大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書から見えてくる

2023年05月30日 | 歴史を尋ねる

 『東條英機 宣誓供述書』は数奇な運命を辿って、戦後60年の節目に当たる平成17年8月、ワック株式会社から編者東條由布子『大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書』として発行された。編者まえがきで東條由布子氏は言う。この本をお届けできるのは、さまざまな出会いのお蔭だ、と。このブログでは、従来より当事者に語らせるのが歴史を語るうえで一番大事だ、としてきた。歴史家と言われる人に語らせると、手あかがついて見えるものも見えなくなる、と考えているからだ。筆者がこの本を手にできた のも、この様々な出会いのお蔭だったと聞かされると、戦後日本のゆがみが改めて見えてくる。ゆがみの実像を見てみよう。
 由布子氏はいつものように神田の古書店街に東京裁判関連の本を探しに行くと、平成10年1月ある書店で戦記物などがうずたかく積まれた中に、薄い一冊が挟まっていた。そこには「天皇に責任なし 責任は我にあり」と書かれ、傍らに「東條英機 宣誓供述書」とあった。この本の奧付を見ると、昭和23年1月20日、洋洋社発行とあった。この本がどういういきさつで洋洋社から出版されることになったかは不明、ところが出版されるとすぐ、連合軍総司令官のマッカーサー元帥によって昭和20年9月から敷かれた報道管制の一環として、この「東條英機 宣誓供述書」は発禁第一号に指定され、長い間日の目を見ることがなかった。その本を手に入れた由布子氏は友人藤川義生氏に会う機会があった。この話をすると、義生氏はすぐに複写して全文を手作りで製本し、五十冊を全国の識者に送った。その一冊が長野県に住んでいた瀧澤宗太氏に渡り、恩給をはたいて復刊に尽力してくれた。そして全国の有志に呼び掛け、日本中の図書館、大学、出版社のうち、七割のところに届けることが出来た。その後の経緯については詳しく触れていないが、7年後にワック社から復活した。渡部昇一氏も述べている通り、近現代史の超一級の資料の一つである。ところが言論の自由と声高に言うところが長年黙って避けている。不思議な現象である。この供述書が占領下の日本で発禁文書であったこと事も確かだし、パル判決もそうであった。だが、これらの文書をGHQが公開できなかったのは、そこには真実が述べられており、連合国側こそ大戦の原因になっている事、また東京裁判の訴因は虚構、あるいは夢想である事が白日の下にさらされることを、占領国側が恐れたからであるに違いないと渡部氏。その渡部氏が残念がるのは、供述書に書かれている東條証言が引用された文献等をあまり見た事がない、東條英機悪人説があまりに蔓延って、参照するに足らずという空気があるのではないか、だとしたら、それはとんでもない間違いである、と指摘する。従って、この供述書から、大変興味のある個所について、引用させていただく。

 まずは、対米英開戦を意思決定した9月の御前会議前後に関して

 「第三次近衛内閣と日米交渉  9月6日御前会議以前
 第二次近衛内閣の日米交渉は停頓しついに該内閣の倒壊となった。第二次近衛内閣の辞職の表面の理由はかって御手洗証人の朗読した声明書の通りであり、辞職の経緯の一部は木戸候日記にも記載してあるが、私の観察によればこの政変は日米交渉を急速にかつ良好に解決するために松岡外相の退場を求めた事だった。同氏に辞職を迫るときは勢い混乱を生ずるが故に、総辞職という途を選んだ。そのことは7月16日、目白が近衛公別邸にて首相ならびに連絡会議関係の閣僚、すなわち平沼、鈴木、及川の諸氏および私が集まって協議した趣旨によっても明らかだ。そこで総辞職の決行を決議しその日の夕方総辞職になった。すなわち第二次近衛内閣は外務大臣を取りかえても日米交渉は成立せしめようと図った。この経過によっても、次にできた第三次近衛内閣の性格と使命が明らかだ。
 しかるにアメリカ側では南部仏印進駐を以て日本の米英蘭を対象とする南進政策の第一歩であると誤解した。これによって太平洋の平和維持の基礎を見出すことを得ずといって日米交渉の打切りを口にし、また資産凍結を実行するに至りました。日本政府においてはなお平和的解決の望みを捨てずその後といえども日米交渉の促進に苦慮した。大統領の提案はわが国が仏印進駐の意図を中止するかまたは進駐措置が既に開始せられたるときは撤兵を為すべしというのであった。これを条件として次の二つのことを主張している。その一つは、日、米、英、蘭、支により仏印中立化の共同保障である。その二つは仏印における物資獲得につき、日本に対する保障をなすというのであった。他方日本としては8月4日に連絡会議を経てこれに対する対策を定めた。日本の回答の重点は四つ。 一、日本は仏印以上には進駐せぬ。しかし仏印より支那事変解決後には撤退すること。 二、日本政府は比島の中立を保障する。 三、米国は南西太平洋の軍事的脅威を除去すること、そして英、蘭両政府に対して同様なる措置を勧告すること。 四、米国は南西太平洋、ことに蘭印における日本の物資獲得に協力すること、また日本と米国との正常関係の復帰のために必要な手段を取ること。
 元来、日本の南部仏印進駐は前に述べたような理由で行われたので、これを必要とした原因が除去せられるか、または緩和の保障が現実に認められるにあらざれば仏印撤退に応ずることは出来ない。国家の生死の問題に対しては一方的の強圧があったというだけで、これに応ずるということは出来ない。日本は進出の限度および撤兵時期も明示している。この場合にでき得るだけの譲歩はした。しかるに米国側は一歩もその主張を譲らぬ。日本の仏印進出の原因の除去については少しも触れていない。ここに更に日米交渉の難関に遭遇した。
 近衛首相はこの危険を打破するの途はただ一つ。この際日米の首脳部が直接会見し、互いに誠意を披歴して、世界の情勢に関する広き政治的観点より国交の回復を図るのほかはないと考えた。そこで1941年8月7日に野村大使に訓電を発し首相と大統領との会見を申出た。同年8月28日には近衛首相よりルーズベルト大統領に対するメッセージを送った。米国では趣旨においては異存はないけれども、主要なる事項、ことに三国同盟条約上の義務の解釈ならびにその履行の問題、日本軍の駐留問題、国際通商の無差別問題につき、まず合意が成立することが第一であって、この同意が成立するにあらざれば首脳者会談に応ずることを得ずという態度であった。そこでこの会談は更に暗礁に乗り上げた。」

 「昭和16年9月6日 御前会議
 米英蘭の1941年7月26日の対日資産凍結を巡り日本は国防上死活の重大事態に当面した。この新情勢に鑑みわが国の今後採るべき方途を定める必要に迫られた。ここにおいて1941年9月6日の御前会議において「帝国国策遂行要領」と題する方策が決定された。この案はこれより一両日前の連絡会議で内容が定められ、更に御前会議で決定されたのであって、統帥部の要求に端を発し、その提案にかかる。私は陸軍大臣としてこれに関与した。
 この帝国国策遂行要領の要旨は窮迫せる情勢に鑑み、従来決定された南方施策を次のような要領により遂行するというのであった。 一、10月上旬頃までを目途として日米交渉の最後の妥協に務める。これがためわが国の最小限の要求事項ならびにわが国の約諾し得る限度を定め極力外交によってその貫徹を図ること。 二、他面10月下旬を目途として自存自衛を全うするため対米英戦を辞せざる決意を以て戦争準備を完成する。 三、外交交渉により予定期日に至るも要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米英蘭開戦を決意する。 四、その他の施策は従前の決定による、 というのだった。この要領を決定するに当って存在したりと認めた窮迫せる情勢およびこれを必要とした事情は概ね次に七項目である。

 a 米英蘭の合従連衡による対日経済圧迫の実施  米英蘭政府は日本の仏印進駐に先立ち、緊密なる連携の下に各種の対日圧迫を加えて来た。これらの国は1941年7月26日既に資産凍結冷を発した。また比島高等弁務官は同時にこれを比島に適用する手続きを取った。イギリスは同日、日英日印、日緬各通商航海条約の破棄を通告し、同日日本の資産を凍結した。蘭印政府もまた7月26日日本の資産を凍結した。右の如く同じ日にアメリカ、イギリス、オランダが対日資産凍結をなした事実より見てこれらの政府の間に緊密なる連絡が取られていたことは明白なりと観察された。その結果は日本に対する全面的経済断交となり、爾来日本は満州、支那、仏印、泰以外の地域との貿易は全く途絶し日本の経済生活は破壊されんとした

