ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実」は、原題が『DAY OF DECEIT THE TRUTH ABOUT FDR AND PEARL HARBOR 』。監訳者 妹尾作太男氏は副題を「ルーズベルトの欺瞞の日々」としている。訳出の仕方は実にうまい。思わず本を手にしたくなる。
前編では「1941年を通じて、日本を挑発して明らかな戦争行為をとらせるようにすることが、ルーズベルトの対日主要政策であったように見える。明らかな戦争行為という語句を含む陸海軍の司令が太平洋方面の指揮官に送られた」までだった。ここからがスティネットの発見し、分析した結果である。前回記したマッカラムの戦争挑発八項目のうち、最も衝撃的な項目は、日本の領海内または領海付近に米艦を故意に配備するという項目であった。ホワイトハウスで秘密会議が行われた時、ルーズベルトはこの項目は自分が担当すると語った。彼はこの挑発行動をポップアップ(飛び出し)と呼び、自分はそれらの巡洋艦があちこちでポップアップ行動を続けて、ジャップに疑念を与えるようにしたい。そのため巡洋艦を一隻は二隻失っても気にしないが、五隻は六隻を失う破目に陥りたくない、と。1941年3月から7月にかけて、ホワイトハウスの記録によると、ルーズベルトは国際法を無視して、ある部隊を日本海域に派遣した。最も挑発的な行動の一つは、瀬戸内海に通じる豊後水道への出撃だった。豊後水道のその先には日本海軍の本拠地江田島があり呉基地があった。日本海軍省は東京駐在のジョセフ・グルー米国大使に抗議した。「7月31日の夜、宿毛湾に停泊中の日本艦船は、東方から豊後水道に接近するプロペラ音を捕らえた。当直駆逐艦が探索して、船体を黒く塗装した二隻の巡洋艦を発見した。当直駆逐艦が向かっていくと、二隻の巡洋艦は煙幕に隠れて南方方向に見えなくなった。その船はアメリカ合衆国巡洋艦であったと信じている」と。
マッカラムが覚書を作成した翌日の1940年10月8日、日本と極東に関する二つの重要な決定が下された。第一は、国務省が米国人に対して極東から可及的速やかに立ち去るよう告げた。第二は、大統領執務室で合衆国艦隊司令長官ジェームス・リチャードソン大将と前海軍作戦部長のウィリアム・リーヒ大将と時間を延長した午餐会で、大統領はマッカラムの6項目目、ハワイ海域を基地とする合衆国艦隊を維持する件を議題に乗せた。リチャードソンはこの提案を聞くと、合衆国艦隊を危険にさらすルーズベルトの計画を承認しなかった。彼は挑発のため軍艦を犠牲にすること、遅かれ早かれ日本は米国に対し明白な行為をとるだろう、米国民は喜んで参戦するだろう、というルーズベルトの語ったことに強く反対した。
米海軍は1941年2月、大幅な再編成が行われた。リチャードソンは艦隊司令長官より外され、ルーズベルトは大西洋艦隊と太平洋艦隊を創設・承認した。この再編成により、ルーズベルトは先任海軍将校たちを飛び越えてハズバンド・キンメル少将を太平洋艦隊司令長官に抜擢し、大将に進級させた。キンメル提督がマッカラムの戦争挑発計画を知っていた証拠はない。「アメリカに対して第一撃を加えるよう日本を操るルーズベルトの戦略は、われわれには知らされていなかった」と、キンメルは1955年に刊行した著書の中で語っている。キンメルは「海軍省が入手可能な関係情報すべて、特に暗に真珠湾在泊艦隊への攻撃を示す情報を残らず自分に迅速に提供してくれるだろうとの確信を抱いて、私は太平洋艦隊を指揮することを引き受けた」と。
アーサー・マッカラムは1940年2月23日、最初の諜報報告をホワイトハウスに送った。その報告は二通とも外交暗号だった。最初の電報でルーズベルトは、日本が蘭領東インドの東方、チモールのポルトガル領における石油の輸出権利を獲得するために外交的圧力をかけていることを知った。二通目は日本陸軍がボリビアに対してすず資源を獲得するために顧問を派遣するものだった。ルーズベルトは傍受電報の原文を読んだが、手元には置かなかった。返却されワシントンの無線監視局USにある、マッカラムの金庫に収納された。政府が真珠湾攻撃を阻止するのに失敗したことについて議会が質問を開始したとき、ホワイトハウスの文書回覧記録簿と秘密内容を含む日本の無線電報傍受記録は、すべて海軍通信将校が管理する地下金庫にしまい込まれた。
