昭和恐慌による農業・農村の疲弊 2

2015年02月28日 | 歴史を尋ねる
 昭和5年(1930)当時、農漁村は最大の有業人口を抱えていた。経済安定本部調べの雇用構造によると、農林・漁業労働者は14百万人、全有業者の約50%。昭和恐慌の特徴は、この最大の有業人口をかかえる農漁村がもっとも深刻な打撃を受け、日本経済の構造的な弱さを一挙に露呈させた。世界大恐慌が日本の農村を直撃したには、昭和5年に入ってからであった。農産物価格はすでに大正末期から下降状態を続けていたが、生糸価格の暴落を導火線として他の農産物価格も次々と下落した。農産物生産価額の推移を見ると、米・麦から繭、果実、蔬菜などすべての農産物価額が惨落している。もっとも打撃の大きいのは繭で、60%以上の値下がりで、米国向けの輸出生糸の価格暴落が原因であった。この生糸価格の暴落が繭価の暴落を呼び、繭価は前年相場の半値以下まで下落した。当時の全国農家戸数は560万戸、その4割弱の222万戸の農家が養蚕を副業にしていた。養蚕収入は最重要の現金収入源であった。

 次いで米価の暴落が始まった。米価崩落のきっかけをつくったのは、昭和5年10月の政府による米作予想の第一回発表であった。この日、町田農相は、同年の米収穫高を、過去五か年平均に比べ12・5%増と発表した。この発表が引き金になって、翌日の米価は一気に三割強暴落し、米穀市場を大混乱におとしいれ、東京・大阪をはじめ各地の米国取引所が立会(取引)不能に陥っり、「豊作飢饉」と呼ばれる状態が現出した。翌昭和6年は一変して、東北・北海道が「凶作飢饉」に見舞われた。この年から、農業恐慌は本格的・全国的となった。東北農村を中心に、娘の身売り話や欠食児童の報告が続出した。新聞や雑誌に、東北農村の窮乏を伝えるルポルタージュが相次いで掲載された。中村政則氏は下村千秋の「飢餓地帯を歩く―東北農村惨状報告書」(「中央公論 昭和7年2月)でその様子を伝えている。子供たちの衣服の様子、食べ物の実態、欠食児童の多さなどについて。(詳細は平凡社 林茂編「ドキュメント昭和史」① 恐慌から軍国化へ)

 日本で近代的農民運動が起こったのは、第一次大戦後のことであると云われている。大正6年のロシア革命、翌年の米騒動・労働運動の高揚が農民にも多大の影響を与え、大正11年には最初の全国的農民組織、日本農民組合が神戸で創立された。この日農の指導のもとに、小作料減免・耕作権の確立を要求する小作争議が各地でたたかわれた。ただ、大正期の小作争議は、岐阜・大阪・京都・兵庫・岡山・香川などの関西地方の諸県を舞台に繰り広げられたものであった。ところが、大恐慌期に入ると、小作争議は関西地方から中部・関東地方へ、そして東北地方へと北進し、とくに東北地方は小作争議の最多発地帯となった。昭和5年夏、内務省召集の地方長官会議の席上、福島県知事は、「いま農村には、全国農民組合系の赤化勢力が滔々として浸透しつつあるが、全国の大県中で、かかる赤化組織の発生を見ないのは、福島県だけである」と発言したが、昭和6年春、全国農民組合福島県連合会が結成され、小作農民が次々と闘争に参加していったという。東北六県全体でみると、昭和4年以前までの争議件数と比較すると、昭和5年以降は5倍の争議が発生しており、東北地方が、大恐慌期に文字通り小作争議の最多発地帯となった事が分かる。ただ、大正期の小作争議が、小作料減免を要求する積極的性格が特徴であったが、大恐慌下の争議は、中小地主の小作地引き上げに反対する消極的性格のものに変わり、また、争議の規模も縮小した。農産物価格の全般的崩落、兼業機会の減少などにより、農民諸階層の家計は一様に赤字となり、生活防衛闘争が基本になった。小作料減免・借金棒引き・小作地引き上げ反対などの対地主闘争のみならず、電灯料値下げ・肥料代値下げ・税金延納など、多岐にわたる闘争の色彩を帯びるに至った。
 昭和7年11月、青森・岩手・宮城・山県・福島諸県の左翼的農民運動の指導者が一斉に検挙された。この一斉検挙に先立ち、同年10月、熱海温泉で開かれていた日本共産党の拡大地方代表者会議に、特高警察が乗り込み、出席者が一網打尽に検挙される事件があった。この時、秘密文書「東北地方に関する報告書」が押収され、東北地方の党組織および全農左派の善導が発覚した。この報告書に基づき、一斉検挙に踏切った。

 一方繭価暴落で大打撃を受けた養蚕地帯はどうか。中村氏は自ら調査した長野県小県郡浦里村の紹介をしている。戸数818戸、総耕地面積のうち、桑畑が67%。農業収入の8割が養蚕収入であった。大地主も存在せず、小地主ばかりで、中農層が分厚く存在する典型的な養蚕偏重型の村であった。昭和5年の農業恐慌はこの村に壊滅的な打撃を与えた。村内には農業にたいする不安・絶望感が急速に広まった。浦里村には、明治35年創立の浦里青年団があった。当初は官製的な性格が強かったが、大正デモクラシーの高揚とともに、自主的な性格を強めた。青年会のメンバーの中に社会主義に共鳴する者が現れ、浦里青年会は思想的対立を深めた。この危機存亡の淵に立った浦里村を、全国でも有数な更生村村にまで押し上げたのは、35歳の青年村長宮下周であった。
 宮下は政府の農山漁村経済更生計画を率先して実行した。産業組合―農事実行組合という系列で農村を組織化し、肥料や農具、生活物資の購入、農産物の販売、副業の奨励、資金の貸出、貯蓄の奨励を行うとともに、負債整理、自作農創設事業を推進した。この宮下の農村経済更生運動は、全国の注目を浴び、昭和11年10月全国優良厚生農村として、農林大臣及び富民協会より表彰された。その先を中村政則氏は次のように結ぶ。行く先は、農村のファシズム的再編成であった。国家という大きな存在は、全国各地で繰り広げられた農村・農民の恐慌脱出の必至の努力を、国民統合のバネとして上から吸収していった、という。この見解は飛び過ぎていないか。もう少し歴史的事実を素直に見た方がいいと思う。

嵐にむかって雨戸を開け放つ

2015年02月25日 | 歴史を尋ねる
 日本の国民総生産(GNP)は昭和5年から一気に落ち込んだ。昭和4年を100とすると、5年89.1、6年80.6、7年82.8で、この三年間がもっとも落込みが激しい。そして8年93.0、9年102.8で、この年にようやく恐慌直前の状態に回復した。当時、外務省総務局調査による生活水準比較によると、昭和5年(1930)の日本の1人当り国民所得は、米国の1/9、英国の1/8、フランスの1/5、ベルギーの1/2。また、コーリン・クラークの著書によると、日本の実質国民所得は、フィンランド、ハンガリー、ポーランド、イタリア等と同水準になっているという。当時の日本経済の実力はおよそこの程度であった。このような時、浜口内閣は10%以上の円切り上げを行って、金解禁に踏切ったと、中村政則氏は解説する。旧平価金解禁の是非とニューヨーク株式大暴落の直後という時期の選定について、後から見ると当時の為政者の判断は明らかに誤った意思決定であった。何故誤った判断をしたのか、なぜ誤った判断を早めに修正できなかったか、もっともっと深く歴史を掘り下げて置く必要がありそうだ。

 この井上のデフレ政策は、たちまち失業者の増大をもたらした。当時の失業統計はまったく不備で、失業者数は、内務省社会局の31万人余という数字から、民間人推計の300万人という大幅な食い違いがるという。経済安定本部調べの失業者は、5年237万人、6年250万人、7年242万人である。隅谷三喜男氏も、日本銀行の雇用者指数を用いて、失業者は200万人を超える計算になる。新規供給を考えれば300万人もあながち誇大な数字ではないと述べている。同時期の米国の失業率が4.3~12.1%であるから、日本の方が失業率は高く、末期では米国の方が高い。それにしても、250万人の労働者が路頭に迷ったのだから、深刻である。大工場が操業短縮・解雇を行ったためであった。操業短縮率は、3割~6割に及ぶ。解雇を免れたものの、実質賃金は昭和4年を100とすると、5年95.0、6年87.3、7年84.8まで、15%以上も下がった。各地で、首切り反対・賃金引下げ反対の労働争議が激発した。
 争議件数は、昭和3年の1021件から、6年には戦前最高の2456件へと急増、東京市電・横浜ドック・鐘紡・東洋モスリン争議などの歴史的な大争議が頻発するとともに、富士瓦斯紡・ジェネラルモーターズ・芝浦製作所・筑豊炭田・住友製鋼所・日本鋼管川崎工場などの、大資本における労働者の争議も巻き起こった。さらに、参加者50人以下の群小争議が年々増加し、6年には三分の二を超すに至った。これらの争議は、不況と合理化を反映して、賃金減額反対・解雇反対・解雇手当の支給など消極的・防衛的性格の要求が多かった。6年の労働組合数は818組合、組合員数37万人、組織率8%で、戦前最高の組織率であったそうだ。また、中小企業の倒産・休業、工場主の夜逃げ、賃金不払いなどが続出した。