 b 米英蘭による対日包囲体制の間断なき強化、米英軍備の間断なき増強等    当時わが統帥部の観察によれば米国の海軍主力艦隊は1940年5月以来ハワイに進出しますます増強されており、ことに航空的に増強されていると判断された。1941年7月には米大統領は太平洋に散在の諸島の防備強化の費用として三億ドルの支出を米国議会に求めた。当時日米の関係は甚だしき緊迫の状態を示して来ていた。これと対応して米国海軍の大拡張が計画された。1941年7月には米国上院は海軍長官に国家非常事態宣言中、海軍勤務年限延長の権限を賦与する法案を可決した。同月同大統領は海軍費ならびに海軍委員会費33億2300万ドルの追加予算の支出を議会に要求した。1941年9月3日には米国海軍省は同年1月ないし8月までの完成ないし就航戦艦2隻、潜水艦9隻、駆逐艦12隻その他を含め合計80隻なる旨を発表した。同年7月26日にはフィリピンに極東米陸軍司令部を創設しこれをマッカーサー将軍の麾下に置く旨を発表した。同年7月30日には米国下院陸軍委員会は徴集兵、護国軍および予備兵の在営期間延長の権限を大統領に付与する決議案を採択している。1941年8月米陸軍予備兵3万人を招集し、9月1日より米国極東軍マッカーサー総司令官の麾下に編入する旨ケソン比島大統領が命令を発した。1941年7月25日には米国の国防生産管理局は1940年7月以降一カ年間に議会の承認する国防充実および援英予算は507億8000万ドル、そのうち飛行機費107億9000万ドルなる旨を発表していた。1941年7月10日にはルーズベルト大統領は議会に対し150億ドルの国防費および武器貸与予算、うち陸軍強化費47億4000万ドルの支出を求めている。
 これらの情報によっても1941年7月以降においても米国側は軍備拡張に狂奔せることが窺われる。また以下の情報により米英蘭の間に緊密なる連携あることもうかがわれた。すなわち1941年7月24日に米国海事委員会は南ア、ターバン、カルカッタ、シンガポール、マニラ、ホノルル、紅海方面に海事連絡員の派遣を発表している。同年8月26日にはニュージーランドの首相フレイザー氏はニュージーランドの基地の米、豪、蘭印の共同使用に同意する旨を表明した。1941年7月4日重慶の郭外交部長は米、英、支、結束の必要を放送した。同年8月末にはマクルータ准将を団長とする軍事使節を重慶に派遣する旨ルーズベルト大統領が言明している。なお次に米側高官は威嚇的言動を発表したという報道がわが方に達しました。これらの報道の二、三を挙げれば、ノックス海軍長官はボストンで開催中の各州長官会議において、今こそは米国海軍を用いるべき時である旨演説した。ルーズベルト大統領は議会に特別教書を送り議会が国家非常時状態の存在を承認せんことを要求した。1941年7月23日にはノックス海軍長官は海軍が米国の極東政策遂行上必要なる措置を敢行する旨言明した。同年8月14日には有名な米英の共同宣言(注:米国大統領F. ローズベルトと英国首相チャーチルにより発せられた共同宣言。 領土不拡大,民族自決,通商・資源の均等解放,安全保障など,第2次大戦および戦後処理の指導原則を明らかにした)が発表された。8月19日にはケソン比島大統領とウォーレス米国副大統領とは交換放送を行い米国参戦の暁にはフィリピンはこれに加担する旨言明した。以上の如くこの当時においては米国側の威嚇的言動の情報が引き続いて入って来た。なお同年6月にはシンガポールにおいて英、蒋軍事会議が開かれ両者の間に軍事同盟が出来たとの情報が入っていた。

 c  日本の国防上に与えられたる致命的打撃   米英蘭の資産凍結により日本の必要物資の入手難は極度に加わり日本の国力および満州、支那、仏印、泰に依存する物資によるのほかなく、その他は閉鎖せられある種の特に重要な物資は貯蔵したものの消費によるのほかはなく、ことに石油はすべて貯蔵によらなければならぬ有様であった。この現状で推移すればわが国力の弾発性は日一日と弱化しその結果日本の海軍は二年後にはその機能を失う。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は極度の戦時規制を施すも一年を出ずして麻痺状態となることが明らかにされた。ここに国防上の致命的打撃を受けるの状態になった。

 ⅾ  日米交渉の難航と最後の打開策の決定   以上の如き逼迫状態に伴い、政府としては松岡外務大臣の退陣までも求めて、成立した第三次近衛内閣は極力交渉打開の策を講じたが、ついに毫もその効果はなく、更に近衛首相は事態の窮境を打開するため日米首脳者の会談を企てたが、米側においてこれに応ずる色もないという情況だった。しかし、日本としては前諸項の米英蘭の政治的、軍事的、経済的圧迫により日本の生産は極度の脅威を受けるけれども戦争を避ける一縷の望みを日米交渉に懸けその成立を図らんとした。これがため従来の好ましからざる結果にも鑑み新たなる観点に立ちて交渉の基礎を求めねばならぬと考えた。

 e  支那事変解決の困難さの増大   重慶はその後更に米英の緊密なる支援を受けて抗戦を継続し、日本は各種の方法を以て解決を図ったが、その目的を達成しないために、南方の状態はますます急迫し日本としては支那の問題との両者の間に苦慮するに至った。

 f  作戦上の要求に基ずく万一の場合における対米英蘭戦争の応急準備   前諸項の原因で日本は国防上の危機に追い詰められて来たが、それでも日本は極力平和的手段により危機の打開に尽力した。しかし、他面日米交渉の決裂も予想しておかねばならない。この決裂を幾分でも予想する以上は統帥部はその責任上これに応じる準備を具えねばならない。その準備は兵力の動員、船舶の徴用、船舶の艤装、海上輸送等広汎に亙った。外交上の関係は別とするもこの準備は統帥部だけではできない。まずは国家意思の確乎たる決定を前提とする。

 g  外交と戦略との関係   外交により局面がどうしても打開できぬとなれば、日本は武力を以て軍事的、経済的包囲陣を脱出して国家の生存を図らねばならない。しかるときは問題は外交より統帥に移る。上陸作戦の都合と戦略物資の状況により武力を以てする包囲陣脱出のためには重大なる時期的制約を受ける。すなわち統帥部の意見によれば上陸作戦の都合は十一月上旬を以て最好期とし、十二月は不利なるもなお不可能に非ず、一月以降は至難、春以降となればソ連の動向、雨季の関係上包囲陣脱出の時期は著しく遷延することになる。この間戦争物資は消耗しわが方の立場は更に困難に立ち至るというにあった。また武力行使のためには統帥部として国家意思決定後最小限一か月の余裕が必要であるとのことだった。 

 以上主として国防用兵の関係により日米交渉に十月上旬なる時期的制限を要した。各種の情勢が9月6日の国策要綱を必要とした理由である。万一太平洋戦争開戦となる場合の見通しは、世界最大の米英相手の戦争であるから容易に勝算のあり得ないことは当然である。そこで日本としては太平洋およびインド洋の重要戦略拠点と、日本の生存に必要なる資源の存在する地域に進出して、敵の攻撃を破砕しつつ頑張りぬく以外に方法はないと考えた」  

 続いて、ハルノート発出前後について

 「東條内閣における日米交渉    東條内閣における日米交渉はもっぱら外務省がこれを扱った。私が承知しているのは、その大綱のみだ。10月2日のアメリカより提出されたハルノートを巡り、日米交渉に関連して第三次近衛内閣が崩壊したことは前に述べた通り。東條内閣の成立と共に政府と統帥部は白紙還元の趣旨に基づき、とりあえず10月21日、日米交渉継続の意思を外務大臣より野村駐米大使に伝達した。その趣意は同月24日若杉公使よりウエルズ国務次官にこれを通じている。日本政府は前述の1941年11月5日の御前会議において決定された対米交渉要綱により外務省指導の下に、甲、乙両案を以て日米交渉に臨みその打開につとめた。(中略)
 日米交渉は甲案より始めたものだが、同時に乙案をも在米大使に送付している。交渉は意のごとく進攻せず、その難点は依然として三国同盟関係、国際通商無差別問題、支那進駐にあることも明らかになり、政府としては両国の国交の破綻を回避するため最善の努力を払うため従来の難点は暫く措き主要かつ緊急なるもののみに限定して交渉を進めるためにあらかじめ送ってあった。乙案によって妥協を図らしめた。この間の消息は既に当法廷において山本熊一証人の発言せる如くである。
 1941年11月17日私は総理大臣として当時開会の第七十七議会において施政方針を説明する演説をした。これにより日本政府としての日米交渉に対する態度を明らかにした。けだし、日米交渉開始以来既に六か月を経過し、両国の主張は明瞭となり、残る問題は両国の互譲による太平洋の平和維持に対する努力をなしうるや否やのみにかかっている。これがため日本としては現状において忍びうる限度を世界に明かにする必要を認めた。日本政府の期するところは日本はその独立と権威とを擁護するため(1)第三国が支那事変の遂行を妨害せざること、 (2)日本に対する軍事的、経済的妨害の除去および平常関係の復帰、  (3)欧州戦争の拡大とその東亜への波及の防止、とであった。右に引き続き東郷外相は日米交渉におけるわが方の態度につき二つのことを明らかにした。その一つは今後の日米交渉に長時間を要する必要のなかるべきこと。その二つはわが方は交渉の成立を望むけれども大国として権威を損なうことはこれを排除する、というのであった。首相および外相の演説は即日世界に放送せられ中外に明かにされた。
 米国の新聞紙にも右演説の全文が掲載されたと報告を得た。それゆえ米国政府当局においても十分これを承知しているものと思われた。右政府の態度に対して11月18日貴衆両院は何れも政府鞭撻の決議案を提出し満場一致これを可決した。ことに衆議院の決議案説明に当たり島田代議士のなした演説は当時のわが国内の情勢を反映したものと判断した。
 これより先、米英豪蘭の政情および軍備増強はますます緊張し、また首脳者の言動は著しく挑発的となってきた。これがわが国朝野を刺激しまた前に述べた議会両院の決議にも影響を与えたものであった。例えば1941年11月10日にはチャーチル英首相はロンドン市長就任午餐会においてアメリカが日本と開戦の暁にはイギリスは一時間以内に対日宣戦を布告するであろうと言明したと報ぜられた。引続き、その翌々日イギリスのジョージ六世陛下は議会開院式の勅語にて英国政府は東亜の事態に関心を払うものであると言明せられたと報ぜられた。ルーズベルト大統領はその前日である休戦記念日において米国は自由維持のためには永久に戦わんと述べ前記英国首相並びに国王の言葉と相呼応している。ノックス海軍長官の如きは右休戦記念日の演説に対日決意の時到と演説をした。かくの如くわが第七十七議会の前における米英首脳者の言動はすこぶる露骨且つ挑発的であった。
 ルーズベルト大統領は11月7日には在支陸戦隊引揚を考慮中なる旨を言明し、14日には右引揚に決定した旨を発表した。英国の勢力下にあったイラクは11月16日対日外交を断絶した。一方11月中旬にはカナダ軍のゼー・ローソン准将麾下の香港防衛カナダ軍が香港に着いた。なお、11月24日には米国政府は蘭領ギアナへ陸軍派兵に決した旨を発表した。米軍の蘭領への進駐は日本として関心を持たずにはおられない。11月21日にはイギリスんぽアレキサンダー海相はイギリス極東軍増強を言明した。これより先、11月初めには米国海軍省は両洋艦隊建艦状況は1月ないし10月に主力艦就役二、進水二、航空母艦就役一、巡洋艦進水五、駆逐艦就役十三、同進水十五、潜水艦就役九、同進水十二なる旨発表した。11月25日には比島駐在の米陸軍当局はマニラ湾口要塞に十二月中に機雷を敷設する旨発表した。
 これと相呼応して英国海峡植民地当局もまたシンガポール東口に機雷を敷設する旨発表した。11月下旬ノックス海軍長官は米の海軍募兵率は一カ月一万一千名なる旨を言明した。在天津の米人百名は11月下旬に引揚を行った。以上の如く米英側の情勢は日本を対象とする開戦前夜の感を与えた。