1940年9月下旬か10月の第一週にかけて、陸海軍の暗号解読班は日本政府の主要な暗号システムを二つ解読した。それは主要外交暗号の紫暗号と海軍暗号の一部であった。海軍暗号は29種からなる別々の海軍作戦暗号で、艦艇、商船、海軍基地及び大使館付海軍武官にも暗号化され使用された。真珠湾の真実は外交暗号ではなく、海軍暗号の中に見出される。1997年12月の米海軍協会が発行している雑誌「海軍歴史」は、ミッドウェーの勝利は、米海軍の暗号解読員たちが、日本海軍暗号二十九種のうちの一つ、D暗号を破った結果、もたらされたものであった、記述されている。D暗号を五数字暗号と呼んでいた。その理由は、五つの数字の組み合わせで、日本語の一字か一句を表していた。ハワイ攻撃日本機動部隊旗艦赤城を表す五桁の数字は28494であった。彼らは五数字暗号の外に、別の三つの海軍暗号を解読していた。一つは海軍商船番号、二つ目は各種の日本軍艦、部隊、将校及び日本商船に付与された呼出符号、三つめが軍艦、商船、個人が自らの到着、出発、目的地を報告する海軍発着信通報暗号であった。日本海軍はこれら四つの海軍暗号を真珠湾攻撃以前から太平洋戦争が終わるまで使用した。アメリカが解読に成功したことは、厳重に秘匿された国家機密であった。ルーズベルト大統領は解読翻訳された日本電報の写しを規則正しく受け取っていた。
アメリカの暗号解説者たちは、日本の四つの海軍暗号の解読を成功した時期については、未だに議論が絶えない。数度にわたる真珠湾調査で得られた証言では、日本海軍の暗号は1942年春まで解読されなかったと示唆している。スティネットの調査結果はこれと異なり、解読に成功したのは1940年の秋にはじめ、アーサー・マッカラムの覚書が大統領執務室に届けられたのと、大体同じころだった、と分析する。海軍作戦部長ロイヤル・インガルソン少将は、太平洋艦隊の二人の指揮官宛ての1940年10月4日付書簡で、日本海軍の戦略と戦術を探り出して予見する能力を米国が得たことを明らかにしていた。日本海軍の主要暗号である「作戦通信暗号(五数字暗号)」の解読は難題であった。解読できることは十分はっきりした、とインガソルが述べている。しかし時間がかかった。時間を短縮するため、米海軍は特別の暗号解読機をを開発した。この機械は国立公文書館に引き渡されていない。海軍の入手した五数字暗号の傍受暗号文も国立公文書館に引き渡されていない。この異常というべき秘密主義は、ルーズベルトが日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたのではないか、という疑いから遠ざけることを意図した措置である、とスティネット。
1940年11月5日、大統領選挙の開票結果の第一報は、ウィルキーの勝利を暗示していたが、間もなくルーズベルトが有利となり、一般投票で票を稼いだルーズベルトはウィルキーに大差で圧勝した。書斎から現れたルーズベルトは「わが国は困難な状況に立たされていますが、皆さんが選んだ大統領はフランクリン・ルーズベルト、今までと変わりありません」 共和党は引き続き孤立主義を貫こうとしていたが、チャーチルが率いる英国政府は、全く異なる見解を示していた。海軍作戦部長のスターク提督はマニラにいるハート提督に「イギリスはルーズベルトの再選後、数日でアメリカは戦争に突入するだろうと予想している」と電報を打った。
新年を迎え、マッカラムの戦争挑発行動八項目のうち、潜水艦24隻をマニラに派遣する、米主力艦隊をハワイ諸島周辺に配置する、日本が石油や原料を要求しても拒否するよう、オランダを説得する。海軍情報部は日本の外務大臣松岡洋右が1941年1月30日に発信した外交暗号電報を傍受解読して、日本の外交政策の変化を捉えた。「二国間の関係が危機的状況にあることを考慮に入れて、われわれは最悪の事態に対して準備を整えなければならない」 松岡はワシントン駐在の日本大使に米国内の諜報網の組織化、広報宣伝活動の変更を命じ、艦隊の動きと陸軍の演習とに関する詳細な報告を求め、航空機と艦艇の生産量について詳細な情報収集を指示した。日本の外交政策の中心は大東亜共栄圏と呼ばれる経済戦略であった。これは東アジア諸国を日本の通貨で統一しようという趣旨の経済政策で、アメリカ・イギリス・オランダなどの経済的な支配から、日本経済を保護するもので、天然資源に乏しい日本にあって、この地域の豊富な資源を確保しようという狙いもあった。そして最悪に事態を迎えた場合、交戦もやむを得ないというものだった。アーサー・マッカラムは、戦争挑発行動八項目を実施すればいつでも、この最悪の事態を招くことが出来ると確信した。最後の八項目目、日本経済を締め上げ全面的な通商禁止が実施されれば、やがて、最悪の事態は本当に訪れる、と。
