったのか、ルーズベルトを破る方法を思いついた。しかし、そんなことをすれば、日本は直ちに暗号を変更してしまうだろうと、当時、統合参謀本部議長だったジョージ・マーシャル陸軍大将は、暗号問題を選挙キャンペーンに利用しないよう、アメリカ人の命がかかっているとして、デューイを説得した。

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真珠湾の真実 前編

2022年01月25日 | 歴史を尋ねる

 「東京裁判が進行中だが、米国が先に開戦を計画していたという情報的証拠が欲しい」と極東国際軍事裁判、日本人弁護団副団長の清瀬一郎が、旧特情部の企画運用課長横山幸雄中佐を呼び寄せたと前回のブログで記述したが、清瀬が探したこの情報は東京裁判の計画的筋書をひっくり返す力があったという。つまり日本の真珠湾攻撃は奇襲であったかどうか。アメリカが先に日本から先制攻撃をさせるよう仕組んだという話は後を絶たない。しかし米国側の情報公開もその辺は弁えている。決定的情報は非公開である。しかしロバート・B・スティネットは1982年から1999年にかけて、第二次世界大戦以前の軍事記録はワシントンの国立公文書館、第二次世界大戦とそれ以降はメリーランド州カレッジパークに保管されている軍事記録を調査した。参照情報は、1941年12月22日~1946年5月30日までの八回にわたる国が行った真珠湾調査の公式記録、米国の上院及び下院によって任命された特別委員会により1945年~1946年にかけて実施された上下院合同真珠湾攻撃調査委員会が収集入手した文書、無線監視局USと海軍秘密保全グループコマンドが入手した通信諜報約百万件の文書類が収録されているがそのうち閲覧を許可された文書約六千件、ジミー・カーター大統領が1979年に公開した日本の海軍電報の解読・翻訳文三十万点。スティネットは著書『真珠湾の真実』の執筆に当って引用した文書類、録音テープ、ビデオテープ、写真、画像、ネガ等をすべてカルフォルニア州スタンフォード大学フーバー公文書館に収め、これらのコレクションを一般公開するという。さらに本書は米国の情報の自由法起案者、ジョン・モス下院議員に捧げる、情報の自由法がなかったら、本書で明らかにした情報は、決して日の目を見ることは無かっただろう、そしてスティネットの唯一の目的は、海軍基地及び周辺の陸軍施設に破壊的攻撃をもたらすに至った出来事の真相を明らかにし、それがフランクリン・ルーズベルト大統領とその軍事・政治顧問である側近高官の多くの者にとって、決して奇襲ではなかった事実を伝えることにある、と。
 太平洋戦争を経験した退役軍人の一人(スティネット)として、五十年以上もの間、アメリカ国民に隠蔽され続けた秘密を発見するにつれて、著者は憤激を覚える。しかし、ルーズベルト大統領が直面した苦悶のジレンマも理解した。自由を守る戦いに参加するため、孤立主義に陥っているアメリカを説得するに、彼は、回りくどい手段を発見するほかなかった。そのためには人命を犠牲にするだろうことを承知していたが、それが何人になるのかは知ることが出来なかった。アメリカ国民は、第一次世界大戦において世界を民主主義のために安全な世界を作ろうとした米国の理想が失敗したことに幻滅を感じていた。アメリカ国民の多くは、再び起こる戦争の恐怖から若者たちを守るため孤立主義を唱え、ルーズベルト大統領が息子たちを外国の戦争には送らないだろうと信じていた。しかし、アメリカ国民は自国に対する明らかな武力行為には反撃するだろうと、ルーズベルト大統領は考えていた。そこで、ルーズベルトが側近たちと示し合わせて下した決定は、一連の行動を通じて日本を明らかな戦争行為、つまり真珠湾攻撃へと挑発することであった。
 17年間にわたる公文書の調査及び米海軍暗号解読者たちとの直接インタビューの過程で、ルーズベルトのジレンマを解決した答えは、情報の自由法に基づく請求により入手した途方もない数の文書の中に記録されている、とスティネット。それらの文書には、アメリカを戦争に介入させ真珠湾及び太平洋地域の諸部隊を戦闘に叩き込むべく、明らかな戦闘行為を誘発するために計画、実施された、権謀術数の限りを尽くした措置が記述されている。日本を挑発するために、ルーズベルトには八つの手段が提案された。彼はこれらの手段を検討し、すぐに実行に移した。第八項目の手段が実行されると、日本は反応してきた。1941年11月27日及び28日、米軍司令官たちは、次の命令を受け取った。「合衆国は、日本が先に明かな戦争行為に訴えることを望んでいる」と。ヘンリー・スチムソン陸軍長官によれば、これはルーズベルト大統領から直接出された命令であるという。

 1941年12月7日の出来事を、アメリカが事前に知っていたか否かについて、議論が絶えない。戦争を匂わす日本の外交電報が傍受解読されていたことは、ずっと以前から承知している。しかし、スティネットが発見したことは、われわれはそれ以上に多くのことを承知していた。われわれは戦争挑発手段を実施したばかりでなく、日本海軍の電報も傍受解読していた。日本が攻撃を開始することにより、太平洋艦隊及び太平洋地域の市民たちを含む米軍部隊が大きなリスクに曝され、危険な状態になる事実を、ルーズベルトは受け入れた。ハワイの米軍指揮官、ハズバンド・キンメル海軍大将とウォルター・ショート陸軍中将には、彼らをより警戒させる秘密軍事情報は提供されなかったにせよ、彼らは「合衆国は、日本が先に明かな戦闘行為に訴えることを望んでいる」という大統領命令に従った。20万通以上の文書とインタビューにより、スティネットはこの結論に到達した、と。それではスティネットの調査結果を紐解いてみたい。
 「真珠湾攻撃の数日前、CBSラジオの取材記者ムロー夫妻は大統領夫妻から夕食に招かれた。真珠湾攻撃に関する第一報が入り、ムローは予定を確認したところ、夕食会は予定通り開くとの返事だった。大統領は議会と軍部の指導者たちと会議に入っているため夕食会に参加できないと告げられたが、食事中ムローは少し残るよう伝言があった。12月7日の晩、ルーズベルトは一晩中、議会や軍部の指導者たちと会談し、翌12月8日、開戦措置第一号をとるつもりで、議会に対し対日宣戦布告を要請する決心を固めた。「汚辱の日」として知られる宣戦布告演説の草稿も、この時に準備した。それから大統領はムローとドノバン(大統領の情報調整役、のちにCIAの前身である戦略情報局を創設した)を大統領書斎に招き入れ、25分間会談したが、公式記録は残されていない。ドノバンがヒューベルに後に語った内容が彼に日記に記録されている。大統領はムローとドノバンに、日本の第一撃は枢軸諸国に対して米国民を一致団結させるための、宣戦布告を行う明瞭な論拠となるか否かを尋ねた。あの一撃は、実際にその効力を持っているだろうと、二人が答えた。大統領は、ホワイトハウスの他の者ほどには驚いていない、むしろ歓迎していると、ドノバンは感じていた。大統領は、日本の攻撃は差し迫っている、と真珠湾に事前に警告していた。「ビル、奴らはわが艦船をまるで能なし野郎のように攻撃してきた。われわれは真珠湾やその他すべてに見張りを置くように言っておいたのに、奴らはそれでもなお、われわれを奇襲したのだ」。 大統領はそれでもアメリカの孤立主義者が考えを改めるとは思えない様子で、英国外務省役人のメッセージを読んで聞かせた。再び二人に意見を求めた。アメリカ国民は宣戦布告を支持するだろうか。ドノバンもムローも、きっと支持するだろうと答えた。大統領は真珠湾攻撃に対する国民の反応を最も懸念していた、とこの会談の内容についてほのめかしたのはドノバンだけだった。
 その晩、ムローは妻に語った。「わが取材人生で最大の特ダネだけれど、これを伝えることが自分の務めなのか、それとも聞かなかったことにするべきなのか、判断ができない」。結局のところ、ムローの特ダネが記事になることも、ラジオで放送されることもなかった。ただその情報が何であるにせよ、それはムローに重くのしかかった。ムローの伝記作家によると、「彼はそのことを忘れることも出来ず、特ダネを公表しなかったことで、ときどき自分を責めたりした。あの晩、彼は自分の務めを見極めることも出来ず、ルーズベルト大統領の意図を汲み取ることも出来ず、どうしたら気が済むのかを、決めかねていた」、と。ムローは口を閉ざしたまま、1965年、57歳で亡くなった。」