 かくのごとき緊張裏に米国政府は1941年11月26日に駐米野村、来栖両大使にたいし、11月20日の日本の提案については慎重に考究を加え関係国とも協議したが、これには同意し難しと申し来り今後の交渉の基礎としての覚書を提出した。これがかの11月26日のハルノートである。この覚書は従来の米国側の主張を依然固辞するばかりでなく更にこれに付加するに当時日本の到底受け入れることのなきことが明らかになっていた次の如き難問を含めたものであった。(一)日本陸海軍はいうに及ばず支那全土(満州も含む)および仏印より無条件に撤兵すること (二)満州政府の否認、(三)南京国民政府の否認、(四)三国同盟条約の死文化  であった。(中略)

 11月27日午後連絡会議を開き各情報を持ち寄り審議に入ったが、一同は米国案の過酷なる内容には唖然たるものがあった。その審議の結果到達した結論の要旨は次の如く記憶する。(一)11月26日の米国の覚書は明らかに日本に対する最後通牒である。(二)この覚書はわが国としては受諾することは出来ない。かつ米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りてこれを通知して来ている。しかも、それは関係国と緊密なる了解の上になされている。(三)以上のことより推断しまた最近の情勢、ことに日本に対する措置言動並びにこれにより生ずる推論よりして米国側においてはすでに対日戦争の決意をなして居るものの如くである。それ故にいつ米国よりの攻撃を受けるやも測られぬ。日本においては十分戒心を要するとのこと。
 この連絡会議においては、もはや日米交渉の打開はその望みはない。従って11月5日の御前会議の決定の基づき行動するを要する。しかし、これによる決定はこの連絡会議でしないで、更に御前会議の議を経てこれを決定しよう。そして御前会議の日取りは十二月一日と予定し、その御前会議には政府から閣僚全部が出席しようとした。この連絡会議と御前会議予定日との間に相当日を置いたのは、天皇陛下がこの事態につき深く御軫稔あらせられ一応重臣の意見を聞きたいとの御考えをお持ちになっておられることを承知していたので、御前会議を直ちに開かず数日間遅らせた。(中略)
 次の事柄は私が戦後知り得た事柄であって、当時はこれを知らなかった。(一)米国政府は早くわが国外交通信の暗号の解読に成功し、日本政府の意図は常に承知していたこと  (二)わが国の1941年11月20日の提案は日本としては最終提案なることを米国国務省では承知していたこと  (三)米国側では11月26日のハルノートに先立ち、なお交渉の余地ある仮取極め案をルーズベルト大統領の考案に基づきて作成し、これにより対日外交を進めんと意図したことがある。この仮取極め案も米国陸海軍の軍備充実のために余裕を得る目的であったが、いずれにするも仮取極めはイギリスおよび重慶政府の強き反対に会いこれを取り止めて、この提案に及んだこと、並びに日本がこれを受諾せざるべきことを了知しいたること  (四)11月26日ハルノートを日本政府は最後通牒と見ていることが米国側に分かっていたこと  (五)米国は1941年11月末すでに英国と共に対日戦争を決意していたばかりでなく、日本より先に一撃を発せしむることの術策が行われたることがある。11月末のこの重大なる数日の間において、かくのごとき事が存在していようとは夢想だにしなかった。」(中略)

 「敗戦の責任は我にあり   私は世界史上最も重大なる時期において、日本国家がいかなる立場にあったか、また同国の行政司掌の地位に選ばれた者達が、国家の栄誉を保持せんがため真摯に、その権限内において、いかなる政策を立てかつこれを実施するに努めたかを、この国際的規模における大法廷の判官各位にご諒解を請わんがため、各種の困難を克服しつつこれを述べた。かくの如くすることにより私は太平洋戦争勃発に至るの理由および原因を描写せんとした。私は右等の事実を徹底的に了知する一人として、わが国にとって無効かつ惨害を齎したところの1941年12月8日発生した戦争なるものは米国を欧州戦争に導入するために連合国側の挑発に原因し我が国に関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信する。なお東亜に重大なる利害を有する国々が何故戦争を欲したかの理由はほかにも多々存在する。これは私の供述の中に含まれている。ただわが国の開戦は最終的手段としてかつ緊迫の必要よりして決せられたものである事を申上げる。満州事変、支那事変および太平洋戦争の各場面を通じて、その根底に潜む不断の侵略戦争ありたりとする主張に対しては私はその荒唐無稽なる事を証するため、最も簡潔なる方法を以てこれに反証せんと試みた。わが国の基本的かつ不変の行政組織において多数の吏僚中のうち少数者が、長期にわたり、数多くの内閣を通じて、一定不変の目的を有する共同謀議をなしたなどという事は理性ある者の到底思考し得ざる事なることが直ちに御了解下さるでしょう。私は何故に検察側がかかる空想に近き訴追をなさるかを識るに苦しむものである。
 日本の主張した大東亜政策なるものは侵略的性格を有するものなる事、これが太平洋戦争開始の計画に追加された事、なおこの政策は白人を東亜の豊富なる地帯より駆逐する計画なる事を証明せんとするため本法廷に多数の証拠が提出された。これに対し私の証言はこの合理にしてかつ自然に発生したる導因の本質を白日の如く明瞭になしたと信じる」
 「終わりに臨み、日本帝国の国策ないしは当年合法にその地位にあった官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもない。一歩は一歩より進み、また適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法および法律に定められた手段に従いこれを処理してきたが、ついにわが国は彼の冷厳なる現実に逢着した。当年国家の運命を商量較計するのが責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つという事がただ一つ残された途であった。われわれは国家の運命を賭した。しかして敗れました。眼前に見るが如き事態を惹起した。
 戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任いかんとの問題とは、明白に分別できる二つの異なった問題である。第一の問題は外国との問題でありかつ法律的性質の問題である。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかってわが国が本戦争を為したことを以て国際犯罪なりとして勝者より訴追され、また敗戦国の適法な官吏たりし者が個人的の国際法上の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられたとは考えた事はない。
 第二の問題、敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず真心より進んでこれを負荷せんことを希望する」

 