1940年当時、中部太平洋の日本軍事基地は、戦闘には全く適していなかった。それらの基地は、軍事的建造物は何もない、水深の深い錨地で構成されていた。燃料保管庫もなければ、乾ドックも修理工場もなかった。格納庫、燃料補給設備、飛行機などの航空機用諸設備は全然なかった。中部太平洋地域の軍事通信設備も、旧式のものであった。日本の真珠湾攻撃が計画され始めたのは1940年秋で、マッカラムの覚書がホワイトハウスに送付された一か月後のことであった。及川古志郎海相は実行に移すのが早かった。11月中旬、彼は山本五十六を海軍大将に昇進させ、日本帝国連合艦隊の指揮を命じた。及川と山本は英米と開戦する場合の戦略について話し合い、真珠湾を空から奇襲することにより開戦すべきであるということで、二人の意見が一致した。1941年1月半ば、山本は主要幕僚を任命して戦術を検討させた。山本が信頼している海運将校たちに真珠湾攻撃計画を打ち明けて間もなく、東京の米国大使館に真珠湾計画が漏れた。三等書記官ビショップがシティバンクの東京支店で両替しているとき、ペルーの日本駐在公使シュライバー博士から、「日本は軍事的資産をすべて投入して、真珠湾攻撃を計画している」と。ジョセフ・グルーは翌日国務長官ヨーデル・ハルに連絡した。ハルはこの電報を陸軍情報部と海軍情報部に配布した。マッカラムは米艦隊のハワイ駐留が日本を戦争に引き込みつつあることを太平洋艦隊に警告する代わり、太平洋艦隊司令長官に就任したばかりのキンメル大将に、「海軍情報部はこの情報を全く信用していない。日本陸海軍の現在の配備と使用とに関する既知にデータから、真珠湾への移動が差し迫っていなければ、予見しうる将来、計画されてもいない」と。
1941年2月1日、米海軍の全面的組織替えが実施された。新しい太平洋艦隊には、展開される戦争挑発政策の監視役が組み込まれたが、この変化に気づいたものはほとんどいなかった。ルーズベルトはこっそり海軍情報部長ウォルター・アンダーソン大佐を少将に進級させ、戦艦部隊司令官という肩書で、太平洋艦隊所属の全戦艦に対する指揮権を与えた。アンダーソンは1939年6月から40年12月まで、海軍情報部の部長を務め、つねに政策決定の中心にいた。大統領と直接連絡を取り、連邦捜査局のフーバー長官とも、週に一度は会っていた。最も重要な点は、アメリカが日本の軍事暗号と外交暗号を破ったことを承知していたことだ。アンダーソンが旗艦を訪れた時、キンメルにそのことは伝えていない。キンメル大将同様、ハワイに陸軍司令官ウォルター・ショート中将にも暗号解読の秘密は明かされなかった。日本の外交暗号はショート将軍の指揮所から、ほんの数歩しか離れていないところで傍受されていたが、ここで傍受された暗号電報は無線でワシントンに転送され、海軍傍受局USのパープル暗号機械で解読された。キンメルは艦隊の指揮を執って間もなく、情報網から締め出されていることに気づいた。キンメルはスタークに機密性の高い情報についてその責任を果たすよう要請した。さらにキンメルは情報網に入り込もうとして手を打った。しかしこれも守られなかった。1941年7月末頃には、キンメルはワシントンの情報網から完全に排除された(1941年7月15日から12月7日までの分について、それをタイムリーに解読する手段がなかったようだ。1941年当時、アメリカの暗号解読班がすぐに読んでいたか否かは、1999年現在も議論が絶えない。その是非を証明する方法もなく、また五数字暗号の解読方法も公表されていない。そのような議論は議論するに値しないと著者は考えている。なぜならば、その答えは全く明らかであるから。政府当局はキンメル大将とショート中将らハワイの司令官に、自分たちとは無関係に日本の真珠湾計画を知られて、日本の明白な戦争行為を阻止されたくなかったのだ、と)。