 スティネットは言う。この会談の当事者たちが明らかにしていないので憶測で語るしかない。ルーズベルトが真珠湾を予知していたか否かを解決するのに役立つ、より多くの直接的な証拠がある。これまでの説明では、真珠湾以前に日本軍の暗号を解読していなかったと言われている。今や、この主張が間違っていることを知っている。また以前の説明では、日本艦隊は厳重な無線封止を守っていたといわれていたが、これも間違っていた。事実ははっきりしている。ルーズベルト大統領は、日本の真珠湾攻撃を事前に知っていた。真の論点は、日本が真珠湾を攻撃するよう、ルーズベルトが慎重に仕向けたのではないか。米国が人目につかない戦争挑発行動を先に取っていたのではないか。1940年10月7日に作成され、ルーズベルト大統領に採用された、ある極秘戦略覚書によると、そうした行動がいくつか、実際にあった、と。
 戦火がヨーロッパとアフリカの一部に広がり、日本、ドイツ、イタリアが三大陸で諸国を脅かしていた時、ワシントンの海外情報部で作成され、ルーズベルトの最も信頼する二人の顧問あてに作成された覚書には、米国の衝撃的な新しい外交政策が提案されていた。それは日本を挑発して米国に対し、明らかな戦闘行為をとるよう企図したものであり、海軍情報部極東課長アーサー・マッカラム海軍少佐が作成した文書だった。彼は1898年宣教師であった両親の間に長崎で生まれ、少年時代を日本の諸都市で過ごし、英語よりも日本語が喋れた。父の死後、アラバマ州に帰り、18歳で海軍兵学校に入校、22歳で海軍少尉に任官すると、駐日アメリカ大使館付海岸武官を命ぜられて来日、日本の皇族とも繋がりが出来た。マッカラム少佐が1940年10月に作成された文書(戦争挑発行動八項目覚書)には、アメリカを動員加担させる状況を作り出そうという計画が認められていた。その八項目の行動計画は、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊並びに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本軍に攻撃させるよう要求したものだった。1940年夏の世論調査では、米国民の大多数は、アメリカがヨーロッパの戦争に巻き込まれることを望んでいなかった。しかし、ルーズベルト政権の陸海軍省と国務省の指導者たちは、ナチス・ドイツ軍が欧州戦争で勝利を収めたら、米国の安全保障に脅威になるだろうという点で意見が一致していた。米国が行動を移すための呼びかけが必要だと感じていた。
 マッカラム(情報将校)はF-2というコード名を与えられ、1940年前半~1941年12月7日まで、ルーズベルトに届ける通信情報の日常業務を監督し、日本の軍事外交戦略に関する諜報報告を提供していた。傍受解読された日本の軍事外交報告は、海軍情報部極東課を通してホワイトハウスに届けられ、マッカラムが監督した。極東課は日本だけではなく東アジア諸国全部について担当していた。大統領のために準備した各報告は、世界中に張りめぐされた米軍の暗号解読員と無線傍受係の手で収集解読された無線電信の傍受記録が基礎となっていた。当時のアメリカ政府や軍部の中で、日本の活動と意図について、マッカラム少佐ほどの知識を持っている人物はほとんど見当たらなかった。彼は日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合の良い時に、日本から仕掛けてくるよう挑発すべきと感じていた。1940年10月作成のマッカラム覚書の中で日本を対米戦に導くと考えた八項目は、①太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。 ②蘭領東インド(インドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。 ③中国蒋介石政権に可能なあらゆる援助の提供。 ④遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣すること。 ⑤潜水戦隊二隊の東洋派遣。 ⑥現在、太平洋のハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。 ⑦日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう要求すること。 ⑧英帝国が日本に対して取っている通商禁止と協力して、日本との全面的な通商禁止。  この八項目覚書は、ルーズベルトが最も信頼していた二人の軍事顧問、アンダーソン海軍大佐とノックス海軍大佐に送付された。アンダーソンは海軍情報部長で、直接ホワイトハウスのルーズベルト大統領に面会できた。マッカラム覚書の末尾にノックスの承認メモが残され、アーノルドとルーズベルトが閲覧した証拠も見つかった。

