昭和5年(1930)当時、農漁村は最大の有業人口を抱えていた。経済安定本部調べの雇用構造によると、農林・漁業労働者は14百万人、全有業者の約50%。昭和恐慌の特徴は、この最大の有業人口をかかえる農漁村がもっとも深刻な打撃を受け、日本経済の構造的な弱さを一挙に露呈させた。世界大恐慌が日本の農村を直撃したには、昭和5年に入ってからであった。農産物価格はすでに大正末期から下降状態を続けていたが、生糸価格の暴落を導火線として他の農産物価格も次々と下落した。農産物生産価額の推移を見ると、米・麦から繭、果実、蔬菜などすべての農産物価額が惨落している。もっとも打撃の大きいのは繭で、60%以上の値下がりで、米国向けの輸出生糸の価格暴落が原因であった。この生糸価格の暴落が繭価の暴落を呼び、繭価は前年相場の半値以下まで下落した。当時の全国農家戸数は560万戸、その4割弱の222万戸の農家が養蚕を副業にしていた。養蚕収入は最重要の現金収入源であった。
次いで米価の暴落が始まった。米価崩落のきっかけをつくったのは、昭和5年10月の政府による米作予想の第一回発表であった。この日、町田農相は、同年の米収穫高を、過去五か年平均に比べ12・5%増と発表した。この発表が引き金になって、翌日の米価は一気に三割強暴落し、米穀市場を大混乱におとしいれ、東京・大阪をはじめ各地の米国取引所が立会(取引)不能に陥っり、「豊作飢饉」と呼ばれる状態が現出した。翌昭和6年は一変して、東北・北海道が「凶作飢饉」に見舞われた。この年から、農業恐慌は本格的・全国的となった。東北農村を中心に、娘の身売り話や欠食児童の報告が続出した。新聞や雑誌に、東北農村の窮乏を伝えるルポルタージュが相次いで掲載された。中村政則氏は下村千秋の「飢餓地帯を歩く―東北農村惨状報告書」(「中央公論 昭和7年2月)でその様子を伝えている。子供たちの衣服の様子、食べ物の実態、欠食児童の多さなどについて。(詳細は平凡社 林茂編「ドキュメント昭和史」① 恐慌から軍国化へ)
日本で近代的農民運動が起こったのは、第一次大戦後のことであると云われている。大正6年のロシア革命、翌年の米騒動・労働運動の高揚が農民にも多大の影響を与え、大正11年には最初の全国的農民組織、日本農民組合が神戸で創立された。この日農の指導のもとに、小作料減免・耕作権の確立を要求する小作争議が各地でたたかわれた。ただ、大正期の小作争議は、岐阜・大阪・京都・兵庫・岡山・香川などの関西地方の諸県を舞台に繰り広げられたものであった。ところが、大恐慌期に入ると、小作争議は関西地方から中部・関東地方へ、そして東北地方へと北進し、とくに東北地方は小作争議の最多発地帯となった。昭和5年夏、内務省召集の地方長官会議の席上、福島県知事は、「いま農村には、全国農民組合系の赤化勢力が滔々として浸透しつつあるが、全国の大県中で、かかる赤化組織の発生を見ないのは、福島県だけである」と発言したが、昭和6年春、全国農民組合福島県連合会が結成され、小作農民が次々と闘争に参加していったという。東北六県全体でみると、昭和4年以前までの争議件数と比較すると、昭和5年以降は5倍の争議が発生しており、東北地方が、大恐慌期に文字通り小作争議の最多発地帯となった事が分かる。ただ、大正期の小作争議が、小作料減免を要求する積極的性格が特徴であったが、大恐慌下の争議は、中小地主の小作地引き上げに反対する消極的性格のものに変わり、また、争議の規模も縮小した。農産物価格の全般的崩落、兼業機会の減少などにより、農民諸階層の家計は一様に赤字となり、生活防衛闘争が基本になった。小作料減免・借金棒引き・小作地引き上げ反対などの対地主闘争のみならず、電灯料値下げ・肥料代値下げ・税金延納など、多岐にわたる闘争の色彩を帯びるに至った。
昭和7年11月、青森・岩手・宮城・山県・福島諸県の左翼的農民運動の指導者が一斉に検挙された。この一斉検挙に先立ち、同年10月、熱海温泉で開かれていた日本共産党の拡大地方代表者会議に、特高警察が乗り込み、出席者が一網打尽に検挙される事件があった。この時、秘密文書「東北地方に関する報告書」が押収され、東北地方の党組織および全農左派の善導が発覚した。この報告書に基づき、一斉検挙に踏切った。
一方繭価暴落で大打撃を受けた養蚕地帯はどうか。中村氏は自ら調査した長野県小県郡浦里村の紹介をしている。戸数818戸、総耕地面積のうち、桑畑が67%。農業収入の8割が養蚕収入であった。大地主も存在せず、小地主ばかりで、中農層が分厚く存在する典型的な養蚕偏重型の村であった。昭和5年の農業恐慌はこの村に壊滅的な打撃を与えた。村内には農業にたいする不安・絶望感が急速に広まった。浦里村には、明治35年創立の浦里青年団があった。当初は官製的な性格が強かったが、大正デモクラシーの高揚とともに、自主的な性格を強めた。青年会のメンバーの中に社会主義に共鳴する者が現れ、浦里青年会は思想的対立を深めた。この危機存亡の淵に立った浦里村を、全国でも有数な更生村村にまで押し上げたのは、35歳の青年村長宮下周であった。