1940年秋から41年初めにかけて、マッカラムの二つの項目が実行に移された。一つは「蘭領東インド内の基地施設の使用並びに補給物資の取得に関する、オランダとの協定を締結」と、もう一つは米国が「日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張する」ことであった。1940年9月、日本はオランダが石油などの対日輸出をじわじわと絞めてくるのを感じて、石油製品その他の天然資源の日本への流れを維持するため、ジャワ島での外交会議をオランダに申し出た。日本代表団を率いるのは商工大臣小林一三で、オランダの代表はムック経済相であった。小林とムックとの間で行われた外交交渉は過熱し、日本代表団は怒って、オランダ代表団はワシントンの傀儡に過ぎないと主張した。卓上には、蘭領東インドの膨大な石油資源から石油と石油製品を獲得するための権利が含まれた、日本の提案書が置かれていた。日本はオランダに対し、最低でも年間三百十五万トンの石油を提供するよう要求した。そして五年間という条件を追加した。ムック経済相は小林を𠮟責し、日本の石油要求は非常識だ、石油製品の生産と販売はオランダの会社が行っており、オランダ政府は管理しているにすぎないと主張した。その後1941年6月まで、期間を延長して外交交渉を続けたが、オランダから石油を入手することはできなかった。傍受電報は蘭領東インドへの日本経済使節団に言及し、また可及的速やかに蘭領東インドを占領することに、日本が関心を抱いていることを明らかにしていた。しかしアメリカは蘭領東インド問題で参戦するだろうか、ルーズベルトは疑問に思った。東南アジア問題への介入を、アメリカ国民はほとんど支持しない、と彼は感じていた。10月8日、ホワイトハウスでリチャードソン大将は昼食を共にしたとき、大統領の回答を語っている。「私は大統領に参戦するのか、と尋ねた。日本がタイ、クラ海峡、蘭領東インドのいずれかを侵略しても、われわれは参戦しない。彼らがフィリピンを攻撃しても、参戦するか、疑問に思っている。しかし、彼らは常に過失を避けることはできないだろうし、戦争が続き、作戦地域が拡大すれば、遅かれ早かれ、われわれは参戦することになるだろう、と大統領は答えた」
米国海軍通信将校のマッカラムと駐米オランダ大使館付海軍武官ヨハン・ランネフト大佐は緊密に協力関係が出来ていた。1940年12月、小林使節団に関わる傍受電報に関しマッカラムはランネフトに電報の写しを渡した。ランネフトはロンドンに亡命中のオランダ政府に報告、日本への土地貸与は拒否された。オランダの暗号解読班は、ジャワ島バンドンにあるカーメル14で日本海軍の通信を盗聴していた。12月7日までの期間、アメリカ・イギリス・オランダの三か国間で、海軍秘密情報について緊密な協力と情報交換が実施されていた。フランク・ノックス海軍長官は、極東の米海軍情報当局者が特に重要な情報を交換することで、イギリスとオランダの海軍情報部に協力していると、ハル長官に語っている。941年の春から夏にかけて、ホワイトハウスが日本とオランダの石油交渉を裏で操っていた。3月19日、オランダ外相クレフェンズ博士とルーズベルトはホワイトハウスで会談し、オランダ外相は会談後、日本のあらゆる要求を拒否してきたし、今後もこの態度を貫くつもりである、と。1941年、クレフェンズ外相とランネフト大佐、日本の軍事及び外交情報を交換しながら、ルーズベルト政権との密接な関係を維持した。
1941年12月初旬、ランネフトは日本の空母兵力が移動していることを知った。この報告はワシントンの海軍情報部から入手した。ランネフトの日記によると、一か所はハワイの真西であり、もう一つは日本から東に向かう空母の動きだった。その詳しい位置情報について、日記の中では触れていない。しかし太平洋の海図を見れば、ハワイから真西はその先にマリアナ諸島があり、さらにフィリピン海に達する。実際は日本の第三航空戦隊と第四航空戦隊が、フィリピン海で東南アジア進攻の準備中であった。問題は、日本から東寄りに進路を取っている日本空母部隊について、ランネフトがその位置を指摘したことであった。12月2日、ランネフトは海軍情報部を訪ねた際、海軍諜報航跡図に日本を出港して東寄りの航路を進んでいる二隻の空母の航跡が記入されているのを見た。その週の12月6日、彼は海軍情報部が記録を続けている、日本艦船の最新の航跡図を見た。この時マッカラムと彼の上官で海軍情報部長のウィルキンソン大佐は日本空母部隊を指さして、ホノルルの西方への分離を指摘した。日記の記述は「1941年12月2日、海軍省で会議。日本を出港し東寄りの航路を進んでいる二隻の日本空母の位置が、海図上で私に指し示された」 米海軍の公式記録もランネフトの日記の記述を支持している。