 1941年を通じて、日本を挑発して明らかな戦争行為をとらせるようにすることが、ルーズベルトの対日主要政策であったように見える、とスティネットは言う。そこで前もって、この時代の日米関係の詳細を、ビアード著、開米潤監訳「ルーズベルトの責任」巻末を参考にして、整理しておきたい。
 1939年9月1日、ドイツ、ポーランド侵攻。3日、アメリカ、欧州戦争に中立を宣言。1940年1月26日、日米通商航海条約が失効。9月22日、日本、北部仏印に進駐。27日、日独伊三国同盟成立。10月8日、ルーズベルト、リチャードソン太平洋艦隊司令官に「遅かれ早かれ、やつら(日本)は過ちを犯し、われわれは戦争に突入する」と発言。11月2日、ルーズベルト、大統領選挙でこの国は戦争に突き進まないと公約。1941年1月6日、ルーズベルト、一般教書演説で連合国に戦争必需品を貸与する支援計画を発表。10日、武器貸与法案が中立法を打ち消すものでないと発言。このころの聴聞会で、ハル国務長官「自衛にための仕組み」、ノックス海軍長官「わが国の息子たちを戦争にやらずにすむ唯一の方法」、スティムソン陸軍長官「必然的にアメリカの参戦につながるものではない」と説明。21日、ルーズベルト、駐日グルー米大使からの「いずれ日本と正面衝突することを避けられず」との手紙に「まったく同感」と返信。2月1日、太平洋艦隊司令長官に、リチャードソン海軍大将を更迭し、キンメル海軍大将が就任。11日、野村吉三郎駐米大使が着任。3月11日、武器貸与法案が成立。 4月3日、スターク海軍作戦部長、キンメル大将に問題は戦争に参加するかではなく、いつ参加するかだと手紙。4月13日、日ソ中立条約締結。 5月6日、スターリン、ソ連首相に就任。16日、野村・ハル会談。ハル長官は日米了解案を踏まえて日本政府の正式な訓令を要請。5月27日、ルーズベルト、国家非常事態を宣言。合衆国は防衛のみを目的としているが、現代の戦争は瞬く間に展開されるのでパトロール活動を大西洋の南北海域に拡大し艦船と航空機を追加投入していると発表。 6月11日、ノックス海軍長官、米駆逐艦が独潜水艦を撃破したとの報道に何も知らないと発言。その後新聞各紙に、海軍の行動については海軍省が適正とみなすニュースのみを活字にするよう警告。14日、ルーズベルト、独伊の資産凍結を命令。21日、野村・ハル会談、米国側が日米了解案の訂正案をオーラルステートメントとして手交。22日、独ソ開戦。25日、日本、南部仏印進駐を決定。 7月2日、ノックス海軍長官、海軍の遭遇戦・護送の報道は絶対に真実でないと否定。11日、合衆国とアイスランド国籍の船舶の護送を命じる。16日、第二次近衛内閣総辞職、外相を松岡洋右から豊田貞次郎に変えて第三次近衛内閣成立。7月25日、アメリカ、日本の資産凍結。 8月1日、合衆国、全侵略国に石油禁輸を含む経済制裁を適用。8月6日、野村・ハル会談、日本側、仏領インドシナから将来撤退することを提案、制裁解除を求める。9日~12日、大西洋会談。ルーズベルト、①日本に対して警告文を出す、②アゾレア諸島を占領する、③戦後、米英は世界の警察官として治安維持にあたる、とチャーチルと合意。日本を「三十日間はあやしておけるだろう」と発言。17日、野村大使、ルーズベルトに近衛首相との太平洋会談の提案を伝達。ルーズベルトは、日本政府が近隣諸国に武力政策をこれ以上推進すれば合衆国の安全保障上必要とみなすあらゆる措置を講じなければならなくなるとの警告。24日、チャーチル、日米交渉で和解の希望が絶たれればイギリスはためらうことなく合衆国の側につくなどとラジオ演説。28日、米海軍、軍事行動を南東太平洋の海域に拡大。野村大使、ルーズベルトに太平洋会談開催を要請する近衛首相の親書を手交。 9月3日、大統領報道官、近衛首相が大統領に直接会談を提案したとの報道を否定。実際には同日、日本に首脳会談に先立ち事前討議が必要と回答。6日、近衛首相、アメリカの提示した四大原則に完全に同意と返信。アメリカ側はそれでは不十分だとしてさらなる原則や表現に関する合意が必要と回答。ハル国務長官、日米間の調停を目指す予備的対話の進展について何も知らないとの報道。11日、ルーズベルト、グリアー号が独潜水艦に攻撃されたのであって、ヒトラーと武力紛争を望んだことは無いと演説。同日、防衛水域での枢軸国艦船への攻撃を許可。23日、スターク海軍作戦部長、キンメル大将に大統領が大西洋と南東太平洋下部地域に限って、発砲命令を出しているとの手紙。29日、グルー駐日米大使、日本政府が大統領との平和会談をますます切望しており、この好機が逃されないことを切望するとワシントンに報告。 10月2日、合衆国、日本に四原則の確認と仏印、中国からの撤兵要求の覚書。ドイツ、モスクワ攻撃を開始。5日、大本営、連合艦隊に作戦準備を命令。15日、ゾルゲ事件。16日、近衛内閣、総辞職。18日、東条英機内閣が成立。27日、ルーズベルト、カーニー号事件でアメリカは攻撃を受けた、中立法は時代遅れになったと発言。 11月4日、ハル国務長官、東条内閣が切望する合衆国との和解に向けた最後の提案として野村大使に送った傍受通信を入手。11日、国務省の極東部、日本との暫定合意をハル長官に勧告。15日、来栖三郎特使、ワシントンに到着。22日、ハル長官、野村大使と来栖特使と会談。日本側は仏領インドシナ南部からの引き揚げを含む計画を提案。25日、ルーズベルト、ハル国務長官・ノックス海軍長官・スティムソン陸軍長官・マーシャル陸軍参謀総長・スターク海軍作戦部長との会議で「早ければ次の月曜日(12月1日)にも」攻撃される公算を指摘。「どのようにしてわが国にさほど甚大な危険を招くことなく奴らが最初に発砲するように導くか」を議論。25~28日の政府高官会議でハル国務長官、①日本との合意に達する可能性は事実上全くないと発言、②安全保障問題は陸・海軍の手にゆだねられた、③日本の奇襲を防衛戦略の中心に据えるべき、と発言。 26日、連合艦隊のハワイ作戦機動部隊、単冠湾を出港。ハル国務長官、野村大使と来栖特使に覚書を手渡す(ハル・ノート)。日本に中国とインドシナからの全面撤退、中国国民政府のみを認めるなどを要求。日本政府代表は本国で最後通告とみなされる可能性を指摘。27日、陸軍省、ハワイのショート中将に「日本との交渉は事実上打ち切られた模様だ」「合衆国は日本が最初に外的行為をとることを希望する」、日本が敵対行為を始める以前に任務遂行にあたっては一般市民の警戒心を招くこともその意図が露呈することもないようにとの警告を送付。同日、海軍省、ハワイのキンメル大将に「戦争警告とみなすべし」「日本との交渉は終了した」、戦争に定められた防衛体制の配備を命じる通信を送付。28日、日本がクラ地峡に侵攻してイギリスが戦う場合は合衆国も参戦せざるを得ないとの見解で一致。同日、陸軍情報部、日本政府がハル・ノートを屈辱的な提案、交渉は事実上決裂したと駐米大使宛ての通信文を傍受。29日、ハル国務長官、イギリス大使と会談し対日関係で外交が果たす役割は事実上終わり、問題は陸・海軍の手に移ると説明。また日本は早急に意外性のある行動を起こし特定の陣地や基地を獲得するかもしれないと発言。 12月1日、ルーズベルト内閣、アングロサクソン諸国と日本との間で早期に戦争が勃発する危険性を伝える東京から駐ベルリン大使宛ての傍受通信を入手。2日、ルーズベルト、日本政府に仏印南進の理由を公式に問い質したと発表。記者会見で「日本と平和状態にあり、それも完全に友好関係にある」と発言。5日、野村大使と来栖特使、ハル国務長官に仏印での軍事展開は予防のためであり、ABCD諸国の軍備増強に危機感を募らせていると回答。6日、オーストラリア海軍情報部、日本の艦隊がハワイに急行していることを確認。同日、陸軍情報部、ハル・ノートへの日本政府の返書とこれを手渡す時間が送られることを通知した豊田外務大臣から野村大使宛て極秘通信を傍受。午後9時、ルーズベルト、天皇に平和と協調を訴える親書を送信。午後9時半過ぎ、ルーズベルト、日本の傍受電報を受け取り、「これは戦争ということだ」と発言。7日午前4時37分、米海軍基地、日本の「午後一時」通信を傍受。午前10時、米海軍大尉、ホワイトハウスと国務省に日本が真珠湾とフィリピンを攻撃するとの情報を伝達。午前10時半過ぎ、スターク海軍作戦部長、午後一時通信を受け取る。その後11時までに、ハル長官の補佐官、大統領補佐官にも届けられた。午前11時過ぎ、マーシャル大将、午後一時通信を受け取りハワイに戦争警告を民間の電信で発令。午後一時、野村大使、ハル国務長官に面談を申し入れ。午後一時半ごろ、日本、真珠湾を奇襲攻撃。午後1時50分、海軍省、真珠湾が空襲の至急報を受け取る。午後2時、ルーズベルト、ハル国務長官に真珠湾攻撃を告げる。午後2時5分、日本の代表団、20分遅れで国務省に到着、5分後にハル長官と面談。ハル、「この地球上にここまで大きな歪曲と破廉恥な嘘を口にできる政府があるとは今日まで想像したこともなかった」 8日、ルーズベルト、議会に戦争状態の宣言を要請。「屈辱の日」演説。日本がいわれのない、卑劣な攻撃を行ったと説明。イギリスも対日宣戦布告。ドイツ、対ソで苦戦。ヒトラー、モスクワ攻撃を放棄。11日、ドイツとイタリア、アメリカに宣戦布告。16日、ハワイ司令官のキンメル海軍大将、ショート陸軍中将を解任。18日、ルーズベルト、真珠湾事件を調査するロバーツ委員会を設置。22日、ルーズベルトとチャーチル、ワシントンで戦争指導会議。 
 以上はチャールズ・A・ビーアド著「ルーズベルトの責任」の訳者(開米准)がビアードの原書で言及された事項を基に作成されたものである。時系列に事実関係を羅列しただけで、当時の状況が浮かび上がってくる。ビアードは真珠湾攻撃を単に歴史に重大事件として記録するのではなく、ルーズベルト大統領が参戦を決定するまでの過程を炙り出した大統領陰謀説の嚆矢ともなった。これに、スティネットはどんな事実関係を追加したのか。文字数がかさんだので、続きは次回としたい。