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被告の個人立証 : 東條英機被告

2023年05月11日 | 歴史を尋ねる

 東京裁判の最重要被告であり、日本国内は勿論、連合国側もその証言に注目していた東條英機被告の個人弁護の立証は、八日間に亙って行われた。この間証人として立ったのは東條英機唯一人であった。東條被告の場合は初めから自分以外の証人は一人も用意せず、また他人の宣誓口述書も提出せず、自分の宣誓口述書以外に提出した三十数通の文書は、いずれも口述宣誓書の内容に関連する日本政府の公文書であり、他の被告の立証と際立った相違を見せていた。立証は、東條被告担当の清瀬弁護士の冒頭陳述で開始された。清瀬弁護士はその冒頭で、東條が立証しようとする事柄は二つに大別でき、一つは一般的性質を持つ事柄でしかも未だ立証されていないものを、東條がその関係者として自己の見聞により立証資料を追加しようとするものであり、他の一つは、すでに外形的には一応立証された公の決定、又は実施された措置について、この国家重大の時機に際会してこれを決定するに至った動機、目的、その決定及び措置の重点を解示する事である、と前置きした後、東條が1940年7月近衛内閣の陸相就任以来、その職務内で行った事や発生した事件についての政治的・行政的責任はいささかも回避するものではない事を述べている。
 東條の証言は極めて広範な事実を取り扱っていて相当多岐に亙るが、その重要事項は、①日本はあらかじめ米英蘭に対する戦争を計画し、準備したものではない ②対米英蘭戦争はこれらの国々の挑発に原因し、わが国としては自存自衛の為の真にやむを得ず開始したものである ③日本政府は、合法的開戦通告を攻撃開始前に米国に交付するため、周到な注意を払って手順を整えた ④大東亜政策の真意義 ⑤いわゆる「軍閥」の不存在 ⑥統帥部の独立と連絡会議及び御前会議の運用 ⑦東條が行った軍政の特徴(紀律と統制。非人道的行為等は命令、許容せず)   の七項目に要約できるとして各項目ごとにその内容を説明し、冒頭陳述を終えた。
 その後、ブルーエット弁護人が証言台にいる東條被告を前に、東條被告の英文宣誓口述書を二日間に亙り朗読した。口述書は昭和15年7月第二次近衛内閣の陸相に就任してから、それに続く第三次近衛内閣の陸相、さらには東條内閣の首相として在任中に発生し、あるいは関係した事柄や出来事の内容、これらに対する自己の判断・措置等をおおむね時の経過に従って詳述し、最後に「摘要」として、それまで述べて来た事の総纏めを行っている。この摘要部分を要約して、引用する。
 「 本供述書は、事柄の性質が複雑かつ重大なため、期せずして相当長文となったが、私は、世界史上最も重大な時期に、日本国家がいかなる立場に在ったか、またその行政司掌の地位に選ばれた者達が日本の栄誉を保持せんがために、真摯にその権限内でいかなる政策を立てかつこれを実現するために努めたかを、この国際的規模の法廷の裁判官各位にご諒解を願うために、各種の困難を克服しつつ陳べたのである。
 かくする事により、私は、太平洋戦争勃発の理由および原因を描写しようとした。私はこれらの事実を徹底的に知る一人として、わが国にとり無効かつ惨害を齎した昭和16年12月8日に発生した戦争は、米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因し、我が国としては、自衛戦として回避する事が出来なかった戦争であると確信する。なお東亜に重大な利害を持つ国々(中国をも含めて)が、なぜ戦争を欲したかの理由は他にもあるが、我が国の開戦は最後の手段として、かつ最緊迫の必要から決定されたのである。
 満州事変、支那事変および太平洋戦争の各場面には、その根底に不断の侵略計画が潜んでいたとの主張に対して、私はその荒唐無稽な事を立証するため、最も簡略な方法でその反証を試みた。我が国の行政組織において、少数者が長期に亙って多くの内閣を通じて一定不変の目的を持つ共同謀議を為し得た等という事が、理性ある者の到底考えられない事は直ちに了解できたであろう。私は何故検察側がこのような空想に近い訴追をするのか、理解に苦しむ。
 日本の主張した東亜政策は侵略的性格を持ち、これが太平洋戦争開始の計画に追加され、かつ、この政策は白人を東亜の地から駆逐する計画であった事等を立証するため、本法廷に多数の証拠が提出された。これに対し私の証言は、その合理的かつ自然に発生した導因の本質を、白日の如く明瞭にしたと信ずる。
 私はまた、国際法と太平洋戦争開始の問題とに触れ、日本における政府と統帥との関係  特に国事に関する天皇の地位に言及した。私の説明が、私及び同僚の有罪か無罪かを判断する上に資するところがあれば幸いである。
 終りに臨み   恐らくは、これが当法廷で許される最後の機会であろうが  重ねて申し上げる。日本帝国の国策、あるいは合法的にその地位に在った官吏の採った方針は侵略でもなく、搾取でもなかった。適法に選ばれた歴代内閣は、憲法および法律に定められた手続きに沿って事を処理して行ったが、ついにわが国は冷厳な現実に逢着した。当時国家の運命を商量較計する責任を負った我々にとって、国家自衛の為に起つという事が、唯一の残された途であった。我々は国家の運命を賭し、而して敗れた。そして、眼前に見るような事態を挽き起こした。戦争が国際法上より見て正しい戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何という問題とは、明らかに分別できる二つの異なった問題である。
 第一の問題は外国との問題であり、かつ法律的性質を持つ問題である。私は最後まで、この戦争は自衛戦であり、現在承認されている国際法に違反しない戦争であると主張する。私は未だかって、我が国がこの戦争をした事を以て国際犯罪であるとして勝者から訴追され、また敗戦国の適法な官吏であった者が個人的に国際法上の犯罪人となり、また条約の違反者として糾弾されるとは、考えた事がない。
 第二の敗戦の責任については、当時の総理大臣であった私の責任であり、この意味の責任は受諾するだけでなく衷心より進んでこれを負う事を希望する 」

 口述書朗読の後、五人の被告担当弁護人からの尋問を経て、キーナン検察官と東條被告の攻防があった。そのうち主要なものを取り出したい。
(1)支那駐兵問題に関連して:キーナン  支那事変発生以来の中国人の死傷者数その他を書証から引用して、中国で日本軍により二百万人以上の民衆が殺害された事から見て、中国側が日本に対して反感を懐くのは当然ではないか、と中国での排日、悔日感情は、日本軍が中国民衆を多数殺害した事によるものであった事を匂わす質問を発し、支那事変の拡大は中国側の排日・悔日に原因があったとする東條口述書を反駁しようとした。  東條 中国人が日本人に反感を懐く理由については理解できるが、一国を主宰する政治家としては、また別の観点を持つべきである、自分としてはこの戦争が日中両国にとり不幸なことは充分承知しており、支那事変を一刻も早く終結させようとする事が事変発生以来歴代内閣の一貫した方針であった、民衆というものは彼我双方共戦争には直接関係ないが、一国を指導する政治家としては、排日・悔日・排貨・日本人居留民の虐殺等、中国側が戦争指導を誤った事が戦争の大きな原因だったと思う、と支那事変の原因を強調した。


(2)三国同盟条約の締結に関連して:検察側は、日独伊三国同盟条約の締結を三国による世界制覇のための共同謀議である訴追したが、東條証人の口述書では 「 同盟締結の目的は、これによって日本の国際的地位を向上せしめ、以て支那事変の解決に資し、併せて欧州戦の東亜に波及する事を防止せんとするにあった。三国同盟の議が進められた時からその締結に至るまで、これによって世界を分割するとか、世界を制覇するとかという事は夢にも考えられていなかった。ただ『持てる国』の制覇に対抗して、この世界情勢に処してわが国が生きて行くための防衛的手段として、この同盟を考えた。大東亜の新秩序というのも関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものであり、その後のわが国と東亜各国との条約においても、いずれも領土及び主権の尊重を規定している 」  キーナン 三国同盟に米国が関係あるのか   東條 大いにある。1939年7月の米国による日米通商航海条約の廃棄が、日本経済に大きな圧迫を加えた事、1940年5月以降米国艦隊がハワイに集結待機した事が、日本にとり大きな脅威になった事を指摘した後、この問題に関連する裁判長の発言に促されて、日本が感じた軍事的脅威について 「 比島、ビルマ、マレー、蘭印等に対する連合国側の兵力増強はこの頃から逐次行われ、これら地区に対する飛行場設備も強化された。また、南方とはほとんど無関係に、しかも日本を包囲する態勢に、アラスカ方面にも飛行場設置の企図があった。また、当時日本は支那との間に実質的戦闘を展開していたが、米英その他の国々の対重慶援助は日本に対する重慶政権の抵抗を強化させ、日本を消耗させようとするものであると考えられた」
 キーナン  証人は、米国がハワイ基地の軍備を強化し、艦隊を集結した行動等は、日本にとっては米国を攻撃するに足る理由だといいながら、支那奥地に数十万の日本軍隊を送る事は、自衛的措置だと主張しようとするのか   東條  検察官の質問は全く異なる二つの事柄に関するものである。先刻の自分の証言は、米国がその領土に兵力等を増強させたのが日本に脅威を感じさせた事を述べたものであり、中国における実質上の戦争の問題は、自ずから別個の事柄である。中国における戦争の因ってくるところは既に立証されている通り、日本の居留民保護等の自衛から出発したものであり、爾後戦争が拡大したのは戦争の本質によるものである、と。