 この大不況に直面して、資本力のある大企業では合理化をすすめた。ここで中村氏は春日豊の「三池炭鉱における合理化の過程」研究を取り上げている。三池炭鉱では、第一次大戦後の不況時から、生産コストを切り下げるため、坑道・切羽(採掘現場)の整備を行い、採炭方法を変えていった。各種新型機械が次々導入され、生産の機械化が進行していた。しかしこの合理化を一気に推し進める契機は、昭和恐慌であった。昭和5年頃から採炭の機械化をはかり、採炭現場から石炭を積みだす運搬過程を機械化した。さらに馬匹運搬に頼っていた坑道に、蓄電地機関車やエンドレスロープを導入して、石炭の坑外搬出を、馬から機械に切り替えた。この生産・運搬過程の機械化によって、三池炭鉱は、女子鉱夫や囚人労働などを廃止すると同時に、男子鉱夫の人員整理も行った。以上の機械の導入と人員整理で三池炭鉱の出炭能率は一気に上昇した一人当たりの出炭額はほぼ倍増したという。
 三池炭鉱は、大正13年大量解雇を行い大争議に発展した。ところが今回は、鉱夫の猛反対は起らなかったという。それは会社側が労使協調的な共愛組合をつくり、労働者の馴致(じゅんち)に努めたからであると解説する。大恐慌期の大企業では、会社あっての従業員という企業側の宣伝・労務政策が功を奏し、労働者はますます資本のもとへ包摂されていったのである、と。恐慌を契機に、大企業における労働者の会社への帰属意識はいっそうつよまった。

 産業の合理化は紡績工場でもすすんだ。昭和4年7月の工場法第4条に基づく深夜業の廃止は、紡績業における合理化に拍車をかけた。各紡績会社は、深夜業撤廃に備え、旧式機械を新式機械に取り替え、女工1人当りの労働生産性を増大させようとつとめた。これによって、労働時間こそ短縮されたものの、労働密度の強化によって、深夜業撤廃の影響をカバーし、その上で、各紡績会社は賃金カット・大量の人員整理を行った。これに対して、家族主義的経営の牙城鐘紡のストライキを皮切りに、昭和5年は紡績業界の労働争議が吹き荒れた。
 1930年代に入ると、日本の綿工業は、低賃金(英国などと比較して)と為替の低落(後述)、そして1920年代以来の合理化(機械化)の成果を踏まえて、国際競争力を強めていった。これによって日本綿業は英国のランカシャー綿業との激烈な抗争が繰り広げられ、英国の市場であった東南アジア、インド、更には中南米、アフリカ市場にまで殺到し、英国綿製品を駆逐していった。この市場拡大は、貿易摩擦が強まり、経済ブロック化の引き金になったという。日本の恐慌からの脱出の仕方そのものが、他国との対立・緊張を激化させる要因ともなった。

 

デフレ政策かインフレ政策か

2015年02月24日 | 歴史を尋ねる
 浜口首相が出席出来ない昭和5年12月24日にはじまるの第五九通常議会は、波乱含みであった。ロンドン条約にもとづく海軍の補充計画・行財政の整理・不景気対策・労働組合法案・小作法案などの重要問題が山積していた。なかでも昭和6年度予算の審議が最重要の問題であった。蔵相井上準之助が野党の集中砲火を浴びるのは必至であった。衆議院本会議で財政演説を井上がおこなうと、三土忠造が再び論戦を挑んだ。「昭和大蔵省外史」が金解禁問題を中心とする財政経済上の論戦は、日本の国会史上稀に見る高次な内容をもつものと評されており、井上・三土の一騎打ちは、今国会のハイライトともいうべき論戦だった。両者の根本的対立は、デフレ政策を堅持するかインフレ政策に切り替えるかの一点に集約されていたと中村政則氏はいう。

 井上は、日本経済は、大正6年(1917)以来13年間、不自然の状態にあるとみていた。財界の根本的建て直しを行うことには、金解禁して、それ以前の状態に戻すことである。歳入が減ったならば、その歳入に応じて歳出をきめる。民間会社がもうからなくなったならば、そのもうからないところに無駄な経費を使っていくよりも整理すべきでないか。この世界の不景気にもかかわらず、通貨を膨張させ、空景気を出すようなことは絶対に避けなければならない。これが井上蔵相の意見であり、徹底したデフレ政策の見地であった。
 これに対して三土は、井上蔵相の見解を、銀行の狭い窓口から一般経済を見ているようなものと痛烈な皮肉を加えつつ、結局、この不景気を治すには、財政緊縮・消費節約をやめて、公債もしくは借入金に依存する以外にないと論じた。「国家は活きている。国民は生活している。その国家の発展を図り、国民の安寧幸福を図るのが大蔵大臣の責任である。金が無くなったから仕様がない、何もせぬのは当たり前というのは、無責任なる大蔵大臣であると謂わねばならない」と。三土は、政府が公債を発行し、すすんで政府事業を起こし景気に刺激を与えて、不況からの脱出を図るべきだ、と主張した。今の経済学の考え方だと、ケインズ経済学の有効需要創出の政策であり、アベノミクスのデフレ脱却政策にその考えが通じるところがある。ケインズの「一般理論」が公刊されたのは昭和11年(1936)のことで、金本位制の自動調整機能を教条的に信奉していた井上と比べれば、三土は明らかに時代を一歩先取りしていた。
 両者は火花を散らす論戦を展開した。しかし、井上が自己の政治生命を賭けた緊縮政策・金解禁政策を放棄するはずもなかった。結局、6年度予算案は多数を擁する民政党が押切り、衆議院本会議を通過した。ついで貴族院を通過、予算案の成立を見た。この予算案審議の大詰めで、浜口雄幸は傷病の身を押して登院、最後の力をふりしぼったが、議会閉会後、再び健康が悪化し、再入院。ここに至って浜口は民政党総裁辞任の決意をかため、若槻礼次郎が跡を継いだ。4月14日、第二次若槻内閣が成立、翌日の閣議で、行政・財政・税制に関する三つの準備委員会を設置、大胆な行政改革に乗り出した。目標は一億円の節約、補助金・恩給法の改正や、官吏の減法によって、その半分を捻出し、省の廃合・局課の整理及び物件費の削減によって残りの半分を生み出そうというもので、デフレ政策のオンパレードであった。その陣頭指揮に立ったのは井上蔵相であった。

 減俸案が発表されると、猛烈な反対運動が起こった。鉄道省・逓信省の公務員がもっとも激しく反対したが、政府は若干の譲歩をしたのみで、官吏減俸案を決定、実施に踏み切った。官吏の減俸にならって、地方府県吏員・市町村吏員、そして小学校教員の減俸も行った。ついで省の廃合では、農林・商工両省の合併で産業省とする、逓信省と鉄道省を合併して交通省、巧務省は廃止する案をつくったが、結局拓務省の廃止のみがきまり、民政党内閣の瓦解によって実現されなかった。次の恩給法の改正も難航した。恩給法による国庫の支出額は巨額に上り、受給者は吏員総数の27万人を超える35万人に達していた。且つ、恩給開始年齢は一般公務員の47歳と比較すると著しく若く、陸軍34歳、海軍30歳であった。これを出来る限り文官の水準に近づけようとしたが、強硬な反対にあい、大した成果もあげずに終わった。しかし、以上のような行政改革は、軍縮を実現し減税を行った上での行革であった。

非情・冷徹な合理主義者

2015年02月23日 | 歴史を尋ねる
 政府の責任を迫った政友会三土忠造の質問に対し、答弁に立った井上蔵相の発言を中村正則氏はその著書「昭和の恐慌」で活写している。
 国務大臣(井上準之助君)只今三土君の…(議場騒然聴取する能わず)…吾々の…現在の…
 三土君は…声明…致しますが…是は…間違いでありまして…吾々は…致します…又国民が消
 費節約を致します。この為に…(中略)…吾々は…尚…その為に…尚…緊縮…尚…吾々は…
 是で私の演説は終わります(拍手)。
 これほど無残な「帝国議会議事速記録」の部分が、ほかの箇所にあるだろうか。野次・罵声が飛び交う中で、殆ど聴取不能という状況で、殺伐とした雰囲気が議場内にあふれていたと中村氏は解説する。

 月をかさねるにつれて、景気はますます悪化していった。昭和5年8月、井上は「世界不景気と我国民の覚悟」と題する小冊子を発刊して、世論の説得を次のように試みた。
 日本の不景気は世界的不景気に由来するところが大きい。もし日本が、財政緊縮も行わず、金解禁もせず、為替相場がさがったままの状態で、世界の不景気に遭ったならば、日本の経済界は、いまと比較にならぬほど困難な状況に追い込まれたであろう。世界不景気の急流の真っただ中で、日本だけが静止のの状態にあるという奇術を期待することは出来ない。今日の経済組織では、失業者の出ることは、やむを得ないのではないか。世界の国々で、この不景気のために苦しまない国はどこにもない。(中略)苦しんで怨声を発し、悲観することは、その国民のもっとも慎むべきことである。寧ろかくの如き事態に遭遇したら、この時局をよく理解して各々の立場に於いて大いに努力を惜しまず、国民的に一致協力してこの難関に処するということが、最も肝要なることと考えている、と。