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情報に無知な組織、国家、軍による悲劇

2022年01月09日 | 歴史を尋ねる

 歴史を訪ねるシリーズは終えたが、その間にいろいろ考えたことを拾い上げながら、小編を綴ってみたい。そんな過程で堀栄三著「情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記」に出会った。現代の日本人にとって当時を正確に理解するのが難しい時代は日米戦争の時代だろう。しかし日本人が遭遇した、あるいは作った時代でもある。この時代に正面から向き合うことが、日本人の責務である。多くの人達が戦禍に倒れたことを思うと、素直にそう思っている。そんな思いから、堀氏の情報戦記に耳を傾けたい。

 堀栄三(1913~1995)陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し1943(昭和18)年大本営陸軍部参謀となり、在フィリピン第十四方面軍(山下奉文司令官)の情報主任参謀も務める。敗戦後、54年に自衛隊に入隊、終始情報畑を歩き、67年に退官。昭和20年秋、悲劇の山下軍団と題して、某出版社に400枚ほどを書き綴った。傍で見ていた父が、負けた戦さを得意になって書いて銭を貰うなと叱責され、堀は貝になった。敗戦から41年目の夏、ある雑誌で、レイテ決戦失敗の原因は「台湾沖航空戦の過大戦果を戒めた堀の電報を、大本営作戦課が握りつぶしたからだ」とある人が発言、それがきっかけで堀の仕事に注目が集まった。戦争を体験しない人たちの世代となって、当時のことを知る術が次第になくなっている。そんなことから勧めに従って書いた著書が、上記の著書であった。堀は言う、「情報に無知な組織(国家、軍)が、人々にいかなる悲劇をもたらすかと情報的思考の大切さを、本書の中から汲み取ってくだされば幸い」と。