(3)東條内閣成立事情について 昭和16年10月12日、東京・荻窪の近衛公の私邸で、近衛首相、東條陸相、及川海相、豊田外相、鈴木企画院総裁が同席して、今後の日米交渉をいかに進めるべきかについて会談が行われた。この会談で近衛・豊田両相は交渉の継続を、東條陸相は交渉成立の見込みなしとして交渉打ち切りを主張、及川海相は「和戦の決は総理に一任する」との態度を執って、四相間の意見は一致しないまま会談は終り、二日後の閣議の席上再び東條・豊田両相の意見が対立し、この事が結局近衛内閣総辞職の理由となった。 この間の東條の口述書は、「 中国からの撤兵問題は日米交渉の初めから、我が国は全面撤兵の原則の承認および撤兵は日華基本条約による事で話が進められており、外相の態度もこれと異ならない。しかし米国の狙いは無条件撤兵である事が、交渉の進展に従って明らかに成ってきた。すなわち、名実ともに即時かつ完全撤兵を要求しているのであって、両大臣のいう名を捨てて実を取るというような案で妥協が出来るとは考えられない。仮に米国の要求を鵜吞みにして完全撤兵するとすれば、四年有半に亙った支那事変を通じての日本の努力と犠牲は空となるのみならず、米国の強圧による中国からの無条件退却は中国人の悔日思想をますます増長させ、共産党の徹底抗日と相俟って、日華関係はますます悪化するであろう。
 日本のこの威信の失墜は満州、朝鮮にも及ぶであろう。なお、日米交渉の難点は駐兵・撤兵問題に限らず、米国の四原則の承認、三国同盟条約の解釈、通商無差別問題等幾多の難関があり、最早日米交渉の妥協は困難と思う。しかし外相が成功の見込みがあるとの確信があるなら、さらに一考しよう。また和戦の決定は統帥部に重大な関係があるので、総理だけの決定に一任するわけにはいかない。以上が私の主張である。及川海相の意見は、外交による成功の目処の有無は総理に一任する。ただ、日本は今や和戦の関頭に立っており、戦争するならば今が好機である、もし開戦するなら今決定されたい、開戦を決めずに外交妥結の見込みありとして二、三か月経ち、その後の開戦というのでは海軍は困る、外交で行くのなら徹底的に外交に徹すべきである、というのであった。
 以上のように意見が一致せず、私の提案で、①駐兵並びにこれを中心とする諸政策は変更しない、②支那事変の成果に動揺を与えない、③以上を前提として外交の成功を収める、しかも統帥部の庶幾する時期までに成功の確信を得る事、この決心で進む間は作戦の準備を止める、外相はこれが出来るかどうか研究する事、という申し合わせを作った。10月14日閣議の朝、閣議前に近衛首相と会見したが、二日前の会談と同様な事で終わった。閣議開催後、豊田外相は外交妥結の見込みについて同じ意見を述べ、私も当時と同趣旨の説明をした。この閣議では近衛・及川両相も他の閣僚も、何の発言もしなかった。かくて外相と陸相との意見衝突により、万事窮した。」と。
 ブラウン弁護士  及川が交渉継続を強く主張していた事を知っていただろう、  東條   もちろん知っている。のみならず、私の印象では、露骨に言えば、責任回避と考える、と。   東條証言の「責任回避と考える」とは、海軍は戦争する気があるのかないのかを自らの責任において明言せず、総理に一任した態度に不満を表明したものと考えるが、もし及川海相が交渉継続を主張した場合、東條陸相はどのような態度を執ったであろうか、と冨士信夫氏は考察する。その手がかりに、法廷に提出された二つの証拠から推理する。一つは、嶋田海相の前任海相であった及川古志郎大将は宣誓口述書を中で、次のように述べている。「十月中旬日米交渉が予期の進展を見なかった時、交渉を継続するか否かの決定を近衛首相に一任したのは、もし海軍が対米戦に自信なしと公式表明を行えば、国論の分裂、陸海軍の対立を起し、由々しい国内問題に発展する恐れがあると思えた事と、首相と海軍と全く同意見であった事及び、この問題は日本全体の国力にも重大な関係があり、海軍だけの立場で断定すべき問題ではないと考えたからである。岡が富田内閣書記官長に、海軍としては戦争がきないとは言えないと述べたのは、海相としての自分の意志を伝えたのである」と。  もう一つの証拠としては、岡被告の宣誓口述書に、次のように述べている。「 同夜富田書記官長が余を訪問し、内閣が総辞職する決意である旨告げ、且つ、武藤軍務局長から、もし海軍が戦争は出来ないと明言すれば陸軍も納まるから、海軍の意向を聞いて貰いたいと依頼されたが、このような事を海軍が言明するのは困難だろうと答えておいた、といったので、余はこれに同意を表明した」と。以上から冨士氏は、武藤軍務局長の言葉は陸軍の責任回避であるとの見方も生じてくる、という。しかし、太平洋戦争の実情を振り返れば、海軍のボロ負けである。陸軍はその対処方法がなかった。こういうのは後知恵かもしれないが、しかし対米戦争のあり様が戦前の陸軍にも分からない筈がない。従って、海軍の米海軍に対する真の力を正直に知りたかったのではないか。むしろ海軍は真珠湾攻撃の秘策を練っていた。もしや、或る程度やれるのではないか、と内心思っていたのではないか。その狭間にあって、海軍の面子から、曖昧な判断を下したのではないか。富田書記官長が『このような事を海軍が言明するのは困難だろう』と述べたのは、明らかに戦術上の言葉ではない。海軍の面子に配慮した言葉である。富田書記官長が自己の判断で武藤軍務局長の要請を握りつぶしたのは、不思議だ。駆引きする局面ではないだろう。

 この問題を考えるための一つの資料として、新名丈夫編「海軍戦争検討会議記録ー太平洋戦争開戦の経緯」という本を、冨士氏は紹介する。   井上成美大将が荻外荘会談で及川海相が執った態度を鋭く非難し、『陸海軍相争っても、全陸海軍を失うよりよい。なぜ男らしく処置しなかったのか。いかにも残念である』と発言、これに対して及川大将が「私の全責任である」といった後、「海軍は戦えない」と言わなかった理由を説明した上で、『陸軍を抑えるには総理が陣頭に立ち、閣内一緒になって行わなければ駄目だと近衛首相に行ったのだ。すなわち、海軍としては近衛に一任したのではなく、近衛を陣頭に立てようとしたのである』と述べたが、井上大将はその説明の納得せず、『近衛がやるべきだったので、やらなかったのか、近衛はやる気があったのか、またできると思ったのか』と及川大将を追求し、及川大将が『首相が押さえられないものを、海軍が抑えられるか』と発言したのに対して、『内閣を引けばよい、伝家の宝刀である。また作戦計画と戦争計画は別だ。なお駄目なら、軍令部総長を替えればよい』と主張して、及川海相が執った「総理一任」の態度を鋭く非難したことが記録されている、と。
 東條内閣の成立と「白紙還元」  第三次近衛内閣後継に何故東條陸相が推薦されたか、木戸証言の時詳しく説明されたが、当の東条被告はこれをどう受け止めたか、口述書には次のように述べている。 「 侍従長から、陛下の思召しにより直ちに参内するようにとの通知を受けた。総辞職について私の所信を質されるものと直感し、奉答準備の書類を持って参内、直ちに拝謁を仰せつかり、組閣の大命を拝した。暫時のご猶予を願って御前を退下し、宮中控室にいる間に、続いて及川海相がお召しにより参内し「陸軍と協力せよ」との御錠を拝した旨、控室で海相と面談した際承知した。間もなく木戸内府がその部屋に来て、次のような御沙汰を私と及川海相両名に伝達した。(これは木戸証言で説明済み)  田中隆吉が佐藤賢了が阿部、林両重臣を訪問して「東條を総理にしなければ陸軍は統制がとれぬ」と証言したが、佐藤は、近衛内閣の後は東久邇内閣でなければ時局の収拾は困難であるとの私の意見を伝達しただけで、両重臣は私の意見を聞いただけで彼らの意見は述べなかった旨、報告があった。従って、田中隆吉証言は事実に反する。
 私は後継内閣の首相の大命を受ける事、ないしは陸相として留任する事を不適当と考え、また、そのような事が起ころうとは夢想だにしなかった。故に、「白紙還元」の御錠を拝さなければ、組閣の大命を受けられなかったかも知れない。私も「白紙還元」必要ありと思い、必ずそうしなければならないと決心した。組閣については、この際神慮に依る外ないと考え、明治神宮、東郷神社、靖国神社に参拝し、組閣の構想が浮かんだ。海相は海軍に一任、その他は人物本位で選ぶ。海相推挙の返事がなかなか来なかったが、翌朝及川海相から嶋田氏を推挙するとあり、次いで嶋田氏来邸、対米問題は外交交渉で行くのかという点と、国内の急激な変化は避けられたいとの質問と希望があり、私は白紙還元の説明をし、国内の急激な変化はやらない旨答え、嶋田氏はこれを聞いて、海相たる事を承認した 」と。