宮下は政府の農山漁村経済更生計画を率先して実行した。産業組合―農事実行組合という系列で農村を組織化し、肥料や農具、生活物資の購入、農産物の販売、副業の奨励、資金の貸出、貯蓄の奨励を行うとともに、負債整理、自作農創設事業を推進した。この宮下の農村経済更生運動は、全国の注目を浴び、昭和11年10月全国優良厚生農村として、農林大臣及び富民協会より表彰された。その先を中村政則氏は次のように結ぶ。行く先は、農村のファシズム的再編成であった。国家という大きな存在は、全国各地で繰り広げられた農村・農民の恐慌脱出の必至の努力を、国民統合のバネとして上から吸収していった、という。この見解は飛び過ぎていないか。もう少し歴史的事実を素直に見た方がいいと思う。
次いで米価の暴落が始まった。米価崩落のきっかけをつくったのは、昭和5年10月の政府による米作予想の第一回発表であった。この日、町田農相は、同年の米収穫高を、過去五か年平均に比べ12・5%増と発表した。この発表が引き金になって、翌日の米価は一気に三割強暴落し、米穀市場を大混乱におとしいれ、東京・大阪をはじめ各地の米国取引所が立会(取引)不能に陥っり、「豊作飢饉」と呼ばれる状態が現出した。翌昭和6年は一変して、東北・北海道が「凶作飢饉」に見舞われた。この年から、農業恐慌は本格的・全国的となった。東北農村を中心に、娘の身売り話や欠食児童の報告が続出した。新聞や雑誌に、東北農村の窮乏を伝えるルポルタージュが相次いで掲載された。中村政則氏は下村千秋の「飢餓地帯を歩く―東北農村惨状報告書」(「中央公論 昭和7年2月)でその様子を伝えている。子供たちの衣服の様子、食べ物の実態、欠食児童の多さなどについて。(詳細は平凡社 林茂編「ドキュメント昭和史」① 恐慌から軍国化へ)
日本で近代的農民運動が起こったのは、第一次大戦後のことであると云われている。大正6年のロシア革命、翌年の米騒動・労働運動の高揚が農民にも多大の影響を与え、大正11年には最初の全国的農民組織、日本農民組合が神戸で創立された。この日農の指導のもとに、小作料減免・耕作権の確立を要求する小作争議が各地でたたかわれた。ただ、大正期の小作争議は、岐阜・大阪・京都・兵庫・岡山・香川などの関西地方の諸県を舞台に繰り広げられたものであった。ところが、大恐慌期に入ると、小作争議は関西地方から中部・関東地方へ、そして東北地方へと北進し、とくに東北地方は小作争議の最多発地帯となった。昭和5年夏、内務省召集の地方長官会議の席上、福島県知事は、「いま農村には、全国農民組合系の赤化勢力が滔々として浸透しつつあるが、全国の大県中で、かかる赤化組織の発生を見ないのは、福島県だけである」と発言したが、昭和6年春、全国農民組合福島県連合会が結成され、小作農民が次々と闘争に参加していったという。東北六県全体でみると、昭和4年以前までの争議件数と比較すると、昭和5年以降は5倍の争議が発生しており、東北地方が、大恐慌期に文字通り小作争議の最多発地帯となった事が分かる。ただ、大正期の小作争議が、小作料減免を要求する積極的性格が特徴であったが、大恐慌下の争議は、中小地主の小作地引き上げに反対する消極的性格のものに変わり、また、争議の規模も縮小した。農産物価格の全般的崩落、兼業機会の減少などにより、農民諸階層の家計は一様に赤字となり、生活防衛闘争が基本になった。小作料減免・借金棒引き・小作地引き上げ反対などの対地主闘争のみならず、電灯料値下げ・肥料代値下げ・税金延納など、多岐にわたる闘争の色彩を帯びるに至った。
昭和7年11月、青森・岩手・宮城・山県・福島諸県の左翼的農民運動の指導者が一斉に検挙された。この一斉検挙に先立ち、同年10月、熱海温泉で開かれていた日本共産党の拡大地方代表者会議に、特高警察が乗り込み、出席者が一網打尽に検挙される事件があった。この時、秘密文書「東北地方に関する報告書」が押収され、東北地方の党組織および全農左派の善導が発覚した。この報告書に基づき、一斉検挙に踏切った。
一方繭価暴落で大打撃を受けた養蚕地帯はどうか。中村氏は自ら調査した長野県小県郡浦里村の紹介をしている。戸数818戸、総耕地面積のうち、桑畑が67%。農業収入の8割が養蚕収入であった。大地主も存在せず、小地主ばかりで、中農層が分厚く存在する典型的な養蚕偏重型の村であった。昭和5年の農業恐慌はこの村に壊滅的な打撃を与えた。村内には農業にたいする不安・絶望感が急速に広まった。浦里村には、明治35年創立の浦里青年団があった。当初は官製的な性格が強かったが、大正デモクラシーの高揚とともに、自主的な性格を強めた。青年会のメンバーの中に社会主義に共鳴する者が現れ、浦里青年会は思想的対立を深めた。この危機存亡の淵に立った浦里村を、全国でも有数な更生村村にまで押し上げたのは、35歳の青年村長宮下周であった。
宮下は政府の農山漁村経済更生計画を率先して実行した。産業組合―農事実行組合という系列で農村を組織化し、肥料や農具、生活物資の購入、農産物の販売、副業の奨励、資金の貸出、貯蓄の奨励を行うとともに、負債整理、自作農創設事業を推進した。この宮下の農村経済更生運動は、全国の注目を浴び、昭和11年10月全国優良厚生農村として、農林大臣及び富民協会より表彰された。その先を中村政則氏は次のように結ぶ。行く先は、農村のファシズム的再編成であった。国家という大きな存在は、全国各地で繰り広げられた農村・農民の恐慌脱出の必至の努力を、国民統合のバネとして上から吸収していった、という。この見解は飛び過ぎていないか。もう少し歴史的事実を素直に見た方がいいと思う。