 昭和19年10月、堀は完成した『敵軍戦法早わかり』を第一線部隊に普及させるため、在比島第十四方面軍に出張を命じられた。何とか鹿屋飛行場についた午後一時過ぎ、飛行場脇の大型ピストの前は十数人の下士官や兵士が慌ただしく行き来し、黒板の前に座った司令官らしい将官を中心に、数人の幕僚たちに戦果を報告していた。「〇〇機、空母アリゾナ型撃沈!」「よーし、ご苦労だった!」戦果が直ちに黒板に書かれる。「〇〇機、エンタープライズ轟沈!」「やった!、よし、ご苦労!」また黒板に書きこまれる。「やった、やった、戦艦二撃沈、重巡一撃沈」黒板の戦果は次々と膨らんでいく。「わっ」という歓声が、その度毎にピストの内外に湧き上がる。堀の頭の中には、幾つかの疑問が残った。敵軍戦法研究中からの脳裡を離れなかった「航空戦が怪しい」と考えたあれであった。そのあれが今、堀の目の前にある。 一体、誰がどこで、どのようにして戦果を確認していたのだろうか? この姿こそあのギルバート、ブーゲンビル島沖航空戦の偽戦果と同じではないか? 今村大将のタロキナ上陸の米軍撃退作戦の失敗の原因となった、あれでは? 堀は、ピストでの報告を終えて出てきた海軍パイロットたちを、片っ端から呼び止めて聞いた。「どうして撃沈だとわかったか?」「どうしてアリゾナとわかったか?」「暗い夜の海の上だ、どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」「雲量は?」「友軍機や僚機はどうした?」矢継ぎ早やに出す堀の質問に、パイロットたちの答えはだんだん怪しくなってくる。「戦果確認機のパイロットは誰だ?」「・・・・・・」返事がなかった。そのとき、陸軍の飛行服を着た少佐が、「参謀!買い被ったらいけないぜ、俺の部下は誰も帰って来てないよ。あの凄い防空弾幕だ、帰ってこなけりゃ戦果の報告も出来ないんだぜ」心配げに部下を思う顔だった。「参謀! あの弾幕は見た者でないとわからんよ、あれを潜り抜けるのは十機に一機もない筈だ」  戦果はこんなに大きくない。場合によっては三分の一か、五分の一か、あるいはもっと少ないかもしれない。第一、誰がこの戦果を確認してきたのだ、誰がこれを審査しているのだ。やはり、これが今までの〇〇島沖海軍航空戦の幻の大戦果の実体だったのだ。
 堀が大本営第二部長宛てに緊急電報を打ったのは、その日の夕方七時頃であった。「この成果は信用できない。いかに多くても二、三隻、それも航空母艦かどうかも疑問」  これが打った電報の内容であった。堀の質問に、どうにか堀を納得させる答えをしたパイロットは、わずか一、二名に過ぎなかった。一年に亙って太平洋での航空戦の戦果を研究してきた情報参謀の持ち続けていた「?」に対する職人的勘にも等しい結論だったが、それには、米艦船の数や備砲や艦型や、機動部隊の構成などの詳しいデーターと、過去の航空戦の戦果発表とその誤差などが、堀の分厚いノートに記述してあった。なぜ戦果が過大なものに化けるのかのカラクリの真相を、目の当たりにした。反面、この重大な時に作戦参謀がどうして鹿屋に馳せ参じないのか、これが作戦課の情報不感症というものだ、堀は嘆いている。
 堀を中心とする米軍戦法研究グループが、各種統計を取っているうちに注目したのは、昭和18年11月5~17日にわたる六次に及ぶブーゲンビル島沖海軍航空作戦と11月21~29日の四次にわたるギルバート沖海軍航空戦の戦果であった。大本営海軍部の発表を総計すると、撃沈:戦艦3,航空母艦14,巡洋艦9,駆逐艦1,その他4。 撃破:戦艦2,航空母艦5,巡洋艦3,駆逐艦6,その他2。  さらに12月5にちのマーシャル沖海軍航空戦の戦果、撃沈:中型空母1,大破:大型空母1。この時点で計算上では、米海軍には航空母艦は一隻もなく、米艦隊の活動能力はゼロ。  日本海軍の戦果発表は外電となって世界中に飛んだ。大本営陸軍部内でも、第二部長(情報)が第一部長(作戦)に、「米国では南太平洋に行くことだけはご免だということであり、ブーゲンビル航空戦の影響で株は下がる、小麦の買留めが始まり、市況が混乱しかけている」と述べていたという。情報の総元締めである大本営第二部長がこの体たらくであったとは驚かざるを得ない、とは著者堀氏。前述した台湾沖航空戦の出鱈目な戦果発表を鵜吞みにした陸軍が、急遽作戦を変更して、レイテ決戦を行う破目に陥るのであるから、海軍航空戦の戦果発表は、地獄への引導のようなものであった とは、堀氏のコメント。堀は陸軍参謀だったので、海軍の本音が分からなかったとも言えるが、大本営海軍部もどこまで実態をつかんでいたのか。つかんでいたら、ここまでの出鱈目な発表は躊躇しただろう。海軍の出鱈目な発表は開戦初期のミッドウェー海戦の惨敗から始まっていた。ただこの時は実態は掴んでいたが、実態をゆがめて発表した。そして、誰も責任を取らない無責任体制が海軍内に蔓延し、早くから海軍上層部を蝕んでいたことになる。

 堀たちはこの原因を調査した。情報は収集するや直ちに審査しなければならない。情報処理の初歩である。航空戦の場合、いったい誰がどこで戦果を見ているのだろうか。真珠湾の攻撃の時は戦果の写真撮影があって、戦果の確認が一目瞭然だった。ギルバート沖、ブーゲンビル島沖航空戦は、昼間のものが少なく、薄暮とか黎明とか、中には夜間もあった。その後の航空戦では戦果の確認ができていない。帰還した飛行士の報告を司令官や参謀が、そうか、ご苦労と言って肯く以外に方法を持っていなかった。陸上の戦闘や海戦では指揮官が自ら戦闘に臨んで、自分の目で見ているが、航空戦では司令官も参謀も誰一人戦場に行っていない。何百キロも離れた司令部にいるから、自分の目の代わりに帰還飛行士の声を信用する以外に方法がない。戦闘参加機以外の誰かが冷静に写真その他で戦果を見届ける方法がない限り、誇大報告は避けられない。米軍はやっていたが、日本はやっていなかった。このくらいは司令官の発議で実行できたと思われるが、不思議な現象であった。いずれにしても、誇大報告はその後の戦闘に大変な影響を与えた。第八方面軍の今村大将は、「海空軍の数次にわたる大戦果に鑑み、当面の敵(ブーゲンビル島タロキナ岬へ上陸した米海兵師団)を撃砕するにはこの機を逃して期待し難き」と判断して、原四郎中佐作戦参謀を急遽ブーゲンビル島に派遣して、必至敢闘との今村大将よりの訓示を伝達させ、第十七軍司令官百武晴吉中将にタロキナに上陸した米軍を速やかに撃滅することを命令した。今村大将は百武中将麾下の将兵の尻を、とんでもない棒でひっぱたいた。ブーゲンビル島の第六師団の将兵には、増援隊はおろか、握り飯一個も遅れなかった。
 ブーゲンビル島の第六師団の守備地域は師団司令部のあるブインからタロキナまで140キロ、海岸線は240キロに及んでいた。ちょうど東京から豊橋付近の距離、地形はジャングルと氾濫するワニのいる川、命令を受けた連隊は一週間かけてタロキナに到着、大本営や第八方面軍司令部が机上で地図の上に書いた防禦線はジャングルという地形の障害と、制空と制海という障害によって陸続きとは言えず点化させられた孤島であった。制空権を持った米軍は、写真撮影で十分に研究して、日本軍の一番弱いところに上陸してきたから、守るということは実に難しかった。「戦史叢書」では、「敵の追撃砲は、集中射撃の連打で、日本軍の戦線を区分して、適当な幅と深さに地図上に番号を付け、その番号の地域に短時間に数百発の砲撃を打ち込んで、ネズミ一匹も生存しえない猛射を繰り返す。その勢いや壮烈、その規模や雄大で、進もうとしても力足らず、その場に居座ると損害は激増して、全滅に陥ることは必定、致し方なく一片の恥を忍んで敵追撃砲の有効射程の外に部隊を移動し、態勢を立て直す以外になかった」と。
 中支で勇名を馳せた部隊も、猛射の米軍の前に遂に撤退を決心した。満州事変以来、二流三流の軍隊と戦って、強引にやれば抜けた経験も、米軍追撃砲の集中射撃には、どうすることも出来なかった。その上、こちらの兵力は三個中隊(1200名)で、相手は海兵一個師団(約2万名)。師団長も連隊長も支那軍相手の手法であったが、米軍の鉄量戦法の前には目隠しの剣術。「鉄量を打ち破るものは鉄量のみ」(堀が陸大時代に戦史講義の所見提出で生み出した言葉) 昭和12年の上海戦、その翌々年のノモンハンの戦闘で経験済みであった。日本軍中央部の精神第一主義は、大陸での二流三流の軍隊には通用したものの、近代化された米軍には無残な姿をさらけ出した。それにも関わらず、当時ラバウルの作戦関係参謀や、大本営の作戦課では、連隊長を卑怯極まりない、命惜しみの部隊長だと罵った末、最後は連隊長を更迭してしまった。気の毒なのは第一線だった。上級司令部や大本営が、敵の戦法に関する情報も知らず、密林の孤島に点化された認識もなく、増援隊はもちろん、握り飯一個も送り届けないで、一歩たりとも後退させないという非情さはどこから来たのであろうか?と堀氏。大本営作戦課や上級司令部が、米軍の能力や戦法及び地形に対する情報がないまま、机上で二流三流軍に対すると同様の期待を込めた作戦を立てたからである、と堀は断言する。これが陸軍士官学校、大学校を優秀な成績で卒業してきたエリート達の立てた作戦でもあった。現代に置きなおすと、倒産企業の典型となるだろう。さらに、上官の命令は天皇の命令と勅諭に示されていたから、退却はこの場合大罪であった、と。