太平洋には11の米海軍傍受局がありハワイ・オアフ島には傍受局Hと無線監視局HYPOが設置されていた。HYPOはH局の傍受電信員たちが受信した、日本海軍の電報を解読・翻訳した。H局で受信した電報と、H局のそれら電報の無線日誌とは、アメリカが真珠湾攻撃を事前に知っていたことを示す、有力な証拠である。しかし記録の多くは、1941年から46年にかけて行われた何回もの真珠湾調査及び1995年の議会による調査委員会からも除外された。最も有力な証拠は11月25日、第一航空艦隊宛ての山本連合艦隊司令長官の電報である。当時31隻の艦隊は千島列島の単冠湾に錨泊して、出撃する指令を待っていた。山本は第一報で「機動部隊は極力その行動を秘匿しつつ、11月26日朝単冠湾を離れ、12月3日午後、北緯42度東経170度の地点に進出し、速やかに燃料補給を完了すべし」 第二報では、「機動部隊は極力その行動を秘匿しつつ、対潜対空警戒を厳にしてハワイ海域に進出し、開戦劈頭、在ハワイの敵艦隊主力を攻撃し、これに致命的打撃を加えるものとする。最初の航空攻撃はX日の明け方とする。正確な日時は後令する。空襲終わらば機動部隊は緊密に連携を保ち、敵の反撃に備えつつ、速やかに敵海域を離れ、内地に帰投するものとする。対米交渉成立の場合、機動部隊は警戒態勢を維持しつつ帰投し、再編成を行うものとする」 これら二通の電報は、日本側の通信データはすべて取り除かれ、傍受局がどこかも示されずにワリン中将『真珠湾』と合衆国戦略爆撃調査団海軍分析課編集『太平洋戦争の会戦』という二冊の米海軍歴史書に、1941年に米海軍無線監視局で傍受されたまま、日本海軍の電報形式に則った形で掲載されている。
無線傍受局Hの記録によると、山本は11月24日午後1時から26日午後3時54分の間に呼出符号で13通の無線電報を打っている。1979年、ジミー・カーター大統領が国立公文書館に公開を指示した傍受日本海軍電報ファイルの中から、これら13通の電報は行方不明となっている。日本艦船の航路通報は傍受局Hが傍受した暗号電報記録により、発信されたことが実証されているが、それらのうち一通も、1946年の上下両院合同調査委員会にも、1995年の国防総省の調査委員会にも、提示されなかった。それどころか、日本艦船は無線封止を続けていたので、アメリカの無線情報部は日本艦船を見失ったと、議会で証言した。キンメル司令官の情報参謀レイトンもこの主張を支持した。1946年、レイトンは公聴会で、真珠湾攻撃までの25日間、日本空母部隊・空母部隊指揮官に対する日本の使用していた周波数帯域での無線通信は聞かれなかった、と証言した。しかし、レイトンは隠蔽工作を行った、とスティネット。日本軍の暗号電報傍受記録は入手可能であったのに、レイトンは日本艦船の単冠湾への移動について、キンメル司令官への報告を怠った、と。コレヒドール、グアム、ハワイ、アラスカにある海軍無線監視局は、確かに無線暗号電報を受信していた。機動部隊、31隻の艦船とその司令官たちは、11月12日から12月7日の奇襲まで25日余りの間、無線封止を破って発信し、また東京から電報を受け取っていた。
ランネフトの記述によると、傍受電報と海図上に記入された航跡は、日米との衝突が差し迫っていることを暗示していた。彼はこの件について次の通り語った。「われわれの間では誰もホノルルが攻撃される可能性について、言及しなかった。私自身も、そのことを考えなかった。なぜならホノルルにいる各人が、海軍情報部にいる者と同様、100%警戒している、と私は信じていましたから」