 中村政則氏はこの小冊子の言動についても解説する。ここには井上の自己弁護の響きがあることは否定できない。さらにもう一つ特徴的なのは、彼の恐慌対策についての考え方である。井上は失業対策に言及して、政府は主に地方をしてその救済に当たらしめて居る。失業対策に中央政府が乗り出すことは好ましくない。仮に政府が解決にあたる場合でも、失業者に徒に扶助金を与えるようなことは、断じてしない覚悟をしていると述べている。また、不景気の救済策として、大いに公債を発行して政府事業を盛んにせよと主張する者があるが、左様な姑息な、一時的の方策が功を奏しようとは考えない。むしろ公債発行は金解禁後の後始末と逆行し、公債市場は下がり、内外の信用を失墜することは明らかで、左様は無謀な事は日本のこの経済界に非常な害毒を流すもので、折角整理せざるを得ない事業を繰延ばすことになり、日本の財界は未来永劫、立直ることが出来なくなる、と述べているそうだ。
  第一次大戦いらいの水ぶくれ的日本経済を徹底整理し対外競争力をつけてこそ、日本経済のいきる道はある。その信念を、大不況の中でも井上は変えようとしなかった。井上は非情・冷徹な合理主義者であり、適者生存の論理を経済にも応用すべきであると考えていた、と。その点で井上の対策は、連邦政府の州政府とビジネスへの介入に消極的であったフーヴァー大統領の恐慌対策と一脈通ずるものを持っていた、という。

 昭和5年11月、浜口首相が東京駅頭で狙撃されるという衝撃的な事件が起こった。ロンドン軍縮条約に反対する右翼の計画的な犯行であった。だが、未曾有の不景気が、この犯行を生む社会的背景となっていたことも否定出来ない。第59通常議会は12月に始まる。党首遭難の不慮の事態に直面して、民政党は外相の幣原喜重郎を首相代理にあて、この難局を切り抜けようとした。しかし、政友会は、この重大な時期に総理大臣の責任ある答弁を聞けないのは納得できない、もし議会に出席できないなら、その責任をしめすべきである。しかも、民政党に籍のない官僚出身の幣原を首相代理にすえるのは政党政治の本義に背くとして、政府を攻めたてた。

大恐慌直撃

2015年02月21日 | 歴史を尋ねる
 昭和4年(1929)10月、ウォール街で株価大暴落が起こったとき、日本国内でこれが世界恐慌にまで発展すると観測したものは、誰一人としていなかった。当時財務官の津島寿一も、株式恐慌の如きは、ただ一時エアポケットに入ったのみで、経済の実態は健全だと、識者、有力者は見ていたと、当時を語っている。「永久の繁栄」という言葉も出た時だったという。蔵相井上準之助の判断もこれと同様であった。その三週間後に、浜口内閣は金解禁声明を発表し、翌昭和5年1月から金解禁を実施した。

 まず、巨額の金流出が起こる。解禁後五か月で2億2000万円の正貨流出、翌昭和6年9月英国の金本位停止に伴い、正貨流出は激増し、翌昭和7年1月までに、総額4億4500万円の巨額の金が流出した。結局、2年間で、日本は約8億円の正貨を失い、解禁時、在外正貨を含めて約13億6000万円あった正貨は、23カ月後には4億円を残すにすぎなかった。株価・物価の暴落、工業・農業生産の低落、輸出入の不振、国際収支の悪化が進み、昭和6年に日本の恐慌は最悪の事態を迎えた。東京・大阪株式取引所の有力株の平均下落率は50.4%、時価総額で25億円余の巨額の損失。当時超一流企業の鐘紡が賃金引き下げを発表するや、諸株式はいっせいに下落、東京株式取引所が立会停止に追い込まれた。アメリカの恐慌と違って、恐慌前に株式投機ブームがあったわけではない。むしろ昭和2年の金融恐慌以来、日本経済は沈滞状態にあり、株価の異常騰貴は見られなかった。株価の下落幅は米国ほどひどくなかったが、受けた打撃は実際以上に大きかった。

 物価の下落も同様であった。卸売・小売物価指数は昭和3年からじりじり低下しつづけており、その間一度も反騰することなく、昭和6年10月の最低点に直結、その間の下落率は38.6%であった。なかでも米国の恐慌の影響をまともに受けた生糸は、昭和5年1月の高値から6年の最低値にかけて55%の下落、綿糸は52%、米50%の下落というように、主要商品はいずれも半値以下に暴落した。当時、生糸はなお日本輸出品総額の4割を占め、その9割以上は米国向けであった。ところが金解禁で円為替が高騰し、結果は輸出価額は割高となった。更にレーヨンの発達と大恐慌による需要減が重なったため、米国向け生糸輸出は激減した。そればかりでなく、綿糸布の二大輸出市場であった中国とインドが自国産業保護のため関税率を引き上げたので、綿糸布の輸出も減少した。
 こうして4年から6年にかけて、日本の輸出額は26億円から15億円へ43%減、輸入額は28億円から17億円へ40%減となり、これに正貨の流出が加わって、国際収支は連年、巨額の赤字を記録した。どの経済指標をとっても、大不況の到来は明白であり、日本の恐慌は世界大恐慌の一環に組み込まれた。

 昭和5年4月、第58特別議会で、野党政友会は、早速浜口内閣の金解禁政策の失敗を追及した。その先頭に立ったのは、政友会きっての財政通三土忠造であった。彼は不景気の原因として、①現内閣の緊縮政策、殊に国民消費の節約奨励のため、消費の減退と生産の減退、取引の減退を来す。②無理無準備な金解禁のため、外国品の値下がりに圧倒され、経済界が不振になった。③世界的不景気、銀相場の下落、インドの関税改正等、外的事情のため日本の輸出貿易が打撃を蒙った。しかし、この三つの中で、政府の財政緊縮、消費節約の宣伝、金解禁等の如きは、殊に重大な作用をしている、と。
 以上の結果、各産業で操業の短縮・生産の制限が行われ、かつ商品在庫が激増した。そのため企業は資金難に陥り、商品の投売りをせざるを得ない。それでも乗り切れない企業は、』賃金カットを行うか、工場を閉鎖して職工の解雇に走らざるを得なくなった。こうして生産に従事している多くの中小企業者や労働者の購買力が減退し、それが更に取引の停滞・生産の減退を引起し、今日の深刻な不景気を招いた。しかも、金解禁の時期を誤ったためいっそう不景気がひどくなった。いったい政府はこの責任をどう取るつもりかと、三土は迫った。

井上準之助大蔵大臣

2015年02月20日 | 歴史を尋ねる
 昭和6年(1931)9月、英国が金本位から離脱するとの声明を行った。満州事変勃発後三日後の事であった。英国の「エコノミスト」は「エポックの終焉」と題して、世界における金融上および経済上の発展における一つの決定的終焉を意味するものであると述べた。各国も次々と金本位を離脱し、このニュースは、衝撃波のように日本にも伝わった。国際金融筋・財閥系銀行がドルの思惑買いに走った。狂気のような円売り・ドル買いがはじまった。井上は横浜正金銀行にドルの統制売りを命じて、ドル買いに対抗した。他方、公定歩合を引き上げて金融を引き締め、ドル買いの勢いを削ごうとした。しかしドル買いは止まず、すさまじいドル買いをめぐる攻防戦が繰り広げられた。

 日本の金融資本も井上を見放しつつあった。背に腹かかえられない。財閥系銀行は、今や金輸出再禁止の肚を固めつつあった。しかし井上は、歯を食いしばって金本位を維持しようと最後の力をふりしぼった。青木一男著「聖山随想」には次のように書いているそうだ。「察するに、井上さんとしては、この問題は自分の政治生命を賭し、政友会その他の反対を押切って実行したことであるから、再禁止になると、敵の軍門に降るものだというような感覚を持たれたことと思う。それにあの独特な自信力が裏付けとなって、不退転の決意を固められたものと思う。(中略)秘密懇談会を開いた席上、思い切った所信を表明された。金本位維持は自分の不動の信念であること、ドル買いというような非国民的所為に対してはあらゆる対抗策を用意している。金利引上げもその一つであり、横浜正金銀行の無制限統制売りもその一つであること、そして金融経済の圧力でドル買いをなくす自信があると、声を励まして決意のほどを披歴されたが、その熱烈さに打たれて満場寂として声がなかった」と。この不景気の中で金融を引き締めれば、景気がますます悪化する。これ以上意地を通そうとしても、経済の論理がそれを許さない。そもそもの間違いは、井上が実際の円の実力以上の割高な円レートを設定したことにあった。