(4)「甲案」「乙案」および「ハル・ノート」を巡って  昭和16年11月5日の御前会議で日本の対米交渉最終案の甲・乙両案が決まり、東郷外相は野村駐米大使に両案を電報し、まず甲案で米国政府と交渉し、甲案で交渉成立の目途が立たない場合は乙案で交渉する事、野村大使応援のため来栖大使を派遣する事、この甲・乙両案は日本が米国側に譲歩し得る最終案であり、11月25日までには妥結に持ち込むよう努力する事等を訓電したが、これらの訓令電は総て米国側に傍受解読されていた。この事を含みを持って、キーナン  もし乙案が米国によって同意されていたら、真珠湾攻撃は起こらなかったか  東條  乙案がそのまま受諾されればもちろんの事、その半分でも米側が受諾し大平洋の平和を真に望んでいたならば、真珠湾攻撃は起こらなかった   キーナン   乙案中どの部分を受諾すれば、真珠湾攻撃は起こらなかったか   東條   どこ項でもよい、もし米国が真に太平洋の平和を希望し、譲歩的態度を以て交渉に臨んで来れば、互譲的精神によって事態は解決されると考えた   キーナン  (これ以上譲歩の余地なしとした東郷外相の訓令電を持ち出し) 証言と食い違うではないか   東條   東郷は外相であり、自分は首相である、外交には駆引きというものがあるが、一方、首相には肚というものがある、東郷は御前会議の決定に基づき、外相の責任において外交上の事務手続きを行ったのだが、外交には相手があり、日本としてはこれにより米国側の出方を見る必要があり、それから先は肚の問題である   キーナン   しからば東郷が、米国側が日本案を受諾しなければ交渉は決裂の外ないと訓令したのは間違っていたのか    東郷   それは誤りではなく正しい措置である、しかし一国が戦争に突入するかあるいはこれを切り抜けていくかというような重要事項は、そんなに簡単に説明できるものではない、外相としては一応そのような処置を執るが、首相としては一国の興亡に関してまた別の肚を持つ、仮に米国で作成されていた暫定協定案(ハル・ノートに先立ち、ルーズベルト大統領の考案に基づいて、なお交渉の余地を残す案が、英・支両国政府の強い反対により取り止めになった)が提示されていたら、事態はよほど変わっていただろう、暫定案の内容は乙案とは相当異なっていたが、そこは肚の問題であって、一度決定したからとてそれに固執し、無理やり戦争に持っていくような事は、一国を主宰する総理としては考えられないところである
 キーナン・東條の攻防はハル・ノートに移った。書証として提出されているハル・ノートを東條証人に見せながら、 キーナン  証人はこれを見たことがあるか  東條  これはもう一生涯忘れません  キーナン この文書は、非常に威厳のある遣り方で国務長官から両大使に手渡したものではなかったか   東條  形においては然り。内容においては少しも互譲の精神のないものである   キーナン  その中に「米国政府および日本政府は太平洋の平和を熱望し、その政策は太平洋全域の恒久的平和に向けられ」云々、そして「確信し」とある。これに異議があるか。  東條  異議があるどころじゃない。これは日本が最も希望したところだ。  キーナン   「領土的企図なく」とあるが、これに対し何か異議を申立てるべき筋合いがあるか    東條   異議を申立てるべき筋合いはない キーナン   「他国を脅威する意なくまた隣国に対し攻撃的兵力を用いる意なき事を確信し」とあるが、これに異議を申立てるべき筋合いがあるか    東條   文句そのものには異存はない。しかし事態は全然違う。米国は一方において軍事的、経済的、政治的の脅威を大きく与えている。この事実と文句とは違う    キーナン   当時の総理として、貴方は両国宣言案の言葉として、この文句に何か異議があったのか    東條   今言ったように、文句そのものには異議はない。しかしながら、総理としては実行の伴わない文句は意味がない。総理として最も大事なのは実際の情況である。それが緩和されるか否かが最も重大な関心事であった。   キーナン   私が貴方に聞いているのは、両国間も政策の一つの発表形式として、当時の総理として、この声明に異議があるかどうかである。米国政府代表者の誠意、正直について何か批判したようだが、そのような事には興味がない   東條   しかしこういう大事な事を話すのに、当時の状況を全然空にして云っても意味がないから、私は云っているのだ   キーナン   私が貴方に聞いているのは次の事だから、その質問に答えて貰いたい。貴方は当時の日本の首相として、このように発表された政策に対して異議があったのか。   東條    実行を伴えば異議はない。実行が伴わなければ異議がある。   この後もなおキーナン検察官は、ハル・ノートは一つの政策として公正なものであったか否かという点に限定して東條証人の証言を得ようと、同趣旨の質問を繰り返した。これに対し東條証人は「再三お答えした通り、文句そのものには異存はないが、政治というものはそのようなものではない。国家は生きている。日本としては死活の上に立っていたのである」とあくまで現実論に立脚した答弁を行い、その後、九か国条約に関連した質問・応答へと攻防が展開し、ハル・ノートに関連する東條証人の証言は終わった。

 その後のテーマは、・対米通告手交時期に関連して  ・ルーズベルト親電に関連して   ・対オランダ開戦問題    ・天皇の戦争責任問題に関連して  正味四日間に及んだキーナン・東條の一騎打ちは終わった。

 東條証言については、口述書が朗読開始された日の翌日から証言が終わった後の数日間に亙って、連日各新聞には口述書の内容や法廷での審理過程が報道されると共に、社説や記者の論評が掲載された。社説、論評の大部分は、東條証言を酷評していたと冨士信夫氏。そして冨士氏は朝日新聞の社説全文を取り上げているので、このブログも記録としてその一部を残しておきたい。「・・長文の口述書を貫く根本の思想は、太平洋戦争がやむを得ぬ自衛戦争であったという主張である。『万一太平洋戦争開始となる場合、容易に勝算のあり得ない事は当然であった』にもかかららず、『ここに至っては自衛上開戦も止むを得ない』として、『日本にとって無効かつ惨害をもたらした』戦争に突入したのは、当時の指導者である彼が、わが国の自存自衛のためにはこれ以外に手段がないと信じたからだというのである。
 われわれ国民はこの『自衛権の発動』という言葉を、満州事変勃発当時に遡って思い起こす。当時リットン報告書はこの自衛権の発動という思想を否定した。国際連盟理事会は13対1、同総会は53対1の圧倒的多数を以て、この主張を否認した。にもかかわらず、軍部は全世界の世論を無視してこの主張を貫き、その後幾度か自衛戦争の名において、帝国主義的侵略戦争を正当化しようとした。そしてこの主張が東條口述書においても臆面もなく繰り替えされているのである。ことに対米交渉において、外交と武力の二本立てでゆくと言いながら、相手のある外交交渉に一定の時期を画し、その後は戦争の手段に訴えるという事では、すでに戦争を行うという根本的な国是が確立されていて、外交は開戦の準備までの単なる手段に過ぎなかったとしか受け取れない。そこには世界平和への熱意など毛頭窺われない。戦争に訴えないで平和の裡に難局を収取するという考えなど全く影を潜めているのである・・・」
 朝日新聞は、いまでもこの主張を貫いているのか。キーナンと東條の論戦の、キーナンの主張を聞いているようだ。当時の日本の置かれた状況、その苦しみ抜いている状況を全く素通りしている。しかも裁判の争点である侵略戦争という言葉にすでに朝日が判決を下している。なんで自分だけいい子になりたがるのだろう。これは決してGHQの検閲が行われていた性ではない、と思う。朝日新聞の記者の体質そのものだ。

 

 

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被告の個人立証:「重臣会議議事録摘要」と「嶋田口述書」

2023年05月04日 | 歴史を尋ねる

 検察側立証と弁護側立証とを比較すると、際立って目立つ相違点は、検察側立証は一般立証に重点を置き、被告個々の責任追及立証は、添え物という感じで進められたのに対し、弁護側立証では被告の個人立証が、極めて大きなウエイトを占めた。検察側は日本国家の政策、行為あるいは日本軍の行動そのものを犯罪であると主張する「侵略戦争遂行の共同謀議」という網を全被告の上に被せ、それには被告たちが触れれば傷つくような鋭い棘が数多く付けてあり、「共同謀議」を具体的に裏付ける立証を行えば、各被告はその時々の日本政府あるいは日本軍の中の特定の地位にあった事で、責任を追及されるように仕組まれ、検察側の主張はそのような姿勢で一貫していた。これに対して弁護側は一般弁護方針である「国家弁護」という主張はするものの、被告相互間には立場を異にすし、利害の反する者があり、国家弁護だけでは共同謀議の網を破ることが出来ず、勢い個人弁護という切れ味の良い刀で検察側の棘を砕き、網を斬り裂かねばならなかった。しかし16人の被告は証人席に座ったが、土肥原、畑、星野、平沼、廣田、木村、重光、梅津の9被告は証人としても証言せず、その個人弁護の立証は、被告以外の証人の証言および書証で行われた。
 冨士氏はいう、私はこの九被告が証人にならなかったことを、心から残念に思っている、と。九被告は検察側が訴追した時期に、日本政府あるいは日本軍の中にあって枢要な地位にあった人物で、起訴事実の認否に当たって、無罪を主張し、申立てている。自らの主張を貫くべく、証人席から検察側の訴追を反駁する自らの信念、あるいは日本の立場を堂々と述べてほしかった、と。もっとも残念に思うのは廣田被告で、二・二六事件後に成立した廣田内閣が、昭和11年8月7日に五相会議で決定した「国策の基準」を検察側は極めて重視している。この国策がその後の日本の大東亜侵略の基礎になったものであるとして、検察側はこの国策がその後の日本の大東亜侵略の基礎となったものであるとし、裁判所もこの基準が東亜の支配権を握るばかりでなく、南方に勢力を拡げようとする日本の決意の表明であると厳しい判決を下している。 従って、この国策を決定した五相会議の最高責任者であった当の廣田被告の口から、この国策決定に至った経緯と、この国策が検察側が主張するような日本が大東亜侵略するための国策ではなかった事を、述べて貰いたかった、冨士氏はしみじみ言う。
 作家城山三郎著「落日燃ゆ」の中には、裁判の進行中からすでに死を覚悟し、他人を傷つけ、他人と争う証言を行うようなことは好まず、この「国策の基準」は佐藤賢了被告が草案を作成して廣田首相に提出したものであり、この「国策の基準」がクーデターの再発を恐れ、革命気分鎮静の為のジェスチャーとして陸軍が起草したもので明らかにする様、佐藤被告が廣田被告に進言したが、廣田被告は、起草者が誰であろうと、全責任は総理大臣としてあの国策を決定した自分にあるとして佐藤被告の進言を斥け、なおも佐藤被告が、法廷で廣田被告の真実の気持ちを述べて貰いたい旨訴えたのに対して、廣田被告は返事をしなかった、と書かれている。その廣田被告の心情は分かるととしても、尚廣田被告の口から、その後の日本の侵略の基礎となった国策であるとの、日本にとり、誠に不名誉な烙印を押されたこの基準が、なぜこの時期に、どのような経過を辿って決定されたか、聞きたかった、と。首相になることは、歴史に立ち向かうことだ、との覚悟の声を聞いたことがある。廣田被告には、私情を捨て、日本の歴史の審判に立ち向かって欲しかったという想いは、冨士氏だけではない、と思う。