 話を最初に戻す。台湾沖航空戦が終わり、情報参謀・堀は新田原を出発、マニラに到着した。途中台北の上空から眺めた台北飛行場の光景は悲惨を極めた。大きな格納庫は骨組みがむき出しとなり、日本軍飛行機の残骸が至る所にあった。米軍の攻撃が生易しいものではなかったことが一目瞭然だった。米軍の制空権がここまで及んでいるのか、これこそ米軍の常套戦法だ、あの太平洋のいたるところで上陸に先立って上陸地点に増援可能な空域内の飛行場や港湾、艦船を徹底的に攻撃して、上陸地点の日本守備隊を点化、孤立化させてきた。これによって日本軍の一切の輸送補給も、飛行機や部隊の増援も完全に遮断されてしまう。近々、米軍は比島を狙ってくる! 案の定、マニラは艦載機での空襲中であった。そのため堀たちを乗せた輸送機は辛うじてクラーク飛行場に着陸したが、ここでも米軍の銃爆撃で焼かれた多数の日本軍飛行機が、無残な姿をさらしていた。堀に頭の中に、米軍の上陸近しという勘が去来した。それにしてもマニラは何と平穏な町であろうか、街を歩いて見る限り、戦争がもうそこまで来ているという影はほとんど見えない。戦時下という意識を忘れさせる光景だった。それでいてマニラ湾の上では、ときどき高射砲の激しい砲声が、上空の戦闘機を目がけて鳴り響いている、不思議な国であった。堀は到着すると、すぐに南方軍総司令部、第四航空軍司令部、南西艦隊司令部と回って現在の状況把握に努めた。そこで初めて大本営海軍部発表の台湾沖航空戦の戦果を知った。それぞれの司令部の情報課を駆け巡って入手した数字(14日17時発表:判明せる戦果、轟撃沈:航空母艦3,艦種不詳3,駆逐艦1。撃沈:航空母艦1,艦種不詳1。   15日10時発表:判明せる戦果(既発表を含む)轟撃沈:航空母艦7,駆逐艦1,既発表の艦種不詳3は航空母艦なること判明。撃破:航空母艦2,戦艦1,巡洋艦1,艦種不詳1。 16日15時発表、台湾沖航空戦の戦果累計:轟撃沈:空母10,戦艦2,巡洋艦3,駆逐艦1。撃破:空母3,戦艦1,巡洋艦4,艦種不詳11。)であった。そんな馬鹿な大戦果が、との堀の反駁は、マニラでは一顧だにされなかった。各司令部は大本営海軍部発表を全面的に肯定し、各幕僚室は軍艦マーチに酔っていた。新田原で閃いた憂慮は、今現実となって眼前に展開されている。堀が東京で貰った任務は、第十四方面軍に出頭して、その指示によって敵軍戦法を普及徹底させることに過ぎない、どうすべきか堀は焦った。折からの米軍艦載機の空襲の中を、第十四方面軍司令部(山下奉文司令官)に向かった。山下大将は武藤章参謀長が着任していないので西村敏雄少将参謀副長を同席させ、堀の説明が台湾沖航空戦の戦果の問題に及ぶと、さらに作戦関係の参謀も同席を求めた。
 堀は鹿屋で視察してきた実状を中心に、東京へ打電した電報の内容を交えて、米軍の海軍機動部隊はなお健在とみるのが至当であり、堀の計算では現在比島を空襲中の米機動部隊は、十二隻の航空母艦が基幹である旨を主張した。その上、ギルバート、ブーゲンビル島沖航空戦以来、航空戦の戦果ほど曲者はない、と説明し、今村大将が前年11月月第六師団にタロキナ大反撃を命令した時も、海軍のブーゲンビル島沖航空戦の戦果発表の過大な誤認識が原因だったことも付言した。それに昭和19年夏以降、米戦闘機P-38が急速に航空距離を増加して、現在は千キロに及んでいるから、南部比島までは米軍の制空権空域の中に入ってきており、従来から制空権の空域が米軍の作戦行動の一つの物差しになっていることも説明した。大将は驚いた様子もなく西村参謀副長に、「現にいま、この上を艦載機が飛んでいるではないか」 これに応えて参謀副長は「台湾沖の戦果は、これだな」と、人差指で眉の上を撫でた。大将は「よし分かった、今夜の祝賀会は取り止めにする。せっかく準備したのだから慰労会に変更だ。俺は出席しない」