 巷には、ドル買いで巨利を博した財閥に対する非難・攻撃の声が高まりつつあった。11月に社民党青年同盟のグループ20余名が、白昼、三井銀行をおそい、ビラをまき、アジ演説を行った。政友会は、即時、金輸出禁止を断行すべきと決議した。民政党内も次第に亀裂が生じ、政変に向った事態は急転回していった。井上の財政政策に反対する安達謙藏内相は、英国マクドナルド内閣の挙国一致内閣にならって、政友会との連立内閣をつくり、この非常事態に対処しようとした。しかし、その背後には、ドル買い筋が暗躍したといわれる。ドル買い筋が思惑通り利益を挙げるためには、若槻内閣を倒して、金輸出再をさせる必要があった。12月若槻内閣は閣内不統一によって総辞職に追い込まれた。二日後政友会総裁犬養毅が後継首相に推され、同内閣は即日金輸出禁止を行った。井上準之助の金解禁政策は、わずか二年足らずで死命を制された。

 政変直後、伊藤忠兵衛は上京した機会をとらえて、井上を訪ねた。バカなことになりましたなと云うと、意外な答えが井上から返ってきたという。「金解禁の成敗如何は、後世の歴史が語るだろう。自分のやったことがよかったか悪かったか、あるいは政友会のゆき方が正しいのか、自分は疑わしくなってきた」と。三井財閥総帥の池田成彬は次のように批評を残している、と。「井上も銀行を出て民政党に入り政治をやり始めてからは、どうも性格がすっかり変わったと私は思うのです。銀行をやって居る時分にはむしろ小心翼々として、どっちかというと我々から言えば消極的で弱かったですね。但し初めから才人ではあった。なかなか頭はさえて居った。(中略)それが一度政治に入って選挙などをやって、いろいろな人から金をとって、あのやり方になったのです。随分無理をしてすべてのことを強引にやった。殊にドル買いに対する政策は無理をして居った。」
 政治家には功名心もあり野心もある。意地もあろう。しかしそのことによって歴史の選択を間違えた時、国民はどのような運命にさらされるか。英国が金本位制度を停止した時、日本も直ちに停止に踏み切れば、大恐慌の衝撃はもっと少なくて済んだはずだ。しかし井上は意地を通してそれをやらなかった。そのために井上の金解禁政策は、まさに「嵐にむかって雨戸を開け放す」ような混乱を招いたと、中村正則氏の「昭和の恐慌」はコメントする。

金輸出再禁止に至る政治経済情勢

2015年02月17日 | 歴史を尋ねる
 金解禁実施直後の昭和5年(1930)1月議会が解散され、2月総選挙が行われ、与党の民政党は大勝を収めた。金解禁が支持されたが、政治情勢は安定しなかった。当時1930年ロンドン海軍条約の調印・批准をめぐって国内の鋭い対立があった。結局政府はこの条約の批准に成功し、対英米協調路線を貫くことができたが、反面これが契機となって青年将校や右翼のテロ行為が目立つようになった。ついに11月に右翼のテロは浜口首相を襲った。昭和6年に入って3月には一部の陸軍軍人と右翼によるクーデター未遂事件が発覚した(3月事件)。テロに襲われた浜口首相の病状は悪化し、4月に退陣のやむなきに至った。ここで、第2次若槻内閣が発足した。政府は昭和7年度予算編成の前提として行政・財政の整理を行うこととしたが、この整理案をめぐって政府の内外から激しい反対が起こり、結局当初案は大幅な後退を余儀なくされた。

 当時の国際情勢もまた極めて不安定であった。1929年のニューヨーク株式の暴落を契機に欧米諸国の経済活動は沈滞し、とくにヨーロッパでは信用不安が渦巻いていた。他方アジアでは、日本と中国の対立が深まっていた。とくに昭和6年8月には、中国の日貨排撃運動が激しくなり、さらに揚子江一帯に大水害が発生したため、日本の対中国輸出の前途が懸念されるに至った。こうした状況の中で9月18日夜、中国の奉天(瀋陽)北部の柳条溝で満鉄の線路が爆破されるという事件が発生した。この爆破は関東軍によって行われたものであったが、関東軍はこれを中国の挑戦として、直ちに軍事行動を開始し、満州事変が始まった。当時、政府は事件の真相を知らなかったが、事態を極めて深刻に受け止め、翌19日午前臨時閣議を開いて事態不拡大方針を決議した。しかし関東軍の姿勢は強硬で、同日夜、満州全域の治安維持のための軍隊の増援を求めてきた。政府は21日も閣議を開いて協議をしたが、結局、結論は持ち越された。ところがその日の夜、朝鮮駐屯軍の一個旅団が中央からの指揮命令がないまま国境を越えて満州に入った。翌22日の閣議では、この独断越境が大問題となったが、結果的には追認されたような形となった。他方この間現地では、関東軍が満蒙新政権樹立の運動を着々進めていた。

 この満州事変の勃発は経済界にも大きな衝撃を与えた。翌19日の株式市場では、一部の軍需関連株を除き大部分が暴落した。当時日本の対中国貿易は全体の2割を占め、とくに綿織物について中国は重要な輸出市場であったから、産業界は日貨運動が激化することを恐れた。しかし経済界がすべて対中国政策について中国との妥協を望んだということではなかった。東京日日新聞に掲載された財界有力者(三井物産・安川雄之助、日清紡績・宮島清次郎)の、この事件に関する談話は、いずれも中国に対し強い姿勢をとるべきだとするものであった。しかしながら当時の日本経済は深刻な不況に陥っており、一部では金輸出再禁止論が主張され、昭和7年度予算編成をめぐって、緊縮方針を維持しようとする井上蔵相と、国債を発行して政策転換を図るべきだとする町田農相らとの対立が伝えられるなど、事態は容易ならざる雲行きになりつつあった。こうした状況のもとで、日本と中国が事を構えるということは、経済的観点から見ても憂慮すべきものがあったはずであると、日銀百年史筆者はいう。政府が日中両軍衝突の報に接した直後、事態不拡大の方針を決定したのは、基本的外交路線としてだけでではなく、この点からいっても極めて当然の措置であった。しかも満州事変が勃発した9月18日は、くしくも英国が事実上、金本位制度の停止を決定した日であった。

 満州事変の勃発に続く、英国の金本位制度の停止によって、経済界は混乱した。井上蔵相は、第一次大戦後日本と英国の金融関係は薄れているので、米国を経てくる間接の影響は免れまいが直接日本の経済界への影響はないと思うと語って、経済界のショックを和らげようとしたが、21日の株式市場は総投売りの状況となり、ついに立会を中止するに至った。翌22日は休会、23日は午前のみ、24~26日は市場を閉鎖した。商品市況に及ぼした影響もまた大きく、とくに繊維品の相場低落は著しかった。9月中の相場の動きは、綿糸16%、人絹糸18%の暴落となった。織物についても価格の低落、売上高の大幅減少が見られたほか、先行き不安も加わって、関東機業地では操業短縮に入った。更に英ポンド決済を主とするヨーロッパ・アフリカ・中近東・英国領植民地向けの輸出商談は停滞し、しかもポンド下落による英国の輸出競争力強化が懸念されるようになった。

世界恐慌と日本の金輸出再禁止論議

2015年02月15日 | 歴史を尋ねる
 日本の金輸出解禁について触れていないのに、再禁止論議を追うことは転倒しているが、事の本質を見るのに便利と思い、先に見ておきたい。
 日本が金の解禁を実施した昭和5年(1930)の前年、アルゼンチン・ブラジル・オーストラリアなどが金本位制度を停止し、さらに10月ニューヨーク株式が大暴落した。後から振り返れば、これらは世界経済が大きく動揺する前兆であったが、当時そうした見方は内外を通じてほとんどなかったという。しかし昭和5年に入って金解禁を実施し、日本の不況が深刻化すると、各方面から政府の緊縮政策の転換を求める声が出るようになっただけではなく、ジャーナリズムの間から、金輸出再禁止論が出るようになった。東洋経済新報社出身の経済評論家、高橋亀吉は、「中央公論」(昭和5年7月)に金解禁問題に関する論文を発表し、政府の施策を激しく攻撃し、次のように述べた。
 既に多大の犠牲をかけて一度旧平価解禁を断行したから、成功裡に金本位を維持する見込みがあれば、極力維持することに賛成だ。しかし、金本位の維持が目的ではない。日本経済の立て直しの一有力手段として金本位の維持を必要とするに過ぎない。しかし、金本位を維持するため以上に詳述する如く、非常な無理を押し通さねばならず、この上更に多大な犠牲を払わねばならない。これまでの私見が事実ならば、再び金の輸出禁止を断行して、貿易バランスの採れる所まで為替を下落せしめ、改めて、新平価解禁を断行することが、日本のためより有利で、その経済を立て直す所以である、と。