アメリカは1920年代の初めから、日本政府の通信盗聴を続けてきた。ルーズベルト政権の軍部指導者たちは、これを「見事な配備」と呼んだ。1941年、無線傍受局は太平洋を囲むようにして、25か所に設置されていた。この中には日本の軍事暗号と外交暗号を解読した四か所の暗号傍受解読局が含まれていた。オアフ島にあるホーマー・キスナーのH局、ジョセフ・ロシュフォートのHYPO、さらにコレヒドールのCAST,シアトル近くのSAIL。無線傍受局の配置には極めて大規模な分野での努力と成功を必要としたが、これによってアメリカは日本政府の動向を多年にわたり常に把握することが出来た。ジョセフ・ロシュフォートと彼が指揮するHYPO局とは、真珠湾の悲劇と第二次世界大戦で、凄まじい暗号解読劇の主役を演じた。ロシュフォートは暗号作業に秀いで、大尉に昇進して、諜報部隊を立ち上げるのに携わり、上司が海上勤務を命じられると、ロシュフォートは担当将校となって部隊は無線監視傍受局USとなった。監視局は海軍12,陸軍4で運営され指揮権は各局に委任されていた。米海軍の日本監視プログラムは史上最大規模で、SAIL,CAST,HYPOの各局がそれぞれの地域の無線傍受統制中枢としての役割を果たした。傍受した電報の解読と翻訳とは四局、太平洋地域ではCASTとHYPO,ワシントンではUSと陸軍通信情報部で行われた。イギリスの監視局はシンガポール、香港、カナダのバンクーバー。オランダは蘭領東インドのバンドンに無線監視、暗号解読局カーメル14が置かれていた。以上が見事な配備の全貌であった。
ロシュフォートの指揮するHYPOは約140名の無線諜報スペシャリストを抱えていた。さらに32名のスぺシャリストがダッチハーバー、ミッドウェー、サモア、オアフで無線方位測定器の操作に当った。さらにオアフ島の沿岸警備隊の暗号解読員もHYPOに傍受情報を提供した。オアフ島では毎日一千通の日本軍事情報を傍受解読し、調べる必要があった。中部太平洋情報ネットワークは、その努力を日本海軍情報だけに集中して、外交情報は収集しなかった。外交情報の収集はCASTとSAILの任務だった。ロシュフォートは任務に忠実であったが、翻訳するだけでなく、予測までした。しかし、フィリピンには陸海軍共同の暗号諜報施設があったが、オアフ島ではHYPOと陸軍無線傍受局FIVEとの間には連絡網がなかった。ウォルター・ショート陸軍中将の管理下にあったFIVE傍受電信員は日本の外交電報を受信していたが、パープル暗号解読機がなかったので、CASTかワシントンに解読を頼むしかなかった。ショート中将はFIVEで傍受した無線の重要性に気が付き、ロシュフォートに陸軍の傍受電信員に解読するよう指令を出してほしいと要請したが、ロシュフォートの反応も検閲のために明かにされていない。
アメリカ太平洋艦隊司令官が、これら諜報コミュニティの機密情報に接触できたのは、キンメル大将が解任された12月16日」のことである。その日、一時的にキンメルの後任に就くことになっていたウィリアム・パイ中将が、南雲の845通目の電報を受け取った。電報になかで奇襲攻撃による太平洋艦隊の損害を報告していた。キンメル大将と太平洋艦隊とは「見事な配備」の受益者であるべきだった。それがUS局の局長ローランス・サフォードの意図であった。彼は6月1日まで、ロシュフォート、百四十名の暗号解読員と電信員及びキンメルに、そのように伝えていた。1941年7月15日よりHYPOは、日本海軍の活動情報を毎日、要約して報告していた。12月6日朝、キンメルがロシュフォートから最後の通信情報概要を受け取るまでに、11万2千通の日本海軍無線電報がH局で傍受されていたが、日本の攻撃を示唆する傍受電報は、一度も通信情報概要に現れなかった。また第一航空艦隊が真珠湾攻撃を計画していた時、同艦隊が発信した844通の電報のうち、どれ一つとして通信情報概要に記載されてなかった。
1944年ルーズベルトが四期目の大統領選に出馬したとき、共和党候補のトーマス・デューイが「見事な配備」を知り、ホワイトハウスは真珠湾が攻撃されるまで日本の電報を読んでいたのなら、太平洋艦隊はなぜ不意打ちを食らったのか、ルーズベルトを破る方法を思いついた。しかし、そんなことをすれば、日本は直ちに暗号を変更してしまうだろうと、当時、統合参謀本部議長だったジョージ・マーシャル陸軍大将は、暗号問題を選挙キャンペーンに利用しないよう、アメリカ人の命がかかっているとして、デューイを説得した。