 木戸幸一被告:東条被告と共に本裁判の最重要被告と目され、起訴状中の五十五訴因中五十四訴因に訴追されている元内大臣木戸幸一被告の個人立証は、正味八日間に亙ったが、その立証のほとんどは木戸被告の証言に終始した。中でも最大の訴追は、内大臣として天皇の常時輔弼に関する責任、就中、第三次近衛内閣総辞職後、総辞職の原因を作った東条陸相を後継内閣首班として天皇に奏請した事に対する責任である。また、東条首相決定に関連する木戸口述書の内容は、大東亜戦争開始に関連する昭和の歴史を研究する上で、極めて貴重な資料、後世の史家がこの点を冷徹な眼で見つめ、事の真相を見誤ることがないよう研究を進めることを、切に望むと冨士氏。
 キーナン首席検察官の主要な尋問は、①東条ほど好戦的な人物はいない、②当時、もし海相が反対したならば日米開戦にならなかった、③従って、陛下が及川海相を次の首相に任命すれば、陛下および内閣にとっては、平和維持の可能性が強かったはずである、等の前提で証人が口述書で述べている、陛下のお言葉があれば東条がその好戦的な考えを変えて日米交渉を真剣に考えると思った、と言っているには真実ではなく、事実は、戦争への決定のもっていくために、好戦的な東条にその決定を任せようと意図して彼を首相に推薦したに違いない、というロジックで尋問を進めた。
 これに対して木戸証人は、①東条を好戦的人物と批判するのは当たらない、②当時の最大の問題は9月6日の御前会議決定であり、また陸軍の統制問題であった、③9月6日の御前会議が行われた事は世間に公表されていないので、その実情を知らない人物が首相になっても、御前会議決定を動かすことは困難である、④御前会議の実情を知り、その決定を動かす事が出来る人物としては東条を及川という事になるが、そこに陸軍の統制問題が絡んでくる、⑤陸軍の統制を誤れば結局戦争になる、⑥重臣会議の席上、自分は論理的には及川が政局を担当するのも一案であると意見を述べたが、岡田・米内両海軍大将から海軍から首相を出す事に強い反対が出、結局東条を選ぶ以外に方法がなかった、と。
 旧大日本帝国憲法の條章を引用してのキーナン検察官の質問に対して、旧憲法には政治は総て国務大臣の輔弼によって行われるとの条項があり、天皇としては、一つの事が決定する前には色々と注意や戒告を与えたりする事があっても、一度政府が決定してきた事は、これを拒否されないのが明治以来の日本の天皇の態度であり、これが日本の憲法の実際の運用上から成立した慣習法である、と証言した。さらにキーナンは内閣と統帥部が決定したことに対して何故天皇は拒否できないのか、それを阻止するような何かがあったのかとしつこく追及してきたが、日露戦争の時も明治天皇は御前会議の決定について躊躇しておられたが、政府と統帥部の進言により初めて裁可された。今回の場合、天皇の当時のご意思を時の総理に伝えた事によって9月6日の御前会議の決定が再検討される事になり、御前会議の決定は白紙還元されたのであって、このような措置は明治時代にはなかった最も進んだものだった、しかし、その後政府が自存自衛上開戦已む無しと決定してきたので、天皇としては、これを拒否することは出来なかった、と証言。
 以上が論戦のメインであるが、木戸口述書の中から、侍従職内記部保管のファイルの中の「重臣会議議事録摘要」から一部引用したい。
岡田(海軍大将) 今回の政変の経緯から見て陸軍が倒したと見るべきで、その陸軍を代表する陸相に大命降下というのは如何であろうか。
木戸 今回の政変は、米内内閣の時の畑陸相が取った態度とは異なり、事の真相を見れば、必ずしも陸軍のみに責任ありとは言えないように思う。
岡田 とにかく陸軍は強硬意見である。内大臣は、従来陸軍は後ろから鉄砲を撃つといわれているが、それが大砲にならなければよいが・・・
米内(海軍大将) 近衛総理は海軍が判然としない、頼りない、というので投出したのではないか。
木戸 そうハッキリととも言えないが、要は陸海軍の一致と、御前会議決定の再検討を基礎にすべきであると思う。従って陸相に担当させるについて疑問があれば、自重論の海相に担当させるのも、また一案である。
岡田 海軍がこの際出る事は、絶対にいけないと思う。
米内 同意見である。
岡田 この際軍がおさまれば、宇垣大将もよいと思う。
若槻(元首相) 東条陸相という事になれば、外に対する印象は悪いと思う。外国に与える影響もよほど悪いと思わねばならない。
原(枢密院議長) 内大臣の云われるようにするのであれば、大命降下の際、方針を明らかにするお示しになる必要があると思う。
廣田(元首相) 内大臣の案は、総理に陸相を兼任させる積りか。
木戸 然り。
廣田 それならば結構である。
阿部(陸軍大将) 内大臣の案に賛成である。
木戸 若槻氏は宇垣大将を推薦されたが、岡田氏も宇垣大将を推薦するのか。
岡田 宇垣大将というのではない。ただ、内大臣の案にも心配の点があると思う。
原 内大臣の案は余り満足ともいえないが、別段案がないから、先ずその案で行くほかない。
木戸 大体の意向は判ったので、奏上の上、ご允裁を得る積りである。

 重臣会議後、木戸内府はその一部始終を陛下に奏上して東条陸相を次期首相に推薦したが、その際大命を下すだけでは政局の収拾は明らかに困難であったので、陸海軍の提携を一層密にする事を望まれる陛下の思召しと9月6日の御前会議決定を無視すべき事を明瞭にするため、東条首相に対し、また及川海相に対し、陛下が特別のご命令を与えられるよう奏請した、と口述書。
陛下の東条陸相に対するお言葉は
 東条陸軍大臣へ
 卿に内閣組織を命ずる
 憲法の條規を遵守するよう
 時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思う
 この際陸海軍はその協力を一層密にすることに留意せよ
 後刻海軍大臣を召しこの旨を話す積りである

陛下の及川陸相に対するお言葉は
 及川海軍大臣へ
 東条陸軍大臣を召して組閣を命じた。なおその際、極めて重大なる事態に直面せるものと思う故、この際陸海軍はその協力を一層密にする事に留意せよと言って置いたから、卿においても、朕の意のある所を体し、協力せよ

 以上で旧憲法下の「天皇制」が負うべき責任の実体は、制度上あるいはその運営の面から、具体的に立証された。ただ、キーナン検察官からは特に指摘が無かったが、何故木戸は陸海軍の提携を一層密にすることを殊更要請するのか、このブログでも見て来たように、日米戦争は海軍の戦争である。海軍が確信を持たなければ対米戦争は出来ないと東条も行っていると木戸も述べている。海軍の開戦に対する考えが重要と言っておきながら、陸海軍の協力を述べている。さらに言えば、重臣会議における岡田・米内海軍大将の意見もどうも納得がいかない。当事者意識がまったく窺われない。結局当時の状況についての打開策を一番真剣に考えていたのは東条だと言わんばかりである。その辺の海軍側の懊悩について、次の嶋田海相の口述書で確かめたい。