 高橋亀吉は石橋湛山などと共に数年前より新平価解禁論を唱え、前年秋にも旧平価解禁が経済に及ぼすであろう厳しい影響について警告する論文を発表していたが、解禁後における経済情勢の推移に鑑み、改めて新平価解禁論の立場から、旧平価解禁という、ボタンの掛け違いを直すために、一時、金輸出禁止措置を取れと主張したものであった。これらの主張に対し、従来から政府の金解禁政策を強く支持していた「東京朝日新聞」は昭和5年9月の社説で、金輸出再禁止論がどれ程日本の対外信用を傷つけるか分らない、その無責任なる主張が、既に落着きかけている日本の正貨流出を、再び逆転せしめるものであることを思わないのかとこれを非難した。両者の違いは、当時の経済状況及び将来への展望に関する認識の違いによるもので、高橋は当時の世界不況をかなり深刻に見ていたからだろうと、百年史の筆者は語っている。

 当時の気分は高橋亀吉本人から語ってもらう(「私の実践経済学はいかにして生まれたか」)のがリアリティがあるだろう。 当時、政府も金融界も財界も、新聞雑誌も評論界も、学者も旧平価解禁によって、日本経済は間もなく立直ると信じ込んでいた。新平価金解禁を以て、国辱であり、書生論として、これに殆ど一顧だにも与えず、遮二無二に準備を進め、遂に旧平価金解禁を断行することを内外に声明した。そして、金解禁は成功したとして祝杯を挙げた。しかし高橋は、「解禁断行は問題の終結ではなく開始だ」と題して、今後の影響の甚大なることを強調し続けた。当時執筆した論文をみると、①政府の金解禁対策は金融業中心であって産業を中心としたものがない。②何が円為替相場をこれまで暴落させたかの根本原因について、間違った診断をし、処方をしている。③旧平価金解禁の及ぼす重大打撃につき重大な評価違いをしている。④世界経済の反動という最悪の時期を態々選んで断行するという重大な過ちを犯している、と前置きして、その各項について詳論している。昭和4年刊の高橋著「経済国難来ーその真相と対策」に収録されているようだが、当時の指導層の経済知識水準がいかに低かったかを改めて痛感させられたと、読み返しての感想を述べている。

ニューヨーク株式の大暴落

2015年02月14日 | 歴史を尋ねる
 本来なら日本の金解禁の実施(昭和4年(1929)11月21日省令公布、翌5年1月11日実施)過程を先に触れるべきであるが、僅差でニューヨーク株式市場の大暴落(1929年10月24日(木:black Thursday)が先行しているので、いかなる経済情勢の中でスタートしたのか見ておきたい。
 大戦後の世界経済は、多くの困難な問題を抱えながら、何とか金本位制度を再建した。当時各国の政策当局は、戦争が終結した以上、経済のシステムが戦前の状態に戻るのは当然であり、それがまた戦後の困難な経済問題を解決することにつながるという考え方が強かった。金本位制度の再建もこうした考え方に裏付けられていた。しかし戦後の世界経済は、もはや戦前の世界経済ではなった。重大な変化は、ヨーロッパ経済の衰退と米国経済の発展と云う、「不均衡発展の問題」であったと、日銀百年史の筆者はいう。戦場となったヨーロッパ諸国の戦後経済は極めて不振な状態が続いた。工業生産の動きをみると、1925年における米国の工業は戦前水準を5割も上回っていたのに対し、フランスは14%どまり、英国やドイツは1926年まで、戦前水準を回復することが出来なかった。多くは財政赤字や対外債務の累積に悩まされ、とくに敗戦国のドイツは、一方で厖大な賠償債務を抱えながら、他方では破局的なインフレーションに見舞われるという状況にあった。こうした問題を抱えながらも、英国は1925年金本位制度に復帰、20年代後半の世界経済は「相対的安定期」にはいり、安定と繁栄の時代となった。とくに米国は一躍債権国になっただけでなく、強大な工業力によってめざましい発展をとげ、世界の中で圧倒的優位を確立した。そうした米国の繁栄の中で土地や株式をめぐる投機が生じていた。モータリゼーションの急速な進行と住宅建築の活況が1920年代の米国経済拡大を支えた。1927年住宅建築が下降傾向を辿り、自動車の売上も一時停滞したが、その後再び急速に回復して再びブームを迎え、1928年3月以降株価は高騰を続けた。こうした中で証券業者向けの銀行貸出、ブローカーズ・ローンが急増した。連邦準備当局も市場の投機的な動きを懸念し、1928年度中、3度にわたり公定歩合を引き上げたが、株価上昇の勢いを阻止することは出来なかった。

 こうした投機的なブームが永続するはずがない。1929年9月3日をピークにして株価は調整過程に入った。そして10月21日(月)、週明けのニューヨーク株式市場はついに売りの大波を浴びるに至り、24日(木)午前、膨大な売り圧力の前にパニック状態に陥った。この株式大暴落をもたらした原因については色々なことがいわれているが、指摘された諸事実のほか、これまでの株式取引における異常な過熱の反動という面が大きかった。市場に異常なブームが生じ、株価が急騰していただけに、株価の先行きに対する経管感が高まり、市場心理が神経質になっていたとしても当然で、何らかの契機によってブームの反動が生じる危険がひそんでいた。しかし、この暴落が、その後の世界恐慌へと発展するが、当時それを予想していた人はほとんどいなかった。日銀ニューヨーク代理店監査役からの経済報告でも、この株式大暴落は、前年度来の過度の株式投機の反動に過ぎず、経済界一般には差し当たり格別の問題は見当たらないとの楽観的な見方が報告されていたという。人間は経験値からしかなかなか学べないということか。

 この株式大暴落を契機に、当時の一般的な予想とは正反対に、米国経済は深刻な不況に落ち込んだ。1930年の国民総生産は実質で前年比マイナス8.9%(名目で12.8%)、鉱工業生産は前年比マイナス19.3%とそれぞれ大幅に減少し、失業率は急上昇した。そして米国の不況は、ヨーロッパ諸国をはじめ世界各国に直接影響を及ぼした。とくに米国に輸出している第一次産品諸国に与えた打撃は深刻で、その影響は当時の多角的な国際貿易関係を通じてヨーロッパ諸国にさらにはね返り、米国の恐慌は急速に世界の恐慌二広まっていった。1931年に入り各国の不況は一段と深まりつつあったが、5月オーストリアの大銀行クレジット・アンシュタルトが破綻、ついに国際的信用不安へと発展するきっかけとなった。この破綻は忽ちバルカン諸国からドイツへ、さらに全ヨーロッパの信用不安へとその輪を広げていった。当時のドイツは重い賠償金負担に悩まされており、対外バランスは巨額の短期資金受け入れで維持されており、短期資金の引上げによって、窮地に陥った。この際ドイツの破局を回避し、世界経済の混乱を防止するため、米国は英国と協議し、フーバー大統領が各国の戦債・賠償の取り立てを1年間猶予しようという、フーバー・モラトリアムを提案し7月より実施することになった。その頃ドイツで経営難が伝えられていた同国有数の毛織物会社が行き詰まり、銀行にも飛び火してドイツの金融恐慌が始まった。さらに英国は国際収支の逆調と財政赤字に悩まされていたが、英ポンドに対する信認が動揺し始め、米仏銀行と信用枠をつくってポンド防衛策を講じたが、それでも英国からの資金流出は激しくなり、9月ついに金本位制度の停止を発表し、公定歩合を一気に引き上げた。以後多くの国が金本位制度を離脱した。こうして1920年代を通じて、各国が営々として築き上げた「再建金本位制」はもろくも崩れた。それは国際通貨体制を大きく変質させるものであったと日銀百年史は伝える。

 

日本における金解禁への模索

2015年02月13日 | 歴史を尋ねる
 大正8年(1919)6月、米国の金解禁は日本にとって大きなニュースだった。①米国の金解禁が日本経済に及ぼす影響、②米国に倣って日本も金輸出解禁を説くべき。この主張を展開したのは、東洋経済新報であった。同誌社説は、大正6年に日本が金輸出を禁止したのは、米国が金輸出禁止措置をとったからだ、米国が解禁した以上、日本も金禁出をする必要がなくなった、今は金の解禁を行う絶好の機会だ、と。当時対外貿易は輸入超過傾向を示し、解禁を怠れば入超傾向はいっそう拡大し、いずれ為替相場は大幅に下落し、非常な混乱に陥るだろう。金解禁実施によって金流出→通貨収縮→物価低落のメカニズムを復活させた方がよいとの主張であった。しかし、当時世間ではほとんど顧みられなかった。この時、日銀では一部それに近い主張はあったようで、ニューヨーク代理店監査役浜岡五雄も井上総裁に対し、金解禁を進言したようだ。しかし政府は金解禁を実施しなかった。当時日銀総裁であった井上準之助は後日次のように講演しているそうだ。当時金解禁問題は、当局者の間では相当の問題であった。自分は経済上の立場から当然金解禁をすべきと考えていたが、政治的考慮からすれば金解禁の時期ではなかった。第一次大戦が終結したとはいえ、国際情勢は不安定で、起こるとすれば次は必ず東洋で起こる、そうなった場合手元の正貨は温存すべきだというのが、政策当局の判断であった、と。
 この問題の責任者である高橋是清蔵相は、後年、対中国政策の観点から金解禁に消極的な考えを持っていたと述べている。支那は今でこそ国乱れ、混沌としているが、いずれは国情が安定する。その時、国を治め民を鎮めるためには、鉄道を敷いたり、産業を興したりして、先ず要るには金だ、支那が多額の資金を外国の求めるのは、遠い将来の事ではない。その時日本はどうしても列国に先立って、たとえ列国と借款団を組織するにしても、その借款団をリードする立場に立たねば駄目だ。このような観点から、内地に保有する金は極力殖やすことに努めて、出を制する必要があった、金解禁は断行する気が無かった、と。高橋と井上の説明はややニュアンスが異なるが、いずれも経済情勢以外の要因を理由に金解禁論を退けた。