 翌18日、方面軍司令部の作戦室に堀は呼び出され「レイテ湾に敵に軍艦が入ってきている。しかしどうも様子がおかしい。上陸か上陸でないか一緒に考えてくれ」と西村参謀副長。咄嗟に堀は提案した。米軍が上陸する可能性は少しも不思議ではないから、1,16師団に命じて、米軍艦船の状況を飛行機で見させること。2,第四航空軍と海軍に連絡して、レイテ湾の外海に輸送船団があるかどうか確かめさせる。3,16師団は敵の上陸を前提に緊急守備態勢に入ること。4,米軍機にパイロットの捕虜があれば、憲兵隊はあらゆる手段をもって、航空母艦の艦名を大至急調査すること。まずこれだけをやらせてください、と。
 翌19日、16師団から電報が届いた。「参謀の飛行機偵察によると、レイテ湾内には十数隻の米艦船があり、十数隻の駆逐艦を中心に、数隻の戦艦がその外周をぐるぐる回って警戒している」と。この電文は、見る間に楽観論を作ってしまった。駆逐艦が戦艦を護衛するなら話は分かる、それが反対ではないか。いまヤップ島方面は暴風だ、彼らはこの危険な気象状態を避けるため、一時レイテ湾に避難しているのだ、と。総軍、航空軍、海軍の意見に合わせて、山下方面軍の参謀の多数もこの意見の支持に回ってしまった。「堀君、君の台湾沖航空戦の戦果判断、あれは間違いだよ、見ろ、この状況を!」 堀は「でも、レイテ湾入口のスルアン島の海軍監視哨が、17日天皇陛下万歳を打電して消滅している。米軍が上陸前に付近の小さい島を占領するのが米軍の上陸戦法だ。いまレイテ湾にいる米艦隊が損傷艦だと断定するのはまだ早い。米軍は太平洋でいつも天候不良の時に上陸している。これも米軍の戦法だ」と反論したが、一同を納得させる迫力はなかった。堀が後で悔やんだのは、現地レイテ湾の雲量はどうだったか、誰がどんな飛行機で見に行った、彼に艦船を識別する能力があったか、という質問を咄嗟に出なかった。当時のレイテ湾の雲量は九、普通に状況では海上は見えない。16師団の参謀は、わずかの雲の切れ目から降下し艦影を見た途端、猛烈な空一面が真っ黒になる防空弾幕にびっくりして上昇して雲の上を帰還、その途中で一瞬垣間見た情景の記憶を頭の中で整理作文した。皮肉なことに彼は陸軍の参謀で、米海軍の艦船の知識がない、事実をありのままに伝えることは、情報業務の初歩的原則であったが、すでに主観や判断が入ってしまっていた。
 ところが間もなく憲兵隊から重要な情報がもたらされた。米軍パイロットの尋問の結果、現在ルソン島を空襲中の米航空母艦は正規空母十二隻で、その艦名も全部判明した。この情報に作戦室の参謀一同、粛として声がなくなってしまった。西村参謀副長は唸った。情報が堀の期待通り出てきた、もっと早く「レイテに米軍本格上陸」と何も疑いもなく衆心一致、山下大将はレイテ方面を担当する第35軍に対策指示が出せた。その頃すでに16師団は猛烈な艦砲射撃に見舞われ、夕刻から通信が途絶した。従って第35軍でさえ、レイテの状況は皆目不明となった。そして、捷一号作戦発令の天皇裁可の命令を、南方総軍の作戦参謀が司令部に届けに来た。捷一号作戦とは、米軍と国運を賭けても陸上決戦の名称で、元来は米軍がルソン島の侵攻したとき、山下方面軍が全力でルソン島を舞台に行うよう、山下大将は比島赴任に先だって大本営陸軍作戦課と十分な打ち合わせを終えていた。大将はこの計画に基づいて着任したのに、その10日後に台湾沖航空戦の大戦果に酔った作戦課は、今こそ海軍の消滅した米陸軍をレイテにおいて殲滅すべき好機であると、ルソン決戦からレイテ決戦へ急に戦略の大転換を行ってしまった。山下大将は不満この上ないものとなった。同時に、航空戦の誤報を信じて軽々に大戦略を転換して、敗戦へと急傾斜をたどらせた一握りの戦略策定者の歴史的な大過失であった、情報参謀・堀栄三が日本人のためにどうしても書き残しておきたかった、立ち会った戦場からのメッセージだった。

 堀栄三の情報戦記はまだまだ続くが、2,3興味深い点をピックアップする。終戦時、暗号解読の実施部隊は陸軍中央特殊情報部であった。特情部は8月11日、シドニー放送で日本がポツダム宣言の受諾を決したという情報を承知した。早速西村敏雄特情部長は終戦時の特情部の処理について構想を示し、その日の夕方から膨大な暗号関係の資料や暗号解読関係の機械の処分に移った。資料は紙一片と雖も残さず一切を焼却し、黒煙は三日間にわたって空を焦がし、機械類はその一片に至るまで破壊し、暗号書の一部は土中深く掘って埋め、占領軍が特情部の仕事と内容を追求しても、その解明は不可能とした。米軍は、日本の特情部がある程度、米国の暗号を解読したり、盗読したりしていたことを知ったが、肝心の証拠になる資料はすでに一枚もなく、判明した一部関係者にレポートを提出させた。実際には、日本陸軍は昭和11年頃から、まず国民政府外交部の暗号書を写真撮影したことを手始めに、日本内地でも外国公館などに専門家を忍び込ませ、暗号書の写真撮影を実施したことは確かだが、成功したかどうかは今日まで不明。結論的には日本陸軍は、昭和11年頃から昭和17年初頭まで、米国務省の外交暗号の一部を確実に解読または盗読し、国民政府の外交暗号、武官用暗号はほぼ完全に盗読していた。この事実の裏を返せば、日本が日米開戦に踏み切った原因の大きな一つに、米国暗号の解読、盗読という突っかい棒があったと判断される節があった。だが問屋はそう安く卸してくれなかった。開戦一か月後には米国の暗号は全面的に改変し、爾後昭和20年8月まで米国暗号は解読できなかった。これも裏を返せば、日本に米国の暗号をある程度取らせておいて、開戦に誘い込んでから計画的に料理をしようとした疑いもなくはない。暗号一つを通じてみた情報の世界でも、米国が日本を子ども扱いにしていた観がある。これを情報的に観察すれば、日本を開戦に追い込むための、米国の一大謀略があったとみるのもあながち間違っていない、と堀栄三。
 「日米戦争は米国人が仕掛人で、日本は受けて立たざるを得なかったのだ」と東京裁判で立証して、日本の戦犯を弁護しようとした一人に、清瀬一郎弁護士がいた。昭和21年4月、変名で潜伏生活を営んでいた、旧特情部の企画運用課長横山幸雄中佐に、終戦事務局から東京に出頭するよう電報が来た。終戦事務局には東條大将の旧秘書官井本熊男大佐らが待っていた。「いま東條大将たちの裁判が進行中だが、米国が先に開戦を計画していたという情報的証拠が欲しい。特情部が解読した資料の中にそれがないか。それはあったら東京裁判は根本から覆すことができる。欲しがっているのは清瀬一郎首席弁護人だ。私(横山)の記憶では、開戦の頃の国民政府の駐米武官が、本国宛に打った暗号電報の中で、確かに米国が対日戦争を決意して、あれこれと日本を誘いだそうとしていることを報告した解読電文があったと、頭の中に浮かんだが、開戦時私は北京にいたし、その解読電文は開戦後特情部で読んだもので、すべて焼却して灰燼に化している。記憶だけでは裁判の立証にはならず、清瀬弁護人を非常に落胆させた」とは、横山元中佐の手記だった。堀は言う。情報とは実に難しいものである。隠そうとしている情報を取ろうとする難しさだけではない。善悪を逆にするような謀略にも対処していかなければならない。特情部が全資料を焼却しないでいたら、あるいは東京裁判の計画的筋書をひっくり返して、全世界にワシントン会議以来の米国の野望を暴露させ得たかもしれなかった。特情部は、暗号解読関係者は処刑されるという風聞が伝わったので、ひたすら身内大切の一心から、軍という立場だけで、暗号作業の秘匿第一に全神経を費やし、国家国策的立場にまでは思いが及ばなかった、堀は残念がる。渦中にあっていかに対処し、何が一番大事であるかを見通せ、とは土肥原将軍の言葉だった、と。