嶋田繁太郎被告:永野修身被告すでに亡き後、日本海軍に対する検察側の訴追を一身に引き受けた嶋田被告の個人立証は正味三日間に亙って行われ、5人の海軍軍人の証言が終わった後、最後の証言台に座った。検察側の訴追の論理は、①御前会議で決定された、戦争か否かを決定すべき十月中旬が近づいた時および及川海相は開戦に関する決定的意見を述べず、開戦か否かの決を近衛首相に一任する旨発言し、外交交渉成立の見込みなく戦争は不可避であると主張する東条陸相を支持しなかった。②木戸内府の尽力によって東条陸相に組閣の大命降下を見た際、木戸内府は東条陸相、及川海相に対して、陸海軍相互に協調を図るようにとの天皇の御言葉を伝えた。新首相に東条が選ばれたのであるからそこから引き出せる唯一の結論は、新海相は東条と意見を一にする者を選ぶべきであると言う事になる。③嶋田が海相になったのであるから、彼は東条政策の積極的支持者であったという事になる、と。これに対して口述書はこう記す。
「未だ連絡会議が一度も開かれてない10月23日、東条から電話で定刻より電話で定刻より十分ほど早く来るようあり、その通り出かけると、彼は当日から連絡会議を開き、すべてを白紙に還元して対米交渉に関する討議を開始し、戦争を避けるために日本は米国に対して最大限どこまで譲歩し得るのかを深く研究する心算である、と固い決意を繰り返し述べた。故に余は、民衆を苛烈悲惨な争闘に突き落とすような戦争内閣に入閣するとは思わず、むしろその有する軍部の実力、統制力並びに方針に依って、この重大な国際紛争の平和的解決のため、あらゆる手段を尽くすべき内閣の閣員になることを信じた。連絡会議は10月23日から始まり、出席者はいずれも外交交渉によって事態を収拾できるとの確信を披歴し、心から平和を念願したが、問題は、いかにしてその平和を確保するのかにあった。当時の重要問題は余の創り出したものではなく、それらの問題の生起に何の役割も演じたこともなかったが、すでに問題が生起した以上、余はただ海相としての新地位において、その解決を図る以外に途はなかった。かくして余の生涯中、最大責任を負わされた試練の日々が続いた。連絡会議と御前会議との間次の二点に集中した。①いかにすれば、よく在外部隊を撤収する困難な問題を緩和し得るか、この事実と大本営陸軍部の見解とを調和できるか。②米国と了解を達するために、日本の為し得る譲歩の最大限は如何なるものであるべきか。 最大の問題は中国および仏印からの撤兵問題であり、余は海軍部内の見解を確かめ、他の閣僚の意向を知悉し、当時の世論の趨向を充分見極めた。海軍はかって三国同盟に反対し、常にこれに重点を置かないようして来たので、他の問題について了解に到達できれば、三国同盟は解決不可能の問題とは考えなかった。それゆえ最良の解決策は、米英と互譲妥協を図ることであった。かく事態が発生した以上、中国からわが軍を全面撤兵する事は事実上不可能であって、日本国民を驚かせ精神的打撃が極めて大であろうとの強硬意見が支配的であった。もしこのようにすれば、中国が日本に対して勝利を得たに等しく、これによって東亜での米英の威信と地位は昂騰するが、これに反して日本の経済生活および国際的地位は低下し、これら両国に従属するの余儀なきに至るだろうと論ぜられた。故に当時における余の考えは、もし反対論をかかる措置に同調せしめ得るならば、中国本土からわが軍を漸次戦略的撤退をさせ、仏印からは即時撤退を行い、以て妥協に到達することが望ましいという事のあった。これは第三次近衛内閣当時には成し得なかった大譲歩を行おうとするものであった。
 11月5日の御前会議において、外交手段により平和的解決に対する最善の努力を着実に継続すると同時に、他方戦争に対する準備にも着手する事が決定された。当時における日本の苦境を思えば、これは矛盾した考えではなかった。連合国が行った対日経済包囲の効果は、実に想像以上に深刻だった。我々は、米国の刻々の軍備の増強を驚愕の眼を以て見守ったが、いかにしても、単なる対独戦のみを考えての軍事的措置とは考えられなかった。
 米国太平洋艦隊は、遥か以前からハワイに移動して日本に脅威を与えていた。米国の対日政策は冷酷で、その要求を容赦なく強制する決意を示していた。米軍の軍事的経済的対支援助は、痛く日本国民の感情を害していた。連合国は、明らかに日本を対象として軍事的会談を実施していた。窮地に陥っていかんともならない、というのが当時における日本の切迫感であった。
 すでに当法廷で明らかにされたこれらの事実を考慮すれば、日本にはただ二つの解決策が残されていた。一つは日米相互の『ギブ・アンド・テイク』の政策に依る問題解決の目的を以て、外交手段により全局面を匡救する事であり、他の一つは、自力を以て連合国の包囲態勢により急迫した現実の窮境を打開する事であった。この第二の手段に出る事は全く防衛的のものであって、最後の手段としてのみ採用されるべきものと考えた。
 いかなる国家と雖も自存のための行動をなし得る権利を持ち、またいかなる事態の発生によりその権利を行使できるに至るかを自ら決定し得る主権を持つ事は、余はいささかも疑わなかった。政府は統帥部と連携して真剣に考究したが、政府統帥部中誰一人として米英との戦争を欲した者はなかった。日本が四ヵ年に亙って継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で手一杯である事は、軍人は知りすぎるほど承知していた。従って、自ら好んでさらになお米英のような強国相手の戦争を我より求めたとするが如きは、信じる事が出来ないほど幼稚な軍事的判断の責を、強いて我々に帰せようとするものである。
 統帥部は、政府の平和的交渉が失敗に帰した場合には、その要求により自己の職責を遂行しなければならないという問題に直面していた。統帥部の立場は簡単直截なものであった。すなわち、海軍の手持ち石油は約二年半で、それ以上は入手の見込みなく、民需用は六か月以上は続かなかった。十二月に入れば、北東信風が台湾海峡、比島、マレー地域に強烈になって作戦行動を困難にし、翌春迄待てば、日本海軍は手持石油漸減のため、たとえ政府の要請を受けても海戦を賭す事は不可能に陥るであろう。統帥部が11月5日の御前会議において、もし外交交渉が失敗に帰し行動開始に移るべき要請を受けるような事があれば、初冬までになんらかの手を打たなければ行動不能に陥る惧れがあると論じたのは、この考慮に基づくものであった。かくて政府をして、なお外交交渉に依る平和の望みを捨てず、その可能性を信じつつも戦争に対する措置を講じさせるに至ったのは、以上を述べたような事実が齎した、絶対絶命の情勢によるものであった。
 政府の案件を平和的に妥協させようとする決意は、難関の急速解決に寄与させようとして来栖大使を米国に派遣した事により、一層明白に表示された。彼の渡米にはなんの欺瞞も奸策もなかった。それは時間的要素を克服し、戦争に追い込まれる前に外交交渉に成功しようとする我々の努力の倍加であった。その点が明瞭に理解信用されない場合、大きな不公平な結果が招来されるだろう。爾来余は、外交措置により平和はついに来るであろうと、大きな希望を抱いていた。余が事態の容易でない事を深く認識するに至ったのは、実にこの当時の事であった。かかる紛糾の情勢は痛く余の心を重くした。余は毎日神社に参拝し、陛下の平和愛好のご熱願に添い奉るよう、神明の加護を祈願した。余は政治家ではない。また外交官でもない。しかし、ただ余の持つ全知全能を傾けて問題の解決に努めた。11月26日の『ハル・ノート』は、実にこのような疑念・希望・心痛・苦心の錯綜した雰囲気の裡に接受したものだった。
 これは青天の霹靂であった。米国が、日本の為した譲歩がその如何なるものにせよ、これを戦争回避のための真摯な努力と解し、米国もこれに対し歩み寄りを示し、以て全局が収拾される事を余は祈っていた。しかるに米国の回答は頑強・不屈にして冷酷なものであった。それは我々の示した交渉への真摯な努力をいささかも認めていなかった。
 『ハル・ノート』の受諾を主張した者は、政府部内にも統帥部首脳部にも一人もいなかった。その受諾は不可能であり、本通告はわが国の存立を脅かす一種の最後通告であると解された。右通告の条件を受諾する事は、日本の敗北に等しいというのが全体の意見であった。
 いかなる国と雖も、なお方途あるにかかわらず第二流国に転落するもののない事は明らかである。すべての重要国は、常にその権益、地位および尊厳の保持を求め、この目的のため常に自国の最も有利と信ずる政策を採用する事は、歴史の証明するところである。祖国を愛する一日本人として、余は米国の要求を容れ、なおも世界における日本の地歩を保持し得るかどうか、という問題に直面した。わが国の最大利益に反する措置を執るのを支持する事は、反逆行為になったであろう。かかるが故に、昭和16年12月1日の御前会議において最終的決定が行われた時、余をして平和の境界線を踏ませたものは実に米国のこの回答であった。もし米国が日本の交渉妥結に対する真摯な努力を認識していたならば、この平和の黄昏においてすら、なお戦争を防止する余裕はあったであろう。11月末には、ほとんど平和に対する望みを失い、戦争の避け難い事を感じた。和戦の分かれるところは、一に米国の態度如何に懸かっていた。
 『ハル・ノート』より判断し、余自身事態の好転を期し得ない事を感じた。海軍は対米戦の勝利について全く自信を持たなかったが、時日遷延の後よりも、むしろ今の方がまだ有利な準備が出来得ると我々は確信した。永野大将は軍令部総長としてしばしばこの意見を表明した。従って永野大将と余とは11月30日、海軍は相当な準備が出来ている旨陛下に奉答した。拝謁の際問題となったのは戦争の終局に対して自信があるか否かではなくて、海軍の行った準備につき自信があるか否か、という点だけであった」

 丸刈りの頭髪は天辺はやや薄く、大きな耳、濃い太い眉毛、卵形の顔を発言台の方にしっかり向け、背筋をピンと伸ばした軍人らしい姿勢を取り、静かながら明瞭な音声で弁護人、検察官、裁判長の質問に対して明確な答弁を行う嶋田証人の証言ぶりは誠に堂々としており、永野被告亡き後、日本海軍に対する検察側の訴追を一身に引受け、弁護側がその基本方針とする「国家弁護」の線に沿い、国務大臣としての日本政府の立場と、海軍大臣としての日本海軍の立場を充分に証言し、検察側の訴追に真っ向から立ち向かった観があった、と冨士信夫氏。
 12月8日の東京新聞「週間法廷手帳」の中で笠井記者は、「未だどの被告も口にしなかった『自衛権』を正面に持ちだし『余は勝利のために努力した』と嶋田被告は証言した。他の被告に比較すれば極めて異例で、簡明な口述書と共に廷内の話題となったのは当然であろう」と解説。
 さらに、印度代表パル判事が見解を述べる項で、当時の日本人の脳裡にどんな事が起こりつつあったかを示す記事に、嶋田口述書の大部分を引用している、という。また、対米戦は海軍の戦いであるが、『海軍は対米戦の勝利について全く自信を持たなかったが、時日遷延の後よりも、むしろ今の方がまだ有利な準備が出来得ると我々は確信した。』と言っている。これが正直な当時の判断だったのだろう。

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