 ところで大戦を契機に世界情勢は大きな変革期を迎えていた。単にドイツの敗戦に終わって、世界の政治的・経済的勢力分野が大きく塗り変えられただけではなかった。大戦終結の前年、大正6年(1917)ロシアに革命が起りソビエト政権が誕生した。翌大正7年連合国側からこの革命に対する干渉が始まり、同年8月日本は他の連合国に先駆けてシベリアに出兵した。その結果日本は戦闘行為で大きな犠牲を払っただけではなく、米国との対立を深めることになった。一方当時中国ではナショナリズムが高揚していた。大正8年1月から開催されたパリ講和会議において、連合国側の一員として出席した中国は、自国内に利権を持つ日本や欧米諸国から、それまでの不利益を取り戻そうとして失敗した。これに不満を持った北京の学生や知識人は、5月4日、大規模なデモ行進を行い、軍隊と衝突した(「五・四運動})が、やがて運動は全国に拡大していった。日本は一方では中国の排日運動の前に立たされ、他方では中国における既得権益をめぐって、米国や英国と調整を必要とする状況であった。当時日本の外交政策にとって最も重要な課題であった。

 以上のような状況で金解禁に踏切るべきでなかったとする判断に、後日昭和4年石橋湛山(東洋経済新報主幹)は、次のように批判している。「仮に東洋の形勢が高橋蔵相の考える如くであり、且つその準備として正貨の蓄積を要するとしても、正貨の一部を、別に保留しておけがよい。大正8年における日本は、米国と並んで二大対外債権超過国であり、金の輸出解禁について英国等とは比べものにならない好条件を具えていた。愚かなる政府の政策が、如何に国家の前途を誤り塗炭の苦を甞めしめるかの、一大例証である。」 また、高橋亀吉(経済評論家)も、当局者が大局を達観する明を欠き、絶好の機会を逃したと批判し、更に高橋是清の所論につき、すでに米国が金輸出解禁をしているから、対支投資上の必要ならば、巨額の在外正貨を優に利用しえたと、反駁している。

 日銀百年史は次のようにまとめている。日本における金解禁の動きを後から振り返ってみると、」金解禁を実施し得るチャンスはその後なかなか訪れなかった。そして結果的には日本は極めて悪いタイミングで金解禁を実施することになる。結果論と云えるかもしれないが、大正8年の政府当局の判断は、まさに絶好のチャンスを失わせたものであるとしている。
 政治の問題については論戦華やかであるが、結果の出てくる生きた経済問題に関し、何故か意見が出てこない。東洋経済新報の主張は極めて貴重であるが、当時の新聞等は動いていない。各階・各層に有識者が育っていなかった結果ともいえるのか。少数の権威者に依存した国の仕組みが見えてくる。
 

金解禁をめぐる国際情勢

2015年02月09日 | 歴史を尋ねる
 第一次大戦は、戦後の世界経済を一変させた。戦場となったヨーロッパ諸国は生産力の減退、内外債務の累増、インフレーションの激化等に悩まされたのに対し、戦闘地から離れていた日本や米国は膨大な輸出超過によって大量の金・外貨を蓄積した。そして米国は翌年1919年6月、金解禁を実施したが、ヨーロッパ諸国はけれに追随できなかった。大戦後の経済的困難は、国内問題だけでなく、為替レートの不安定、取引の不円滑で、国際的な広がりを持っていた。1920年9月、国際連盟主催の国際金融会議がブリュッセルで開かれ、当時の金融危機について検討、解決策について討議を行った。出席者は各国の専門家で、日本からは森賢吾大蔵省財務官、大久保横浜正金銀行ロンドン支店長、矢田ロンドン総領事で。ただこの専門家は本国政府の政策にコミットしない立場を示していた。採択した決議案は、①各国政府は健全財政主義を貫くべき。②中央銀行は政治的圧迫から解放さるべき。③信用調節のため金利を引上げるべき。④国際通商の自由が確保さるべき。⑤有効な金本位制度に復帰することを切望。その場合、必ずしも旧平価で復帰する必要がない。⑥為替の変動を人為的に抑制することは有害無益。国際的決済機関を設立することが望ましい。国際金融会議の基本的立場は金本位制度への復帰であったが、あらかじめ意見を求めていたスウェーデンの経済学者カッセルは購買力平価説を基礎に金本位制度に反対した。金本位制度を採用しても、一般の財貨に対する金の価値が安定的であるという保証はなく、むしろ金の供給が不安定なため物価水準に不要の動揺を与える。制度を採用しない貿易では、購買力平価で為替レートが変更されるだけで他国のインフレに自国が影響されないとの主張であったが、決議に反映はされなかった。

 しかしこの決議は参加各国の政府を拘束するものでなかったので、実効性の決議を望んで、1922年4月ジェノアで国際経済会議が開かれた。米国は国際政治の渦中に入ることを避けて出席しなかったが、31カ国が参加し、日本は発起人の一員であった。通貨に関する分科会決議は、基本的にはブリュッセル会議の決議内容とほぼ同じであった。しかし政府代表による金本位制復帰が決議されたことは、国際経済の進むべき方向に重要な示唆を与えた。もう一つ重要な点は、金本位制度を再建するにあたっての態度が現実的、弾力的であったことである。金本位制度の準備としては国内正貨のみではなく、海外に保有する金・外貨も含める金為替本位制度が主張されたこと、また金本位制復帰にあたって採用される為替レートは、旧レートによるか、新レートによるかは各国の経済事情によってそれぞれの国が決めるべきこととした。このジェノア会議の翌年、1923年ケインズは「貨幣改革論」で銀行券発行と金準備との関係を切断し、管理通貨制度を採用するよう提案しているが、当時の政策当局者はそのような考え方はなかった。

 ジェノア会議の翌々年、1924年4月スウェーデンが戦前の金平価で銀行券の金兌換を開始し、金輸出の禁止を解除した。1925年に入って4月、イギリスとオランダが、5月南アフリカ連邦がいずれも旧平価で金解禁を実施した。金本位制復帰に遅れた国としてイタリアは1927年12月、フランスは翌1928年6月。但し前者は戦前の金平価の3分の1以下、後者は5分の1以下に切り下げて金解禁を実施した。両国は戦後の物価騰貴率が高く、戦前の金平価で金本位制度に復帰することは不可能だったから。フランスの金解禁によって、主要国の中で金本位制度に復帰していないのは日本だけとなり、国際的孤立感を深め、金解禁ムードはいっそう高める結果となった。

 この間で興味を惹く点をいくつかあげて置きたい。まず米国。1919年にいち早く旧平価で金本位制度に復帰し、復帰に伴い厳しい不況が襲ったが短期間で切り抜け、20年代を通じて繁栄を謳歌した。それは自動車と云う新しい耐久消費財が爆発的に伸び、それに伴う新しい経営様式、ビジネス・モデル(フォードシステム、産業合理化、テーラーシステム)が登場し、新しい時代の到来に沸き立った。いわゆるアベノミクスの第三の矢、成長戦略が見事に花開いたということだろう。米国は旧平価解禁による繁栄の手本となった。
 続いて英国。大戦後英国の地位は凋落して、国際金融の中心はロンドンからニューヨークに移った。このため出来るだけ早く旧平価による金本位制度に復帰し、ロンドンを再び国際金融業務の中心地に復帰させたいというのが英国政府の考えであった。ケインズは、旧平価による復帰はポンド高を意味し、疲弊している経済には耐えられない、平価の切り下げによる金本位制復帰を主張した。しかし、さらに、金本位制復帰そのものに反対した。①金本位制は物価安定を目指すが、現実には為替レートの安定が優先され、国内物価の安定は後回しにされる。まずは国内の物価安定を優先させ、為替レートはその結果であるべきだ。②金本位制度の下では金の量によって通貨の流通量が決まる。経済の健全な発展のためには通貨発行量を金の量から解放すべきだ。「金を専制君主の座から引きずり降ろし、立憲君主として復活させる」ちょっと脇道のそれるが、日本では江戸時代に荻原彦次郎重秀が元禄貨幣改鋳時、同様の事を云っているのはすでに触れた。こうした批判にも拘わらず、時の大蔵大臣ウインストン・チャーチルは復帰を決断、1925年4月旧平価での金本位制度に復帰した。不況と貿易収支の赤字の中で、イギリス・ポンドを切り上げるという無謀な試みだった。結果、資本は米国に向って流出し、英国はこれを米国の高金利にせいだと考え、米国に対して金利の引下げを要請、これを受けて米国のFRBは金利を引き下げた。これが、ニューヨークの株価高騰に火をつけ、バブルを膨らませた原因だと鈴木正俊著「昭和恐慌に学ぶ」は語っている。後日談があって、1929年10月24日(木)その日ニューヨーク証券取引所を訪問、偶然にも株価大暴落の歴史的瞬間に立ち会ったという。
 最後にドイツ。敗戦国のドイツは破局的なインフレーションに見舞われたが、1923年10月、ドイツ・レンテンバンクを設立、同行に金マルクと同額のレンテンマルクを発行させることによって、「レンテンマルクの奇蹟」と称される、通貨の安定を実現させた。次いで1924年8月、新しく中央銀行法及び貨幣法が制定された。一応金本位制度の採用であるが、金兌換は実施されず、金輸出禁止措置がとられた。復帰と云っても不完全なものであった。