 また堀は面白い見方を提示する。堀は当初ドイツ課、続いてソ連課、そこを落第となって米英課に回された。杉田課長は実践型というか、「堀君は米国班に所属して、米軍の戦法を専心研究してもらう。そのためにはまず戦場を見てきてもらいたい」と。ラバウルで寺本熊市中将と出会い、「必勝六法」の講義を受け、これで情報参謀への道が開け、米軍戦法研究に大きな示唆を得た。情報戦争は、当然戦争の起こる前から始まっている。米国が日本との戦争を準備したのは、寺本中将のいうごとく大正10年からであった。事前に収集する情報は軍事的なものだけではない。あらゆる分野の情報から、その国の戦争能力をはじき出していかなければならない。これらを調査するのは、新聞、雑誌、公刊文書の外に、諜者網をその国に余裕をもって作り上げておかなければ、いざという時の役に立たない。この諜者網を摘発して諜者の活動を防止するのが防諜である。防諜では日本民族ぐらいのんびりしている国はない。第二次世界大戦で日本が開戦するや否や、米国がいの一番にやったことは、日本人の強制収容だった。戦後40年経って米国は何百万ドルを支払って御免なさいと議会で決めているから、実に立派な人道的民主主義の国だと思っている人が多い。どうして日本人はこんなにまでおめでたいのか? むろん日本人をジャップと呼んだ当時の感情的反発の行動であったのは当然として、裏から見れば、あれで日本武官が営々として作り上げてきた米国内の諜者網を破壊するための防諜対策であったと、どうして考えないのか。米国人は国境を隔てて何百年の間、権謀術数に明け暮れた欧州人の子孫である。日本人のように鎖国三百年の夢を貪ってきた民族とは、情報の収集や防諜に関して全然血統が違う。40年後に何百万ドル払って不平を静めようが、戦争に負けるよりはぐっと安い、と。日本はハワイの真珠湾奇襲攻撃して、数隻の戦艦を撃沈する戦術的勝利を挙げて狂喜乱舞したが、それを口実に米国は日系人強制収容という真珠湾以上の大戦略的情報勝利を収めてしまった。これで日本武官が、米本土に築いた情報の砦は瓦解した。戦艦が大事だったか、情報が大事だったか、盲目の太平洋戦争は、ここから始まった。

 最後に、米軍が昭和21年4月、『日本陸海軍の情報部について』という調査書を米政府に提出している。その結言の中で次のように語っている。「結局、日本の陸海軍情報は不十分であったことが露呈したが、その理由の主なものは、(1)国力判断の誤り:軍部の指導者はドイツが勝つと断定し、連合国の生産力、士気、弱点に関する見積もりを不当に過小評価してしまった。 (2)制空権の喪失:不運な戦況、特に航空偵察の失敗は、最も確度の高い大量の情報を逃す結果となった。 (3)組織の不統一:陸海軍間の円滑な連絡が欠けて、せっかく情報を入手しても、それを役立てることができなかった。 (4)作戦第一、情報軽視:情報関係のポストに人材を得なかった。このことは、情報に含まれている重大な背後事情を見抜く力の不足となって現れ、情報任務が日本軍では第二次的任務に過ぎない結果となって現れた。 (5)精神主義の誇張:日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。軍の立案者たちは、いずれも神がかり的な日本不滅論を繰り返し声明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準備をないがしろにして、ただ攻撃あるのみを過大に強調した。その結果彼らは敵に関する情報に盲目になってしまった。
 あまりにも的を射た指摘に、ただ脱帽あるのみだ、と堀を唸らせている。特に第四の指摘に、米軍は日本の急所を押えていると感服している。大本営作戦課に人材を集めたのは昔からのことであった。その中でも作戦班には、陸大軍刀組以外は入れなかった。作戦課長の経験なしで陸軍大将になった者は、よほどの例外と言って差し支えなかった。情報部は毎年一回、年度情勢判断というかなり分厚いものを作って、参謀総長や各部に配布していたが、堀の在任中、作戦課と作戦室で同席して、個々の作戦について敵情判断を述べ、作戦に関して所要の議論を戦わしたことはただの一回もなかった。毎朝情報部が行う戦況説明会は、第二部はこんなに仕事をしているという大本営部内の宣伝活動のようなもので、作戦課は情報部の判断を歯牙にもかけていなかった。堀が山下方面軍でルソン上陸の敵情判断をしていた頃、米軍のルソン進攻は三月以降であると打電してきたり、台湾沖航空戦の戦果に関する堀の電報が没になるという不思議な事があったのも、作戦と情報が隔離していた証拠であり、大本営の中にもう一つの大本営奥の院があって、そこでは有力参謀の専断でかなりのことが行われていたように感じられてならない、と堀。結論として、情報部を別格の軍刀参謀組で固めていたら、戦争も起こらなかった子も知れない、と。
 ウサギの戦力は、あの早い脚であるのか、あの大きな耳であるか?  答えは、いかにウサギが早い脚をもっていても、あの長い耳で素早く正確に敵を察知しなかったら、走る前にやられてしまう。なまじっかな軍事力より、情報力をこそ高めるべき。長くて大きなウサギの耳こそ、欠くべからざる最高の戦力である、堀栄三は結んでいる。

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