 

金解禁、そして「昭和恐慌」への政治

2015年02月09日 | 歴史を尋ねる
 第一次世界大戦後、復興した欧米諸国は次々と金本位制に復帰していった。しかし、日本はバブルの崩壊に伴って発生した不良債権や震災手形の処理が進まず、さらに景気低迷下で繰り返される日銀の救済融資がかえって不採算企業を温存してしまった。また、大戦中に勃興した重化学工業をはじめとする諸産業の国際競争力も乏しく、貿易収支も赤字基調で、為替相場も低位で不安定であった。この窮状を打破する妙薬は今や金解禁しかない、そうした空気が漂っていたと、中村宗悦氏は「昭和恐慌の研究」の中で語る。民政党の浜口雄幸に組閣の大命が降下したのは、このような状況下((昭和4年(1929)7月)においてであった。
 普通選挙法成立後、昭和3年(1928)2月の初の総選挙では、政友会が217議席、野党民政党が216議席と拮抗していたが事実上政友会の敗北であった。旧平価による金解禁を断行することによって、経済界を一挙に整理・淘汰するという明確な方針が、浜口雄幸首相の口から発せられると、国民の多くは緊縮を合言葉に、倹約に精を出せば必ず光明が見えてくると信じた。当時の大新聞や有力雑誌も、そうした世論を先導するかのように、説教的に緊縮路線を支持していった。明日伸びんがために今日宿むというようなスローガンももてはやされ、「金解禁節」までも登場した。この熱狂は、金解禁後の昭和5年(1930)2月の総選挙で民政党が圧勝したことからもわかる。しかし、金解禁のための緊縮を重ねてきた上に、さらにその上の緊縮政策の維持は、失業や農村の窮乏を深刻化させ、国民の失望は徐々に広がっていった。昭和5年の夏前には、与党内でも不協和音が聞こえ始めた。そして、11月浜口首相は東京駅駅頭で狙撃を受け、この時の重傷で翌年4月辞職、後継の第二次若槻礼次郎内閣(1931年4月~12月)が成立した。

 昭和6年〈1931)9月、「満州事変」が勃発し、同日英国は金本位制からの離脱を決定、日本の金輸出再禁止は時間の問題と思われた。金輸出再禁止が決定的になると、財閥はそれを見越して「ドル買い」に向った。これに対抗して井上蔵相は横浜正金銀行に「ドル売り」を行わせた。しかし固定的相場制は、投機アタックに対して極めて脆弱であり、井上の対抗策も焼け石に水であったという。通貨当局による固定為替レート維持の意思と能力について疑義が生じれば、投資家による通貨攻撃を引き起し、典型的な通貨危機のプロセスに陥ると云うのだ。このジレンマに陥れば、そこから抜け出すのは、為替平価維持を放棄し、為替レートの下落を許容するしかない。金本位制の放棄である。やがて民政党の閣内からも政友会との「協力内閣」を模索する動きが生じ、ついに12月、第二次若槻内閣は閣内不統一を理由に総辞職、同日に成立した犬養毅内閣(1931年12月~1932年5月)の下で、すぐさま金輸出再禁止が実行された。

 高橋是清は、犬養が5・15事件の凶弾に斃れた後の、齋藤実内閣1932年5月~34年7月)と岡田啓介内閣(1934年7月~36年3月)でも、約4年にわたって蔵相を務めた。政党政治崩壊後、高橋を中心とした体制が出来上がったが、すでに古稀を過ぎ、病気を抱えた高橋を、周囲の懇請があったとはいえ経済政策の中心にとどまり続けさせたのは、井上準之助、団琢磨の血盟団テロによる暗殺、5・15事件の衝撃、「満州国」の承認問題、ファッショ勢力の台頭などを憂えての事だと、中村宗悦氏は想像する。経済失政が国を危うくすることを鋭く見抜いていた高橋は、2・26事件で自らの命を失うまで、デフレ不況で傷んだ日本経済の立て直しに全力を尽くした、と。

 以上、第一次大戦後から昭和恐慌時まで、中村氏の論説に従て、当時の政治の動きを概説してきたが、日本を取り巻く社会の変化は目まぐるしいものがあった。こうした政治経済情勢が社会にどんな影響を与えたか何が起こっていたか、しばらくつぶさに見ていきたい。まずは日銀百年史を紐解きながら、金解禁の動きについて当時を振り返ってみたい。

1920年代(大正から昭和へ)の政治

2015年02月06日 | 歴史を尋ねる
 第一次加藤内閣(1924年6月~25年8月)では、憲政会の若槻礼次郎と浜口雄幸が、それぞれ内相と蔵相として、政友会の高橋是清が農商務相、革新倶楽部の犬養毅が逓信相として入閣した。ふーむ、連立内閣ということか。当然、内閣全体の経済政策方針は一致せず、取り敢えず憲政会の浜口雄幸蔵相が経済運営を主導した。しかし、普通選挙法が成立した後高橋是清が辞意を表明し、政友会総裁に陸軍の大物・田中義一が就くと、第一次加藤内閣は崩れ、憲政会単独による第二次加藤高明内閣(1925年8月~26年1月)が成立した。そして、この時の内閣で、行財政整理によって「旧平価解禁」を行うという憲政会(民政党)の経済政策の骨格が設定された。行財政改革は簡単には進まなかったが、緊縮財政によるデフレ政策の方向は明確であり、貿易収支の改善と国内産業の保護のため、大正15年(1926)には関税大改正も行われた。ところが思いもかけず、この政策方針は途中で頓挫することになった。
 加藤高明病没後に成立した後継の第一次若槻内閣(1926年1月~27年4月)において、浜口雄幸は蔵相に留任したが、憲政会と政友本党との提携工作が失敗に終わると、内閣改造で浜口は内相に横滑り、代った早速整爾が病気で退き、片岡直温が大蔵大臣に就任した。ちょうどこの頃、為替相場は金解禁近しとの思惑から旧平価の近傍まで高騰しており、誰が蔵相になっても金解禁は確実だろうと見られていた。そんな中で昭和2年(1927)3月の衆院予算委員会で、片岡蔵相の答弁があって先に触れた昭和金融恐慌の発生に及んだ。結局、この事態発生により、この時の金解禁は幻と終わった。

 金融恐慌は、第一次若槻内閣の倒壊をもたらした。憲政会は、新興の鈴木商店との関係が深かった。鈴木商店の金子直吉も、政友会に近いと言われた三井物産への対抗心から、憲政会との紐帯を強めようとしていた。その鈴木商店が倒産の危機に瀕した際、鈴木商店の機関銀行であった台湾銀行の救済に憲政会内閣は動いた。しかし日銀による非常融資を可能とする「台湾銀行救済勅令案」は、伊藤巳代治を議長とする枢密院の否決にあって不成立、若槻内閣は倒れた。枢密院がこのような態度をとったのは、幣原喜重郎外相の協調外交方針を嫌っての事であったと言われている。事実、枢密院における討議は、金融政策ではなく、若槻、幣原の対支政策批判に集中した。

 その後を襲った政友会の田中義一内閣(1927年4月~29年7月)は、健康にすぐれなかった高橋是清を蔵相に担ぎ出した。そして、高橋は見事に応えて、金融恐慌を収束させ、後を三土忠造にバトンタッチした。金融恐慌収拾後、田中内閣は経済政策面で、政友会の伝統的方針に基づく積極策がとられた。軍事費・震災復興事業、土木費などの公共事業費・植民地経営費などの財政拡張は公債発行で賄われ、不況下に財政支出を増加して有効需要の減退をカバーし、景気を回復させようとする政策がとられた。当然ながら金本位復帰策は後退し、為替は低迷した。
 田中内閣以降、日本の指導者は、一貫して共同謀議の下に侵略戦争を遂行したというのが東京裁判史観であるが、実際は田中は軍服を脱いで政界に身を投じ、政友会総裁となって、前内閣が退陣した後、野党の党首として組閣した。中国政策については大変厳しい時期であったが、済南事件を機に中国の排外運動の主要目標が、従来の英国から日本に移った。日貨排斥、日本商品ボイコット運動も盛り上がり、対外市場進出・貿易収支に大きな影響を与えた。この辺の詳細は別途触れることとしたい。昭和3年(1928)山本達雄貴族院議員の金解禁促進の講演、同年6月フランスの新平価による金解禁。主要国の中で金解禁を行っていない国は日本だけとなり、金解禁の動きに拍車がかかった。三土忠造蔵相は金解禁自体に反対していたわけではなかったが、為替相場の人為的引上げ策を行ってまで金解禁を断行する決断は下さなかった。金解禁は準備が整えば行うという蔵相の発言は、無期延期宣言に映った。結局、昭和3年(1928)6月に勃発した「満州某重大事件」(張作霖爆殺事件)への対応をめぐって天皇から食言を問責され、天皇の信任を失ったとして総辞職した。
 

第一次世界大戦、戦中戦後期の政治

2015年02月05日 | 歴史を尋ねる
 桂園時代の政治は大正政変で突き崩されたが、経済的な不安定さは解消されなかった。特に日露戦後経営の拡大と、それに呼応する民間の投資拡大は、経常収支の赤字を膨らませていった。大正政変後政友会の政策協力を得て成立した第一次山本権兵衛内閣(1913年2月~14年4月)がシーメンス事件で崩壊すると、続く第二次大隈重信内閣(1914年4月~16年10月)は、政友会に対抗し得る唯一の政党であった立憲同志会(のちの憲政会、桂新党が基礎となり、1913年に誕生、既述済)の加藤高明総裁を外相に入閣させ、反政友会・反藩閥の旗幟を鮮明にするとともに、緊縮政策と非募債主義を標榜した。しかしこの緊縮財政の効果が出るのを待たずして、第一次世界大戦が勃発した。

 第一次世界大戦の勃発によって、それまでヨーロッパ諸国が供給していた物資が、世界的に不足した。日本はこの品不足状況の中で軍需・民需ともに拡大させ、一部は輸出も伸ばした。大隈内閣は期せずして困難な経済政策を行わずに済んだ。にもかかわらず、大隈内閣の政策は混迷した。とくに「対華21カ条要求」の失敗は大きかった。日本の対アジア外交政策に対する英米の不信感が、これによって植えつけられてしまった。
 大隈内閣の後継に指名されたのは、長州系軍人で初代朝鮮総督の寺内正毅であった。寺内正毅内閣(1916年10月~18年9月)は、政党から超然とした内閣と云う意味で「超然主義」を呼号したが、大戦末期の米騒動によって倒れた。また、日本が他の欧米職国に追随し、金本位制から離脱したのは、この寺内内閣時であった。

 満を持して登場してきたのが、初めての本格的政党内閣である原敬内閣(1918年9月~21年11月)であった。原は、政友会の基本路線である積極主義を、教育奨励・交通機関整備・産業貿易振興・国防充実の4大政綱として提示し、それを推し進めた。議会では、野党提出の普通選挙法案を拒否する一方で、選挙権拡張案と小選挙区制を通過させ、総選挙によって議席の6割を確保するなど、権力基盤を強化した。
 また、原が推進しようとした政策が追い風となって、戦中戦後の経済的活況を呈した。大戦中のブームは、戦後一旦は終息したが、1919年春頃より対米生糸輸出や対アジア向け綿布輸出の拡大、大戦下で実現した賃金上昇による個人消費の増大などが重なって、戦中ブームを上回る景気拡大が生じた。ブームによってもたらされた余剰資金は、綿糸・生糸・米などの商品相場を投機的に上昇させ、また株価や地価をも押し上げていった。
 当時の為政者にとって、急激な物価上昇がもたらした直近の苦い経験は「米騒動」であった。米騒動自体は、社会主義や革命とは直接関係ない民衆暴動であったが、それによって寺内内閣は倒壊した。インフレに対する警戒感が、原内閣に対しても積極主義からの転換を強いた。原内閣は、公定歩合の引上げや生活必需品輸出の制限などで物価を押さえようとしたが、様々な製品の価格は投機的に上昇し続け、最終的には「1920年恐慌」を招来した。

 大正9年(1920)3月、横浜の生糸相場の暴落をきっかけに、それまで好調であった綿糸・米の商品相場も崩れ、いわゆる「1920年恐慌(大反動)」が日本を襲った。この大正バブル崩壊とも云える事態によって、幕末開港以来の伝統を誇っていた横浜の生糸商社・茂木商店が倒産、また茂木商店の機関銀行であった七十四銀行も休業に追い込まれるなど、バブル崩壊の影響は各方面に及んだ。この頃から、機関銀行と化した銀行の問題、中小零細銀行の統廃合問題、重化学工業への融資体制の構築など、銀行システム全体の見直しが重要な経済問題として浮上していた。この時期の詳細は「昭和金融恐慌」の欄で詳述済みである。政治状況も、趨勢としては政党政治であったが、1921年原敬が暗殺され、政友会は不安定な状況に入った。総裁職を引き継いだ高橋是清は内閣(1921年11月~22年6月)も長く続かなかった。

 その後、海軍開明派による加藤友三郎内閣(1922年6月~23年8月)、第二次山本権兵衛内閣(1923年9月~24年1月)が2代続いたが、山県直系の清浦奎吾超然内閣(1924年1月~6月)に対しては、政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派が中心となって、第二次護憲運動が展開された。これによって清浦内閣は倒れ、第一次加藤高明内閣(1924年6月~25年8月)が成立した。

桂園時代の政治構造

2015年02月03日 | 歴史を尋ねる
 明治34年(1901)第四次伊藤内閣が短命に終わったのち、第一次桂内閣(1901~1906)が成立した。後の西園寺公望とともに「最後の元勲」に列せられた桂は、長州系軍人にして官僚政治家であった。この内閣は、1902年の日英同盟成立、1904~05の日露戦争、と対外的に大きな問題を抱えた時期であった。とくに大きな犠牲を払いながら、日露戦争を早期講和に持ち込むことは困難を極めた。桂は、戦費調達を目的とする増税と早期講和の実現のために、政権移譲を条件として政友会に協力を求め、ポーツマス条約調印を成功させた。以後、第三次桂内閣(1912年12月~1913年2月)の終わりまで、藩閥官僚代表の桂と政友会総裁の西園寺公望が交替で政権の座についた。「桂園時代」と云われたが、政友会総裁の西園寺が組閣した内閣は、政党内閣ではなかった。桂は西園寺に政党内閣を組織しないことを条件に、政権移譲を行った。従って、桂園時代は大正デモクラシーと云われる本格的な二大政党時代への過渡期と云えると、中村宗悦氏は概括する。

 第一次西園寺内閣(1906~08年7月)の時代、政友会は原敬内相の力により、新進若手官僚を地方行政機構へ積極的に登用し、党勢を拡張していく政治を行った。非藩閥系の若手官僚を政友会に取り込み、新しい権力基盤を確立しようとした。この原の目論見は、長州系の巻き返しにあって一旦は挫折して、第一次西園寺内閣は倒壊し、明治維新以来、日本の政治が中央中心・藩閥利益中心での運営が継続した。しかし、たとえその費用負担の多くを外債発行に頼ったとしても、インフラ整備などの利益誘導(?)を中心に据えた政治のやり方が、その後支持された。政友会は、維新の成果の分け前を要求する地方の勢力をうまく吸収した。中央より地方を重視するという風潮は、国家よりも個人の利益を求める風潮とも重なった、と。同時代の代表的作家、夏目漱石の小説の主題なども、こうした社会風潮の変化を抜きには考えられない。個人主義、社会主義、自然主義などと云った思想の流行も、反国家主義という点で共通するものを持っていたと中村氏は解説する。明治を駆け抜けて、社会にある一定の安定感が出てきた証拠だろう。しかし同時に、この政友会の露骨な利益誘導政治に対する批判も起こってきた。

 第二次桂内閣(1908年7月~11年8月)が、改めて節約と勤勉を強調し、国民の国家統合という政治目的を強調することになったのは、このような風潮に対する反動でもあった、という。例えば、「産業組合運動」「地方改良運動」などは、のちの「合理化運動」と相通ずる一面を持つものであったし、他面で国民教化運動の性格も持っていた。さらに既定事業の繰延べなどの緊縮方針がとられ、財政再建が図られた。ふーむ、自民党政治と民主党政治の構図を一面うかがわせるようなところがある。しかし、民主党は人への投資を掲げて財政再建を図る所までには行かなかった。積極財政と地方利益重視、緊縮財政と中央の官僚による統制、こうした政策運営の対照に、後年の政友会と民政党の対立図式を見出すことが出来るが、この桂園時代に、そのことが政治的争点になった訳ではない。むしろ、桂と西園寺の仲の良さは情意投合と揶揄されたほどであったという。

 この政策的不安定さと政権的安定が同居する奇妙なバランスを突き崩したのが、第一次護憲運動による第三次桂内閣の崩壊、世にいう「大正政変」であった。藩閥官僚政治打倒と政党政治実現を目指して展開された運動が、桂内閣打倒の成果をもたらすことによって、結果的に第一次大戦後の日本の二大政党制につながった。しかしその間、取り返しのつかない政治的判断がなされた。